乱立した木々が、風に煽られ微かに揺れる光景が目に入った。空色は何時の間にか仄暗くなった黄金色を呈している。止む事も知らずに、風がやけに吹き荒ぶ。今も尚、渺、と枝葉や僕の視界の上端に映る艶の有る黒い髪を靡かせた。草木のざわめき、絶えない風音、靡く髪の立てる音。それらの雑音が耳朶を打ち続け、お世辞にも今この場は、居心地の良い場所であるとは言えない。
「――こ――の」
僕は何か、我ながら曖昧な、何者かへあてた呼び掛けらしき言葉を口にした。当然ではあるが放つ声よりも、雑音の方が遥かに大きい為に、宛ら大海に於ける粗製の小舟が如く、それは呆気なく呑み込まれて宙に消える。一応僕もそれなりに声を張り上げた筈だが、その小さな努力も虚しく。舞い散る落葉は何処か朧げで、僕はそれに意識を向けようとしても向けられなかった。向けようとさえ思えなかった。
「ど――に――」
再び、動かされていた口許から、高い声が発せられる。奇妙な感覚ではあったが、不思議と現状はその奇妙に殊更疑問を抱く事はなく、寧ろしっくり来た。常人が呼吸をする事を一々細かに気にしないように、当然の事に疑問を抱く事ができないように。僕は声が自分のものとは些か違うことに対し、然しこれといった疑念も何も無い。只、何故なのか。何故かこの場所、この空間には、厭な胸騒ぎを
覚えた。
「――こに――の」
咽喉の奥底から、赤熱した球状の鉄球が迫り上がって来たかと、そんな錯覚にさえ陥る。心の臓が祭り囃子の太鼓のように絶えず脈動していた。それ故に、僅かずつではあれど、呼吸が乱れかけている。それらが纏めて僕の矮躯を襲い、本当に熱い何かをぶち撒けさせられそうだ。肺が外部から規則的に圧迫されて、石でも詰め込まれたと言うのなら、現状の辛苦も納得出来るだろう。身体に加えて精神まで不調とあっては、流石に耐え難いものがある。
「ど――る――」
すると不意に、僕ならざる僕の呼び掛けに応じるように。周囲から、葉擦れとも風ともつかない音が聞こえた。その音は重量感を感じさせる鈍重なもので、程々に柔い物を地に擦り付けながら、即ち引き摺るような音を立てながら、僅かずつ移動を続けているようだった。ずるり、ずるりと。ざざざ、ざざざと。砂利と草木を圧し掻き分けて、常々変わることの無いメトロノームを彷彿とさせる一定の間隔。何故だか聞いていると、この得も言われぬ不快感と不安感は、より一層高まった。
「――いる――」
普段なら、ある程度の距離まで近付かれたらば、その音の発生源を元に大まかな距離は掴む事が出来る。然し乍ら今ばかりは、その普段の鋭い感覚が作用しない。鈍っただとか、阻害されているだとか、そういったものではなく、作用していないのだ。身体が作用させる事を、突き止める事自体を拒んで、感覚を遮断しているような奇妙な体感。只、その音を生じさせる者達の進んでいる方向が此方である事を悟る事は、そう難しくなかった。これもまた、感覚だとかそういうもののお陰ではなく、何となく、けれども抱く事の出来た確信である。
「こ――に――る」
声が聞こえた。未だ距離が開いているからか、途切れ途切れだが。此れは先程の、僕ならざる僕の声でもなければ、本来の僕の声でもない。雑音の中にいる所為なのか、それは酷く低く、その声自体に砂嵐のような雑音がかかっているように聞こえる。不思議だった。その声は明らかに常人のものではなく、普通ならば不気味にさえ感じられるようなものだったというのに。不思議と僕がその声に覚えたのは、不気味なものではなく、一抹の寂しさと懐かしさなのだから。声の方向は、恐らく引き摺る音の発生源と同じ。では、その引き摺る音を立てている者が、その声の主なのか。
「どこ――る」
「――に――よ」
僕の呼び掛けに、今度は不明瞭な言葉ながら、応じた事は明白だった。僕の掛けた声が響いた後、僅かに間を置いて返された低い声。確実に、僕の声に応じていた。それが何だか、やけに嬉しく感じた。明確な理由は分からない。斯様に異様な環境の下で、他の誰かが存在する事を知って、自分一人だけではないと安堵したのか。或いはもっと単純で、もう長らく他者との真面な会話を交わしていない僕だから、誰かに返事をして貰えた事が嬉しかったか。結局どういう理由かなど如何に考えたとて思い至る事はなかったが、それでもいい。
「どこに――の?」
「こ――にい――よ」
必死になって呼び掛けてみると、またもや声が返って来た。僕の声は全く変わらず、それなりに張った声。相手の声は、そんな僕の声に優しく応じているかのように思える。嬉しい。
「ど――にいる――」
「ここ――る――」
また、同じように呼び掛ける。同じように返ってくる。何故だか、ただそれだけの事が妙に嬉しい。今になって漸く、自分が口走っている事が何であるかを、薄々ではあるが理解して来た。何者かを探しているのだ。僕は今、この最悪の心身という萎びた芽に、返事という一滴の雨粒を受けながら、何者かを必死に探そうとしていたらしい。我ながら、どういう事かが全く分からない。けれども、何故こんな状況に陥っているのか、此処は何処か、現在とは何時か。そういった疑念などは、一切湧いては来ない。
「どこにいるの?」
だから、問う。今の僕に出来る事がこれしか無い、それならすべき事もまたこれしか無い。
取り敢えず、出来る事をやっていれば良い。何時か如何な時分であったか、その言葉を誰かに言われた気がする。その言葉は、僕の大事な人が言ってくれた事で、いつでも僕の行動理念になってくれた言だから、よく覚えてる。でも、誰が言ったか、何時だったか、如何な時だったか、それらだけを覚えてない。記憶から抜け落ちて、ある意味清々しい程に。気になっても気になっても、それを知る足掛かりは浮かばなかった。嗚呼、でも、その声もよく覚えてる。丁度、今聞こえた。聞こえた。聞こえた?
