防災館の廊下は、昼間だというのに妙に薄暗かった。
非常灯の緑色だけが、床に細長く伸びている。壁には避難経路図、頭上には赤い非常ベル。どこかで機械の低い駆動音が響いていて、人気のない館内全体が、巨大な罠みたいに息を潜めていた。
ぼくは前を歩く殺せんせーの背中を見つめながら、ポケットの中でナイフの柄を握りしめていた。
逃げ道は、もうない。
ここまで来たら、やるしかない。
「渚さん、ずいぶん静かですねえ」
殺せんせーが振り返らないまま言った。いつも通りの間延びした声だったけれど、ほんの少しだけ慎重さが混じっていた。
「……考え事」
「進路相談、でしたっけ」
「うん」
短く返すと、殺せんせーはそれ以上すぐには踏み込んでこなかった。
殺せんせーを殺すにはこれしかないと思った。
殺せんせーはきっとぼくがどんなことを言っても、ちゃんと本気で受け止める。
だから、ここに呼んだ。
『どうしてもみんなに内緒で進路について相談がしたいんです。ぼくはもうE組ではないけど、先生にしか相談できない話だから。サッカーを観に行っていることにして、名雪先生の課外授業の時間に相談させてください』
暗殺のアドバイスをくれたのは名雪先生だった。
殺せんせーなら生徒の必死の相談を見放すわけがない。暗殺するのにいい場所を知っているからそこで殺せばいいと後押ししてくれた。
だから――本気で殺す。
「先生」
「はい」
ぼくは一歩だけ距離を詰めた。
「ぼくはやっぱり殺し屋になりたいです」
殺せんせーの足が止まった。
すぐには振り向かない。廊下の先にある非常扉を見たまま、ほんのわずかに触手が揺れる。
「……そうでしたか、やはり」
「冗談じゃないよ」
「でしょうね」
そこでようやく、先生は半身だけこちらを向いた。丸い顔に浮かぶ笑みは消えていないのに、目だけが真剣だった。
「反対はしたいです」
「そっか」
「ですが、まず理由を聞きます。渚さんが何を思って、そこへ行こうとしているのか。僕は先生ですから」
その言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。
やっぱりこの人はずるい。
こんなふうに言われたら、相談だけで終わらせたくなる。ナイフなんて捨てて、全部話してしまいたくなる。
でも、それじゃだめだとも思った。
もし本当にこの道へ行くなら、ただわかってもらうだけじゃ足りない。殺せんせーすら殺せないぼくが、死神のもとでやっていけるはずがない。
ぼくは息を吸って、吐いた。
「……理由はあとで話す」
「あとで?」
「先生が、ちゃんと生きてたらね」
言い終わるより早く、ぼくは動いていた。
ポケットから引き抜いた対先生ナイフを、喉元へ一直線に突き出す。殺せんせーはマッハの早さで瞬時に上体をそらし、余裕の顔でかわした。もちろん、それで終わりじゃない。右手を振り抜いた勢いのまま、左手で廊下脇のスイッチを押す。
がこん、と重い音が鳴った。
天井のシャッターが落ち、背後の通路を塞ぐ。同時に足元から白煙が噴き出した。視界が曇る。警報音がけたたましく鳴り始める。
「おや」
「煙体験コーナーの設備、少しいじっておいたんだ。殺せんせーの動きが鈍って花粉症みたいになる煙だよ」
「進路相談の下見にしては、ずいぶん熱心ですねえ!」
先生の声が近い。速い。視界が利かないこの状況じゃ、まともに追えば振り切られる。
でも、追わなくていい。誘導すればいい。
ぼくは非常灯の位置だけを頼りに後退し、わざと足音を立てて右の通路へ駆けた。殺せんせーは一瞬遅れてついてくる。生徒が煙の中で走っていれば、放っておけない。それが先生の癖だ。死神は、そこを使えと言った。
