アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人) 作:四季マコト
まだ幼かった頃の話だ。
少女は街の外へ出ることを硬く禁じられていた。
街の外には恐ろしい化け物や人間がいて子どもには危ないらしい。
けれど、いつも決まった時期にだけは他所の街へと連れて行ってくれた。
雪が溶け、萌える草花の絨毯が色鮮やかに広がる季節だ。
なぜその時だけ例外なのか。疑問に思った少女が両親に尋ねる。
すると彼らは、どこか誇らしげな顔で微笑んだ。
王室騎士隊が討伐してくださるから安全なのだ、と。
彼らが遠征する理由は大きく分けて二つだ。
越冬した魔物が活発化する時期であるため、その間引きであること。
初等訓練を終えた新兵達の実戦を兼ねた行軍であること。
当時の少女には思い至らず、だったら毎月討伐してくれればいいのに、などと減らず口を叩いて両親に頭をはたかれたのだった。
とはいえ、それもある意味では仕方がないことだ。
地方都市の、しかも幼い子どもである少女には、彼らの姿を目にする機会など一度もなかったからだ。自分と接点がなく、現実味のない存在。会話の中にしか登場しない存在であれば、それは御伽噺の中の登場人物と何ら変わりない。
だからこそ――初めて目にしたその姿は忘れえぬものとなった。
その年は近隣で魔物による被害があり、冬もそろそろ終わりに差し掛かるとはいえ、周囲の大人たちの顔色は冴えなかった。このままでは生活も侭ならない、と皆で溜め息をついていた。
暗い空気が、街中を覆っていた。
そんな折だ。一糸乱れぬ綺麗な隊列を組んだ王室騎士隊が王都から派遣されたのは。
陽射しを反射して燦然と輝く全身鎧は、青空よりも尚、透き通った青色だった。
もちろん、実際には度重なる戦闘や旅路での汚れ、経年による劣化や補修などで痛んでいたり、くすみが多少ならずあったはずだ。客観的に見れば、それほど上等な色ではなかっただろう。
けれど、それすら誇りであるといわんばかりの、彼らの毅然とした勇姿が見るものを圧倒させた。
彼らの堂々たる立ち居振る舞いは、怯える人々の精神を等しく安堵させた。
もう大丈夫だ、と彼らは言葉だけではなく態度で示していた。
そして、少女は思ったのだ。
自分もああなりたい、と。守られる側ではなく、守る側として。
その姿に強く、強すぎるほどに焦がれた。
誰もが一度は経験するような、幼心に抱く他愛無い憧れだ。成長するに従って、消えてしまうような、そんな淡い思い。
違ったのは、少女にとってそれは成長と共に強くなっていったことだ。
憧憬は夢となり――やがて、将来の目標となった。
道程は決してラクなものではない。目標に到達するのを阻む壁には、何度も突き当たった。
それは時に技量であり、両親であり、金銭であり、その他別のことであったり様々だ。
その中でも一際大きな壁として立ち塞がったのが――性別だった。
王室騎士隊は男性のみで構成される組織である。女性がなれない、という原則があるわけではない。ただし前例のない事例というのは、それだけで敬遠されるものだ。伝統と格式ある組織であればあるだけ、尚更に。突破するには、それに足るだけのモノが必要とされる。
夢を目標とし、それを現実にするために手放したものは多い。
女としての生き方を捨てたわけではない。過去には何人か、思いを通じ合った男性がいたこともある。彼らとの付き合いの中で、女としての悦びを感じたことに偽りはない。
しかしそれでも――
破局の理由は、判を押したように全て同じだ。
――それでも、諦める事が出来ない目標があった。
自分が女でなければ、と思ったことは幾度もある。
けれど、女だからなれない、という結論だけは絶対に出さない。性別も含めての自分だからだ。優先順位こそ違えど、自分が女であることを否定したくはない。
