その後ろ姿は、八年前と何ら変わりは無かった。
数日前までは恐怖の対象でしかなかった彼女だが、夕焼け空を背景に映し出される後ろ姿は、とても寂しいように見えた。
気配に気付いたのか、凛音がくるりと卓郎たちの方を振り向く。
人間、妖精、吸血鬼という奇妙な組み合わせのせいか、彼女は眉をひそめた。
「やっぱり、夕方にやって来ましたね」
卓郎の丁寧な口調に、凛音はさらに訝しげな顔になった。
「以前、会った時も夕方の時間帯でしたよね。必ずやって来ると思っていました」
「夕方? 何を言ってんのか、よく分からないな」
「ここは人里からだいぶ離れたところにあります。もし、普通の人間が墓参りに来るのなら、どんなに遅くても夕方前には必ず来ます。夕方にやって来ますと、人里に戻る途中で夜になってしまい、とても危険ですからね」
凛音は目を細める。
「それで? 何が言いたいんだ?」
「そうなりますと、どうして妖怪であるあなたが夕方にやって来るのか、という疑問が出てきます。そこで僕はある一つの仮定を出しました。それは人目を避けるためです。誰にも会うことなく、ひっそりと墓参りを済ませるには、夕方がちょうど良い時間だったからです」
この八年間、卓郎も遅くとも夕方前には墓参りを済ませていた。
だから、先日まで彼女と鉢合うことが無かったのだ。
後ろで日傘を差しているレミリアが、「ふうん」とつぶやいた。
「卓郎。今の話を聞いていると、まるで彼女がちょくちょく墓参りに来ているような感じに聞こえるわね」
「ええ。おそらくそうだと思います」
卓郎は二人の墓石に視線を向けた。
「母さんと兄さんの墓。とても綺麗じゃないですか。八年も経ちますと、それなりに傷んでくるのが普通ですけど、そうとは思えないくらい綺麗な状態を維持してます。僕もたまに手入れに来ますけど、それでもあの状態を維持させるのは難しいです。つまり、誰かが毎日、母さんたちの墓を手入れしているということになります」
右隣にいるユキが、慌てた様子で顔を向ける。
「卓郎さん。それって、もしかして――」
「くだらない戯言はやめろ」
凛音が大きく声を放ち、ユキの言葉を止めた。
「さっきから訳の分からない話ばかりしやがって、いったいどうしたっていうんだ。もしかして、あんたたちはわざわざ私がやって来るのを待っていたのか?」
「ええ。待っていました」
「なるほど。わざわざ私に殺されに来たということか」
凛音は右手を赤色に染めると、そのまま戦闘態勢に入る。
それを受けて、彼の両隣にいるユキとナツも臨戦の構えを取る。
だが、肝心の卓郎は全く怖がる素振りを見せず、ただ笑った。
「なにがおかしいんだ」凛音が問う。
「どうして、僕を殺すんですか?」
「はっ?」
「ここは僕の母さんと兄さんの墓の前ですよ。あなたは二人の墓参りにために、ここにやって来ているんですよね。どうして遺族の僕を殺す必要があるんですか」
彼女の表情が一瞬、固まった。
それを見逃さなかった卓郎は、ここで初めて確信を得た。
「さっき、何者かが母さんたちの墓を毎日、手入れしているという話をしました。それは間違いなく、凛音さん。あなたですね」
卓郎は、再び視線を墓に戻す。
墓の周囲は雑草の一本も生えていなかった。少し離れた場所では雑草が鬱蒼と生い茂っているのに、墓の周囲だけは綺麗に何も無かった。
まるで何者かが毎日、せっせと墓の周りにある雑草を抜いているかのようだ。
「先日は気が動転していて気付くのが遅れましたけど、もう一つ大きな疑問がありました。それは先ほども言いましたが、どうして僕を襲ってきたのかという疑問です。――明らかに矛盾しているんですよ。被害者の墓の前で、親族である僕に襲いかかってくるんですよ。常識的に考えまして、加害者が被害者の墓参りにやって来る時は、被害者に対して多少なりとも申し訳ない気持ちが入っているのが普通ではないでしょうか」
レミリアたちにも問いかけるように、卓郎は言う。
生温い風が、沈黙する凛音の髪を揺らした。
「そもそもこの事件には、動機が見当たらないのです。僕を殺そうとしたことにも矛盾を感じましたけど、そもそも母さんと兄さんを殺した理由も分からないままです。事件のことが詳しく書かれた資料にも、最後まで動機は書かれてありませんでした」
