アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人) 作:四季マコト
「お前は手加減って言葉を知らないのか?」
「あんたが常識って言葉を覚えれば考えるわよ」
俺が抗議の視線で睨みつけると、リリーはフンと鼻で笑って挑発してきた。
常識云々に関して、お前にだけは本気で言われたくない。
確かに俺は全力で(薬で治る程度で)殴れとは言った。
だが、だからといって本気で思い切り殴るやつがどこにいる? 普通は多少なりとも手加減をするものだろう。俺だって、さっきは少なからず手加減してやった(つもりだ)というのに。
しかし、これ以上俺が不平を述べるわけにはいかない。
なぜなら、これは俺が言い出したことだからだ。
今となっては激しく後悔しているが。
調合品を使えばすぐに治るというのだけが、せめてもの慰めだろうか。
とはいえ、今すぐに治療するわけにもいかない。痛いからといって、すぐに治しては反省も何もあったもんじゃないしな。それはリリーも同じくだ。
さすがに、翌日二人揃って頬を腫らしていたのでは周囲のいい笑い者になってしまうので、あとで眠る前に常備薬か何かを飲んで治すことにする予定でいる。
リリーはその辺りのことなんて、これっぽっちも考えてなんていないんだろうけどな。いつもいつも後先考えないことばかりしやがるのだ、このアホ女は。おそらく、思考と行動が直結しているんじゃなかろうか。それなら、突拍子もない行動も納得出来る。
……いきなり泣き出したり、とかな。
こいつの泣き顔を目にするのはこれで二回目だが、普段が普段なだけに、急にしおらしい態度を取られると調子が狂って仕方が無い。さっきも、言わなくて良いようなことまで思わず口走ってしまったし。
けれど、伝えた内容は間違いなく俺の本心そのものだ。
今回、予想外の失敗を招いてしまった原因は俺にある。
アカデミー時代の延長で接してしまったことが、そもそもの間違いだったのだ。
あの頃のリリーはまだ右も左も分かっていないような状態だったが、今はもう違う。錬金術だってそれなりに扱えるようになったし、都会での暮らし方にだってすっかり慣れたものだ。それこそ、イングリドを任せても大丈夫だと思えるほどに、しっかりしてきた。
だというのに、俺はそのことについて深く考えていなかった。
いつも通りに世話を焼き、ついでとばかりに裏であれこれと手を回した。
俺は、彼女がどう考えるかなんて全く気にしていなかったのだ。せいぜい、テオをあてがうようにしたことで、ヤツを恋の生贄にしようとしたのがバレないかと懸念したくらいだ。
彼女の補佐をするなんて言っておいてその実、本人が邪魔をしていたのではお話にならない。
本来ならそういった場面こそ、錬金術士として先輩である俺が気を遣ってやるべきだったのだ。慣れない環境に置かれたリリーがストレスを溜めることなんて、最初から予想出来ていたことなのだから。少なくとも、ザールブルグに到着した初日にはきちんと考えていたはずなのに。
近年稀に見る大失敗だ。ここまで大きな失敗となると、かれこれ五年ぶりくらいだろうか?
少しだけ他人より人生経験があって、少しだけ他人より要領が良くて、少しだけ他人より錬金術の腕があって――たったそれだけのことで慢心していた。
この世界は原作に似た世界ではあっても、原作の世界そのものではない。
リリーは原作の登場人物ではあるが、今俺の目の前にいるリリーはそうではない。
彼女は今、実際に息をして生きている人間なのだ。
何も考えず、何も思わず、何も行動しないわけがない。
未だに、この世界を受け入れ切れていない自分に嫌気が差す。そんな問題は、とっくに上手く折り合いをつけた気でいたのにな……。
「本当、今回は失敗したわ」
ドサリ、と。
リリーが背中からベッドへ、糸の切れた人形みたいに倒れ込んだ。
こいつはこいつで、今回の自分の行動に対して少なからず思う所があるらしい。根本的な原因は俺にあるが、リリーの浅慮な行動のせいで余計に大事になったのも事実だしな。
見るからに意気消沈しているリリー相手に、さてどうしたものかと首を捻る。
反省は当然のことだが、いつまでも落ち込んでいるようでは困るのだ。
俺達が国外を訪れることになった目的を達成するまでに、幾度と無く失敗を経験することになるだろう。その度に一々、ヤル気を失っているようではやっていられない。
改めて、フォローという言葉が持つ意味を考える。
……責任重大だな。
まさか年増女への気遣いで、頭を悩ます日が来ようとは……。
何を言うべきか悩んだ結果、一先ず無難に後始末についてを伝えることにする。
「明日か明後日にでも、今回迷惑を掛けた皆に感謝と謝罪を伝えに行くからな。もちろん、その時はリリーも付き合えよ。原因はどうあれ、お前とイングリドの二人を探し回るために、色々と無理を言って手伝ってもらったんだからな」
「分かってるわよ、そのくらい」
リリーが唇を尖らせ、不満そうに呟く。
けれど、その声は力ないままだ。
俺が思っているよりも、今回の失敗は精神的にキているのかもしれない。イングリドを巻き込んでしまったのだから、その気持ちは分からないでもないが……。
「皆って、具体的にどんな人達?」
「今、下で騒いでる五人は当然として……」
身を起こして質問するリリーに、右手の指を折りながら答える。
「急な依頼を受けてくれた冒険者が六人。あと、ハインツさんと門番の人達にも」
冒険者の方達は無報酬で構わないと言ってくれたが、さすがにそれでは心苦しいしな。
彼らの厚意を無碍にしないように、金銭ではなく錬金術で作った調合品を手渡すつもりだ。
リリーにそう事情を説明すると、なぜか待ったコールが掛かった。
「持っていく物って、もう決まっているの?」
「候補は考えてある……が、何か良いものでも思いついたのか?」
「傷薬、とか……どう?」
彼女がおずおずと提案したのは、俺が発明した調合品の名前の一つだった。
今回、リリー達の怪我に対して応急処置的に使用した物で、常備薬を元にした塗布剤の一種だ。
予想だにしなかった答えに、思わず返答に詰まる。
「それは……」
「あ、やっぱりだめ?」
「いや、そうじゃない。俺も同じことを考えていた」
だから驚いただけだ、と言葉を繋げる。
リリーは俺の返答に安心したように、小さく息を吐いた。なぜかいつもと違って妙に自信が無さそうな彼女の様子に、少し面食らう。
「ちなみに、どうして傷薬を選んだんだ? 理由は?」
「冒険者の人達って怪我すること多そうじゃない? 傷薬だったら塗るだけだし、錬金術を知らなくても扱い易いかなって」
「傷薬を小瓶に小分けして持っていけば、持ち運びにも嵩張らないしな。それに、錬金術のことを知ってもらうには丁度良い機会だ。錬金術の知名度は低くとも、身を持って効果を知れば興味も沸くだろうからな」
「あ、そっか。そういう意味合いもあるのね」
「もちろん、お礼をしたいといった気持ちは嘘じゃないぞ」
転んでも、タダで起きる気が無いだけで。
たとえ失敗したとしても、そのくらいはしておかないとな。
「今回のことで、悪い意味でアトリエの名前が広がったら困るからな」
「そう、よね」
苦笑しつつ同意を求めると、リリーはうつむきながら物凄い暗い声で相槌を打った。
……むう、薄々どころか大分はっきりと感づいてはいたが、これはさすがにマズイな。
いつものアホ女であれば、ギャンギャンと言い返してくるところだ。
先送りした問題を、再度突きつけられる。
精神的なケア、か。
先ほど反省した内容を胸中で反芻する。
リリーのフォローをするというのならば、こういう時こそ俺は動かなければならない……のか? 本当にそれで合っているのだろうか。俺はまた何か見当違いなことをしようとしているのでは? 第一、言うとしても何を言えばいいんだ。気にするな、とでも慰めるか? いつまでも落ち込んでいるんじゃない、とでも叱咤するか? それとももっと別の何かか? というか、元気付ける行為そのものが間違っていたりするんじゃないのか?
