魂すらも束縛する契約を受け入れ、渡された宝石を飲み込んだその時。
己は、確かに転機を迎えたのだろう。
「……」
アサシンの一人、ザイードと呼ばれていたハサンが命を落とした翌日―――偽りの敗北者として教会に身を寄せていた綺礼は、一人礼拝堂に足を踏み入れていた。
既に日も沈み更なる戦いが幕を開けようとする中、跪いて祈りを捧げる。瞑目する彼は、あの日見た光景に思いを馳せた。
真紅の瞳でその性を見透かした黄金の王にまんまと唆された自分に、憤りを覚えた。
本来のキャスター、ジル・ド・レェがマスターと共に繰り広げた惨劇に憤怒し―――胸の奥で芽生えた感情に気付き、それ以上に絶望した。
父を苦しめることができなかったことを悔やんでは困惑する己を憎み、しかし共感してしまった。
徐々に歪みを露わにしていった自分の姿に嘆き、同時に『答え』を得た自分をいつの間にか羨んでいた。
―――あぁ、
蟲に呑まれ貪られて行く男、弾丸に穿たれ血だまりに沈む魔術師、理想を否定され苦しみ嘆く少女、背を刺され何も為せぬままに斃れた師、あらゆる
戦いの中で起きた数多の悲劇を見納め、懊悩していた男は悟った。
己の本質を、己の在り方を。
これが私、か―――。
あぁ、ならば受け入れよう。苦悩し絶望しどれ程足掻いて否定しようとも、奔り抜ける光景の中にあったソレと自分は同じ存在でしかないという事実は変わらないのだから。
問い続けるばかりの人生はあの日終えた。
だが―――まだだ。まだ足りない、圧倒的に足りないのだ。
――この世すべての悪。
誰にも望まれぬモノ。ただ悪を為すためだけのモノ。そんなモノがこの世に存在する意味とは何だ。何故、誰にも望まれぬままこの世に生まれ落ちる。
契約を結んだ以上時臣を裏切ることはできないしするつもりもないが、彼がかつて言ったように活路が失われた訳ではない。世界を回るか、いっそのこと『泥』の中にでも飛び込むか―――手段は問わない。愉悦を見出し真理を解き明かし、穢れた聖杯に答えを求めた自分と同じく、己と言う『悪』が生まれた意味を探し続けよう。
もう迷うことはない、彼は何があろうと歩き続ける。その光景を見て、彼はそう決めたのだから。
そして、だからこそ。
彼は、その男を許せなかった。
己がどれだけ求めても手に入れることのならなかったもの。それを犠牲にしてまで勝ち取った聖杯を否定し、破壊した一人の男を。
「……あぁ」
なれば―――純然な悪意でもって、彼を、彼の願いを叩き潰そう。求道の日々の中で終ぞ見つけられなかったこの昂ぶりに従い、あの男を打ち倒そう。
立ち上がった彼の背後に、従える影の英霊が現れる。
「―――アサシンか」
「はっ。盟主時臣殿より、言伝が」
「……」
踊り子のような衣装を身に纏う女性の言葉に、綺礼が目を細める中―――彼女は、淡々と告げた。
「今夜の戦いにおいて……無理をしない限り、自由に動いても構わないとのことです」
「ッ」
―――見抜かれていた、か。
驚愕に目を見開いていた彼は、やがて口元に笑みを形作る。
「……衛宮、切嗣」
憎んでやまない怨敵の名を、静かに呟き。
長身の神父は僧衣を翻し、宿敵のいる戦場へと向かった。
「―――コフっ……!」
こんな、時に―――っ、
固有時制御の、揺り戻し。
気道を塞ぎかけた血を吐き捨てた切嗣は、絶叫するような激痛を堪えて目の前の男をねめつける。
幽鬼の如く揺らめいた神父の手には黒鍵の輝きがあり、僅かでも隙を見せた瞬間彼めがけて放たれることは必至であった。
―――どう、する。
