アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人)   作:四季マコト

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閑話 草原

 ザールブルグの南西、広大な面積の大半を草木に覆われた空き地がある。

 おそらく、元々は貴族の屋敷でも建っていたのだろう。

 イングリドは周囲を確認しながら、そう考えた。推測の根拠である建物の基礎部分や壁面らしき建材などが、むき出しのままさらされているのが目に入る。

 随分と長い期間、この場所は人々の営みから忘れ去られていたようだ。隅の方には多数の正体不明のガラクタや何かが、つる草に覆われるがままになっている。

 もっとも、その放置されっぷりのおかげで、こうして自分達は誰に遠慮することなく走り回ることが出来ているのだが。

 

「待って、イングリド……! ちょっと、もう限界ぃ……」

「バカ言ってないで、もっと早く走りなさいよヘルミーナ!」

 

 背後からの情けない悲鳴を耳に、イングリドは仕方なく走る速度を緩めた。走る最中に喋るから余計に辛くなるのだが、それを相手に指摘する気はない。言ったところで、無駄な反感を買うだけと、これまでの経験から分かりきっていたからだ。

 

「む……無茶、言わないでよ。これ、でも……全力、だって、ば!」

 

 案の定、減らず口を叩いて寄越すヘルミーナ。

 イングリドは若干の呆れと苛立ちを覚えながら足を止めた。

 やれやれとその場で身を返すと、幼馴染の少女がひいひい言いながら駆けて――いや、歩いてくるのが目に入った。本人的には精一杯走っているつもりなのかもしれないが、まるで地を這うようなソレをお世辞にも走るとは言い難い。

 ヘルミーナは一目見て分かるほどに疲労困憊、体力の限界、無様な芋虫といった有様だ。言いだしっぺがいの一番に音を上げるとは何事か。体力不足といえども、ここまで壊滅的に酷いともはや開いた口が塞がらない。

 

「…………」

 

 腕組みをしたまま、ヘルミーナが追いつくのを待つことしばし。

 遅々とした歩みのヘルミーナが追いつくよりも先に、イングリドに我慢の限界が訪れる方が早かった。少なからず自覚しているのだが、イングリドはあまり待つのが得意ではない。

 

「あーっ、もう! 仕方ないわね!」

 

 すぐさまヘルミーナに走り寄ると、その手をぐいっと力強く引っ張った。彼女が追いつくのを待っていたのでは、あっという間に後ろから追いつかれてしまう。

 これだから、体力皆無の万年不健康の陰険根暗女は。

 イングリドはこれみよがしに溜め息をついてみせた。

 こっちは追いかけっこという単語のせいで無駄に萎縮したというのに、当の張本人がこれでは文句も言えない。とはいえ、実際に走り出したら昨日の失敗なんて綺麗さっぱり忘れていて、感じた不安はただの杞憂に過ぎなかったのだが。

 

「もうだめ、もう限界! ほんと死んじゃう……」

 

 息も絶え絶えに泣き言を繰り返すヘルミーナ。

 そんな彼女をちらりと見て、イングリドの心に潜む悪魔がひょいと顔を覗かせる。

 ふむふむなるほど、そんなに辛いのか――ならもうちょっとこの状態のままでいさせておくのもありか? 日頃のいけ好かない彼女の態度を思い出し、そんなことをふと思う。

 ――が。もちろん、思うだけだ。

 正直、すぐ後ろで今にも死にそうな状態で走られるというのは気分が悪い。

 素早く周囲の地形の確認を済ませ、休めそうな場所の目星をつける。

 ちょうど進路の先に、いい感じに木々が生い茂っている一角があるのを発見。この木陰なら、背後からは十分に身を隠せられそうだ。

 

「仕方ないわねぇ。ちょっと、ここで休みましょうか」

「ほんっと、だめ。疲れたぁ……。もう、一歩も動けないわ。いいえ、動かないわ!」

「何バカなこと力強く言い切ってんのよ。少し休んだら、またすぐ移動するわよ」

 