あの時の声が、耳の奥で冷たく蘇る。
『先生を殺したいんだよね。いいよ、協力してあげる』
名雪先生の顔で、優しい声で、死神はぼくの暗殺のアドバイスをしてくれた。
煙を抜けた先で、床の色が変わる。薄い継ぎ目が、非常灯に照らされて見えた。
死神が言っていたのはここだ。
「渚さん、危ないです!」
殺せんせーが手を伸ばす。ぼくはその手を避けるみたいに半歩跳んで、床の端を踏み込んだ。
次の瞬間、真下から鈍い金属音が響いた。
床が割れる。
「ひゅやっ!!!」
想定外の落とし穴に殺せんせーの巨体が落ちる。同時に、端に立っていたぼく自身も足場を失った。殺せんせーは驚いた後の初速が遅くなる。
ぼくは宙に浮いたまま銃で殺せんせーの触手を何本か撃った。これなら、殺せるかもしれない。
すると落ちている途中で、ありえない声が飛び込んできた。
「うわああっ!?」
「ちょ、ちょっと待ってこれ何!?」
「寺坂君押さないでって!」
「え、渚?! 殺せんせー!?」
聞き間違えるはずがない。
この声は。
鈍い衝撃とともに、ぼくの身体が床の上に叩きつけられる。息が詰まる。背中が痛い。舞い上がった埃にむせながら、なんとか顔を上げた。
天井に蓋をするように檻が降ってきた。
薄青い非常灯が、広い地下空間をぼんやり照らしている。
その光の中にいたのは――
「……なんで」
カルマ君がいた。カエデがいた。磯貝君がいた。前原君、岡島君、神崎さん――見慣れたE組の顔が、あちこちで立ち上がったり、尻もちをついたまま辺りを見回したりしていた。
全員いる。
どうして。
なんで、みんながここに?
「渚!」
カエデがぼくに抱きつく。その声に応えようとして、うまく言葉が出なかった。
喉がひりつく。頭の中が真っ白になる。
ありえない。
だって、これはぼく一人の暗殺のはずだった。死神はそう言った。ここは先生とぼくだけの場で、他の誰にも知られないって。相談に来るのも、暗殺を仕掛けるのも、全部ぼく一人で――
その瞬間、頭の奥で何かが嫌な音を立てて噛み合った。
違う。
ぼくは、騙されたのだ。
『ありがとう、渚。先生をここまで連れてきてくれて』
頭上のスピーカーから死神の声がした。
ぼくは立ち上がろうとして、膝をついた。うまく力が入らない。
「お前……」
カルマ君が舌打ちする。けれどスピーカーの向こうの死神は、どこか楽しむみたいに、余裕のある声で続けた。
『君は本当に期待を裏切らないね』
胸の奥を、冷たい手で掴まれたみたいだった。
死神は最初からそのつもりだった。
先生を呼び出す口実にぼくを利用したんだ。
弟子? せいぜい駒がいいところだ。
『先生一人なら逃げる。生徒一人なら守りながら突破する』
『でも、E組全員を同じ箱に入れれば、さすがに話は変わる。そうですよね、生徒が大事な殺せんせー?』
「あなたは、名雪先生ですか?!」
殺せんせーはスピーカーの声の主が名雪先生のものになったことに気づき、驚いたように言った。
「……っ」
反射的に、ぼくは周りを見た。
みんなの顔が怖かった。責められると思った。怒鳴られると思った。お前のせいだって言われても、何も返せないと思った。
実際、その通りだからだ。
先生をここに呼んだのはぼくだ。
本気で暗殺を仕掛けたのもぼくだ。
そして結果として、みんなをこの場に引きずり込んだ。
「ごめん……こんなつもりじゃなかった」
やっと絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。
「本当に、知らなくて……みんながいるなんて、思ってなくて……」
うつむいた視界の端で、誰かの靴が止まった。
