雲一つ存在しない蒼穹には、憎らしい程見事な天道が燦然と輝いていた。
粘つく様な不快な熱気が、この只でさえ雑踏の体温で気温の高まっている往来に、更なる熱暑を齎している。つい一週間ほど前までは梅雨だったので、あの不快な湿気と暑気を思えば、まだ真面に思えるが。こういう干からびそうな暑気の方が、まだ不快感は少ない分余程良い。
「暑……」
今日も今日とて『人里』は賑やかだ。
そこら中に建てられた長屋に混じり、多種多様の店が立ち並んでいる。建物の間には老若男女問わず、多くの人々が出歩いていた。子供の燥ぐ声、老人同士での縁台将棋、店先で客を呼び込まんとする店主、扇で扇ぎ合いながら並び歩く男女。その悉くが明朗な笑顔を浮かべ、雑踏と化している。まだ初夏だというのに、厭な気分だった。ここ最近は、僕の心境とは正反対の気候が続いているのだから。晴れやかな気分の際に雨が降れば、その気分も些か落ち込むというものだろう。
逆もまた然り、暗鬱な気分の中で斯様な快晴に見舞われた所で寧ろ、お天道様はお気楽そうで羨ましい、などと馬鹿げた八つ当たりをしたくなるだけだ。増して、たった今一仕事終えた後の僕としては、いっそ雨でも降って欲しいと切に思う。いや、いっそこの世が天道に呑まれて消えるのも良い。中心に至っては絶対温度にして1500万度にも及ぶ、莫大かつ巨大な熱量の塊なのだ。熱いなどと感じる事もなく、焼滅出来るかもしれない。が、そんな天変地異は、如何にこの『幻想郷』と雖も起こり得ないのだろう。
「……また、違った」
そうして暗い思考を続けていると、先程の仕事の内容にまでケチをつけてしまうが、それ以上はどうにか抑える。何処で誰が聞いているかなど分からないものだし、何よりこれも歴とした収入源。命を懸けているとは言え、これが一つの商売である以上、文句など口走らず心に留めておくべきだろう。命を金で買う、という表現も過言ではないのだ。それ相応の報酬がある、それ故仕方ない。抑、金などは本来二の次三の次。本来なら無報酬での慈善活動としても、勤しむ事に何ら不満の無い事である。ただそれでも、目的をいつまで経っても果たせなくては、今から貰うであろうそれなりの金も、然したる意味を持たないのだが。
と、そこまで考えた時、地面を踏み締める足に力がかかってしまうのを自覚した。苛立ちが募っているのか、はたまた別の要因か。何れにせよそうして歩いていては、他者に威圧感を与えかねない。いや、与える事自体にはよもや抵抗など無い。与えたとて、与えずとも、それらの齎す他者の心証はほぼ同じだ。だが、それによって今後の行動が妨げられるのだけは、断固として許せない。それに、そうして迷惑を掛けるのは、もう懲り懲りなのだ。それらを危惧して足の力を抜くと、人々の合間を縫って僕は所定の場所へと向かった。力を抜いた筈なのに、己の足の重みはまるで変わらないように感じた。いつもの事である。
ーーーーーーー
「有難うなぁ、弥太郎。お陰で暫くは、薬草取るのに不自由無さそうだ」
甘味処の店先に並んだ縁台に腰掛け、野垂傘の影で涼みつつ、対面して座る依頼者の老爺から金を手渡される。奢ってもらうという形で頼んだ冷茶は、どうにもこんな熱暑の中に包まれた日でさえ、余り美味いとは感じられない。前に座る老爺は、飽くまで仏頂面を崩さない僕とは違い、穏和な面持ちで茶を啜っている。この人ももう、齢七十を優に越しているだろう。それでありながら、僕にこうして妖怪退治を依頼し、その妖怪という危機の去った森林へ赴き、薬草を調合して薬を作っているのだ。よくやる、と思う。何に対してかと言えば、色々。その年でよくもまぁそう活発でいられる、という思いもあれば、どうせ人などたかだか数十年で死に行くというのに、という思いもある。
強い思いと言えば後者だ。この老人も、今こそこうして働いてはいるが、どうせ数年経てば呆気なく死ぬ。そう、死ぬのだ。人間なんて、本人達が思ってるよりも存外呆気無く死んで行く。
「いえ……礼には、及びません」
この時ばかりは、思った事がそのまま口に出せた。そう、全くもって礼には及ばない。殊更必要でもない命など、懸けたところでどれだけの価値がある事やら。命を懸けて事に臨むというのは、その命にどれだけの価値があるか、或いは自分の命にどれ程の価値を付けているか。それによって重みが変わると僕は考えている。
