アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人) 作:四季マコト
「早めに気付けて、本当に良かった……」
ヘルミーナの寝顔を見下ろすと、自然と安堵の溜め息が漏れた。
ベッドで静かな寝息を立てるヘルミーナだが、その顔色は若干優れない。
近くの森、日時計の草原、と順調に採取が出来たので、俺の気は緩んでいたのかもしれない。俺が次の目的地であるヘーベル湖に行くには、十分な休暇を挟んだと思ったとしても、彼女にとってもそうとは限らないのだ。
知らず知らずのうちに、ヘルミーナに無理をさせていた。
今回は徒歩で片道二日のヘーベル湖だったから、体調を崩しているように見えた時点ですぐに戻ってくることが出来た。
しかし、これが例えばストルデル滝だったとしよう。あそこは往復で十二日間、片道でも六日間は必要となる遠方の採取地だ。そうなれば、体調を崩したままロクな療養も出来ずに、何日も野宿をさせることになる。
そんな事態は、想像すらしたくない。
だからこそ――
……反省、しないとな。
俺は悪くない、慎重に慎重を重ねて頑張った結果だ、仕方ないことだったんだ。そう言い訳がましくわめき散らしたくなる衝動をグッと押さえ込む。
全ての行動の決定権が俺にある以上、全ての行動の責任も俺のものだ。彼女を一人前の錬金術士に導くことも大事だが、健康に気遣えないようでは何も意味が無い。一瞬の気の緩みが命取りとなることもあるのだから。
「迷惑掛けて、ごめんなさい……か」
帰り道。俺の背中で揺られながら、何度も申し訳なさそうに口にしていたヘルミーナ。
謝るのは俺の方だ。俺の方こそ、至らない教師でごめんな。
けれど、その言葉は決して言ってはならない。
言えば必ず、ヘルミーナが傷つくからだ。
自分のせいで、と優しい彼女は思ってしまうだろう。
ヘルミーナは、彼女の年齢にしては良い子すぎるほどに気遣いが出来る。今回はそれが裏目に出て、体調を崩し掛けていることを中々言い出せなかったようだ。
今後はスケジュール管理を、今まで以上に彼女の体調に気を遣ってやらなくてはならないなと思う。今回はまだ教えていない調合品の作り方を教えながらの休息だったから、俺が思ったよりも彼女は休めなかったのかもしれない。勉強熱心なヘルミーナは、一度教わったことは完璧に覚えようとしてしまうからな。何もせず、自由に過ごせる休日を小まめに作ることにしよう。
怪我をする可能性を考えて、治療出来る薬品は持っていっていたが、今回みたいな疲労には効果が無い。今後は疲労に効く調合品も忘れずに持っていこう。
後悔するだけで、次に生かせないのでは何も意味がない。もう二度と彼女が倒れたりしないように気をつけなくては。
そして、これからのことで大事なのがもう一つ。
気は進まないが……。
本当に嫌で嫌で仕方ないが、俺はヘルミーナに謝ることではなく、叱ることをしなければならない。そうでなければ、また同じ過ちを繰り返す結果となるし、他ならぬ、ヘルミーナ自身のためにならない。
俺が彼女を気遣うだけでなく、彼女自身も自らに対して気を付けなければどうにもならないのだ。きちんと彼女に言い聞かせられるのか、そしてその後で彼女が俺に対してどう思うのか、それ考えるだけで泣きたくなってくる。ヘルミーナに「先生なんか、大嫌いっ!」なんて言われたらと想像すると、もう目の前が真っ暗に……ああっ、怒った顔のヘルミーナも可愛いなぁ、もうっ!
……リリーのアホは、平然とやっていたんだけどな。
アカデミーで二人が何かしでかした時は、あいつが彼女達を叱っていた。だからこそ、俺は二人に対して常に彼女達を守る立場でいればいいだけだった。
だが、今回ばかりは俺がするしかない。今、ヘルミーナの先生は誰でもない、俺なのだから。その責任を投げ出すわけにはいかない。
それにしても、まさか、リリーがいてくれたらと思う日が来るとはな……。
ヘルミーナの呼吸する音だけが、カーテンを閉め切った室内に響く。
本当に、本格的に体調を崩す前に気付けて良かった。
これなら、あとは安静にしていれば大丈夫だと思うが……一応、念のために、常備薬を食後に飲ませるか。俺がケントニスから持ってきた薬箱の中に、何個か入れてあるからな。備えあれば憂い無し。怪我や病気に罹った時のためにと、薬関係を色々と持ってきておいて良かった。
そっと頭を撫で、ヘルミーナの傍を離れる。
ずっと傍にいてあげたい所だが、そうもいかないからな。
「……アルト。荷物、運び終わったわよ」
背後から、小さく呼び掛けられた。
心配そうに顔を覗かせたのは、今回も同行を依頼したシスカだ。彼女はヘルミーナを起こさないためにと、足音を忍ばせてゆっくりこちらに近付いてきた。
「すまないね。帰路といい今といい、荷物持ちなんて護衛がするような仕事じゃないのに」
「それくらい構わないわよ。変な所で律儀なのね、あなたって」
「そうかな?」
「そうよ。玄関脇に置いてあった竹籠も一緒に運んでおいたから」
「重ね重ね、申し訳ない」
まったく、リリーのアホめ。
素材を採ってきたなら、きちんと収納しておけとあれほど言ったのに。後でやればいいや、などと思ってそのまま放置してしまったのだろう。おそらく、今行ってる採取には別の竹篭を買って行ったのだろう。当日になって竹篭を使えなくて焦るあいつの顔が易々と想像できる。
竹篭だって安くはないのだ。二個も三個も買う必要はなく、使ったらすぐに素材を片付ければ一個で十分だ。帰ってきたら、きつく言ってやる。節約しなくちゃと言いつつこれでは先が思い遣られるぞ。
「……でも良かった、これなら大丈夫そうね」
寝息を立てるヘルミーナの顔を覗きこみ、安心したようにシスカが微笑む。
「錬金術の素材よりも優先してアルトが背負うほど、大事に扱っている子だしね。万が一があるわけない、か」
「当然だよ。素材は最悪捨ててもまた取って来ればいいけど、ヘルミーナはそんなこと出来ないからね。出来たとしても、しないけどさ」
もっとも、そのせいでシスカが竹篭背負った面白傭兵姿となってしまったのだが。
見栄えに気を遣う方である彼女への仕打ちに少しばかり胸が痛むが、戦闘の度にヘルミーナを起こすわけにもいかない。慌てて放り出すなんて問題外なので、そうせざるを得なかったのだ。
「過保護ねぇ……」
「それくらいしても、まだしたりないくらいだよ。本音を言えばね」
俺が苦笑すると、彼女も苦笑で返した。
何があるか分からないのが現実だ。
それくらい慎重になって丁度良い程度だろうと俺は思っている。
シスカと一緒に一階へ下り、台所から紅茶を二人分淹れて来てテーブルへ着く。リリーのやつがいたなら、あいつに先に用意させておいたんだが、生憎とイングリドと一緒に採取へ出掛けているらしい。間の悪いやつだ。
玄関脇の壁に吊るされたボードに視線を遣る。各自の予定を把握するために、と用意した物だ。他にも今週の掃除当番の名前や、ザールブルグでの催し物等といったチラシも張られている。
俺とヘルミーナの部分を書き直した際、他の三人の予定を確認した。
リリーとイングリドの部分には、やや丸い文字で同じ内容が書かれていた。
【近くの森にテオくんと一緒に採取に行ってきます・三日間くらい・戻るのは夕方?】
なんで最後が疑問系なんだアホ、と帰ってきたら問い詰めてやろう。
一昨日の日付で書かれていたので、戻るのは今日の夕方頃になるらしい。イングリドの顔を見るのはしばらくぶりとなるので、今から会うのが楽しみで仕方がない。シスカが見ていなければ、鼻歌の一つも歌いたいところだ。
一方、ドルニエ先生はというと……。
【大工の棟梁と打ち合わせ・帰宅は夕方頃を予定】
