ただでさえ、非日常的な東京武偵高校には『三大危険地域』と呼ばれる、とりわけ物騒な場所がある。朔哉や亮が所属している『
普通の人間はそう考えるかもしれないが、そこは武偵高だ。普通の生徒が希少なこの学び舎において、彼らを教育する先生方も普通であるはずがないのだ。特に前歴が……。警察OBや元自衛官など危険ではあるが、真っ当な仕事に就いていた人間だけならまだ良い。しかし、中にはマフィアや殺し屋や傭兵など、聞いてから後悔するような経歴を持っている人間がゴロゴロいる。
そんな
(……5階?)
付属中の時から在籍4年目になるが、こんな上まで来たのは初めてだった。
それから、少しばかり廊下を歩くと『校長室』というプレートが掛けられた、やや豪奢な造りの扉の前で止まる。
「どうやら、ここらしいな」
そう呟いた千冬は扉をノックして部屋に入り、朔哉も後に続いた。
「失礼します」
「……失礼します。
蘭豹のいつも背負っている、馬鹿みたいに長い斬馬刀は今日は見当たらない。恐らくは武偵高のイメージを損なわせないためだろう。ご苦労な話だ。まあ、冗談はともかく……朔哉は二人に向かって頭を下げる。先生方にはとんでもない迷惑をかけてしまった。
「矢常呂先生、蘭豹先生。この度は多大なるご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ありません」
「た、大変なことになっちゃったわね……」
「まさかウチから出てまうとはな……」
どうやら彼女たちは朔哉に対して、怒っているのではないらしい。
では何故そんなに機嫌が……と思い部屋を見渡すと
(ああ……そういうことか)
奥のソファーに足を組みながら座り、何食わぬ顔で茶を飲んでいる安堂がいた。
恐らくは彼女が何か先生方を怒らせるような発言をかましたのだろう。朔哉本人の悪口やら、武偵自体の侮蔑だの内容はいくらでも考えられる。
(何て命知らずな……)
蘭豹は恐ろしさは見た目通りなのだが、朔哉が最も恐れているのは一見とても優しそうな矢常呂イリンだ。
こんな話がある。以前、朔哉が
矢常呂先生が本を読みながら、笑みを浮かべていた光景を。そして、その笑みが普段生徒たちに向けている天使のような微笑みとは真逆のゾッとするような黒い笑みであったことを。
本の題名や内容は分からなかったが、堅気の人間が読んでいい物ではないだろう。いや、そうに決まっている。
「こんにちは斎藤君。お待ちしてましたよ」
そんなことを思い出していると正面から不意に声を掛けられた。
(……?)
目線を上げると、どこの部屋にでもありそうな観葉植物と『校長
(校長先生ってこんな人だったか?)
この男の特徴を思い出そうとするが、思い出せない。始業式や終業式など行事で何度も目にしているはずなのに……。
そもそも朔哉の記憶の中に目の前の男の情報が殆ど残っていないのだ。
いや、今問題なのはそこではない。そもそも、ドアの真正面にこの人は居たのだ。入室したら真っ先にこの人物が目に入るはずなのに……何故だ? 何故、全く気付けなかった?
チラリと真横に目をやると、千冬も同じように驚愕から目を見開いている。……良かった。自分だけがおかしくなったのではないらしい。
朔哉は再び、正面に座っている男性を見据えた。
緑松武尊―――――通称は『見える透明人間』
人間には多かれ少なかれ、外見に必ず特徴がある。顔や髪型、声や身長など例を挙げればキリが無いのだが、その情報を見ること、聞くことによって人は他人を覚えていく。
しかし、目の前の男はそれら全て何もかもが、日本人の平均であるという説があるのだ。
何度見ても思い出せない、覚えられない。
だから声を掛けられるまで気付かなかったのだろうか? これはもう影が薄いというレベルの話ではない。
(おいおい、勘弁してくれよ……)
朔哉は震える手を強く握り締めた。手に汗が滲んでいる。
目の前にいるのが、校長だったからまだ良い。だが、もしも万が一、犯罪者だったら?