例えば、この幻想郷を管理する大妖怪『八雲紫』が命を懸けるのと、僕が命を懸けるのと。重みがあるのは、誰がどう考えても前者である。例えば、明日を生きたいと只管強く願う人間と、明日は必要ではないと思う僕。懸けた命が重く感じるのは、誰であろうと前者に感じる。大事にされるべき命は、生きる意志のある、自他共に価値を見出す事の出来た、健全な命だ。だから、僕が命を懸けた所で、とても今老爺が差し出した額程の値打ちがあるとは思えなかった。僕の無骨な掌には、報酬の全額入った布袋。その重みが、暗に金額の多寡を物語る。
「それなら、一月は食っていけるだろう。大変だろうが、頑張るんだぞ」
「……有難う、御座います」
頑張るんだぞ、と来た。多少形は違えども、いつしか僕に向けられなくなったものであれども、よく聞く定型語句だ。頑張れ、頑張って、頑張ろう。今までその耳障りな言葉に、どれだけ苛立ちを募らせたろう。苛立ちを感じる事さえ億劫になったのも、もう大分前だった気がする。僕の事をよく知る人物であれば(尤もそんな人物はほぼいないが)、そう言ってくれるのも吝ではない。しかし、当人の事情さえ詳らかでない輩がそれを口にするとなると、反吐が出そうだった。今だってそうだ。
この一見人の良さそうな老爺は、僕を憐れんで、
僕は、他者が同じ苦しみを抱えていて、そしてそれを経て自らの苦しみを心底理解してくれて、そして涙ながらにその辛苦を語り合いたい。三日三晩語り合い、苦しみを分かち合い――叶うなら、共にその苦難を乗り越えたい。そこまでは無理にしても、詰まる所僕が所望するのは傷の舐め合いだ。傍から見れば、滑稽だと思われる事だろう。僕だって一昔前なら、傷の舐め合いなど癒しにはならない、と述べていたかもしれない。だがそれは違う。僕は、同じ傷を持つ人物にしか、この胸の内を開かせる気がしないから。押し留めてきたこの感情が、同じような誰かに打ち明けられるなら。それだけで、今よりは余程救われた気分になるかもしれない。それともこれは、只僕の考えが可笑しいだけなのか。
「っ……」
「だ、大丈夫か?弥太郎」
どうもそんな事を考えていると、意識が僅かに遠退いた。この熱暑が一因だろうか。
目元を抑えてふらついた僕に、老爺は困惑した面持ちで僕の安全を問う。無意味で終わりのない思考を巡らすなど、我ながら馬鹿げている。いつもならある程度は思考を放棄する事も出来なくはないが、こうして妖怪退治があった日は、まだまだ今のような阿呆らしい思考に意識を委ねてしまう。
僕に触れようとした老爺の骨ばった細い手を躱して、姿勢を戻す。まだ少し意識が朧げな感覚は有るが、これからの行動に支障を来すほどでもない。
「いえ……大丈夫、です。もう、お暇します、ので……」
「お、おぉ、そうか」
このままいる意味もないので、そろそろ、この場に留まるのは止める事にした。
それにこれ以上、生半可な同情を受けたくはない。同情するぐらいならするなよ。それなら何も思いやしないで済むというのに。そんな憎悪めいた憤怒を表情に出さないよう、いつも通りの仏頂面を維持しつつ、僕は縁台から腰を上げた。どうせこの憤慨も、直ぐに消え去ってしまう。消えない炎は、既にこの心の中で燃え盛っているから。矮小な小火は強大な業火に呑まれて消える。だから僕は幸か不幸か、根に持つような事は今迄無かった。何れにせよもうじき昼になるので、用事が、逃げる口実ができた。草木を掻き分けるように、足早に雑踏の中を進んだ。
「身体に気を付けてな」
背後から微かに聞こえた声に、僕は確実に聞こえない程度の距離で、鼻を鳴らして返答した。我ながら途轍もない糞野郎だとは思う。弥太郎どころか、これでは本当に与太郎だ。
ーーーーーー
汗の滲む額を、手拭いで拭く。こういった熱暑の元下手に水分を摂ると、寧ろ体調を崩す上、何より業務を中断するのも面倒なので、今日一日はまだ水分を口にしていない。老爺との別離から既に四時間程経っているだけあり、あの不快な熱暑も少しはマシになった。もう夕暮れ時なのだから、それも当然。それに、流石に白昼を過ぎれば多少なりとも人の往来は少なくなる。人が多いのは、色々な理由があるが、取り敢えず嫌だ。人が幸せそうに笑っているのが、楽しそうに話しているのが、筆舌に尽くしがたい感情を齎してしまうから。
「……ふぅ」
暗鬱な思いを抱きつつも、この手に持った剪定ばさみは、支柱に絡みつくようになっている胡瓜を、使用者の心境を無視して淡々と収穫して行く。妖怪退治の次に耕作など面倒極まりないが、主な収入源がこちらなだけに、疎かにはできない。妖怪退治を金の目的でせずに住むのは、偏にこの耕作のお陰であるのだから。より細かく言えば、収入源とは言っても此処で作った作物を、僕が売るのではない。此処はただの他人の畑であり、僕はそれの手伝いをして、その俸給をもらっているだけだ。
