アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人)   作:四季マコト

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ゼーレの奇跡

「リリィ―――――ッッ!!!!」

 

 これでいったい何回目、いや何十回目になるだろうか。

 一向に返事のない彼女の名前を呼びながら、目が痛くなるほどに集中して二人の姿を探す。それと並行して、二人の声が聞こえないかとじっと耳を澄ます。ぜいぜいとあえぐ自分の呼吸音だけが、やたらとうるさい。まるで山彦のように二人を呼ぶ声が反響して聞こえる気がするのに、肝心な二人の声は聞き取れない。

 叫び声の上げすぎで、喉が焼けるように痛い。休む間もなく走り回っているせいで、全身が疲労でガタガタだ。酸欠状態になっているのか、頭痛までしてきた。

 いい加減、身体だけでなく、精神も限界に来ている。

 悪態を吐きながら、額に汗でへばりついた前髪を払う。

 ……いったい俺は何をしているんだ? こんなになってまで、あいつを探す必要はあるのか? どうせ何食わぬ顔で今頃、アトリエに帰宅していたりするんじゃないのか?

 今のままでは運悪く魔物に遭遇した場合、疲労でロクに対処も出来ないだろう。だから、そのためにも少し身体を休ませるべきなんじゃないか?

 そんな考えが脳裏を過ぎるが、どうしてもその提案が呑めない。今、ここで休憩してしまったら、何かが決定的に手遅れになるという予感がする。

 だから、休むわけにはいかない。どれだけ辛く苦しくとも。

 二人からの反応が無いことを確認し、再び駆け回るために無理矢理気合を入れ直す。

 グッと両足に力を込め、

 

「アルト――――ッッ!!」

 

 ――それが、リリーの声だと脳が認識した瞬間。

 考えるよりも早く、身体が動いていた。

 行く手を邪魔する木々の合間を、声の聞こえた方角へと強引に最短距離で突破する。

 避け切れなかった枝葉がしたたかに肌を打つが、そんなことに構っている暇は無い。とにかく、一秒でも早く二人の下に駆けつけなくてはならない。

 それほど必死で急いでいるのに、全然、近付いている気がしない。

 全力で走っているはずなのに、遅々として身体が前に進まない。

 まるで水中を走っているかのようだ。全身が重く、呼吸が出来ないほどに苦しい。一歩進むごとに身体が悲鳴を上げる。

 しかし、それら全てを無視してひたすら走る。

 今ここで走れないようなら、二人を探している意味がない。

 今ここで頑張れないようなら、俺の身体なんて必要ない。

 だから、走る。

 一秒が一分にも十分にも感じられる狂った時間を越え、不意に視界が一気に広がる。

 鬱蒼と生い茂る木々の切れ間にある、猫の額程度の草原。

 そこに、

 

「リリー!」

 

 捜し求めた二人の姿があった。

 満身創痍といった有様のリリーと、その背後に庇われてうずくまるイングリド。杖を構えたリリーの胸元でネックレスがきらりと光り、彼女達の無事を誇示してみせる。

 良かった、と安堵する暇はない。すぐさま気力を振り絞り、再度全力で駆け出す。

 なぜなら二人の姿を目撃するのと同時に、敵対者の姿も目に飛び込んでいるからだ。すでにウォルフの群れが彼女達まで、あと僅かという距離まで近付いている。のんびり歩いているような時間的余裕は、まったくない。

 ――彼我の距離は絶望的。

 俺が彼女達に駆け寄るよりも、ウォルフの群れが彼女達を襲う方が早い。感情が納得していないのに、理性がそう冷酷な結論を突きつけてくる。

 二人を探すことが目的ではない。

 二人を守ることが目的なんだ。

 だから、間に合わせる。間に合うんだ。間に合うに決まっている。ここまで来ておいて、助けられないなんて許せない。そんな結末は到底認められない。

 漏れそうになる悲鳴を堪え、迫り来る現実に抗って足を動かす。

 ウォルフの群れと向き合うリリーの視線がスッと逸れ、走り寄る俺と視線が重なる。

 彼女が何かを呟くように唇を動かす。

 何を言っているのかは聞き取れない。

 聞き取れないが、その顔に浮かべた微笑が気に入らない。いつもいつもムカつく顔して怒鳴りつけてくる癖に、なんで今そんな表情で微笑むのかが分からないし、絶対に分かりたくも無い!

 それなのに、彼女が何をしようとしているのかがはっきりと理解出来てしまう。

 リリーが倒れるように背を向けて、イングリドを両手で抱きしめる。自分の身を盾にしてでも、イングリドを庇うつもりだ。ああ、その根性だけは認めてやる。常日頃、俺に口やかましく文句言ってくるだけはあるよ。

 だけどな……、お前はどうなるんだよ!? 散々言いたいこと言いまくっておいて、そんなにあっさりと俺の前からいなくなれると思ってんじゃねえぞ!

 だから、諦めるな。絶対に、助けてみせるから。

 俺が、守るから。だから……。

 ――二人がウォルフの群れと接触するまで、あと僅か。

 俺が二人の下まで辿り着くのに、あと少し。

 距離にして十数メートル。時間にして、ほんの数秒の差が縮まらない。

 すぐそこに二人が見えているのに、間に合わない。

 このままでは、どうしたってウォルフの群れが二人を攻撃する方が先。

 他ならぬリリー自身がそれを理解している。だからこそ、我が身を捨てて犠牲となることを選んだ。

 それが分かっていて尚、俺は止まるわけには行かない。

 それだからこそ、ここで立ち止まるわけには行かない。

 ……今ここで立ち止まったら、本当の意味で、間に合わなくなってしまうッ!

 一歩でも、一秒でもいい。

 瞬きする程度の違いだったとしても構わない。

 二人の下へ駆け寄るために、二人を守るために。

 とにかく前へと、ひた走る。

 必死で追い縋る俺を嘲笑うかのように、ウォルフの群れの先頭が姿勢を更に低くする。飛び掛る前兆だ。気配を察してか、リリーの肩が震える。

 次の瞬間、ウォルフの群れの一斉攻撃が二人へ襲い掛かり――

 

 条件を満たした『ゼーレネックレス』の効果が発動された。

 

 一瞬の閃光、硝子が砕け散るような音。

 二人に飛び掛かったウォルフが数匹、見えない障壁に弾き飛ばされる。後続のウォルフの群れが、脅威を警戒してか一旦距離を置いて遠ざかる。

 その横を、脇目も振らずに駆け抜ける。この隙を見逃したら、もう二度と二人を助ける機会は巡ってなど来ない!

 怯むウォルフの群れの間隙を縫うようにして、やっとの思いで二人の下へ辿り着く。

 

「ア……ぅ……」

 

 イングリドへ覆いかぶさったリリーが、焦点の定まらない視線で俺を見上げてくる。

 ――生きている。

 その事実に心底、安堵する。

 彼女の胸元で砕け散っている琥珀の欠片、それがこの奇跡の立役者だ。

 ゼーレネックレス。

 銀鎖に竜の化石をあしらったこの調合品の効果は、『身に付けた者が致命的な外傷を負った際に、ネックレスが装着者の身代わりとなって砕け散る』というものだ。

 わざわざ、イングリド経由で手渡すという面倒臭い手間を掛けた甲斐があった。俺が渡したところで素直に身に付けるとは思えなかったからな。役に立つ事態などない方が良かったが、もしリリーにこれを渡していなかったらと思うと身の毛がよだつ。

 俺は乱れる呼吸を整えて少し屈み、憔悴しきったリリーの頭に左手をポンと置く。

 ……今ある状況は、こいつが最後までイングリドを守ろうとしたからこそだ。

 閉じつつある彼女の瞳を見つめながら、万感の思いで告げる。

 

「良く頑張ったな。あとは俺に任せろ」

 

 言い終えると同時に、リリーの瞼が落ちて身体から力が抜ける。

 まさかと思い慌てるが、その胸が浅い呼吸を繰り返して上下するのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら、意識を失っただけのようだ。

 いや、だけではないか。そこまで追い詰められるほどだったのだ。

 本当に、限界ギリギリだったんだろう。

 あと一分……いや、一秒でも俺の決断が遅かったら、間に合わなかったかもしれない。生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだ。

 

「あるとぉ……っ!」

 

 気絶したリリーにしがみつき、イングリドが肩を震わせてしゃくり上げる。見ているだけで幸せになれる愛らしい笑顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

 ――ああ、くそ。イングリドにこんな顔をさせてしまうなんて保護者失格だ。

 ぼろぼろとこぼれる涙を見て、ギリギリと胸を締め付けられるような苦しみを感じる。

 途中で転びでもしたのか、イングリドは顔といわず服まで汚れまみれだ。傷一つ無い綺麗な肌だったのに、そこら中に引っかき傷がついている。擦り剥いた片膝も含めて、出来る事なら今すぐにでも手当てしてやりたい。

