吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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 彼女がこの世界にやってきたのは、かなり昔のことだった。

 具体的な数字はよく覚えていない。それくらい長い年月が経っているのだ。

 以前の世界での生活を一言で表すなら、まさに『壮絶』であった。

 

 彼女の一族は、昔から自分以外の一族は破滅するべきだという非常に排他的な思想を持っていた。一族に刃向かう者は、一人残らず息の根を止めるのが常識であった。

 そんなこともあり、戦いは日常茶飯事だった。

 全盛期は全身を真っ赤に染めて身体能力を極限にまで高めて、彼女に刃向かう者は全て殺害していった。たまに、これは能力のせいで全身が真っ赤になってしまったのか、血を浴びすぎて全身が真っ赤になってしまったのか、判別できない時もあった。

 

 だが、戦闘に特化した彼女の一族も、ついに限界が訪れた。

 敵を多く作りすぎたことで、ある時期を境に一気に多くの敵が彼女の一族を襲うようになった。次第に一族の人数も減っていき、ついに彼女一人だけになってしまった。

 それでも命からがら逃げ切り、やってきたのがこの世界だった。

 

 ここはとある村の外れにある、廃墟と化した神社である。廃墟になってからかなり時間が経っているようだが、奇跡的に中の本堂は健在だった。

 この日も彼女は神社の境内にある手頃な石に腰かけて、のんびりと過ごしていた。たまに喉が渇くので、近くの湧水を入れたひょうたんを横に置いている。

 

 この場所で目を閉じていると、様々な自然の音を聞こえてくるのだ。

 虫の鳴き声。水のしたたる音。木々のざわめき。

 どれも微かな音色である。

 彼女は雑念を振り払い、耳から来る情報だけに全ての感覚を委ねた。

 この時の自分は、『自然の中に溶け込んでいる状態』だと思っている。

 最初の頃はなかなか判別ができず、どれも同じような音に聞こえた。

 しかし、季節や天気によって微妙に音が変化することに気付くと、少しだけ面白いと感じるようになった。今では微かな音の強弱で、植物の生育の調子なども分かるようになった。

 

 この世界に来た当初、彼女は強烈な無力感に苛まれていた。

 これまでの自分は常に敵を討つことだけを考えて生きてきた。

 それがこの世界にやってきてからは、全く刺激の感じられない生活を送ってしまっているのだ。一時は何がしたいのかも分からず、周囲に生息している動物たちを手当たり次第殺していったが、さらに自分が惨めになっていくような気がしたので、すぐに止めた。

 

 しかし、少しずつこの生活に慣れてくると、彼女の考え方にも変化が訪れた。

 周りの自然と同じ調子で生きていくのも悪くないな、と思うようになったのだ。

 とにかく、以前の世界はあまりにも殺伐としすぎていた。

 一人で過ごすのは寂しい気はしなくもないが、常に死と隣り合わせの環境に比べたら快適だと感じるようになったのだ。

 

 何となく彼女は目を開けて、久々に能力を発動してみる。

 だが、赤色に変化したのは右手だけだった。長年、全く能力を使わなかったこともあり、やはり寿命による衰えが顕著になってきているようだ。

「まあ、いいか」

 独り言をつぶやいてから、彼女は大きく息を吐く。

 どうせ、この身が朽ち果てる瞬間までこのままの生活が続くのだから、能力が発動してもしなくても関係ないことなのだ。

 そう思いながら、再び目を閉じた直後だった。

 

 入口の階段から、何者かが登ってくる音が聞こえてきた。

 彼女は大きくため息をついた。久しぶりにこの神社が廃墟になったことも知らない、無知な参拝者かやって来たようだ。

 それならば話は早い。とっとと隠れて、参拝者が立ち去るのを待つだけである。

 すでに廃墟と化した神社なので、おそらく落胆しながらすぐに帰るだろう。

 だが、この日の彼女は油断していた。

 隠れようと動き始めた直後、座っていた石に足を引っ掛けてしまったのだ。予想外の出来事に思わず、彼女は声をあげてそのまま転んでしまった。

 

「誰かいるのですか」と、階段の方から声が聞こえてきた。

 しまった、と思った矢先、一人の男性が境内に入ってきた。

 見た目は二十代前半くらいの人間だった。ただ、歩き方が妙にぎこちない。足を悪くしているのか、と直感で思った。

「もしかして、あなたもお参りに来たのですか?」男性が問う。

「ま、まあ、そうだけど」とっさに嘘をつく。

 誰かと会話と交わすのは、何十年ぶりのことだった。

 

 男性の視線が寂れた本堂に移った瞬間、大きく目を見開かせた。

「あれっ。もしかして、この神社はすでに使われていないのですか」

「ああ。もう廃墟になってる。私もついさっきやって来て、気付いたんだ」

「なんということだ……」

 男性はがっくりと頭を垂れた。

「参ったな。ここまで二時間も掛けて歩いてきたのに、これじゃあ何も祈ることもできないじゃないか」

 その言葉を聞いて、何となく彼女は尋ねてみたくなった。

「祈りって、もしかしてその足のことか?」

「そうです。弟のためにも、何としてでも治したいのです」

「そいつはご苦労なことだ。でも、こんな寂れた神社じゃ、神様もとっくに別のどこかに旅立っているだろうよ。とんだ無駄足になってしまったな」

「あはは……。そうなりますね。少し休憩してから、帰ることにします」

 男性はぎこちない動作で、階段に腰掛ける。

 

 この神社は山の奥に位置している。普通の人間でも、ここまで来るにはかなりの時間を要してしまう。あの足で来たということは、さぞかしここまで苦労したのだろう。

 寒い時期なのに、首筋から流れる汗の量もかなりのものだった。

 わずかにだが、彼女は彼に同情してしまった。自分らしくないと思ったが、彼の背中から感じる雰囲気が、妙に自分自身と似ていると感じてしまったのだ。

 