「なるほどね。でも、殺したのは人間じゃなくて妖怪なのよ」
ここでレミリアが口を挟む。
「人間ならともかく、妖怪や吸血鬼が明確な動機を持って人間を殺すなんてあまり考えられないわ。それこそ、単に快楽を求めて殺したんじゃないのかしら」
「いいえ。それは絶対にないと思います」
卓郎はきっぱりと頭を振った。
「もし、快楽のために殺したのであれば、わざわざ墓参りなんかに来ませんよ」
「ああ。言われてみれば、確かにそうね」
レミリアは納得したように頷いてから続ける。
「で、あなたが疑問を抱く理由は分かったけど、結局、何が言いたいのかしら」
「そうですね。まずは結論から述べましょうか」
卓郎はここで深呼吸をする。
覚悟を決めて、ゆっくりと口を開いた。
「八年前に、母さんと兄さんを殺したのは凛音さんではありません。状況的に考えまして、二人は自殺をしてしまった可能性が非常に高いのです」
横にいるユキとナツが、驚くように体を跳ねらせた。
「じ、自殺? 自分から命を絶ってしまったのでしょうか?」と、ナツ。
「ああ。たぶん、原因は手首を切ったことによる失血死だと思う」
ここで凛音の様子をうかがうが、特に目立った動きは見せない。
卓郎は自身の左手首を眺めながら続けた。
「八年前、僕が家に帰ってきた時、家の中は血の海でした。床が完全に真っ赤に染まっていたのです。それだけを言えば、よほど凄惨な殺され方をしたんだと連想しますが、資料によりますと、母さんたちの傷は腹と左手首のたった二箇所しかなかったんです。つまり、母さんたちの傷で床一面が真っ赤に染まるのは物理的にあり得ないんです。良くて死体の周りにしか血は流れないのです」
ここで「ちょっと待って」と制したのは、レミリアだった。
「腹と手首に傷? あんたの推理だと、二人は手首を切って死んだんでしょ? もし手首を切って自殺したんなら、腹に傷ができるわけないじゃない」
「そうですね。手首を切って自殺したのなら傷は二箇所もできません。でも、母さんたちが死んだ後に、誰かが腹に傷を付けることなら可能です」
ここで卓郎は凛音を真っ直ぐ見た。
「そして凛音さん。おそらく、あなたがわざと母さんたちを殺したように見せるため、死体に細工を施したんじゃないでしょうか。先ほど母さんたちは手首を切って死んだと言いましたが、おそらく家にあった大きな壺にぬるま湯を入れて、そこに手を突っ込んだのだと思います。そして母さんたちが死んだ後、あなたは隠蔽のために死体を壺から引き離して、その壺をひっくり返した。そうすれば、床があたかも血の海のような感じになります。壺はその後、処分したのでしょう」
おそらく、現場の床に流れていた血も、実際の血よりだいぶ濃度が薄かっただろう。
だが、あの時は床に流れている血などじっくり見ている暇などなかった。
「なるほど。自殺の隠蔽ね」
レミリアは日傘を持ち直しながら言った。
「ということは、手首の傷も彼女がやったのかしら」
「そうです。まずは死体を壺から引きずりおろして、腹に刺し傷を付けます。そして、今度は手首の自殺痕を消すために、手首を丸ごと切り取ったのです。凛音さんの能力なら、人間の手首くらい切断することは容易いでしょう」
ユキとナツが体を震わせる。
もし、この説が本当であるなら、当時の卓郎が彼女から逃げ切れた理由も説明できる。
当時は運良く逃げ切れたと思っていたが、最初から卓郎を殺す気がない上で追いかけていたのなら、逃げられるのは当たり前のことである。
そもそも身体能力の高い妖怪が、人間を逃すわけがないのだ。
無言で唇を噛む凛音に対し、卓郎はふうと息を吐いた。
「以上が僕が考えた推理です。もし、この推理が正しいのなら、あなたは何もしていないのに、わざと自分が殺したと言ったことになります。なぜ、母さんたちを殺していないのに、罪を背負うような行動をしたのですか?」
凛音の返事は行動で示された。
大きく叫びながら、赤い右手を構えて卓郎に向かってきたのだ。
だが、彼は動じない。その時の対策は、すでに準備済みだった。
