あっという間に時間が経ち、ついに約束の日となった。
「きたわね。一週間前に比べて、ずいぶん顔色も良くなったじゃない」
相変わらず高慢そうな態度で椅子に座るレミリアの前に、卓郎はたたずんでいた。傍にはユキがおり、状況としては前回と全く変わりない。
「約束通り、結論を聞かせてもらうわ。紅魔館を出ていくか、それとも死ぬか」
卓郎は大きく息を吐いてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ここを出ていくということに決めました」
その返答を聞き、レミリアは予想通りと言わせんばかりの態度で頷く。
ここまでは何も問題はない。
卓郎にとって、ここからが本当の勝負だった。
丸一日、考えた末での結論である。
後悔はない。全ては自分の言葉にかかっていた。
「そして『紅魔館を出ていった』という前提で、一つお願いがあります」
卓郎の言葉に、レミリアは首を傾げる。
そして土下座の体制になった卓郎は、大きく言い放った。
「お願いします。ここで働かせてください! 僕は普通の人間で何の力もありませんが、紅魔館のためにどんな仕事も進んでやっていくつもりです。お願いします!」
さっきまで、余裕すら感じられたレミリアの顔が固まる。
傍で状況を見守るユキも目を大きく見開かせ、口を手で覆っていた。
レミリアは「ははっ」と、笑い声をあげる。
「冗談はやめてちょうだい」
「冗談は言っていません」
彼女の目に鋭さが増す。
「卓郎。それ本気で言ってるわけ?」
「本気です」
「もしかして一週間前の約束、忘れちゃったのかしら。もしあなたが紅魔館に留まるという選択肢を選んだら、容赦なくあんたの血を吸うって」
「それに関しては、先ほども言った通り『紅魔館を出ていく』という選択肢を選ばせていただきました。なので、レミリア様は僕の血を吸うことはできません」
「はあっ?」
がしゃん、と丸テーブルにあったカップが割れた。
気付いたら、椅子に座っていたレミリアが卓郎の目の前に佇んでいた。
彼女の動きを全く目で追えず、卓郎は肝を冷やす。
「さっきから言ってることが矛盾してるわ。なんで紅魔館に残るくせに、私は血を吸えないとほざくのかしら。訳が分からないわ」
「でも、レミリア様。一週間前、レミリア様自身が言っていましたよね。紅魔館から出ていく選択肢を選びましたら、その後の行動は僕の自由でいいと」
「言ったけど、それが何が――」
ここでレミリアが、何かに気付いたように言葉を止める。
好機だと思った卓郎は、ここで一気に言った。
「実はここに来る前、僕はいったん紅魔館の敷地から出ました。レミリア様の『紅魔館から出ていく』という約束に従いまして、紅魔館を出たのです。そして今度は、僕の個人的な意思で再び紅魔館に入りました。一週間前に交わした約束に従うなら、紅魔館を出て行った後ならば、僕の行動は全て自由ということでしたからね」
つまり、これで『紅魔館に留まる』という選択肢を選んだわけではなくなるので、レミリアは卓郎の血を吸うことができなくなるのだ。
紅魔館に戻ってきたのは、あくまで『出ていく』という選択肢を選んだ後の卓郎の個人的な意思である。
レミリアは大きく目を見開かせながら言う。
「あんた……自分の言っていることが理解できてるの」
「来る者は拒まず、去る者は追わず」
卓郎は一週間前、レミリアが言っていたことをそのまま返した。
「その言葉に従うのなら、レミリア様が僕を止める権利はないはずです。僕は紅魔館を去った人間であると同時に、やってきた人間でもありますから」
卓郎は再び土下座をする。
「強引なのは承知しています。でも、ここで働きたいという気持ちは本物です。レミリア様の命令なら、なんでも聞くつもりです。お願いします! どうか、ここで働かせてください!」
これが卓郎の思いついた、第三の選択肢であった。
一昨日に美鈴にも突っ込まれた通り、強引すぎるのは覚悟の上である。
しかし、これが卓郎にとって最も良いと思った選択肢でもあった。