 ――たまには誰かと話すのも悪くないかもしれない。

 思い立ったら、行動するのは早かった。

「おい。こっち向け」

 その言葉に男性が従うと、彼女は小型のひょうたんを男性に投げた。男性は慌てながら、そのひょうたんを両手で受け止める。

「中には水が入ってる。遠慮するな。飲め」

 呆然とする男性の横に、彼女は腰掛けた。

 これが人間、拓馬との出会いだった。

 あれからどうしてあそこまで親しくなってしまったのか、当時を振り返ってもよく分からない。ただ、拓馬と出会ったことで何も無かった生活に、わずかな彩りができたのは言うまでもなかった。

 

 ◆

 

 もうすぐで日が沈むので、細かい話は家の中ですることになった。

 家とは、もちろん『ばあちゃん』の家である。

 一行が床に腰掛けた頃には、凛音もだいぶ落ち着きを取り戻したようだった。先ほどまであった殺意の込もった目も、完全に消えて無くなっていた。

 中もだいぶ暗くなってきたので、ユキが家の中心に発光草を置いてくれた。

 

「先生。先ほどの話を続きをお願いします」

 震える声で卓郎はお願いをする。

 先ほど慧音が言ってくれた内容は、卓郎のこれまでの推理を一気に覆してしまうようなものだったからだ。

「話をすると長くなる。まずは、隠蔽に気付いた経緯から話そう」

 慧音は正座をしたまま、ゆっくりと口を開いた。

 

「私が現場に駆け付けたのは、事件が発生してから翌日のことだった。人里から村までは距離がある。近所の者が死体を見つけて、その情報が里に伝わってくるまで多少の時間が掛かってしまったんだ。まだ、犯人が誰なのかも特定できなかったが、ひとまず私も現場に向かうことにした。床の血はすっかり乾いていたが、家の中にはまだ二人の死体もあった。だが、調べていくうちに、不審な点が二点ほど見つかったのだ」

「それはなにかしら?」

 レミリアが、家の隅に設置した簡易テーブルにひじを乗せながら訊く。メイドのユキとナツは、その横に立っている。

 

「一点目は、これは先ほど卓郎も述べていたが、床の血の濃度がかなり薄かったところだ。これは凛音が壺の水をまき散らした推理で正しい。しかも、家の中には明らかに壺らしきものが置かれていた形跡があったのに、肝心の壺が無くなっていたしな。この時点で私もこれは単なる殺人事件ではないな、と思うようになった。だが、重要なのは二点目だ。ある意味、これが事件の真相に辿り着いた大きなきっかけとなった」

「一体、なんですか」卓郎が問う。

「腹の傷の出血量の違いだ。拓馬の場合は腹の周りに、おびただしい量の血が流れていた。しかし、母親の腹の周りはあまり血が流れていなかったのだ。拓馬の場合は間違いなく、腹の傷が致命傷になったのだろう。しかし、母親はそうではなかった。つまり、母親は別の何かの要因で死亡した後、腹を刺されたと私は考えたのだ」

 ここで卓郎は、出血に関する知識を思い出した。

 

 いつか人体に関する本で読んだことがある。死んだ人間は生きている人間に比べて、傷を負ってもあまり出血しないのだ。

 こればっかりは、現場を見た慧音だからこそ分かることだった。

「母さんの場合は、自殺でよろしいんですよね」

「ああ。お前の母親は自殺で正しい。拓馬が殺されたのは、母親が自殺した後だ」

 険しい表情で慧音は腕を組む。

 

「まあ、私も真相に辿り着くまではだいぶ悩んださ。当初は犯人が最初に母親を別の手段で殺した後、帰ってきた拓馬の腹を刺して殺したのかという仮説も立てた。まあ、すぐ却下したけどな」

「では、どうやって真相に辿り着いたんでしょうか」

「最終的に凛音が全てを答えてくれたからだ。懸命な捜査の結果、犯人は近くの廃墟と化した神社に住んでいる妖怪だと特定した。拓馬はともかく、母親の自殺を隠蔽したことは事実だから、そのことを追究した結果、彼女は全てを打ち明けてくれたんだ。私が神社にやってきた時、彼女はだいぶ疲れたような目をしていたよ」

 慧音の言葉に、凛音はこくりと頷く。

 

 今さらだが、その姿は普通の人間とあまり大差なかった。これが昔、大勢の人間を殺してきた妖怪の姿だとは到底思えなかった。

 卓郎は恐る恐る訊いた。

「凛音さん。あなたと兄さんは本当に親しい関係だったのでしょうか」

「ああ。そうだよ」

 か細い声で凛音は肯定する。

 

「本当に兄さんは自殺ではなく、凛音さんが殺したのでしょうか」

「厳密に言えばそうだな。あれは完全に私に非がある」

「どうして、兄さんを殺したのでしょうか」

「そうだな。話は長くなるが、先に言っておくとしたら――」

 凛音はいったん天井を見上げてから、すぐに卓郎と向き合った。

「拓馬に頼まれたんだ。俺を殺してくれ、ってな」

 

 ◆

 

 凛音と出会ってから、拓馬はちょくちょく神社に来るようになった。

 あの足でわざわざ神社までやって来るのだから、よっぽど凛音と話したことが楽しかったのだろう。ただ、凛音の方は多少の煩わしさを感じるようになっていた。

 あの時は、彼と出会うことは二度とないと思っていたから、一緒に話すことにしたのだが、二回目、三回目になってくると話も変わってくる。

 悪い奴ではないとは承知していたが、これまで常に一人で暮らしてきたこともあり、他人と接することに煩わしさが出てきてしまったのだ。

 