……分からん。考えれば考えるほど、思考が煮詰まってくる。
が、何も言わないよりはマシなはずだ。
意を決して、うなだれるリリーにゆっくりと話し掛ける。
「リリー。今から俺がイイことを言ってやるから、良く聞けよ」
「なんなの、その意味不明な前フリは……」
ツッコミを入れる口調ですら、どこか投げやりだ。
深刻だな、と声には出さずに心の中だけで呟く。
一応、話を聞く気はあるらしく、じっと俺が話し出すのを待っているリリー。
その瞳を正面から見据えながら、少しだけ緊張しつつ話し出す。
勢い任せにぶちまけた、リリーに謝罪した時とは違う。
気落ちしているリリーを励ますために、慎重に言葉を選んで自らの意思を伝える。
「失敗するのが悪いんじゃない。そんなのは人間なら、誰だってすることだ」
失敗しない人間なんていない。
そんなのは神様だけだ。
「失敗を恐れていたら、何も出来なくなる。かといって、成功ばかりを夢見ていればいいわけじゃない」
それはただの、現実が見えていない人間だ。
失敗した際のリスクを考えから外してはならない。
「悪いのは、失敗した事実を忘れ、失敗から何も教訓を得ないことだ。失敗して後悔するからこそ、次は必ず成功しようと強く心掛けられる」
誰だって失敗なんてしたくない。
でも、成功だけの人生なんてありえない。
「一番悪いのは失敗を恐れる余り、立ち止まってしまうことだ。自分では何もせず、他者の失敗を嘲笑って賢い自分を取り繕うことだ」
そうなっては、全部お終いだ。
先に進むことなんて、到底出来なくなってしまう。
「二度と取り返しのつかない失敗なんて、ほとんどないんだ。幸いにも、今回は二人とも助かった。だから今回の反省を生かし、これからは今まで以上に気をつければ、それでいいんだ」
断言した。
途中から支離滅裂な感情論になっていた気もするが、言いたいことは伝えられたと思う。
問題なのは、リリーが今した俺の話をどう受け取るかだ。
俺の稚拙なフォローなんかで、役に立ったのだろうか。はっきりと正解が記されている物事ではないので、どうにも自信が無い。ましてや、相手はあのリリーだ。何を考え、どう思うかなんて予想もつかない。
語り終え、リリーの反応を待つことしばし。
リリーはポカーンとアホみたいに口を開けて呆然としている。アホ丸だしというか、アホそのものの面である。こんな無様を晒すのは、世界広しといえどもリリーくらいだろう。
「えっと……、もしかして、なんだけどさ」
俺の顔色を窺うような、そんな視線をリリーが寄越してくる。
なんだ、気持ち悪い。言い難いようなことなのか?
早く言え、とアゴでしゃくって続きを促す。
すると、リリーはバッと顔を上げて力のこもった表情で、
「あたしのこと……励まそうとしてくれてる?」
「ばっ、誰が――」
そんなことを言うか、と脊髄反射的に口走りそうになり……はたと気付いた。
極めて遺憾なことながら、客観的事実を求めるとするならば、そういう説が無いこともないのだ。
俺はリリーの精神的フォローをしようと考え、実際に彼女を励ますために行動した。
これは同じ師を仰ぐ立場であり、彼女の兄弟子である俺からすれば至って普通の行いだ。ドルニエ先生から、リリーのフォローをするようにと頼まれているという立派な理由も在る。
だから、この考えはおかしくないはず。
これは、当然の行為なのだから。
だが、なぜだろうか。
こうして、その当事者から改めて口にされると無性にムカつくのは。
「ふーん? アルトが、あたしを、ねぇ?」
返答に詰まった俺の態度をどう邪推してか、リリーがニヤニヤとした笑みを浮かべる。まるで鬼の首でも取ったかのような、はしゃぎようだ。
対して、苦虫を噛むような表情とは、きっと今の俺のことを言うのだろう。
……言うんじゃなかった。誰だ、言った方がマシなんて考えたアホは。
見てみろよ、このアホ女の憎ったらしい態度を。到底、落ち込んでいるようには見えないぞ。
だいたい、傷ついて落ち込むほどに、こいつが繊細な性格しているわけがないのだ。そんな大人しいやつだったら、こんな苦労なんてしていない。俺の目の錯覚もいいところだ。なんであんな勘違いをしてしまったのかと、数分前の自分を殴りたくなってきた。
くそ、次は絶対こんなこと言わな――
「ありがと。ちょっと、元気出てきたわ」
完璧な不意打ちだった。
リリーの明け透けな笑顔に虚を突かれ、言葉を失う俺。
いったい何がそんなに楽しいのか、彼女はニコニコとアホ丸出しで笑っている。
それは、俺がリリーに初めて出会った時と全く変わらない表情。
陰りの見えない、どこまでも純粋な笑顔だった。
「ねえ、アルト。もう一つ、もしかして、なんだけど」
「お……、お前はどれだけ、もしかしてんだよ」
すっかり調子を取り戻した様子のリリーが小憎たらしい。どうフォローするのが彼女にとって一番良いのかと真剣に悩んだ俺が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
また妙なことを言うんじゃないだろうな、と予防線を張る。
「さっきみたいなセリフが出るってことは、アルトも何か失敗したことがあるの?」
「は? お前は何をアホなことを言ってるんだ。そんなもの――」
「あははっ、そうよね。あたしなんかとは違うし」
「あるに決まっているだろ」
何をふざけたことを聞くのかと思ったら。
もしかして、なんて言葉が頭に付く理由を知りたいぞ。
「えっ!? あるの?」
「お前は俺をなんだと思っているんだ……」
「どんな失敗したの? やっぱり、幼い子に悪戯して捕まったとか?」
「お前は俺をなんだと思っているんだ!?」
神様扱いしたかと思いきや、いきなりの犯罪者扱いだった。
もう一回、ぶん殴ってやろうか。
「違うの? じゃあ、どんなの?」
なぜか目をキラキラさせて追求してくるアホ女。
他人の失敗談が聞きたいとか、どんな神経しているんだ。いや、無神経だから神経そのものがないのか。
「一番最近のだと、五年位前に……というか、わざわざお前に教える必要性は無いだろ。それに、面白い話でもないしな」
「そっか……。別に、無理にとは言わないけど」
けど、なんだよ?
「アルトは、あたしが失敗したことをたくさん知っているけど、あたしは何も知らないのよね。アルトがどんなことをしてきたかとか。一つも」
「…………」
「だから、一つくらい知りたかったっていうか。ズルイっていうか。その……」
「…………」
「アルトって、何でも余裕でこなしちゃうじゃない? 錬金術も、訓練も、家事も、人付き合いも、お仕事も、アトリエの経営のことだって何だって。教わるも何も、最初から完璧だーってくらいに。そんなアルトでも失敗するんだって思って、だからちょっと気になったの。それだけ」
「…………。つまんない話だぞ?」
俺はせめてもの抵抗に、仏頂面で言った。
毒を食らわば皿までといった心境だ。
「えっ!? 話してくれるの?」
途端に目を輝かせたリリーが、嬉しそうに声を弾ませる。
現金なヤツめ。さっきまでの見ている方が元気を失くすような様子はどこに消えたんだ?