気分だけで言えば、妖怪退治よりも此方を先に済まして、その後に退治に出たい。嫌な事は先に済ませて、常に余裕を持っていたい。今までは退治以外でも、そういう思考だった。が、それではいざ戦闘になった時、調子に響いてしまう。死ぬ事は別段恐ろしくない。殊更生きたいと思う訳ではない。だが、生きる目的がない訳でもない。たった一つ、その為だけに僕は今も、醜く生き長らえている。なまじっか霊力と悪運と特技があるだけに、死のうと思わない限りは生きられている。外の世界とは違って、此処は武力だけでも生きようと思えば生きられるから。自分でも、無意味で無価値な人生と笑えてくるものだ。悲愴も、後悔も今や無い。あるのは虚無感だけ。
「……あ」
そんな無駄な思考を巡らせていると、目の前でバツン、と質量ある物を切った音がする。
ふと其方に意識を傾けると、どうやら手元が狂って胡瓜自体を切ってしまったようだった。途中で手応えが変わったのには気付いていたが、漫然と作業していただけに咄嗟に手を止められなかった。止めればどうにかなったかと言われれば、そうではないのだが。大した損壊ではない。18糎程の身の上部3糎程が、すっぱりと断面を晒しているのみ。
なのだが、これを誤魔化す訳にもいかない。誤魔化せない事はない。寧ろ、籠一杯に詰め込まれた内の一本程度は、これを抜いても気付かれはしないだろう。それでも、仕事である。労働の対価として相応の金額を貰っているからには、そんな真似など出来よう筈もない。僕は屑の与太郎だが、せめてその位は真人間らしくありたい。それが結局は、自分を完璧な糞野郎だと思いたくないが為の保身であっても。
「……っしょ」
一息吐くとともに、背負い籠を背に載せるようにして負う。流石にこれだけの収穫量となると重みで肩が痛むが、今はそれ以上に心が重い。なぜかと言えば、収穫し終えたこの多量の胡瓜を、畑の主人、もとい雇い主へ渡さねばならないから。幾ら一本といえど、商品を売れない代物に変えてしまった事に変わりはない。と言うより、本数など関係無い。しでかした事は規模関係無く、罰がなければならない。最初の頃は兎も角、最近はこんな事は無かったのに。
これも、あの老爺との短い会話の影響だろうか。只でさえ深淵に沈んでいるような心が、尚の事沈み行く。まぁ、自業自得だ。この世の全ての不利益は、当人の能力不足であるという。少なくとも僕はそうだ。能力不足でもあるし、拡大解釈すれば自分のせいという事。自業自得という言葉なら、とうの昔に痛感している。歩みを進める足が重いのは、果たして籠に入った胡瓜のせいか。
「おっ、終わったか桐竹の。相変わらず力自慢じゃねぇか」
「いえ……そんな」
すると、歩み寄る僕の姿を目視した雇い主の親父さんが、豪快な笑み交じりにそう言った。
この親父さんは、余り得意ではない。悪い人ではない事くらいわかる。分かるのだが、いかんせん相性が良くないのだ。僕は陰陽で言う所の陰であって、それはもう間違いない。だがこの人は、陰陽で言う所の陽だ。詰まり、正反対なのだ。誰がどう見ても正反対だろう。その証拠なら、直ぐに提示できる。こうして、先程間違えて台無しにしてしまった胡瓜を差し出す。
「あの、実は……一本、手元が狂ってしまい……」
声色は、敢えて平時と変わらないようにしている。内心こんな小賢しい事を考えておきながら、表目上誠に申し訳ないように振る舞うなど、客観視してみても糞野郎だ。だから、小細工は抜き。
多少吃ってはしまうが、まぁこれはいつもの事だ。故に口振りもまた平時と変わらないと言える。
さて、それに対する親父さんの反応は――
「ん?あぁ、高々一本くれぇ気にすんな。なんならそれ、お前にくれてやるよ」
――これだ。嗚呼、本当に正反対だ。僕ならきっと、金を請求した挙句、物によってはねちっこく責め立てるかもしれない。それがこの対応だ。自分の大事な大事な、手間暇かけて育てた商品を、小賢しい糞餓鬼に台無しにされて、そして笑って許した。本当に、どれだけ僕と違うかがこれだけでも如実に分かる。
「……申し訳ありません」
「いいって事よ。一本程度、あってもなくてもそう変わらねぇさ」
そう。こういう人なんだ。だけど、この人に限った事ではない。実際、こういう器の広い、と言うべき人は他にも多くいる。ただ僕が人と関わっていないだけで、他者と他社でのこういう場面は幾度と無く見かけた事がある。こういう、中途半端に僕の事を理解した風な事を言わない人は、僕にとっても助かる。僕だって、無闇矢鱈に人を憎みたいなんて思っちゃいない。でも、やっぱりこういう人は苦手だ。嫌いじゃないけど、得意じゃない。