「ユキ、ナツ!」
卓郎の命令を受けて、二人の妖精が前に出る。
そして緑色の皿のような物を取り出すと、凛音に向けて掲げる。
直後、皿の中心部から、巨大な木の根みたいなものが飛び出してきた。
彼らに向かって突っ込んできた凛音は、為すすべなくその根を全身に巻かれて捕縛された。特に凶器となる右手付近は、厳重に巻きつけることを怠らない。
見動きを取れなくなった凛音は、これでもかと卓郎を睨みつけた。
「くそっ。放しやがれ!」
「僕の知り合いに魔法使いがいましてね。その方に、特別に作ってもらったのです」
「てめえ……」
妖精たちが持っているのは、先日パチュリーが作った特製の捕縛道具である。
魔法の力で作った木の根で、対象の動きをしばらく封じる道具である。
しかし、時間が経ってしまうと皿の中に溜めていた魔力が無くなってしまうので、長い間は捕縛ができないのが弱点である。
木の根が消滅するまでに、卓郎は凛音を観念させる必要があった。
「その態度ですと、僕の推理が正しいことになりますね」
「はっ。馬鹿言うな。結局、ただのお前の妄想じゃないか」
「妄想ではありません。僕が考えました、可能性の高い推理です」
「ふん。自殺の隠蔽だとか、訳の分からないことをほざいてるが、これだけは言っておく。別にお前の家族を殺した動機なんて、最初からないんだよ。さっき、あんたの後ろにいる小さい奴が言っていたように、私は妖怪だからあんたの家族を殺したんだよ。すでに私以外はいなくなってしまったが、私の一族は昔から人間をよく殺してきたんでな。いちいち殺すための理由なんて、作っていられないんだよ」
その瞬間、なぜか卓郎は胸が苦しい気分になった。
言葉とは裏腹に、凛音の目から殺気が感じられなかったからだ。
何かに必死で、言葉からも苦悩の感情が伝わってくるような気がした。
まさに、先日のレミリアと重なる姿だった。
「自分は殺人の隠蔽をしていない、ということですか」
「ああ、そうだよ。もし、それが真実だって言うなら、今からその証拠を見せてくれよ。証拠が無かったら、お前の言っていることは全て迷惑な妄想でしかないんだよ」
「証拠ですか……」卓郎は顔を歪める。
八年も前の事件である。物的な証拠など何一つない。
しかし、ここで卓郎が顔を歪めたのは証拠がないからではなかった。これから言うことは、凛音にとっても卓郎にとっても非常に心苦しい内容であったからだ。
でも、彼女を観念させるには、この話をする必要があった。
胸の痛みをこらえながら、卓郎は返した。
「物的な証拠は何一つありません。しかし、僕の知り合いからいくつか事件に関わる話を聞いていまして、それを基にした予測ならここで話すことができます」
凛音は首を傾げる。
「先日、僕の伯父からこんな話を聞きました。事件の一週間前、僕の母さんが伯父の家にやってきまして、自殺未遂を起こしたという話です」
これは凛音だけでなく、横の妖精二人も大きく目を見開いた。
「あなたもご存知かと思いますが、僕の家はとても貧乏でした。事件が起こるまでは、母さんも兄さんもまともに農業ができない状態でして、明日の飯を食べられるかどうか分からないくらい追い込まれていました」
凛音の表情は固まっている。
「伯父は人里でお店を経営しています。最近までは軌道に乗っていませんでしたが、それでも僕の家よりは多少のお金を持っていました。だから、母さんは昔からお金が足りなくなりますと、伯父からよくお金を借りていました。でも、事件の数ヶ月前から、伯父は母さんにお金を貸さないようにしていました。その頃、人里では大きな飢饉が発生していまして、伯父の家もかなり追い込まれていたからだと話していました」
おそらく、この話は優花と出会わなければ、死ぬまで知らないままだっただろう。
知らないままの方が幸せだったのか、知った方が幸せなのか――。
今の卓郎には全く判断できなかった。
「伯父の話によりますと、その日も母さんの頼みを断ったそうです。でも、伯父さんが目を離した隙に、母さんは家にあった包丁で自分の手首を切ってしまいました。幸い、傷は浅かったですので大事には至りませんでしたが、おかげで伯父はすっかり血まみれになったと話してくれました」