 おしりをついて地面にへたりこむヘルミーナをよそに、ちらと背後を確認する。

 ……よし、今のところは大丈夫そうだ。まだ向こうとの距離は結構ある。この分なら多少、ゆっくりと休んでも余裕はありそうだ。

 ヘルミーナの隣へ腰を落とし、背中を樹の幹に預けて一息つく。

 身体を休めると、途端に先ほどのムカムカとした感情がぶり返した。

 

「だいたい、ヘルミーナが最初にやりたいって言い出したんでしょ。もうちょっと頑張りなさいよね。せっかく、わざわざ付き合ってあげてるのに」

「それはそうだけど……、ていうか自分だって外出には乗り気だったくせに、恩着せがましく言わないでよね!」

「なによぉ! そっちが先に文句言ってきたんじゃないの!」

「文句なんて言ってないわよ! 疲れたって言っただけでしょ!」

「それを文句って言うんでしょ!」

「ただの感想じゃない!」

 

 むむむ、とにらみ合い火花を散らせる。

 ああ言えばこう言う。ほんと、口だけは達者なのが余計に腹立たしい。

 我慢比べから先に目線を逸らしたのはヘルミーナだ。私の勝ちね、とイングリドがふふんと余裕の笑みを浮かべる。

 

「……調子」

「?」

「調子、戻ったの?」

「え? 誰が?」

「あんたがよ。昨夜から様子、変だったし」

 

 そっぽを向いたまま出し抜けに言われ、イングリドは思わず頭の中が真っ白になった。

 様子が変だった、といわれて思い当たるのは、昨夜からの自分の姿だ。

 アルトとリリーが争う姿を見る度に、みっともなく取り乱して泣き喚くといった、まるで小さな子どもみたいな失態を演じてしまった。

 今ではもうだいぶ落ち着いてきたが、それでも二人が喧嘩する姿を見る度に、不安な気持ちになるのを止められない自分がいる。理由は分からない。何かが胸の奥でざわついて、自分の感情を制御出来なくなる。

 そんな不安定な状態でいるのを、他でもないヘルミーナに気付かれていた。

 その事実を認識して、羞恥に顔を赤らめる。

 知られたくなかった。何かにつけて張り合う関係だからこそ、こんな自分の弱みを知られたら何を言われるかなんて分かったものではない。

 

「あ、あんたの方こそ変じゃないの! 自分から外で遊ぼうだなんて!」

 

 咄嗟に話題を変えたのは、見栄のせいだ。馬鹿にされるにせよ、同情されるにせよ、まっぴらごめんだ。対等な相手だからこそ、そんなことで気遣われたくはなかった。

 もっとも、どう考えても不自然な話題変更だった感は否めないが。

 誤魔化すにしてももうちょっと他にあるでしょ、とイングリドは自らの頭を抱え込みたくなった。

 不幸中の幸いというべきか、ヘルミーナは挙動不審なイングリドに気付かなかったらしい。どこか上の空の様子で曖昧に頷く。

 

「別に、遊びが目的なわけじゃないわよ。まあ久しぶりだし? 楽しいのは否定しないけれど」

「どういう意味?」

「身体が動かせれば何でも良かったのよ」

 

 要領を得ない返答に、イングリドは首を傾げた。いつも理路整然とふてぶてしく詭弁を並び立てるヘルミーナらしくない説明だ。

 イングリドが無言で話の続きを催促すると、ヘルミーナは何かを躊躇うような仕種を見せた。

 そんな彼女をイングリドはさらに無言で、じーっと見つめる。ここまで話したのだから、きちんと最後まで話してもらわないと据わりが悪い。

 

「……最近、ちょっと失敗したのよ」

 

 観念したようにぽつりとこぼれたセリフは、語るヘルミーナの表情からして苦い思い出らしい。話題が変わればなんでもいいか、とイングリドは話を聞く態勢に入った。それに、彼女がいったいどんな失敗を仕出かしたのか、気になるところではある。

 

「出先で疲れているのを無理に我慢していたら、いきなり倒れちゃったの」

「ふーん……それで?」

「帰ってきてから、アルト先生に初めて叱られたわ」

「ぶたれたの!?」

「そんなことされるわけないでしょ! アルト先生、優しいもの!」

 