「……有難う、御座います」
その眩耀に、心が痛む。
ーーーーーーー
「……疲れた、な」
というように、このような日程で普段僕は生活している。実を言うと、妖怪退治の方は久方振りだったのだが。何せ、報酬額が額である。僕の設けた料金は、里の同業者達の中では安い方だが、それでもこんな頼りない子供では、頼もうと思う者は少なかろう。その位は自分でも分かる。
ただそれでも、稀に頼んでくる人もいる。そういう人々は、大抵子供が妖怪退治など出来るのかと素見に来るものだ。そういう質の悪い依頼者様には、漏れなく証として妖怪の耳や鼻を持ってきてやったが。するとそれはそれで、今度は狂人のように思われて避けられる。本当に、困った輩だ。
尤も最近はそういった者も減って、あの老爺のように通常の依頼をするだけの人々しかいないが。
一応こんな頼りないナリでも稀ながら依頼があるという事は、それなりに実力は評価して貰っているのだろう。とは言え、寧ろそれ位でなければ自分が許せない。
「……腹、減ってきたな」
ふと、胸中に生じた思いをしみじみと口にする。今や黄昏時、真昼は多かった人々も、今ではやや疎らだ。これなら、店の席に困る事も無い。折角報酬も譲り受けた事だから、今日位は屋台なり店で済ます事に決めた。と言うより、なんだかんだ体力を考えると、自炊は辛いのだ。だから僕は、少なくとも週に一度は、何処かの店なりで食事を済ます事にしている。
「……蕎麦にするか」
丁度この前、現在地の近くで蕎麦屋を見掛けた事があった。店の中の人もそれなりに多かった事を考えると、外れということもなかろう。其処を目的地と定めて早々に向かおうとして、ふと長屋で仕切られた道の先に顔を覗かせた、不気味な程綺麗な夕焼けに目がいった。否、その手前にいた人物に。
夕焼けを背に、仲睦まじく連なり歩く、子供を連れた父母であろう男女。こんな光景を見るのも思えば、自分があの子供の一つ二つ上程度の時だっものだから、久々と言える。だが、妙だ。何だかそれを見ていると、妙な気分になる。蕎麦屋ももうじき閉まってしまう時間だと、そう理解している筈なのだが。何故かこの身体は、去り行く事を嫌う。
「…………」
子供が父の肩に乗って、短い髪を無造作に弄っていた。肩車というやつだ。その子供の表情は、酷く愉しげ。良くも悪くも、この世の事を未だ何も知らないのだろう。自分にも、あんな頃があったのだ。見た限りでは、その子供は齢七程に見える。そんな子供を乗せて、夕焼けにも劣らぬ明るい笑みを浮かべる父親もまた、そう齢を重ねていないだろう。それを傍から見て柔和な笑みを溢す母親もまた然り。子供の純粋無垢な微笑みを見ていると、胸騒ぎがする。子供の頃は、何も知らないものだ。知らないという事もあるし、知りたくないという事もあるし、知らないようにしているのかもしれない。僕は夕焼けに対面するように佇んでいる。
「…………」
此方へと歩みを進めている。このとき僕は何故か、動く事ができなかった。呼吸さえもままならなかった。息が荒くなって、肺が苦しくなって、正常な呼吸が出来ない。彼等は着々と僕に近付く。
僕は動けない。足が竦んで、いや震えて、歯がカチカチと警鐘のように音を鳴らしている。
ああ、もうじき僕の隣を通る。僕はそんな彼等に視線だけ取られて、それ以外にこの体が自由に動く事は無い。何で動かないのか分からない。わからないが、動きたいという思いもあれば、若しかしたら心の何処かで動きたくない、とも思っていたのかもしれない。ああ、ほら、今。今僕の横を通り抜けて――
「父さん、母さん、僕は――」
その声は、子供の容姿には似つかわしくない、変声を終えたもの。それに、震えているようにも聞こえる。へぇ、妙な声してるな。と思うも束の間、横を通り掛かろうとしていた家族の視線が、一斉に僕へ注がれているのに遅れて気が付いた。もしかしなくても、先程から凝視していたからだろう。嗚呼、何でこうなるんだろう。
「……あの、何か?」
「……へ?」
その言葉を口走ったのは、僕ではない。母親が僕にそう声を掛けたのだ。しかし何か、とは何だろう。呆気にとられてふと視線を逸らすと、子供と父親までもが似た顔をしていた。疑問を抱いているらしかった。が、それが何故かは分からない。
「お兄さん、何で泣いてるのー?」
「は?」
すると、子供が僕の方を指差してそう宣った。人に指をさすのは良い事とは言えないが、まぁ子供だから仕方ない。所で、泣いてるって何だ。いや先ず、お兄さんって誰だろう。いや、ここにそう呼ばれるべき存在は僕しかいないとは思う。まだ背丈なり体格以外、顔は年齢より幾つか下に見られる事さえあるが、まぁこの子供からすれば、十五歳が幾つか変わって見えたとてお兄さんには変わりないのだろう。けど、泣いてるっていうのは可笑しくないか。一体どうして、こんな何も無い時に泣かなきゃ――