他に選択肢がなかったのも理由の一つだが、自分でも不思議なことに紅魔館に残りたい気持ちが非常に大きかったのだ。
沈黙が流れる。
「顔を上げなさい」
ぽつりとレミリアが言う。
卓郎がそれに従った瞬間、首に強い衝撃を受けた。
レミリアが片手で卓郎の首を掴み、その顔を近づけてきたのだ。
「人間。調子に乗るのも、いい加減にしろよ」
怒りに染まった紅い瞳が、至近距離でぶつかる。
「あんた、自分の立場が分かってんのか? いくら言葉で押し通したところで、私があんたの命を握っていることに変わりないんだよ。つまり、今ここで私が強引にあんたを殺すことだってできるんだよ。あんたの詭弁を全て無視して、強引になっ――」
レミリアは首を絞める力を強くさせる。
だが、卓郎もこの程度では引き下がらない。
苦しくて満足な呼吸ができないが、視線だけは決してレミリアから離さなかった。額の汗がレミリアの腕に滴り落ちる。
場の緊張が、極限に達した瞬間だった。
――ふと、レミリアの手の力が緩まった。
「もしかして、卓郎がこうするのを知っていたんじゃないでしょうね」
レミリアが発したのは卓郎にではなく、その後ろにある扉に向けてだった。
直後、扉が開かれ、そこから美鈴とパチュリーが部屋に入ってきた。美鈴はともかく、この場所にパチュリーが来たのは卓郎にとっても意外だった。
美鈴はやや困ったような顔でつぶやく。
「あはは……。やっぱり扉が閉まっていても、気配でばれちゃいますね」
「門番。どこまで知ってたのかしら」
鋭い声でレミリアが問う。
「一応、全部です。あと、卓郎さんをいったん外に出させる手伝いもしました」
「すると、あなたが今回の陰の立役者ってこと?」
「結果論としてそうなってしまいますね。一応、止めはしましたが」
ここで、レミリアの手が卓郎の首から離れる。
それと同時に緊張の糸が切れた卓郎は、その場に座り込んで「げほっ、げほっ」と大きく咳き込んだ。
「卓郎さん!」
卓郎の状態を確認しながら、ユキはレミリアたちに目を配る。
「あ、あの、これは一体、どういうことでしょうか」
「なんてことはない。こいつは、うちの門番を保険にしただけよ」
レミリアの答えに、ユキは「えっ」と声をあげる。
「あー。それは私の方から説明します」
美鈴が軽く手を上げた。
「実は昨日、卓郎さんに二つのことを頼まれました。一つは今日、お嬢様と会う前に一瞬だけでもいいから、紅魔館の外に出させてくれということでした。これはさっき卓郎さんも言ってたことです。そして卓郎さんの希望通り、ほんの少しの間だけ門の外に出させました。そしてもう一つの頼みですが、それは途中でお嬢様が勢い余って自分を殺してしまわないように、こっそり裏で見守っていてくれということでした」
「で、その二つの頼みを承諾したというわけね」
「はい。最初は私もそんな無茶はしない方がいいと説得しましたが、卓郎さんの話を聞いていくうちに、彼は半端な気持ちでここに残るわけじゃないと感じましたので、最終的に私の方が折れました」
「確かに、ここに残りたいという覚悟は私も感じられたわ。一週間前は私を見るだけで震えていたくせに、今は生意気にも睨み返してきたんだからね」
レミリアの視線がパチュリーに移動する。
「パチェ。もしかして、あなたも最初からこのことを知ってたのかしら」
「私が知ったのはついさっきよ」
パチュリーは、あからさまに大きく息を吐いた。
「うちの小悪魔が美鈴から聞いた話を、そのまま私に伝えにきたの。まあ、ここに来た時はすでに遅かったけどね」
「じゃあ、パチェはまだ反対の立場というわけね」
「ええ。願わくば、今すぐ出ていって欲しいくらいだけど……」
パチュリーは一瞬卓郎を睨みつけた後、諦めたように肩を落とした。
「もういいわ。勝手にしてちょうだい」
そう言って、扉を荒っぽく閉めて出ていった。
あれだけ出ていけと口を酸っぱくしていた彼女にとっては、不満を抱くのも当然だろう。
「もしかしたら、私はとんでもない曲者を拾ってきたのかもしれないわね」