恐らく、いやほぼ間違いなく自分の行動は読まれていた。正面から戦うことなく遠方からマスターを狙撃しにかかることも、戦場の把握に適したデリッククレーンから離れることも……いや、デリッククレーンにアサシンが現れたことも、今思えば自分達の行動を制限する為の布石か。
アーチャーに完膚なきにまで破れたアサシンが何故存在するのかは不明だが、マスターである言峰綺礼が存在する以上逃走経路は完全に潰されたと見て間違いないだろう。例えここを切り抜けることができたとしても、サーヴァントなしでアサシンから逃げおおせることは不可能に等しい。
(ワルサーは損失。キャリコでの銃撃では奴に傷一つ付けられない……コンテンダーならば十分に屠れるだろうが、片腕が潰された今では装填すらもままならないか。残りはサバイバルナイフが一本に手榴弾が三つ……どうにかして隙を作り出して、セイバーを呼び出すしかない)
だが相手は代行者、ヒトの形を取った修羅。迂闊に令呪を使おうものならばその瞬間に切嗣の骸が転がることだろうことは想像に難くなかった。手持ちの武装を脳内で列挙し、目の前の神父を抑え込むことに全力を注ぎ込む。
「―――」
そして、コンテナ群を揺るがすような踏み込みと共に綺礼が駆けた。
直後にばら撒かれたのは短機関銃の弾丸。僧衣に守られることのない頭部も含め全身を撃ち貫かれる筈であった彼は両手の指に挟み込んだ黒鍵を扇のように広げ、その剣身でもって傷一つなく散弾を防ぐ。役目を果たした黒鍵は即座に投げ捨てられ、必殺の拳が唸った。
「
目に移る世界が変わっていく中、その男はとっくに懐に潜り込んでいた。岩をも砕きかねない拳が突き出されるのを見て、切嗣は瞬時にかわせないことを悟る。
左腕は捨てた。
ぐちゃっっ!! と、人体が発してはいけない音と共に骨肉が擂り潰される中、強引に軌道をずらされた拳が空を切る。これまでとは比べ物にならない激痛に脳を焼かれながらも、殺人機械は流れるような動きでサバイバルナイフを引き抜いた。
目を見開いた綺礼目掛け、黒光りする刃が振り下ろされる―――!
「―――この程度か」
「ッ」
首を切り裂くその手前、刃が抑え込まれる。
サバイバルナイフを握る右腕、その手首を片手で捕らえた綺礼は万力のような力で切嗣を抑え込んでいた。
「遅い、遅いな―――
「!?」
決して看過のできぬ発言、本来この男が知る筈のない単語が飛び出してきたことに、切嗣が反応を示すことはできなかった。
直後に、アーチャーの放ったそれを彷彿とさせるような爆発が巻き起こったからだ。
「「―――!?」」
身を翻し離脱する二人。爆心地は決して近くはなかったが、それでも荒れ狂う熱風と衝撃は容赦なく一帯を蹂躙した。
「かは……!?」
爆風の余波に身を叩かれ転がる切嗣。すぐに体勢を立て直し身を起こした彼が目にしたのは―――下半身を炭化させた、ヒトガタだった。
「なっ……!」
絶句する彼は、既に事切れたアサシンを見つめる。少女のシルエットを形作っていたそれは原型を留めていた上半身すらも見る影もなく焼き焦がし、顔面を覆い隠す髑髏の仮面も半ば砕けかけていた。
「―――成程、敗退は偽装だった訳か。蘇生か、あるいは分裂か……厄介なアサシンを連れてるね、代行者」
突如響き渡った新たなる声。銃を手に取る切嗣の視界の隅で歴戦の代行者もまた臨戦態勢を取る中―――未だ燃え盛る炎の中から、一人の青年が現れる。
「……オーウェン・トワイライト、か。あくまで贋作に過ぎぬとはいえ、かの聖人の血を注がれた聖遺物を模したものを吸血種が求めるとは、大した皮肉だな」
「言わないでくれ、自覚してる」
低い声でなぎかけられた綺礼の言葉に苦笑しながら、彼は短剣を振り鳴らす。