「ここにいるよ」
刹那、僕の身体に、凄まじい悪寒が走った。
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
聞こえた?何で聞こえたんだ?何で聞こえたと分かったんだ?何でその声が実際に聞こえてしまったんだ?
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
何やら、ばちゃりと濡れるような音が聞こえた。それと同時に、粘着質な感触が自分の身体中に生じる。見れば、其れは途轍もなく、途方もなく、この上なく悍ましい。
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
喫驚、当惑、恐怖。多種多様の感情や思いが入り混じって、綯い交ぜになって、僕の心の中でぐちゃぐちゃと広がって行く。範囲を広げて。光の射し込む世界に、闇の本流が訪れた。喫驚。油断していた所に突然身体中を触れられて、予期せず心臓が縮み上がるような気分を味わった。当惑。今の今まで身近な、視界に入る限りの空間には、何処にもこんな奴らはいなかった。恐怖。僕の身体中を抑え込むように触れているそれらは、紛れもなく異形と呼ぶに相応しい者であった。肉塊だ。中には綺麗に生え揃った歯牙や、暗緑色に濡れた黒と黄色の表裏、口を開けたままの小さな生首のような形状のモノまでその他諸々。赤、緑、青、白、黒。色取り取りの液体に塗れその正体さえも明瞭に窺い知る事叶わない。
「ここにいるよ」
触れている?否、これをそう形容するのは間違いであろう。これは触れていると言うよりも、大勢で抑えつけて捕らえている、という方が適切だ。自らの身体中に感じるぐちゃぐちゃと滑りのある、柔らかい肉の感触に、身体がぶるりと大きく震えた。その後もそれは止まらず、それはずっと大きく。
「ここにいるよ」
止めろ。止めろ。止めろ。離せ。気味の悪い化物共が。
「ここにいるよ」
離せ。
「ここにいるよ」
止めろと言ってるだろうが。
「ここにいるよ」
御免なさい。許して下さい。
「ここにいるよ」
もう許して。僕が悪かったです。
「ここにいるよ」
許して。
「ここにいるよ」
許して許して許して。
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
「ここにいるよ」
許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して。
「ここにいるよ」
だって何も見えない。聞こえない。貴方達が望むように僕は其れを望むのに。届かない。貴方達がそうしたいように僕もそうしたいのに。貴方達はきっと空から手を振ってる。あれらはきっと底から手を引いてる。
「ここにいるよ」
貴方の手はとっても優しく人のようなのに、僕の手はなんでか骸のようだった。僕は天への階段を上ることはできるのかな。
「ここにいるよ」
きっと出来ないんだろうね。そういう道に立って生きてる。そう、生きてる。嗚呼、残念。
「どこにいるの」
僕は叫ぶ。
「ここにいるよ」
左右双方から、懐かしいものが僕の鼓膜を揺さぶった。
ーーーーーーー
「ッ」
急速に光の取り戻される感覚が、纏わり付くような微睡を一蹴する。直後、半ば反射的に仰向けになっていた上体を跳ね起こした。身体は微かに重く感じられて、心なしか動作も不安定であるが、それでも起き上がる程度は訳も無い。だが、先ずすべきは、などと合理的な思考へ直様切り替えるなどは、どうしても出来なかった。しかし、それは生存の本能によるものか。つい先程まで詰まっていた息を、この身体は最優先として整え出していた。
「ッす……は、ぁ……」
不自由だった呼吸が、一度の深呼吸でも僅かばかり和らいでいく。とは言え、ばくばくと煩わしくけたたましく、痛い程に鳴り響く警鐘が如き鼓動。それにより、深呼吸自体が中断されたり、吃逆のようになってしまったりと、不完全なものになったが。けれども暫しの間、何を頭に浮かべるでも考えるでもなく、無心で深呼吸を繰り返してさえいると、いつしかそれも大分マシになる。頭の働きも、今ならある程度は思うがままになり、良く働いてくれるようになった。少なくとも、今し方のアレが夢であると完全に悟れる程度には。
「…………あの夢、久々、だな」
白い掛け布団の下に伸ばされた足、上腿の上に右肘を乗せて、頬杖を突いた時、意図せずそう呟いていた。あの夢を見るのも、思えばもう数年か前にもなる。確か、妖怪を殺して回るという所業を始めた時には良く見ていた。あの頃は、度重なる命の奪い合いと、幾度となく晒された殺意に、精神が些か参っていた時である。それならば、あのような夢を見る事も、精神状態からすれば考えられなくもない。正直な話、あの時の僕は我ながら少々頭が可笑しかったと思う。探し物をするにしても、あれだけ目立つようにやっていては、賢者に口出しされても仕方あるまい。もうここ数年は正当防衛として殺してはいるが、あの時はほぼ無差別みたいなものだ。とは言え相手は悉くが人食いの妖怪だったので、大義名分は有るから別に問題ないとは思うのだが。幾ら何でも、人食いの罪のない妖怪までも殺すつもりなど無い。どうせ妖怪の方が圧倒的に多いのに、人間と妖怪の均衡が崩れるから止めろ、などという賢者の言葉は、今になっても今一理解出来ない。『時代錯誤な思考』などと、奴のような年増に言われてしまった。