と綺麗な筆跡で簡潔に書かれている。つい最近まで貴族の御偉方やらと折衝をしていたというのに、戻ってから落ち着く間もなく、次へと出掛けるドルニエ先生には頭が下がる思いだ。
大工が必要となるのは勿論、アカデミー建設のためである。場所こそ確保したものの、造る人がいなければ立つわけがない。
皆で話し合った結果、アカデミー建設に必要な金銭の管理も含めて、ドルニエ先生が行うこととなった。俺とリリーはあくまでアトリエの運営が本業ということだ。
そのドルニエ先生も夕方には帰宅するようなので、今日の夕食は久しぶりに全員揃っての食事となりそうだ。リリーが帰ってきたら、何を作るか相談して買出しに行くとしよう。
「お疲れ様、シスカ。なんだか慌しくて、すまなかったね」
「気にしないでいいわよ。予定はあくまで予定なんだしね」
「護衛費用はきちんと当初の予定通り、二日後分まで支払うから安心してくれ」
そう告げて、俺は懐から財布を取り出した。
俺が彼女を雇う際には、支度金として前渡しで二割、残りの八割を帰宅時に払う契約となっている。というのも、冒険者という職業は色々とお金が入用になる職業だからだ。武器や防具は言わずもがな、保存食や何やといったものも入用となる。仕事が終わるまで一切お金が入らないとなると、長期の依頼の時に困った事態になることが予想されるのだ。
今回は予定よりも二日ほど早い帰還となったが、それはあくまで雇用側の都合だ。彼女には何ら責がない。元々、彼女が俺達の護衛をする予定で空けておいた日なのだから、それはこちらが拘束期間として保障するのは当然のことだろう。
そう思って銀貨を契約日数分支払った俺だったが、シスカはそのうちの数枚を残して受け取ると、残りを俺に全部返した。
「いいわよ、今日の分までで」
「いや、だけど……」
「そのくらいの融通は利く性格のつもりよ、私は。それとも、そんなに堅物に見えるかしら? だとしたら、ちょっとショックね」
「そんなことはないさ。でも、これは――」
「私はアルトとの仕事を気に入っているわよ。性別に関係なく、きちんと腕で判断して妥当な金額で雇ってくれているし。私を女として扱って変に関わってこないし。それでいて、ちゃんと性別を意識した上で気遣った行動をしてくれるしね」
「は?」
いきなり何を言い出すんだろうか、この女は。
話題がいきなり飛んだせいで、思わずポカーンと口を開けてしまった。
「だから、これからも良い関係を築けたらって思うし、そうしたいわ」
「それは僕も同意見だよ。ヘルミーナを安心して預けられる護衛というのは希少だ」
これはお世辞ではなく、本音だ。
「それは光栄ね。でも、だったら尚更、もうちょっとお互いに気を許しあってもいいと思わない? ちょっと水臭いっていうか、ね?」
「……? どういう意味かな?」
「あ、別に男女関係として親しくなりたいってわけじゃないから誤解しないでね?」
「誰がするか」
反射的に、素でツッコミを返してしまった。
いかん、取り繕った仮面がはがれている。
ゴホンゴホン、と誤魔化すように咳払いをする。
「それはそれで女としてちょっと不満ね」
「……あ、いや。僕なんかではシスカのような美人と釣り合わないと思って、つい照れ臭くて言い返してしまっただけなんだ」
「頬、引きつってるわよ?」
しまった。
無理のある言葉すぎて、表情筋が歪んでしまったか。ここ最近、アカデミーでの生活と違って毎日演技する必要がないためか、ちょっとしたことでボロが出るようになってしまっている。困った物だ。
言葉に詰まる俺とは対照的に、シスカは笑いを堪えきれないといったように楽しげだ。
「ぷっ、ふふっ……冗談よ、冗談。大丈夫、アルトが誰を一番大事に思っているのかは、きちんと分かっているつもりだから。彼女に妙な誤解されちゃ、困るものね?」
「そ、そう言ってくれると助かるよ」
これが彼女とリリーの違いだろう。
あのアホ女と違い、彼女は俺がどれだけヘルミーナを大事に思っているのかを知った上で、その意思を尊重してくれる。今まで周囲に彼女のような人間が少なかったために尚更、その事実を有難いものだと思う。
だからこそ、先程俺が口にしたセリフは嘘ではない。彼女のような護衛とは、今後も長い付き合いをしていきたいと思っているのだ。
「話がそれちゃったけど、言いたいことは分かってくれた?」
「…………」
俺が沈黙で答えを返すと、シスカは呆れたように深々と溜め息をついた。
……くっ、普段は俺がリリーにやる側だったから分からなかったが、こうして目の前でやられると腹が立つな。今後はあいつにやるのも控えて……やる必要はないか。あいつがアホなのは事実なのだから。
「アルトって頭は良いけど、こういう方面には疎いのかしら?」
「……どういう意味かな?」
「つまり、もうちょっとお互いに対しての信頼関係があってもいいんじゃないかしらって言ってるのよ。仕事である以上、信用は大事だけど、信頼がないと個人的に長い付き合いにはなれないでしょ?」
「そういうことか」
多少のことなら、なあなあで済ませても許されるような関係、ということだろうか。
俺はあくまで仕事上の付き合いとしか考えていなかったが、彼女はもう一歩踏み込んだ先を考えていてくれたようだ。まだ出会って一ヶ月と経っていないのに、一体何をそんなに気に入ってくれたのか……と考えれば、答えは自ずと浮かんでくる。
すなわち、
――ヘルミーナの可愛さの虜になった、ということだろう。
無理もない。彼女の可愛さは天使級だからな。
さすが俺のヘルミーナだ。マンドラゴラも裸足で逃げ出すほどの魅力っぷり。かの魔物が撒き散らす粉は相手を二割、あるいは四割の確率で魅了するが、ヘルミーナのオーラは十二割魅了するということだろう(余剰分は一度魅了された後に、もう一度魅了されるということだ)。
シスカがヘルミーナを大事に思う同志となってくれたのは心強い。今後は護衛としての義務感だけでなく、それ以上の気持ちで彼女を守ってくれることだろう。
志を同じくする存在として、俺は彼女の提案を快く受け入れることにした。彼女から返された銀貨を財布に収め、懐に戻す。
「それじゃ、今回はシスカの好意に甘えさせてもらうよ」
「ええ、それでいいわ。もし、まだ気に掛かるようなら……そうねえ。またお酒の一杯でも奢ってくれれば、それで十分よ」
「それなら、さっそく今夜にでもどうかな? リリーが夕方には帰って来るから、その後で良ければ軽く付き合うよ」
あいつにヘルミーナを任せるのは多少不安だが、いくらあいつでも安静にしているヘルミーナを起こすような馬鹿な真似はしでかさないだろう。
イングリドはヘルミーナと喧嘩することが多いが、本気で嫌っているわけではない。体調を崩して寝ているヘルミーナを起こしたりはしないだろう。……たぶん。
「そうね、ちゃんと彼女には伝えておかないとね」
「……?」
どういうことだと聞き返そうとしたが、間が悪く響いたドアベルの音に掻き消された。
玄関のドアを開けて入ってきたのは、
「おや? アルト、早かったんだね。おかえり」
「ちょっと事情がありまして……。ドルニエ先生も、おかえりなさい。お疲れ様です」
やや疲れた様子のドルニエ先生と……
「カリン?」
「やあ、アルト。帰ってきてたんだ? お邪魔するよ」
気さくに片手を上げて挨拶する『カリン』だった。
製鉄工房の紅一点の女性で、彼女も原作に登場する人物の一人だ。赤色掛かった茶色の髪をベリーショートといっていいほど短く刈っているのと、すらりとした長身のせいで、一見男に見間違えるような外見の女性だ。
話し方も世間一般の女性とは異なっているし、その服装も動きやすさを重視したシャツにパンツといったスタイル。首元のチョーカーと耳元のピアスが、辛うじて女性だという主張といったところだろうか。
そんな彼女が、どうしてドルニエ先生と一緒に?