「それに、悪名高き
「……まぁ、安心しなよ。多分、死ぬ時はあっという間だから」
その、数十秒前―――同胞からアルナと呼ばれていた少女は、己の気配を消し去って物陰に隠れ潜んでいた。
毒殺、狙撃、爆殺……衆人監視の中の殺害すらも厭わない悪辣な手段を取ることから魔術師からは『
そんな彼等は、同業者である彼が相性の悪い相手―――例えば、白兵戦ならば
割り出した逃走経路の一つを潰す為、彼女はこの場に張り込んでいたのだが―――刃のように研ぎ澄まされた殺気と共に手の中の
オーウェン・トワイライト。
彼女達を従えるマスター、言峰綺礼とその盟主も警戒を向ける『不確定因子』。
キャスターやバーサーカーとも離れてこの場にいるということは、今交戦を行っている二人のマスターを、漁夫の利狙いで仕留める心算だったのだろうが……それを見逃すような失態など、アルナが犯す筈もなかった。
(―――死徒は、不老不死とでも言うべき回復力を持つとのことだったけれど……)
それならば、心の臓を潰したのちに首を取るとしよう。
アサシンという単語の語源にもなった暗殺教団、その教主へと至った最後の山の翁―――『百の貌』のハサン。
その宝具、
音もなく青年の背後に忍び寄った少女は、ぬるりとその姿を消す。
それはさながら蛇か、蜘蛛か―――彼女は霊体となる訳でもなく、人体の構造を考えれば絶対に有り得ないような動きでもって、ふと背後を振り向いたオーウェンの視界から完全に逃れて見せた。死徒の死角に一切気取られることなく侵入した暗殺者は、即座に行動に移る。
「―――」
鋭い刀身を黒光りさせる
「!?」
薄闇に響く鈍い音、背後からの衝撃に青年が体を揺らす。
だが、それだけだった。
「ぇ―――」
死角から放たれた凶刃は肋骨の隙間を穿ち、死徒の心臓を貫いてその活動を速やかに停止させる。
その筈だった。
だが―――背を刺し貫く筈だったダークは、青年の身に纏うコートに接触したところでその切っ先を止めていた。
「っ……」
そう。
この男は、キャスターのサーヴァントを従えていた。
つまり、それに相応しい礼装でもって、己の身を守っていて―――、
「―――何で、アサシンがここにいる訳?」
即座にダークを閃かせ、唯一露出した急所である首を刈り取りにかかる。
だが―――それは、あまりにも遅過ぎた。
青年の持つ短剣が振るわれると同時、彼女の意識は灼熱に消し飛ばされた。
「……」
変化は、明白だった。
死徒の青年が振るう、宝具と見紛わんばかりの神秘を宿す煌びやかな短剣―――その切っ先に紅の光が灯り、爆炎の残滓と共に薄闇を照らす。
その光が、虚空にとある記号を刻むのを目にした二人は―――瞬時に、その身を翻した。
直後に、爆発。
「……っ!」
迸る業火、紅蓮の爆風。
ヒトが耐え切れるものではないそれに呑まれかけ衝撃に薙ぎ払われながらも、切嗣と綺礼は速やかに反撃に打って出た。
間断なく銃声が響き渡り、その合間を縫うかの如く黒鍵が閃く。
「……こっちは明らかに天敵な代行者や魔術師共と殺し合うことになる聖杯戦争に、わざわざ乗り込んで来たんだ……それが、何の対策をしていないとでも?」
回避の動作すらなかった。
何の祝福儀礼も受けていない鉛玉は片手一本で『握り潰され』、胸部に直撃した黒鍵はコートを貫くことなく地に落ちる。
続いて炸裂した爆炎から逃れ距離を取る二人の男を見つめ、青年は目を細めた。
「そこの
「……」
口端から血を流す切嗣が身構える中、綺礼はうっすらと笑みを浮かべてオーウェンの言葉に応じる。