この部屋に入った瞬間……自分の頭には風穴が開いていた。
それを想像しただけで、恐怖から顔が真っ青になっていく。今すぐにでもここから逃げ出したい衝動を必死で押さえ込んでいると、イリンが小声で囁いた。
「斎藤君、校長先生にご挨拶を」
極度の緊張を何とか和らげ、朔哉は姿勢を正した。そしてデスクに座ったままの緑松に頭を下げる。
「……失礼しました。斎藤朔哉です」
「はい、はい。校長の緑松です」
頭を上げると緑松も笑顔で返した。その笑顔もどこか張り付いたようなもので、感情は読み取れない。
「ご気分は如何ですか?」
「は、はい。何の問題も……」
「それは何よりです」
満足そうな緑松は「どうぞ」と着席を促した。
「とりあえず、お茶でも飲んでください。落ち着きますよ?」
「い、頂きます……」
出された湯のみに口を付ける。香ばしい緑茶は朔哉の冷えた身体を芯から温めた。
「それでは……」
全員が席に着き千冬が話しを始めようとした時、イリンが口を挟んだ。
「もう少し、待っていただけませんか? 斎藤君のお父様がもうじき到着されるので」
「……え?」
危うく、手に持ったままの湯のみを取り落としそうになった。それから、困惑と抗議の色が混じり合った視線を彼女に向ける。
「も、もしかして父を呼んだんですか?」
「ええ。斎藤君は武偵とは言え、まだ未成年よ? 保護者の同伴が……」
彼女は極々、当たり前のことを言っている。それは朔哉も分かってはいるのだが……どんな時も家族を優先してきた、あの父のことだ。息子の危機とあらば仕事など投げ出してくるはず。
しかし、父の仕事は”普通”ではない。いくら家族の大事とは言え、私用で抜け出せば父の立場と信頼が更に揺らいでしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。
「お連れしました」
だが、タイミングが良いのか悪いのか……丁度、新任教師の高天原ゆとりが父、真臣を連れて入室してきてしまった。真臣はグルリと部屋を見渡すとソファーに座り俯いている朔哉を認める。
「どうも、遅くなって申し訳ない」
「お待ちしてました。どうぞこちらに」
イリンに促され、朔哉の隣に真臣が座る。するとその様子を見ていた緑松がクスリと微笑んだ。
「?」
キョトンとした表情の朔哉に緑松は極普通の会社員が取引先の相手に社交辞令で向けるような笑顔で続ける。
「いや……やはり親子ですね。よく似ている」
朔哉は恥ずかしさで顔を真っ赤にしたが真臣は嬉しそうに微笑む。いくらか空気が和んだところで千冬が咳払いをして仕切り直した。
「それでは改めて……斎藤朔哉君、君はISを起動させた二人目の男だ。今現在も一部のIS関連の研究所や企業が君を勧誘してきている。まだこの件は公になっていないはずなのだがな」
それは、あれだけ周囲に人がいたのだ。しかも目撃者は毎日のように携帯電話を使用する高校生。いくら緘口令を敷いたとしても、たった一人でもネットにその事を書けば、あっと言う間に広がってしまう。朔哉は生まれて初めてネット社会を恨んだ。
「えーっと……馬鹿なこと聞きますけど、勧誘に応じたら俺どうなります?」
「モルモットは確実だろうな。嫌か?」
「もちろん」
「そうだろうな。そこでだ、君に提案があるのだが……どうだろう、聞くかね?」
「……伺います」
IS学園。ISの操縦者や開発に関わる人間のほとんどが通う、超エリート校だ。彼女の提案とはそこに来ないかというものだった。少なくとも学園に居れば3年間は安全であるという。
朔哉がまず驚いたのは、学園はあらゆる国家機関に属さず、いかなる国家や組織、団体であろうと学園の関係者に対して一切の干渉が許されないという規約であった。数年前のとある事件により、この規約は多少緩くなってはいるため、全く干渉されないということは無いが、安全性に関しては研究施設とは雲泥の差がある。