理解を示してくれる人は非常に数少ない。
心無い言葉を吐かれることすらあった。
もっとも辛いのが、自分を受け入れてくれた人の善意による提言だ。
『夢を見るのは自由だが、夢を見続けられるのは子どもの特権だ』
『夢を諦め、現実を受け入れて妥協することが大人になるということだ』
『目標とは達成出来る見込みがあることを言い、叶わない願いは目標足り得ない』
遠回しに同じような台詞を、周囲から何度も諭され続けてきた。
だから、だろう。
「なれるさ、きっと。諦めず、努力し続けることが出来れば」
たったそれだけで、あっさりと初対面の彼を信用してしまったのは。
◆◇◆◇◆
「この中に今すぐ動ける冒険者がいたら言ってくれ! 頼みたいことがあるんだ!」
場所は金の麦亭。時刻は夕暮れ時。酒場兼宿屋であるこの店が一番賑わう時間帯だ。
普段は喧騒に包まれた状態となっているが、今は水を打ったかのように静かになっている。
それも当然だろう。勢い良く入った来た客が突然、意味不明なことを叫んでいるのだから。
シスカは軽く眉をしかめ、彼の肩に手を置いて嗜めた。
「アルト、ちょっと落ち着きなさいってば。それじゃ、何が言いたいのか分からないでしょう」
「だが、こうしている間にも――」
「おいおい。こりゃいったい何の騒ぎだ?」
戸惑う声は、店主のハインツだ。ただ事ではない彼の様子を悟ってか、問い掛ける表情は緊い。
シスカの手を乱暴に振り払うと、アルトはハインツを一瞥した。
「騒がしくして、すまない。だが、急いでいるんだ! 今すぐ、冒険者を何人か雇いたい」
説明というには簡潔すぎる答えを返すと、卓を囲んでいる多数の冒険者達の元へ急ぎ足に歩み寄る。いや、最早それは詰め寄るといった勢いだ。
「俺の仲間――リリーとイングリドが近くの森に行ったきり帰って来ない。二人を捜索するための人員を雇いたい」
「あんたの連れっつーと……元気な姉ちゃんとちっこい嬢ちゃん達か」
覚えがあったのか、店内がざわつき始める。
彼ら錬金術士が依頼を受けるのには、基本的にこの酒場を利用していた。常連の中には、彼女達の姿を覚えている人間も少なからずいたのだろう。そうでない人達も切迫した事態を察して、やにわに顔色を変える。
「そうだ。一秒が惜しい、今すぐにでも出発して欲しいんだ。無理を言っているのは自分でも承知している――だが頼むッ!」
アルトは切羽詰った様子で語り終えるやいなや、テーブルに打ち付けんばかりの勢いで頭を下げた。
形振り構わない彼の様子を見て、シスカは冷静に判断した。焦りすぎだ、と。
リリーとイングリドが出掛けてから、既に二時間近く経過している。二人の身に何かあったのではと想像するには十分すぎる時間だ。
ここに来る前、テオからもたらされた情報によって事情を把握したシスカ達は、三手に分かれた。アトリエに残る人間、衛兵の下へ向かう人間、そして酒場に向かう人間だ。
相談した結果、ドルニエとヘルミーナにはアトリエに残ってもらい、二人が戻ってきた際に備えてもらうことに。カリンには門番の人達に事情を説明がてら、出来れば何人か手伝ってもらえないかを交渉してもらいに。そして、シスカ、アルト、テオの三人は捜索のための人員を集うためにこの場所へと。
テオは先ほど、自分の用意のために一目散に二階へと駆け上がっていった。知り合いの何人かに声を掛けてみると言っていたので、彼に関してはそのまま任せていいだろう。
不安なのは、アルトだ。
感情を理性で抑え込み、冒険者を募るよう提案したのは彼自身だ。森の中を当てもなく探し回ったところで、探し人が見つかる可能性は少ない。例え一刻を争う状況とはいえ、だからこそ時間を無駄にすることは出来ない。それは正しい。
ただし、理解するのと納得するのとは別のことだ。