話してやるから、うっとおしいその笑顔をやめろ。
「本当に面白くない話だぞ。聞くんじゃなかったと後悔するかもしれんぞ?」
「そう言われると余計に気になるってば。さっきといい今といい、アルトは前フリの使い方を致命的に間違えてると思うわよ」
心底、余計なお世話だ。
俺は目を閉じ、肺から絞り出すようにして息を吐いた。
……話すと決めたが、それでもやっぱり気は進まない。
「今から話す内容は、同じ失敗をしてはならないという意味で反面教師にしろ。錬金術士として生きるなら、遅かれ早かれぶち当たる問題だろうからな」
「えっ、錬金術のことでアルトが失敗したの? 本当に? 嘘、信じられない」
「さっきからなんなんだ、お前の意味不明なまでの俺への信用は。お前が俺をどう評価しているかは知らんが、俺はお前が言うほどに大した人間じゃないぞ。何でも出来るわけじゃないし、間違いを犯すことだってあるし、失敗だってたくさん経験した。俺は多少、要領が良いだけの人間だ」
「それだけで、神童だの天才だの呼ばれたりはしないと思うけど……。まあ、いいわ。続けて、続けて」
「その前に、いくつか質問だ。俺が錬金術士になってから、いくつも新しい調合品を生み出したのは知っているよな?」
「ええ、もちろん。在校中に作った物もあるって有名だしね。そこの青汁だってアルトが発明したやつでしょ」
すごい苦かったわ、と恨めしげに言ってくるが、敢然と無視する。
効能は完璧なのだから、何も恨まれる筋合いは無い。
「じゃあ、俺がどんな分野の調合品を得意としているかは知っているか?」
「え? それこそ手当たり次第にってくらい新しいレシピを考え付いてたんだから、全部じゃないの? 最近は不老薬の調合を目指して、薬の分野の発明に限定しているみたいだけど」
その目的がまともなら褒められるんだけど、と呆れ顔で言ってくるが、やはり無視する。
別にお前に褒められたくて作っているわけではない。
「じゃあ、これが最後の質問だ」
「あら、やっと最後? なんか意図が良く分からない質問だったけど」
「俺が薬という分野にこだわる前――最後に発明した物がなんだったかは、知っているか?」
「それは……」
当然のように答えようとしたリリーが、そのまま硬直する。
まあ、知るわけないよな。レシピを公開する時に作って以来、二度と作ろうとしなかったし。俺も極力、広めようとはしなかったからな。
「分かった! 『生きてるゴミ箱』でしょ!」
「ゴミを放ると、外に落ちたゴミを投げ返してくる画期的なやつか。中に入ったゴミまで投げつけてくる失敗作だったが。ていうか、なんでそんな発表もしていないやつを知っているんだ、お前は……」
リリーがあれじゃないこれじゃないと唸り声を上げながら考え始める。
このままだと本題がズレるな、と思った俺はさっさと答えを明かすことにした。
「正解は、『テラフラム』。世界最高の火力を誇る爆弾だ」
「爆弾?」
「そうだ。そして、これが俺の失敗の原因だ」
原作での最高威力の爆弾は『ギガフラム』だ。
メガ、ギガときて、それよりも上だからテラだ。
我ながら、実に安直なネーミング・センスといえる。
俺は原作までに発売された三作品しかやったことがないので分からないが、もしかしたら他の作品では登場するのかもしれないな。テラだけでなく、ペタとかエクサとかも。
そこまでいくと、どれほどの威力があるのか想像したくもないが。
「『フラム』なら知っているよな? 訓練用の巻き藁程度なら一発で吹き飛ぶ威力の爆弾だ。あれのざっと一千倍の火力といえば、その凄まじさが分かるか?」
「せ……っ!?」
絶句するリリーを見て、まあそれも当然の反応かと思う。
俺だって、強い魔物を倒す時にラクかなーくらいの軽い気持ちで作って、いざ実験してみたら大地にクレーターが出来てビビッたからな。念のためにと大げさに避難していなかったら、今頃命を失っていただろうし。
テラフラムでそれなのだ。それより更に威力を高めたものなんて作ろうとも思わない。
「当然、効力だけじゃなくて範囲も広い。何も考えずに使えば、使用者とその仲間どころか、一区画そのものが巻き込まれるほどだ。そのテラフラムの調合自体は簡単に成功した。とはいえ、作ったはいいものの、威力がありすぎておいそれとは使えない代物だ。しばらく、管理するだけで放置していた。そして三ヶ月くらい経った頃かな。俺の元に、とある遠方の王国から依頼が来たんだ」
「国から? いったい、どんな内容だったの?」
「テラフラムを三ヶ月以内に十個作成してくれって依頼だった。一個、五万銀貨でな」
「ご、ま……ええと、それが十個だから五十万ッ!? ……ごめん、途方も無さ過ぎて実感沸かないわ」
「それだけの大金だ。当然、俺は引き受けた。実験には何かとお金が掛かるしな。そして、調合品を無事に納め、報酬を貰い、それから半年後。さて、何が起こったと思う?」
「え? また質問? さっき最後とか言ったのに。えーと……、あれ? これって失敗したお話よね? じゃあ、作った爆弾が失敗作で使えなかったとか?」
「いいや、使えたよ。完璧な出来栄えだった。だから、その結果――」
俺は言う。
「何千人という人間が死亡した」
その事実を。
え、とかすれた声が、リリーの口から漏れる。
その表情から、色が失せていくのが分かる。
……だから、面白くない話だと言ったんだ俺は。
「戦争だよ。強敵の竜や魔物を倒すためではなく、人間を殺すために使われたんだ。俺の作ったテラフラムは、な」
「う、そ……」
「事実だ。俺が軽い気持ちで作った爆弾のせいで、遠い他国で顔も知らない人間が大勢犠牲となった。自分がどれほど凶悪な代物を発明したのかということを、正しく理解していなかった愚か者だったんだ俺は」
「…………」
リリーは言葉も無い様子で、俺の話に聞き入っている。
もし自分がその立場に置かれたら、なんて想像をしているのかもしれないな。
だとしたら、俺も苦い思いを押し殺してまで話した甲斐がある。
「もちろん、それは誇張された数字なのかもしれない。本当のところ、戦死したのは百人かもしれない。でも、死傷者が出たのは事実なんだ。俺の作った爆弾のせいで、多数の人間が命を失うことになったんだ」
「……その、王国の人は」
「喜んでいたよ。感謝状が来た。貴殿の発明品のお陰で自国の兵が最小限の犠牲で済んだ、感謝する、とな。なんと聞いて驚き、決死隊宜しく爆弾抱えて敵兵に突っ込み、敵味方諸共大爆発させたんだと。まさかの使い道だよ。それなら、威力さえ高ければ用は足りるものな」
「アル……トは?」
「俺? 俺はもちろん――」
失敗したなと反省を胸に、次に生かそうと思ったよ。
そう結んで、過去話を切り上げようとした。
しかし、覚悟を決めたかのように静かな表情で俺を見つめるリリーの視線を受け止めて……
やめた。全部、正直に話すことにする。
本当はそこまで話す気ではなかった。俺の情けない過去を晒すことになるからだ。
だが、反面教師というのなら。
きちんと、リリーと向き合うのなら。
今後も、フォローをしていくつもりがあるのなら。
きちんと最後まで真実を告げなくてはならないだろう――そう思った。
不意に息苦しさを感じ、意識して長々と呼吸を繰り返す。
粘ついた何かが、それ以上言うなと抑制するかのように喉に張り付いた。
それでも……リリーが同じ失敗をしないために、俺は言う。
「後悔したさ。やるんじゃなかった、こんなはずじゃなかった、どうして俺が、ってな。実際に手を下したわけじゃないが、俺が人間を殺したようなものだ。何度も泣いたし、吐いたし、悪夢にうなされた。物に当り散らしたり、理由もなく叫び声を上げたりもした。実験室の設備が整っていなかったら、当時噂になっていたかもしれないな」
「でも……でも! それってアルトのせいじゃないわよ。だって、知らなかったんだから! そんな、ことに、使われるなんて……」
遣り切れなさを感じてか、痛切な面持ちでリリーが繰り返す。知らなかったんだから、と。
それは当時の俺が何度も自分に言い聞かせるように呟いた言葉だ。
けれど、それは逃避でしかない。甘えでしかない言い訳だ。
「知らなかった、で済む話ではないんだ。失われた命のことを考えればな」
「それは……っ、けど」
「何より、俺は使用目的を尋ねる義務を怠ったんだ。それが危険物であることを重々承知していながら何も聞こうともせず、使用後に相手に文句を言うのは間違っている。依頼者に目的を聞いた結果がどうあれ、その時点で改めて受けるかどうかを判断すれば良かったんだ。目先の利益に釣られて深く考えることを放棄した結果の失敗だよ」
そんなのは今だからこそ冷静に言えることだけどな、と自嘲する。
当時のことを思い返すと、未だに憂鬱な気分になる。
何度、忘れたいと思ったことか。
何度、記憶を消し去りたいと思ったことか。
そして――その度、忘れてはならないと何度も自分に言い聞かせた。
何もかもをなかったことにして逃げることだけは、絶対にしてはならないと。
「当時の俺は精神的に追い詰められる所まで追い詰められて……自殺こそしなかったが、一時は錬金術士を辞めようと本気で思った」
「嘘! やめちゃったの!?」
「やめてたら、今ここにいないだろ」
どんだけ動揺しているんだよ、お前は。
ちょっとは落ち着け。
泡を食って取り乱すリリーを見ていると、知らず苦笑が漏れた。
少しだけ、気がラクになった気がする。
「だけど実際、あのまま一人でいたら、そうなっていたかもな」
やめた後は屋敷で引きこもるか、出家する坊主よろしく神父にでもなっていたか。懺悔を繰り返す毎日を送りたいなんていう、甚だ不適当な理由で。
「でも、そうはならなかった。ドルニエ先生に諭されたからだ。いや、叱られたのかな? 教えられた、が一番近いかもな」
「? ドルニエ先生に何か言われたの?」
「俺がドルニエ先生に自己弁護の言い訳かましながら、錬金術士を廃業して実家に戻りますと伝えた時だよ。いきなり、大声で名前を呼ばれたんだ。『アルト!』ってな。初めてだったよ、先生のそんな怒鳴り声を聞くのは」
おそらくあれは、俺が耳にする最初で最後のドルニエ先生の大声だろう。
あの人が続けて言った言葉は、一語一句違えず、正確に記憶している。
俺は当時を懐かしみながら、噛み締めるようにしてリリーに伝えた。
『――錬金術士として生きるのなら、自分の調合した品物がどのような結果を招いたとしても、全てを認め、それを受け止めなさい。意図しないことに使われようとも、それを調合したのは自分だと胸を張って言いなさい。必ず最後まで、それを生み出した者としての責任を持ちなさい。そうでなければ、いったい誰がその調合品を認めるというのかね』
