アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人) 作:四季マコト
人間には休息が必要だ。
休むことなく働き続けていたら、誰だって身体を壊すに決まっている。
それは当然、俺だって例外ではない。
だから、素材採取という名の小旅行から戻るや否や、荷物を置く暇も無く相談事を持ち掛けられるというのは論外なのだ。しかもその話し相手が大嫌いな相手と来た日にはもう……。
「――って感じなんだけど、どう思う?」
疲労の元凶――リリーが、長々と続いた説明を終えて俺に感想を求めてきた。
……そうか、俺がどう思うか答えればいいわけだな?
俺は即座に、自ら思ったことを率直に口にした。
「今すぐ、ヘルミーナに添い寝して一緒にお昼寝がしたい」
「それは話の感想じゃなくて、あんたの欲求でしょうが!」
「やかましい、二階で寝てる彼女が起きたらどうする気だ」
身体があまり丈夫ではないヘルミーナは、帰るなり昼食も取らずにお休み中だ。
俺は言うまでもなく、シスカも彼女の体調を第一に考えて行動していたので、具合を悪くするといったようなアクシデントはなかった。
しかし、慣れない野外での活動は単純に肉体を疲労させる。普段は俺と同じくインドア派で外出もあまりしない彼女だ。大事を取って、二、三日はゆっくり身体を休めさせてあげた方が良いだろう。
幸いにもというべきか、いくつか採取出来た素材もあることだしな。簡単な調合等を、彼女の理解度を確かめつつ教えるとしよう。
……まあ、俺自身予想よりも疲れたというのもあるんだが。
さっさと会話を終えて休みたいのに、相談事の内容が内容だけに無視出来ないのが辛いところだな。
「こっちは慣れない野宿なんてして疲れてるんだぞ? 休む間もなく話を聞かされたところで、まともな返答が出来るわけないだろうが」
「うっ……! わ、悪いと思ったから、昼食はあたしが用意してあげたじゃないの」
「あからさまに残り物で済ませたパスタだったけどな。……ま、味は悪くなかったが」
テーブルの上の、欠片一つなく綺麗に空になったパスタ皿に目を遣る。
飾り気のない真っ白な食器類は、先日ヨーゼフ雑貨屋でまとめて購入したものだ。他にも色々と彼の店で大量に揃えたので、全体的にかなりの値引きをしてもらえた。収入が安定していない今、少しでも出費を抑えられたのは懐が助かった。
しかし、ただでさえ良心的な価格なのだから、あれではほとんど利益も出ないだろうに。彼が笑顔で言っていたように、今後も彼の店を贔屓にすることで恩を返すとしよう。
「素直に美味しかったって言えないの?」
「はいはい、美味しかった美味しかった。食後のデザートはまだか?」
「あんたって、ほんっっとムカつくやつね!」
「奇遇だな、俺も同意見だ」
悪態を吐きながら二人分の食器を片付け、厨房へ向かうリリー。ふん、俺とヘルミーナが帰宅する時間を見計らい、わざとイングリドを外出させる相手に誰が感謝などするものか。
リリーがイングリドにお使いとやらを頼まなければ、きっと彼女は「おかえりっ! アルト! 寂しかった!」と俺の胸に飛び込んでくれたに違いないのだ。リリーはそれを見越して妨害工作に出たに決まっている。なんと許しがたき所業かっ!
「イングリドはお前が姦計を巡らせたとして、ドルニエ先生はどこに出掛けたんだ?」
ティーセットを手に厨房から戻ってきたリリーに聞く。先程の食器類と同じようなタイプの物だが、なぜか一人分のカップしか用意していない。
俺への嫌がらせとは……上等だ。お前が争いを望むのならば、喜んで相手になってやろう!
「姦計って何よ、姦計って……。ドルニエ先生は王城よ――って、ちょっとぉ!?」
「またか? ……お、意外と旨いな。しかし前回、断られたばかりだろう、にっ!」
「だからこそ、でしょ! 融資は断られた、けど! せめて、建設地だけでも確保したいって意気込んでいた、わ!」
お茶菓子のクッキーの熾烈な奪い合いをしつつ、会話だけは和やかに進める。
……そうか、まだ建設地に関しては決定していなかったのか。
街外れの広大な空き地に建てる予定だと完全に思い込んでいたが、まだその話自体、出ていなかったらしい。
原作でこうだったからという先入観があるからか、勘違いをしていた。あまり原作を意識し過ぎないようにしているつもりだったが、見えない部分ではやはり影響を受けているようだ。
原作の知識のお陰で見えないものが見えるようになるのはいいが、そのせいで付近が見えなくなって足元をすくわれるのは頂けない。知識を使っているはずだったのに、知識に翻弄されていたなんてのは御免だ。
とはいうものの、原作の出来事なんて余程印象深いイベントでなければ、もうはっきりとは覚えていないんだけどな。この世界で過ごして十数年の月日が経つし、前世の事を忘れようとしていた時期もあるので無理も無い。そうでもしなければ、日常生活をまともに送れなかったのだから、今更言っても仕方が無いことだな。
「アルト?」
「……ん? なんだ、まさかクッキーを返せとでも言うのか。食い意地の張ったやつめ」
「あたしが用意したものを強引に奪い取ったあんたが言うな!」
「バカを言うな。俺はクッキーが食べたかったわけではなく、単にお前に嫌がらせをしただけだ」
「バカなのはあんたでしょうが! じゃなくて……ん、まあいいわ。あたしの勘違いみたいだし」
「何のことだ?」
「別にいいって言ってるでしょ。そんなことより、さっきの相談事の続きだけど」
――と、リリーがまた俺の疲労を増加させる話を蒸し返そうとしたその瞬間。
「ただいまーっ!」
元気の良い声が響くと同時にドアが開いた。
ドアベルの涼やかな音と共に現れたのは、俺の心のオアシスである少女――イングリドだ。
その彼女だが、なぜか顔が少し赤い。走って帰って来たのだろうか?