「そこで偶然会ってね。看板のことで話したいことがあるらしい」
「ああ……、そういえば期日がそろそろでしたね」
二人に椅子を勧め、飲み物を取ってくるために席を立つ。
「シスカは、おかわりいるかい?」
「いいえ、いいわ。そろそろ、帰ろうと思っていたし。それより、看板ってココの看板のこと?」
「ああ、そうだよ。カリンには看板の依頼をお願いしたんだ。彼女は製鉄工房で働いているんだが……って、そんなことは知ってるかな」
「ええ、何度か武具の手入れを彼女のいる工房にお願いしたことがあるからね」
「といっても、あたしは武具の担当はまだ任せてもらえてないんだけどね」
「大丈夫、そのうち任せてもらえるようになるわよ」
「だといいんだけどなぁ……」
紅茶を淹れて戻ると、ぐだーっとテーブルに上体を投げ出したカリンがいた。
……どうも、彼女にはお客様が相手だという意識がないらしい。
まあ、以前に打ち合わせをした後、リリーと何やら遅くまで喋っていたから、そういう認識が薄れたのかもしれんが。
あるいは、シスカもそうだったし、こっちで出会った人達は皆、そういう気質の人が多いし、これがザールブルグの気風なのかもしれないな。
「はい、ドルニエ先生。カリンも」
「ああ、ありがとうアルト」
「ありがと」
「それで、どうでした先生? 大工の職人さん達に引き受けてもらえましたか?」
「ああ、無事に棟梁へ話をつけることが出来たよ。当座の資金は先払いで渡しておいたから、早ければ来週にでも工事を始めるそうだ」
「それは良かった。じゃあ、あとは僕とリリーがお金を稼ぐだけですね」
これから本格的にアカデミー建設という夢が始まる。
そのために必要な金額は決してラクなものではないが、そう難しい物でもない。一応、きっちりと二等分して稼ぐ予定にはなっているが、いざとなったら俺の稼ぎで補填すれば工事中止といった最悪の事態は防げるしな。
看板に続いて、着々とアトリエとして動き出してきた気がする。
「ねえ、アルト。看板を造るってことは、このアトリエの名前が決まったっていうことよね? 何にしたの?」
気になっていたのか、俺とドルニエ先生の会話が落ち着いたのを見計らって、シスカが尋ねて来た。
「あれ? まだ言ってなかったか」
「聞いてないわ。カリンは知ってるのよね?」
「ん、そりゃ知ってるよ。知ってるけど……、あははははははっ!」
なぜか、大ウケして笑われた。
こいつ、やっぱ個人的に客商売向いてないだろ。失礼な。
「そんなに笑うほど変な名前か?」
「ごめん、ごめん。そういう意味で笑ったんじゃないんだよ。気分悪くしたなら謝るよ」
「えっ、なに。どんな名前なの?」
「……リリーとアルトのアトリエ。別に、おかしくないだろう?」
憮然として答える。
シスカは何やら考え込むような沈黙を挟んだ後、
「……なるほど。カリンが笑ったのは、そういうことね」
と、何かを理解したかのようなことを言って、しきりに頷いた。
そういうこと? どういうことだ。
ドルニエ先生も俺と同じで理由が分からないらしく、いつもの考え込むポーズをしている。いや、全然違うことを考えているのかもしれんが。
「その名前ってアルトが考えたのかしら?」
「いや? 皆で相談し合った結果だよ。リリーが最後までやたらと煮え切らない態度でゴネたせいで長引いたけどね。反対はしないけど、微妙といった感じでさ」
「うーん、それって恥ずかしがっていただけじゃないかしら?」
「恥ずかしがる? いったい、何を? 自分の名前が目立つからかい?」
「いや、そうじゃなくて……」
「シスカ、シスカ」
何かを言おうとしたシスカを呼び止め、カリンが彼女を手招きする。顔を寄せるシスカの耳元で何かを囁いたかと思うと、そのまま二人で内緒話をし始めた。無意識、微笑ましい、要観察物件、そんな言葉が漏れ聞こえてくる。
……なんなんだ、いったい。
そんなに言いづらいような何かが店名には含まれているのだろうか? ケントス出身者では分からない、ザールブルグ特有の何かか? しかし、テオに伝えた時は特に何も言われなかったんだが……いや待てよ、そういえば何やら微妙な表情を浮かべていたような気もするな。もし、そうなのだとしたら、変更を検討した方がいいのかもしれないな……。
「なあ、二人とも。正直に答えてくれ。アトリエの名前、変更した方がいいと思うか?」
「「それを変えるなんてとんでもない!!」」
物凄い勢いで答えが返ってきた。
具体的にどれくらいかというと、二人とも上体をテーブルの上に乗り出して、今にも俺に掴み掛からんがごとき必死の形相だ。
……そ、そこまで強烈に反対されるとは思わなかったぞ。
「あー、えっと、ほら。別に、おかしな名前ってわけじゃないんだし。ねえ、カリン?」
「そ、そうそう! 分かりやすくていい名前じゃん――色々な意味で」
「しかし、思わず笑いたくなるような名前なんだろう?」
「えっ? そ、それは……ねえ、カリン?」
「ええっ!? んーと、だね。い、良い意味で笑顔になるような名前だってことだよ!」
「良い意味で……?」
「そう、良い意味! だから、気にしないで大丈夫よ。ううん、むしろドンドン広めるべきだと思うわ!」
「そうだよ、知ってもらってこその店名だしね!」
「まあ、そうなんだが……」
なぜだろう。彼女達が言えば言うほど、騙されているような気がしてくるのは。
「そ、それよりも! カリン、看板のことで何か打ち合わせしようとしていたんじゃないの? それ話さないと!」
「そうそう! 看板のことで相談したいことがあったんだ。リリーは上にいるの? せっかくだから、一緒に話し合いたいんだけど」
なんだか強引に話題を逸らされた気がしないでもない。
が、取り合えず仕事を片付けるのが先だろう。話はその後でゆっくりするとしよう。
「いや、リリーはまだ帰ってきていないよ。夕方になるとそこに書いてあった」
「え? いないの?」
俺がボードを指差すと、カリンが怪訝そうな顔をして聞き返してきた。
「ああ、そうだが……リリーがいないと困るようなことがあったのかい?」
「いや、そうじゃないんだけどさ。おっかしーなぁ……そもそも、あたしがアトリエに訪ねたのって仕事先から帰る途中でリリーを見かけたからなんだよ」
「どういうことかな? もうちょっと詳しく話してくれないか」