 どうすれば、彼を追い出すことができるか――。方法は簡単だった。

 ある日、凛音は「私は妖怪だ」と拓馬に正体を打ち明けることにしたのだ。

 この話をした瞬間、拓馬の表情は固まった。

 人間は妖怪を恐れる。風の噂で人間と妖怪を共生させるという訳の分からない話も聞いているが、人間の妖怪に対する恐怖意識はまだまだ健在である。

 

 これで拓馬も彼女を恐れて、二度と来なくなるだろう。

 そう考えながら打ち明けたのだが、拓馬の返事はあまりにも予想外だった。

「へえ。こんなに美しい妖怪がいたなんてな。そいつは驚きだ」

 今度は凛音が表情を固める番だった。

 拓馬いわく、薄々と彼女は人間ではないかもしれないと思っていたらしい。

 この近くに住んでいる人間の顔はみんな覚えているらしく、君のような美人だったら絶対に忘れることはない、と真顔で話してくれた。

 あざといにも程がある言葉だったが、不思議と気分は悪くなかった。

 

 ふっ、と凛音は笑ってしまった。

「おかしい奴だ。お前のような奴を周りは物好きと呼ぶんだ」

「それは君だって同じだろ。よく、人間なんかと話す気になれたな」

「たまたま気が向いただけだ。それ以上の理由はない」

「つまり、今日までたまたま気が向いていたということか。それは運の良いことだ。できるなら、これからもその運が続いてほしいものだな」

 何故か、凛音は言い返すことができない。

 

「もし良かったら、これからもここに来ていいかな」

「……まあ、勝手にしな」

 呆れるように返したが、やっぱり気分は悪くなかった。

 それから、二人の仲は急速に進展していった。最初は煩わしかったはずの拓馬の存在が、次第に気になる存在へと変貌していったのだ。

 

 移動時間の関係で、拓馬が神社に来るのは一週間に一度くらいだった。

 気付いたら、前回に拓馬が来たのはいつだろう、と日付を数えるようになっていた。

 妖怪が人間と親しくなるなんて――。そう葛藤した時期もあった。

 しかし、彼女を咎める者はこの世界に誰もいない。そう思った瞬間、種族という理由で勝手な境界線を決めることが急に馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 

 仲が良くなってくるにつれ、拓馬の家に関する事情も分かってきた。

 彼の家は貧乏な農家らしく、今は七歳下の弟が主に仕事を行っているとのことだった。足を悪くした拓馬、体の弱い彼の母親もできる限り手伝っているが、それでも家の生活はかなり困窮を極めているとのことだった。

 そもそも、彼がこの神社に来たのも神頼みをするためだった。偶然にもこの付近の地図を見る機会があり、そこで初めてこの場所に神社があることに気付いたらしい。

 

 彼は自分の足を治すことに必死だった。

「この神社にいる神様に祈りを捧げて、必ず足を治してみせるんだ」

 それが彼の口癖だった、

 お金がないので医者に頼ることもできない彼は、最後の手段として神様に祈りを捧げることにしたのだ。凛音に出会ったのは、その最中のことだった。

 また、彼は事故で足を悪くして以来、常に弟に対して罪の意識を持っていた。

「あいつは本当に頭の良い奴だ。将来は有名な学者になって、俺と母さんを絶対に楽にさせるんだって言っていたのに、俺の不注意でその夢を潰してしまった。俺は駄目な兄だよ。だから、弟を楽にさせるためだったら、何でもするつもりでいる」

 弟の話をする時の彼の瞳は、どこか必死だった。

 

 数年前まで弟は里の寺子屋に通っていたが、自分が足を悪くさせたせいで、弟は寺子屋を辞めざるを得なくなってしまった。

 拓馬はそのことをひどく気にしていたのだ。

 凛音もまた、彼に対して何かできることはないかと考えるようになった。

 

 ※

 

 例の日、朝から凛音は珍しく不安な気持ちになっていた。

 拓馬が神社にやってきたのは、今から二週間前。いつもは一週間に一度はやって来るのに、今回はやたら来ない期間が長くなっていたのだ。

 だが、そんな不安も杞憂に終わり、この日の午後に拓馬はやってきた。

「どうしたんだ。やけに間が空いたじゃないか」

 そう言いながら凛音は微笑む。

「ああ……。そうなってしまったな」

 久々の来訪にもかかわらず、彼の表情は冴えなかった。

 顔はあまり生気が感じられず、凛音はすぐに異変を察知した。

 

「どうしたんだ。何か嫌なことでもあったのか」

 だが、彼は答えずに俯いたままである。凛音の不安はさらに増した。

「おい。そんな暗い顔されて、私が訊かないとでも思っていたのか」

「そうだな。すまなかった」

 そう言って、彼はいつものように階段の隅に腰掛ける。凛音もその横に座る。

 季節は夏真っ盛りで、蝉の鳴き声がやかましく響いていた。

 

「実は一週間前、うちの母さんが怪我をしたんだ。それも普通の怪我ではない。自分で自分の手首を切って、怪我をしてしまったんだ」

「自分の手首だと? もしかして、それは――」

「ああ。自殺しようとしたんだ。幸いなことに傷は浅かったようで、大事には至らなかった。場所も親戚の家だったこともあり、弟はまだ気付いていない」

 あまりのことに、凛音はしばらく呆然としてしまう。

 妖怪の彼女にとって、自殺は縁の遠い言葉だった。人間によく見られる行動とは聞いていたものの、まさかこんな場面で出てくるとは夢にも思わなかった。

 

「なぜ、自殺しようとしたんだ」

「今のままでは家族全員、飢え死にしてしまうからだと言っていた。今年はなかなか作物が取れなくて、家にある食い物もどんどん減っていてな。人里にいる親戚に金を借りようとしたけど断られてしまって、もう自分が死ぬしかないと思ったらしいんだ」

 そんな理由で死ねるのか、と凛音はむしろ驚きを抱いてしまった。

 