「バケモノとは言ってくれるな、吸血鬼……その短剣は、キャスターに聖遺物でも加工させたか? 本来のそれを遥かに凌駕する規模のルーン……さぞ歴史ある代物だっただろうな」
「……元は神々の武具に恩恵を与えた工具、なんだけれどね。どうしてこうなったかな」
―――短剣を操るオーウェン自身、これ程の変容は想定外であった。
英霊召喚の為に用意したものとは別に、大枚を叩いて手に入れた幾つもの聖遺物や触媒。彼自身が装備しより効率的に運用する為にキャスターに加工を依頼したのもまた、そうして集めたものの一つであった。
……元々の形状を知っていた青年が変容を遂げたそれをキャスターに見せられた時は、あまりにも唖然としてそれこそ間抜け面とでも言うべき表情を晒してしまったものだったが。
(いやほんと、どうしてこうなった。……まあキャスターも衣装センスからして狂ってるから、もうそういうものなんだと諦めるしかないのかも知れないけれども)
当の少女に知られれば軽く殴られそうな思考を巡らせつつ、蒼い輝きを放つ短剣でルーンを刻む。
其の名は水。
洪水の如き大物量が場を席巻し、背後から襲い掛かろうとしていたアサシンを容易く呑み込んだ。
「―――っ!」
生きているのが、奇跡みたいな状況だった。
突如乱入した死徒が短剣を振るたびに業火の花弁が咲き乱れ風が唸り、迸る魔力に空間全体が悲鳴を上げていく。
明らかに異常な規模で振るわれるルーン魔術―――その規模は、現代の魔術師の一〇万倍にも匹敵するか。固有時制御の反動に全身を摩耗させ、片目からは血涙すら流す切嗣がまだ潰されていないのはその恩恵による加速と、散発的に奇襲を仕掛けるアサシンを警戒してオーウェンが攻勢に回り切れないことも大きいだろう。
「……!」
一か八か、令呪に魔力を巡らせていく切嗣。聖痕の内の一画を食い潰しセイバーの転移を試みるが―――それを許すほど、目の前の相手は甘くなかった。
「あぁ悪いね、それをさせる訳にはいかないんだ」
「!?」
激痛とともに、令呪を宿した右手が震える。
電気にでも打ち抜かれたような痺れ。手の甲に浮かぶ令呪は、刻まれた聖痕を薄れさせていた。
「ッ―――」
令呪を、封じられた。
その硬直こそが命取り、気付けば死徒の周囲には大量のルーンが刻まれており、上方では氷で形作られた無数の槍が待機していた。
「何というか色々、運が悪かったんじゃないかな? まぁ、くたばってもらうよ」
回避など想像もさせない、広範囲を埋め尽くす槍の雨が―――降り注ぐ。
目を見張る彼の全身を幾つもの槍が刺し貫く、その直前。
切嗣の前に躍り出た僧衣の神父が、死の雨を防いだ。
「!!」
「な……!?」
直撃の免れぬ筈だった三の槍を黒鍵の刃を犠牲に弾き、軌道を力任せにずらす。衝撃と同時に砕かれた氷が飛び散る中、ゆるりと彼は宿敵に向かい合った。
「―――何の、つもりだ」
「……無様だな、衛宮切嗣」
見下すようにして叩きつけられたのは、隠されることもない侮蔑。
「先程私に向けた刃は、腕を潰された痛みで僅かに鈍っていた……。本来の貴様ならば、痛みに取り合うことなどなく最短最速で我が命を刈り取っただろうものを」
「っ」
全て、見抜かれている―――!?
計り知れぬ脅威に戦き、背筋に怖気を走らせて見上げる彼の目に映ったのは―――歪みきった男の、どこまでも悪意に満ちたような笑み。
「お前、は―――一体どこまで」
掠れた声に取り合うこともなく、彼は死徒に対し向き直った。
「真の
一つ、面白いものを見せてやろう。
そう告げた彼は、現状の脅威である死徒と対峙し。
「
思ったより、長くなったかも。
そして言い忘れてたことが一つ―――この作品、ケリィの胃がケリィマストダイね。多分命も。