「二時間くらい前かな? 金の麦亭のハインツさんから、鍋の修繕の依頼を受けててさ。それを納品しにいった帰りに、リリーとイングリドが足早に歩いてるのを見掛けたんだ。よっぽど急いでたのか声を掛けたけど気付かないで行っちゃってさ。まぁ、帰ってるなら丁度良いやと思って、工房から資料を持ってきてここに来たんだよ」
「その途中で私と出会って同行したというわけだね」
「そうそう」
ドルニエ先生が思案気に眉根を寄せ、ふむと再度考え込む。
……どうやら話しに参加しないだけで、きちんと会話そのものは聞いていたようだ。だったら、アトリエの名前について先生からも突っ込んで聞いてくれればいいのに。
しかし、今気になっているのはそこじゃない。
カリンの話が正しいとすれば、リリーは既に帰宅しているということになる。
「でも、僕達が帰ってきた時にはいなかったよ? ボードも書き直していなかったしね」
「うーん? 見間違えたのかなぁ……?」
「それか、夕飯の買い物に出掛けたんじゃないかな。玄関脇に置いてあった竹篭は、先に買い物を済ませてから片付けようとしたのかもしれないしね」
「でも、それにしては長すぎじゃない? 私達が帰ってからで計算しても、結構な時間が経ってるわよ?」
確かに、その通りだ。
いくらなんでも、食材を買いに行くだけでこれだけ時間が掛かるのはおかしい。カリンが見掛けたのが二時間前。俺達が帰ってくる直前に出掛けたとしても一時間近く経つ。ヨーゼフさんの所へ買いに行ったにしても、二人が帰ってくるには十分すぎる時間だ。
また何かアホなことでもしてんじゃないだろうな……?
さすがの俺でも、あいつの考えることは予想が付かないぞ。
「ヨーゼフさんと長話でもしてるんじゃないかな? リリーはお喋りするのが好きだしね」
「んー、それかどこかに寄ってるのかもね。教会とか。イングリドが最近よく出入りしているのを見かけたし」
「――ちょっとその話を詳しく」
聞き逃せない言葉を耳にし、俺が椅子から腰を上げた瞬間。
乱暴に玄関のドアが開け放たれた。
焦った様子で駆け込んできたのは、もはや見慣れたいつもの顔だった。
「どうしたんだい、テオ? そんなに慌てた様子で」
「ああ、アルトさん、ちょうど良かった。姉さんはいる?」
弾む息を整えようともせずに、息も荒くテオが言う。
リリーの護衛を依頼された彼がこの街にいるということは、やはりリリーは一度戻ってきていたようだな。
それにしても、いったい何があったというのか。
心なしか顔色の悪いテオを見ていると、なんだか不安な気分になってくる。
……あのアホ、本当になんかロクでもないことしでかしたんじゃないだろうな?
「いや、いないよ。今回の護衛は終わったんだろう?」
「うん、もう結構前に二人とは別れたんだけどさ。でも、ちょっとその時の姉さんの様子が気になって。それで帰った後に、一応訪ねてみたら留守で。だから、街中探してみたんだけど見つからなくて。それで……」
「ちょ、ちょっと落ち着いて。一遍に言われても分からないって」
「姉さんがイングリドと二人だけで街の外に出るのを見たって門番の人達が言ってたんだ!」
「――――っ」
テオが苦しそうに吐き出した一言に、心臓がドクンと跳ねる。
二人きりで外へ出た……? 護衛もつけずに? いったい、なんのために?
わけが分からない。何がしたいんだ? あいつは。
あれほど護衛もつけずに外へ出るなと言っておいたのに。イングリドの身に何かあったらどうするつもりなんだ、まったく。
「二人じゃ危ないって呼び止めたらしいんだけど……、すぐに帰るから平気だって話を聞かずに行っちゃったみたいで」
「……それはいつのことだい?」
「たしか、一時間以上前だって言ってた。アルトさんが知ってて許可を出したならって思ったけど……、その顔じゃ知らなかったみたいだね」
「うん、何も聞いていないね」
というか、あいつに会ってすらいないしな。どうやら、ちょうど俺達が帰ってくるのと入れ違いになったようだ。
本当に、あいつはもう次から次へと……っ!
呆れるあまり、開いた口が塞がらない。
まあ、近くの森だったら危険度もさほどないし、問題ないとは思うが。ぶっちゃけた話、冒険者としての純粋な力量だけでいえば、俺よりもリリーの方が上だしな。それこそ、よっぽど運が悪くない限り、群れに出くわすこともないだろうし。
そもそもだ。
俺の言いつけを破ったリリーが悪い。身から出たサビ。自業自得だ。ちょっとくらい怪我した方が良い勉強になるだろう。アホなことするからそうなる、と。
「ねえ、アルト。探しに行った方がいいんじゃないかしら?」
「今からかい? 随分と時間が経ってるし、行き違いになるのがオチだと思うよ。それに、あいつだって何度か行ってるんだ。自分の身くらいは守れるさ」
「アルトさん……」
なんだよ、そんな不安そうな目をして。
大丈夫だっつーの。テオは心配性だなぁ。
もうちょっと落ち着けって。
大丈夫だって、小さな子どもじゃあるまいし。リリーだって、良い年した大人なんだから。そんな慌て返って騒ぐようなことじゃないって。
俺はゆっくりと息を吐いて、淹れたまま口をつけていなかったカップを手に取る。
ふぅ……、良い香りだ。安物にしては中々イケるね。
……なぜかカップが小刻みに震えて、ソーサーにぶつかってカタカタと音を立てているせいで、ちっとも落ち着いた気分になれないが。
「ちょうど今からシスカと軽く酒場で飲もうかと思っていたんだ。テオとカリンも一緒に行くかい? ついでだし、二人の分も奢るよ」
だからもうその話は終わりにしよう、と彼らに提案する。
しかし、返って来たのはやたらと気遣わしげな視線だった。
なんだよ……そんなに動揺するようなことじゃないだろ、大丈夫だって――俺まで不安になってくるだろうが。
大丈夫……だよな? 何かトラブルが起きてたりしないよな? 怪我とかしてないよな? 別に、あいつ一人が怪我する程度で済むなら気にはならない。それだったら、アホなやつめ、と帰ってきたら説教をしてやろう。でも、あいつの傍にはイングリドがいる。彼女が怪我をしたらと思うと不安で堪らない。いや、リリーはヘルミーナに怪我させるような真似だけはしない。だから、大丈夫だ。でも、こんな意味不明な行動を取っている以上それも……いや、大丈夫だって。何も心配いらないって。考えすぎなだけだって。
リリーだって、自分で大丈夫だと思ったから、彼女を連れて行ったんだろうし。
だから……
――でも、もし万が一、怪我では済まないような事態に陥っていたら?