優花が言っていた、伯父が血まみれの着物を洗っていた話はここで一致する。
今さらだが、卓郎も十五の頃とはいえ、母親の兆候に気付かなかったのは非常に悔しかった。もし、手首の傷痕に気付いていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。
凛音はここで口元を吊り上げる。
「なるほどな。もしかして、その話を聞いて自殺の話が思い浮かんだのか」
「そうです」
「へえ。つまり、お前の母親は無駄死にしたというわけだ」
目を瞬かせる卓郎に対し、凛音は小馬鹿にするように笑った。
「いいのか、そんな話を真実にしちゃってさ。お前の母親なんだろ? 自分の家族が自殺という、そんな死に方をして悔しくないのか。それだったら、今まで通り私に殺された結末の方がまだましじゃないのか?」
――落ち着け。これは明らかな挑発だ。
高ぶる感情を何とか抑えて、卓郎は続けた。
「まだ、この話には続きがあります」
「はっ?」
「事件の一週間前、伯父の家に来た母さんが頼んだのは、お金のことだけではありませんでした。実はもう一つ、頼んでいたことがありました」
「なんだ」
「僕をしばらく伯父の家に預けることはできないか、という頼みでした」
凛音から、小馬鹿にしているような表情が消えた。
「伯父はそのことも詳しく話してくれました。僕の母さんは、昔から僕を人里に住まわせることはできないかと考えてきたそうなんです。僕は昔、人里の寺子屋で勉強していました。でも、家の経済事情が悪くなって一年間で辞めてしまいました。母さんはそのことをひどく悔やんでいまして、自分はどんなことになってもいいから、卓郎だけはどうにかすることはできないか――。そう話していたそうです」
「じゃあ、卓郎さんのお母様が自殺をしてしまったのは――」と、ユキ。
「これはあくまで僕の予測の範囲内になりますけど、僕を伯父の家に住まわせるためではないかと思っています。自分たちが死ねば、僕の身寄りは伯父しかいなくなりますので、必然的に伯父の家に引き取られる形になりますからね」
「そんなことって……」
呆然としながらナツが返す。
「僕も最初は信じたくなかったです。でも、伯父が着物に付いた血を洗っているところは娘さんも目撃しています。母さんの自殺理由はあくまで僕の想像の範囲内ですけど、自殺未遂を起こしたことは、まぎれもない事実なんです」
確かに、あの時代の生活は本当に苦しかった。
飢饉で日に日に食べ物の量が減っていく光景を目の当たりにしたときは、おぼろげに死も覚悟したこともある。
そんな自分の守るために、母親たちは自らの命を絶った。
つまり、今の自分は二人の命を引き換えに、生きていることになるのだ。いくら卓郎のためとはいえ、それで命を絶たれてしまうと、胸が締め付けられるような重たい気分を抱いてしまうのだった。
――本当のことを知ったせいで、さらに傷が広がってしまう。
まさに、慧音の言う通りになってしまった。
「た、卓郎さん……」
その時、皿を持っているユキが小声で話しかけてきた。
「そろそろ、魔法の効果が切れてしまいそうです」
それを聞いて凛音の方に目を向けてみると、確かに捕縛の威力が弱まっているようだった。少しずつだが、彼女の右手が動くようになってきているのだ。
もう、時間はあまり残されていないのかもしれない。
卓郎は、最後の推理を披露することにした。
「これが僕の考えました母さんたちの自殺理由です。でも、まだ最後に肝心な謎が残っています。それは、あなたがどうして自殺の隠蔽をしたのかです。そもそも母さんたちの自殺を隠蔽することによって、あなたが得することは何もなりません。むしろ、人里から制裁を受けるなど、良くないことばかりが起こります。でも、あなたはそれでも母さんたちの自殺を隠蔽しました。これは、いったいどういうことでしょうか」
「黙れ、黙ってくれ……」
凛音の表情は、険しいと言うよりも悲痛に歪んでいるような気がした。
構わずに卓郎は続けた。