普段シスカが彼を目にした時の泰然自若とした雰囲気など欠片もない。張り詰めた糸を想像させる思い詰めた様子だ。無理もない。彼にとって大事な存在に危機が迫っているかもしれないのだから。
そしてそれはシスカにとっても同じことだ。顔見知りとなってまだ間もないが、これから良い友好関係を築いていけたらと思っていた少女達が事件に巻き込まれているのだ。平然としていられるわけがない。
けれど、だからこそ尚更冷静でいなければならない。そうでなくては、解決出来るものも出来なくなる恐れがある。
アルトの懇願に顔を見合わせていた冒険者達を見て、シスカが助け舟を出そうとした瞬間だ。彼らがニカッと男臭い笑みを浮かべた。
「水臭えな、良いに決まってるだろう。酒を一緒に呑んだ仲じゃねえか」
「ちっとばっかり酔っちゃいるが、こんなもん屁でもねえさ」
「すぐに見つけ出して、また宴会やろうぜ。今度は嬢ちゃん達も一緒にな」
アルトの無茶な頼み事を、当然とばかりに聞き届けた彼らが迅速に動き出す。
すぐさま身体をほぐすものや、武器を手に取って調子を確かめるもの、水を頭からかぶって酔いを冷まそうとするもの、腹ごしらえをするべく無言で食事をかっこむもの、各々が自分なりの準備をし出す。全ては、一秒でも早く二人を助け出すために。
「……っ、そ、そうか! すまない。なら、すぐに報酬と手続きを――」
「そんなもんいらねーよ! いいよな、皆。なあ、マスター?」
長い黒髪を一つに束ねた男の冒険者が、長剣を肩に背負って気風良く答える。
彼の言葉に、冒険者達全員が一斉に首を縦に振った。もちろん、ハインツもだ。
本来ならば、例え無報酬であろうと依頼は正式な手続きをしなければならない。そういう取り決めであるし、無視すれば問題ごとが起こった際に色々と面倒な事になるからだ。
けれど、今は火急の事態だ。例え緊急時だろうと規律を遵守しようとするアルトは正しいが、有事にあっては融通を利かせるべきだ。
冒険者というのは、元々そういう自由な気質の人間達の集まりなのだから。
「依頼だったら必要だが、困っている顔見知りに手を貸すのには不要だからな」
右手で顎を撫で、にやりと唇の端を歪めるハインツ。よっ男前、などと囃し立てる声がどこからともなく上がる。無理矢理にでも明るい雰囲気を作り出し、緊張を緩和させようとしているのだろう。先ほどまでのどこか暗い張り詰めたものが、安心させるような明るいものに変わる。
その中にあっても、アルトは先ほどまでと全く様子が変わっていなかった。いや、手段を確保出来たせいか、一層その顔色は深刻なものとなっている。
唇を噛み締め、まだかまだかと苛立たしげに足踏みをしている。
きっと彼は今、必死に耐えている。今すぐ何も考えずに近くの森へと駆け出したくなる自分と、冒険者達を待つことが最善だと判断する自分の間で葛藤して。
「大丈夫、きっと無事に助けられるわ」
「間に合わなかったらどうするっ!」
シスカが気遣って声を掛けると、血走った目でアルトが睨み返してきた。
顔色が悪いどころか、最早蒼白だ。
「……俺のせいだ」
ゾッとするほど暗く静かな声だった。
諦観と悲嘆と絶望に満ちた空虚な声音。これがアルトの口から出たとは信じられないくらい、普段の彼から掛け離れたものだ。
すっぽりと表情の抜け落ちた顔で、力なくうなだれる。
「俺が余計なことをしたから。俺がいるから。俺のせいで、俺が……俺がいるせいで、こんなことになったんだ。全部、俺のせいだ。また、俺のせいで人が死ぬ。やっぱり……やっぱり、俺なんかいなかった方が――」
「アルト、気をしっかり持ちなさい! 冷静になるのよ。焦っていると、良くない考えばかり浮かぶわ」
聞き取れない小さな声音で何事かを呟くアルト。その両肩を、シスカは力強く掴んで揺さぶった。彼が抱えている事情は知らない。でも彼の様子がおかしいのは、焦燥だけではないことが分かった。こんな状態に陥るほどの何かがあるのだ。