「今まさに錬金術士を辞めるって言った相手に、言うセリフじゃないよな。ましてや、傷心の相手に言うセリフでもない。それに、言葉の意味だけを受け取るなら、当たり前のことすぎて普通のセリフだよな」
ドルニエ先生が口にしたのは、錬金術士としての気構えだった。
錬金術士とは、かくあるべき、という覚悟だ。
思えば、俺は知識ばかりが先行して、そういう部分をきちんと学んでいなかった。学ぶ前に発明して、気付いたら錬金術士になっていたからな。
「でも、俺はその言葉で救われたんだ。錬金術士として、という言葉にな。もしあれが引き止める言葉だったら、俺は本当に辞めていたと思う。あくまで一人の錬金術士の師として、失敗した錬金術士である弟子に語ってくれたから。だから、俺は錬金術士として立ち直ることが出来た」
「錬金術士として、なの?」
「ああ。俺は錬金術士として生きていくことを、その時になってようやく決心したんだ。それまではただなんとなく、やれることが見つかったからなった程度の薄っぺらな気持ちだった。過程と結果があべこべだけどな」
「……そうね、あたしとは正反対だわ」
「お前は錬金術士になるために、錬金術を学んだんだよな。それも独学でだ。目的が見つからなくてやってた俺とは大違いだよ」
前世で見たことがなかったから、不思議に惹かれて学んだだけの俺とは雲泥の差だ。
ただの興味本位とは、自分のことながら開いた口が塞がらない。
「で、その後は……一応、実家へ戻って少しモメて、色々あったが錬金術士として復帰して、やることが見つかったから不老薬を作ることにした。そんなこんなで、今に至ると。以上で、俺の失敗した話は終了だ」
「そんなことがあったんだぁ……って、なんか今、後半すごい駆け足でまとめなかった!?」
「気のせいだ」
言い切る。
言った通りに、当時の失敗談は全部語ったのだから問題無い。
何と言われようが、これ以上話す気はないぞ。これ以上、恥の上塗りをして堪るか。
自分で喋っておいてなんだが、正直、自分に対してドン引きしているしな。悲劇のヒロインじゃあるまいし、いい年した男が過去を語ったところで、イタい以外の何物でもない。
「そんなこともあって、俺はドルニエ先生を一人の錬金術士として尊敬している。二度に渡って進むべき道を示してくれた恩師だからな。一生頭が上がらない。ドルニエ先生のように立派な錬金術士になるのも、目標の内の一つだ」
「ああ、だからなのね。アルトがどこにも就職せず、先生の手伝いをしているのって?」
「そういうことだ。俺はまだドルニエ先生から、錬金術士としての全てを学び終えてはいないからな」
他にも理由はあるんだが、それを一々本人相手に説明しなくてもいいだろう。
説明したところで、理解してもらえるような話じゃないしな。
「まあ、いい教訓になっただろ。俺みたいな失敗をしてはならないっていう意味でな。いかに俺がアホかが分かるってもんだ」
「……ううん、そんなことないわよ」
「はあ!?」
唖然として叫ぶ。
人が喋りたくもない過去をわざわざ話してやったというのに、いったいこのアホは何を聞いてやがったんだ!?
本気でもう一発くれてやる、と右手を顔の前にかざして力を込める。
すると、リリーが両手で俺の手をギュッと挟んで握り締めてきた。
いったい何の真似だ? 殴られまいと先手を打ったということか?
訝しげに半目で睨む俺をどこ吹く風と、リリーは小さく笑みを浮かべる。
「アルトはそんな辛いことがあっても、忘れないで覚えてるんでしょ。失敗の記憶として。ちゃんと逃げずに、向き合ってるんでしょ。だから、アホなんかじゃない」
「…………」
「錬金術士として生きていくって覚悟がどういうものなのか、ちょっとだけ分かったような気がするわ。ごめんね、辛いことを話させて。ありがとう、きちんと話してくれて」
「……おい」
「なに?」
俺は脱力しながら、まさかと思いながら、バカなと思いながら、力ない声で尋ねた。
「慰めているつもりか?」
「アルトが自分語りに浸って喋るのを聞いて、ヒかないで感謝する程度にはね」
「慰めているつもりか!?」
リリーの手をバッと勢い良く振り払う。
ええい、くそっ! 慣れないことはするもんじゃないな。
ドルニエ先生のように、とは一朝一夕にはいかないもんだ。
「お返しに、あたしも何か故郷にいた頃の失敗話をしようか?」
「いらん気遣いだ。そんな暇があるなら、迷惑掛けた方々への詫びの一言でも考えておけ」
「もちろん、考えておくわよ。でもそういうのって、下手に考えるよりも実際に本人に会って、直接その気持ちを言った方が伝わると思わない?」
「減らず口を……。今回はたまたま助かったから良かったものの」
「そうね、今回は運良く……ううん、アルト達が頑張って助けてくれたけど、次もそうとは限らないものね。ていうか次があったら、ダメなのよね。よしっ、頑張らないと」
リリーは両手を上に伸ばすと、ぐっと背伸びをしてみせた。その顔はまだ少しばかり疲れの色が見えるものの、目はイキイキとした輝きを放っている。
この様子なら、今度こそ大丈夫だろう。
もう、俺がフォローをする必要はないはずだ。さすがにこれ以上まだ何かあったとしても、俺は断固として断るぞ。
「今回は全部あたしが悪かったわ。もう二度とこんなバカな失敗しでかさないようにしないと」
良い心掛けだ、と頷きそうになり――ぴたりと止まる俺。
待て。うっかり聞き逃しそうになったが、今、こいつは聞き捨てなら無いことを言わなかったか?
まさか、そんな思い違いをしていたから落ち込んでいたのか?
だとしたら、俺はとんでもなくアホなフォローをしていたことになるぞ。
「ちょっと待て、リリー。今回の騒動の原因は俺だ。お前じゃない。それを履き違えるな」
まったく、何を考えているんだか。
こんなのは誰に聞いても同じ答えが返ってくるほどに明白だろう。
俺がピシャリと言い含めると、リリーがそれに納得する――
「アルトこそ何言ってるのよ。悪いのは、あたし。そうでしょ?」
わけがなかった。
つくづく、このアホ女は俺の予想の斜め上をいく反応をしやがる。
何をどう勘違いしたのか、リリーは頬を染めて恥らうようにうつむく。
「そうやって、あたしを庇ってくれるのは嬉しいけど……さ」
「は? 俺が? お前を? いったい何の冗談だ?」
「えっ……いや、だから、その、えっ? 照れ隠しとかじゃなくて、素で言ってる?」
「意味が分からん。なんで俺がお前を庇う必要があるんだ。イングリドやヘルミーナならともかく、俺がお前に優しくする理由は皆無だ。気持ち悪いことを言うな」
「え、だって、さっき……え? ええええええー!?」
なんでよー! と叫び声を上げるリリー。
なぜ今更、そんな当たり前のことに驚くのかを俺の方こそ知りたいわ。
俺が年増女なんかに全く興味が無いことは百も承知だろうに。
どこにそんな意味不明な勘違いを招くような言動があったというのか。
やれやれと溜め息を吐きながら、俺は暴れるリリーを両手で抑えつけた。もう少し寝ているイングリドのことにも気を遣えっつーの。
「今回の原因は、俺が全てを独断で取り仕切りすぎたことにある。お前に何も相談せず、お前の気持ちも考慮せずにだ。最初からきちんと打ち合わせをしておけば、今回のようなことにはならかった。だから、責任は俺にある」
「それは違うわ。アルトはきちんとやることをやっていただけよ。あたしが身勝手に、それに反発したんだもの。あたしが余計なことを考えて、軽率な行動を取ってしまったから、自業自得で危険な目に遭ったのよ。だから、責任はあたしにあるわ」
「…………」
「…………」
両手を離し、どちらからともなく、額をつき合わせるようにして向かい合う。
……落ち着け。決して怒ったりしてはいけないぞ、俺。
正論で言い負かした所で、リリーが納得していないようでは、また今回と同じ失敗を繰り返すだけだ。相談すべきことはきちんとして、意見をすり合わせる必要があるのだ。リリーが子ども染みた聞き分けの無さを発揮しても、大人である俺はそれに対して冷静に対処すればいいだけだ。
だからこそ、極力リリーの言い分を認めた上で言い聞かせなければならない。
俺が悪かった、という事実を。
冷静に、努めて冷静に、決して激昂してはならない。
「おい、リリー」
「なによ、アルト」
「確かに、リリーの言うことにも一理ある。危険だから護衛も付けずに行くなと言い含めたのに、それ無視したお前にも責任は多少ならずあるだろう。だけどな、やっぱり一番悪いのはお前を無視した俺の行動に決まっているだろ」
「そうね、アルトの言うことも間違っていないわ。何から何まで全部フォローされっぱなしで、落ち込んだのは本当だし。だから、あんたを見返してやるって思ったもの。でも結局、あたしが我慢すれば良かっただけのことでしょ」
「今回お前が我慢したところで、いつかは結局同じような問題が起きていただろ? 根本的な問題が解決しない以上、それは必然だ。それに比べて、俺がきちんとした行動を取っていた場合、今回みたいなことにはならない」
「そうとは限らないわ。アルトだったら絶対に途中で気付いて、何かしらの対策を取るに決まっているもの。あたしはたまたま切っ掛けがアルトだっただけで、遠からず同じような失敗をしていたに違いないもの」
「…………」
「…………」
れ、冷静に……。
「確かにお前は、浅慮な行動を取ることが多々ある。しかし同時に、お前がイングリドやヘルミーナのことをどれだけ大事に思っているかくらいは分かっているんだ。そんなお前が、俺の失敗以外が要因で、今回と同じような失敗を行うわけがないだろ。第一、俺はさっきの失敗談でも言ったように、何から何まで出来るような高尚な人間じゃない。言われなければ分からないような、ただの人間なんだ。今回のことだって、言われるまでずっと気付かなかったに違いない」
「確かに、アルトはあたしのことなんて何も気遣ってくれていないって思っていたわ。でも、それはあたしの思い込みも結構あったのよ。だって、アルトは錬金術士としてのことだったら手を惜しまずにフォローしてくれていたもの。それをあたしが認めなかっただけ。だからきっと今回のことだって気付いてくれたわ。あたしなんて感情が先走ってしまえば、それこそ何をしでかすか分からないわ。だからこそ、今回みたいな失敗を招いてしまったようなものなんだし」
「…………」
「…………」
――――ブチッ!