同族を食らった、蛆の如く沸く莫大な存在をほんの一握り殺す事は、そんなに悪事なのか。妖怪は何も、人を食らう必要が有る訳ではないというのに。何故人を食らうのかといえば、それは只人間が、多くの妖怪にとって非常に美味な食物であるからだ。人を食わない、或いは人より好きな食物が有るという妖怪もいるにはいるが、人を恐れさせるのが存在意義たる妖怪だからか、大概は人を食っている。食われる、もとい殺されるという、死への非常に原始的な恐怖。それが人間を恐れさせるには手っ取り早いのだろう。だがそれは言うなれば、妖怪は食わずとも良い人間を、態々食ったとも言える。人間でしか腹が膨れない事もない。人間以外に食物が無い筈もない。人間は食われねば恐怖しない訳でもない。だから、人食い妖怪はきっと悪なのだ。食われる人間の思いを、残される者の思いを、奴等はきっと微塵も考えてなどいないのだろう。芥程でも考えられたなら、きっと人間を食ったりなどしない。だから僕は只、『目には目を、歯には歯を』の考えの元、人を食う妖怪を殺す。
僕が殺した中には僕が直接被害を受けた妖怪はいない。それでも、その御仲間には被害を被った訳だから、殺しても良いと思う。
そうだ。人食いの妖怪など殺せばいい。己の穢れた欲望の為だけに、人間を食物にしてきた化け物共。古代より人間を脅かし続けた存在に、何故人間が譲歩せねばならないのか。分からないのは、僕が阿呆だからかも、若過ぎるのかも知れない。だが、分からない事ならば考えずとも良い。
人間と妖怪の共存などと、賢者自身も馬鹿げた事であると知っている筈だ。抑、人間にこんな籠の中の虫のような生活を余儀無くする存在が、真に人間の事を慈悲を持って考える筈もない。所詮は、幻想の為の世界なのだから。嗚呼、嗚呼、嗚呼。苛立ちが募って来る。鎮めた殺意が沸沸と、腹の底で再び煮えていく。今回は少し間隔を短くしてまた探し物を――
「――嗚呼、いや、駄目だ、違う。この思考は、止めろ」
完全に逸脱していた思考を、どうにか理性で抑えて戻す。全く、我ながらこの余計な事を考え続けてしまう頭はどうにかしたい。その場その場の苛立ちで、確りと定めた筈の行動予定を崩しては、後々に支障が出る事は自明だ。取り敢えず心を落ち着かせるために、何時しか高まっていた体温を程良く下げようと、取り敢えず布団から足首までを出してみた。只でさえ6月上旬なのだから、この熱暑の中でそう長い間布団に篭っていて暑くなるのは当然である。外から入って来る生温い風も、今ばかりは涼風に感じられた。汗の滲んだ身体を、開いた襖障子の先にある縁側から入って来た風が撫で、激情で火照った身体を仄かに冷やす。屋敷の外の、相変わらず何も無い庭を眺めていると、次第に胸が軽くなった。
「……何で、今になって?」
落ち着いたからには、今度は戻した思考へと思考を巡らせる事にする。
僕が気になっているのは、何よりもそこだった。あれを見なくなったのなら、確か今から一か二年程前。だから、見続けていた期間というのは二年か三年程になる。だから、僕は違和感を覚えずにはいられなかった。あの夢が継続して来て、つい先日までも見ていたと言うなら、別に違和感など覚える筈もない。だが、もう年単位で見ていなかった夢を何故今更、それもあのような事が起きた時に限って見てしまうのか。あの夢がどういう物か、よもや見た回数など数十を超え百にも及ぶというのに、未だに分からない。あの時自分に纏わり付いてきた肉塊が、どういう姿だったかだけが一切思い出せない。それこそが偏に、夢の詳細が分からない原因であろう。つい先程まで見ていたあの悪夢も、起きぬけであるというのに忘れてしまっているのか。あんな、悍ましいものを。
「っ……併し、あのような時、か」
すると、あの夢を鮮明に思い出してしまいそうな気がして。そしてそれを思い出す事を良しとせず、僕は少々無理矢理に思考を別の方向へと転じた。ここ最近でのあのような時と言えば、それは勿論アリス・マーガトロイドなる少女の人形劇である。目を閉じてみればあの光景は、そしてあの時の得も言われぬ胸の高鳴りは、今でも鮮烈に思い出せた。
「でも……何で、だろうな……」
だからこそ僕は解せない。初めて見た時も思った事だが、あの人形劇は所詮、人形が非常に円滑で人間じみた動きをして、玲瓏な語口が微かに心を揺さぶるだけの、言ってしまえばただそれだけのものだ。勿論一般的に考えるならば、その時点で十分それだけのものとは言えない事を理解している。
だがそれだけの事で、今の僕が興味を持つとなると、どうにも腑に落ちない。何か他に、無自覚な理由が有るのだろうか。あの人形遣いの少女か、人形か、人形劇か、それともそれらとは異なる何かに。
「……ん?」
忽然、僕の胸が微かにざわついた。それは決して、あの人形遣いの少女や人形劇の事ではない。何か、重要な事を忘れてしまっているかのような。そんな得体の知れない気色悪さに襲われて、気持ちの悪くなった胸に思わず顔を顰める。これもまた、理由は分からない。分からない事だらけで癪に障るが、そんな取るに足らない私情はさて置き。忘れている事と言えば、一体何があっただろうか。昨日は何をしていたか、先ずは思い出さんと、目を閉じて記憶の詮索を始める。
――昨日?