……そんなわけないだろ。
だって、近くの森だぞ? ザールブルグの住人だって、たまに薪や果物等を取りに入る人がいるような場所だ。ヴィラント山みたいに凶悪な魔物が多数いる場所ならともかく、命の危険があるような場所ではない。現に、今まで俺達が採取しに訪れた時も、何ら危険らしい危険も起きなくて拍子抜けしたくらいだ。第一、探すとしたらどうやって? 森というだけあって、どこにいるのかすら分からない人間を探すのには広すぎる。今ここにいる人数だけで探すには難易度が高すぎだ。土台、無理な話なんだ。慌てるだけ無駄。だから、ここでこうして落ち着いてリリー達の帰りを待つ方が無難な答え。それで問題ない。
だから、いや、でも、だから、しかし……。
「……大丈夫、だよな?」
誰ともなしに確かめるようにして漏れた声は、我ながら頼りなくかすれていた。
そして、俺は――
シスカとカリンとテオの三人と一緒に、金の麦亭へと向かった。
◆◇◆◇
無我夢中で、とにかく前へ前へとひた走る。
後ろへ伸ばされた左手は、遅れるイングリドを半ば強引に引っ張るように繋いでいる。
疲労を訴える全身を無視して、薄暗い森の中を二人で逃走する。
避け切れなかった枝葉がピシリと頬を打つ。
熱と痛みに掠り傷を負ったことに気付くけど、これまた無視して足を動かし続ける。
必要な動作は走ること。今すべきことは、それのみだ。
「はっ……、――っ!」
悲鳴が漏れそうになるのを、グッと奥歯を噛み締めることでギリギリ我慢する。
大声を上げるのは、ただの自殺志願にしかならない。近くを偶然通りかかる人がいて、その人が助けてくれるお人好しで、尚且つ追っ手を倒せる技量を持つ人間、とかそんなありえない幸運に期待するほど、あたしはバカじゃない。
……いや、結構なバカだ。
そうでなければ、こんな事態には陥っていないのだから。
「せん、せ……っ!」
「頑張って、イングリド! お願いだから!」
苦しそうに息を吐くイングリドに、ただ声を掛けて励ますだけしか出来ない。
足を止める余裕は無い。
頭だけ振り返り、イングリドの様子を確認するついでに、背後を見回す。何も姿は見えない。けれど、相手を振り切ったと楽観するのはありえない。
今もほら、姿こそ見せないけど足音と吐息がついてきている。
時折、草木に触れて物音が立っている。
それは幻聴かもしれない。恐怖から勘違いしているのかもしれない。
でも、追われていることが確かな以上、そんなのは何も意味が無い。
ハンカチで縛って止血した右足が、じくじくと身体を蝕む。本来なら、こんな状態で走るなんて言語道断。血の染みが広がっていくのと同時に、どんどんと残り少ない体力が削られていくのを自覚する。
もしかしたら、追跡者はそれを考慮に入れているのかもしれない。
すぐに追いつけるはずなのに待つ理由。それはあたし達が力尽きて倒れれば容易く勝てると理解しているからなのか。もしそうなら、獣の本能というのはバカにならない。
あたし達を追いかけてきているのは、ウォルフの群れだ。
目に見えない追っ手への恐怖に、がりがりと精神が削られていく。
一度でも立ち止まってしまえば、糸に絡め取られて動けなくなってしまいそう。
どうして、こんなことになっちゃったのよ――
もし、やり直せるなら絶対に同じことはしないのに。
あたしは直視したくない現実から逃避しようと、半ば本気でそんなことを考えていた。
あたし達はテオくんと別れた後、妙にはしゃぎながらアトリエに帰宅した。
……いや、テンションが上がっていたのはあたしだけで、イングリドはそんなあたしに付き合っていただけかもしれないけど。
まだ夕飯には早い時間。でもちょっと小腹が空いてしまったので、素材採取に使った竹篭をそのままに金の麦亭へと向かう。片付けは休憩してから気分を改めてやろうと。
軽くお茶とケーキを食べながらお喋りしつつ、なんともなしにハインツさんから依頼を確認して……おや、と首を傾げる。何やら見覚えのある文字だな、と。
うにゅう。
どこかで聞いたような? はてさて、いったいどこだったか。
むむむ、と頭を悩ますと隣のイングリドが元気良く答えた。さっきの緑色のやつじゃないですか、と。
……生徒に先に答えられてしまって立つ瀬が無いけど、答えは正にそれだった。
うにゅう二個で銀貨三千枚。期日が間近とはいえ、破格の依頼だった。
うにゅうは中々採取することの難しい希少素材で、アルト達やあたし達が何度も近くの森に行ったけど、今まで見つけることは出来なかった。でも、テオくんが見つけた辺りに行けば、まだあるかもしれない。
いきなりこれだけの銀貨を稼げば、あいつもちょっとはあたしを見直すかもしれない。
あたしはそう考えて、今すぐ近くの森に行くことを決めた。ついさっき拾ったばかりだし、今すぐ行けば他の誰かに拾われる心配もない。
テオくんは訓練しに行くと言っていたから誘えないけど、どうせちょっと行ってすぐ帰るだけだ。それくらいならあたしだけでもなんとかなるだろう。
一応、見つからなかった時のことを考えて、依頼そのものは保留しておく。素材を確保したら、その場で報酬と引き換えにしようと決めてアトリエへ戻る。
そして、イングリドに外出を伝えて出掛け……ようとしたらなぜかついてくるイングリド。一人じゃ危ない、心配です、って……それ、あたしのセリフよね?