 驚いて声を上げると、ヘルミーナが血相を変えて言い返した。疲労で青ざめていたその顔が、見る見るうちに怒りで真っ赤に染まっていく。

 もちろん、アルトが優しいなんてことはイングリドだって知っている。いつどんな時だって、自分達に優しく接してくれるのが彼という人間だ。

 アルトが喧嘩するのは(どうして彼女だけ例外なのか)リリーだけで、イングリドは今ままで一度も叱られたことはおろか、声を荒げられたことすらない。

 だからこそ、そのアルトにヘルミーナが叱られたと聞いて仰天したのだ。

 

「でも、叱られたんでしょ?」

「そっ……、そうよ! 体調が悪い時はすぐ言うように、って約束させられたわ」

「ていうか、なんで黙ってたのよ? 素直に言えば良かったじゃない」

「……イングリドには分からないわ。体調崩すなんてこと滅多にないんだから」

 

 突き放すような言い方をされ、瞬時にイングリドの頭に血が上る。

 

「なっ、なによそれ!」

「わたし、すぐ疲れるもの。ちょっと動けば熱が出るし、体調を崩すことなんていつものことだわ。だからその度に休憩してもらって……、そんな風に足手まといになる自分が嫌だったのよ」

 

 心底悔しそうに言うヘルミーナを前に、イングリドはそれ以上文句を言う気になれなかった。

 事実、ヘルミーナは頻繁に体調を崩す。それこそ、またかの一言で済んでしまえるくらいに。

 季節の変わり目なんかは毎年のように風邪を引くし、ちょっと運動した翌日に疲労で寝込むなんてことも珍しくない。

 ベッドで寝込む彼女を目にする度、なんて軟弱なヤツだなんて思っていたが、ヘルミーナはヘルミーナなりに思うところが合ったらしい。

 

「結局、余計に迷惑掛けちゃったけど」

「そんなにキツく言われたの?」

「そうじゃないわ。……そうじゃないの」

 

 目に見えて落ち込んだ様子のイングリドに、これはかなり絞られたんだろうな、と思って聞くと、予想に反して否定の言葉が返って来た。

 

「とても辛そうな顔して言うんだもの、アルト先生」

「そうなの?」

「叱っている本人の方が辛そうな顔をするのよ? あんな顔、アルト先生にして欲しくないわ」

 

 あんな顔と言われても、見たことがないイングリドには想像もつかない。

 でも、ヘルミーナがそう言うからには余程なんだろう。

 

「だから、少しでも元気にならなくちゃって。体調を崩すことの方が珍しくなれば、アルト先生に心配を掛けることも少なくなるでしょう?」

 

 そうね、と頷きを返す。

 ヘルミーナの方から外出したがるなんて珍しいこともあるものだと思ったけど、そういう事情があるのならば納得だ。理由の大半がアルトな辺り、ヘルミーナも大概だとは思うけど。

 でもそれも仕方がないことか、とイングリドは内心で苦笑する。

 だって、ヘルミーナは恋もまだしたことがないようなお子様だし。身内への好意と特定の異性への好意の区別がついていないのだから。

 その点、素敵な大人の男性相手に恋をする、自分のような大人の女性とは違うのだ。

 そう、イングリドはとある男性に恋をしている。

 ――二人の出会いは偶然だった。いや、これは既に運命だったといってもいいだろう。

 その日、イングリドはリリーに頼まれてちょっとしたお使いに出掛けることになった。アトリエの看板の作成依頼を製鉄工房に聞いてくるだけの、至って簡単なお仕事だ。

 首尾よく用事を済ませ、あとは自宅に戻るだけとなった帰り道。

 せっかく出掛けたのにこのまますぐに帰るのも、なんだかもったいないような気がする。

 そう思い――思うと同時に行動するのがイングリドだ。目に入ったお店で小物や衣服なんかを見て回ったり、普段は通らないような細い道を歩いてみたり。まだザールブルグに引っ越してきて日が浅いせいもあり、イングリドの興味を惹くようなものは多い。

 そうして気の向くままにあちこちを渡り歩いて――ふと気付けば、自分が今どこにいるのかが分からなくなっていた。端的に言うと、迷子になった。

 この年になって、さすがにそれはない。

 真っ先に思ったのが、そんな感想だった。

 道行く誰かに尋ねるには恥じらいと自尊心が邪魔をして。

 けれど、闇雲に歩いたところで今よりも悪化する可能性は高く。

 イングリドは途方に暮れた。

 ザールブルグという都市は、子どもの足で闇雲に歩き回るには大きすぎる。

 そんな時だ。

 ――何かお困りですか?