 そういえばここ最近、各地で天候不良が続いて、作物があまり取れなくなっているという噂を聞いている。拓馬の家は農家だから、その被害も計り知れないだろう。

「それで、お前はちゃんと母親を説得できたのか」

「もちろんしたさ。でも、うちの母さん、かなり責任感の強い人でな。病気でまともに農業ができないことを、ひどく気にしているんだ。自分は病気でそう長くない。だったら、俺たちのためにさっさと死んだほうがましだと考えたんだ」

 拓馬は頭を抱えた。

 

「母さんは自分が死ねば、俺と弟が幸せになると思っている。また自殺を起こさせないために、俺は必死で説得したよ。せめて弟だけには勘づかれないように、彼が農作業に出ている間にさ。だから一週間、ここに来れなかったんだ」

「そうだったのか……」

「ただ、食べ物に関しては、どんどん少なくなってきているのは事実だ。このままの状況が続いたら、母さんだけでなく、俺たちも飢え死にしてしまうかもしれないんだ」

「よせ。そんな後ろ向きで考えるものじゃない」

「だから、俺も考えてしまったんだよ。もし、母さんじゃなくて俺が死んだ方が、弟は救われるんじゃないかってな。俺は足が悪いだけで、それ以外は至って健康だ。俺が死んだら、その分の食べ物も浮くから――」

「やめろ!」

 彼女の叫びに、びくっと拓馬は体を震わせる。

 

「そんな物騒なことは考えるものじゃない」

 断言して、凛音は彼の体に寄りかかる。

 拓馬は一瞬だけ困惑した様子を見せたが、すぐに受け入れてくれた。

 彼の温もりを感じながら凛音は目を閉じて、神社での生活を振り返る。長い間、世話になったところだが、いよいよ決心する瞬間がやって来たのかもしれない。

 

 今こそ、拓馬のためにできることを打ち明ける時であった。

「拓馬。私もお前の家に行くぞ」

「えっ」

「私は今日から、お前の家に住むことに決めた。私もお前の家の農業を手伝うぞ」

 突然の宣言に、拓馬は口をぱくぱくさせる。

「い、いや、待て……。いきなりどうしたんだ」

「どうしたもこうもない。お前の家は今、弟が実質的に一人で農業をやっているんだろ。だったら、私も手伝った方が良いに決まってるじゃないか」

「でも、凛音は妖怪だろ。もし、妖怪だとばれてしまったら――」

「私はすでに妖怪としての能力は、ほとんど失っている。もう人間と同じようなものさ。お前の嫁として家に行けば、問題ないだろう」

「よ、嫁?」

 拓馬は目を見張る。

 

「なんだ。やはり妖怪だから、嫁として行くのは厳しいのか」

「いや、そういうわけじゃないけど……ああ、なんて言えばいいだろう」

 拓馬は真っ赤に顔を染めながら、大きく息を吐いた。

「そうだな。お前が家に来れば、俺たちもだいぶ助かる。先行きはまだ不透明だけど、お前が農業を手伝ってくれたら、今年の飢饉も乗り越えられるかもしれない」

「腐っても妖怪だ。私が手伝えば百人力だろう」

 そう言って、凛音は自信の込めた笑みを浮かべる。

「善は急げだ。さっさと行こう」

 彼女は立ち上がって拓馬の手を握ると、神社の階段を降り始める。拓馬は「ちょっと、俺は足が悪いってこと思い出せよ」とぼやきながらも、凛音についていく。

 

 敵である人間と一緒に暮らす。

 以前いた世界では、到底考えられない発想だった。

 もし、自分の一族が今でも存在していたら、凛音のことを間違いなく「一族の恥だ」と非難していただろう。

 だが、今の彼女はとても心が満たされていた。

 もしかしたら、この世界で生きていくうちに、だいぶ思考が人間に近づいてしまったのかもしれない。これが良いことなのか悪いことなのか、凛音にはさっぱり区別がつかなかったが、とにかく今は彼のためにできることを行うつもりだった。

 

 そして、二人は家に辿り着いた。

「まずは自己紹介から始めなくっちゃな」

 扉の前で、拓馬が機嫌良さそうにつぶやく。

「出会いの経緯とか、そこは全部お前が考えておけよ」

「ははは。卓郎たちを納得させるだけでも、先が思いやられるな」

 苦笑いをしながら、拓馬は家の扉を引く。

 つんと生臭い匂いがしたのは、その直後だった。一瞬、なんだと凛音は思ったが、家の中で広がっている光景を見て、その思考はすぐに停止した。

 彼の母親が水の入った壺に左手首を突っ込んで、倒れていたのだ。

 

 ※

 

「母さん! 母さん!」

 叫びながら、拓馬は母親のもとに駆け寄る。

 彼が母親を抱きかかえると同時に、壺から左手首が出る。

 そこには何本もの深い切り傷ができており、死因はこれだとすぐに断定した。

 拓馬は叫びながら母親の名を何度も叫ぶが、全く反応を見せない。もう助からないのは、目に見えていたが、それでも彼は叫ぶことを止めない。

 

 家の中を見渡してみるが、母親の死体以外に誰もいないようだった。弟の卓郎とやらは、まだ外から帰ってきていないようである。

 背筋が冷たくなるような感触を味わいながら、凛音は断言した。

「拓馬。諦めろ。もう死んでいる」

「何を言ってるんだ! まだ死んだと決まったわけじゃない!」

 拓馬は完全に錯乱している様子だった。

 

 凛音は母親の亡骸に近寄って、念のため右手の脈を確かめてみる。

 だが、結果は予想通りだった。彼女は顔を歪めながら、首を横に振った。

「なんでだよ! なんで死んでしまうんだよ!」

 拓馬は母親の亡骸を揺らす。

「これから……これからだっていうのに、どうして死んでしまうんだよ!」

 涙を流しながら、拓馬は咆哮する。見ていられず、凛音は目を逸らした。

 

 この場合、彼にどんな言葉を掛ければいいのだろう。

 頭で励ましの言葉がいくつか浮かんできたが、どれも無意味な気がした。

 拓馬の何十倍の年月を生きてきたはずなのに、自分が何もできないことに凛音は悔しさを感じた。できることと言えば、彼の横でたたずんでいることだけだった。

 その時、凛音の視線が土間の隅に置いてある紙に留まる。

 こんな貧困な家に、紙とは珍しかった。その紙は丁寧に三つ折りされており、もしかしたら誰かに手紙を送るつもりだったのかもしれない。

 

 ――手紙?