 ……でも今はまだ、それは出来ない。もう少しだけ、待っててくれ。

 こんな状況を招いたリリーにも、こんな真似しやがった狼共にも腹が立つ。

 何より、こんな事態になると見抜けなかった俺自身の間抜けさ具合が許せない。

 たかが前世で二十年生きたくらいで、何もかもが全部自分の思い通りになると思い込んでいた。それは浅はかな考えだと思い知っていたというのに。これじゃ、年相応どころか未熟極まりないただのガキだ。

 憤怒と後悔で、周囲に当り散らしたくなる。

 だが、全部後回しだ。その前にやることが残っている。

 

「イングリド、もう大丈夫だ。俺が来たからには――」

 

 立ち上がり、二人を傷つけた憎き連中へと向き直る。

 ……ああ、畜生。奴らを見ているだけで、ふつふつと怒りが湧き上がってきやがる。

 右手は木の杖。

 左手は上衣のポケットにしのばせ、そっと中にある物を握り締める。

 睨み付けるはウォルフというご大層な名前を持った、たかが獣の群れ。野生だか何だか知らないが、ここまで二人を傷つけてくれやがったんだ。それ相応の報いを受けさせてやる。

 

「絶対に……、二人には指一本、触れさせやしないッ!」

 

 直後、態勢を整えたウォルフの群れの一部が動き出した。

 同時に、三匹。

 一匹を先頭に、それに続くようにして二匹が三角形を作るようにして突進してくる。

 残りは様子見のつもりなのか、その場を動こうとしない。余裕なのか、慎重なのか。どちらにせよ、俺にとっては好都合だ。包囲されて一斉に襲い掛かられる前に、可能な限り数を減らさせてもらう。

 最初に狙うのは、草むらを掻き分けるようにして走る先頭のウォルフだ。

 ポケットから取り出した左手に魔力を込め、てのひらサイズの小袋をオーバー・スローで投げつける。小袋はウォルフの咄嗟の反応で、鼻先をかすめて避けられる。

 しかし、何も問題はない。元より、ぶつける相手はお前じゃなく――

 

「爆ぜろッ!」

 

 地面に小袋が叩きつけられると同時。

 ウォルフの足元で、小袋が破裂した。

 否、それは破裂等という生易しい音ではない。最早、爆発だ。

 炎に包まれたウォルフが、煙と共に爆発の衝撃で空へと舞い上がる。

 突然発生した爆発音に、付近の鳥達が難を逃れようと木々から羽ばたく。爆風と土煙を避けようと、後続のウォルフがあたふたと右往左往する。

 それを尻目に杖を構え、魔法を使うべく精神を集中する。たった今起きた爆発は、俺にとって当然の結果なので、慌てる必要はどこにもない。

 爆発の正体は、『クラフト』だ。その材料は、衝撃と共にパンパンと弾け飛ぶだけの、どこにでもあるニューズという名前の木の実。それを小さな袋に詰め込んで作っただけの代物だが、その破壊力はバカにならない。

 子どもの悪戯に使われる木の実が、錬金術士の手に掛かれば、爆発を伴う危険物へとランク・アップだ。特に今回は、俺自ら作成した威力効果高めの調合品。直撃せずとも、巻き込まれるだけでひとたまりも無いだろう。

 けれど、その頼りになるクラフトも一つしか持ってきていない。元々、緊急事態用に持っていただけなので、悔やんでも仕方が無い。シスカ一人で護衛として十分過ぎるほどだったので、その必要性を感じられなかったしな。

 だからこそ、魔法の出番となる。こちらは精神力の続く限り、使うことが出来る。疲弊しているせいでキツイが、それでも腕力に頼るよりはまだ勝機がある。

 今、必要なのは二発分。それには通常よりも多くの時間と消費量が必要となり、本来ならば足止めとなる前衛がいなければ使い物にはならない。

 しかし、相手が前後不覚に陥っているこの状況ならば何も問題はない。

 土煙が晴れ、遅れて正気を取り戻したウォルフ二匹が、俺の行動の意味に気付いてか慌てて動き出す。

 が、残念ながら、もう手遅れだ。十分に時間は稼げた。

 

「ツヴァイ・クルッペン!」

 

 溜め込んだ魔力の奔流が、詠唱を引き金に二つの球体状の光となって射出される。近距離にまで迫っていたウォルフ二匹には、回避動作を取る時間すらない。

 ……もっとも、あったところで魔法からは逃げられないけどな。

 青白い輝きが二匹同時に接触し、その身に溜め込んだ威力を発揮する。電気ショックに打たれたように痙攣する二匹から視線を外し、残りのウォルフに警戒を配る。

 ここからが本番だ。

 群れ全体を視界内から外さないように注意しながら、なるべく刺激しないように、そっと杖を構えて精神を集中する。先程の爆発をウォルフの群れが警戒している間に、どこまで魔力を練れるかが問題だ。しびれを切らして襲い掛かってくるまでの時間次第で、俺の戦いの結果は左右される。

 ……ウォルフの残りは九匹。

 これはさすがに一人ではキツい、か。

 冷や汗がこめかみを伝い、彼我の戦力差に苦笑いが浮かぶ。

 錬金術士は、勝てる準備を整えてから戦闘を行う。それは自らの生み出す調合品こそが、勝利の鍵を握る職業だからだ。事前準備に全てが掛かっているといっても過言ではない。行き当たりばったりなどありえない。その論からいえば、今回の様な場面は前提からして間違えている。

 とはいえ、だからといって諦めるという選択肢は除外だ。

 宣言通り、後ろの二人は守ってみせる。

 特にリリーは瀕死状態だ。これ以上怪我をすることがあれば、本気で命を失いかねない。こうしている今でさえ、刻一刻と彼女の体力は失われていくのだ。イングリドの期待に応えるためにも、絶対にウォルフを二人に近付けさせるわけにはいかない。

 そのためには……。

 まだか、と息を詰めながら様子を窺う視界の先。扇状に広がった群れの中から、二匹がその姿を誇示するように、ゆっくりと左右別々に動き出す。

 ……おいおい、冗談だろ。狼という生き物は、想像以上に厄介な獣らしい。

 俺はウォルフの群れが一斉に襲い掛かってくるか、警戒して慎重を期すか、どちらかだろうと予想していた。前者だったら後ろに通さないことだけを考え、後者だったら魔法を多数生み出す時間を作れる、と。

 結果は、両方とも違った。

 やつらは包囲するという、俺にとって一番困る手段を選んだ。一匹ずつ動き出したのは、先程のクラフトを警戒してのことだろう。単体で距離を取って動けば、爆発に巻き込まれないように動くことは、ウォルフにとってそう難しくない。

 誘われているとは分かっているが、これはさすがに防がざるを得ない。戦えるのが俺一人な現状、背後に回られたらそれだけで一巻の終わりだ。

 まだ魔力を十分に練れていないが、時間切れ。考える時間も、迷う余裕も残されていない。目の届かない場所に移動される前に打つ。後のことはなるようになれだ。

 覚悟を決めて気合と共に、魔法二発分の精神力を魔力として消費――訂正。時間が足りずに急ピッチで仕上げたせいで、余剰に一発分持っていかれる。

 

「――ツヴァイ・クルッペン!」

 

 左右に各一つの閃光を打ち出した直後、ぐらりと立ち眩みに襲われた。そのまま身体に力が入らなくなっていき、視界が暗くなっていくのと同時に足元が覚束なくなる。

 ……マズい。予想以上に身体を酷使しすぎていたか。

 精神を疲弊しすぎたことで、早くも身体に影響が出始めた。

 まだだ。まだ倒れるには早すぎる。今、俺が倒れたら二人を守りきれない。怪我一つさせないと約束したんだ。だから、まだ倒れるわけにはいかない。

 リリーでさえ、俺が来るまで耐えてみせたんだ。だったら、兄弟子であり一流の錬金術士である俺が耐えられなければ恥以外の何者でもない。あいつに出来て、俺に出来ないことなんてない。例外として一つだけは負けを認めてもいいが、あのこと以外で負ける気は一切ない。

 だからこれは、それ以前の問題。

 ――リリーだけには、負けられないんだよ!

 意地の問題だ。

 こいつの前で情けない真似は出来ない。醜態を晒すわけにはいかない。

 だから、のんびり意識を失ってる場合なんかじゃないッ!