――ハッ!? そうか、俺に早く会いたい一心で走って帰ってきたのかッ!
一瞬で正解を導き出したのは、俺の彼女に対する愛ゆえにだろう。
ああ……っ! たった一日目にしなかっただけで、イングリドの可愛らしさにより一層磨きが掛かって見える。きっと、俺と会えなかった日々が彼女を美しく成長させたに違いない。
俺は椅子から颯爽と立ち上がり、バッと両手を大きく広げた。
イングリドとの熱い抱擁を交わす瞬間に備え、準備万端に待ち構える。
「イングリド、お帰り! さあッ! 我慢せず、俺の胸に飛び込んでおいで!」
「あれ? アルト、いたの?」
「がふ――ッ!?」
「はいはい、変態は無視していいわよ。で、どうだったの?」
顔面から床へ崩れ落ちた俺の横を素通りし、イングリドがリリーの傍へ歩み寄る。
……え? 本当に、俺へのリアクションはそれだけですか?
無事に帰ってきて嬉しい、とか言って飛びついて頬にチューしてくれたりはしないの? 寂しかったんだからぁ、とか言って抱きついてきてくれたりはしないの? 今夜はずっと一緒にいてね、とか甘えて添い寝する展開はないの?
――いっ、いやいや。……大丈夫だ。何も落ち込む必要はない。
彼女の今の態度は、ツンデレのツンの部分だからな。本当は今すぐにでも俺に抱きつきたいが、リリーが何やら催促するから涙を呑んで我慢しているのだ。そうに違いない。いやぁ、イングリドは本当に恥ずかしがり屋さんだなぁ、ははは……。
「あ、はい。引き受けてもらえるそうです」
「本当に? 良かったー」
「おい、リリー。いったい何の話だ? 俺が無事に帰宅したお祝いにパーティーでも開くのか?」
「後半部分を完全に聞き流して言うけど、さっきもした看板の話よ。カリンさんに造ってもらえないかを聞きに行ってもらったの。鍛冶屋さんなら、お願い出来ないかなと思って」
なるほど、俺に相談する前に一応やれることはやっていたわけだ。
「イングリド、少し帰ってくるのが遅かったけど、何か良いことでもあったの? なんだか嬉しそうな顔してるわよ」
「えっ!? そ、そうですか? 気のせいですよ、気のせい! 遅れたのはちょっと道に迷っただけで、別になんにもありませんでした。ほ、本当です!」
慌てて頭を振るイングリド。これでは、あからさまに何かがあったと白状しているようなものだ。
そして、何があったかなど分かりきっている。
「愚問だな、リリー。無論、愛しの俺が無事に帰ってきたから喜んでいるに決まっている」
「ご苦労様、イングリド。台所にオヤツ用意しおいたから食べていいわよ」
「やったー!」
「…………」
「アルトも突っ立ってないで座りなさいよ。まだ話は終わってないんだから」
イングリドが嬉しそうに飛び跳ねて台所に走っていくのを呆然と見送る。
ああ、俺の潤い成分が……。
クソッ、リリーめ。相変わらず卑怯な手を使いやがる。そんなにまでして、俺から彼女を遠ざけたいのかお前は。もう少し手段を選べ、手段を。
「で、アルト。看板を造ってもらえるお店は見つかったけど、他はどうする?」
「あぁ? 他だぁ?」
「……なんでそんなやさぐれてんのよ。あんたもパンケーキ食べたかったの?」
「そんなわけあるか! 食べたかったら、自分で作るっつーの!」
まったく、食べ物でイングリドの関心を引くなんて最低のやつめ!
そんな行いは、絶対に、絶対に神様は許さないぞ! 当然、俺も許さないけどな!
「あ、そうそう。イングリドがあんたの作ったアップルパイが食べたいって言ってたわよ」
「なにぃッ!? では、今すぐにザールブルグ中の材料を買い占めて作るとしようッ!」
「あんたはいきなりアトリエを潰す気かっ!」
「イングリドの笑顔のためなら、それも已むを得まい」
「そんな無駄に真剣な顔して言うセリフじゃないでしょ、それ。本当に、あんたってやつは――」
リリーが何かを言い掛けて、それを誤魔化すようにカップに口をつける。
そして、そのまま何も言わずに、無言で黙り込んだ。
いや、黙るなよ。喋れ。
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え。気持ち悪い」
「べ、別に! ただ……、いつも通りだなって思っただけよ」
「は? なんだ、そりゃ」
「なんでもないわ、気にしないで。しつこい男は嫌われるわよ」
「お前に嫌われたところで、なんとも思わんぞ」
「奇遇ね、同意見よ……って、ああもう、そんなことはどうでもいいのよ。さっきから全然、話が進まないじゃないの。さっきの話の続きよ、続き」
厨房から蜂蜜がたっぷりと掛かったパンケーキを取ってきたイングリドが席に着き、それを美味しそうに頬張る様子を眺めながら、先程の相談内容を思い返す。
リリーから相談を受けた内容は、大きく別けて三つだ。
・調合品の他商品との差別化
・看板の有無
・アトリエの名前
まず、一つ目。調合品の他商品との差別化については、リリー自身良く分からずになんとなくいいかもと思って提案したようで、ぶっちゃけ俺に丸投げ状態だった。
だが、その発想自体は悪くない。
要は、ブランド戦略のことだ。
ブランド戦略とは平たく言えば、企業や製品等に対する顧客の印象を高め、経営や販売上の戦略としてブランドの構築、管理といったものを行うことだ。アンゾフの戦略モデルといえば、経営学を少しでもかじった者なら耳にしたことがあるだろう。市場浸透、市場開拓、製品開発、多角化の四つの構成要素から成り立っているものだ。
詳しく説明しても、錬金術バカのリリーには理解出来ないだろうから省くとして、だ。
経営方針としては間違っていないが、……今の俺達の実力では勇み足になりかねないな。
確かにメリットはある。しかし、デメリットがないわけではない。それに、競合相手となる別の錬金術士はザールブルグにはいないし、土台となる足場が不安定な現状で急ぐ必要性は低いだろう。