 嫌な予感がしたので、凛音は紙の方に近づいてみる。拾って手に取ってみると、一枚目には『拓馬へ』。二枚目には『卓郎へ』と、拙い字で書かれてあった。

 凛音は唾を飲み込んで、その紙を拓馬の方に持っていった。

「拓馬。母親からの遺書だ」

 すっかり腫れてしまった拓馬の目が、遺書を捉える。

「これは、母さんの遺書なのか?」

「そうかもしれない。見てみたらどうだ」

 涙を流しながら拓馬は遺書を受け取り、中身を開こうとする。

 

 だが、手が異様に震えているせいで、なかなか中身が開けない。

「どうした。私が開こうか」

 凛音の問いに、拓馬は首を振った。

「いや、いい。それより凛音。ほんの少しだけでいい。僕を一人にしてくれないか」

「おい……」

「大丈夫。少し落ち着いてから、この遺書を読みたいんだ。頼む」

 身内が死んだばかりなのに、妙に平坦な口調で拓馬は懇願した。

 凛音は一瞬、嫌な考えが頭によぎった。

 

 蘇ってきたのは、先ほどの神社で拓馬が嘆いていた言葉である。だが、さすがにそれは考えすぎだろうと思い、最終的に「分かった」と仕方なく承諾した。

 二人で母親の遺体を隅に寄せて、顔に布をかぶせる。

「最後の別れだ。しっかり済ませてこい」

 そう言い残して、凛音は家を出る。

 念のため、扉の前で待機することにした。もし、拓馬が暴走してしまい、何かよからぬことをするようであったら、すぐに扉を蹴破って彼を止める算段である。

 

 中の惨劇とは裏腹に、外は穏やかな夏の光景が広がっていた。

 空を流れる雲はいつも通りに真っ白だし、周りの木々や植物たちも風に煽られながら、活きの良いざわめきを奏でている。蝉の鳴き声もそこら中から聞こえてくる。

 あの神社と、全く変わりない音だった。

 だが、今はそんな音に浸っている余裕など無かった。

「これから、どうすればいいんだろう」

 凛音はぽつりとつぶやく。

 

 彼と神社を出る時に思い描いていたことは、あっさりと実現できなくなってしまった。

 拓馬の母親が欠けた中で、自分たちは暮らさなければいけないのだ。

 自分はともかく、拓馬とその弟の受ける心の傷も計り知れないだろう。もしかしたら、ここを出て行く選択肢だって考えられるかもしれない。

 その場合、妖怪である自分は何ができるだろう。

 気が付けば、凛音は今後の生活について頭を巡らせていた。

 

 ――その油断が隙を生んでしまった。

 家の中から唸り声が聞こえてきたのは、その直後だった。

 はっ、と気付いた瞬間、凛音は扉を引いて中に入った。そして唖然とした。

 拓馬は、家にあった包丁で自分の腹を刺していたのだ。包丁を持つ手が異様に震えており、血が床に垂れていくのが見えた。

「なにやってんだ、お前は!」

 すぐさま凛音は、彼の握っていた包丁を取り上げる。

 

 拓馬の横には、広げられた母親の遺書が置いてあった。

 だが、すでに血で半分ほどが見えなくなっていた。

「り、凛音……」

「馬鹿野郎! どうしてこんなことをした!」

 拓馬の腹からは、どくどくと血が流れている。先ほど母親の血も浴びてしまったせいで、もはや赤い着物を着ているかのように見えてしまった。

「凛音、許してくれ……。これが俺にとって最善の選択だと思ったんだ」

 涙と血で顔を歪ませながら、彼は言った。

 

「母さんの遺書には、こんなことが書かれてあった。自分が死ねば、人里の伯父さんは俺たちに同情してお金を恵んでくれる。ああ見えて、伯父さんは優しい人だ。間違いはないだろうってさ。それに万が一、お金を恵んでくれなくても自分が死ねば一人分の食料が減るから、二人で頑張れば飢饉もきっと乗り越えられるだろうと書かれてあった」

「じゃあ、どうしてお前まで死のうとした!」

「簡単なことだ。卓郎を救うためだよ」

 拓馬は真っ直ぐに凛音を見る。

「母さんはこの飢饉を乗り越えるために、自ら命を絶った。でも、それだけじゃ駄目なんだ。たとえ母さんの言う通りに飢饉を乗り越えたとしても、その後の生活はどうなる? またいつもの厳しい生活に戻るだけだ。母さんがいなくなったことで卓郎の負担も増えてしまい、さらに家の生活は苦しくなる。もし、また同じような飢饉が起こったら、今度こそ俺たちは飢え死にするかもしれない。だから俺も死ぬことにしたんだ」

 拓馬の口から血が垂れていく。

 

 だが、目の光はさらに強さを増していった。

「俺と母さんが死ねば、もう卓郎はこの家にいられない。おそらく、伯父さんの家に引き取られるだろう。生活は相変わらず苦しいかもしれないが、人里で暮らせるなら、今の生活よりはまともになるのは間違いない。あいつは、ここにいるべき人間じゃないんだ」

 凛音は言葉を失ってしまった。

 目の前にいる男は、自分の命より弟の幸福を最優先しているのだ。

 家族の幸福を願う気持ちは理解できるが、それで自分の命まで絶とうとするのは理解できなかった。

 