 勝手に意識を落とそうとする自分に活を入れ、閉じる瞼を無理矢理開く。かすむ視界と揺れる足場で、ウォルフの群れと相対する。

 俺が目を離した一瞬の隙に、ここぞとばかりにやつらは攻め立ててきていた。魔法一発分くらいは打てた距離が見る見る間に埋まっていく。

 先程の魔法で二匹削れたが、まだ残り七匹は健在。それが一斉に早い者勝ちとばかりに疾走して向かってくる。

 迎撃の魔法を放つ時間はない。手持ちの調合品は尽きた。後ろの二人は動けない。

 だったら、することは一つだけだ。迷わなくて良い分、考えなくて済むから丁度良い。

 アカデミーでの訓練を思い出しながら、杖を手に身構える。

 ウォルフの群れは様子見無し、七匹揃っての総攻撃。出来の悪い扇状に広がった陣形相手では、例え一方向を抑えたところで、別方向から無防備に攻撃を受けるハメになる。

 最悪、どこかのアホじゃないが身体を張って止めるしかないだろう。違うのは、致命傷を受ければそれまでだということと……。

 ラスト・スパートとばかりに、群れの中から三匹が突出する。大きく口を開き、散々お預けを食らった獲物を食いちぎろうと一斉に飛び掛り――

 

 炎を纏った長槍に、三匹まとめて一挙に貫かれた。

 

「アルト、怪我は無い?」

 

 颯爽と飛び出して来たのは、赤い鎧を身に付けた女性冒険者のシスカだった。

 ぐるん、と長槍を一振りしてウォルフの死体を振るい落とすと、彼女は俺と役割を交代して最前線に立ち塞がった。

 飛び込み参加と同時に三匹も血祭りに上げられ、ウォルフがシスカを警戒して足を止める。唸り声を上げ、背後に回ろうとするもシスカによって巧みに遮られる。

 いやあ何度も邪魔をして、すまないなウォルフ諸君。でも、これで最後だ。もう食事の心配はしなくて済むから安心してくれ。

 

「ああ、助かったよ」

 

 構えた杖を下ろし、両膝に手を当てて素直な感想を口にする。正直、杖を構えるどころか立っているのすらしんどい有様だ。本当、助かったよ。

 シスカの背中の頼り甲斐があることといったら、もう……俺みたいに痩せ我慢で頑張っていた男とは、別次元の強さがそこにはあった。今の彼女になら、年増ではなく美少女と言っても……いや、それはいくらなんでも無理があるな。十二歳より上を評価するなんて、神様に喧嘩を売っているとしか思えない。

 ともあれ、彼女が来てくれたなら一安心だ。

 ――そう、一人ではキツイが、彼女と二人なら何も問題はない。

 イングリドの前で情けない真似は出来ないと、必死で虚勢を張って自分を奮い立たせて誤魔化していたが、今更ながらに危機感を実感して足が震えてくる。

 多数を相手に一人で後ろをかばいながら戦う、なんてありえなさすぎる。無謀にも程がある。少なくとも、錬金術士がやることではない。適材適所、そういうのは冒険者に任せておけばいいことだ。

 俺はまだ、時間さえ稼げばシスカが助けに来てくれると知っていたから多少余裕はあったが、リリーのやつは救援の当てもない状態で良く耐えたなと思う。そこだけは評価してやる。さすがアホ女、心臓に毛でも生えているのだろう。

 あー、死ぬかと思った。もう二度と、こんなことやりたくないぞ。

 ……が、しかし。もし、また同じ場面に出会ったら、同じことをするけどな。

 

「まったく、もう……爆発音で居場所を知らせるくらいなら、最初から一声掛けて行ってよね。急にいなくなるから、どこに行ったのかと思ったわ」

「すまん」

 

 面目次第も御座いません。二人一組での行動を提案した張本人が、作戦無視して単独行動をしていたのでは、呆れたくもなるよな。

 ――アトリエでテオからの報告を受けた後。

 俺達は万が一を考えて行動することにした。

 あんまりにもテオ達が心配するもんだから、俺も重い腰を上げざるを得なかったのだ。リリーはともかく、イングリドに何かあったらと思うと居ても立ってもいられない。

 俺、シスカ、カリン、テオの三人は酒場へ。何事もなくリリー達が戻ってきた時のため、ドルニエ先生は眠ったままのヘルミーナと一緒に、アトリエへ残ってもらった。

 酒場でたむろしていた冒険者を雇い、取るものも取り合えず人海戦術でのローラー作戦を決行。テオが森に入った際の行動場所を参考に、二人一組での行動を取る。

 リリー達がいなくなってからの経過時間を元に、行動範囲を想定。途中を流れる小川を目印にして集合。二人を見つけた場合、そのまま合流。魔物に襲われていた場合は二人で対処する。時間までに現れなかった組がいたら、問題があった場所だと判断して皆で駆けつける。全員が揃った場合は、さらに奥へと進む。

 それが、時間が無い中で捻り出した苦肉の策だった。

 ……にもかかわらず、俺は独断専行してしまったわけだ。文句の一つくらい言われても当然だった。

 

「まぁ、いいわ。彼女達の緊急事態じゃ、冷静でいろっていう方が無理だものね? それに、ちゃんと私の分の獲物も残しておいてくれたみたいだし」

「あとは任せてもいいか? 先に、やっておきたいことがある」

「もちろん。じゃあ、皆が駆けつけてくる前に、いけないワンちゃん達にお仕置きをしましょうかしらね」

 

 うふふ、とどこか愉しそうな笑い声と共に槍を構えるシスカ。背中越しなので彼女の顔は見えないが、何やら不穏な気配が彼女から漏れている気がする。

 思わず、一歩後退る。

 何せ、気合一つで武器に炎を纏わせるようなトンデモ人間だ。勢いあまって、俺まで串刺しにされては堪らない。

 

 

 

 その後。

 彼女の予告通り、ウォルフの残党が蹴散らされるのには、三分と掛からなかった。

 本当に、細身の彼女のどこに、そんな力が秘められているのかは理解不能だ。

 こうして、リリーがしでかしたアホな騒動は無事に収拾された。

 巻き込んだ人の数を考えると、頭痛でおかしくなりそうだ。

 しかし、ある意味、彼女にフォローが必要となるのはこれからなのだ……やれやれ。

 

 

 

 

 

 

    ◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「――それでね、アルトがリリー達の情報をテオくんから聞いた時のうろたえ具合ったらもう、傍から見てて可哀想になるくらいだったのよ? 『落ち着け、大丈夫だ』とか言いながら、カップを持つ手がカタカタ震えちゃってるの。捜索すると決めた時だって、それはもう必死だったんだから。一緒に行動する私達相手に、態度を取り繕う余裕もないほど慌てふためいちゃって。『間に合わなかったらどうするっ!』って物凄い剣幕で食って掛かるほどだったんだもの。そうそう、ウォルフを処理し終わった後に私がリリーを背負おうかって提案した時だって――」

「も、もういいからっ! シスカのおかげで事情は十分に分かったわ。だから、その話は終わり!」

 

 何やら不穏当な気配を感じたあたしは、ぴしゃりと会話を打ち切った。

 ただ状況説明をしてもらっていただけのはずなのに、何がどうすれば未来の破滅の匂いがしてくるのだろうか。

 あたしはベッド横の椅子に腰掛けて微笑む意地悪な女性を、じろっと睨みつける。

 お互いに面識こそあったけど、こうしてじっくり彼女と話す機会は今まで無かった。だから勝手に理想の大人の女性という想像を当てはめていたのだけど、実際は結構、子どもっぽく茶化してくる部分もあるみたいだ。しょうがないなぁ、とでも言いたそうなニヤニヤした笑みが憎たらしい。

 あたしがベッドの上で目を覚ました直後は、ちょっと揉めた(主にあたしが取り乱して)。でも、それも仕方ないことだと思う。誰だって、死んだと思った自分の目が覚めて、しかも傷一つない状態だったり、いきなり自宅にいたり、今までちゃんと話したことない相手が目の前にいたりしたら、おろおろと動揺するのが普通でしょ。

 なんとか気を持ち直してシスカから色々と事情を聞いたけど、結局、あたしが一命を取り留めた理由は分からずじまいだった。シスカが駆けつけた時には、既にあたしは昏睡状態だったらしいから。

 ……一応、心当たりならあるんだけどね。

 背後から襲われたにも関わらず、宝石が砕け散って銀の鎖だけとなってしまったネックレスを、そっと右手で触れる。

 でもそうなると、それはそれでまた新たな疑問が浮かんでしまう。だから詳細はアルトに聞けば分かることだとして、今は疑問に蓋を閉めて考えないことにした。

 そんなこんながあって、今ではこうしてシスカ、リリーと気軽に呼び合えるような親しい関係を築けるようになった。

 今あたしがシスカから経緯の説明を受けていた場所は、アトリエの二階だ。元々は大部屋だったけど、衝立とカーテンで男女の仕切りを作り、現在では二部屋の寝室として使用している。今いるのはその奥側、女性陣が占拠している部屋だ。

 どうしてそんな面倒な改装をしたのかといえば、もちろん変態対策に他ならない。着替えたり何なりといった場面に、あいつが何か血迷う可能性があるからだ。あたしだって実害はともかく、仮にも異性のいる所で着替えたくはないし、寝顔も見られたくはないしね。……今更、手遅れな気がしないでもないけど。

 女部屋は二つのベッドをくっつけて、一つの大きなベッドとして使っている。イングリドとヘルミーナがどっちもあたしと一緒に寝たがるので、こういう変則的な形を取った。

 今もあたしの隣では、イングリドが寝息を立ててお休み中だ。

 シスカから聞いた話では、随分と泣きじゃくっていたらしい。それこそ、アルトが睡眠作用のある『ズフタフ槍の草』の匂いを嗅がせ、無理矢理眠らせなくてはならなくなるほどにだ。