口論に発展しかけつつも、あたしの言うことに絶対に従うという条件で渋々同行を許可する。のんびり歩いていたら日も暮れてしまうので、うにゅうを探すこと以外に時間の余裕は無い。そのため、我が侭を言わないことを言い含めて、いざ出発。
荷物は極力軽くして、鉄の杖と飲み物の入った水筒のみ。うにゅうだけしか拾う予定はないし、野宿するつもりもないし、それで問題無し。
道中まったく敵に遭遇せず、お昼を取った川原を目印にテオくんがうにゅうを拾った場所に当たりをつける。段々と辺りが暗くなってきて、これはもう見つからないかな、と諦めようとしたら、突然イングリドが歓声を上げた。
先生これこれ、と笑顔で駆け寄る彼女の手には、見覚えのある緑色の物体。うにゅうだ。
大手柄よ、と彼女を褒めて意気揚々と帰路に着く。
あとはこの一個とアトリエに置いてきたままの一個を手に酒場に向かえば依頼達成。あっという間に銀貨三千枚の大儲けだ。
……そうなるはずだった。
帰り道、薄暗くなった森の気配に不安と恐怖を感じるも、それ以上にこれであいつを見返せるという上向きの気持ちの方が多かったので、あまり気にはならない。
イングリドと上機嫌で歩き――その結果、敵の襲撃に反応が遅れた。
気付いた時には、ウォルフ三匹に進路を塞がれていた。
間が悪い。こんな時に。
でも、三匹程度ならなんとかなる。
先制の魔法で一匹を倒し、その隙にと飛び掛ってくるウォルフは鉄の杖をフルスイングして殴り飛ばす。残るは一匹だけね、と油断したのがいけなかった。
地面すれすれを身を低くして走るウォルフに反応が遅れ、右足に噛み付かれる。ふくらはぎの部分に激痛が走るも、悲鳴を堪えてその脳天へと杖を叩きつける。
口を離したウォルフが、ふらふらと地面に倒れこみ、断末魔を上げるように大きく吠える。もう一発必要かと身構えるも、そのまま動かないので息耐えたと安堵する。
あたしの怪我で慌てて駆け寄るイングリドにこれくらい平気よと笑い掛ける。軽症ではないけど、歩けないほどではない。傷口を水で洗い流し、ハンカチで縛って止血する。
アトリエに帰ったら、アルトから薬を分けてもらおう。あいつがケントニスから持ってきた物の中に、何度かお世話になったことのある薬箱があるのは確認済みだ。小言の一つ二つは言われるだろうけど、それは自業自得と諦めよう。
――気楽に考えていられたのは、その時までだった。
まるで森が叫び声を上げているかのように、周囲から一斉に吠え声が響き渡る。一匹、二匹どころの話ではない。いったい、何が……。
ハッ、とさっき倒したばかりのウォルフに視線を向ける。最後の声は無念を訴えるための物なんかではなく……あれは、群れを呼ぶための遠吠えだったんだ。
そして、あたしはイングリドの手を取ると、事情を説明する手間も惜しいと全力で走り出した。三匹くらいなら、あたしでもまだなんとかなる。でも、片手では収まりきらない数を相手取るとなると話は別。どう考えても無理だ。フラムとか錬金術の調合品を使っても難しいのに、今のあたしは怪我まで負っている。追いつかれたら最後、ろくに抵抗も出来ずに……。
想像して、背筋が凍る。
あたし達がが置かれた状況を認識する。
そうして、やっとあたしは理解した。
自分がどうしようもないほどバカなことをしでかしてしまったという事実に。
「きゃあっ!?」
突然、悲鳴と同時にがくんと左手を引かれてつんのめりそうになり、あたしはハッと我に返った。
勢いのまま走りそうになる足を慌てて止めて、後ろを振り返る。少し離れた位置に、イングリドが地面に膝をついてうずくまっているのが見えた。
体力には自信のあるあたしでさえ、とっくに疲労困憊なのだ。まだ小さなイングリドなら言うまでもない。いくら外で遊ぶのが好きとはいえ、彼女がこれまで走り続けられただけでも奇跡に近い。それだけ彼女も必死だったのだ。
慌てて立ち上がろうともがくイングリド。その手に力はなく、立ち上がることすらおぼつかない。
……でも、その行為にいったい何の意味があるというの?
そうよ、どうせ逃げ切れるわけがない。こんな苦痛を受け続けるくらいなら、いっそ諦めて受け入れてしまった方がずっとラクなのでは?
違う、絶対に違う。そんなわけないわ!
弱気になるあたしの心を叱咤する。
ここで立ち止まったら、それこそおしまいだ。ウォルフの群れに好き放題にされる末路が待っている。
まだ、止まれない。
だから、立ち止まるわけにはない。
早く早く、と心が急かす。
けれど、意識と相反して身体は頑として動こうとしなかった。一度、立ち止まってしまったことで、全身が動くという命令を拒否している。このまま休憩しろとがなりたて、勝手に休もうとする。
それでも動かなければ、とイングリドに手を貸すために近寄ろうとして、
――刹那、時間の流れが停止する。
目の前の光景が色を失くし、音が全て消えうせる。
思考が加速し、止め処ない本能が叫び声を上げる。
本当に立ち止まっていいのか――と冷静な声が響く。
このまま助けずに彼女を囮にして走れば、自分だけは助かることが出来るかもしれない。例え彼女を連れて走ったとしても、足が遅い彼女を連れて行けば追いつかれるのは道理。ならば、共倒れになるよりは彼女を犠牲にしてでも助かる道を探す方が生物としては正しい判断だ。この状況で責任だの何だのを語ったところで、それは自らの命よりも尊いものか? これ以上、迷う猶予は許されない。止まってしまえば、後戻りは出来ない。惨たらしく死ぬだけだ。さあ、今すぐ駆け出せ。迷いを振り払え。判断ミスは許されない。一秒の迷いで容易く生死が分かたれる。よもや、彼女の命と自分の命の天秤、どちらが重いか分からぬはずもあるまい?
「――――っ!」
両目を力いっぱい閉じ、未練たらしく騒ぎ立てる迷いを捨てる。
見開いた瞳に決意を込めて、ざわざわと煽る囁き声を捻じ伏せる。
――分かってるに決まってんでしょうがッ!!
だから、あたしは立ち止まる! イングリドに駆け寄るのよ!
あたしとイングリドの命、どっちが大切かって!?
そんなもの、両方大事に決まってるッ!
だから、ここで彼女を見捨てるなんて選択肢はない。無意識とはいえ、そんな考えが少しでも思い浮かんだあたしに吐き気がする。前提条件が破綻した希望に縋るなんて、いくらなんでも情けなさ過ぎる。
自分も守るし、イングリドも守る。両方やれなくて何が先生だ。錬金術士として頼りないとしても、人間として自分に保護を求める幼い相手を守らずに逃げ帰るわけにはいかない。そんなことでは、先生としての責任なんて果たせはしない。
ううん、責任なんて関係ない。今まで一緒に過ごした大切な仲間を切り捨てるなんて、あたしには出来ない。そんなことをすれば、あたしはもう二度と『自分が生きている』だなんて思えなくなる。錬金術士になるだなんて夢を大見得切って言えなくなる。あいつの傍に並び立つだなんて、とてもじゃないが出来るわけがない。
――そうだ、だからあたしはこれで正しい!