「あ」
その瞬間、僕は凄まじい速さで布団を払い除けていた。
「拙い……拙い、忘れてた」
いや、忘れてたと言うよりも、思い出す事ができなかったと言うべきか。僕は漸く、今すべき事を思い出した。
「人形の、使い方……教えて欲しい、って言ったのに……」
そう。いつの日か約束した、48時間で人形をある程度操れるようにするという、アリス・マーガトロイドから提示された条件。あれの事を、全くもって思い出せずにいたのだ。約束では、あの人形劇を開いていた場所での、5時半に待ち合わせとなっていた。そこでふと時計を見ようとして、しかし何の意味も無い事に気付き色々と諦める。先ず、今手元には懐中時計が無い。いつも家にいる時は、棚の中に箱に入れて保管してある。何より、今更時間など確認したところで、寝過ごした以上意味も無い。
「嗚呼、くそ……本当、厄介な」
こうなるとついつい、自分の性質を疎ましく思ってしまう。しかしどうにかそれを止めて、先ずは人形遣いの少女に返すべき、条件の為に借り受けた人形などを返さねばなるまいと、室内にある筈の人形を探した。寝起きながらも即座に立ち上がると、布団を裏返したり、部屋の隅に置かれた文机の下、棚の中まで、隅々を探してみる。大きさはそう大したものでもないが、かと言ってこんな殺風景な十畳そこらの部屋で、あんな物が見つからないなど有り得るのか。だが現に、棚や文机など全てを探しても、今も尚見つかっていない。では他の部屋にでも有るのか、と考えるも、その可能性もまた低い。僕はきっと、この部屋で人形の練習を行っていただろうから。変に集中した僕なら、きっとその場からずっと動かずにいた筈。だから、この部屋に無いというのは可笑しくて、見つからないなど本来なら有り得ないのだ。
「どうしよう……人形、失くした、かな……」
認めたくはないが、現状を鑑みるなら、導き出される答えはそれのみ。僕の記憶は、人形の練習を始めて暫くした辺りから曖昧になっている。そしてふと起きれば、あの人形劇を見た時と変わらぬ服装などというこんな状況なのだから、きっと長らくこの部屋で人形を操っていたのだろう。何故練習しているだけで人形が失くなるのかと、我ながら呆れてしまうというものだ。だがそれを言うなら抑、僕が布団で寝ている事自体が可笑しい。今までの経験からして、通常なら僕は集中した後はそのまま眠っている。それがこうも丁寧に寝床を用意されているなど、不自然極まりない。
「…………あっ、若しかして」
其処でふとその考えにより、他にもまだ可能性があったことに気付く。脳裏に浮かぶのは、赤い長着に黒い帯を巻いた女性。嗚呼、そうだ。彼女なら或いは、気絶していた僕に寝床を用意したりだとか、そういったお節介も焼く事だろう。今は屋敷の中に僕以外誰もいないが、きっと僕を寝かしつけて帰ったに違いない。そしてその際、何らかの理由で人形を回収した。嗚呼、きっとそうだろう。
半ば懇願にも似た感情混じりにそう断定し、僕は彼女の家へ赴く事を決めた。
「それなら、直ぐに行か――」
「何処へ行くつもりかしら?」
不意に僕の小さな独言を遮って、そんな声が耳朶を打つ。いつか聞いた事のある、金細三味線の奏でる旋律が如き玲瓏たる美音。けれどもその声色は、些か不機嫌である事が容易に感じ取ることが出来る。この声は、よく知っていた。いや、知っているという訳ではない。ただ、よく記憶には残っていた。あの人形劇の時にも聞いた、あの声だ。僕は徐に声のした方、背後へと向き直る。
「やっと起きたのね。随分寝込んでいたじゃない」
嗚呼、やはりそうだった。僕の記憶にこうも残った声などは、今までに幾つあったことか。やはりその声の主は、僕が以前人形について教えを乞うた、金髪碧眼の人形遣いの少女。アリス・マーガトロイドが、何時しか開け放たれた襖障子の先に立っていた。
「……え?あの、何で、此処に……」
先程まではある程度自由に回っていた舌が、突然重くなったような感覚に陥る。どうにも僕は、長らく人と些細な会話しか交わさなかったからか、他者と喋る時は話し辛くなってしまうのだ。そんな情けない僕の姿を見兼ねてか、彼女はそれ以上僕の鈍い言葉を待たなかった。