 ……保護者であるあたしが目の前で倒れたんだものね。

 大人顔負けの頭脳を持つとはいっても、子どもである事実は変わらない。そんな彼女に心配を掛けてしまったことが申し訳ない反面、そこまで心配してくれているということが純粋に嬉しい。口に出して言えば、ふざけてるのかとアルトには怒られるだろうけど。

 ……そのアルトの姿を、目を覚ましてから一度も見ていない。

 

「ドルニエ先生とヘルミーナは、酒場へ夕食に出掛けたのよね?」

「ええ、そうよ。たぶん、そろそろ戻ってくるんじゃないかしら?」

「テオくんとカリン、一緒に探してくれた冒険者の皆も一緒よね?」

 

 今回、あたしがしでかした失敗には多くの人達を巻き込んでしまったらしい。それこそ、近日中に方々へ頭を下げて回らなくてはいけないだろう。アトリエの名前が悪い意味で広がってしまわないように、誠心誠意、きちんと感謝と謝罪を告げなくては。

 

「今頃は酒盛りでもしてるんじゃないかしらね? 皆、お酒が大好きな連中ばかりだし」

「……ごめん。シスカも行きたかったよね?」

「ふふっ、何を言ってるんだか。リリーの様態を見守るなんて重要な任務を任されたのに、私に不満があるわけないでしょう?」

「……あ、ありがと」

「どういたしまして」

 

 さらっと受け答えするシスカの顔を見るのが恥ずかしくて、視線を逸らす。こうやって不意に大人の余裕を見せるから、シスカはズルイ。可愛いだけじゃなく綺麗だなんて、女性として魅力的すぎる。

 

「それで、その」

「ん? 何かしら?」

「あいつ……は?」

「あいつって誰のことかしら? もっとはっきり言ってくれないと分からないわ」

 

 シスカが白々しくすっとぼけて首を傾げる。

 だ、誰かなんて言わなくても分かるでしょ!?

 あたしがキッと睨みつけると、シスカは人を食ったような意地悪な笑みを浮かべて見つめ返してきた。

 うう……絶対、面白がっているわね。この様子じゃ。

 説明してもらっている最中にも思ったけど、やっぱりシスカもあたしとアルトのことを勘違いしているみたいだ。だから、あたしとあいつはそんな関係じゃないって言ってるのに。

 だいたい、そういう感情をあいつに抱くっていうことがまず無理なのだ。だって、あの変態よ? まだ小さい子相手に好きだの愛してるだの言うような。あたしのことなんて、と、年増とか言ってくるような相手よ? そんな変態相手に、どうやってそういう感情を――

 

『良く頑張ったな。あとは俺に任せろ』

 

 頭を撫でて、

 褒めてくれて、

 安心してしまった――頼もしいあいつの顔。

 

「――っ!」

「ど、どうしたの? 顔真っ赤よ?」

「ちがっ、違うから! 今の無し!」

「?」

 

 なんでもない、なんでもない。

 勢い良く布団に顔を押し付け、両手で頭を抱えてうずくまりながら自分に言い聞かせる。

 おおおお、落ち着きなさい。落ち着けってば、あたし。

 あんなのは一時の気の迷い。今際の際に、身近な知り合いがいたせいで錯覚しただけだ。気が緩んで、ちょっといつもと違う何かを感じてしまった気がするだけ。勘違い。思い違い。なんでもいい。とにかく、そういう何かだ。

 だから、落ち着け。落ち着きなさいってば。

 あたしが動揺する理由なんて何もないのだから。恥ずかしいと感じるようなことなんて、何も起きていないのだから。

 ……そうよ、誰だって窮地を助けてもらったら安心してしまうじゃない。心強いことを言われたら頼ってしまうじゃない。だから、普通のことよ。相手が誰であっても不思議じゃない。アルトだから特別ってわけじゃないわ。

 だから、何も慌てる道理なんてない。

 これは、普通のことなのだから。

 だから……ちょっとくらいあいつのことを頼もしく感じてしまったとしても、それはおかしくなんてない。……はずよね?

 

「ごめん、取り乱した。それで、アルトは?」

「ふ~ん……やっぱり彼のことが気になるのね?」

「な、何よ? 何が、やっぱりなのよ」

「ううん、なんでもないわ」

 

 ぜんっぜん、なんでもないって顔してないんですけど!?

 言ったら藪蛇になりそうだから、言わないけど!

 

「彼だったら下のソファーで横になって、ぐっすり寝ているわよ」

「え? そ、そう……」

 

 アルトがあたしのことを全く気に掛けてくれていないわけじゃない。

 そのくらいのことは、さすがにあたしにだって理解出来ていた。普段はそりゃ、にべもない冷たい態度ばかりだし、口を開けば憎まれ口ばかりだし、たまに本気で首を絞めたくなるような言動をするけど……でも、なりふり構わず必死に助けようとしてくれたんだから。これでまだ気遣われていないなんて言うほど、あたしは恥知らずじゃない。

 もちろん、あたしはあくまでイングリドのついでだってことも承知している。

 そこを勘違いするほどバカじゃない。

 あいつはあくまで自分にとって大事なイングリドを助けるついでに、あたしを助けてくれたんだと思う。それでも、助けに来てくれた事実がある以上、イングリド達程ではないにせよ、多少は気に掛けてくれていたんだと思う。

 でもなんていうか、どうせ助けるなら最後まで傍にいて欲しかったというか……。

 

「なんだか不満そうな表情ね。寝起きに見る顔が彼じゃなかったのが残念?」

「そ、そんなこと言ってないわよ!」

「そう? なんだかそう言いたそうな顔してたから」

「どんな顔よ、どんな……」

 

 してないし、そんな顔。

 言いがかりもいいところよ。そんな顔するわけないじゃない。なんで、あたしがあいつのことなんか。あいつが変態なのは今に始まったことじゃないんだし。

 

「アルトがリリーのことを心配していないわけじゃないわ。むしろ、その逆よ。その証拠に、足だってもう痛くないでしょう?」

「それは分かってるけど……」

 

 事情説明を受けている間に、傷の具合は確認済みだ。

 最後に襲われた際に受けたはずの致命傷どころか、両足の傷跡だって綺麗に完治していた。枝葉に引っ掛けてついたかすり傷も消えて、まるでそんな事実がなかったかのようだ。

 当然、手でさすったり揉んでみたところで、痛みも違和感も何もなかった。

 

「見事なものよね、錬金術って。私も一つ欲しくなったわ。痕になったら困るからって、アルトが持っていた塗り薬ですぐに治療したのよ。リリーを最優先で、ね」

 

 塗り薬とは、アカデミーで怪我をした時に何度かお世話になった事のある『常備薬』をペースト状にした物のことだろう。効果こそ若干弱まるものの、即効性があり、お値段が安いという利点があるお手軽な代物だ。確か、正式名称は『傷薬』だったかな?

 ……うん。なぜかまたも、シスカが何か言いたそうな含みのある笑顔で見てくるけど、いったい何が言いたいのか分からない。別に、それ以外に今の会話でおかしなことはないものね。

 アルトがあたしを治してくれたのは、あたしがそのことで文句を言わないように、とかだろうし。うん、何もおかしいことなんてないわね。

 

「余った物もイングリドに全部使っちゃって、彼自身は切り傷だらけで疲労困憊。そんな有様なのに、リリーを背負ってここまで帰ってきたんだから。その上、一息吐く間もなくそれを調合したり、イングリドをなだめたりと……」

 

 ちらっと彼女が視線を横に向けた先にあるのは、鏡台の上に置かれた一組のティーポットとコップ。疲労回復効果もある『何か』は、あたしのために用意された調合品だ。

 口が曲がるほどの苦さと、飲んだ後も舌に残る後味の悪さ。いったい何を混ぜればこんな酷い味になるんだという代物を、あたしは決して飲み物だとは認めない。

 ……まあ、それでも一応、感謝はしてるけどさ。だからこそ、どれだけ壊滅的な味だろうと残さずに、全部ちゃんと飲み干したし。

 

「いくら精神的にタフなアルトだって、さすがに限界。下で寝ているのも納得でしょう?」

「だから、それは――」

「そこまでリリーのことを考えて行動してくれたのに、まだ不満?」

「も、もう! だから、そんなんじゃないって言ってるのにぃ!」

 

 反応しても変にこじれるだけだろうからと流していたけど、もう限界。

 シスカのからかうような言葉を、あたしは首を振って強く否定した。

 本当、どうしてこう会う人会う人そういう変な誤解をするのよ。ヨーゼフさんも、カリンもそうだったし。意味不明すぎる。

 あたしもアルトもそんな発言はしていないし、それどころかお互いに嫌悪しているって一目見れば分かるでしょうに。いったいどこにどんな勘違いを招くような余地があるというのか。