ぽつりと呟いて、レミリアは再び美鈴に目を向けた。
「ねえ。どうでもいい質問だけど、もし私が本当に卓郎を殺してしまっていたら、あなたはどうしていたのかしら」
「私の知っているお嬢様は、その程度で簡単に人を殺したりしませんよ」
その答えに、ふっとレミリアは微笑む。
「なるほどね」
ようやく呼吸が落ち着いてきた卓郎に、レミリアは体を向けて言った。
「いいわ。ちょうど妖精メイドも少なくなっているところだったし、今回はその覚悟に免じて、あなたの主張を認めてあげるわ。ここで働いてもいいわよ」
この瞬間を待ち望んでいた卓郎は、即座に頭を下げる。
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、その上で問うけど――」
ここでレミリアは目を細める。
「もし、私がここで『今すぐ死ね』と命令したら、あなたは今ここで死ねるかしら?」
あまりの問いに、卓郎は体を硬直させる。
レミリアは首を横に振った。
「冗談よ。そこまでの覚悟は求めてないわ。死んだら何の意味もないしね。ただ、偉大なるスカーレット家のもとで働くことになった以上、死ぬまでここにいるくらいの覚悟で望んで欲しいけどね。まあ、心がけはそれくらいにしといて、これからのことを言うわ」
レミリアは腕を組む。
「卓郎、あなたは明日から館の『使用人』として働きなさい。いくら下等とはいえ、ただの人間に妖精と同じ仕事をやらせるのは少々もったいない気がするからね」
「使用人、ですか?」
「館にいる妖精メイドを統括する立場のことよ」
これには卓郎だけでなく、横にいるユキも驚きの顔を浮かべた。
「館の妖精メイドを、僕がですか?」
「そうよ。そしてこれが一番重要なことだけど、一ヶ月以内に館の妖精メイドから信頼を得られなかった場合は、あなたを紅魔館から追い出すからね」
「ええっ。追い出すんですか?」
思わず声を張って返す卓郎に、レミリアは挑発的な視線を向ける。
「あら。あなたはさっき、私の命令なら何でも聞くって言ったじゃない。それに全ての妖精メイドを引っぱっていく立場に就くんだから、彼女たちとの信頼関係を早急に築くのは当然のことじゃない。何かおかしなこと言ったかしら」
「い、いえ……」
押し黙る卓郎を横目に、レミリアはユキに命令した。
「ユキ。あなたは今日から彼を助ける立場に回りなさい。あなたは確かに知能が優れているけど、それにも限界があるわ。最初は館のことを彼に教えるだろうけど、慣れてきたら彼の仕事を助ける立場に切り替えなさい。その瞬間は自分で決めるのよ」
「は、はい!」
ユキの答えを聞いてレミリアは頷き、出口へと体を動かす。
「あ、そうそう」
扉に手を掛けた時、思い出したように彼女は口を開いた。
「勘違いしないで欲しいけど、まだあなたを正式に使用人として認めたわけじゃないからね。強引に紅魔館に入ったんだから、それ相応の結果を出さないと私たちも納得できないのよ。特にパチェは、明らかに納得してない様子だったしね。紅魔館の一員として認められたいのなら、それこそ死ぬ気で頑張りなさい。じゃあ、一ヶ月後に期待してるわよ」
レミリアが部屋を出た直後、室内にいた三人は一斉に息を吐いた。
「一時は、本当にどうなるかと思いましたよ」
美鈴が胸を撫でおろす。
「これも美鈴さんのおかげです。ありがとうございます」
「いえいえ。感謝されるほどのことはしてませんって」
それから美鈴は「では、頑張ってくださいね」と言い残して、部屋を出て行った。
本人は謙遜していたが、今回のことは間違いなく美鈴がいなければ成立していなかっただろう。彼女のためにも頑張ろうと思った。
そして卓郎は、まだ状況を完全に把握してない様子のユキに頭を下げた。
「――というわけで、今後ともよろしくお願いします」
「え、あっ、ええと……」
「うん?」
「私より卓郎さんの方が立場が上なので、そんな丁寧に話さなくていいと思います」
「ああ、そうだね。じゃあ、よろしく頼むよ。ユキ」
