どうして私は、こんなに悲しいのか。
そう感じているのに、私には訳がわからなかった。
これは遠い昔の語り草。
いつも見るその情景は私の胸から離れなかった。
その夢でしか感じることは無い冷たさや暖かさも、全てが遠く懐かしいものに思える。
頬を刺すように吹き付ける風も次第に暗く冷たくなり、どこかで静かに流れる河のせせらぎが聞こえた。
水平線を遥かに沈む夕陽。
その光は、赤々と山の頂を照り栄えた。
そして、彼方の岩に綺麗な乙女が腰をおろしている。
その情景にいつも現れる彼女は金の飾りを輝かせ、その飾りよりも優れる黄金の髪を梳いている。黄金の櫛で梳きながら、乙女は歌をくちずさむ。
その旋律(メロディ)は美しく、素晴らしく、そして不思議な力を漂わした。
その岩の近くを行く小舟あやつる舟人は、心をたちまち乱され、時流れの暗礁も目に入らず、ただ上ばかり仰ぎみる。ついには舟も舟人も波に呑まれてしまうだろう。
それこそ妖しく歌う。
ああ、彼女はまさに―――。
生きるということはどういうことなのか。
彼にとってその言葉の意味は何の価値も無いように思えた。「生」と文字を指でなぞって書いてみるが、それは単なる言葉でしかなく、自分がそれを謳歌しているかと問うならば、その言葉と彼はもっとも遠い位置に置かれていた。
「君も私たちと同じなんだね」
彼の目の前には過去があった。
おぼろげな感覚。
そんな中でも、そう言った彼女の言葉ははっきりと自分の中へと入ってきた。
彼女は優しく微笑みかけた。
光も希望もない、鉄の壁に囲まれた場所で彼は彼女と出会った。顔も容姿も同じ。この場に押し込められた幾多の”自分達”。彼は今も思う。彼女の言葉にどう答えるべきだっただろうかと。四方を囲む見上げるほど高い鉄の壁の頂点。自分たちの真上にぽっかりと空いた穴を彼女は「空」と例えた。
そして、その空の下が地獄であることも、すぐに思い知らされた。
地獄だ。まさに死が蔓延しているような場所。
弱々しい悲痛な叫びや声を彼は聞き続けた。長い長い時を味わう中で不思議と空腹感は無かった。だが、それと引き換えに凍えるような寒さと恐怖が満ちている。「生きる」為に手を取り合い、抱きしめあい、互いに励まし合って―― 一人ずつ自分と同じ顔をした者が死んでいく様を見せつけられる時間だけが過ぎていった。
暗い暗い闇の中。
頭上から差し込む一筋の光。
憎しみさえ覚えるその光は、何も知らない内から、この暗闇に放り捨てられた自分達にとって目の前にぶら下げられた希望だ。いつかはあの光の下へ。いつかはこの暗闇から外へ。無知な自分達でもわかるくらいに、その一筋の光は自分たちに「希望」や「期待」を刷り込んだ。
希望にすがり付きながら、自分たちはゆっくりと絶命していった。
明日は自分が死ぬんじゃないのか、そんな恐怖と嫌でも向き合わされて、それでも自分にできることは両腕の中で震える彼女を抱きしめることしかできない。
それを見る現在の彼の魂は、確かな意味の上で死んでいた。ぼんやりと自分の辿った「過去」を見つめる。
暗く、凍えるような地獄。
今でも、思い出す。今でも夢に見る。あの地獄に居た日々を――。
****
打ち付けられたように、フェイクは目が覚めた。
嫌な汗が身に纏うアンダーウェアに染み込んでいるのがすぐに分かった。これが睡眠と呼べるものなのだろうか、フェイクは目元をなじる。
フェイクがいる部屋の内装は清潔感に満ちていて、室内には規則正しい電子音が流れていた。
彼が座る椅子の目の前、真っ白なベットの上で彼女が口ずさむ「歌」。
それは、あの地獄の中でも聴いていたモノであり、それがあったからこそ、フェイクや彼女は正気を保っていられたのかもしれない。
エーデルワイス。
遠い世界に伝わる花を愛でる歌。
彼女がいつ、その歌を知ったのかは彼女自身も記憶にない。誰かから教えてもらったのか、それともこれも”最初”から刷り込まれた物なのか。
短命な彼女の肉体構造も、実験の途中で生じた欠陥なのか、それとも最初から「前提」で作られたのか――。
自分達には、それを知る手立ても、術も無かった。
自分の記憶と体が全てでしかな。口ずさむ彼女を見ながら、フェイクは昔調べた彼女の歌の言い伝えを思い返した。
ある登山家が、地上に降りた天使に恋をし、叶わぬ恋に苦しんだ登山家が「どうかその美しい姿を見る苦しみから救ってください」と祈ると、天使はエーデルワイスの花を残し、天に帰ったという言い伝え。
「――大丈夫だよ、フィオナ。俺はここにいる」
プロジェクトF。
自分たちが生み出された起源がそんなものだった知ったのは、あの地獄から抜け出してしばらく後のことだ。
幾つも並んだ培養槽、その中に浮かぶ同じ容姿をした肉体。誰もが忘れようともフェイクは覚えている。
「人造生命体の作製」。
より効率化された生命の繁殖システム。
神の領域を侵す禁忌。
フェイクは固いグローブに覆われた自分の右手を見た。
この手にも肉体にも、もう彼女の暖かみを知る感覚は残っていない。そして自分にも、人間らしい情も感性も擦りきれた程度しか残っていない。「人」として生きるには、背負う傷はあまりにも大きい。
だが、せめて彼女が、ただ何不自由なく生きること謳歌するに対しては何の影も憂いも無い。
その影も憂いも、全てフェイクが背負う。そのためにならば、自分の体や魂を悪魔にでも売り払おう。
その覚悟を持って彼は「彼ら」と契約を交わした。
たとえその契約のせいで、いつか自分の存在が他の「何か」になったとしても――。
――NEXT