 アルトがシスカの考えているような……そ、そういう理由で行動するわけがないのに。そんなのは、あいつがどういう人間なのかという本性を知っていれば、百も承知の事実だ。

 

「そんなに意固地になってまで否定しなくてもいいわよ? 警戒しないでも、私は彼のことをそういう対象として見ていないもの」

「警戒なんてしていないし! い、意固地も何も、そんな事実は一切存在しません! いい? 今シスカが思ってるようなことは全部勘違い。有り得ないの!」

「あら、そう? 勘違いねぇ……。本当に、そうなの?」

「そうよ! シスカは誤解しているのよ。ええと、例えば……」

「例えば? 何かしら?」

「例えば……痕になったら困るっていうのは、あたしが自分に文句言うんじゃないかと思ったとか。慌てた理由はイングリドが心配だからで、当然あたしはそのおまけ程度。アルトはイングリドとヘルミーナのことが第一なの。ていうか、二人が無事ならそれで十分って思ってるはずよ」

「んー、確かに彼、ちょっと過保護よねぇ」

「でしょ? だから、あたしのことなんてどうでも……まぁ、ちょっとは心配してくれたみたいだけど。と、とにかく、そのくらいにしか思ってないの! 変な勘違いしないでよね? あたしもあいつも、お互いに嫌い合ってるの。だから、そういう勘違いは本当に迷惑なの! ……分かった?」

「ええ、分かったわ」

 

 本当に? なんかそう、あっさり笑顔で頷かれると微妙に不安になるわ。

 なんでか知らないけど、あたしやアルトが言えば言うほど周囲に誤解されているような気もするのよね。そういう人間だから誤解するのか、たまたまそういう人間が多いのかは分からないけど。でも、だからって何も言わなかったら肯定しているようなものだし。いったい、どうしたら誤解を解くことが出来るのよ……。

 あーもう、本当あいつのことを考えるとイライラさせられるわね。本当、困ったものだ。アルトのバカ。あいつのせいよ、こんな勘違いされるのも。全部全部、あいつが悪い。

 

「えーと……もしかして、怒ってるつもりだった?」

「もしかしても何も、それ以外にどう見えるのよ?」

「とっても嬉しそうな顔してるわよ?」

「――っ!?」

 

 バッと鏡台に振り返り、じーっと鏡を覗き込む。

 うん……大丈夫、別に嬉しそうな顔なんてしてないわ。

 そ、そりゃそうよね。なんだって、あたしがそんな意味不明な理由で嬉しそうにしなくちゃならないのよ。あいつに心配されて嬉しいだなんて、そんな……ねぇ? ないない。ありえない。そうよ、アルトはあたしのこと嫌ってるんだし。あたしだって、あいつのことは大嫌いだし。

 

「ふふっ……。リリーの気持ち、よ~く分かったわ。じゃ、アルトを起こしてくるわね。リリーの目が覚めたら知らせてくれ、って彼に頼まれたし」

「え? あ、うん」

 

 いや、それはいいんだけど。

 ええと、さっきシスカが言ったことに対してのフォローはないの? あたし嬉しそうになんてしてないわよ? ただのシスカの勘違い?

 

「何か軽い食事も作ってきた方がいいからしね。お腹、空いてるでしょ?」

 

 立ち上がったシスカが、ドア代わりのカーテンに手を掛けながら振り向く。

 

「うん、ちょっと……」

「よしっ、じゃあ任せて。本当はお酒のおつまみの方が自信あるのだけれどね。それはまた今度の機会にしておくわ」

「えっ、でも、そこまでしてもらうのも悪いわよ。ただでさえ、迷惑掛けちゃったんだし。後で自分で――」

「いいからいいから。アルトもそうだけど、一々そのくらいで遠慮しないでいいわよ。知らない仲でもないんだし、ね?」

 

 女のあたしでも見惚れるようなウィンクを残し、シスカがカーテンをくぐって外へ出る。

 彼女の姿が見えなくなった代わりに、鼻歌交じりの軽い足音がトントンと響き、そのまま一階へ降りていった。

 ぽつんと一人、部屋に取り残される。

 途端に手持ち無沙汰になった。

 まさか、イングリドを起こすわけにもいかないし……。

 ベッドに身を投げ出し、天井を見上げながらじっと待つ。

 アルトを起こしてくるってことは、やっぱりあいつが様子を見に来るってことよね。女の子の寝起き姿を見に来るとは、本当気が効かない奴だ。

 起き上がり、そそくさと鏡を見つめながら手櫛で乱れた髪を整える。たとえアルトみたいなバカであっても、あまりボッサボサの状態の自分を見られたくないしね。

 ……ただの現実逃避だ。

 はぁ、と力無い溜め息を吐く。

 あたしは今回、本当にバカなことをしてしまった。

 あいつが言ったことを守らずに暴走した挙句、イングリドの身を危険にさらした。言い訳しようのない大失敗だ。

 アルトは怒っているだろうか?

 どうだろう。イングリドに危険な橋を渡らせたことに怒り狂ってもおかしくはない。

 でも、あたしのバカさ加減に呆れるだけというのも有り得る。ここぞとばかりに馬鹿にしてくるかもしれない。

 でも、それも当然だ。あたしだって、なんてバカなことをしたんだろうって思うから。

 イングリドを危険な目に合わせたことに対して、あたしはどうやって彼女に償えばいいのだろう。あんな怖い目にあった後でも、イングリドはあたしのことをまだ先生と呼んでくれるだろうか? 見限られても仕方ない。泣きじゃくる彼女相手に、あたしは何も出来なかったのだから。

 イングリドが素材集めを怖がるようになってしまったら、それはあたしの責任だ。どうにかしてあげたいって思う。先生失格といわれても仕方ないあたしだけど、せめて自分がしでかしたことの責任くらいは取りたい。

 ……アルトがどう思っているかは分からないけど。

 イングリドとヘルミーナのことを、一部大問題はあれども、心底大切にしているアルトのことだ。今回のことであたしに失望したかもしれない。イングリドを任せるには不安だと。

 ……ううん、そうでもないかも。あたしになんて、あいつはそもそも期待なんてしていないのだから。

 最後の審判の日を待つような気分でじっとしていると、不意に階下から足音が響いた。

 一段一段確かめるようにして、ゆっくりと上ってくるその足音は、アルトの物だ。ここで暮らして一ヶ月も経つと、だいたい誰の足音なのかが把握出来るようになっていた。

 カーテンの前まで来ると、その足音はぴたりと止んだ。

 

「入るぞ」

 

 思わず返答に詰まったあたしを無視して、勝手にアルトがカーテンをめくって入ってくるアルト。

 今更なことだけど、本当こいつはあたしを何だと思っているのか。もしも、あたしが着替えていたら、どうするつもりだ。

 ……いや、どうもせずに平然とするというのは風呂場での一件で知っているけど。

 

「調子はどうだ?」

 

 さっさと椅子に腰掛けたアルトが、静かな声で尋ねてくる。

 彼がどんな表情をしているのかは分からない。どうしてか、最初にアルトの声を聞いてから、あたしは顔を上げることが出来なくなっていたからだ。

 そればかりか、返事をするのすら難しく感じている。

 正直に言ってしまえば、今、アルトの顔を面と向かってみるのが怖い。

 彼がどんな風に思っているのか、知ってしまうのが怖くて、うつむいてしまう。

 

「どこか痛みを感じたり、違和感のある箇所はあるか?」

 

 重ねてアルトが聞いてくる。

 返事をしないあたしに焦れたか、いきなり毛布をまくって怪我を確認しようとしてきたので、慌ててそれを止める。

 

「だ、大丈夫。どこも痛くないし、むしろ調子が良いくらいっていうか」

「そうか」

 

 その拍子に、アルトの顔を見てしまった。

 まるで無理矢理に表情を消そうとしているような、そんな強張った表情を浮かべる彼の顔を。

 思わず、息が詰まる。

 

「なら、遠慮はいらないな」

 

 それはどういう意味――

 と、聞き返すよりも早く。

 右手で頬をしたたかに引っ叩かれた。

 ……え?