怒鳴られる、と身を固くしたぼくの耳に落ちてきたのは、意外なほど低く、静かな声だった。
「だろうね」
顔を上げると、カルマ君がいた。
カルマ君の目がまっすぐぼくを見ている。いつものからかうような笑みはなくて、代わりに妙に冷静な顔をしていた。
「その顔、演技で作れるほど器用じゃないでしょ」
「カルマ君……」
「でも、殺せんせーをここに呼んだのは渚だよね」
その一言に、胸が痛く縮む。
「うん」
「本気で殺そうとした?」
「……うん」
「そっか、なら仕方ない」
カルマ君がぼくの頭を撫でる。
その横から、カエデが駆け寄ってきて、なぜかぼくをカルマ君から遠ざけた。
「渚、大丈夫?」
カエデがぼくの髪から汚れを取り払うように手で擦る。
「大丈夫、じゃないかもしれない」
うまく笑えないまま答えると、カエデは少しだけ眉を下げた。
「ごめん、渚に名雪先生は殺し屋かもしれないって聞いてたのに、全然疑えなかった」
「ううん、仕方ないよ」
磯貝君も近づいてきて、地下空間全体を見回す。
「状況整理しよう。まず、渚も騙された側だ。それはもういいな?」
寺坂君が「はあ!?」と声を荒げかけたけれど、磯貝君は珍しく強い口調で続けた。
「いいな、って言ったんだ。今ここで内輪揉めしても、あいつが喜ぶだけだろ」
少しの沈黙のあと、寺坂君は舌打ちして顔をそむけた。
「……ちっ」
「ていうか、マジで名雪先生が殺し屋だったのかよ……」
前原君が呆然とした声で呟いた。
「いや、あの人、どう見てもそういうタイプじゃなかったじゃん」
「だよね……」
陽菜乃が青い顔で頷く。
「ちょっと頼りなくて、優しくて……あんないい先生だったのに」
「普通の先生がこんな真似するかよ」
岡島君が吐き捨てる。
「でも信じらんねえよ。だって、あの名雪先生だぞ?」
「俺がどんな下ネタ言っても笑って許してくれたのに」
岡島君が言った。
その時、速水さんがはっとしたように振り向いた。
「殺せんせーは?」
みんなが一斉にそちらを見る。
ぼくも振り返った。殺せんせーは落下の衝撃からか、数メートル先の床の上で触手を広げていたけれど、すぐにむくりと起き上がった。
「ぬるふふ……皆さん、全員ご無事ですね。何よりです」
「ごめん、殺せんせーのこと放置しちゃってたー」
「先生悲しいです」
「超生物だし大丈夫かなって」
「ちょっとは心配してくださいよ!」
「てか、先生も閉じ込められてるじゃん! どうすんの?!」
「その通りです」
殺せんせーは珍しく即答した。それから、ぼくの方を見た。
一瞬、目が合う。
責める色はなかった。ただ、痛いくらいに真っ直ぐだった。
「渚さん」
名前を呼ばれただけで、喉が詰まる。
「話は、あとで聞きます」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
今じゃない。責めるのでも、許すのでもなく、先生はあとで聞くと言った。つまり、ぼくが逃げてもなかったことにはしてくれない。
それが逆に、ありがたかった。
『感動の再会みたいだね』
スピーカーの向こうで、死神が笑う。
その声は軽い。余裕があって、ぼくたちがどう動くかすら楽しんでいるみたいだった。
『いいよ、好きに話して』
『君たちが結束するのも、責め合うのも、どちらでも私には都合がいい』
「てめえ……!」
寺坂君が天井を睨みつける。
けれどカルマ君は逆に、ふっと笑った。
「その言い方、余裕あるふりしてる小物って感じでちょっとダサいよね」
『そうかな』
「少なくとも、"放っといても崩れる"ならわざわざ話しかけてこないでしょ」
その指摘に、死神は少し黙った。