「――あれ?」
突然、視界が滲んだ。いや、潤った。まるで空間自体が歪んだかのように。家族達の不思議そうな顔が、歪む。目頭が熱い。やや滲みるような痛みを覚える。なんだか、妙な感じだ。まるで目から水が湧き出ているような、奇妙で気色の悪い。この人体が齎す現象。これは――
「……っ」
僕は無意識の内に走り出していた。行動に移ろうという思いさえ無く。後ろから何か声が聞こえたが、そんな事どうだって良い。兎に角、一刻も早くその場から逃げ出したかった。一刻でも長く、その場にいたくはなかった。唐突に潤んだ目が、走りその身に受ける風で乾いていく感覚。だがそれと同じく、乾くのと同等の速度で、再び目が潤んで行く。何だかもう、訳が分からなかった。取り敢えず、ジッとしていられなかった。兎に角激しく動かないと、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうな気がしたのだ。震える脚で、この身体を支えられる気がしなかったのだ。
「……ぅ」
情けない声が聞こえた。誰だろうか。
ーーーーーー
「……っは……はぁ……」
本当に反吐が出そうだ。走りすぎたか、もう見慣れない景色も、見たくない景色もそこには無かった。あるのは、見慣れた景色のみ。いつしか目は乾いていて、身体が呪縛を逃れたように自由に動くようになっている。全くもって、自分がこうも奇異な人物だとは思わなかった。もう長くこんな事は無かったと言うのに、なぜ今になってこんな事が起こるのか。そろそろ僕もなのだろうか。それとも病か。まぁ、如何でもいい。心身共に平時に戻ったら、今度は尚更腹が空いて――
「……こない、な」
不思議と、今まであった食欲は失せていた。ならば、態々食事に徹する必要も無い。
今はそれよりも、この胸中に生まれた不快感が問題だ。先程から、具体的にはあの家族を見た時から感じていた、胸の中で渦巻くような黒い靄。吐きそうになったのは、これのせいでもあるのかもしれない。蟹足腫でも出来そうな煮え滾る溶岩が如き熱、それが気を抜けば喉を這い上がってきそうで、
気分が悪い。最悪の気分といってもいい。
「……帰ろう」
しからば、外にいる必要も無かろう。何だか今日は、疲弊の連続だった。兎に角今は帰って寝たい。
鉛のように瞼も体も重く感じて、帰路につくのも億劫だが。帰った所で、きっとこの心が癒される事は無い。それでも、この夕焼けを見るのがどうしようもなく嫌なのだ。善は急げと言う。収まることを知らない不快感に身を屈めつつ、重い足を一歩踏み出す。この調子では、帰る頃には暗夜だろう。
本当に、今日は疲れた。碌なことも無い。厭な一日だった。それなら、いつもは厭な気分なんてまるで無いかというと、全くそんな事は無いけれど。
「――私を置いていかないで、と。かつてそう言った孤独な少女」
刹那、僕の身体が、石にでもなったかのようにぴたりと静止した。何故か。
原因くらいはわかる。たった今僕の耳朶を打った、この玲瓏だ。酷く小さくて、それこそこうして僕と数名の人間しかいないこの隘路でなければ、きっと僕の耳には届かなかっただろう。それ程に小さくて、消え入りそうな音。玲瓏など過言であろうと、或いは嘲り笑う者もいるかもしれない。しかしそれをそう形容せずして、どうしろと言うのか。嗚呼、僕の体。疲れたのは分かってる。だけど、帰るのは少し待ってくれ。今だけは、此処を去ってはならない気がしたから。
「今……どこから」
今までの疲弊など何処へやら、未だ胸の靄は消えずとも格段に軽くなった身体が、今度はその声の発生源を突き止めんと躍起になりだした。周囲に見えるものは、長屋と少数の食事処程度だ。
人里と一口に言っても、その範囲は決して狭いと言えるものではない。寧ろ、自分の足で端から端まで渡るとすれば、きっと僕でも途中で諦める程。それだけ広いからには、僕も行ったことのない場所の一つや二つはある。第一僕は活動範囲が非常に限定的なので、知らない場所は本当に知らないのだ。要するに、この場所も見たことが無い、という事。
「どこだ……どこだ……」