でも、理由を聞き出して落ち着かせられるような時間的余裕はない。
だから、それ以外の手段が必要だ。
「もし、間に合わなかったら……」
「あなたは錬金術士で、私達は冒険者よ」
すがるような視線を向けるアルトを正面から見つめ返し、きっぱりと断言する。
「荒事関係なら、こっちがプロよ? 非常事態は、私達冒険者に任せておきなさい」
自信たっぷりに言い切ってみせ、余裕のある微笑を浮かべる。
演技だ。いくら冒険者とはいえこんな事態は想定外。上手くこなせる自信なんてない。
それでも、シスカは頼れるところを彼に見せなければならない。今、必要なのはアルトを立ち直らせることだ。いつも通りに、冷静に頭の働く彼になってもらわなければならない。
不安に怯える人を安堵させる、そういう人達を目標としているのが自分だ。友人の一人も安心させてやれないでは、王室騎士隊に入るなんて到底出来っこない。
シスカはハインツに一言断りを入れると、カウンターに置かれた小瓶を手に取った。蓋を開け、中のものを一個取り出して包み紙を剥がす。
そして、持ち手の部分をつかんでそれをアルトの口へと突っ込んだ。
「舐めて。そんな疲れが抜けていない状態じゃ危険だわ」
「!? こ、これは……」
「あなたが作ったものなんでしょう? だったら、その効果は知っているわよね」
突然の行動に目を白黒させたアルトだったが、それが何かを悟ると黙ってそれを舐め始めた。
真面目な表情で飴を舐める彼を見て、シスカは場違いにも噴出しそうになるのを堪えた。
シスカとて、何も好きでこんな真似をしたわけではない。きちんとした理由がある。
彼が今、無言で舐めているのはお酒アメという調合品だ。微量ではあるが、疲労回復効果があるらしい。以前に採取で出掛けている時、彼から一度同じものを貰ったのを覚えていた。
度数が低いから酔いも気にならないし、これから走るにしても問題ないだろう。焼け石に水だとしても、今の彼には気を和らげることが必要だと判断したのだ。
アルトがお酒アメを舐め終わる頃、支度を終えたテオと彼の知り合いらしい若い冒険者が階段から降りて来るのが目に入った。周囲を見ると、他の冒険者達も準備が終わったようだ。どう動くのか、と問いたげな視線がこちらに投げ掛けられる。
シスカはアルトを気遣い、再度同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫、きっと無事に助けられるわ」
「ああ……そうだな。そうに決まっている」
「ちょっとは冷静になった?」
「さっきよりはまともに判断できるようになった……つもりだ」
「うん、客観的に自分を判断出来れば上等よ」
「すまない。どうかしていた」
「いいのよ、気にしないで。大切な人達のことだもの。あなたが焦るのも分かるわ」
「……すまない」
「謝ってばかりね。それよりも、これからのことを皆に説明しないと」
「ああ、分かっている」
アルトが目を閉じ、深呼吸する。
そして、瞼を開ければそこにはいつもの彼がいた。
周囲に集まった冒険者達を前に、アルトが堂々と宣言する。
「さあ、二人を助けにいこうか! そのために、まずは――」
◆◇◆◇◆
一日の鍛錬の遅れを取り戻すには三日必要になる、というもっともらしい格言がある。
真偽の程はともかくとして、今のシスカには足踏みしていられるような余裕はなかった。
だから例え肉体も精神も疲労した日の翌日といえども、こうして街中で走り込みをしている。
もっとも、流石に激しい鍛錬は肉体を苛めるだけで逆に良くない。この後は昼食をどこか適当な店で済ませ、知り合いの冒険者を誘って軽く組手に付き合ってもらう予定でいる。