まあ、せっかくリリーが無い頭を捻って考えたんだし、そのうち何か良い折衷案でも思いついたら試してみるのもいいだろう。疲れた頭では考えることすら億劫だ。
次に、看板の有無だが、これは考えるまでもないだろう。リリーが言わなければ、俺が提案していた。依頼する相手も見つけたようだし、後日デザインや材料費等に関して、先方と良く話し合って決めるとしよう。
最後に、アトリエの名前だ。これを決めなくては看板も作りようが無いし、ブランド化なんてお話にもならないだろう。
もっとも、俺は最初からこの点については悩みもしていなかったのだが。
「じゃあ、俺の考えを述べるが――」
リリーにも分かるように頭を悩ませつつ、なるべく話の内容を噛み砕いて説明する。
イングリドは俺の話を、ふむふむ、とリリーの真似をしてか時折頷きながら(可愛い!)聞いていたが、さすがに退屈な話だからか途中で飽きて二階へと上っていってしまった。たぶん、寝ているヘルミーナにちょっかいを出しに行ったのだろう。休養は大切だが、お昼に寝すぎても夜眠れなくなるし、ちょうどいいか。
俺が苦労して話し終えると、リリーは何やらとてもイイ笑顔で大きく首を縦に振った。
「なんだかとっても難しい感じってのが良く分かったわ!」
「返せ! 俺が説明に費やした時間を今すぐ返せ!」
「でも、肝心のアトリエの名前はどうするの? 何か良い案ある? ――言っておくけど、変態的な名前は問答無用で却下よ。あんた一人のアトリエじゃないんだからね」
何を警戒してか素っ頓狂な予防線を張るリリー。
まともに相手をするのもバカらしいのでスルーして、そのまま素直に案を伝える。
すなわち、
「――『リリーのアトリエ』で、いいんじゃないか?」
「ええっ!?」
いったい何をそんなに驚くのやら。
俺からしてみたら、これ以上に相応しい名前なんて思いつきもしないのだが。
「店主の名前を、店名に入れるのは珍しくないだろう。ヨーゼフさんのところなんかがそうだし。むしろ、ありきたりだと思うが」
「そ、そうだけど! いや、そうじゃなく!」
どっちだよ。
「店主って言うなら、あたしじゃなくてもいいじゃない。このアトリエで働いているのはあたしだけじゃないわ。あんただってそうだし、イングリド、ヘルミーナ、ドルニエ先生だって支えてくれているもの」
「じゃあ、リリーとアルトとイングリドとヘルミーナとドルニエのアトリエか? とてもじゃないが、長すぎて看板に収まりきれないだろ。それ以前に、そんな舌を噛みそうなほど長ったらしい名前なんかじゃ、誰にも覚えてもらえないしな」
「それはさすがにあたしもどうかと思うけど……」
「イングリドとヘルミーナはまだ店の看板を背負わせるには幼すぎるし、ドルニエ先生は今回裏方として動くことが多い。俺は一応、お前と一緒に表立って錬金術士として活動はするが、どちらかといえばフォロー役として動くことを期待されている」
「それはドルニエ先生からも説明されたけど……」
けど、なんだよ?
いったい何を悩んでいるんだ、こいつは?
「今回、一番目立って動くことになるのはリリーだと初日に先生も言っていただろ? だったら、お前の名前が一番アトリエに相応しい」
――と、色々もっともらしい理由をつけてみたが、俺の一番根底にある理由は決まっている。
ここが『リリーのアトリエを基にした世界』だからだ。
皆で共同生活を送る話が出た時にも思ったが、俺は別に何もかもを自分の好き勝手にやりたいわけではない。変えなくていい部分まで、わざわざ変更する必要はないだろう。
「まさか、俺が責任を全部お前に押し付けようとしてる、とか勘繰ってんのか?」
「そんな勘違いするわけないでしょ。バカじゃないの?」
「じゃあ何をそんなに渋ってんだよ? 反対する理由を言え。それとも、何か他に案があるのならそれを言えよ」
「だっ、だからそれは……あ、あたし一人じゃなくて、その、あんただって、だから、その……」
よほど言い出し難い理由だからなのか、リリーがごにょごにょと聞き取れないほど小さな声で呟く。
ええいっ、言いたいことがあるならはっきりと言え! 前から思っていたが、この女は何かと言いたいことを言わない傾向がある。普段は言わなくていいことまで言う癖に、言えという時だけ黙るとは、なんとも面倒臭い性格をしていやがる。
その後――
ドルニエ先生が無事にアカデミー建設地の許しを国王様から得て戻ってくるまで、いくら問い詰めようが、リリーのアホが理由を口にする事はなかった。それどころか「どうして分からないのよ!」と逆ギレされて怒鳴られる始末だ。それからは口喧嘩に発展してしまい、ドルニエ先生に止められるまで延々と言い合いを続けてしまったが、今回ばかりは完全に俺に非は無いだろう。自分なりの案がある癖に、理由を口にしないリリーに全責任がある。
結局、二階から降りてきたイングリドとヘルミーナも交えて、全員で改めて相談した末に、ようやくアトリエの名前が決まった頃には、既に夕飯の時刻となっていた。
『Atelier Lilie & Alto』――リリーとアルトのアトリエ。
俺は断固として反対したのだが、ドルニエ先生に無難に代表者二人の名前にしたらどうだろうか、と押し切られてしまい、俺とリリーの二人の名前が付けられることとなった。ドルニエ先生が相手では俺も強く出ることが出来ないし、俺以外は賛成意見だったので諦めたとも言う。リリーの名前に拘る本当の理由が言えない以上、ある意味仕方のない結果なのかもしれない。リリーの名前が頭に来るようにしたのが、せめてもの抵抗だ。
リリーとアルトのアトリエ。
それが、ザールブルグ中に錬金術を広めようと試みる、我らがアトリエの名前だ。