 反射的に叩かれた頬に手を当て、何が起きたのかと呆然とする。

 遅れてじんじんと痛みが伝わってきて、やっとあたしはアルトにぶたれたのだと理解した。

 いきなり何するのよ、とアルトを睨みつけ、

 

「――お前は、どれだけ自分がアホなことをしたか分かっているのか?」

 

 淡々と詰問するアルトに、二の句を告げられなくなった。

 どれだけの感情を押し殺せばそうなるのか。一語一句を震えるようにして口にするその声音は、今まで聞いたことのないほどに真剣なものだった。

 いつも口喧嘩をする時に睨み合うのとは違う。

 いつぞや、冷ややかに軽蔑されたような時のそれとも違う。

 徹底して、冷静さを装った雰囲気だった。

 だというのに、押さえ切れずに剥き出しになって伝わる感情。

 物理的な圧力すら伴って襲い掛かる感情に心臓を貫かれ、息苦しさを覚える。彼が今も必死で押さえ込んでいる気迫が、耐え難いほどの重圧となってあたしに圧し掛かる。

 こんなアルトの姿は、今まで一度も見たことが無い。

 こんな……余裕の無い表情を浮かべるアルトなんて。

 

「あと少しでも助けに向かうのが遅かったら死んでいたんだぞ。お前だけじゃない、イングリドもだ。お前が軽率な行動をして、その結果どうなろうとそれはお前の自業自得だ。だけど、お前に巻き込まれたイングリドはどうなる」

 

 歯を食いしばり、激情を押し殺し、感情的にならないようにと努めれば努めるほど、アルトの感情がその瞳からあたしに直接的に伝わってくる。

 咄嗟に、怯み、彼から目を逸らそうとしてしまう。

 けれど、それをアルトの瞳が捉えて許さない。

 

「お前はイングリドの先生であり、彼女はお前の生徒だ。その先生が生徒を危険な目に合わせてどうする」

 

 怒鳴られたわけでもないのに、彼が一言口にする度に、びくんと身体が震えてしまう。

 言い返せない。

 言い返せるわけが無い。

 何も言えずにうつむくあたしを見てどう思ったか、アルトが長い溜め息を吐いた。

 そして、言う。

 

「お遊び気分で錬金術士をやるつもりなら、今すぐ荷物をまとめてケントニスに帰れ。俺があの子達を一流の錬金術士に育てる。アカデミー建立も、俺一人で十分だ」

 

 最終勧告だ。

 彼は本気でそう思っているし、あたしが何も言わなければ、そのまま言葉通りに実行するというのが分かった。

 だから、あたしはそんな資格はないと思いつつも、顔を上げ、それに言い返そうとして――

 

「お前が俺を嫌うのは、別に構わない。だけどな、そのせいであんな危険な真似をするのはやめてくれ。頼むから……っ!」

 

 今度こそ、何も言えなくなった。

 言えるわけがない。

 だって、アルトが心配してくれているのが分かってしまったから。

 イングリドだけではない。

 あたしのこともだ。

 本当に心配して、

 本気で気遣って、

 心底思い遣ってくれて、

 だからこそ、ここまで真っ直ぐに怒っている。

 本当なら、心の赴くままに怒鳴りつけてやりたいだろうに。

 ふざけるな、と声を荒げて思い切り殴ってしまいたいだろうに。

 それでも、自分を押し殺してまで真摯に叱ってくれている。

 他の誰でもない、ただ一人、あたしのことを思うからこそ。

 それが分かるから、何も言えない。

 それが分かるから、何も言わない。

 ……ずるい。やめてよ、今そういう風に言うの。

 いつもみたいに命令口調で言ってよ。バカなやつ、って頭ごなしに怒ってよ。

 そうすれば、あたしも不貞腐れながら頷くことが出来たのに。

 なのに、そんな……まるで懇願するかのように言われたら、あたしは。

 思い出す。記憶を失う直前の光景を。

 アルトがどれほど必死になって助けようとしてくれたのかを。

 追い込まれた状況で、あたしがどれほど彼に感謝したのかを。

 ……ダメだ。この思考の流れはマズイ。

 やめて。これ以上、考えてはきっとダメだ。そう思うのに、止められない。それどころか、考えないようにすればするほど、堰を切った感情の奔流がどっと心の奥底から流れ出す。

 嫌よ。やめて。こんなみっともない姿をさらしたくない。

 そう思うのに、止まらない。

 そう思うから、止められない。

 我慢して耐えようとするのに、勝手に口が動く。

 聞かなければいいことを、聞いてしまう。

 

「……ねえ、一つだけ教えて」

「? 何をだ?」

「どうして、ネックレスをあたしに渡したの?」

「……なんのことだ」

「イングリドから聞いたわ。あたしに渡すように頼まれたって」

 

 う、と唸るアルト。

 共犯者が証言したとあっては、言い逃れ出来ないでしょ。

 観念したように溜め息を吐くアルトに、疑問に思っていたことを尋ねる。

 その答えを聞いたら、きっともう意地を張れなくなると知っていながら。

 

「イングリドの安全を考えるなら、あの子に渡した方が良かったんじゃないの?」

「……大した物じゃなかったからな」

「あれのお陰で、あたしは助かったのに?」

「――っ!? 気付いていたのか?」

「ううん……、確信したのは今のアルトの答えを聞いたからよ」

 

 やっぱりそうだったのか、と胸にストンと落ちて納得がいった。

 何らかの魔法が掛かった調合品のネックレス。

 それをアルトがわざわざ回りくどい方法を取ってまで、あたしに渡したのはなぜなのか。

 その効果は想像することしか出来ないけど、おそらく一度切りの使い捨ての物だ。

 だけど、決して安い品物ではないし、そう簡単に作れるようなものでもないはず。

 命を救ってくれるような凄い調合品だ。

 そんな代物なら、最初からイングリドに渡した方が、あの子の身は安全だ。

 

「もう一度、聞くわ。どうして、あたしに?」

 

 アルトはそんなあたしの当然の問いに、

 

「お前はあの子のためなら、自分の身を呈してでも守るだろ」

 

 当然だろ、とその答えを口にした。

 ……ああ、なんだ。そういうことだったんだ。

 ずっと、それだけが疑問だった。

 どうして、あたしにネックレスを贈ったのかが知りたかった。

 もしかしたら、とは思っていた。

 でも、そんなことあるわけがないと否定した。

 効果こそ分からなかったけど、もしそんな大切な物だったら、イングリドに渡すはずだと。

 だから、あたしは……。

 だけど結果は、あたしが意固地になっていただけだった。

 あたしは、ちゃんと彼に信頼されていた。

 今更、そんなことに気がついた。

 認めてくれないも何も、あたしが気付こうとしていなかっただけ。

 心配されていないどころか、あたしが認めようとしなかっただけ。

 あたしが認めて欲しいと思った部分は、彼からしたら未熟すぎて。

 あたしが当然だと思って考えていなかったことを、彼はきちんと見ていてくれた。

 もう我慢は出来なかった。

 ただ、どうしても彼に伝えたい言葉があった。

 

「ごめ、なさ……」

 

 ごめんなさい。バカなことをして。

 ごめんなさい。身勝手に反抗して。

 ごめんなさい。心配ばかりかけて。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 謝ろうと口を開くのに、震えるばかりで上手く言葉に出来ない。

 伝えたいことの一割だって、伝え切れていない。

 謝罪だって、感謝だって、言葉で伝えるには足りない。

 助けてくれてありがとう。

 いつも助かっているわ。

 全然、何も言葉にならない。

 そればかりか、見つめるアルトの顔までぼやけてくる始末だ。

 

「……泣くほど痛かったか。その、もう少し、手加減すべきだった、か?」

 

 アルトがギョッと驚き、罰が悪そうに頭を掻く。

 ぶんぶんと首を振る。

 そうじゃない。そんなことで泣いているわけじゃない。

 あんたに殴られたからって理由だけで、ただそれだけで泣くわけが無い。

 あんたになんて、絶対に泣き顔を見られたくないって思っている。

 それなのに、今こうしてみっともなく涙を流しているのは、そんな安い理由なんかじゃない。

 だけど、絶対に今泣いている理由を自分で口にしたくなんてない。

 どうして泣いているのかなんて、言葉にしたら台無しになってしまう。

 あたしは勘違いばかりしていた。

 アルトに頼りっぱなしの自分が嫌で。

 フォローばかりしてくるアルトが嫌で。

 だから、一人でも大丈夫だということを彼に示したかった。

 でも、それは浅はかな考えだった。

 ひっついて、よりかかって、支えてもらう立場でいたくない。

 ――それは正解。

 でもだからって、何から何まで一人でする必要なんてなかった。

 ――それは当然。

 仲間だから話し合えばいい。初日にそうやって話し合ったのに。

 ……なんにもあたしは分かっていなかった。

 分かってくれないとアルトに言いながら、あたしだってアルトの気持ちを少しも分かろうとしなかった。

 フォローをされることが多いのは当たり前だ。彼は先輩であり、あたしは後輩なのだから。

 それに反発してみせても、彼からしたら生意気言って自爆しているようにしか見えないだろう。

 本当に彼と協力し合いたいと思うなら、あたしはまず自分を理解しなくてはいけなかったんだ。

 あたしに何が出来るのか。

 あたしは何がしたいのか。

 その上で、彼が苦手とすることや得意とすることを考え、二人で協力する必要があったんだ。

 きっと、今のあたしの顔はぐちゃめちゃになっている。

 それを見せたくなくて、耐えようとして、でも出来なくて。

 ぼろぼろと涙が流れ出る。

 言葉を口にしようとすると、意味を成さない声が漏れ出してしまう。

 何も言い返せない。

 全部、アルトの言う通りだ。あたしは本当、なんてバカなことをしてしまったんだろう。

 それが悔しくて、悔しくて。悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて――嬉しくて。

 アルトが本気で叱ってくれたことが、嬉しくて泣いてしまった。

 