下手をすれば、迷ってしまうかもしれない。一応帰ろうと思えば、人里である限り何処からでも帰れる。しかし、迷ってしまうと帰るまでの時間が大幅に増す。それに今でこそ軽くはなったが、未だ不調のこの身体で帰宅に時間がかかると、明日の仕事に影響が出かねない。そう、だから今は、一刻も早く帰って休むべきなのだ。それを心底理解している筈なのだ。なのに、何故か。声の源を探し出さんと、不調など感じさせないように身体が一人でに動いている。傍目から見れば、と言うだけで、当の本人たる僕には一層疲労が蓄積されているのに。
「――僕を見て、と。かつてそう言った孤独な少年」
また、聞こえた。今度は聴覚を研ぎ澄ましていただけに、大まかな方向は容易く分かる。
そして僕の身体は、僕の意思を一切合切無視して、痛む身体に鞭打ち走り出した。戦う事以外にここまで本気で走るのも、思えば懐かしい。身体とは違って、思考はそんな呑気な事を考えている。
如何に今の僕の心身が滅茶苦茶な状態か、それだけでもよく分かる。周囲の流れていく景色に一瞥する事もなく、目に飛び込む風を気にせず割いて走った。距離にすれば、ほんの50米程度のものだったから、僕の全力疾走も相俟って、其処にはいつしか辿り着いていた。最後の長屋の角を曲がった時に、その発生源たる場所が僕の視界に飛び込む。
「……あ」
先ず目に入ったのは、その場所。いつだったか忘れたが、そう言えば里の何処かに、人形遣いがよく人形劇を開くという場所があると聞いた事があった。曰く、里を覆うように設けられた塀と、長屋や商家などの建物によって丁度良く区切られた、真四角の地形の開けた場所だと。確かに、真四角だ。
入り口は、今しがた僕が走って来た方向に続く長屋と、その10米程先の向かいにある商家に挟まれた箇所のみ。里の周囲に乱立した樹木などの関係で、稀にこういった変に出張った形の塀があるらしいが、それを人形劇の開催地として利用するとは、上手いことを考えたものだ。
それはさておき、10米四方の元来は地面しか存在し得ないその広場。中央には、僕よりも幾らか幼い子供達が集い、その悉くが一つの場所へ視線を向けているのが分かった。何を見ているのかと僕も追従するが如く、子供達の僅か2米程先に佇むその人へ目を向け凝らす。
「――二人は似通った過去を持ちながら、互いに違う道を歩んだ者」
息が止まった。一瞬、今までの運動とは無関係に、息が詰まったのだ。何故かは分からない。
だがそれには、きっと今僕の目の先にいる人物に起因しているにではないかと、確信めいた推測が即座に浮かぶ。美しい少女だった。年齢は見た限り、僕と同程度だろう。短く切り揃えられた金色の髪が、動く度に風に揺さ振られ、ふわりと宙に舞う。夕日に照らされ煌く金髪は、純金宛らの光輝を放っていて、目が痛む程眩い。
「――大切な人がいなくなるのを恐れ、愛したい気持ちを抑えつけていました」
その顔立ちは、愛嬌があると言うよりも、美麗と言うべき端正なもの。
輪郭は適度な丸みを帯び、その身体との均整が取れた大きさ。小振りな鼻と口、けれどもその蒼穹が如き青の双眸だけは、とても円らで大きい。自分とは違う、西洋人である事を少年が察するのに時間はかからなかった。見事な仕上がりの青いワンピースは、彼女の動きと連動してゆらゆらりと宙を舞う。純白のケープが生温い風に揺れる度、白磁が如く白くか細い少女の腕が垣間見えた。
その時心臓が馬鹿に高鳴ったのが、或いは気のせいであったなら良いのに。
「――人に見捨てられるのを恐れ、愛されたい気持ちを抑えつけていました」
だが、次に別の場所へ視線を移した時には、胸を高鳴らせた感情も一時ながら消え去っていた。高鳴った鼓動は、更に活発になる。少女の前に置かれた、腰の位置程まである木製の壇上には、二つの人形。一つは、赤いリボンを腰まで伸びた金髪に付け、所謂ヴィクトリアンメイド型と呼ばれる、ロングドレスの仕事着に似た青い服を着た人形。もう一つは、その人形の服がそのまま赤くなった人形。
色合いだけで考えれば、赤い服の人形が彼女の言う役柄の所の『少女』であり、青い服の人形が『少年』だろうか。
その人形一つとっても、この人形劇は掛け値無しに、見るに値すると言える。人里ではあれ程精巧かつ秀逸な姿形の人形など、先ず存在しないのだから。その上、人形の背後には紙芝居などにも使われるような額に、これまた美しい情景が緻密に描かれており、それが背景となっているらしい。
その絵は、幾つもの星が瞬く夜空、そして一際目立つ巨大な満月であった。見ているだけで吸い込まれそうな月夜は、マックス・エルンストが手掛けた作品の一つを彷彿とさせる。
「――それでも二人はそうして共に歩み、いつしか互いの苦しみも辛さも理解し合えたのです」
しかし、それだけではない。