◆◇◆◇
近くの森での素材調達も、三回目ともなれば慣れたもの。
今日のメンバーはいつも通り、あたしとイングリド、そして護衛に雇ったテオくんの三人だ。ドルニエ先生は近隣の諸侯の元へと出向いているらしく、アルトとヘルミーナは、ヘーベル湖へと一週間位前から出掛けたまま。予定では、三人とも近日中には戻る日程になっている。
元々はもうちょっと早く出掛ける予定だったのだけれど、当初の予定よりも看板作りに時間が掛かってしまったためだ。値段や素材はもちろん、デザインや飾る場所等々。いざ作ろうと思うと、考えることは多かった。
金の麦亭での依頼をないがしろにするわけにもいかず、昼食の時や寝る前なんかの空いた時間に、ああでもないこうでもないと皆でワイワイ騒ぎながら決めた。その甲斐あって、あとは完成を待つだけという状態。仕上がるのがとても楽しみだ。
……打ち合わせの時、カリンさんから看板の名前のことで思いっきり冷やかされたことについては、あまり考えたくない。
「先生ー! これが、うに?」
背後からの呼び声に振り返ると、そこにはトゲトゲで覆われた茶色い物体をじーっと不思議そうに見つめるイングリドの姿があった。チクチクした見た目のそれは、素手で持ったら怪我をしてしまいかねないけど、心配いらない。あらかじめ、野外での活動用に、きちんと皮製の手袋を装着済みだ。
初回こそ、素材採取になぜか難色を示していた彼女だけれど(外で遊ぶのは好きなのになぜ?)、今では自分の知識が生かせるのが嬉しいのか、自ら進んで採取に励むほど。今も自分の頬に土がついているのに気付かないほど、夢中になって探していたみたい。
やれやれと思いつつ、ポケットからハンカチを取り出す。こんなこともあろうかと、いつも二枚は常備している。
イングリドの頬についた土埃を綺麗に拭き取ってあげると、彼女は未だに素材から目を離さずに見つめ続けていた。
いったい、何をそんなに不思議がっているのかしら?
「ええ、そうよ? 昨日も見つけたでしょ?」
「うに……。やっぱりこれが、うに。じゃあ、海で採れるあれはいったい……」
「あー……」
ムムム、と眉をひそめて妙な唸り声を上げるイングリド。
ケントニスでの生活しか知らない彼女からしてみれば、その疑問はもっともだ。他ならぬ、あたしもザールブルグに来て疑問に思ったことなんだよねぇ、それ。
当然のことだけど、このうにと海で採れるそれとは別物だ。
それなのに、どうしてそんな風に呼ばれているのか?
その理由はとても単純。
まあ、教えてくれたのは例によってアルトだけど。
いつもは皮肉の一つも言ってくるのに、今回は珍しくあっさりと教えてくれたのだ。
代わりになぜか「うにー!と言え」とか、意味不明なことを要求されはしたけど……。この前も「たる、と言え」とか妙なことを頼まれたし、挙句の果てには「やっぱお前じゃダメだな」とか溜め息を疲れるし、変態の考えることは常人の斜め上を行き過ぎていて困るわね。なぜだか分からないけど、無性にイラッと来たから本能的に一発入れておいたけど。
「海のないザールブルグでは、これが一般的に『うに』って呼ばれているのよ。見た目は確かに似ているしね。海と陸地で交流するうちに、自然と混同してしまったのではないかって言われているわ。でも、実際には森の中で採れる栗のような物の一種だから、生物であるうにとは別物よ」
「へえー。海で採れたうにが進化して、森で生えてるわけじゃないんですね」
「…………」
変態どころか、天才の発想の飛躍にも時々ついていけないあたしがいる。
が、頑張れあたし。彼女の教師はあたしなのだから……!
「そ、そういう考え方も興味深いかもしれないわね」
「先生、じゃあ、海で採れるうにはなんて呼ぶんですか?」
「それも当然、うによ」
「えっ? あれもうに? これもうに? うに……うに……うにに……」
言ってて頭が混乱してきたのか、イングリドの目つきがなんだか怪しげなものになっていく。
あー、こういうのなんて言うんだっけ。なんとか崩壊とか言うやつかしら? アルトが随分と前に口にしていたような気が……ええと、確かゲシュ……ゲシュタン……ゲシュタール? うーん、なんか違うような……もうちょっとで思い出せそうな気はするんだけどなぁ、ってあれ? どうして、そんなことを考えていたんだっけ?
うーん? と腕組みをして頭を捻ろうとすると、金属が擦れるような音が小さく響いた。
ちらりと視線を胸元に下ろす。
今日のあたしは、いつもアトリエで過ごしている時の格好とは異なり、危険性も考えてなめし皮の服を着ている。普段と違うのはもう一点あって、アクセサリーを首元から下げていることだ。ちょうど胸元の辺りに位置するように調整されたネックレス。
出掛ける時はいつも服の中に収めていたのだけど、採取している間に、表に出てきてしまったようだ。
そのアルトからの贈り物が「バカなこと考えてないで仕事しろ」とでも言いた気に、ゆらゆらと揺れている。
――ああいや、イングリドの話では「これはあたしからリリー先生へのプレゼントです。お外で素材を集めたりする時に、必ず身に付けて置くようにって言われました」だったわね。一応、イングリドからの贈り物ってことになっているのだ。
それにしても、言われました、って……隠す気ないでしょイングリド。あからさまに誰かさんから頼まれたって言ってるわよ、それ。
大粒の琥珀色の宝石を綺麗にカッティングして、それを光沢のある銀の鎖で仕上げたネックレス。あまりアクセサリーに詳しくないあたしから見てさえ、それなりに値が張りそうな一品だと分かる代物。仄かに魔力が込められているのを感じるし、一流の錬金術士が調合した品物と見て間違いないはずだ。
では、そんな代物をイングリド経由であたしに贈ろうとする犯人とは?