 そんな風に優しく声を掛けてくれたのが、彼だった。

 清潔感のある真っ白なローブに身を包んだ、温和な顔立ちの黒髪の男性。見慣れぬその格好から、おそらく教会の神父様だろうとイングリドは予測を立てた。

 彼の申し出は願ってもない絶好の助け舟だったが、イングリドは躊躇した。

 誰であれ、今の自分が迷子だと知られるのは嫌だったからだ。子ども扱いなんてされるくらいなら、なんとしてでも自力で帰ってやると内心で息巻く。

 けれど、彼はそんなイングリドの態度に嫌な顔をするでもなく、それどころか体面を傷つけないよう気遣った口調で事情を聞いてくれた。

 だからこそ、イングリドも反発することなく、彼が自宅へ向かう途中まで道案内するという提案をすんなり受け入れられたのだ。

 別れ際、気恥ずかしさからお礼の言葉を口に出来ないイングリドの胸中を慮ってか、名前も言わずに穏やかな笑顔のまま去っていった素敵な男性。

 もちろん、後日きちんとお礼を言いに行った際に、その名前はきちんと確認済みだ。

 愛しの彼の名前は――

 

「つーかまーえたっ!」

「――ッ!?」

 

 不意に右腕をつかまれ、桃色めいた思考が停止する。

 慌てて声のした方へ振り向くと、そこにいたのは自分達の兄弟子であり、先生であり、保護者であるところの男性、アルトだった。

 付け加えて言えば、今は追いかけっこの最中で、彼からヘルミーナと二人であちこち逃げ回っていたのだった。

 いったい、いつの間に――と思った直後、その答えに辿り着く。こちらが身を隠すために利用した樹を迂回して、死角から密かに走り寄って来たのだと。

 まったく、なんて大人気ないひとだ。あの人とは大違い。

 ともあれ、つかまってしまったので遊びは終了だ。もう少し逃げ回れるかと思ったけど、ヘルミーナが足手まといだったのだから仕方がない。

 決して、物思いに耽るあまり今が遊んでいる最中だったということすら忘れていた自分が悪いのではない。ないったらない。

 

「アルト先生ひどい! どうして、イングリドを先につかまえるんですか!?」

 

 ヘルミーナが立ち上がるや否や、アルトへ猛然と食って掛かる。おいこら、さっきまで死に掛けていたのにその元気はどこから出た。 

 ヘルミーナの勢いに気圧されたアルトが、あたふたとイングリドから手を離す。

 

「えっ? ど、どうしてって……何が、どうしてなんだい?」

「だから! どうして、わたしじゃなくてイングリドなんですか!」

「えええええッ!? だから、それは、その」

 

 近かったから、とあまりにもそのまますぎる答えを返すアルト。

 ダメだ。ダメダメすぎる。そんな答えでは落第点。彼はもう少し、女心の機微というものを理解した方がいい。

 イングリドは巻き込まれては堪らないとばかりに、こっそりとアルトの傍を離れた。

 アルトの残念な回答を耳にしたヘルミーナが案の定、不機嫌そうにぷうと頬を膨らませる。こうなったら最後、この女はいつまでもネチネチと根に持って面倒臭いのだ。忘れた頃にグサリと突き刺してくる陰湿さがあるので手に負えない。

 到底付き合っていられないので、イングリドはあっさりアルトを見捨ててその場を離れることにした。とばっちりを受けたら堪ったものではない。

 すると、ちょうど良いタイミングでリリーが近付いてくるのに出くわした。その片手には、出掛ける前から気になっていたバスケットと水筒が吊り下げられている。

 

「みんなー、そろそろ昼食に……って何してんの、アルト?」

「リリー!? いや待て誤解だ! 俺は何もしていない! だから落ち着け!」

 

 冷めた視線で見つめるリリーを前に、血相を変えて言い訳するアルト。自分を放っておくアルトを見て、益々機嫌が悪くなるヘルミーナ。そして、すっかり蚊帳の外のイングリド。