短距離ではなく、長距離をこなして体力を作るのが目的なので、走る速度は常に一定だ。ただ走るだけならば、冒険者として活動しているシスカにとって然程苦ではなかった。問題は、女性であることの不利、筋力面での問題だ。
聖騎士試験では、重鎧や武器を装備した上で長距離を走らされる。当然だ。彼らにとって、その状態で平時通りに任務をこなせられなければ意味はないのだから。
以前の聖騎士試験では、実技試験の厳しさもさることながら、全体的に筋力面で劣っていたために無残な結果となってしまった。
だからこそ、その反省を生かすためにも、一日たりとも無駄には出来ないのだ。
そして今度こそ、憧れの聖騎士に――王室騎士隊の一員になってみせる。
――と、走る前方に草原が広がっていた。
どうやら勢い余って街外れにまで来てしまったらしい。
シスカは折り返すために一度、足を止めた。途端に、玉の汗が額から流れ落ちる。用意していたタオルで拭いながら息を整える。
そうやってなんともなしに草原を見ていると、不意に緑以外の色が目に入った。おや、と小首を傾げる。
シスカがよくよく目を凝らしてみると、それはどうやら人間のようだ。というか、もっとはっきり言ってしまえば知り合いだった。遠目でも分かるほど、特徴的な格好をした女性だ。別人と見間違えようがない。
こんな場所で一人座って何をしているのかは知らないが、取り合えず一声掛けておこう。昨日のこともあるし、体調が完全に戻ったのかどうかも改めて確認したい。
「リリー!」
突然名前を呼ばれてびっくりしたのか、彼女がキョロキョロと周囲を見回す。すぐに、こちらに気付いたようだ。片手を振る彼女に、シスカも振り返す。
こんな場所で何をしているのかを続けて聞こうとすると、リリーはそれを制止するかのように慌てて両手をブンブン振った。人差し指を立てた右手を口元に沿え、静かにとジェスチャーで伝えてくる。
そんなリリーの様子をいぶかしみつつも、彼女に手招きされたので素直に草原へと足を踏み入れる。どうやら物音を立てないで欲しいようなので、心持ち気遣いながら彼女の元へ近付く。
リリーの付近まで来ると、ようやくその理由に納得がいった。
「あ。そういうことね」
「そ。そういうことよ」
苦笑するリリーの膝の上には、安らいだ表情で眠る男性の姿があった。
アルトだ。静かに寝息を立てる彼の両脇には、お腹にもたれかかるようにして眠る二人の子ども達の姿。彼らを起こさないようにとの配慮だったわけだ。
「昨日あんなことがあって疲れてないわけがないのに、二人に付き合って無理しちゃうから」
ほんとバカなんだから、と小さく呟くリリー。
本人は気付いていないのだろう。自分がどんな表情でその言葉を口にしているのかを。
見ているこっちが、くすぐったくなってしまうようなそんな表情を。
そのことを彼女に指摘するような愚行をしてはいけない。もしそんなことをすれば、リリーはきっとすぐさま全力で否定するだろう。そうなってはこの大切な一時が台無しになってしまう。
リリーだけではない。アルトもそうだ。
採取の都合上、彼らと共に野宿することが今までにも何度かあった。でも、その時の彼の寝顔はどこか常に警戒した硬いものだった。魔物の襲撃の恐れなどもあるし、当然といえば当然だ。ただ、それだけの理由では今ここまで安心しきった寝顔を浮かべたりはしないだろう。
『リリーのフォローは俺の役目だ。他の誰にも、その責任を譲る気はない』
リリー達を助けた後に、彼が口にした一言を思い出す。
シスカがリリーを背負おうかと提案した時のことだ。自分だってそんな余裕なんてない癖に。頑なに、その責任を手放すまいと頑張る彼の姿を。
不器用な人ね、とシスカは思う。リリーの前では常に余裕綽々な態度でいる癖に、その影では必死に彼女の頼れる先輩であろうと努力するその姿に。