考えるまでもなく、あいつ以外にこんなおかしな真似をする人間がいるわけない。アルトが妙なことをしでかすのなんていつものことだし、肝心のチェーンの長さにしても、以前あたしの首にペンダントを掛けてくれたあいつなら、大体は把握してそうだしね。そういう変な部分に関しても抜け目ないのだ、あの変態は。イングリドとヘルミーナの誕生日にドレスをプレゼントする、なんて前科もあることだしね。
もし仮にこれがドルニエ先生からだった場合は、直接あたしに手渡ししてくれるだろうし。
アルトがあたしにわざわざこんな回りくどいやり方でプレゼントをするとなると、今度は違う意味で不安になるけど、たぶん大丈夫なはず。万が一おかしな物なら、さすがにイングリドがあたしに渡すことを拒否すると思う。効果は分からないけど、少なくとも所有者に害をもたらす類のものではないはずだ。
……でもそうなると、今度は違う疑問が浮かび上がる。
どうして、そんな物をわざわざあたしに?
毛嫌いするあたしに贈っておいて、大事にしている(本意はどうあれ結果的に)イングリドには何も無しっていうのが腑に落ちない。お守り代わりというのなら、それこそあたしなんかよりもイングリドにこそ渡しそうなものだけど。
うーん……。
異性からアクセサリーをプレゼントされるという、普通の女の子なら胸をときめかすようなシチュエーション。だというのに、ちっとも心が躍らないのは相手が悪すぎるせいだろう。
……なんだか違う意味で胸がドキドキしてきた。ほ、本当にこれ、身に付けてても大丈夫よね……?
おかしなことをしでかしたらタダじゃおかないわよ、と人差し指でネックレスを小突く。
「おーい、姉さん達。そろそろ昼食にしないかい? この辺りにちょうど小川も流れてることだしさ。もう腹減って死にそう」
あたしとイングリドが採取している間、周囲を警戒していてくれたテオくんが、お腹を抑えつつ情けない声を出した。
はいはい、分かったってば。お腹を鳴らしながら空腹をアピールしなくてもいいわよ、もう。
「オレもほら、そこで素材になりそうなの拾ったし。これで午前中は終了にしないかい?」
そう言いつつ差し出された手には、うにに似たようなトゲトゲのある木の実。
でも、うにとは違って緑色だし、細長いし……なんだろう? 見たことが無い。若いうにってこんな形をしているのかしら?
でも、な~んか頭の奥のほうで記憶が刺激されるのよね。どこかで見たような、知っているような、そんな気がする。
「これ、どこで拾ったの?」
「なんか食べられるものないかとその辺見てたら見つけた」
「はいはい、お腹が空いたんだったわね。今、用意するわ」
一応、何かに使えるかもしれないし、正体不明の木の実も籠に入れておくとしましょう。参考書を見てみたら載ってるかもしれないし、それでも分からなければアルトもいるしね。こんな時くらいは、こき使ってやら無いと。
あたしは知恵熱を出しそうな感じに陥っていたイングリドに声を掛け、三人で一緒に昼食の準備をすることにした。
分担はあたしとイングリドが調理で、テオくんが食べ物調達とか場所の設営だ。最初こそ手間取ったけれど、今や何も言わないでも各自が各自のお仕事をこなす慣れっぷり。
中でも、護衛に雇った冒険者のテオくんには頼りっぱなしだ。今も近くに小川があるなんて、あたしは気付きもしなかったし。野外で活動する際に、水の確保は重要となる。飲み水だけでなく、使った後の食器を洗うのにも必要になるしね。それ以外にもまぁ……、色々と。
あたしよりちょっと年下で、第一印象の通りに活発な男の子。
最初は、あたしと同じで駆け出しだからもっと頼りない感じなのかと思っていたけど、全然そんなことはなかった。
故郷で多少なりとも野外活動の経験のあるあたしはともかく、イングリドはまったくの未経験。でも、そんな彼女が歩きやすいように道を作ってくれたり、渡りづらそうなところでは手を差し伸べてくれたり、休憩する時も小まめに様子を見て気を配ってくれたり、狼とかに襲われた時は絶対にイングリドが襲われない様に気をつけてくれたり。本当に、野外活動中は何から何まで至れり尽くせりで、テオくんにはお世話になりっぱなしだ。
一方、あたしはもうなんていうか……彼の足を引っ張らないように気をつけるだけという。
そんな不甲斐ないあたしに対して、彼は「姉さん」と呼んで慕ってくれている。彼は大家族の長男で、自分よりも年上の兄弟がいなかったらしく、兄や姉といった存在に憧れていたらしい。あたしとしても、やんちゃな弟が出来たようで悪い気はしない。イングリドのことも、年の離れた妹と接した経験があるからか、思ったよりも早く打ち解けてくれたしね。
「あたしのこと姉さんって、テオくんは呼ぶじゃない?」
「え? うん。それがどうかしたかい?」
小川のほとり。火に掛けた鍋の周りを囲むように、三人で丸太の上に腰掛けたあたし達は少し早めの昼食を取ることにした。
今日の昼食は工房から持ってきたパンと干し肉、ベルグラド芋のスープ。飲み物はイングリドでも飲める程度に度数の低いワインとお水で、テオくんが現地調達した果物がデザート。毎日こればかりだとさすがにとは思うけど、野外で活動する最中だけは我慢我慢。
テオくんの二杯目を鍋から器に盛りつつ、あたしは気になった事を聞いてみた。
「アルトのことは、兄さんって呼んでるの?」
「ええっ!? ア、アルトさま……じゃなかったアルトさんかい?」
ちょっと待ちなさい。今一瞬、聞き捨てなら無いことが聞こえたわよ。
「アルトさんはアルトさんだよ。とてもじゃないけど、兄さんだなんて呼べないよ」
あたしが差し出した器を受け取ったテオくんが、さっきまで勢い良く動かしていたスプーンと一緒にブンブンと首を横に振る。
以前にアルトがテオくんと話していたのを見る限り、友好的な関係を築けていたように見えたのだけど……、この短期間にいったい何があったのかしら?