「俺がお前のことを無視して一人で決めたのが悪かったと言ってるだろ!」
「あたしが悪かったのよ! あんたにあれほど注意されたのに無視したんだから!」
「誰だって無視したくなるだろ、何から何まで頭ごなしに言われれば!」
「生意気な後輩が我がままな行動をとっていたら、誰だって全部仕切らなくちゃって思うわよ!」
「そんなことは無い! リリーはそこまでアホなんかじゃない!」
「何言ってんの! アルトこそ自分を変に見下した言い方するのやめてよね!」
「誰がいつそんなこと言った!?」
「たった今、言っていたじゃないの!」
「言ってない!」
「言った!」
「言ってないっつーの! 今回は俺が全部悪かった、お前は少しだけ悪かった、それが事実だ!」
「それは逆でしょ! あたしが全部悪かったの、アルトは全然悪くないもの!」
「逆と言いつつ、俺が全然悪くないことになってるじゃねえか!」
「だってアルトは悪くないもの! 今回はあたしが悪かったんだもん!」
「『もん』とかいい年齢した大人が言う言葉じゃねえだろ、気色悪い!」
「何よ、あたしがどんな言葉遣いしたってあたしの勝手でしょ! この変態!」
「はあ!? 俺が変態だとしたら、お前はただの猪突猛進の錬金馬鹿の年増女だろうが!」
「そこまで言う!? あたしは一言で済ませてあげたのに!」
「それだけお前が欠点だらけだと言ってんだよ! いいから、今回は俺が悪かったと認めろ!」
「アルトこそ、あたしが悪かったって認めたらどうなのよ! この分からず屋!」
「誰が分からず屋だ! 自分を棚に上げて言うな! この頑固者が!」
「そっちこそ、ちょっとはあたしの言うことに耳を貸したらどうなのよ!」
「それは俺のセリフだ! 意固地になってないで素直に言うことを聞け、このアホ!」
「うっさい、バカ! あんたは何も悪くなんて無いって言ってるでしょ!」
「いいや、俺が悪かったんだ!」
「あたしが悪かったんだってば!」
「俺だ!」
「あたしよ!」
「お・れ・だ!」
「あ・た・し!」
「――やめてええぇぇぇぇぇええええッッ!!」
「は?」
「え?」
予想外の叫び声と、身体への軽い衝撃に、思わず呆気に取られる。
リリーの腰にがっしりとしがみついているのは、なぜか涙で顔をぐしゃぐしゃにしたイングリドだった。彼女が勢い良く飛びついてきたせいで、揺らいだリリーの身体を受け止める形になってしまったようだ。
そう分析し、即座にリリーをひっぺがし、泣いているイングリドへと腰を屈めて笑い掛ける。
……くそ、いったいどこのどいつだ、俺の天使を泣かせやがった不届き者は! 見つけ次第、血祭りに上げてくれる!
「イングリド、どうした? 何か怖い夢でも見たのか? リリーが嫌いか?」
「ちょっと待ちなさい! 最後の質問は何よ?」
「俺のことが大好きか、の方が良かったか?」
「尚更悪いわ!」
「喧嘩しないでっ!」
ぴたっと喋るのをやめる俺とリリー。
このくらいの言い合いはいつものことだし、イングリドもヘルミーナもドルニエ先生も全然気にしていない。そう思っていたのだが……。
なんだかイングリドの様子がおかしい……?
「い、イングリド。どうしたんだ? 喧嘩なんてしていないぞ?」
「そ、そうよ。イングリド、このくらいいつものことじゃない」
「アルトぉ……私のせいでリリー先生を怒らないで!」
「「え?」」
どういうことだ、とリリーを睨みつけると、なぜかリリーからも同じような視線が返って来た。責任転嫁も甚だしい。俺は身に覚えが無いぞ。
「私がついていきたいって言ったから。リリー先生はダメだって言ったのに。私が無理矢理ついていったから……だから、悪いのはぜんぶ私なの。リリー先生は何も悪くないの!」
「……え、ええと」
やばい。なんだか知らないけど、イングリドが泣いている理由は俺が原因らしい。
どうしよう。イングリドに嫌われた? え? どうしよう。俺、死んだ方がいい?
いやいやいや、待て待て待て。おおお落ち着け俺。死ぬのは事実を確かめた後でもいい。
だが、イングリドを泣かせたままにしておくのは絶対にダメだ。それでは、死んでも死に切れない。彼女を笑顔にさせないまま放置するなど、男としてあってはならない所業だ。
リリーと一緒にイングリドをなだめすかしながら事情を確認した所、どうやらイングリドはイングリドで、今回の騒動に関しては自分に責任があると思っているようだった。
俺がリリー相手に怒っているのは間違いで、責任は自分にあるから怒るなら自分に。彼女曰く、そういうことらしい。
色々と引っ掛かる部分はあるが、真っ先に否定しなくてはならない部分は決まっている。
泣き止みはしたが、まだ依然として涙を堪えるイングリドの瞳を見つめ、きっぱりと言う。
「イングリドは、何も悪くなんて無いよ。経緯はどうあれ、最終的につれていく決断をしたのは、リリーなんだから。もし責任があるとしたら、それはリリーだ」
「そうよ、イングリド。あなたは何も悪くないの。あたしのせいで怖い目に合わせちゃって、ごめんね」
「でもぉ……でもぉ!」
なだめようとすればするほど、なぜか更に事態が悪化していく。
なんとかしろよ、とリリーを見れば、あんたこそなんとかしなさいよ、とばかりの表情が返って来た。ええい、役に立たないやつめ。
イングリドが悪いなんてことは絶対に有り得ない。もしそんなことを言う人間がいたら、二度と口が利けないようにしてやる。
けれど、本人がそう言ってるという場合は、どうしたらいいんだ……。
彼女は悪くないと伝えても、彼女自身がそれを認めてくれないと意味は無い。
難題すぎるっ、と思わず悲鳴を上げてのた打ち回りそうになる。
――と。
そんな俺を押しのけ、リリーがイングリドをギュッと抱きしめた。
「イングリド。今回のことは、あたしが全部悪かったということで話はついてるから大丈夫。もう、アルトも怒ってなんていないから」
おい、ちょっと待て。
何しれっと自分が悪いとか結論付けてやがる。話はまだ途中だっただろうが。
しかも、俺が怒っていたとか悪印象を植え付けるなんてどういうことだ。
そう言おうとして――しかし、イングリドのすがるような表情を見て咄嗟に口をつぐむ。
さすがに、今のイングリドを相手に滅多なことは言えない。俺の一言でまた彼女が泣き出してしまったらと思うと、俺が耐えれば済む話なのだから今はそうすべきだろう。
「ほんと?」
じっと俺を見上げてくるイングリド。
恐る恐る、怯えたような態度だ。
どうしてイングリドにこんな態度で接されなくてはならないのか。
泣きたい。切実に泣きたい。というか既に、視界がにじんでいる気がする。
ううっ……、なんで俺がこんな目に。
「ああ、本当本当。もう怒ってなんていないよ」
俺が涙を懸命に耐えて微笑み掛けると、イングリドの表情からやっと緊張が抜けた。
良かった、と心底安堵するように微笑むイングリド。
……うん、その笑顔が見られただけで俺が疑われたのも許せてしまう。
だが、リリー! お前だけは許さん!