「貴方、私が条件を取り付けた時から今まで、どれ位時間が経ってると思う?」
「え?あ、と……1日半程、かと」
変わらず不機嫌そうな面持ちでそう問われたので、僕は思った通りのことを思い通りに動かない口で宣う。恐らく今朝の状況などからしてあの約束の時から1日、昨日丸ごとが潰れてしまっただろう。だから、今日が約束の日ということになる。が、いつも通りの太陽が昇っている蒼穹を見るに、まだその日が訪れたとは言え朝方であるのだから、約束の時刻ではない。僕が最初に、何故此処にいるのか、と口走ったのはその為である。しかしそんな僕の思考を見通したかのように、彼女は溜息を一つ吐いた。
「約束の日時は、もう一昨日よ。その後日、詰まり昨日貴方は1日通して眠り続け、そして約束の明後日になる今日漸く目覚めたの。私が約束の時間から30分程経った頃に此処に来たら、貴方が妙な様子で人形を操っていた。そして体を揺さぶって我に帰ったと思ったら、今度は倒れて……という具合ね」
「…………はい?」
他者との会話で、ここまで間抜けな声が出てしまうのは初めてかもしれない。少なくとも、此処最近では記憶にない。何?一昨日?では何か?最初にマーガトロイドに出会った日から、もう二日経ってると言うのか?いや、そんな事が有るか。確かに今ままでも、昼に本を読んでいる内に気づけば朝、という事はあった。だが彼女の言い分を信じるなら、僕は
「信じられないって顔をしてるけど、事実よ。急に倒れて放って置く事も出来ないから、仕方なく貴方が起きるまで蔵書を読ませて貰って、時間を潰してたわ」
だが、やはり彼女が冗談を言っているようにも見えない。冗談を言いに来る為だけに態々家まで来るような性質でもなかろう。しかし、まさか僕の家にいたとは思わなかった。てっきり自分の家に帰っているものかと思ったが。となると僕が倒れてからなので、丸一日は此処にいたという事になる。
では若しかしたら、こうして寝床まで用意してくれたのも、或いは彼女なのだろうか。しかし、そんな疑問を浮かべてはみても、どうも聞く気は湧かない。もしそうなら、やはり感謝の言葉の一つや二つ位は伝えた方が良いか。
いや、違う。今気にすべきは、情報の真偽でも、況して彼女の行動でもない。悪い状況を仮定しての、即ち本当に約束の日時を過ぎていた場合の事だ。本当に約束の日時を過ぎていたとすれば、きっとあんな条件を出した彼女だから、何ら躊躇うこともなく断るだろう。それ位は、断る事に慣れているような様子位は、あの時から自然と感じ取っていた。
「で、では……その、件の、条件は……」
では若しも、若しも断られたなら。いや、別に断られたならなんだと言うのか。確かにここ数年でああも何かに心を動かされたのは、どうも悔しいのだが初めてだ。然し、所詮心動かされたからと言って、程度の高い道楽には他ならないではないか。そう、どれだけ素晴らしい熟達した技術であれ、所詮は人形を使った道楽なのだ。それは重々承知であって、僕にとってはそれを教えてもらった所で、目的の前座にしかならない筈。なのに、何故だろうか。こうも緊迫してしまうのは、鼓動が再び高まってしまうのは、手にも額にも汗が滲むのは、果たして何故だろうか。
彼女が次に何を言うのかと気を巡らせると、その小さな口元の動きがやけに遅く感じられた。開いて、また開いて、もっと開いて。断られたなら、などと妙な思考ばかりが頭を埋め尽くす。嗚呼、やはり断られるだろう。だがどういう訳かは知らないが、恐らくそれは自業自得なのだろう。集中状態でも度が過ぎたなど、言い訳にさえならぬ言い訳など捨ててしまえ。嗚呼、別に良いじゃないか。短い人生に微小な安らぎなど求めて、何の意味がある。どうせ終わりが直ぐそこにあるならば、僅かな過程などどうだっていい。嗚呼、そうだとも。僕は結局――
「取り敢えず、朝食を済ませましょう」
――何だって?
