「む……」
遠坂邸。
その地下に存在する魔術工房の奥で、遠坂時臣は低く唸った。
三年後に迫った聖杯戦争。万能の願望器を巡りこの地方都市で行われる大儀式を前に弟子を迎えるに当たって、魔術師の心臓部ともいえる工房の整理をしていたのだが―――戸棚の奥から取り出された一つの礼装に、思わず動きを止めていた。
彼が手に取ったのは、一〇年ものの歳月の中で表面に埃を被った一振りの短剣。刀身にあたる部位に複数の宝石を埋め込まれたそれは、彼の努力と挫折の結晶であった。
宝石剣ゼルレッチ。
時計塔に君臨する魔道元帥キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの保有する最大の礼装は、空間に『穴』を穿つ事で無数に存在する平行世界からそれこそ無限大の魔力を収集するという。
かつて遠坂の始祖が魔法使いより預けられたのは、その設計図だ。
『課題』として要所に虫食い状の隠蔽を施された設計図を完成させ、第二魔法へと至る―――それがかつての遠坂の悲願であり責務だったのだが。
それが容易く成し遂げられるのであれば、何も苦労はしなかった。結果として二〇〇年ものの間、遠坂は『課題』をこなせずにいる。
そして、魔術師として平均以下の素養しか持ち得なかった時臣もその例に漏れず―――若き頃に全力を尽くして作成した宝石剣は、完全な失敗作であった。
「……もう、あれから一〇年が過ぎたか……気付けばあっという間だったな……」
青臭さが目立ったかつての自分に思いをはせ、過去を懐かしむように穏やかな笑みを浮かべる。手の中の宝石剣を見やり、その性能を改めて確認した。
―――身を引き裂かれるような激痛、莫大な魔力消費。耐久度においてはオリジナルと比べるのもおこがましく、あと一度の運用で容易く砕け散るだろう。形成する『穴』に関しても、極小の『穴』からは一縷の魔力すらも得られることはない。
「……やれやれ」
そもそも礼装の構造、魔術理論からして確立していないのだから完成させられる訳がない。恐らくは今の自分が作ろうとしてもこれ以上の出来を期待することはできないだろう。
自嘲気味に思考を巡らせる時臣は、ふと二人の愛娘の顔を思い浮かべる。
片や五つの属性全てを兼ね備えた『
あの二人ならば第二魔法、いや、あるいは『根源』にも至るだろうか―――、
「……!」
そこまで思考を巡らせた瞬間、思い浮かんだ一つの考え。目を見開いた時臣は宝石剣を凝視する。
「いや、しかしこれは魔法の域……だが、魔術儀礼で範囲を限定し、幾重もの補強を施した上で『穴』に干渉すれば―――行けるか……?」
それは、もはや天啓に等しかった。突如閃いたそれに彼は頭を全力で回転させ、脳内で精密な魔術理論を組み上げる。
やがて、確信の笑みを浮かべた彼は宝石剣の柄を力強く握りしめた。
「試してみる価値はある、か―――早速準備に取り掛かるとしよう」
成功の暁には、ほぼ間違いなく聖杯戦争での勝利が約束される。敵対することになる5人のマスターがどんな英霊を召喚したとしても恐るるに足らないだろう。
不敵な笑みと共に、時臣は一人動き出した。
「平行世界の観測、ですか?」
感情を見せることのない平淡な声音。二週間前正式に弟子となった男―――言峰綺礼の言葉に、儀式の準備を進める時臣は気品ある笑みと共に頷いた。
「あぁ。だが聖杯戦争に参戦する七組の中でも、既に二柱の英霊を抱えることが確定している我々は他陣営に比べ十二分にアドバンテージを抱えている。必要性がないともいえるこの儀式にここまで力を入れるのも私自身思うところはあるが……まぁ、念には念を、ということだ。験担ぎに近いものだと思って貰って構わない」
「はぁ……しかし、私の記憶が正しければそれは第二魔法……『平行世界の運営』にあたる大儀式だと思われますが。それほどのものを行使することが可能なのですか?」
これまた無感動な相槌。彼の指摘した通り第二魔法にも等しい奇跡にまだ理解が追い付いていないのだろうと解釈した時臣は、己の魔力を大量に溜め込んだ宝石を躊躇なく溶解させ、精密に魔法陣を描く。
「そう、確かに、並大抵の備えでできるものではない……だが遠坂の一族は、かの
観測するのは『時臣が「見なかった」聖杯戦争』。起こり得る未来を見通すことによる優位性はまず覆せるものではない。これが成功すればあらゆる陣営に対し有効に立ち回ることができるだろうことは明白だった。
「―――すまない、綺礼君。一度一人にして貰えるかな。まずありえないとは思うが、失敗してしまえば周囲に致命的な被害が出てしまうのでね……工房付近には結界を張っておいたから、出たらそれの管理をお願いしたい」
「了解しました。……要領は、基本的なもので問題ありませんか?」
「あぁ、ありがとう」
―――本来ならもう少し時間をかける予定だったが、ここまで早くこの儀式に取り組めたのもこの新たな弟子による要因が大きい。祖父との繋がりがあった璃正神父の話でも魔術協会に転属する前から求道者として凄まじいものがあったと聞いたが……この僅かな期間で簡単な魔術をこなせるようになるとは思いもよらなかった。
その修身の姿勢に感服すら覚えつつ、一人になった時臣は咳払いをして呼吸を整える。
「――――――
励起させる魔術回路、工房全体からのバックアップを受け周囲に魔力が満ち渡る。
「―――――――――――――――――」
「―――――――――――――――――――――――――――――――」
紡がれる詠唱。意味ある言葉が紡がれる中、魔法陣の中心に設置された宝石剣が光を放つ。
(行けるか……!?)
回路を駆け巡る魔力の奔流、全身を蝕む激痛。それらに構う事無く詠唱を進める時臣は、確かな手応えを感じ取っていた。
唸りを上げる宝石剣、それが罅割れはじめると同時、空間に僅かな歪みが生じるのを察知する。
会心の手応え。目を見開いた時臣は、一息に詠唱を完結させた。
「――――――――――――!」
そして。
そして。
彼は見、彼は聞き、彼は知った。知ってしまった。
三年後、冬木市で行われる第四次聖杯戦争―――そして、
一つの終わり、そして繰り広げられる三つの物語―――それを『視た』時臣は、声にならない絶叫を上げた。
「ただいまー!」
「……ただいま」
「お帰りなさい、凛、桜」
「あら、綺礼さん……どうかされましたか?」
「いえ、工房で導師が儀式を執り行っていたのですが、突然絶叫を上げて、どうもただならぬ様子で……中に入ろうにも内側から強固な結界を張られてしまいましたので」
「あの人が……? 一体どうしたのかしら……」
「あ、お父様!」
「……凛、桜、葵……帰ってきたの、か」
「貴方!?」
「お父様、凄い顔……大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だ……少なくとも、今のところは、ね」
「いったいどうして……きゃ」
「んむ……?」
「お父様……?」
「桜、凛、葵……! すまない……三人ともすまない、本当にすまなかった……!!」
「え……?」
「お父様、泣いてるの……?」
「えっと、えっとえっと、元気出して、お父様!」
「うぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
いつか、とある神父はこう言ったとか。
「全く……あの家系は本当に、優雅を諦めるべきだと思ったな」