 見た限り、リリーは呆れているだけで怒っているわけではないはずだ。それなのにそんな態度を取ったら、何かあるんじゃないかと疑われても仕方がないと思う。

 アルトの情けない取り乱しっぷりを目に、イングリドの彼への評価がぐんぐんと下がっていく。これでは大人の男性とはとても言えない。思い人の落ち着いた大人の男性といった態度とは大違いだ。

 

「誤解も何も、どうせあんたが何かヘルミーナを怒らせるようなことでもしたんでしょ?」

「おい、ちょっと待て! それは聞き捨てならないぞ。俺がヘルミーナを怒らせるようなことするわけないだろ!」

「じゃあ、なんであんなに分かりやすく、むくれているのよ」

 

 うっ、と図星をつかれたアルトが反射的に何かを言い返そうとして――くるりと回ってヘルミーナにぎこちなく笑いかけた。

 

「お、怒ってないよね? ヘルミーナ?」

「はい、怒っていません」

 

 どう見ても怒っていますといった仏頂面でヘルミーナが言った。

 

「うっ……! ヘ、ヘルミーナ、ごめん! 俺が悪かった! ほら、今度はヘルミーナを先につかまえるから!」

「別に、いいですし。どっちでも」

 

 どっちでも良いなんて欠片も思っていない様子でヘルミーナが答える。

 取り付く島もないとはこのことだろう。

 甘いお菓子だの可愛い衣服だの新しい絵本だの何だのと、ヘルミーナの機嫌を直そうと必死にアルトが提案するも、効果は今ひとつ。つーん、とそっぽを向いてアルトを無視し続けるヘルミーナ。

 だが、イングリドは気付いていた。態度と表情こそ未だに怒っているアピールしているものの、彼女の唇の端は嬉しそうに上がっていることに。とどのつまり、この女はアルトがこうやって自分に構ってくれるだけで十分嬉しいのだ。性格が悪い上に、本当に面倒臭い女だ。

 隣のリリーの様子を窺うと、彼女もそのことに気付いているのか苦笑していた。

 知らぬは、アルトばかり。彼に真実を告げ口すると後で面倒なことになるので、イングリドもリリーに習って沈黙を保つことにした。

 

「うう、いったいどうしたら……そ、そうだ! ヘルミーナ、今から楽しいことをしてあげるよ! 軽く両足を広げてみてくれないかい?」

「? こうですか?」

「そう、そのままじっとしてて」

 

 進退窮まったアルトが、良い事を思いついたとばかりに妙な事を提案する。

 意味不明な内容ながらも、彼に言われるがまま従うヘルミーナ。

 アルトは彼女の背後に移動すると、腰を屈め、

 

「アルト、あんたまさか――」

「なんだよ?」

「……ううん、やっぱりなんでもない」

 

 リリーが何か言おうとしたものの、途中で気が変わったのか何も言わずに首を振った。アルトがこれから何をするつもりなのか分かったのだろうか?

 アルトは怪訝そうな顔をしつつも、ヘルミーナの両足の間に頭を突っ込んだ。そして優しく、けれど離さない程度に彼女の両足をつかむ。

 

「アルト先生?」

「ヘルミーナ、俺の頭に手を当てて。しっかり持っててね」

「はっ、はい!」

 

 いったい何をするつもりなのかと見守る先、ヘルミーナの様子を確認したアルトがぐっと力を込めた次の瞬間。

 

「うっわぁぁぁぁ! すごい、すっごーい!」

 

 ぐんっ、とアルトが背筋を伸ばす勢いのまま、ヘルミーナが急上昇する。アルトの肩に担がれた状態となったヘルミーナが、見上げる位置からしきりに興奮した声を上げる。

 そんな二人を下から見上げ、イングリドはやれやれと溜め息を吐いた。

 何をするのかと思えば、こんなこととは。

 時折、小さな子が父親にああやってされているのを見たことがある。生憎と、自らの父親という存在を見たことすらないイングリドは体験したことがないけど。

 子どもみたいにはしゃいじゃってバカみたい、とイングリドはすっかり満面の笑顔となったヘルミーナを見上げる。今回はアルトの作戦勝ちといったところか。

 どうしてあんなに喜べるのか気が知れない。

 イングリドはつまらなそうに、はしゃぎ回る二人を見る。

 あんなのまったく面白そうには思えないし、ちっとも興味なんてない。そもそも淑女である自分は、あんな子ども騙しなんて全然楽しそうには見えないのだ。だいたい、ヘルミーナはあんな格好して恥ずかしくないのだろうか。まあ、子どものヘルミーナにはピッタリだけど。