その白い両手を動かすと、木製の壇上に立っていた人形が、まるで意識を持っているかのように動いたのだ。左手の何れかの指を上に上げれば人形が左手を上げ、右手のいずれかの指を前に出すと人形の右足が前に出る。人間と変わらない程自然で、それでいて時には人形特有のぎこちない動き。人形には魂が宿っていた、と形容する事に何ら躊躇いを感じさせない。しかしそれ故、健全なる精神は健全なる肉体に宿る、という言葉を、少なくとも今ばかりは正しいのかと疑問に思ってしまった。肉体どころか、目の前で肉を持たない木の身体に、糸繰り人形にその魂が宿っているのだから。
「――次第に二人は惹かれ始めます。けれど、未だ癒え切らない心の傷が、二人の想いまでもを抑えつけようとしました」
その物語は、俗に言う恋物語というものだろう。少女が語ると同時に、『少年』と『少女』芽今まで隣り合って前に歩むように動いていたのが、背を向けあい佇んだ。その人形とは思えないような自然な動き故か、少女の引き込まれるような玲瓏たる語り口故か。その背には両者共々、仄暗く、陰鬱な空気さえも感じられる。まるで自分が実際にその物語を、現実で見ているかのように。
現実では、ただそんな素晴らしい人形劇を披露している少女を、僕は遠巻きに眺めているだけなのに。嗚呼、けれども、嫌にそれが似通っている気がするから、だから尚更そう感じてしまうのかもしれない。
「――はい、今日はもうお終い」
すると、その言葉と共に、今まで魂を宿していた人形達は、死神に魂を刈り取られたかのように動きを止めた。一瞬、何が起きたか分からなかった。あれだけ没入してしまうような空気から、急にこうもすっぱり中断されてしまうと、呆気に取られてしまうのも無理はないだろう。案の定と言うべきか、観衆の子供達は揃ってぶつくさ文句を言っているようだった。僕も正直な所、今ので終わりなのか、と呆然としてしまったものだ。だが流石に、あれだけの物を見せてくれた相手に文句など言えはしない。やれ良い所だったのにだの、やれ短いだの、やれもっとやってだの。僕が言うのもなんだが、子供というのはやはり嫌いだ。自分の事しか考えられない為に、人にかかる迷惑を考えられない。しかし少女の方はというと、まるでそれを意に介していないようだ。
「駄目よ。元々終わりだった所を、貴方達がもう少しって言ったんだから。もう陽が沈んで暗くなるから、今日の所は帰りなさい」
柔和な表情で、諭すようにそう宣う。彼女自身が人形のような端麗な容姿を持っているだけに、文句を言っていた子供達も圧されてしまっているらしい。と言うよりかは、少なくとも野郎共は、顔を赤らめて俯いている辺り、照れが生じているのだろう。あんな美術品とさえ見紛う程の容姿だ、それも無理はない。
「……わかった。じゃあ、次はいつやるの?」
「そうね……残念だけど、次はいつ出来るか、まだ分からないの」
その言葉そ聞くや否や、子供達は一層表情を陰らせた。確かにあんな所で終わったとあっては、気にかかるのも致し方無かろう。
――いや、違う。
気にするべきは。僕が今気にするべきはそこではないじゃないか。
不意に自らの脳裏に走った電流に、僕は思わず身体をびくりと跳ね上がらせた。今この瞬間まで眼前で、もとい自分に起こっていた出来事が、どれだけの事であるか。真面な思考を停止させていた頭が、錆を落としたように動き出す。
「……こんな気持ち、いつ振りだ」
その出来に、いつしか僕はあの少女が織り成す人形劇に見惚れていた。そう、見惚れていたのだ。
余りに素晴らしいものだから、僕はあの少女の人形劇をもう少しでも、見ていたいと思っていた。
そう、見ていたいと思っていたのだ。これがどういう事か。僕は、これがどれだけ貴重で、どれだけ大事な感情か、今になってやっとわかった。見惚れていたというのも、見ていたいと思ったのも、要はそれに興味を示したという事に他ならない。
「興味を抱くなんて、いつぶりだ」
そう、興味を抱いていたのだ。もう二度と、、他者や物に対する興味など持ちはしないと思っていた僕が。これがどれだけ驚くべき事かは、僕自身を除いて知り得る者はそういない。けれどもしそんな人物が、僕が他者に、物に興味を持てたのだと知ったら、嘸驚く事だろう。
「じゃあ仕方ないかぁ……それじゃあ、またね」
「えぇ、またね」
自分自身の感情に当惑していると、そんな子供達と少女の声が聞こえた。ふと顔を上げると、子供達は言いつけを守ったつもりか、入り口の真中で佇む僕の傍を走り去っていく。一瞬その視線が此方へ向けられたが、直様外されたのを直感した。その際巻き起こった小さな風は、僕の頬をやけに冷やす。冷やす。冷やす?