「実は試しに一度だけ、兄さんと呼んだことがあるんだけど……」
「だけど?」
「『だ・れ・が・義兄さんだッ!? お前に彼女はやらんわぁぁぁああ!!』って、物凄い剣幕で怒鳴られた……」
がたがたがたがた。
惨劇を思い出してか、全身で身震いするテオくん。
……どうやらアルトの悪い癖が出たらしい。ピンポイントで刺激してしまったテオくんには、ご愁傷様と言う他ない。
またぞろヘルミーナとテオくんがどうこうって妄想でも働いて暴走したんでしょうね。こうも簡単に予想出来てしまう我が身が悲しくなるけど。
「そ、それは災難だったわね。でも、一応フォローしておくと、アルトもそう悪いやつじゃないのよ? ただ、そう……致命的なまでの欠点があるだけで」
それはもう、不治の病といってもいいレベル。
彼の有名なエリキシル剤でも手に負えないんじゃないかしら?
「ああ、心配しなくてもそれくらいは分かってるって」
へへっ、と一転して笑顔を浮かべるテオくん。
無理に作ってるような不自然さはないし、本当にそう思ってるみたいね。良かったわ。
あたしとしては、あいつが誰に嫌われようと別に構わないんだけど……でも、やっぱりあたしの知ってる人達が、いがみ合うようなのはちょっと嫌だしね。どうしても気になってしまいそうだし。仲が悪いよりは、仲が良い方がいいに決まっている。アルトのイングリドやヘルミーナに対する態度は、それ以前の問題だけどね。
「もう本当にさ、あの人どれだけ姉さんのことが――」
「あたし?」
「いっ!? あっ、いや、ええと、その!」
「?」
「こっ、このスープ美味いな! もう何杯でもいけるぜ! おかわり!」
「そ、そう? ありがと。ちょっとしか残ってないけど、全部食べちゃっていいわよ?」
あたしが言った直後、鍋ごと抱えて猛然と食べだすテオくん。その物凄い食べっぷりに、あたしの隣で食後の果物をかじっていたイングリドが目を丸くする。
あー、ダメよイングリド、真似しちゃ。あれは悪い見本だからね? そんな興味深々な感じにイキイキした表情しないの。
もっと良く噛んで食べないと、消化に悪いと思うんだけどなぁ……。
こういう部分を見ていると、仕事中とは打って変わって年相応の手の掛かる弟に見えて仕方なくなるのよね。護衛としては、とても頼れる人だと評価を改めたんだけど。
「ふう、ご馳走様」
「お粗末様でした」
口元を手の甲でぐいっと拭いながら言うテオくんに、苦笑しながら返事をする。そういう大雑把な仕種も、彼がやると似合っている。彼らしいといえば彼らしいわね。
……ってイングリド、ダメだってば。あなたは真似しちゃダメ。いいわね?
慌ててイングリドの手を掴み、ハンカチで果物の汁を拭いてあげる。なんだか不満そうな表情をしているけれど、これもあなたのためなんだからね? 女の子がそんな豪快なことしちゃ、将来、異性にヒかれてしまうわよ。
「あっれ? 姉さんって、そんなものつけてたっけ?」
そんなもの? ……ああ、ネックレスのことね。
テオくんの視線の向かう先には、木漏れ日を反射して光り輝くネックレスがあった。
そういえば、普段は服の中に入れているから、彼に見せたことはなかったかもしれない。
「いつもは邪魔にならないように隠しているから。……お、おかしい?」
やっぱりあたしみたいなのがこんな高価そうなのを身に付けていると、それだけで違和感があるのだろうか? 鏡の前で自分で確認した時は、ふふん結構似合っているじゃないのと自己満足に浸っていたのだけれど。
人に指摘されると急に恥ずかしくなってくる。
「いや、似合っていると思うよ」
「本当!? わぁ、ありがと!」
お世辞でも、そう言ってもらえると嬉しくなってしまう。普段一緒にいる相手が相手だけに、そういうお世辞ですら言ってもらえることってないから余計にね。
お世辞だと分かっていても、ついつい口元が緩んでしまう。
「いっ、いや、別に。お、思ったことを言っただけだし」
思わず満面の笑顔でお礼を言ってしまったあたしに、顔を背けて言葉少なめに言うテオくん。
……はいはい、分かってますよー。お世辞に対して全力で喜びすぎだって言うんでしょー。
でも仕方ないじゃない。普段が普段なんだもの。
「まあでも、オシャレよりはたぶんお守りって意味でつけてるから。街の外に出ている間だけね」
「ふーん、そっかぁ……。贈り物、だよね?」
「あ、うん」
「やっぱりなぁ。そうだと思ったんだ、アトリエの名前のことを聞いた時からさ……」
「アトリエの名前……って、もう知ってるの!? 誰から聞いたの!?」
動揺のあまり、思わず立ち上がって頭を抱えるあたし。
決まってしまったことだから、今更どうこう言うつもりはないけど、まだちょっと自分で口にするには勇気がいる名前。
あたし一人で店名を名乗るのはちょっと憚られて、でも二人だと今度は違う意味で問題が出てしまいそうな名前。
リリーとアルトのアトリエ、という名前。
男女二人の名前が店名になっている意味を考えたら、こちらの事情を知らない人の大半は勘違いしてしまいそうになるような名前。
そんな名前。
今の所、まだカリンさんにしか教えた事の無い名前なのに、それをどうして彼が知っているの!?