 そんな風に見つめるイングリドの気なんて知らずに、しばらくの間、ヘルミーナはアルトにあれこれ指図して、ぐるぐる回ったり、走ったりしてもらっていた。

 いつまでやっているつもりなのか、とイングリドが段々イライラし始めていると、不意にその頭をそっと撫でられた。リリーだ。

 見上げるイングリドと視線を一度合わせると、リリーは顔を上げてアルトの名前を呼んだ。それに気付いたアルトがこちらを振り向く。

 

「なんだ? 俺は今、素晴らしく幸せな空気を満喫している真っ最中なんだが」

「あんたはいつでもイイ空気吸ってんでしょうが」

 

 言いながら、リリーが再度イングリドの頭を優しく撫でる。

 すると、こちらを見ていたアルトが何かに気付いたようだ。

 走って戻ってくると、ヘルミーナに一言断りを入れてから、膝をついて彼女をゆっくりと地面に下ろした。そうそう、いつまでもそんなことをしていたらお昼も食べられないじゃない。良く気付いたわ、とイングリドはうんうん頷いて見せた。

 まだだの、もうちょっとだのと不満を垂れているバカは見ない方向で。

 

「じゃあ、次はイングリドの番だね」

 

 腰を屈めたままの姿勢でアルトが言った。

 えっ、と瞬きをするイングリド。別に自分はして欲しいだなんて一言も言っていないし、そんなこと思ってもいないのだけど。

 瞬間、その背中をぽんとリリーに優しく押された。その勢いのまま数歩進み、アルトの前で立ち止まる。

 

「な、なんで私がそんなこと……」

「俺がしてあげたいからだよ。大丈夫、何も怖くなんてないぞ?」

「べ、別に怖がってなんかいないわよ!」

「なら良かった。ほら、ゆっくりと片足ずつ俺の肩にまたがって」

「ふ、ふん! アルトがそこまで言うなら……仕方ないわね!」

 

 不承不承、仕方なくといった返事をしながらイングリドがアルトの指示に従う。

 

「えー!? イングリド、ずっるーい!」

「ヘルミーナ~? そういう意地悪なこと言ってると、ヘルミーナだけお昼無しよ?」

「ぐぬぬ……」

 

 リリーとヘルミーナが何やら騒いでいる間に、準備完了。

 アルトの頭をしっかり持ち、姿勢が崩れて落ちないようにする。

 

「それじゃ、準備はいいかい?」

「い、いつでもいいわよ」

「よし、それじゃあ……」

 

 よっ、というアルトの掛け声と共に、イングリドの視点が一気に変わった。急激に変わった視界に意識が追いつかない。

 気付けばそこは、別世界。

 普段見慣れない視点からの景色が広がっていた。

 高さが違う。ただそれだけなのに、世界がまるで違って見える。

 

「わぁ……っ!」

 

 知らず、イングリドの口から声が漏れる。

 地面までがすごく遠くて、空までがとても近く感じる。

 あんなにも見上げるほど高かった木が、今ではちょっと手を伸ばせば届きそうなくらいだ。視線を下ろせば、こちらを不満そうな顔で見上げるヘルミーナの顔が目に入る。さらにその下には、走るのに少し邪魔に感じていた草があんなにも小さい。

 不思議な気分、とイングリドはあちこちをきょろきょろ見渡しながらそう思った。もっと高い建物から地面を見下ろしたこともあるのに、今の方がより高さを実感出来ている気がする。

 

「ねえ、アルト、あっち向いて! あっち!」

「了解、お姫様の仰せのままに」

 