千冬の提案を聞くと、今まで無表情だった真臣の表情が少しだけ険しくなった。
「どうでしょう? 研究所よりかは格段にマシだと思うのですが」
「……そこに行けば、本当に息子の安全は保障して頂けるんでしょうか?」
「ええ、もちろんです。約束します」
「……って話らしいが……朔哉、どうする?」
「俺は……」
真臣の問いに何と答えたら良いのか、朔哉は迷っていた。恐らくこの選択で自分の一生が決まる。
「私は反対ですけどね」
その時、茶を飲んで無言を貫き通していた安堂がついに口を開いた。場の空気をぶち壊した彼女に視線が集まる。
「IS学園は女のみ立ち入ることが許された神聖な場所よ。こんな……どこの馬の骨とも分からないような男を聖域に入れるんですか? どこかの研究所にでも放り込めばいいじゃない」
「あなたは黙っててくれ……!」
やや声を荒げた千冬が元凶を睨みつけた。折角、上手く話を纏めようとしていたのに……。
IS委員会日本支部の命令とはいえ、こんな女を連れてくるのではなかったと内心舌打ちする。
もうこれ以上、彼女が醜態を晒すのを見たくなかった。そんなことをすれば、余計に自分たち女の価値を下げてしまう。何故、それが分からないのか?
”馬鹿を言え。自分で蒔いた種だろう”
心の中の自分が冷めた目で言い放つ。
……その通りだ。今の社会の形は自分たちが作り上げてしまったようなもの。悪友の戯言に唆された8年前。若さ故の過ちなどといった都合のいい解釈ではすまされない。後悔してもしきれなかった。しかし、だからこそ目の前の少年の未来を滅茶苦茶にさせるわけにはいかない。それが今、自分に出来る一番の償いなのではないか?
そう考えた千冬は自ら武偵高に来ることを志願したのだった。彼女は思い悩んでいる朔哉を見据える。その目は不安と恐怖心に満ちていた。
「選ぶのは君だ。どうする?」
考えるまでもなく、研究所は地獄。IS学園も安堂みたいな女ばかりなら、同じような物だろう。だが、どちらも地獄なら……せめて人間らしく生きられる場所が良い。
IS学園への転校。
それ以外に逃げ道は無い。それは朔哉にも真臣にも十分理解できた。
「……分かりました。IS学園に行きます……」
「そうか……」
千冬がホッとしたように頷いた。
こんな人だけなら良いのにな……。心の中でそう願ったが、世の中、そこまで甘くは無い。
だから今、自分がするべきことは自分の状況を少しでも良い方向へ持っていくことだ。
「ですが、俺にも条件があります」
「……聞こうじゃないか」
それは千冬にとっても想定内だったようだ。朔哉にも自身の要求を提示できる権利はあるらしい。問題はその要求を聞き入れてもらえるかどうかなのだが……。
「俺が出す条件は二つ。まずは、武偵ライセンス保持の継続。そして俺の情報の規制。この二つは絶対条件として提示させてもらいます」
今、こうしている間にも朔哉の情報はネットに乗り続けている。
正直言ってマズイ。今まで自分がぶち込んできた犯罪者の中には既に釈放されている者もいる。奴らが報復に来る可能性も十分に考えられるのだ。それが朔哉個人に向けての物だけならまだ良い。だが、自分に少しでも関わった人達に迷惑や危害が及ぶことだけは絶対に避けたかった。
武偵ライセンスに関しては言わずもがな。ISを動かしたことにより朔哉の立場は大きく変わったが、現状で自分の身を守れるのは帯銃許可も兼ねたあの
しかし条件を出した途端、安堂がテーブルを叩きつけた。卓上の湯飲みが揺れ、中身が小さく波を打つ。
「ふざけないで! IS学園に男が入るだけでも許せないのに、しかも銃まで持たせろって!? そんな物、今すぐに―――――」
「ところで俺の銃、知りませんか? 目を覚ました時には無かったんですけど……」