「考えられることが一つあります。それは死んだ母さん、もしくは兄さんのどちらかに隠蔽を頼まれたからじゃないでしょうか。でも、知り合い程度の関係でしたら、ここまでのことはしません。そこで思いつくのは、母さんと兄さんのそちらかに特別な感情を持っているということです。この場合ですと、凛音さん――。あなたは事件が起こる前から、兄さんと何らかの親交があったんじゃないでしょうか」
次の瞬間、凛音の右手が木の根の一部を切り取った。
「黙れと言ってるだろうが!」
右手に巻きついていた根を切断した直後、全身に巻きついていた根が消滅する。
それと同時に緑の皿も割れてしまい、二人の妖精は「きゃっ」と悲痛な声をあげて尻もちをついてしまう。ついに魔力が途切れてしまったようだ。
再び自由の身となった凛音は、般若のような形相で右手を構えて卓郎に向かっていく。彼女から発せられる雰囲気は、明らかに殺意が込められていた。
本能的にまずい、と思った直後だった。
卓郎の眼前に日傘がいきなり出現して、凛音は動きを止める。
彼を守るように立ち塞がったのはレミリアだった。
「この勝負、卓郎の勝ちね。これ以上、あんたの苦しい姿を見ていられないわ」
――本当のことをいつまでも隠し続けるのは、とても苦しいことである。
今の一言は、まさにレミリアが卓郎の推理を認めたことになる。
立ち止まった凛音は目を細めて、レミリアを注意深く観察する。
「あんた。見た目からして、もしかして吸血鬼なのか」
「そうよ。誇り高き吸血鬼、レミリア・スカーレットよ」
「その割には日傘なんか差しやがって、格好悪いな」
「ふん。そんなことより、まだ彼の推理は終わっていないわよ」
レミリアは卓郎を振り返る。
「あんたの兄とこいつが特別な関係にある、と言ったわね。そもそも二人は妖怪と人間なのよ。よく、そんな突飛な発想が思い浮かんできたわね」
「事件が起こる前、兄さんからその話を聞いたことがあるんです」
それは事件の数ヶ月前のことである。
兄である拓馬の口から、ある人に夢中になっているという話を聞いた。
当時の卓郎はその意味がよく理解できなかったが、優花と親しくなったおかげで、初めてその意味に気付くことができたのだ。
「具体的な名前は明かしてくれませんでしたが、その時の兄さん。とても幸せそうな顔をしていました。事件の半年くらい前までは、だいぶ沈んだ表情をしていたのですが、急に生き返ったような顔になりまして、今日までよく覚えていたのです」
「でも、具体的な名前は明かさなかったんでしょ」
「いえ、相手は凛音さん以外に考えられません」
そう強く断言して、卓郎は理由を説明した。
「兄は高台から落ちて足に重傷の怪我を負って以来、満足に農業ができなくなってしまいました。ついでに遠方への移動もできなくなってしまいましたので、遠方の女性と親しくなる可能性はまずないです」
「じゃあ、村の女性と親しくなった可能性は?」
「僕の村はそういった噂にはとても敏感でした。もともと、近所の繋がりが強いところでしたからね。でも、兄さんと村の人が親しいという噂は全く耳にしませんでした」
「なるほどね」
レミリアは再び凛音に向き直る。
「と、彼は言っているようだけど、何か反論はないかしら。私が言うのも難だけど、あんた、さっきからほとんど反論してこないじゃない。もし、彼の推理が間違っているというなら、今すぐに反論した方がいいわよ。正直、あなたのその中途半端な態度が、彼の推理の信憑性を高めているのよ」
「ふん。私が反論しない理由は単純なことだよ」
ここで凛音は赤色の右手をレミリアに向ける。
「あんたたちをここで全員始末するからさ。あんたたちが何を言おうと、死ねばそれで終わりなんだからな」
「あら。もしかして、この私に刃向かうつもりなの」
レミリアの声が低くなる。
「愚かな選択ね。そんなに私に殺されたいの?」
「吸血鬼の力くらい、さすがに知ってるさ。普通の状況だったら、手も足も出なかっただろうな。でも、今の空の状況だったら、むしろ私の方が有利なんじゃないのか?」
その言葉の意味に気付いた卓郎は、慌てて空を見上げる。
空は薄暗くなっていたが、まだ太陽は健在だった。
今の位置から計算すると、完全に沈むまであと一時間ほど掛かりそうだった。