「イングリド、立って!」
力なくうずくまる彼女の手を取って立ち上がらせ、引きずるようにして走り出そうと――
「つ……ぅっ!」
ずるずると膝から崩れ落ちるようにイングリドが倒れる。
両手を地面に、ぐっと力を込めて立ち上がろうとするも、上体を起こすのが精一杯。立ち上がることが出来ずに、そのままぺたんと尻餅をついてしまう。
吐息は荒く、顔色は青ざめ、声音は弱々しく。
ごめんなさい、と泣き出してあたしに謝るイングリドからは、普段のお転婆お嬢様な彼女は見る影も無い。自分の意思とは裏腹に、身体が言うことを利かないのだろう。
倒れたときに足をくじいたか、全身が溜まりに溜まった疲労で限界を超えたか。
どちらにしても結論は同じだ。
走れない、という絶望。
もう助からない、という諦観。
だったら、もう必要なのは覚悟しか残っていない。
二人とも逃げて助かるという希望は絶たれた。
だけど、まだ道は残っている。
残されているなら、それを選ぶしかない。
「……先生?」
起こそうとするのをやめ、不安そうな表情を浮かべて見上げるイングリドの手をぎゅっと握り締める。しゃがみこんで、彼女の顔を覗きこむ。
一瞬の視線の交差。
あたしはじっと彼女の顔を見つめる。絶対に、彼女の顔を忘れないように。
この期に及んで震えそうになる声を、短く息を吐いて押さえ込む。
そして、言う。
「イングリド。このまま、まっすぐに行けば街まで戻れるから――後はあなた一人で行きなさい」
残された道は、ただ一つ。
奇しくも先程、血迷って考えた中に答えはあった。
二人で逃げられないなら……、一人が犠牲になって足止めするしかない。
多少は腕に自信のあるあたしだったら、彼女が離れるまでの時間を稼ぐことが出来るはず。それに、本当に難しいことだけど、生き残ることだって出来るかもしれない。
だから、あたしはその可能性に賭ける。
……そう、どれだけ頼りなくか細い道だとしても。
「先生は……?」
「この足じゃ、これ以上走れないし、今の速度じゃ追いつかれるわ。だから――」
「……いや」
「イングリド!」
「いやいやいや! だったら、私も残る!」
「お願いだから聞き分けて、あなたまで死なせたくないのよ!」
「いや――っ!」
恐慌にかられたかのように泣き喚き、暴れだすイングリド。どこにそんな力が残っていたのかと不思議になるほどの力であたしの手を振り払う。
まずい。こんなことをしている時間はないのに。
彼女が正確に事態を把握しているかは分からない。でも、ここで別れればもう二度と会えなくなるということを理解したのかもしれない。
そこまであたしのことをと嬉しく思う反面、それでも今はと憤りたくなる。
こんな事態を引き起こしてしまったのは、あたしのせいだ。
無理をしてまで稼ぐ必要はなかったのに、アルトへの見得でうにゅうを採取しようと試みてしまった事。
慢心から護衛も無しで街の外へ出てしまった事。
あまつさえ、イングリドを連れてきてしまった事。
失態ばかりが思いつく。
こんなだから、あたしはあいつにフォローされてばかりいるのだ。
でも、だからこそ、あたしの失敗にイングリドを巻き込みたくない。
せめて彼女だけはどうにかして助けたい。
だから、
「……イングリド、ごめんね。巻き込んじゃって。もう……、間に合わないわ」
「先生……?」
「でも、大丈夫よ。先生が、ついてるからね」
……追いつかれてしまった。
鬱蒼と生い茂る木々の向こう、ぎらぎらと光る数え切れないほどの眼光が目に入る。
追いかけっこは終わりとばかりに、堂々と正体を現したのは予想通りにウォルフだ。扇状に展開した彼らの数は、ざっと見て十匹ほど。腹立たしくなるほどに、その姿を見せ付けるようにして悠々と近付いてくる。
これで全部かどうかは分からない。もしかしたら、すでに背後に回りこんで退路を断っている連中もいるかもしれない。
悲鳴を上げることも出来ずに震えるイングリドを、一度だけ力強く抱きしめる。
立ち上がり、彼らの視線からイングリドを遮るように一歩前へ。
震えそうになる両足。がちがちと歯の根がかみ合わずに音を立てそうになる。目に見える恐怖に涙が浮かびそうになる。固めた決意を翻し、今すぐ逃げ出しそうになる。
――それでも、守ってみせる。
鉄の杖の柄を力いっぱい握り締め、ふっと肩に入った力を吐息と共に逃がす。
状態は最悪だ。
立っているだけで座りたくなるほどの痛みが走る右足。武器は鉄の杖のみ。おまけに背後には守るべき相手がいる以上、あまり動いて彼女のそばを離れるわけにはいかない。
そんな状態で、十匹近い相手と戦わなければならない。
じりじり、と遠巻きにしていたウォルフ達がその包囲網を縮めていく。
物理的な圧力を持って襲い掛かる強烈な重圧に、負けるものかと睨み返し――。
群れの中から、我慢できないとばかりに一匹のウォルフが飛び出してくる。それに向き直ろうとした途端、激痛が右足に突き刺さって反応が遅れる。
一瞬だ。ほんの瞬きするほどの空白。
けれど、敵の攻撃があたるには十分な隙。
「づ――ぁあッ!」
強靭な顎が左足に噛みつく。鉄の杖を振り下ろそうとした右手から力が抜け、代わりに悲鳴が口からこぼれ出る。痛い痛いと悲鳴に脳を圧迫されそうになる。
だけど、その程度で諦めるくらいなら最初から立ってない!
震える右手に左手を合わせ、鉄の杖を両手で握り締める。
勢い良く垂直に突き刺し、先端で狙うはウォルフの目。
貯まらず悲鳴と共に口を離したその一瞬を見逃さず、その身体目掛けて渾身の一撃を振り下ろす。地面に叩きつけられ、ぐったりと力を失うその姿を見届けることなく、油断なく周囲へ気を配る。
まだ一匹仕留めただけだ。
戦闘は始まったばかり。油断は出来ない。
乱れた呼吸を整え、次の相手は誰だと睨みを利かせる。
てっきり次は一斉に飛び掛ってくるかと思いきや、彼らは唸り声を上げるだけで近付いては来ない。けれど、そのまま立ち去るわけでもなく、一定の距離を置いてあたし達を包囲する。
「……なるほど、そういうことね」
激痛に全身が痺れていく中、彼らの意図を把握する。
……体力切れを狙うってわけ。
獣ながら頭が良い。いや、獣だからこそか。
このまま、何もしなくともあたしは弱っていく。流れ出す血液がどんどんとあたしの体力を、精神力を、生きる力を奪っていく。遠からず、あたしは意識を失うことになる。
近付けば余計な犠牲を増やすかもしれない。そう思い、無駄な犠牲を出さないためにあたしが力尽きるのを待っているのだろう。
悔しいけど、それは正しい。イングリドでは彼らに抗う力を持っていないのだから。
だけど……そう、だけどもだ。
「それでもね――そうそう簡単にくれてやれるほど、あたし達の命は軽くないのよ……!」
がくん、と落ちそうになる膝を、踵を地面に打ち付けることで強引に耐える。
吠えることで、自らを奮い立たせる。歯を剥いて、まだまだあたしは戦えると鼓舞する。
隙を見せれば、すぐさま彼らは襲い掛かってくるだろう。
だから、絶対に耐えてみせる。
一秒でもいい、二秒でもいい。
とにかく、ほんの数秒だろうと生き残る。
その結果、助けが来るだなんて可能性はありえないだろう。それでも、今はその可能性に縋るしかない。ありえない幸運だろうと、それが生き残るために必要ならつかんでみせる。そのために努力が必要なら、いくらでも耐えてみせる。
痛かろうが、苦しかろうが、それがどうした。いっそのこと、あたしがここで全部倒してしまってもいい。どれだけ可能性が無くとも、今諦めてしまったら最初から手に入らない。
見えない心が軋みを上げる。途方も無い重圧が圧し掛かる。
今この瞬間、あたしの行動には自分だけではない、イングリドの命も賭けられている。
だからこそ、容易く折れるわけにはいかない――ッ!