「ちょっとあんた! 話、聞いてるの!?」
「うるせえぞ、口を閉じろ」
「……ひっ……!」
安堂が情けない声を上げて、来客用のソファーに座り込んだ。朔哉が少し低い声を出しただけで、だ。
「なあ安堂さんよ。ウチが口出すんはどうかと思うんやけど、ちょっと自分勝手すぎやしませんかねぇ」
「なっ……」
呆れた様子で話に入ってきたのは今までずっと黙っていた蘭豹だった。
「コイツはな、まだまだ未熟な部分もあるんやけど、これからの
「あなた……かなりヒステリックね。心に余裕が無い証拠よ。良いカウンセラー紹介してあげましょうか?」
イリンにトドメを刺された彼女は憎々しげに眼前の武偵高教師達を睨む。
「安堂さん……」
「……!?」
千冬が自分のことを見つめている。怒りを向けられていたわけではない。どこか、哀れむような表情に彼女はついに黙り込んだ。千冬は気を取り直して朔哉に向き直る。
「君の要求については分かった。個人情報の規制は約束しよう。しかし、武偵免許に関しては約束できない。私の一存では決定できないのでな」
確かにそうかもしれない。見たところ、織斑千冬はいわゆる”現場”の人間だ。一個人の処遇の決定権まで期待するのは早計すぎる。
「斎藤。その件については
「……分かりました」
渋々、頷いた朔哉の肩に蘭豹は肩を回して囁いた。
「心配すんなや。お前にも何か目的があるんやろ? 本人の同意無しに勝手にライセンス剥奪なんてさせへん」
「……ありがとうございます」
ああ……自分は良い先生に恵まれた。普段は人間バンカーバスターなどと呼ばれ、生徒に「死ね!」「殺す!」と言いながらM500をぶっ放す彼女だが、本当に生徒が危機に晒されれば、手を差し伸べてくれる。
嬉しくなった朔哉は少しだけ甘えたくなった。
「蘭豹先生、さっきのは交渉術としては何点ぐらいですかね?」
「あー、Aマイナスってところやな。悪くはなかった」
「……? プラスじゃない理由は?」
「もっとアグレッシブに行っても良かったで。お前はもう少し、図々しくなった方がええ」
「分かりました。……あの先生、もし俺が武偵高に帰ってこられたら、今の単位くれませんか?」
「お前、急に図々しくなりすぎやで……」
その後、朔哉に対してIS学園の簡単な説明が行われた。必要書類にサインをし、電話帳程の分厚さのある参考書を渡される。入学日までに目を通しておけということらしい。まあ最悪は丸暗記してしまえば良い。理解するのはそこからだ。それから武偵高の寮から出ることになった。IS学園の入学日まで実家での待機を命じられたのだ。荷物は武偵高側がIS学園に発送してくれるらしい。それはありがたかったのだが、ルームメイトである亮が一人になることだけが心残りだった。
その後、真臣の運転で帰宅したのだが……
「…………」
「どうした? 何か言いたそうだが」
いつもどおりに車を運転している父に朔哉は罪悪感と疑問を抱くしかない。しばらくの間、二人とも無言だったが最初に切り出したのは真臣だった。
「何か聞きたいのか?」
「……父さん仕事中だったんだろ? こんなこと言うのはアレだけど……戻らなくていいのか?」
「ん? 大丈夫。今日はもう上がりだよ」
「……でも」
それでも不安そうな息子に真臣は苦笑を浮かべながら、黒い日産のFUGAを横断歩道の前で停止させた。そして真横に顔を向けるとやや悪戯っぽく笑う。
「朔哉、良いこと教えてやる。信用や信頼ってのはな、貯金なんだよ」
「?」
急にどうした? と怪訝そうな顔をする朔哉に真臣はこう続けた。
「普段から仕事で結果残して、約束守って、周りの期待に応えていればな、ちょっとやそっとで揺らぐことは無い。まあ、限度はあるけどな」
「……あんまり使いたくない貯金だな」
「はっはっは! 坊やにはまだ難しいかな?」
「誰が坊やか。……ったく、いつまでも子供扱いして……」