「吸血鬼は太陽の下には出られないんだろ? 太陽が沈むまでは、あんたは日傘の下から完全に見動きが取れない。つまり、有効な攻撃がまともにできないわけだ」
レミリアの舌打ちする音が微かに聞こえてきた。
吸血鬼は強大な力を得る代わりに、多くの弱点を持つ。
その代表的なものが、雨と太陽の光である。レミリアの場合は多少の日光なら平気だと話していたが、それでも日中に外出する時は日傘を差さなければならない。
「私は妖怪としての力は、ほとんど失ってしまった。でも、今なら充分にあんたにも対抗できるはずだ。殺されるのはむしろ、あんたの方じゃないのか」
ユキとナツが困惑した様子で、卓郎に目を向けてくる。もし、ここでレミリアが負けてしまったら、必然的に卓郎の命もないということだ。
だが、ここで哄笑したのは他でもないレミリアだった。
「あははは! 何を言うかと思ったら、その程度のことか」
すると、レミリアは凛音に手招きをしてきた。
「弱小妖怪が調子に乗るなよ。確かに私は日光に弱いけど、それがあったとしても、あんたに勝ち目は最初からないと断言しておく。もし、それが納得できないと言うなら、かかってきなさい。一瞬であんたの腹に風穴を開けてやるよ」
凛音の体が大きく震えたのが、卓郎からでも分かった。背中しか見えないが、レミリアから発せられる凄まじい威圧感がこちらにも伝わってきた。
レミリアの言う通りだとしたら、勝負は一瞬で決着がつくだろう。
いや、勝負の結果は最初から分かっているようなものだった。
自尊心の高いレミリアのことである。
本当に日傘を差したままでも、凛音に止めを刺せる自信があるのだろう。八年間、常に一緒にいるのだ。主人の性格くらい把握しているつもりでいる。
だが、凛音は戦闘態勢を止める動きを見せない。
「そんなの、やってみなけりゃ分からないだろ……」
彼女の声は、どこか震えているようにも聞こえた。
――なにやってるんだ。相手は吸血鬼なんだぞ。本当に死ぬ気なのか。
そう思った瞬間、卓郎の中で恐ろしい考えが頭に浮かんできた。
凛音は無言のまま、右手を構える。
彼女は最初から返り討ちにされると覚悟して、レミリアの挑発に乗ろうとしているのではないか。つまり、ここでわざと死んで真相を全て闇に葬らせる気なのだ。
レミリアも空いている右手を開けたり閉じたりして、ゆっくりと戦闘態勢に入る。
「やめてください……」
だが、卓郎が止める暇もなく、凛音は正面のレミリアに向けて走り始める。
「やめろ!」
「そこまでだ!」
卓郎の叫び声と、別の叫び声が重なったのは、その直後だった。
それから、卓郎の目の前であまりにも予想外の光景が広がった。
レミリアに向けて攻撃をしようとした凛音の右手を、横からやってきた者が手で掴んで制止したのだ。
その人物は卓郎にとって、非常に馴染みのある人物だった。
「これ以上は限界だ。もう、お前は何も背負わなくていいのだ」
その言葉を受けて、凛音は力を失ったようにその場に座り込む。
そして、やってきた者の胸にうずくまって、そのまま泣きだしてしまった。
あまりの光景に、卓郎だけでなくレミリアも唖然としている。
「……どうして」
凛音を抱いている者を眺めながら、卓郎は力の抜けた声で言った。
「どうして、慧音先生がこちらにいるんですか」
寺子屋の師匠、上白沢慧音はゆっくりと卓郎に目を合わせてきた。
「話せば長くなる。ただ、簡潔に言っておくと、凛音とは事件をきっかけに出会った。それから今日まで、私は彼女と一緒に協力をしてきたのだ」
「協力?」
「まあ、その話は後で話すことにしよう」
訝しげな様子の卓郎に、慧音は話題を変えてきた。
「それはそうと、さっきまでの話の一部始終は全て聞かせてもらった。わずかな記憶と証言で、よくここまで辿り着いたと思う。そこのところは褒めてやろう。だが、お前の推理には致命的な間違いがある。だいたいは合っているんだが、お前の兄――拓馬の名誉のためにも、これだけは先に言っておく」
泣き続ける凛音を強く抱きながら、慧音は断言した。
「拓馬は自殺したのではない。厳密には、凛音に殺されたのだ」