お前のせいで、俺が怒っていたのが事実になってしまったじゃないか。あまつさえ、自分に全責任があると事実を捻じ曲げやがるなんて。どこまで意地っ張りなんだ、このアホ女は。
「じゃあ、あくしゅして」
「え?」
「握手?」
なんのことだ、と思わず疑問符を頭に浮かべる俺。
次いで、リリーが鸚鵡返しに問うと、イングリドが再度繰り返して言った。
「あくしゅ。仲直りする時には、しないとダメなのよ。ヘルミーナと仲直りする時に、アルトが教えてくれたんだもん」
あんたそんなこと言ったの!? とリリーが小声で責めてくる。
言った……確かに、俺は言った。いつまでも半端にしこりが残るより、仲直りした、と分かりやすくお互いに態度で表明した方がいいだろうという意味合いで。
俺が何の気なしに言ったことを覚えていてくれて嬉しい反面、それをよりによってここで持ち出すのかと溜め息を吐きたくなる。
別に俺とリリーは仲違いをしていたわけじゃないのだから、そうする必要は無い。喧嘩をしていたわけじゃなく、非を認め合うために話し合っていただけなのだから。
俺はイングリドにきちんとそう説明しようと口を開き、
「ほ~ら、あくしゅ。あくしゅ」
「あ。はい」
嬉しそうなイングリドに手を取られ、気付けば深く考えずに頷いてしまっていた。
無言で非難する視線がリリーから投げられるが、知ったことではない。だったらお前は、こんな嬉しそうな表情をしたイングリドに対してノーと言えるのか?
「リリー先生も」
「わ、分かったわよ。もう……」
ほれ、見ろ。やはり天使には誰も逆らえなかった。
リリーもイングリドに手を取られ、仕方がなさそうに苦笑した。
そして、促されるがままにリリーと手を差し出しあう。
これがイングリドやヘルミーナならいざ知らず、年増女の手なんぞ握っても嬉しくもなんともない。だがここで嫌そうな顔をしたら、イングリドがまた泣き出してしまいかねないので、グッと我慢する。
そして、お互いの右手が触れ合い――
その手の小ささに驚かされた。
そういえば、こうして手を握り合うのは初めてだったな。
俺が天使達を愛でている場面にタイミング悪く現れては、空気を読まない暴力を振るってきたりしていたから知っていたはずなのに、こうして触れてみるとその手は俺の手にすっぽり隠れてしまうほどに小さかった。
少し荒れた感触のある手は、何度も何度も錬金術の調合を繰り返してきた証だ。
今俺の手を握る彼女の指先は、俺が力を入れたらあっさりと折れてしまいそうなほどに細い。
世間一般で言う年頃の乙女がするようなマニキュアなんて、まったくしていない爪。それは調合の妨げになるからと短く切り揃えられている。
小さくとも、それは錬金術士の手だった。
……こんな小さな手で、俺と張り合っているのか。
あれもこれもと頑張っている癖に、その手はまだ子どもと変わりないほどに小さい。
だから、なんとなく思ってしまった。
今回だけは俺が折れてやるか、と。
俺はリリーが一番悪いだなんて思ってはいないが、彼女がそう思いたいというのなら、今回くらいは譲ってやってもいいだろう。責任の追及よりも大事なことは、お互いにもう理解しているようだしな。
「はい。二人とも、謝って」
え? イングリドの目の前でするの?
いったいどんな羞恥プレイ、と俺は身悶えしそうになった。イングリドの前では、素晴らしく頼りになる男性の姿だけを見せてあげたいのに。アルト、カッコイイ! 素敵! とか言われたいのに!
一縷の望みを託してイングリドの顔を見遣ると、早く早くと急かすような表情が返って来た。
「早く早く」
というか、そのまま言葉に出して急かされてしまった。
うん、往生際悪かったよね俺。ごめんね、イングリド。
色々と吹っ切れ、リリーに頭を下げる。
「俺が悪かった。ごめん」
「あたしも。ごめんね」
なぜか、リリーは笑いを堪えるような表情で謝ってきた。
きっと、俺がイングリドに情けない姿を晒す羽目になったのを嘲笑っているのだろう。なんて性格の悪いやつなんだ。チクショー。
絶対に挽回してやる。イングリドが俺を頼りに思ってくれるように頑張るぞ俺は。
リリーと手を離し、そういえば夕食を廊下に置いたままだったと思い出した。さすがにもう冷めてしまっているだろうから、温め直す必要があるか。
どうせだし、イングリドの分も取ってくるとしよう。
「イングリド、もう大丈夫だよな? 俺が怒ってないって分かってくれたか?」
「うんっ!」
「よしっ、いい子だ。それじゃあ、少し待ってなさい。お腹も空いただろうし、夕食を温めなおしてくるから」
「あ、それくらいあたしが――」
「いいから、お前は大人しくしていろ。調合品で治したとはいっても、まだ様子見なんだ。どこかに後遺症が残っていないとも限らん」
「そんなことないって。もうどこも痛くないし、大丈夫よ?」
「やかましい。悔しかったら、フォローをされなくとも済むようになれ」
「喧嘩……」
「「してない、してない!!」」
いきなり表情を曇らせたイングリドを見て、瞬時に同時に笑い掛ける俺とリリー。
……すっかり元気になったように見えたが、どうやらまだ元通りとはいかないようだ。
でも、それも当然か。あれだけのことがあったのだから。
今後しばらくは、イングリドのことを今まで以上に注意して見守ってやらなくちゃな。せめて俺の目が届く間だけでも。無論、リリーにも良く言い聞かせておくとしよう。
もし何かグダグダ言いやがっても、今度は無理矢理にでも言い聞かせてやる。
……まぁ、イングリドのことを心配してのことだから大丈夫だとは思うけどな。
シャクだけれど、リリーがイングリドのことを大事に思っているのは確かなのだから。
カーテンをくぐる拍子に、ふとリリーと目が合った。
イングリドの頭を撫でてあやしながら、俺へと何かを囁くように唇が動く。
四文字の言葉だ。
俺はそれを目にして――しばし動きが止まった後、無言で部屋を出た。
だから、
『お前を助けられて良かったよ』
そんな血迷った言葉なんて俺は……声に出しては言っていない。
◆◇◆◇
近くの森での騒動から、明けて翌日。
あたし達は、今日一日を休息に当てることにした。
身体を休めるという意味だけではなく、皆が自由に過ごすという本当の意味での休日だ。
例えば、あたしはイングリドとヘルミーナの二人と一緒にお菓子作りに精を出している最中だし、アルトなんかは朝食後から黙々とソファーで読書中だし、ドルニエ先生はお昼頃まで二階で寝ているご予定だ。
昨日あんなことがあったばかりだし、特にドルニエ先生はあっちに行ったりこっちに行ったりと、連日の外出疲れが溜まっているだろうしね。ここらで全員が一休みしたところで、誰も文句は言えないでしょ。
「先生、こんな感じ?」
「そうそう、粉っぽさがなくなるくらいでいいわよ。ヘルミーナもそれくらいで大丈夫よ」
「はーい」
イングリドとヘルミーナの二人と会話をしながら作業を進める。
二人にお手伝いをしてもらうのはいつものことだけど、今回の理由の大半は昨日あんなことがあったからだ。イングリドはもちろん、ヘルミーナにも何かと心配を掛けてしまったし。今日はずっと二人の傍にいて安心させてあげたい。
迷惑を掛けてしまった方達への謝罪は、相談した結果、明日きちんと体調を整えてからということになっている。あたしはともかく、アルトはまだ多少疲れが残っているっぽいしね。それに、お礼の傷薬を小瓶に小分けして持っていくのにも、準備の時間が必要だし。
「食べやすい形に整えて……これで、よしっと。じゃあ二人とも、フォークで表面に穴を開けてみましょうか」
「はーい」
「先生、どうして穴を開けるんですか?」
「そうすると、熱が芯までしっかり通るからよ」
「なーんだ、ヘルミーナったらそのくらいのことも分からないの?」
「なによぉ! イングリドだって、バターを溶かすの分からなかったくせに!」
「なんですってぇ!?」
「もう……イングリド、ヘルミーナ! 喧嘩するなら、お菓子作りはやめるわよ!?」
フォークを手にしたまま、言い争いを始めるイングリドとヘルミーナ。
その手からフォークを取り上げ、叱り付ける。
二人はお互いに対抗意識があるせいか、ちょっとしたことでもすぐに張り合う。気付けば口喧嘩しているから、二人を一緒に行動させる時には目が離せない。
けれど、彼女達の仲は決して悪いわけじゃない。アカデミーにいた頃は二人一緒に行動することが多かったし、頻繁にお互いの部屋を行き来していたほどだ。
それでもこうして事あるたびに衝突してしまうのは、相性とかそういう問題なのかしら?