「おかしいな……。けっこう喋っているのに、なかなか死なない。人間って案外しぶといのかもしれないな」

 そうつぶやいてから、拓馬は申し訳なさそうに言った。

「凛音。最後に一つお願いがある。俺に止めを刺してくれないか」

 凛音は大きく目を見開く。

「本当は自分で止めを刺したかったけど、もう限界だ……。手が震えてきているし、腹の感覚もあまり感じなくなってきている。確かこの前、自分の手を凶器にして薪を割っていたよな。それを使って、俺に止めを刺してくれないか? もし、自分の手が嫌だったら、さっきの包丁でやってもいい」

 拓馬の強い視線が凛音にぶつかる。

「なあ、頼むよ」

 

 この瞬間、彼女は久しぶりに恐怖という感情を味わった。

 拓馬の視線は、それくらい鬼気迫るものだった。

 彼は何の能力も持たない、ただの人間なのに、妖怪の凛音は何故か彼の表情がとても怖いと感じてしまったのだ。

 なかなか動こうとしない凛音に見かねてか、ふっと拓馬は微笑む。

 

「なあ、凛音。こんなところで言うのもおかしな話かもしれないけど、俺、最後に君に会えて本当に幸せだったと思っている」

「拓馬……」

「なんだろう。君と一緒にいると、いつも気分が落ち着くんだ。君と話している時だけは、嫌なことも全て忘れることができた。大切な家族ですら幸せにできない、ろくでなしの男だったけど、最後に君に会えて本当に良かった」

 苦笑いをした直後、拓馬の目が再び険しくなった。

「今までありがとう。君の前で死ねるなら、それは本望だ」

 おもむろに凛音は右手を赤く染める。

 

 なぜ自分は拓馬の言いなりになっているのだと一瞬、焦った。

 だが、一方でこのまま彼の願いを叶えなければいけないと思う自分もいた。

 とにかく、彼の最後の願いを叶えなければ――。

 思考が混乱状態のまま、凛音は右手を振り降ろす。

 止めは一瞬だった。

 

 右手が肉を引き裂く感触がしたと同時に、拓馬は呻き声をあげた。

 その直後、彼の口からある言葉が発せられた。

 それからすぐに全身を痙攣させて、そのまま動かなくなってしまった。人間は確かにしぶとい生物であるが、致命的な傷を受けてしまうと、いともたやすく死んでしまう。

 右手を引き抜くと傷口から血が噴き出して、凛音はそれを顔に思い切り浴びた。

 

 立ち上がった凛音は、息絶えた彼の姿をしばらく見下ろす。

 弟の幸福のため、大切な命まで犠牲にした人間――。拓馬の亡骸を眺めているうちに、ふと凛音はある疑問を抱いた。

 親戚の家に預けられれば、本当に拓馬の弟は幸せになれるのだろうか。

 

 拓馬は自分が死ねば、弟は親戚の家に預けられると考えた。

 弟の年齢は十五である。たぶん、その願いは叶えられるだろう。しかし、親戚の家に預けられた後はどうなる。果たして、拓馬の弟はその家でまともな扱いを受けるだろうか。

 答えは「否」だと、すぐに凛音は判断した。

 

 人間は先入観の塊みたいな種族だ。弟は自殺した親族の生き残りである。きっと、親戚はまともな扱いなどしてくれないだろうと思った。

 それが拓馬の弟にとって、本当に幸せなことだろうか。

 拓馬の願いは、これで叶えられるのか。

 そう思った瞬間、凛音の中である発想が浮かんできた。

 ――自分が二人を殺したように細工すればいいじゃないか。

 

 もしかしたら、自分はこの世界で最も愚かな妖怪かもしれない。今、ここで思いついたことは、確実に自分自身が損な役回りとなるからである。

 だが、悠長に考えている暇はない。弟がいつ帰ってくるのか分からないのだ。

『好きだった』

 最後に彼が残した言葉は、彼女の頭の中で何度も流れた。

「私もだ」

 彼女のつぶやきは誰にも伝わることのないまま、空気に溶けて消えた。

 

 まず凛音は再び右手を赤く染めると、拓馬と母親の左手首を切り取った。だが、これでは自分が二人を殺したというようには見せられない。

 何としてでも、自分が二人を殺したように見せるのだ。

 そうすれば、周りの人間は残された弟に対して、大きく同情をしてくれるだろう。人里にいる彼の親戚も、これなら確実に弟を手厚く扱ってくれるだろう。

 拓馬の最後の願いを叶えるために、凛音は次なる行動を開始した。

 涙が頬に付いた血を通って、赤い涙となって流れた。

 

 ※

 

 凛音の話が終わってからも、しばらく卓郎は何も言うことができなかった。

 彼女の言うことが本当ならば、卓郎にとって重く心にのしかかる内容だった。

 つまり、彼らは卓郎のためにそれぞれ行動に出たのである。母親と拓馬は命を犠牲にして、凛音は自分が制裁されることを覚悟して行動に出たのだ。

 慧音は、凛音の肩にそっと手を置いてから言った。

 

「これが真実だ。凛音は拓馬の願いを叶えるために、自殺の隠蔽を行ったのだ」

「兄さんに頼まれたわけじゃかったんですね……」

「そうだ。隠蔽は凛音の独断だった。頼まれてやったわけじゃない」

「なるほど」

 卓郎は息を吐く。

「隠蔽の動機は分かりました。でも、凛音さんの話を聞く限りですと、厳密には凛音さんが兄さんを殺したわけじゃなさそうですね。だって、先に兄さんが自分の腹を刺してしまったんでしょう? 凛音さんは止めを刺す意味で、兄さんを殺してしまったんですよね」

「ああ。確かに、止めを刺したのは凛音だな」

 ここで慧音は、表情をさらに歪ませる。

 

 その態度に卓郎は首を傾げた。

「まだ、何かあるんですか?」

「卓郎。以前、お前に見せた資料の中で、拓馬の傷は何ヶ所あったか覚えているか」

「もちろん覚えています。手首と腹の二ヶ所です」

「それは違う。正確に言うなら、傷は三ヶ所あったはずだ」

「三ヶ所? 手首と腹以外のどこに――」

 と、ここで卓郎は言葉を止める。

 

 記憶をたどってみると、確かに傷は三ヶ所あったことを思いだしたのだ。

 一つ目は手首の傷。二つ目は致命傷となった腹の傷。ここまでは問題ないが、凛音の話が正しければ、もう一つ傷がなければならないのだ。

 それは、拓馬が自ら包丁で刺した傷のことである。

 資料によれば、その傷は浅い傷だったと書かれてあった。

 ――浅い傷?