でもすぐに、また笑う。
『さすが赤羽君だね』
「褒められても嬉しくないけど」
地下空間は横長で、訓練施設の残骸みたいなものが散らばっている。消火器、毛布の入った備蓄棚、非常用のヘルメット、折りたたみ担架、配線の見える制御盤。壁際には通気口らしき格子もいくつかある。
脱出できない空間じゃない。少なくとも、そう見える。
「まず、どうにか脱出口を探すべきだと思う」
磯貝君が言った。
「先生が全部ぶち抜くのは?」
岡島君が聞くと、殺せんせーは苦笑した。
「やろうと思えばできなくはありませんが、それを見越して別の仕掛けを用意している可能性が高いです。特に、生徒を巻き込む類のものを。そうでなくても、皆を巻き込みかねない」
「だよね」
カルマ君が軽く肩をすくめる。
「じゃあ、騙された側同士、地道にやるしかないか」
その言い方に、ぼくは少しだけ顔を上げた。
騙された側どうし。
その中に、ぼくも入れていいんだろうか。
「渚ちゃん」
今度はカエデじゃなく、磯貝君が呼んだ。
「ここに来る前に死神から何を聞いた? 使えそうな情報、少しでも思い出せるか」
責めるための質問じゃなかった。
戦うための質問だった。
ぼくは震える息を整えて、記憶をたぐる。
「……館内設備の配置」
「非常用の制御系統は地上と地下で一部分かれてるって」
「あと、煙体験エリアと避難通路は訓練用だから、完全密閉じゃない。どこかに排気のためのルートがあるはず」
「通気口か」
速水さんがすぐに反応する。
「格子のサイズ次第だけど、人が通れなくても配線や風向きは読める」
「訓練施設なら、警報やシャッターに手動介入できる部分があるかもしれない」
「じゃ、役割分担しよう」
磯貝君が場をまとめていく。
「カルマと渚は、死神が使いそうな罠の想定。あいつの考え方が一番読める」
「速水さんと千葉君は通気口と空間構造の確認」
「奥田さんとイトナは制御盤」
「他は周囲の物資確認と、使えそうな道具の回収。単独行動はなし」
「おっけー」
「了解」
返事が次々に重なった。誰も「渚は外せ」とは言わなかった。それが、ひどく苦しかった。
カルマ君がぼくの隣にしゃがみ込む。
「立てる?」
「……うん」
「なら働いて。落ち込むのはあと」
「今は、渚ちゃんが一番この施設を理解しているんだから」
慰めよりずっとありがたかった。
ぼくは立ち上がって、もう一度周囲を見た。
みんなが動き始めている。
怒っていないわけじゃない。傷ついていないわけでもない。それでも、今優先すべきことを選んでいる。
それが今のE組の答えだった。
「……ごめん」
思わず漏れた声に、カルマ君が片眉を上げる。
「なんて?」
「ごめん!」
軽く背中を叩かれた。
「今は、出口探そ」
ぼくは頷いた。
頭上のスピーカーは静かだった。死神はまだ見ている。きっと、ぼくたちが責め合って崩れると思っていたはずだ。
でも、そうはならない。
少なくとも、今は。
先生をここへ呼んだのは、ぼくだ。
みんなを巻き込んだのも、結果的にはぼくだ。
その事実は消えない。
だけど、だからこそ。
今度こそ、自分の足で立たなくちゃいけない。
「では皆さん、脱出授業の開始です」
殺せんせーの声に、何人かが笑った。
こんな状況なのに、笑ってしまえるのがE組らしいと思う。
ぼくはまだ笑えなかったけれど、それでも前を向けた。
ここから出る。全員で。
「ちょっといいか」
それまで黙って周囲を見ていたイトナ君が、そこで初めて口を開いた。
「みんなにここを出るための提案がある」
原作からの変更点
・渚の進路相談+暗殺
・死神に騙される渚
映画を楽しみに最新話を投稿しました。