「もう二度と、あんなアホな真似するなよ?」

「……うん。絶対に、しない」

 

 涙をハンカチで拭いながら、同じ過ちは繰り返さないと決意を込めて頷く。

 この失敗をなかったことには出来ない。あたしがバカだったせいで、多くの人に迷惑を掛けてしまった。危うく、取り返しのつかないことになるところだった。

 だから、それを忘れない。後悔するためにではなく、もうこんな後悔をしなくて済むように忘れない。

 あまりにも泣きすぎたせいで、用意したハンカチがべちょべちょになってしまった。ここ最近泣いた記憶なんてなかったのに。一生分の涙を流し切った気さえする。

 

「ほれ」

「?」

 

 なぜか、アルトが苦笑しながら自分のハンカチをあたしに向かって差し出してくる。

 ……なに? もう涙は拭き終わったけど。

 

「鼻水、垂れてるぞ」

「――ッ!?」

 

 奪い取るようにして借りると、彼に背を向けてこそこそと処理する。

 最悪だ。子どもじゃあるまいし。こんな姿を見られるなんて、恥ずかしすぎて死にたくなる。

 ……あ。どうしよう。思わず使っちゃったけど、これはアルトのハンカチだ。

 気まずい思いで振り返り、おずおずと申し出てみる。

 

「ええと……洗って返す?」

「いらんわ、そんなもん。そのまま、もらっとけ」

 

 言い方っていうものがもっと他にあるんじゃないの、と思いつつ、素直にそのまま受け取っておく。だって、返せって言われたら困るし。

 ……あー。もう本当、ひどい目にあったわ。

 失態も失態、大失態だ。

 よりにもよって、そんな姿を晒した相手がアルトっていうのがまた最悪すぎる。

 アカデミーにいた頃に情けない姿を見せてしまったことは何度かあったけど、今のような関係で彼と付き合うようになってからは今回が初めてだ。

 二度と、そんな弱みを見せてやるものかと思っていたのに。

 ……でも、まだ終わりじゃない。

 あたしは結局、言えてない。

 ごめんなさいと、ありがとうを。

 だらーっと緩んでしまった空気を誤魔化すように、小さく咳払い。

 そして、今の気持ちが失せてしまう前にとアルトに話しかけ――

 

「アルト、その……」

「待て。まだ、もう一つ大事なことを言っていない」

 

 ようとして、出鼻をくじかれた。

 ……大事なこと? いったい、なんのこと?

 あれからどうなったか、とかの報告? ドルニエ先生から何か言われたとか? それとも、まだあたしに対して何か言い足りないことがあったとか?

 話の内容を予想してちょっと怖くなりつつ、聞かないわけにもいかないので先を促す。

 すると、アルトはバッと潔く頭を下げた。

 

「悪かった」

 

 一言。

 それはどう聞こうとも、謝罪の言葉だった。

 

「……え?」

 

 アルトがあたしに、謝った?

 あたしがアルトに謝るのではなく?

 

「ごめん」

 

 意図が通じなかったか、とわざわざ言い直すアルト。

 違うってば、そうじゃない。どうしてアルトがあたしに謝るのかが分からなかったのよ、あたしは。

 だって、そうじゃない。なんでアルトがあたしに謝るのよ? 今回は完全にあたしが悪かったんだし。どこにアルトの非があるっていうのよ?

 

「ちょっ、待って。やめてよ、意味わかんない。なんであんたが謝るのよ? あたしが謝るなら分かるけど」

「理由ならある」

 

 アルトは頭を上げると、真っ直ぐにあたしの目を見た。

 

「俺はお前のフォローをしたつもりでいたが、お前がどう感じるかを考慮にいれていなかった。テオから聞かされるまで、シスカとカリンに言われるまで、お前が何を不満に思っているのか、全く検討さえついていなかった。というか、その可能性すら考えていなかった。……何から何まで頭ごなしに口出しされれば、たとえそれが理に適っていたとしても、不快に感じるのは当然だ」

「ちがっ」

「いいから黙って聞け。俺は自分で言うのもなんだが、他人よりも要領良く物事をこなすことが出来る。不得意なことっていうのが、あまりない。だから、誰かに任せるよりも自分でやった方が早いと判断した時は、そういう風にやってきた。その方が効率的だ、と。……まさか今更、上司からの苦言を実感するとはな……情けない話だ」

 

 饒舌に語るアルトの話は、アルトの気持ちそのものだった。

 今まで自分のことを話そうともしなかったアルトが、いったいどんな風の吹き回しなのか。

 初めて聞くアルトの考えに、自然とあたしは黙って聞く形となる。

 ……それはともかくとして、上司って誰? ドルニエ先生のこと? アルトでも、先生に叱られるようなことがあったんだろうか?

 

「その場はそれでよくとも、もっと先を考えれば周囲に任せるべきだったんだ。あれもこれもと全部を俺がこなす必要はないのだから。今回だって、もっとお前の意見を聞き入れて、やれることを任せれば良かったんだ。あれをしろ、これをしろと言われてその通りに動いたからって、お前が何も思わないわけじゃないんだからな」

 

 いつになく語るアルトの表情は、どこか恥ずかしそうに見える。

 

「でも、それで当然なんだ。物語の登場人物なんかじゃないんだ。自分で考えるし、行動するんだからな。俺がそう判断しからといって、誰もがそう判断するわけじゃない。受け入れたつもりではあったんだが、俺はまだどこか一人の人間として、お前のことを見ていなかったようだ」

 

 なんだかものすごく失礼なことを面と向かって言われたような気がする。

 いったいあんたはあたしのことをなんだと思っていたのよ。そう問い詰めたくなるが、ぐっと堪える。まだ、アルトの話は終わっていない。

 

「もう二度と、そんな思い違いはしない。リリー。本当に、すまなかった」

 

 謝罪で始まった長広舌は、最後も謝罪で締めくくられた。

 あたしはなんとも複雑な心境で、それを聞き終えた。

 不覚にも本音を当てられてしまい、しかもあたしがそれに気付いた直後に謝られ、穴に入りたいくらいに恥ずかしいという気持ち。あたしのことを、全然理解してくれていなかったのかと悲しくなる気持ち。そもそも一人の人間として見ていなかったとか言われて怒りたくなる気持ち。今まで全くあたしに対して自分のことを話そうとしなかったアルトが話してくれたことで、彼があたしと向き合ってくれたかのように感じて、ちょっとだけ嬉しく思ってしまう気持ち。

 他にも、たくさんの気持ちがいっぱいになった。

 誤魔化そうにも誤魔化しきれない。

 いつもふざけてばかりだったアルトが、初めてきちんとその想いを体当たりで伝えてくれたのだから。

 

「ん、分かったわ。でも……」

 

 そう、でも、なのだ。

 確かに、あたしはアルトのしたことに反感を抱いた。

 その結果、言うことを聞かずにバカなことをした。

 でも、だからってアルトのしたことが何から何まで気に入らなかったわけじゃない。

 むしろ、逆だ。自分が助けられていることに気付いたから、自分の至らなさが我慢ならなかったのだ。迷惑だなんて、そんなのは上辺で考えていただけで、本当の本当、奥底ではいつも違うことを思っていた。

 だから。

 

「あんたがフォローしてくれて、本当はいつも感謝していたわ。だから、その……」

 

 大丈夫。今のあたしなら、素直に言えるはずだ。

 気を抜いて、自然体で、気負うことなく、思っていたことを伝える。

 

「アルト……いつも助けてくれて、ありがとう」

 

 本当なら、目覚めてすぐに伝えるはずだった。

 なんだかんだと言うのが遅れてしまったけど、きちんと言葉に出来て良かった。

 アルトはなんだかポカーンとバカみたいに口を開けて固まっている。

 どうやら、よっぽどあたしが言った言葉が予想外だったらしい。感謝もしていないような薄情な人間だと思っていたのだろうか。バカなやつ。

 それに、他にも彼の思い違いはある。

 今回の原因についてだ。

 アルトは自分に責任があるみたいなことを言っていたけど、やっぱり原因はあたしにあると思う。あたしがアルトに従うのを嫌がったのは事実だけど、彼は彼なりにあたしに良かれと思って行動してくれていたのだから。あたしの身勝手さから出た我が侭な行動にまで、彼に責任を取らせるのはお門違いだ。

 

「あたしの方こそ、ごめんね。勝手なことばかりして。悪かったのはあたしよ。あたしが最初から――」

「待て! まだ、お前にしてもらわなければならないことが残っている」

「むぐぐ!?」

 

 口を両手で押さえられ、もごもごと言葉にならない声を出すあたし。

 ……この男、まさかあたしへの嫌がらせのためにわざとやっているんじゃないの? あながち、ありえないことでもない。

 二度もセリフを遮られ、ちょっとムッとしながら彼の手を振り払う。

 

「なによ? その、あたしがすることって」

「殴れ」

「……え? ごめん、もう一回言って」

 

 おかしな言葉が聞こえた気がして、あたしは問い返した。

 