 

 その瞬間、卓郎は口をぽかんと開けたまま、体を固めてしまった。ここでようやく「拓馬を殺したのは凛音だ」という、慧音の意図が分かったのだ。

 だが、それは真実をより残酷にさせる内容でもあった。

「もしかして、兄さんが自分で刺した傷はかなり浅かったんですか? すぐに治療すれば問題ない程度の傷だったんですか?」

 慧音はこくりと頷く。

 

「そうだ。あの時、その気になれば拓馬を救うこともできたんだ。だが、最終的に彼女は拓馬の頼みを断りきれず、そのまま止めを刺してしまったんだ」

 すると、ここで凛音が慧音を制した。

「それに関しては私がしゃべるよ。慧音の言う通り、拓馬の傷は非常に浅かった。出血はそれなりにあったけど、すぐに止血をすれば問題ない程度だった。これに関しては、拓馬のところに駆け寄った時から分かっていたことだった」

「最初から分かっていて、止めを刺したんですか」

「ああ。今、振り返ると、どうして止めを刺してしまったのか自分でもよく分からないんだ。拓馬の気持ちに押されてしまったのか、もしくはあまりに惨めに見えてしまったのか……。とにかく、あの時は私もだいぶ普通の状態ではなかったのは確かだ」

 凛音は自嘲するように笑った。

 

「――って、自分で言っておきながら全く弁解になってないな。冷静になれば、拓馬を生かす方法はいくらでもあったんだ。母親が死んでしまっても、私が農業を手伝うことを強調していれば、自ら腹を刺すようなことはしなかったかもしれない。まあ、こればっかりは今さら嘆いても仕方ないけどな」

 彼女の表情には、後悔の念が感じられた。それと同時に、長年抱えていたことを打ち明けたことによる、ある種の解放感も感じられた。

 

「なるほどね。だいたいの事情は把握したわ」

 今まで黙っていたレミリアが、ここで口を開く。

「八年前、彼から事件の簡単な概要は聞いたけど、まさかこんな真実があったとはね。さすがの私もこればっかりは笑えないわ」

 慧音がレミリアを眺めながら、眉をひそめる。

 

「お前が卓郎が働いている館の主だな」

「ええ。そうよ」

「本来ならば先日、人里で女性が襲われた事件について問い質したいが、今日のところは何も言わないことにしておこう。――八年前、卓郎を拾ったのはお前か?」

「そうよ。だってその時の彼、普通の状態ではなかったからね」

 レミリアはそれから、卓郎が紅魔館で働くまでの経緯を簡潔に説明した。

 話し終えた後、慧音は納得したように頷いた。

 

「なるほど。だから、最近まで卓郎を見つけることができなかったのか」

「どういうことですか」卓郎が問う。

「私と凛音はこの八年間、ずっとお前のことを探していたんだ」

「僕のことを?」

「そうだ。あの事件が起きてから、ずっとだ」

 それから慧音の話は、凛音から真実を聞いた時にまで遡った。

 

 真実を知った慧音がまず決めたことは、凛音に対して制裁を行わないということだった。念のため人里に対しては、慧音個人で制裁を加えたと嘘の報告をした。

 母親と拓馬の死体については、凛音が所持していた左手首を繋ぎ合せてから、丁重に葬った。

 ただ、事件から数日が経っても、卓郎の行方は分からないままだった。

 これは慧音にとって、大きな不安材料であった。

 母親と拓馬は、卓郎のために自らの命を犠牲にした。しかし、その肝心の卓郎の行方が分からないとなると、二人の死は完全に無駄に終わってしまうのだ。

 

 慧音もあらゆる方法を使って、彼を探した。

 あまり馴染みのない天狗の新聞記者にも顔を合わせ、十代の少年に関する情報はないかと尋ねた。しかし、望んでいた回答は得られなかった。

 凛音は事件から日が経つたびに、憔悴しきった顔になっていった。

 卓郎は凛音の姿を見て、逃げてしまったと聞いている。つまり、凛音が余計なことをしてしまったせいで、彼は行方不明になってしまったのだ。

 

 ちょうどその頃、このような事件が二度と起こらないよう、卓郎の故郷に住む人々の移住政策が人里の長から提案された。

 昔よりは平和になったとはいえ、まだまだ凶悪な妖怪がはびこる世界である。

 凛音の事件はともかく、今後も人間が妖怪に殺される事件が起こらないという保証はない。慧音もこの政策には賛成した。

 

 この頃になると、卓郎はもう生きていないだろうと慧音も考えた。

 そこで彼女は、ある思い切った行動をすることにした。

 まず、卓郎の家を取り壊して、そこに母親と拓馬の墓を建てたのである。

 卓郎の墓を建てなかったのは、せめて本当に死んだのかを確認してからでも良いと思ったからだ。そして墓の完成後、憔悴しきった凛音に対して、慧音は毎日ここに来るように言った。

「拓馬に対する、せめてもの罪滅ぼしだ」

 慧音はそう凛音に説明した。

 

 そして慧音の言う通り、凛音は毎日二人の墓にやってきた。人間に遭遇しないよう、時間は必ず夕方にした。おかげで墓は八年経った今でも、きれいな状態を保った。

 それから何年か経過した。

 事件で大きな心の傷を負った凛音は、徐々にだが元気を取り戻していった。慧音の方も移住政策が順調に進み、事件のこともそろそろ忘れようとしていた矢先のことだった。

 

 人里で、すっかり大人になった卓郎と再会したのである。

 慧音もこの時は、あまりの衝撃に呆然としてしまった。何とか卓郎には勘付かれずに済んだものの、それから彼女の中で新たな苦悩の日々が始まった。

 ――彼に対して、八年前の真実を打ち明けるべきなのか?