高校生になっても、一人前として扱ってもらえないことに頬を膨らませる。
「……子供だよ。いつまでも」
息子には聞こえないように呟いた真臣は、信号が青になったのを確認すると静かにアクセルを踏んだ。
◇
-港区元麻布 斎藤宅前 6:10 p.m.-
FUGAの助手席から外の様子を確認した朔哉は、げっそりと下を向いた。
(勘弁してくれ……)
自宅の前の通りを大勢の人間が埋め尽くしている。ざっと数えただけでも、3、40人は居るだろう。手には撮影用のカメラやマイクレコーダー、エトセトラ、エトセトラ……。そう、彼らは報道陣だ。
(マジかよ、おい……)
改めて自分のしでかしたことが、とんでもないことだということを実感する。
マスコミは嫌いだ。以前、キンジの兄の件で寮まで押しかけられたことがある。あの時期のキンジの憔悴しきった顔は忘れられない。
彼だけでなく、武偵高の生徒にも記者が纏わり付いたことがあったが、学校側から言われた通りに知らぬ存ぜぬを貫き通した。それでもしつこかった奴はいたのだが、ある日を境にマスコミの追求はピタリと止んだ。皆、驚いていたが朔哉は別に気にもならなかった。
なんてことはない。少し注意しただけだ。新聞社としても平成の世にフ○イデーの二の舞だけはご免らしい。
「おいおいおい……」
真臣が面倒くさそうな顔をするが、今更来た道を引き返すわけにもいかない。
「どうする……?」
「仕方ない。何も話さずに急いで家の中入れ。後は俺に任せろ」
「……分かった」
朔哉は助手席から飛び出すと、玄関まで一直線に駆け出した。しかし―――――
「あ! 帰ってきたぞ!」
「斎藤さん! 話聞かせてくださいよ!」
「IS動かしたんでしょー!?」
車を降りた朔哉に気付いた記者たちが一斉に群がってくる。まるで甘い汁を見つけた蟻のように……。
(う……うぜえ……!)
ネットに晒した奴を探し出して、いつか締め上げると心に誓った朔哉は逃げるように家のドアを潜った。問題行動を犯した芸能人ってこんな感じなのだろうか?
父は記者たちに向かって何か言ってるようだが、よく聞こえない。2階に上がり、自室のベットに倒れ込む。一気に疲れが押しよせ、強烈な睡魔に襲われた。このまま寝てしまったら、どれだけ気持ちが良いだろう。
(……そうだ、あいつには連絡しないと)
しかし、まだやるべき事があった。眠い目を擦りながらも、スマホを取り出して相棒に電話をかける。そして1回目の呼び出し音が鳴った時―――――
『……っ!? もしもし朔哉君!?』
いつもの穏やかな様子とは打って変わって、焦燥感に駆られた亮の声が聞こえてきた。どうやら、このパートナーは自分の思っていた以上に自分の身を案じてくれていたらしい。
「よう、亮!」
『ようって……大丈夫なのかい?』
「ああ! 何とかな」
不自然なくらいの明るい声。こんな高い声も出せるんだなと自分自身でも驚く。心配をかけたくなかった故なのだが、むしろ逆効果だったようだ。
『……嘘はやめてよ』
「え?」
『これでも1年近く、一緒に活動してたんだよ? 電話越しでも声聞けば大体の事は分かるさ』
そう言った後に彼の溜め息が聞こえた。先生に続いて、彼にまで迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思う。それと同時に心配してくれていたことが本当に嬉しかった。
「なあ、亮? 聞いてくれ。俺はしばらくの間、そっちに戻れそうにない」
『……え?』
「武偵高を離れなきゃならないんだ。理由は……その……」
『ああ……うん。分かるよ……』
千冬から、今日のことはまだ内密にしろと言われている。ここまで自分を心配してくれる親友にまで隠し事をしなければならないことに胸が痛んだが、察してくれる彼の懐の深さに感謝した。
「俺まで居なくなっちまってさ、済まない……本当に……」