 ぐるりと視界が移動すると、普段は見えない位置にあるものまで目に入る。なんだかとても胸がドキドキする。今まで自分が見ていたものが、アルトの視点だと別物のようだ。

 もっともっとたくさんこの景色を満喫したい、とイングリドの胸の奥から欲求が沸いてくる。それは衝動となってイングリドの心を突き動かす。

 

「走ろうか?」

「うん……っ!」

「しっかり捕まってるんだぞ」

 

 アルトが言うや否や、風をびゅんびゅん切って、景色が後ろへと流れていく。馬車に乗っていた時に覗き窓から見た感じに近いが、気持ち良さは段違いだ。走っているのはアルトなのに、まるでイングリド自身がすごい速さで走っているかのような錯覚に陥る。

 自分がとても背が大きくなったような、まるで別の生き物になったかのような。

 見上げていたものを見下ろして、見えなかったものが見えるようになって。

 気付けば、笑い声が止まらなくなっていた。

 楽しくて、楽しくて、何が楽しいのかすらどうでもよくなってしまうくらいに楽しくて。

 あっという間に時間が経っていた。

 そうやって、イングリドの気が済むまで付き合って上げたアルトだが、さすがに肩車を全力で二人分付き合うのは体力的にキツかったのだろうか。イングリドが名残惜しみながら彼の肩から降りると、アルトは額にびっしりと汗を浮かべていた。立ち上がる気力もないのか、座り込んだ姿勢のまま、肩で息をしている。

 リリーが彼にそっと近寄ると、水筒から飲み物を注いでコップを手渡した。

 

「はい、アルト。お疲れ様」

「んっ、ふっ、なん、の、こと、だ……?」

「まともに喋れないくらい疲れてるのに、無理しないでもいいわよ。汗びっしょりじゃないの」

「誰が疲れ、て、なんて……うっ、げほっげほっ! ええいっ、自分で拭けるっつーの!」

「あんたがイイコトした後だから、あたしも感謝してわざわざしてあげてるんでしょ。感謝しなさいよね?」

「お前は今、猛烈に理不尽なことを口にしているぞ!?」

 

 ごくごくと一気飲みしたアルトが、ハンカチ片手に彼の汗を拭くリリー相手に喚き立てる。色々言ってみたところで両手が塞がっている状態なので、結局はリリーにされるがままだ。

 

「アルト……、疲れたの?」

 

 イングリドが不安になって尋ねると、アルトがぎょっとした顔でこちらへ振り向いた。

 バッと元気良く立ち上がると、ぶんぶんと首が取れそうな勢いで横に振る。

 

「疲れてないよ! 全然、疲れてない! 二人と遊んでて疲れるなんて、そんなことあるわけないじゃないか! なんだったら、もう一回やるかい?」

「あんたって本当、心底バカよね」

 

 アルトからコップを受け取ったリリーが半眼でうめく。

 アルトが力強く否定してみせるのを目にして、良かったとイングリドは安心して笑顔で言った。

 

「じゃあ、次はリリー先生の番ね!」

「「…………え?」」

 

 乾いた沈黙の後、期せずしてアルトとリリーの口から同時に困惑の声が出る。

 イングリドは何かおかしなことを言っただろうか、と不安になりつつも、再度同じセリフを繰り返した。

 

「次はリリー先生の番でしょ? リリー先生だけ、まだアルトにしてもらってないんだし」

「えっ、いや、それはそうなんだけど……」

「イ、イングリド? あたしはいいのよ、あたしは」

 

 イングリドは遠慮するリリーに首を振って答えた。

 遠慮する必要はないのだと。

 なぜなら、さっきアルトは疲れていないとはっきり口にしたのだから。

 もし、リリーだけアルトにしてもらえないとしたらそれは――

 

「リリー先生だけ、仲間はずれ?」

「うっ!」

「うっ、じゃないでしょバカアルト!」

「だって、あんなに可愛いんだぞ!? 拒否出来るわけないだろ!」

「理由になってない!」

 

 途端に言い争いを始めてしまう二人。

 自分の言い出したことが原因で、仲違いしてしまう二人。

 それを見ていると、イングリドの中で収まったはずの不安がまた――

 