「え? アルトさんから普通に教えてもらったけど」
「そんなことだろうと思ったわよ!!」
ええ、そうよね! 店名を聞いた他人がどう思うかなんて、まったく気付いた様子のないあのバカ男なら平気で口にするわよね!
それどころか、嬉々として行く先々で店名を周囲に広めている様が目に浮かぶもの!
どうして言ったのと問い詰めるあたしに、「知ってもらうための店名だろう」と平然と言い返してくる様子さえ、ありありと思い浮かんでしまうわ!
あ・い・つ・はぁぁぁぁああああ!!!
「な、なあイングリド……、なんかオレ、まずいこと言ったかな?」
「んーん。わたしも良い名前だと思うんだけど、なんだかリリー先生とアルト先生は微妙だったみたい。最後まで揉めてたし。テオはどう思う?」
「呼び捨てかい。ん……まあ、オレも良い名前だと思うよ。分かりやすいしね――色々な意味で」
そこ! 何をヒソヒソと二人で話しているのよ!?
「テオくん、勘違いしないでよ!? そういうんじゃないからね!」
「あー、はいはい。二人ともそういうスタンスなのな。分かったって」
むむ、二人とも?
一人はあたしのことだとして、もう一人は……順調に考えてあのバカしかいないわよね。
あいつも何かしらテオくんに誤解されるような発言をしたってこと?
本当にロクなことをしでかさないわね、あの男は。自分だって困るだろうに、迂闊な言動は謹んで欲しいわね。
「っていうか、絶対分かってないでしょ!? その態度で誤解したままの人間を、何人も知っているのよ!」
「分かってるって。本当、あの人、隠す気ないよな。店名のことといい、アクセサリーのことといい、オレのことといい」
「だから、そういうんじゃ――」
……ん?
んっ、んっ、ん~~??
「別にさー、オレもさー、人の事情に首突っ込む気はないけどさ。でも、お互いバレバレなんだし、もうちょっと素直になればって言うかさー」
「――テオくん」
「はっ、はい! なんでしょうか!?」
即座に立ち上がって、ビシッと気をつけの姿勢を取るテオくん。
あれ? おかしいわね。誤魔化したりしないように、自然に喋ってもらえるように、さりげな~い笑顔で話しかけたというのに、なぜそんなに怯えた表情をしているのかしら?
「今、オレのことといいって言ったわよね? それ、どういうこと? どうして、そこでアルトの名前が出てくるの?」
「いっ!? そ、それは……ええとぉ……」
「ど・う・い・う・こ・と?」
ニコニコニコニコ。
笑顔笑顔。会話の基本は笑顔よね。
じーっと見つめて静かに問い掛けると、テオくんは何やらぶわっとこめかみに脂汗を滝のように流しながら数秒。やがて、何かを観念したかのようにうなだれた。
「はぁ~っ……。分かった、話すよ」
うんうん、良かった良かった。なんだか意図したことと違うような気もするけど、結果オーライよね。
……って、イングリド? どうして、テオくんの背中に隠れているの? そんなガタガタと震えて、何か怖いことでもあったの?
「アルトさんには、オレが喋ったって絶対に言わないでくれよ?」
「そう……、あのバカが口止めしていたのね」
「えっ? あ、その」
アクセサリーのことといい、とも言ってたし、何を裏でコソコソやってるのかしらあの男は。
これは帰ったら、じっっっくりと話し合う必要性がありそうね。
「それで? テオくんに、あいつは何を頼んだの?」
「その……初めてアルトさんが外に行く時、オレとシスカの姐さんが一緒に雇われたのって覚えているかい?」
「ええ、もちろん」
二回目以降は、彼女だけを誘って素材採取に行っていることも知っている。
なんだかとても親密そうな雰囲気で、彼らしからぬ砕けた態度を取っていることも知っている。
……よ~~~く、知っているわ。
「不思議に思わなかったかい? どうして二人も雇うのかって。オレみたいな駆け出しが二人ならまだ分かるけど、姐さんはベテランの冒険者だ。わざわざ、オレも雇う必要なんてないだろ?」
「確かにその通りだけど……、自分でそれを言うの?」
「駆け出しなのは事実だしね、仕方ないよ。でも、その駆け出しを雇うための理由がアルトさんにはあったんだ。なんだと思う?」
不意に質問を投げかけられ、返答に詰まるあたし。
それは以前にも何度か考えて、結局答えが出ずに保留した疑問だ。
答えが出せずに沈黙するあたしに、テオくんが真実を投げかける。
あたしにとっては、予想外にも程がある一言を。
「姉さんのために、だよ。オレが姉さんに雇われる際に、少しでもフォローが出来るようにって」
――そのアクセサリーもアルトさんからなんだろ? お守りって言ってたし。あの人も口ではどうこう言ってても、本当、過保護だよなぁ。普通、いくらなんでもそこまではしないって。まあ、相手が姉さんだからこそだとは思うけどさ。ああ、分かってる分かってる。そういう関係じゃないって言うんだろ? アルトさんも同じセリフを口にしていたしね。どう言ってても、周囲からしてみたら何を言ってるんだか、って感じがして仕方ないけど――
「――ああ~っ! これでやっと新しい武器が買えるぜ。今、使ってるのは先輩からもらったお古だからなぁ~」
帰り道。
衛兵さんに挨拶して街の門をくぐった途端、テオくんが大きく伸びをした。
彼から教えられた真実を知り、あたしはとてもじゃないけど採取の出来る気分ではなくなってしまった。そんな状態では怪我をするかもしれないし、昼食を終え、少し早いけれど予定を切り上げて帰ることにしたのだ。
道中は、二人に気付かれないように取り繕うのが精一杯。