『謝らないで? 僕は大丈夫だから』
ルームメイトを立て続けに失って、ショックだったはずだ。しかし、それを態度には出さず相手のことを気に掛ける。不知火亮はそういう男なのだ。自分には勿体無いくらいの相棒だと改めて感じる。
「俺の部屋の物は好きに使ってもらって構わないからさ」
『うん、ありがとう。あ、そうだ。朔哉君の荷物とか武器は先生に預けておいたから』
「……そうか、助かったよ。いや……本当に…………」
言いたいことや伝えたいことは山程あったが、色々な感情が込み上げ言葉に詰まってしまう。
今、自分は彼に何を言うべきなのだろうか? 感謝? 謝罪? いや……違うだろう。
『……朔哉君?』
「ん? ああ、いや……大丈夫だ」
ようやく口を開けたのは亮に名前を呼ばれた時だった。
一度、携帯から耳を離し大きく息を吸う。
馬鹿馬鹿しい。何を躊躇っているんだ、迷う必要など無い。言うべきことなど、今はこれしかないではないか。
「……なあ、不知火亮」
『う、うん。どうしたの? 急に改まって』
キョトンとした声を亮が上げる。
当然だ。朔哉はフルネームで彼の名前を呼んだことなど、一度も無かった。
「その……お前はさ、最高のパートナーだよ」
日頃、恥ずかしくて言えなかったその言葉を伝えると……胸のつかえが取れていくのを感じた。
電話越しに亮が息を呑むのが分かる。
『……ありがとう』
それからしばらくの間、二人の会話は続けられ……朔哉の精神的疲労も大分、回復していった。
◆
全てが終わり、千冬がIS学園に戻った時は既に21時を回っていた。少々遅くなってしまったと腕時計を確認した彼女の顔からは、やや苦い表情が読み取れる。
明日も平日だ。通常通りに授業がある。軽く食事を取り、シャワーを浴びて早く休みたい。
それにしても最初に連絡を受けた時は頭を抱えたくなった。自分の弟に続き、また男のIS適性者が現れたとあっては無理も無いかもしれないが。
しかし……何故、動かせた? 弟が、一夏がISを起動できた理由は何となく想像できる。旧友である、篠ノ之束が何らかの細工を施したのだろう。
では、あの少年……斎藤朔哉は?
束とは何の関わりも無いはずだ。あの女が一部を除いた他人に興味を示す可能性は低い。
一応は連絡を取ろうとしたが、相変わらずの音信不通。念のため、
どうも腑に落ちない。そうなれば、男がISを動かす理由など見当もつかなくなる。
(もう少し、調べる必要があるな……)
ため息を吐く千冬。だが収穫が全く無い訳では無かった。
―――――斎藤朔哉。
彼の経歴は明らかにおかしいのだ。最初は少々、一般の高校生とは違う程度かと思っていた。ところが細かく調べれば調べる程、幾つかの矛盾が生じてくる。
例えば経歴上、彼は1993年2月1日に都内の某大学病院で誕生している。しかしその病院に問い合わせても、その日に斎藤朔哉という名の赤ん坊が生まれたという記録は存在しないというのだ。
幼少期に通っていた小学校も転校の繰り返しで
彼の父親に至っては更に謎だ。
―――――斎藤真臣。
元警察庁のキャリア組。優秀な官僚だったが現社会の風潮により降格、左遷され様々な県警を転々としたようだ。現在は警視庁の公安部に所属しているが、分かっているのはそれだけ。彼の詳細な経歴は一部の幹部を除き、閲覧自体が許されていない。
(彼らは……一体、何者なのだ)
そして千冬が特に気になったのは、既に死亡している彼らの家族についてだった。
朔哉の母親と彼の双子の弟は今から5年以上前に交通事故で亡くなっている。いや、それだけなら不幸な事故で済ませられるのかもしれない。だが……二人が無くなった時期と真臣が降格した時期が"丁度"重なっているのだ。単なる偶然かもしれないが、違うのかもしれない。今の千冬に真偽は分からなかった。
(……ん?)