「わ、分かった! 大丈夫だよ、イングリド。リリーにも肩車するから!」

「そ、そうね! だからそんな顔しないで……ってあんた本気!?」

「当たり前だ。イングリドが望むのなら、それがたとえ針山だろうと、血の池だろうと、釜茹でだろうと、リリーに肩車することだろうと、やってみせるッ!」

「そんな苦行と並べられるほどにイヤなの!?」

「どちらかといえば、そっちのがマシだ」

「そこまでイヤがられるとそれはそれでムカつくわね! いいわよ、やってやろうじゃない!」

「良い度胸だ、全力でやってやる!」

 

 売り言葉に買い言葉といった様子で、二人が合意する。

 イングリドとヘルミーナに持っていたものを手渡すと、リリーがアルトの背後に回る。

 

「いいわね!? 行くわよ!」

「よっしゃ、いつでも来い!」

 

 そこまで気合を入れないでも、と思わないでもないイングリドだったが、二人が仲良くしてくれるならと胸を撫で下ろす。

 

「アルト先生達、別に喧嘩してたわけじゃないわよ?」

 

 呆れたような表情で、いつの間にか隣にいたヘルミーナがぼそっと口にした。

 言っている意味が分からない、とイングリドは首を傾げた。どう見ても先ほどの二人は口論をしていたし、その状況をヘルミーナも目にしていただろうに。

 するとヘルミーナは、ふっと鼻で笑ってあからさまに見下した視線を寄越した。

 

「そんなことも分からないなんて子どもね」

「どういう意味よ!?」

 

 鼻息を荒くして言い返すイングリド。

 ――と。

 

「ひぃぃぃぃっ!?」

 

 今にも取っ組み合いの喧嘩に移行しようとしていた二人の耳に、なんとも情けない声が耳に入った。振り向くと、なぜかリリーがアルトの頭をバシバシ叩いている。

 

「こっ、これ想像以上に怖い! 怖すぎる!」

「暴れんなアホ! 小さい頃、木登りとかしてたんだろ!? だったら、別に怖くないだろ!」

「それはそうなんだけど、そうじゃないのよ!」

「支離滅裂すぎる! いいから落ち着けアホ!」

「あれとこれとは別っていうか、この年になると怖いっていうか――ひゃぁっ!?」

「ぐあっ!? なにしてんだ目をふさぐな、前が見えない!」

「そんなこと言われても、こっちは落ちないようにするので精一杯なのよ!」

「無駄にフラフラ動くからだろうが! 痛ててて! そっちに首は曲がらん!」

 

 あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。

 今にも倒れそうな動きをしているアルトとリリー。

 けれど――と、イングリドは頬を緩めた。

 言っていることは互いに身勝手で、やっていることも目茶苦茶なのに。

 それでも全然倒れる様子もなく、楽しそうに騒いでいる二人。

 思い返せば、今までだってそうだった。

 何か問題事があったとき、なんだかんだ言い争いながらも、結局そのまま解決してしまうのだ。口論というよりは、意見の衝突。あれが二人なりの円滑な会話なのかもしれない。時にはイングリドとヘルミーナが不安に思うほどの時もあるが、そんな時にはドルニエ先生が静かに止めてくれる。

 そういう二人の姿を、今まで何度となく目にしてきたのだ。

 そんな二人が今更、口論くらいでどうにかなるわけがない。

 自分達の関係が壊れる日が来るわけがない。

 誰かがいなくなるなんてありえない。

 何も怯える必要なんてない。

 だから――

 

「私も混ぜてー!」

「ちょっ、イングリド!? 今飛びついてくるのはやめて! 普段は大歓迎だけど今やられると俺の根性が天元突破!?」

「アルト!? ちょ、ちょっとしっかり支えてなさいよ!」

「抜け駆けしないでよ! わたしもー!」

「ヘルミーナまで!? ちょっ――ああ、もう限界です……」

「ちょっ、あ、アルトぉぉぉぉ!? 諦めんなー!」

 

 だから、大丈夫。

 怖いこともあったけれど、過去は過去だ。

 昨日に怯える暇があれば、その分、今日を精一杯楽しもう。

 一人で難しいことを考える必要はない。

 だって自分は、一人ではない。

 みんなと一緒だから――これまでも、これからも。

 


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