もうちょっと喧嘩せずに、仲良く出来ないのかなぁ……。
あたしは身を屈め、二人の顔をじっと見つめた。腰に手を当て、眉根を寄せ、怒ってますと見るからに強調してみせる。
あたしが怒っていることに気付き、しゅんと大人しくなった二人が揃って頭を下げる。
「ごめんなさい、先生」
「ごめんなさい。……イングリドのせいよ」
「どうしてよ!? ヘルミーナが悪いんでしょ!」
「イングリドが突っかかってくるからじゃないの!」
ああ、もう……言った傍からまた始まっちゃうし。
そして二人を宥めすかし、時には叱りながらも、なんとか一時間後にはお菓子が完成。
今回作ったお菓子の名前は、ショートブレット。材料が簡単に手に入り、子どもでも手軽に作れて、尚且つ美味しいというバタークッキーだ。サクサクした食感と、しつこすぎない甘みがクセになる一品。紅茶と一緒に頂くと、堪らなく幸せな気分になれるお菓子だ。
一人では全部を一度に持ちきれないので、イングリドとヘルミーナにも運ぶのを手伝ってもらう。真っ白なお皿に焼きあがったショートブレットを乗せ、お揃いのティーセットに紅茶を入れ、台所から居間へ移動する。
香りに気付いてか、アルトが読み耽っていた本から顔を上げた。
「俺の分は?」
「用意してあるわよ。泣いて感謝しなさい」
「ありがとう、イングリド。ヘルミーナ」
「…………」
あたしに対してはないんかい、と怒りそうになるが我慢我慢。昨夜からどうにもイングリドがあたし達相手に敏感になっていて、喧嘩でもしようものなら途端に泣き出しそうになるからね。そんなのはいつものことなのに、不安定な状態の彼女にとっては違うらしい。
数日も経てば落ち着くとは思うけど、まだしばらくは刺激しないように気を付ける必要があるだろう。
「はい、アルト先生。まだ少し熱いので気をつけてくださいね」
「ありがとう、ヘルミーナ。美味しそうに出来たね。二人も手伝ったのかい?」
「リリー先生に教えてもらいながら作りました」
「そっちがヘルミーナの作ったもので、こっちが私が作ったものよ」
ふふん、と胸を張って誇らしげに笑うイングリド。それに対抗してか、自分の作ったお菓子が乗った方を、そっとアルトの手元に寄せるヘルミーナ。
それを横目に、あたしはアルトの対面に移動しながら紅茶を人数分カップに注ぐ。茶葉はあらかじめ全部こし取ってしまってあるので、難しいことを考えずに入れるだけで済む。アルトなんかは邪道だと言うけど、この方がラクなんだからそれでいいじゃないの。
「はい、二人とも座って座って」
「はーい」
あたしが椅子に座って呼び掛けると、すぐ隣の椅子にイングリドが腰掛けた。
そしてヘルミーナは……
「ヘ、ヘルミーナ?」
「ダメですか?」
「いっ、いや、俺は構わないよ。というか、むしろ望むところなんだが……」
うろたえたアルトが、露骨にあたしの顔色を窺う。
まあ、彼が動揺するのも分からないではない。
ヘルミーナはなんと、そこが自分の定位置とばかりに平然とアルトの膝の上に座ったからだ。
行儀が悪いし、何より変態の前に餌を置くようなものだ。
当然、あたしはアルトに――
「まあ、いいんじゃない? アルトが大丈夫なら」
「へっ?」
怒ることはせずに、ショートブレットを一つ摘まんでかじる。
うん、久しぶりに作ったからちょっと不安だったけど、腕が落ちていないようで何よりだ。ケントニスにいた頃は割と頻繁にお菓子を作っていたのだけど、ザールブルグに来てからは中々趣味の時間を取れなかったからね。
「お、怒らないのか?」
まるで信じられないものを目にしたかのような形相で慄くアルト。
おいこら、そこまであたしが怒らないのはおかしなことなの?
……おかしなことかもしれない。
自分で納得してしまった。
でも、これも昨夜自分なりに考えた結果なのだ。
「怒らないわよ、別にそのくらいのことで」
「そうか!」
「口移しで食べさせてくれ、なんて限度を弁えないこと言わなければね」
「じゃあ、ヘルミーナ口移しで――な、なんだと!?」
先回りして注意しておくと、正にその言葉通りの発言をしようとしたアルトが仰天した。
分かり安すぎる。
気を取り直したアルトがショートブレットを手に取ろうとして、ヘルミーナとイングリドの顔を交互に見ながら硬直する。どっちのを先に食べるべきかで悩んでいるらしい。バカか。
「アルトは疲れているだから休ませてあげなさいって、ヘルミーナにも言ったんだけどね」
「別に問題ないだろ、このくらいは。どちらかというと、幸福感のあまりに昇天しそうだ」
「あんまり甘やかすのもどうかと思うわよ?」
「甘やかしているんじゃない。――愛でているんだ」
「無駄にキメ顔で意味分かんないこと言わないでよ」
まったく、と溜め息を吐きながらヘルミーナに視線を移す。
彼女はどこか得意げな顔で、イングリドを斜め上から見下ろして挑発している。
ぐぬぬ、と唸り声を上げたイングリドがちらっと上目遣いにあたしを見上げる。その目線が要求するところは明らかだ。
んー……まあ、今日くらいは我がままもいいかな。
あたしは少し椅子を引き、膝の上を空けてイングリドに手招きした。嬉しそうにイングリドがあたしの膝の上によじ登る。
「ふん、お前だって同じことをしているじゃないか」
「あたしはいいのよ、あたしは。たまになんだし。アルトはいつもでしょ。せっかく、人が疲れているだろうと気遣ってあげたってのに、あんたときたら」
「いらん気遣いだ。お前の方こそ病み上がりなんだから大人しくしていろ。……んんっ、美味しい! 香りといい食感といい、こんなに美味しいショートブレットは初めて食べたよ! ヘルミーナは料理が上手だね! イングリドも、きっと良いお嫁さんになれるぞ!」
「本当ですか? 良かったー!」
「ま、まあ。当然よね、私が作ったんだし。たくさんあるから、もっと食べていいわよ?」
なによ、人の気も知らないで好き勝手言って。
不満を紅茶を飲むことで紛らわし、口論を終える。あまりやり過ぎるとまたイングリドが泣き出してしまいかねないし、それはアルトも承知しているはずだ。だからこそ、急に話題を変えたんだろう。
……それに、彼のすることに一々口出しをし過ぎたかなとも思うのよね。
アルトが二人に接することに対して、今までのあたしは過剰に反応しすぎだったかもしれない。
昨日の出来事から考えて、アルトが二人のことを大切に……それこそ自分のことよりも大切に思っているのは、確かだ。二人を傷つけるようなことはしない、そう本心から信じられた。
だから、あたしも多少は融通を利かせようと思う。今までは、どうしても変態から守らなくちゃって警戒心の方が強かったけど。
ああもちろん、アルトの性癖に関しては別問題。そこに関しては今まで通りだ。いくらアルトが二人を大事に思っていようとも、一線を越えようというのなら、実力行使で止める覚悟だ。
「ねえ、アルト。ふと気になったんだけど」
でも、だからこそ気になることがある。アルトが二人を大事に思うのなら、尚更。
自分が作ったショートブレットを仲良く食べさせっこしている二人の頭の上で、アルトと静かに会話を交わす。
「ヘルミーナの身体を治す調合品って、あんたなら作れるんじゃないの? どうして作らないの? まさか……」
「おい。俺が彼女の世話をしたいがために見過ごしているとでも思っているのか? そんなわけないだろ。見損なうなよ」
「誰もそこまで言っていないでしょ。そんなこと欠片も思っていないわよ」
さすがにそんな思い違いをするほど、あんたを理解していないわけじゃない。
ジロッと睨みつけてくるアルトに、ジトッとした視線で見つめ返す。
「ただ、治療が難しいようなものなのかと……思っただけよ」
口にした後で、もしそうならヘルミーナがいる前で出す話題じゃなかったなと後悔(その当事者は全然気にした様子もなく、美味しそうに次から次へと舌鼓を打っているけど)。
けれど、この場合は良い意味で予想を外していたようだ。アルトから、それは違うと短く否定の答えが返って来た。
「ただの運動不足と先天的な体質の問題だ」
「じゃあ、どうして治さないの? 調合品で一発でしょ?」
天才とまで言われるアルトなのだから、それこそ鼻歌交じりに作ってしまっても不思議ではないのに。それとも、素材が滅多に手に入らないような代物なの?