ユキはにっこりと笑って、丁寧にお辞儀をする。
「はい。お嬢様に認められるため、お互い頑張っていきましょう」
※
それから、あっという間に夜を迎えてしまった。
この日はユキに案内されながら、紅魔館を巡ることに費やされた。
この一週間の間に館中をぐるぐる歩き回ってきた卓郎だが、それでも初めて通る場所もかなりあり、改めて彼は館の広大さを思い知らされた。
妖精メイドへの挨拶は明日の朝食時にすることにして、今日の仕事は終わった。
部屋に戻った卓郎は水を一杯飲み、そのままベッドに横になる。
引き続き、部屋は今まで使っていた所を使用するということになった。最初は慣れなかったベッドや紅色に染まった壁は、今やほとんど抵抗がなくなっていた。
明日から、いよいよ本格的な使用人としての仕事が始まる。
いろいろと考えた挙げ句の選択肢なので、後悔はない。
ただ、使用人として働くことへの不安は指の数では足りないくらいあった。
しばらくウトウトとしていたが、なかなか寝付けなかったので、水を飲もうと卓郎はベッドから出る。
だが、テーブルの水入れはすでに空っぽだった。
仕方ないなと思い、卓郎は水入れを持って部屋から出る。記憶が正しければ、食堂の方に水を補充できるところがあったはずだ。
廊下の照明は半分ほど消えており、残った燭台からはぼんやりと紅い光を放っている。その暗さと明るさの対比が、不気味な恐怖を感じさせた。
そういえば村にいた頃、こんな怪談話を近所の老婆から聞いた。
それは、とある村に存在している流血屋敷の話だった。
屋敷の中は、壁や家具といったあらゆる物が全て赤く染まっていた。その理由が、屋敷に住んでいる老婆がその近くを通りかかる人々を次々と殺害し、その血をどんどん壁や家具に塗りつけていったからである。いつしか、周囲の人々はそれを流血屋敷と名付けた。
その話を思い出し、卓郎は小さく体を震わせた。
こんなくだらない話を、どうしてこんな場所で思い出してしまったのだろう。
卓郎は、慎重な足取りで食堂に向かっていく。
衝撃的な光景を見たのは、その直後のことだった。
「はあっ……はあっ……」
荒い息と共にやってきたのは、血まみれになったレミリアの姿だった。
一瞬、本当に妖怪がやってきたと思った卓郎は「うわあっ!」と、その場で大声をあげて尻もちをついてしまう。
レミリアは卓郎の姿を確認すると、わずかに微笑んだ。
「あら、こんな遅い時間に何をやっているのかしら」
「み、水を取りに……」
「ああ、そういうことね」
だるそうな目つきが、彼の持つ水入れに留まる。
レミリアに付いている血は、主に上半身に集中していた。
胸元は大きな紅い斑点が出来上がっており、口元からは今もだらだらと血が流れている。
卓郎の反応を窺ってか、やや焦点の定まってない目でレミリアは微笑んだ。
「あら。そんなに震えなくてもいいじゃない」
「で、でも、血が……」
「ああ。これは私の血じゃないから安心しなさい」
「じゃ、じゃあ、その血は?」
その問いに対し、レミリアは不気味な笑みを浮かべる。
「仮によ。もし、今日あなたが『紅魔館に残る』という選択肢をしていたら、この血はあなたの血だったかもしれないわね。それじゃあ、お休みなさい」
体に重りでも付いているような動作で、レミリアはゆっくりと横を通り過ぎていった。
彼女が去った後も、卓郎はしばらくそこから動けなかった。
一瞬、これは幻覚なんだと思いたくなったが、床に滴り落ちている血がそれを否定させる。しかも、それがレミリアの血ではないとすると――。それ以上は、卓郎も考えたくなかった。
彼女は人間でも妖怪でもない。吸血鬼なのだ。
もちろん、その割に優しい一面があることも卓郎は知っている。
だが、彼女が強大な力を持っている事実に変わりはない。彼の命はレミリアに握られているといっても同然なのだ。
その吸血鬼が住んでいる館で、自分は過ごさなければならないのだ。
窓から見える月が、紅色になって映っているように見えた。