二人とも相手を大切に思っている癖に、そんなことはないと否定してみせる。立場上仕方なく相手をしているだけだと。そんな言い訳をするとこばかり、よく似ている。傍から見ればどうなのかは分かりきっていることなのに。当事者達だけが全く気付いていない。
シスカはそう心に思うだけで、口にすることなく封印した。からかうのも時と場合によりけりだ。今はこうして、彼女達の安らぎの時間を邪魔しないようにするべき場面だ。
「それ手作り? おいしそうね」
リリーの横に置かれたバスケットの中身が目に入った。サンドイッチや揚げたお肉など、見ているだけで食欲をそそられる。
「ありがと。アルトと一緒に作ったんだけど、お昼まだならシスカもどう?」
「いいの?」
「あまりもので良ければ、だけど。途中からバカと張り合って、つい作りすぎちゃったから」
普通は、仲が悪い人間と一緒に料理なんてしないものだ。シスカはそんなことを思いつつも、昼食の誘惑に負けてご相伴に預かる事にした。空腹だったので彼女の申し出は願ってもない。
敷き布の上に腰を下ろしてバスケットを受け取ると、遠慮なく次から次へと口に放り込んでいく。冒険者になってから、食事をするのが早くなった。咀嚼もそこそこに飲み込む。
空腹は最高の調味料とはよくいったものだが、それを差し引いても素晴らしい出来栄えだ。
「ん~~っ! このソーセージ絶品ね! 特にこのマスタード、お酒に良く合いそうだわぁ」
「それ、アルトと同じセリフ。まあ元々、お酒のつまみにするような品物だしね」
「お酒が好きな人間なんてそんなものよ?」
ついついお酒に合うかどうかを判断してしまいがちになるものだ。特にシスカの場合、酒豪といっても良いほどに酒に強いから尚更だ。
食事を終え、軽く雑談をする。
どうやら体調はすっかり元通りになったらしい。昨夜も確認したことだが、実際に生活してみないと分からない部分もある。違和感もないらしいし、大丈夫だろう。
二、三、適当な話をした後に、今度カリンも誘って一緒に三人で買い物する約束を交わす。前々から気になっていたのだが、リリーの作業する服装と街で過ごす服装が同じような種類というのは、シスカ的には見過ごせない点だったのだ。これを機に、化粧や衣服で着飾ることを覚えてもらうつもりだ。もちろん、リリー本人にはその時まで内緒だが。
「さて。それじゃ、そろそろ戻るわ」
「もう行くの? もっとゆっくりしていったら?」
「そうもいかないのよ。なにせ、冒険者だからね」
返事になっているようななっていないような、そんなことを言い残して彼女達と別れる。
食後の腹休めも終えたことだし、この後は予定通りに鍛錬の続きといこう。
走りながら、思い出す。
先ほど見たばかりの彼女達の姿を。
まるで仲の良い家族のような、そんな幸せな景色を。
自分には手が届きそうで届かなかった、その光景を。
寂しさがないといえば嘘になる。
未練がないというのも嘘だろう。
女として生きることを捨てたわけではない。
身なりには人一倍に気を遣っているし、素敵な恋人だってもちろん欲しい。
きっかけは何度となくあった。
両親に郷里で見合いをすすめられたときだったり。
当時の恋人に、家庭に入ることを持ち出されたことだったり。
中には、理解を示してくれる人もいた。
片手で数えられる程度の、少ない人数だけれど。
それがシスカの選んだ道だ。
ほとんどの人にとって受け入れてもらえないようなことだ。
後悔はしていない。
ただ、そういうのにもまた違う憧れは残っているのだ。
時折、羨ましくなってしまうこともある。
そして、それでも尚、優先したい目標があるのがシスカという女性だ。
だから今は、
「私も頑張らなくちゃいけないわよね!」
夏には待望の王室騎士隊の入隊試験がある。
今度こそ、なんとしてでも合格しなければならない。
シスカは意気込みを新たに、速度を若干上げて走るのだった。
自らが掲げる目標へ続くと信じ、ただひたすらにその道を。