「俺だったら作ることは可能だ。調合に必要になる素材も、そこまで入手が難しい物ではない」
あたしの考えていることが分かったかのような答えを返すアルト。その顔はなんだか気難しげにしかめられ、どうやら彼自身ヘルミーナのことで悩んでいるらしいとあたしに思わせた。
「不老長寿の薬、奇跡の薬などと称えられる『エリキシル剤』なら、間違いなくヘルミーナの身体を健康に出来るだろう」
「……そうしない理由があるの?」
「今から言うのは、あくまで俺個人の考え方だ。錬金術士は皆そう考えるべきだ、と思っているわけじゃないぞ」
いいか? と確認するように聞いてくるアルトに黙って頷きを返す。
「治すのは簡単だ。でも、それが本当に良い未来に繋がるかどうかは分からないだろ?」
「どういうこと?」
「例えば、だ。自分の筋力を増加させる調合品を俺が作るとしよう。そして、一人の冒険者にそれを与えた場合、彼はたぶん喜ぶだろう。一瞬で今までの自分よりも強くなれるわけだからな」
「それは、そうね。そう思うわ」
「しかし、その結果どうなると思う?」
「んー、今までより強い相手を倒せるようになったんでしょう? 良いことじゃないの?」
「それが自らの実力で手に入れた力なら、な。しかし、そうやって安易に手に入れた力はその身を滅ぼすよ、きっとな。調子に乗って身の丈に合わない相手を戦い、自滅するのがオチだ」
「そういうものなの?」
「自分の身に置き換えて想像し辛いなら、大金を手に入れた場合で考えたらどうだ? 例えば、このショートブレット。これがひょんなことから銀貨一千枚で売れたと考えよう。そうして手に入れたお金を、お前はきちんと考えて正しいことに使うことが出来るか?」
「うーん……」
「……いや、お前だったら間違えずに使えるか。これは俺の質問が間違えていたな」
どうだろう? 今のあたしだったらアカデミー建立に使うと思うけど、でもそれってきちんと考えた上でのこと? 状況が状況なだけに、他に選択肢がないっていうのもあると思う。
それに、もし他の状況だったらあたしは自分の好きなことに使っていたかもしれない。普段は高くて手が届かない衣服を試してみたり、高価な器材や参考書を買い漁ってみたり。否定してくれたアルトには悪いけど、さすがにそれは買い被りだ。
「少し話が逸れてしまったが、結果に予想が付かない以上、時間は掛かっても自分の力で治させる方が確実だろう。安易に調合した結果の失敗なんていうのは、二度と経験したくないからな」
アルトが言外に、彼自身の過ちを匂わせたのに気付く。彼はきっと、こうして今までに何度も自分を諌めているのだろう。簡単に手に入るからといって、安易に手を伸ばさないように。
失敗を教訓に次へ生かす。言葉にすれば簡単だけど、誰だって自分の苦い失敗なんて見直したくはないものだ。その後悔が大きければ大きいほどに。
それでも、こうして実際に体言してみせるアルトを見ていると、なんかこう、グッと来るものがある。
もちろん、一人の錬金術士としてだ。錬金術士としてなら見習うべき箇所が多々あるのだ、この男は。人間としてはどうかと思うけど。
「まあ、そういう理由だよ。これで、納得出来たか?」
「ええ、もちろん。少なくとも、あたしはあんたの意見に賛成よ。ヘルミーナの将来に関わることなんだし、慎重なくらいで丁度良いと思うわ」
「とはいえ、当の本人がもっと外に出たいと望まないと話は始まらないんだがな」
困ったような表情を浮かべつつ、ヘルミーナの髪をさらりと撫でる。
突然、頭を撫でられた意味が分からず、きょとんとした表情を浮かべでアルトを見上げるヘルミーナ。でもすぐに、見ているこっちまで幸せになるほどに寛いだ表情で微笑み掛けた。
……あー、はいはい。イングリドもしてあげるから、そんな露骨な視線で見ないの。
アルトのせいで、二人に変なクセでもついたらどうしてくれるんだか。
「読書をすることが悪いとは言わん。知識が深まるのは良いことだし、俺自身も趣味は同じだしな。ただ、これからはもう少し積極的に外出するようにしないとかもな」
「そうね。今後も素材収集するために、外出する機会が増えるわけだし」
ヘルミーナが昨日体調を崩したという話は、既にアルトから聞いて知っている。アルトがきちんとヘルミーナに叱ってみせたことも。体調が悪くなったら隠さないように、ときちんと言い聞かせたらしい。
あたしが言わなくちゃかな、と思っていたので、ちょっと驚いた。いつもそうならあたしも苦労しなくて済むのに、と思ってしまうのは贅沢だろうか?
「取り合えずの目標は、外に出ても体調を崩さない程度にはしたいな。アトリエで調合を教えながら、空いた時間でストレッチや散歩を日課に組み入れてみるのはどうだ? 遊びの要素を取り入れて、一緒に楽しみながらやれば嫌がりはしないだろ」
「あんたって、そういうところは本当ソツがないわよね」
「女心が分かる男だからな」
この場合は子ども心じゃないの、とは思うが言葉には出さない。十二歳より上は見る価値すらないと言い切る相手に、正論を言ってもあたしが疲れるだけだしね。もう諦めた。
「アルト先生、これからどこかへお出掛けに行くんですか?」
「ん? 今日か?」
「はい」
断片的に話を聞いていたのか、ヘルミーナがちょっとズレたことを尋ねた。聞かれたアルトがどうしたものか、とこちらに視線を投げて問い掛けてくる。
「あまり遠くには行けないわよ?」
時間的にもそろそろお昼になってしまうし、体調的にもあまり無理はさせたくない。
けれど、せっかくヘルミーナが外出したがっているというのに、それを諦めさせるのも……。
あたしが行き先を考えていると、アルトが何かを思いついたようだ。日が暮れる前に帰れればいいよな、とあたしに確認してきたので頷いておく。
「じゃあ、街外れにある空き地に行かないか? あそこなら距離的にも丁度良いだろ」
「空き地? えーと……、どこの?」
「ザールブルグに来た時、お前達と別行動をしたのを覚えていないか? その時に待ってもらった場所だ。どうやら、その場所がアカデミー建設予定地に決まったようで、早ければ来週にでも工事が始まるらしい。だから、空き地として使える今のうちに、一度行ってみるのもいいかと思うんだが」
どうだ? と同意を求めるアルト。
あたしはイングリドとヘルミーナの何かを期待するような視線を受け、深く考える間もなく、頷いた。アルトの言う通り、そのくらいなら丁度良いしね。建設が始まったら気軽に入ることも出来なくなるし、最後に見納めとして行くのも悪くないでしょ。
途端に、イングリドとヘルミーナがピクニックだーと喜んで歓声を上げる。お出掛けの支度をするためにか、さっそく騒がしく階段を駆け上がっていった。
ああ……ドルニエ先生ごめんなさい。お休み中なのに邪魔するようなことしちゃって。
「喧嘩していたかと思ったら、あれだもんな。もうちょっと素直に仲良くしたらいいのに」
「そうよねぇ。お互いに好きなのは分かっているんだから」
やれやれ、とアルトと二人で同じような感想を言い合う。さすがにもう、あの子ども特有の高いテンションにはついていけないわね。
本当はもうちょっとゆっくりしていたいところだけど、そうもいかないか。出掛けるとなれば、色々と用意しなくちゃならないしね。
カップに残った紅茶を一息に飲み干し、椅子から立ち上がる。同じように席を立ったアルトへお皿を手渡し、台所へ移動する。
「片付けくらいは手伝ってよね」
「言われんでもそのくらいはやる。それより、昼食はどうする? あの様子だと、二人とも今すぐにでも出掛けるつもりだぞ」
「そうねぇ……。ドルニエ先生がどうするかによるけど、どの道、向こうで食べられるようなものを作らないとよね? 今からじゃ、あまり凝ったものは作れないけど」
「そうするしかないか。出来合いのものを買ってもいいが、それじゃ味気無いしな」
「あっ、そうだ。せっかくだし、あんたが前にイングリドの誕生日に作ったやつ教えてよ。あの甘くてふわっとしてトロトロのやつ」
「ああ、あれのことか。まあいいが……、じゃあ代わりにあれ作れよ。あのピリッとする辛さのやつ。ソースが好きなんだよな、あれ。独特の味わいがあってクセになる」
「いいけど、あれお酒のおつまみ用の物なんだけど。お父さんが好きで良く作ったのよねぇ」
そうして、あたし達はイングリドとヘルミーナの期待に応えるべくアイデアを出し合って、美味しい昼食を二人並んで作るのだった。
早く早くと急かすイングリドとヘルミーナの二人が乱入してくるまでは。
結局、今日はそんな風に休んでいるんだかいないんだか分からないような慌しい休日になりそうだ。
でも……こんななんでもないような一日が、すごく嬉しいと感じるあたしがいる。
ザールブルグで初めてしてしまった大失敗の翌日。
そんな風にして、あたしの一日は過ぎていった。