「――っ、ぐ……ぁ」
無茶なのは理解していた。
無理なのも承知していた。
無謀なのも覚悟していた。
けれど、試す前に諦めるのは許されない。
努力もせずに放棄することは許されない。
希望を捨てて絶望することは許されない。
全てを受け入れるには、まだ早すぎる。
あたしはまだ全部やりきっていない。放り出すのはそれからでいい。
諦めが悪い。
そんなことは何度だって言われてきた。
だけど、いつもいつも努力と根性で乗り切ってきた。
だから、こんな状況だって――全然、あたしが絶望するには役不足だッ!!
「――――」
冷酷に獲物を見据える獣達の双眸。
もし彼らに知性があれば、おそらく舌なめずりをしそうな場面。
このまま待っていた所で、埒が明かない。
いっそのこと、体力切れになる前にあたしから打って出るべきか。
それとも、一秒でも長く、とにかく待ち続けるべきか。
前者なら全滅を、後者なら助けを、どちらも可能性の低さでは変わらない。
考え、迷い……ふと、あいつならどうするだろうと思った。
あたしの大嫌いな……けれど、誰よりも頼りになるあいつなら。
想像してみて、苦笑する。
あいつならそもそも、こんな事態には陥らないわね。
こんな状況なのに、なんだかおかしくて笑いたくなってきた。
でもそうね、あいつだったら……あいつなら、なんとかしてくれそうだ。どれだけ酷い状況でも、きっとあたしの予想に付かないことをしでかしてくれるに違いない。バカなことをして、と怒るあたしだけど、本当はいつも感謝している。悔しいとか、悲しいとか、色々と思うことはあるけど、ただ素直になれないだけ。空回った気持ちが、必死に誤魔化そうと取り繕っているだけだ。
……ああ、そうか。
分かってしまえば、簡単だ。
あたしはいつだって、あいつにお礼を言いたかっただけなんだ。
ありがとう、って。
その一言を伝えるのに、どれだけ回り道をしているのやら。まあ、それもこれも全部あいつがバカなことをしでかすせいだけど。本当、あいつのバカ騒ぎを見ていると素直に感謝する気持ちにすらなれないのだ。
でも、まあ、もしまたあいつに会えたら……。
その時はちゃんと話をしよう。
あいつは云々と偉そうに言ってみたあたしだって、肝心なことはいつも言わないで我慢してしまっていたみたいだから。フォローなんていらない、頼って欲しい、なんてあたしが勝手に思っていたことだ。それじゃ、アルトを笑えない。
きちんと伝えよう。あたしの考えを。
もしそれで、また口論になったら……、まあ、その時はその時だ。開き直って言い合えばいい。口にしないで自分の考えを押し付けるよりは、よっぽどマシよね。
だから――生き残ろう。
あたしはまだ、死ぬわけにはいかないんだから。
血が流れすぎたのか、目の前はぼやけて見える。
ウォルフ達の唸り声が、聞こえているはずなのに耳に入らない。
握り締めたはずの手は、今にも鉄の杖を取り落としてしまいそう。
地面に立っているはずなのに、ゆらゆらとなんだか地面が近く見える。
限界は近い。
それでも、もう一度頑張るためにもあたしは息を吸い込み、
そして――
「リリィ―――――ッッ!!!!」
声が――届いた。
それは、いるはずのない人の声。
それは、何度も耳にした人の声。
それは、誰よりも望んだ人の声。
けれど……、いるわけがない。
幻聴に決まっている。
この期に及んで耳にするのがあいつの声か、と自分の頭を疑ってしまいそうだ。
けれど――
「ぁ……」
今、声を出せば狼達を刺激してしまうことになる。
そうなれば、一斉に襲い掛かってくるかもしれない。
それは愚策。生き延びるためにはしてはならない判断。
だけど――ああ、それでも!!
「ア……っ」
それでも、何を信じればいいかと言えば、あたしはあいつを信じたい。
どうして、とか。なぜ、とか。どうやって、とか。
そんなのはもう、どうでもいい。
ただ、信じる。
「――――」
今にも力尽きてしまいそうになる全身に活を入れ、すぅと大きく息を吸い込む。ただそれだけの動作に、やたらと苦労する。
ぐるぐると空転する思考は沸騰寸前。
早鐘を打つ心臓は、今か今かと爆発を急かす。
喉が裂けようが構わない。倒れてしまおうが構わない。どうなろうが構わない。
だからお願い、今、この一声だけは彼に届かせてっ!
「アルト――――ッッ!!」
アルトだけが、この一瞬だけが唯一、生き残れる可能性なのだから!!
突然の大声に、慌てたようにウォルフ達が一斉に動き出す。彼らがあたし達の元にたどり着くまで、あと十秒足らず。あたし達が殺されるまで、ほんの少し。
それでも、いい。やれることはやった。
だから、あとはあいつを信じるだけ。
いつだって、あたしの予想もしないことをしでかすバカなあいつ。
大嫌いで大嫌いで仕方ない、それでも肝心な時には頼れるあいつ。
そんなあいつだからこそ、
「リリー!」
絶対に、来てくれると信じていた。
どれほど必死に探してくれたのだろうか。
今まで見たことのないほど切羽詰った形相をしたアルト。その顔にはそこら中に傷が出来、血が流れ出している。髪だってボサボサ。服のあちこちに葉っぱがくっついている。まったくもう、せっかく綺麗な顔立ちなのに台無しよ。
なんだかバカらしくて……ずっと我慢していた涙が溢れ出してしまう。
あたし達を発見するや否や、なりふり構わずに全力で駆け寄ってくる。
ああ、それでも……絶望的な距離だ。
どう考えても、あいつよりもウォルフ達の方が早い。
間に合わない。助からない。
でも、それでもいい。
だって、そうだ。
これなら――
「あとはお願いね……、アルト」
……ああ、そういえばまた会えたらお礼を言おうとしていたのに。
結局、アルトと話し合うことが出来なかったわね。それが残念。
それでも、イングリドだけは助けられる。きっと、アルトなら何とかしてくれるはずだ。
振り返り、倒れこむようにしてイングリドを抱きしめる。その全身を、あたしの身体を盾にして覆い隠す。イングリドの泣き顔が目に入る。ごめんね、こんなことしか出来なくて。
きっと、あたしは助からないだろう。
でも、イングリドだけは最後まで守ってみせるから。
イングリドの泣き出す声、ウォルフ達の唸り声、アルトの叫び声――
そして、ウォルフ達の攻撃が一斉にあたしに襲い掛かり――
硝子が砕け散るような音と共に、あたしの意識を真っ白に染め上げた。