ーーーーーー
「悪いけど、食材は勝手に使わせて貰ったわ。後で消費した分はこっちで受け持つから、それでどう?」
「え、あ、はい……あ、いえ、お構い無く……その、貰い物が、大半です、ので」
所変わって、我が家の食卓。つい先程まで寝ていた部屋より一回り広い此処は、いつも僕が料理と食事に使う部屋だ。台所には独り暮らしにしては過多な食器の類に、数年前に知人から譲り受けた、簡易的な構造の焜炉が設けられている。内装自体は竃や台所などの箇所がある以外に僕の寝ていた部屋、もとい自室と大して変わらないが、その中心に置かれた、僕とマーガトロイドが面している食卓だけは明確に違う。椅子は横長の食事処でよく使われる形のもので、それら家具は全てずっと前からあった物だ。食卓の中心には、程良い量の料理が並べられている。
春菊の漬物、淡色味噌を使用した大根の味噌汁に、羽釜で炊きたての白飯。それらは多少の差こそあれど僕もよく作るが、目を引くのはそれらの内に紛れた、おろした山女魚をサラダに加えたような料理。確かこういう料理を、外の世界ではカルパッチョと言うらしい。尤も、カルパッチョというのは字面の通り西洋発祥のもので、本場では魚ではなく牛の大腰筋を使用するようだが。やはり彼女は西洋の文化に慣れ親しんでいるのだろう、先程一口食した感想としては、美味と言うに値するものだった。かけられているドレッシングは味からして、酢、醤油、砂糖などを混ぜた簡易的な物である。
他人の家の、有り合わせの食材のみで此処までの物を作れるのは、人形遣いという器用な質の者であるが故か。
「……」
「……」
いや、そうではないだろう。どうも久々に定番以外の料理を口にしただけに、ついつい其方へ考えが行ってしまったが。何故こんな事になっているのか、そしてあの話は結局どうなったのかを考えねばなるまい。朝食を摂ろうという提案を受けて此処へ来たら、既に食卓には料理が並んでいて、後はこのような状況になった。これは若しかして、彼女なりの返事や意図などが隠されているのだろうか。
でなければ、先ず他人の家で料理を作って振る舞うなどという、訳の分からない行動に出るはずがない。
「……」
「……」
彼女が持つ食器の鳴らす、小気味良い音だけが支配するこの空間。本来なら考え事に耽るには丁度良いのだが、いかんせん他者がいるとなると今一落ち着かなかった。ふとその原因たる彼女の方へ目を向けると、この静かな空間の中でさえ咀嚼音を漏らさず、緩徐に食事を進めている。顔だけを空になり卓に置かれた椀に向けつつ、上目で対面するマーガトロイドの方を暫く見ていたが、その所作は食事一つをとっても、非常に優雅だった。こんな庶民的な室内に庶民的な食事の中だと言うのに、彼女だからというだけで貴族の晩餐会に出席したかのような錯覚を覚える。
「……それじゃあ、話をしても良いかしら」
「え……っと、はい、問題、有りません」
すると、彼女の方も食事を終えたらしい。今まで俯いたフリをしていたのを、その言葉に反応して即座に上げる。少しでもその表情から思考を見通すことが出来れば、と淡い期待を抱くも、彼女は無機質ささえ感じられるような無表情だった。とは言え僕のような人間では、余程分かりやすい相手でもなければ、その真意や意思を表情から汲み取る事など出来はしないが。
「先ず、本題の前に幾つか聞いておきたい事があるのだけど」
「は、はい……どうぞ」
「貴方、人形を操るのは初めてよね?」
「っと、えぇ……まぁ……」
僕がそう言うと彼女はその無表情を、微かに困ったようなものに変えた。質問の意図は分からないが、きっとそうするのが一番手っ取り早いだろうからと、取り敢えず質問には出来る限り真実で答える。見栄を張って違いますなどと答えても意味は無いし、見栄を張れる程の技能さえ持ち合わせてはいないのだから。
「あの時……人形を操っていた時、貴方の様子はおかしかったわ」
「おかし、かった……というのは」
「廃人のように何度も同じ言葉を繰り返し呟いて、真っ赤に充血した目を見開いていた。誰がどう見ても異常だけど、あれは一体どういう事?我に帰るまでは話も通じなかったし、軽く揺する程度じゃ意味が無かったわ」
嗚呼、そう言えばそういう様子だと友人から聞いたな。自分がそういう状態になるのだと、久々に思い出した。もう年単位で前の事だと、大概は忘れてしまうようになっているのだろうか。自分の記憶能力の低下に辟易しながらも、僕は彼女の問いに対する的確な答えを頭の中で用意する。
「嗚呼、それは……ある時から、そういった、体質に、なりまして……過度な、集中で、他に意識を、向けられなく、なるんです」
「体質?しかも、後天的なものだっていうの?」
「そ、そう、ですが……」
僕にしては長ったらしいその言葉を言い終えた時には、彼女は卓から若干身を乗り出して、僕の顔を見据えていた。幾らこの煩雑な前髪で遮られているとは言え、やはり凝視されては落ち着かなくて、僕は何気なく顔を逸らす。そうすると彼女は今一納得行かないような顔をしていたが、直にその顰められた表情を自然なものに戻し、溜息を一つ吐いた。
「……正直に言うと、貴方の人形の扱いは、少なくとも素人とは思えないものだった」
