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幻想郷――人が棲み、妖が蠢き、魍魎が跋扈する、現世とは隔絶された世界。
その幻想郷を覆い隠すモノ――外の世界との出入りをほぼ不可能としている結界、『博麗大結界』を代々管理する博麗の巫女には、奇妙な噂があった。
――――四代目の事を誰一人憶えていない。
現代博麗の巫女『五代目』、博麗霊夢。
彼女の動向を記していた九代目阿礼乙女が、過去の幻想郷縁起を編纂していた際に発見したこの事実は、一介の流言として人里で囁かれていた。
とは言っても、噂は噂。せいぜい井戸端会議の種程度、回覧板はおろかゴシップ好きな天狗の新聞にすらあまり載らないような話にとどまった。
――そう、彼女は居た。
たしかに存在していたのだ。だというのに、顔はおろか名前すら誰一人として思い出せない。
侮蔑され忌憚されるような人間でもなかった。むしろ人々からの信頼も厚く、力強き者たちはこぞって巫女を好いていた。
だというのに、憶えていない。
拳を交えた者も、酒を交わした者も、親密な関係であった筈の者でさえも何一つ思い出せない。
まるで、一つだけピースが欠けたパズルのようだ。
足りない。何が足りないのかすら解らないのに、それがないとひどく不十分な気がする。
そのむず痒さを、数名の人と妖が抱えていたのだ。
だが、時の流れは惨酷だ。
ゆるゆると流れ行く時間と共に、彼らはいつしかその違和感すらも忘却していく。
足りなかった箇所を空想とこじつけで埋め合わせて、新たな記憶を注いでいくのだ。
………これは、そんな感覚がとっくに忘れ去られた頃に始まる奇譚。
◇
満月が幻想郷を照らし上げる。
雲一つない宵闇の空には、満天の星空が広がる。星たちが好き勝手に煌々と輝いて、美しき……それこそ幻想的な景色を彩っていた。
そんな夜空を見上げる者がひとり。
「………こうやって貴方達と空を見上げるのは、もう何度目かしらね」
と、少女は問いかけた。そして、答えが返ってくるより前にまた口を開いた。
「あぁ、そういえば最近、人里に新しい住人が増えたらしいわよ? 一度見たけど、えらく華奢でね。大方、男とは思えなかったわ」
ふふ、と微笑む姿は見かけの歳に似合わぬほど大人びていた。それでも、声音や抑揚は近しい者と喋る少女のようで。
少女は更に言葉を紡ぐ。
「その子、花火屋の所に居候するらしいわよ。あそこ、人手がないって嘆いてたのに一気に大喜びしてたわ。雀みたいに踊っちゃって……面白かったわよアレは。あぁ、あとね………」
少女は楽しそうに近況を語った。
家族の事、知り合いの事、人間の事、妖怪の事………友人と語らうように、饒舌に、感情のままに話していた。楽しい事も、面倒な事も、悩み事も、全て。
月が西へと傾いてきた頃、話題は季節になっていた。
「そうそう、もう桜が散り始めたわ。ここは一段と散るのが早かったけど、あとちょっとで神社での花見も出来なくなるわね……ちょっと名残惜しいわ」
と、己の頭上を見上げる。そこには、わずかな緑を纏う桜木があった。少女は、桜の根元に座っていたのだ。
不意に、少女は瞼を閉じた。
「そう、よね。いつも、いつでも季節は廻り続けるのね」
何かを思い出し、噛み締めるように。
少女は視線を己の膝に落とした。
「もう、貴方達は居ないのに」
真新しい桜の葉が風に吹かれて落ちた。少女と並び座る、三つの丸石の真ん中に。
「………また来るわ。近い内に、ね」
少女は立ち上がり、空を見上げた。
相も変わらず、憎い程に美しい夜空だ。そう、あの日も――
「また、お酒でも呑み交わしましょう」
声と気配の残滓だけを残して、少女は忽然と消えていた。
――あの日も、こんな綺麗な夜だった。
貴方達が、消えてしまった悪夢の夜は。