今だって、彼が口にしたセリフに、相槌を打つのすら苦労する有様だ。
「そう……」
「武器を購入したら、そのまま演習場で夜まで特訓する予定なんだ。明日のオレは、今日とは一味違うぜ?」
「ねえねえテオ、どんなのを買う予定なの?」
「もちろん、でっかい剣さ! 竜も叩き切れるようなやつ!」
「なにそれ? あったとしても使えるの、そんなの?」
「はぁ~っ……。これだから、お子様は。いいか、イングリド。これは、男のロマンってやつなんだよッ!」
「ロマンでご飯が食べられたら苦労しないわよ。これだからテオはダメ男ね」
「十歳児にダメ出しされるオレって……」
おどけた様子で地面に両手をつくテオくん。
その様をお腹を抱えて笑いながら見ているイングリド。
……ああ、たぶん気付かれてるな。
二人があたしに気を遣って、わざとそんな素振りを見せていることに今更ながら気付く。
あたしの様子がおかしいことに、たぶん、もう二人は気付いているんだろう。どうしてこんな状態になっているのか、その理由は知らなくとも、察することは出来る。
――あたしは今、酷く落ち込んでいる。
アルトがあたしのために人知れずフォローしてくれていた、という事実。
ケントニスでの、アカデミーでの生活中を思えば別段不思議でもなんでもない。あの頃のあたしはそれを疑問にも思わなかったのだから。
でも、今のあたしは違う。そう思っていた。
だからこそ、予想出来たはずの事実が予想外で。
ザールブルグに来て、アカデミーを建設しようと張り切って、アトリエを経営しようと勢い込んで、イングリド達にとって良き先生になれるよう頑張ろうと思って、アルトの隣に立てるようにと決意して――
変わったと思っていた。変わっていこうと思っていた。
けれど、そんなあたしは既にフォローされていたという、以前と何も変わらない事実。
それを知り、彼に感謝の念を抱く前に、自分に落胆してしまった。
そんなに……そんなにも、あたしは頼りないのだろうか?
自分なりに努力して、変わろうと、少しでも前に進もうと決めたけれど。
それでもやっぱり、アルトから見たら何も変わっていないのだろうか?
どうして分かってくれないの、と彼を責める気すら起こらない。
どうして気付いてくれないの、と悲しくなる感情すら沸かない。
自分のしてきたことが徒労に終わったという無力感に打ちひしがれるのみ。
テオくんは知っていた。あたしをフォローするために雇われたということを。
それはたぶん、シスカさんも知っている。彼女が教えてくれたから、テオくんは駆け出しらしからぬ万全さであたしを護衛出来たのだろうから。
イングリドも知っていた。あたしにネックレスを渡したのは彼女だ。
ドルニエ先生は? ヘルミーナは?
分からない。でも、もしかしたら何かあたしに隠しているのかもしれない。
そうして、あたしの知らない所であたしはフォローされているのだ。
あたしだけが仲間外れ。
一緒に頑張っていこうと、あの日、皆で誓ったのに。
アルトの考えが正しいことは分かっている。
いつもいつも、いつもいつもいつもいつもいつもいつも……。
普段のあいつがすることは、いつだってシャクに触るくらいに正しいことなのだ。彼の残した結果がそれを物語っている。
リリーとアルトのアトリエ。それが工房の名前。
でも、これほど滑稽なものもない。何から何までアルトのフォローを受けているあたしが、いったいどんな顔で店の看板足り得るのか。
アルトにはアルトなりの考えがあり、いつだってそれは正しい。
確かに、そうかもしれない。
でも、とあたしは思う。
だけど、とあたしは否定する。
彼の考えには、あたしの意思は一切関与していない。
良かれと思ってしてくれたことだとは分かっている。あたしのフォローをすると約束した以上、それをあいつが破る事は無い。
でも、あたしにはあたしなりの意思があるのだ。
どれだけ未熟で幼稚で、彼からしたらこの上なくバカげたものだとしても。
だから、とあたしは思考を繋げる。
うつむいたままの自分を、無理矢理にでも上を向かせる。
あたしと同じ駆け出しのテオくんだって頑張っているんだ。あたしに出来ないはずがない。
共同生活を送る際にも決めたことだ。
話し合い、あたしの意見と彼の意見を衝突させる。
あたしにだって、譲れないことの一つくらいはあるのだ。
もうアカデミーで彼に甘えてばかりいたあたしとは違うんだってことを、彼に知ってもらいたい。自分だけが分かった気になっていてはダメなんだ。彼に知ってもらわなければ、何も始まらない。彼に言わなければならない。
もう、そんなにまでして面倒を見てもらわなくても大丈夫だと。
あたし一人でも、これからはやっていけるからと。
彼にフォローしてもらわなくとも、立派にやれるって所を見せてやるんだ。
「ほーら、二人とも道の真ん中で騒がないの! 他の人の邪魔になるでしょ?」
「姉さん……」
「先生……」
こちらを気遣うようにして見上げる二人に笑いかける。
大丈夫よ、いつまでも気落ちしている暇なんてないものね。
心配かけて、ごめんね。
でも、もう心配いらないわ。
あたしは、一人でだって頑張れる。
アルトに頼らなくたって、立派に錬金術士としてやっていける。
あいつを見返してやる。
絶対に。
あたしは決意を新たに、二人と一緒に街の喧騒の中へと戻った。
――その考えこそが大きな間違いだと気付いた時には、既に事態は致命的なまでに手遅れとなっていた。
あたしはこの後、自分が原因で招く事となった出来事を、後悔と共に一生忘れることが出来ない過ちとして記憶することになる。