「……へ?」
唐突に送られた、恐らく褒め言葉であろうそれに、またもや間抜けな声が出てしまっていた。
逆に悪い意味に捉えようにも、よもや素人以下というのは思い浮かばない。僕の人形操作が、素人とは思えない、とマーガトロイドは言う。熟達した人形遣いであろう彼女が、僕に。本人に賛辞を呈しているつもりがあるかは甚だ疑問だが、どうも慣れないそれのせいで落ち着かない。
幾ら何でもあのような簡単な構造の人形なら、観察して丸2日も練習に費やせば、誰でも
「人形を操る経験が無いというなら、一体何故?最初からああも出来る人間がいないわけじゃないけど、それはきっと一握りよ」
「は、はぁ……そう、言われても……」
なんらかの理由が有るのだと、確信めいたものを抱いているのか、彼女は頑なにその問いを撤回する事は無かった。あの時は半ば真面な意識を持った状態でなかった事は、彼女も承知しているだろうに。そんな状態にあった当人たる僕が、練習の際の素人とは思えぬ出来の訳を聞かれたとて、答える事など出来ようものか。だが、きっと『殊更理由は無い』などと言った所で信じては貰えない事は明白で、それに僕としてもそれは何処か自画自賛している気がするので厭だ。
「……あ」
「何かしら?」
その時、ふと僕の頭にある事が浮かんだ。そうだ、最適で有力な理由が有ったではないか。僕が素人にしては出来が良いと言われた事、それへの理由が。思い付いたからには、実際に証明して見せるのが早いだろう。そう思い立つや否や僕は、もう三日間着たままの我ながら不潔な長着に巻いた、黒い兵児帯に両手を突っ込んだ。彼女はそんな僕を訝しむような面持ちで見ていたが、その意味を確認したいのか、口出しをする様子は見せない。好都合な対応に感謝しつつ、そのまま帯の中に潜ませていたある物、その感触を確かめてから僕は手を引き抜いた。
「それは——」
其処まで言いかけて、マーガトロイドは何かに気付いたかのように、その青く円らな瞳を見開く。見る者が見れば、やはり此れがどういう物かは分かるという事だろう。僕の手にある、もとい両手の五指に付けられているのは、漆塗りの黒い指輪。其々の円環、その手の甲側には極微小な孔が五つ横並びに空いており、それらは外から射し込む陽光に照らされ、白い輝きを放っていた。僕は見慣れたそれの後に目の前の椀を一瞥して、ふっ、と指先と腕を僅かに動かす。
「こう言う、風に……」
その刹那、僕が今し方一瞥した椀から、ピシリと乾いた音が鳴り響いた。能く能く見れば、椀には外側にも内側にも、椀を両断して一周する形の黒い極細の線が見える。然し無論、そんな奇異なデザインの椀などが有る筈も無い。そして音の発生から、推し量る限り一秒弱。
「僕は何かを、切る為に、こうして糸を、使う事が、有りますから……」
両断する形で走っていた黒い線に沿い、何時しかその椀は真っ二つに割れ、左右に倒れて転がった。
両断する形で、と言うより、実際に両断したのだが。かたんと小さな音を立てて、半球状になった二つの椀だった物は、重心をかけるべき支えを失い、卓の上をころころと回っている。この椀は白飯の入っていた物で、僕は当然の事ながら米粒も残さないよう心掛けているので、中に入った料理が溢れたりする事は無かった。食器自体は独り身なので有り余る程有る為、別に一つや二つ位はどうでも良い。偖、この事については詳細に説明すべきかと、マーガトロイドの様子によって判断しようとして、徐に顔を上げる。
「それで糸の、扱いに、慣れている、という事……かも、しれません」
その顔は、一言で言うなら呆気にとられている、と言うのが適しているであろうもの。そして忠実にそれを形容するならば、思案5割と喫驚2割と呆然3割、そんな微妙なものだ。僕としては、そうおかしな真似をしたつもりはないのだが。先程からの容態からして、彼女は一連の出来事を全て理解しているだろう。だがそれも当然の事で、何故椀が割れたかと言えば、原理自体は非常に簡単な事なのだ。ただ僕が指輪、更に言うなら指輪型の金属製指貫の孔に通した、線径0.08粍程の線を括り付けて微かに縛っただけの事。それによって切り裂かれた事を、あの両断する形の細く黒い線は示していたのである。只ちょっとばかり手を加えただけの細い線で、きつく縛って圧により断ち切った。只それだけの事に、何をそんな反応を見せる事があるというのだ。
「……そう。確かにあの時気になったのは、貴方の操る人形よりも、寧ろ糸の方だったわ」
「え?」
「素人は大概人形の駆動よりも、それを為す糸の扱いが問題である事が多いの。当然、人形を操るべき糸が絡まったり、その微かな動きを調節しきれなかったり、そうなれば人形は真面に動かない」
そう言われてみると、成る程確かに。練習を始めて少しの間の記憶ならば朧に残っているのだが、その時僕は手をどう動すと人形がどう動くのかより、如何に糸同士で動きを阻害しないようにするかに気を配っていた気がする。糸は細く軽いのだから、僅かにお互いが触れ合うだけでも、その動きは儘ならない。実を言えば、先程自前の糸を使った時と同じく、ちょっとした技術を使えば、人形操作の為の糸如きは自由自在にするのも難くないのだが。それをしてしまっては試験の側面を持つこの条件の意味が無くなるし、何よりそんな裏技を使っては、僕自身が納得出来なかろう。それで合格して後からそのちょっとした技術が使い物にならなくなり、地金を出す事になっても困る。