「俺を殴れ」

 

 アルトは真面目な表情で、再度そう繰り返して言った。

 ……どうしよう。あたしがあまりにもポンポン気軽に殴ったせいで、おかしな趣味にでも目覚めたのだろうか。変態の変態さ加減がさらにマズイことになってしまったのかもしれない。

 殴られて喜ぶようにまでなったら、本気で手に負えなくなってしまう。

 

「おい。何か妙な勘違いをしていないか?」

「え? し、してないわよ。でもそうね、今度からは肉体的にではなく、別の手段で――」

「そうじゃねえ! 俺が殴られて喜ぶような変態なわけねえだろ!」

「は?」

 

 ごめん、急に耳が遠くなったみたい。

 今、自分が変態じゃないとかふざけた世迷言が聞こえた気がするわ。

 

「いいか、これはケジメだ。お前だけ俺に殴られて、俺がお咎め無しじゃ、不公平だろう」

「えっ、だって」

「何も遠慮はいらない。全力で――く、薬で治る程度で」

 

 おい。なんで、わざわざ言い直した。

 どんだけあたしに対して偏見があるんだ、あんたは。

 こっちは別にいいって思ってるのに、アルトは何やら覚悟を決めた様子で目をつぶった。さあ来い、とばかりに受け入れ態勢を整えている。

 そりゃ、あたしはあんたが変なことしでかす度に実力行使で止めたりしたわよ。でもこう、はいどうぞ、とばかりに用意されると勝手が違うというか。

 それに、今回はあたしが悪いのであって、そんなあたしがアルトを殴るというのは、どうなのだろう。

 アルトはそれでいいのかもしれないけど……。

 じーっとアルトの顔を睨みつける。

 そうして気付いたけど、あっちこっちにかすり傷が出来ている。

 これは……どう考えても、あたし達を探す時に負った怪我だろう。

 あたしのせいで、ついてしまった傷だ。

 あたしとイングリドだって、同じように怪我したはずなのに。そのあたし達には、どこも傷なんて残っていなかった。

 いつものアルトだったら、イングリドだけ治してあたしなんか放置するだろうな、なんて思うのに。こういう時だけそんな気を遣うなんて……ちょっと卑怯だ。イングリドだけじゃなくてあたしの怪我もきちんと治しなさいよ、とか文句を言えないじゃないの。

 アルトに近寄り、その傷跡をそっと撫でる。

 頬に触れたあたしの指の感触に、アルトがびくっと震える。

 こんな怪我、あの塗り薬を使えばすぐに消えちゃうだろうに。

 あたしとイングリドばかり優先して、自分を後回しにするなんて。

 ……バカなやつ。

 

「……これ、痛い?」

「いや、大した怪我じゃない。ただのかすり傷だ。二、三日もすれば消える」

 

 そっか、消えてしまうのか。

 なんでか分からないけど、ちょっと残念に思ってしまった。

 かさぶたをはがすように、ちょちょいっと指先を細かに動かす。

 

「おい。何やってんだ、お前」

「えー、何もしてないわよー」

「余計なことして遊んでないで、さっさとやれ」

 

 勢い込んでみたものの、いざ殴られるとなると怖いのか、アルトが情けない悲鳴を上げる。

 アルトがあたしの指先一つで翻弄される機会なんて、この先二度と無いだろう。

 そう考えると、ちょっとばかり今の状況が楽しくなった。

 殴るかどうかはともかくとして、折角のこの機会だ。普段やれないようなことをして、アルトをおちょくるのも良いかもしれない。

 いつもはアルトの変態っぷりに振り回されているあたしだ。

 ささやかな意趣返しをしたところで、バチは当たるまい。

 あたしは悪乗りして、アルトの耳元に息を吹きかけてみた。

 

「ふぅー……っ」

「――っ!? なにしやがんだ、お前は!!」

 

 ぞわぞわーっと身を震わせたアルトが怒鳴り声を上げる。

 それでも自分で一度決めたことだからと、目を開けようとしない辺り、アルトもかなり強情な性格だと思う。

 いっそ、どこまで耐えられるのかを試してみるのも面白いかも。

 

「ほらほら。大声上げたらイングリドが起きちゃうわよ?」

「お前……っ! 本当、ムカつくやつだな!」

「ちょっとぉ、顔を動かさないでよ。ぶてないでしょ?」

「だったら、さっさとやれ……!」

 

 顔を背けるアルトの両頬に手を当てて挟み、ぐいっと正面へ動かす。

 ふっふっふっ……日頃、あんたがどんだけあたしに迷惑なことしてるかっていうのを、身を持って思い知るといいわ。

 強情に目を閉じたままの姿勢を取り続けるアルトを目に、あたしはフフンと鼻で笑う。きっと、今のあたしを他人が見たら、それはそれは意地の悪い笑みに見えることだろう。

 さーて、次はどんなことをしてやろうかしら……。

 

「リリー先生、ポテトスープを持ってきました!」

「調子はどうだい、リリー?」

「姉さん、目が覚めたんだって?」

「本当、心配したんだからね。リリー」

「もう……、せめて入る前に一声くらい掛けなさいよ」

 

 その瞬間、きっとあたしは光の速さを越えた。

 バッと素早くアルトから離れると、惚れ惚れするほど素晴らしい笑顔を作って振り返る。

 完璧だ。これならもし見られていたとしても、それこそが勘違いだったのだと絶対に誤魔化されるほどの演技力だ。

 

「「「「「…………。」」」」」

 

 誤魔化しきれないほどの沈黙が、全員の胸中を物語っていた。

 演技力とはいったいなんだったのか。

 いっそ、殺せ。

 

「ま、待って。誤解、誤解だからね?」

 

 分かる。確かに、今、冷静に考えてみるとあたしのしていた格好はちょっとおかしかったかもしれない。いくらなんでも、やりすぎたかもしれないわ。うん、そうね。ちょっと、変なテンションになっていたかもしれない。おかしかったわね。それは、認めましょう。

 でも、決してそれは皆の考えているような行為をしようとしていたからじゃないの。

 きちんと説明すれば、それは皆にもきっと分かってもらえるはずよ!

 

「……む? なんだ、さっさとシろ」

 

 すべてをぶち壊すような発言を平然とする、空気の読めない男がそこにいた。

 変わらぬ格好でじっと待つアルトと、硬直して身動き出来なくなるあたしの間を、皆の視線がいったりきたり。

 そして、全員が笑顔で頷いた。

 ああ、良かった……! あたしの誠意が通じたのね!

 

「先生ー。良く分からないけど、アルト先生が待ってますよ?」

「ヘルミーナ。お皿はここに置いて、下に戻るとしようか」

「ご、ごめん姉さん! 邪魔する気はなかったんだ! 本当なんだよ!」

「コラ、そこは気付かないフリして流してあげないと。ねえ、シスカ?」

「ええ、そうよ。何も見なかったし、何も気付かなかったし、何も起きなかったわ」

 

 通じてないいいいいぃぃぃいいいい!!

 それどころか、何か余計な気遣いまでされちゃってるじゃないのよ!

 

「違うってば! 本当に、今、皆が考えてるようなことは――」

「じゃ、リリー。私達のことは気にしないで。ちょっと二時間くらい下でうるさく騒いでるから、上で何か物音が立っても気付かないと思うわ。――安心して。私は二人の未来を応援しているわ」

「今まさにシスカのせいで酷い目にあってるんだけど!?」

 

 こちらの言い分に全く聞く耳を持たず、ワイワイガヤガヤと騒ぎながら皆が階下へと戻っていく。

 いったい……いったい、あたしが何をしたというのか。

 確かに、あたしは今回バカなことをしでかしたわよ。

 でもね、いくらなんでもこんな勘違いをされるようなことをした? どうして、またアルトとそういう関係だと思われなくちゃいけないのよぉ……。

 

「いったい、なんなんだ? いきなり騒がしくなったが」

 

 打ちひしがれるあたしをよそに、さすがに耐え切れなくなったのか、目を開けてきょとんとするアルト。

 ……こいつはたった今、自分がしでかしたことに何も気付いていないのだろう。せっかく、あたしが誤解を解こうと頑張ったっていうのに……。

 ぷるぷると布団に上体を投げて震えるあたしを見て、アルトが呆れたように溜め息を吐く。

 

「で? いつになったら殴るんだ?」

「……んなに……ったら」

「? なんだ?」

 

 あたしはガバッと上体を起こすと、ぐりんと身を捻る。体調は絶好調。もはや、何も躊躇う理由は無い。右腕に力を込め、ぎゅっと硬く拳を握り締める。

 ……あら、どうしたの? 殴れ殴れって散々言ってた癖に、どうして今更そんなに顔を青ざめさせているのかしら? 逃げようとするなんて往生際が悪いわよ、アルト?

 今更、後悔しても遅いのよ! 全部、あんたのせいなんだからね!

 

「そんなに殴って欲しかったら今すぐ殴ってやるわよ、このバカぁぁあああああああああッッ!!」

 


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