「あ、え?」
気にかかって、冷えたように感じた頬を、徐に手の甲で拭う。その意味が、それで分かった。
汗だ。今までは然して掻いていなかった筈の汗が、いつからか僕の頬に大粒となって流れていたようだった。だが、それは何故か。ただでさえ当惑しているというのに、またもや疑問ばかりが増える。
もはやこうも汗を掻くほど暑くはない筈だ。であれば、他に何の要因があるというのか。
「……さて、と」
すると、もはや誰一人観衆のいなくなった空き地の中央で、少女がその呟きと共に、人形や額を片付け始めているのが目に入る。それを僕は黙って見ている。嗚呼、でも、何で。何もせずに見ていると、何だか胸が騒めくのだ。頭がどうにかなりそうだった。今日は、いつもよりやけに濃密な日だったが故、もう帰ってしまいたいと思っていたのに。一人夕焼けを背にするあの少女を見ていると、どうしようもなく胸が痛むんだ。若しかして、これのせいなのか。気付けばまた、手足が小さく震えている。頭ん中が熱を帯びてきて、腹の中の熱いものが逆流してきそうで、胸が締め付けられるように痛んで、手足が痙攣したみたいに震えて。取り留めもない思考がぐるぐるぐるぐる巡り巡って、煩わしい事この上ない。冷静な判断力を取り戻したくとも、激動する心がそれを許さない。
「う……ぁ」
途方も無く情けない声が、僕の僅かに開いた口から微かに漏れる。もうじき、あの人形も額も片付け終えて、そしたらあの檀もそこいらに置くなりして、彼女もまた帰っていくのだろう。
嫌だ。理由も要因も何もかも分かりゃしない。でも、さっき彼女は、いつ劇が出来るか分からない、と言っていたんだ。どうせまた数ヶ月でもすれば、いつかは必ず再度やるに決まってる。
でも、何でか。動機が止まない。心臓が外にまで聞こえそうな位音を立てて鳴り響いてる。
今じゃなきゃ、ダメな気がする。今を逃したくはない、そんな強い思いが僕を此処に縛り付ける。
ああもう訳が分からない。なんだよこれ。何でかよく分からないけど、兎に角この場から去ろうとしても、自分の身体が許してくれないんだ。
「――あっ、あの!」
だから多分、こうして声を張り上げてしまったのも、僕の意思とは関係なく動いた身体のせいだ。
もう、何でだとかそういう下らない疑問などは、この際思考から取り除く事にした。でなければ精神衛生上、非常に宜しくない。しかし今のは、我ながらかなりの声量だったのではなかろうか。幸い周囲を歩く里人は見られないが、それでも僕の視線の先にいた彼女は、驚いた風な面持ちで此方を見ているのだから。いや、それも当然といえば当然の事で。見知らぬ赤の他人である男に突然大声で呼び掛けられれば、誰だって喫驚するだろう。いやしかし、男とは言えない程度にまだ子供っぽい容姿だとは我ながら思うし、そもそも僕が見据える彼女以外の人間に声をかけたという可能性だって無きにしも非ずというか――
「……えっと、何かしら?」
――嗚呼そうだ。何を言えばいいんだろう。
ついつい現実逃避に思考を委ねてしまったが、幸か不幸か、少女のその声で我に帰る事が出来た。
そう、今さっき僕が声をかけたのも、実際はこの口が勝手に動いて、身体が一人でに動いただけの事。それは真実に他ならず、決して他意など存在しないのだが、とてもそんな狂言を信じてくれるとは思えない。だが、真実以外に何を話せというのか。有りもしない嘘を吐こうにも、その嘘を考え付くのに必要な思考が、未だに纏まってはくれない。では、一体どうして彼女の問いに答えれば良いのか。君が何者か気になった、などと言った所でそう必死になる事か、と疑問に思われるだけ。君をずっと見ていた、などと言っては気色悪い人物だと思われてしまう。君の人形劇は素晴らしい、などと言っても実際来てからものの数分しか見ていないので襤褸が出る。ではどうすれば――
「そ……それ、僕に教えて下さい!」
――どうすれば自分を、自分の衝動を、抑え込む事が出来ただろう。