 彼には真実を知る権利がある。

 だが、彼は別の場所で立派に生活している。もし、真実を話してしまったら、せっかく新しい生活を手に入れた卓郎を困惑させてしまう。

 

 最終的に慧音は、真実を打ち明けないという方針で決めた。

 その代わり、自分の力で卓郎を幸せにする方法はないかと考えた。

 その最中に、彼が優花と親しく話しているところを目撃したのである。しかも、優花は慧音にこっそり卓郎に好意があることを教えてくれた。

「そういえば、優花との結婚を最初に提案しましたのは先生でしたね」と、卓郎。

「そうだ。優花もいい歳だったし、優花の家も昔に比べたらだいぶ立派になった。これなら卓郎を結婚させることで、人里に住まわせることができると考えたんだ」

 初めて優花との結婚話を持ちかけてきた時、慧音の態度はやけに力が入っていた。どうやら、その原因はこれにあったようだ。

 

 結婚、という単語を聞いて、ここで大きく反応したのはレミリアだった。

「ちょっと待ちなさい。結婚ってのは初耳だわ。詳しく説明してちょうだい」

「ああ……。お嬢様にはまだ言ってなかったですね」

 卓郎は結婚のことに関して、初めてレミリアに打ち明けた。

 

 説明を聞き終えた彼女は不機嫌そうに、かたかたとカップを震わせた。

「あんたねえ……。主人の許可も得ずに結婚だなんて、いい度胸してるじゃない」

「お嬢様。僕は優花さんと結婚するとは一言も言っていませんよ」

「はっ?」レミリアは動きを止める。

「僕は優花さんと結婚する気はありません。先日、そう決めました」

「おい、待て。結婚しないという話は私も初耳だぞ」

 ここで強く反応したのは慧音だった。

 

 卓郎は慧音に向き合うと、そのまま土下座の姿勢になった。

「申し訳ございません。僕は優花さんと結婚しないことに決めました」

「なぜだ。お前は優花に好意を抱いていたんじゃないのか」

「はい。抱いていました。でも、個人的な理由で結婚しないことに決めました。これに関しましては、優花さんに非は一切ありません。全て僕が悪いのです」

「その個人的な理由とは一体何なんだ」

「申し訳ございません。それも話すことができません」

「吸血鬼のところで働いているから、結婚は無理だというわけじゃないのか?」

「それもありますけど、原因は他にもあるという感じです」

 慧音はしばらく卓郎を見つめていたが、諦めたように大きく息をした。

 

「そうか……。今さらだが、お前はいつも私の思い通りにいかない男だな。八年前の真実に自力で辿り着くし、結婚の話は断ってくるし。私の苦労はいつも水の泡だ」

 珍しく愚痴を漏らしてきたが、慧音はここで天井を見上げた。

「ただ、今日はこの場所にやって来て、本当に良かったと思っている。この八年間、喉の奥につっかえていたものが今日、ようやく取れたんだ。凛音を止める瞬間まではどうしようかと迷ったものだが、今は少し安心している」

「そういえば、先生は出てくるまでどこに隠れていたんですか」

「気配を消して、近くの木の後ろに隠れていたんだ。お前に八年前の資料を見せてくれと頼まれた時から、こうなることは覚悟していた。今日は二人の命日だし、お前が凛音に会いに来るとしたら、今日しかないと思って待機していたんだ」

「なるほど……」

 気配を消すとは一体どういうことか気になったが、そこは何も言わないことにした。

 

「卓郎。お前に渡したいものがある」

 ここで凛音は、自分の着物の中に手を入れる。

 取り出してきたのは一枚の紙だった。

 よく見てみると紙は変色しており、かなり古い紙のようだった。

「これは?」

「お前の母親の遺書だ」

 ぴくんと卓郎は反応する。

 

 受け取って確認すると、確かに表には『卓郎へ』と書かれてあった。

「拓馬の分は血で汚れてしまって処分したんだが、お前の分は幸いにも汚れずに済んだんだ。まだ、私も中身は確認していない」

「……それでは開きます」

 深呼吸をしてから、卓郎はゆっくりと中身を開く。

 八年越しに見る母親の字は、お世辞にもあまり綺麗ではなかった。だが、その一字一字からは母親の必死な思いが伝わってくるような気がした。

 

 内容は自殺に至った経緯と、卓郎に対する謝罪だった。

 八年越しの母親の言葉に、卓郎は思わず胸が締め付けられそうになる。

 だが、一方では悔しい思いも拭うことができなかった。

 もしかしたら、別のやり方があったのではないか。二人が死ぬことなく、飢饉を乗り越える方法があったのではないか。全員、生き残れる方法があったのではないか。

 まさに、先ほど凛音が嘆いていたことと同じ思いを抱いた。

 

 その時だった。

 卓郎の中で何かが込み上がってきた。

 それは激しい咳と共に、口から一気に噴き出してしまった。

「ごほっ! ごほっ!」

 突然の事態に、レミリアや慧音たちが一斉に立ちあがる。

 口から吐き出された血は、一気に母親の遺書を汚してしまった。

 血に染まった遺書をぼんやりと眺めながら、卓郎は思った。

 ――ついに限界が来てしまった、と。

 

 


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