「明後日」
するとそんな単語を一つ口にして、食事終わり故か両手を合わせた後、直ぐに彼女は席を立った。考えてみれば、此処にいた理由は突如倒れた僕を放っておこうにも放っておけず、というものである。そこで僕がこうして無事起きた訳なので、もう彼女は帰るのだろう。数日間も男一人の家に縛り付ける事をさせてしまったので、流石に帰り際位には謝罪と感謝を伝えるべきか。
いや。いやいやいや、少し待って欲しい。僕はまだ聞いていないじゃないか。マーガトロイドに、僕は人形について教えて貰えるか否かをまだ聞いていない。それともこれは、言外の意というものがあっての行動なのだろうか。結果を伝えず、取り敢えず念の為様子を見て、何の問題も無いと分かるや否や帰る。これは詰まり、暗に『結果など言う必要も無く不合格だ』と言っているのか。嗚呼、確かに。確かに僕は技量だとか扱い方だとかそれ以前に、期日さえ守ることの出来なかった碌でもない奴ではある。嗚呼、何とも浅薄で馬鹿な。僕はやはり、どうやったって事を上手く運ぶ事の出来ない、要領の悪い能無しか。嗚呼、些か遺憾だ。折角久々に何かに興味を抱けたので、それが何か僕を変えてくれるのでは、と一縷の望みを掛けてはいた。しかし、いややはりと言うべきか、それは自らの所為で容易く打ち砕かれてしまった。結局僕などは所詮、どうしたってどうにもならない屑の与太郎なのだ。
「——まだ休養が足りてないでしょうから、修行を始めるのは明後日にしましょう。こっちとしても、ある程度すべき事があるもの」
そうか。そうか。やはり——
「——はい?」
今、何と言った?修行を始めるのは明後日?嗚呼、そうか、修行は明後日からか。確かにまだ疲弊が抜け切っていないのか若干体と瞼は重く、誠を言わせて貰うなら今はもう少し休ませて欲しい。
それを見透かされていたとすれば、彼女は相当鋭い目を持っているのだろう。先の椀を切断した際も、取り出した指貫に付いていたあの極細の線に直ぐ気付いたようだったし、人形遣いというのは器用なだけではないのだな、と感心する。
いや、いやいやいや、だから待て。感心している場合ではない。修行と言うのは、今迄の流れなどから察するに、人形の、だろう。休養が足りてないだろうから、という旨の発言から、それは僕にあてられた言葉である事は分かった。では、修行というのも彼女自身のではなく、僕につける修行となる。僕にマーガトロイドが修行をつけると言うと、それは即ち、僕に人形についての修行を課すという事に他ならない。修行というのは少しニュアンスが違う気もするが、それは人形について教えて貰うというのと大差無いと僕は思う。ならば、其処から導き出される解は?そうして、後僅かで完全に言葉の意味を飲み込めそうになったとき、彼女が僕の視界の上端から何かを差し出して来たので、それに意識を持っていかれた。彼女の掌に有ったのは、人形と指輪型指貫と半透明の糸。それらに強い既視感を覚えて、思考を投げ出し、いつしか俯いていた顔を上げる。
「それは、貴方が試験の時に使った物よ。この人形はあげるから、暫くはそれを使いなさい」
そしてそれを言うと、マーガトロイドはゆっくりとした足取りで玄関へと向かいだした。僕も衝動的に追従して立とうとするが、色々と頭の中がごちゃごちゃと煩雑に過ぎて、それが影響したのか、足に力が入りきらない。
「あ、あの……え、っと……」
拙い、少し拙い。実際何を言えば良いのか、全くもって分からない。こういう時は、何か言うべきだろう。言うべき事といえば、有難う御座いますとか、申し訳御座いませんとか、感謝と謝罪の二つだ。嗚呼、だが、何をどう言うべきかという考えが、まるで纏まってくれない。いつもなら無駄に働くこの頭も、肝心な時には微塵も役に立たないなど、一層僕の無能さが際立つというものだ。去り行く、彼女が去り行く、僕の前から人が去り行く。何でも良い、もうなんだって良いから、取り繕わなくたって良いから、どうか何か言ってくれよ、僕。
「御馳走様、でした……」
一体僕は何言ってるんだろうか。いや確かに料理を作って貰ったのだから、作った彼女の対しそれを言うのは筋というものである。それに、何だって良いから言ってくれ、と僕は冀った。しかし、今この時に何故この流れで、よりによってそれを言うのか。普通この会話の流れからして、先程の朝餉なども含めて、『この度は数々の御迷惑をお掛けすると共に御厚情に賜り、深く感謝とお詫びを申し上げます』だとかそう言うのが適しているだろうに。嗚呼、流石に恥ずべきだろうな、これは。そんな後悔の念に苛まれて、ついつい居た堪れなくなり下を向く。そんな時、くす、と。小さく笑う声が、この静かな室内に響いた。
「えぇ、お粗末様でした」
家庭的なアリスとコミュ障全開主人公でした。
最初辺りは、自分が夢を見る時の事を参考に書きました。内容は勿論違いますが。
本当はもう少し手の込んだ物にしたいという思いもありましたが、技術不足を始め文字数やその他諸々の事情で断念する事に……