長い廊下を渡り職員室へ向かうと、まだ灯りが点いていることに気付く。
(まだ、誰か残っているのか?)
そう思い中に入ると、彼女の同僚たちが4人残ってお喋りをしていた。こんな遅い時間にも関わらず、楽しそうにガールズトークに花を咲かせている。
「ただいま戻りました」
そう声をかけると、ようやく彼女たちがこちらに気付いた。
「あら! 織斑先生、お帰りなさい」
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
「遅かったですね」
四者四様の返事。彼女たちの手にはそれぞれ、お気に入りであろうマグカップが握られている。
「先生方、こんな時間まで何を?」
「何って、織斑先生をお待ちしていたんですよ?」
当たり前のように言ったのはカナダ出身の数学教師、エドワース・フランシィ。25歳で現在彼氏募集中だ。
「私をですか?」
はて? と千冬は首を傾げる。何か、連絡事項でもあっただろうか? しかし、記憶を探っても特に思い当たる節は無い。
「二人目の子が見つかったんですよね?」
「どんな子でした!? 聞きたいことが山程あるんです!」
何と……わざわざそのことを聞くためだけに、こんな時間まで残っていたらしい。
(全く、この人たちは……)
呆れた千冬は黙って背を向けようとしたが、彼女達に半ば無理矢理座らされてしまった。
タブレットを取り出したフランシイが画像をスライドさせると、彼女達の目の前に空中投影ディスプレイが現れる。そこには端正な顔立ちをした少年の写真が写されていた。端正と言っても、一人目の男性IS操縦者である織斑一夏とは正反対の雰囲気。目付きが鋭く、写真からも眼前の人間を射抜くような威圧感を感じる。
不機嫌そうな彼の表情に多少の罪悪感を抱きながらも、千冬は女子会に参加した。
「えーっと、斎藤朔哉君。東京武偵高校1年A組、
プロフィールを読み上げた国語教師の榊原菜月が感嘆の声を上げる。
「優秀な子みたいね。会うのが楽しみ」
「で、でも……怖そうですね……」
山田真耶という眼鏡をかけたショートカットの教師が不安そうに言うが、白衣を着た保険医の
「そうかしら? 私は可愛いと思うわ」
「えー? 緒方先生、趣味悪いですよー」
「あら。こういうツンツンしている子ほど、接してみると可愛いものよ?」
そう言った章子は千冬のカップにもコーヒーを淹れながら話を振る。
「千冬ちゃんはどう? 実際に会ってみて」
「そうですね……」
渡されたマグカップで冷えた手を温めながら千冬は考える。
「最初は少し強かなだけの少年だと思いました。しかし、年齢に不相応な威圧感があります。武偵とはいえ……まだ16そこそこの少年であるはずなのに……」
ディスプレイの朔哉の顔を改めて見る。少なくとも高校生のしていい目付きではない。
矛盾のある経歴、潰された父親のキャリア、そして母と弟の死……。
今の彼を形成している物の中には間違いなくこの3つが含まれている。
(…………はぁ)
彼が何者なのかは分からない。
しかし、この学校の生徒になる以上は自分は教師として彼に接するだけ。それだけは間違いない。
今年は例年よりも忙しくなりそうだ。
覚悟を決めた千冬はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干す。ブラックならではの苦味は、今後襲い掛かる苦難を予測させるには十分過ぎるものだった。