ヘグニは、こう答えた。――おまえが和解を求めるにしても、もはや遅すぎる。私がもうダインスレイヴを抜いてしまったからだ。この剣はドウェルグたちによって鍛えられ、ひとたび抜かれれば、必ず誰かを死に追いやる。その一閃は、的をあやまたず、また決して癒えぬ傷を残すのだ。
(1120年スノッリ・ストゥルソン著「スノッリのエッダ」より引用)
古代の哲学者プラトンはこんな言葉を残している。
「自分のことをするだけで、余計な手だしをしないことが正義である」という言葉だ。
遠い昔に読んだ書物に記されていた物だが、その言葉を残した彼がいた時代から、どれ程の時が経ったのだろうか。
広大な深淵の闇の中に浮かぶこの軌道上拘置所には、その闇すら届かない。
この監獄の受刑者であるアーチャー・オーズマンは、自分を訪ねにきた女性、高町なのはを分厚いガラスの向こう側から眺めていた。
彼の瞳は、生気を失ったように見える反面、濁った夕日のような、消え失せた情熱の残り火が揺らめいているようにも見えた。それは野望や理想に燃えた反逆者たちの残り火を閉じ込めておく場所。この逃れることのできない鉄の監獄そのものを体現しているようにも見えた。彼は、目の前にいる彼女には関心を払わずに、ひとつしかない照明によって生み出された、おぼろげな影を見つめていた。彼は、高町なのはに自分自身の話を聞かせるために、自らの過去に、自らの歩んだ歴史に、思いを馳せていた。
話を戻そう。哲学者プラトンは「正義とは、三つの概念から成り立っている」と主張していた。
一つ目は、知識、魂、身体を外敵から保護する勇気を保つ『意識』を持つこと。
二つ目はそれ以外の能力、才能が互いの役割を決して侵犯しない『関係』を保つこと。
そして、三つ目が、そんな調和の取れた形の中で自己の責務を果たす『状況』を維持することだ。
この3つの意識・関係・状況が成立するとき、それはすべてに等しい正義として適した存在となる。確かに理想的であり、合理的に考えた人間関係としてはあるべき形のひとつなのだと思える。だが、それが本当の正義と言えるだろうか?
他人に干渉せず、ただ自分の与えられた事だけをこなす世界が、本当の平和と言えるのか。
――そもそも本当の正義が、この世にあるのだろうか?
善悪にでも変われる、そんな曖昧な境界を漂う正義なんかじゃあない。誰もが共感できる、『たったひとつの正義』。
過去にアーチャーは、そのたったひとつの正義を追い求めていた。
正義とは何だ?何が善で、何が悪だ?
この疑問は、人が人である以上、古から問い続けられた疑問の一つだ。
何が正義かという議論に結論が出ない一つの理由は、人によって正義に求めるものが異なるからだ。善悪は言わば光と影。それぞれには、必ず影が潜んでいる。結局のところ、善と悪の境界線は確かにあるが、白か黒かで区別できるような、そんな簡単なものじゃない。
支配する者と支配される者。
自由を勝ち取るための果てない戦い。
解放への戦火。
強者と弱者と間に横たわる歴然とした壁。
そして光と影。
対極的に見えるようで実のところ限りなく等しく接する二つの道。
人はいつもその選択肢を迫られている。白か黒かじゃない、曖昧な濁った色の中が、自分たちがいる世界だった。正義にも成りえて、悪にもなる。そんな曖昧な定義がこの世界には幾らでもあるというのに、誰もが共感できる明確化された正義は無い。
高町なのはは、アーチャーの話を黙って聞いていた。いや、何も言わずに、ただ彼の言葉に耳を傾け続けていた。自らが求める「真実」を知りたいなら、黙って聞いていることが最も正しいのだと思っている。それは正しい判断だろう。
そして、彼は再び口を開こうと思った。世界は歪んだ正義感に溢れているのだと。遠い昔、彼はそう考えていた。
生きることを戦うことで勝ち取らなきゃならない、こんなクソッタレみたいな世界。
「それじゃあ、続きを話すとしようか」
分厚いガラスの向こうにいる彼女に、彼はにこやかに微笑んだ。
あのときの彼は信じていた。凍るように寒い空の中で。例え、自分が世界の手のひらの上で踊らされる『道化師』であったとしても。こんな世界にでも「本当の正義」が、あると言うことを、彼は信じていた―――。
0075年――三月。機動六課、設立前。
「今年も、もう終わりましたね」
ふと、横で書類を纏めていた部下が私にそう言った。彼女は窓の外を眺めている。私自身も、巣立って行くこの訓練学校の生徒たちの背中を学長室の窓から見送っていた。
「新しい魔導師たちが、また巣立って行く。何回経験しても、肩の力が抜けないものね」
私がそう言ったら、部下である彼女も「そうですね」と相づちを打った。
三月の終わり。寒いミッドチルダの空を見上げたのは、訓練学校学長であるファーン・コラード三佐。
私がこの訓練学校に学長として就任してから、今期で六回目の卒業訓練生を見送ることになる。この道を選んでから、もう七年になると思うと、「あの日」のことも、遠く過ぎ去った過去のことだと思えてしまうような気がした。
「では、私は地上本部へ出向いてきますね」
纏めた書類を確認した部下が立ち上がる。纏めていた資料は、今期の卒業訓練生の情報。今期の卒業生は、首席で卒業したティアナ・ランスターやスバル・ナカジマを含め、優秀な新人魔導師たちが多い。地上本部の現場で働く魔導師たちも大いに喜んで迎えてくれることだろう。
「ええ、では頼みますね」
私の言葉に、部下は敬礼で返すと学長室を出ていった。学長室から外を眺める。寒い空を見るたびに、遠く過ぎ去った「あの日」の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
「――雪、ですか」
静かだと思っていたら、ちらちらと雪が舞い降りてきていた。
あまりにも静かに雪が降るので、眼下にいる卒業生たちの喧騒も、どこか遠い場所から聞こえてくるように思えて、自分だけがどこか違う場所にいるような、そんな感覚を覚えた。
「私は、上手くやれているでしょうか?」
気がつくと、私はそんなことを呟いた。
「貴方が思い馳せた空を、私が教えた生徒たちは、立派に飛んでいるのでしょうか?」
「あの日」から、もう七年が経った。あのときから、管理局は目まぐるしく変わっていった。けど、私自身の世界は変わっていない。変わらない世界。私だけが歳を取っていっているように思えてしまう。「あの日」に別れた貴方の顔は、あの日のままで止まってしまっている。
けれど――「あの日」から私は。
「それでも、私は変えようと願いますよ。貴方が目指した理想の魔導師たちが集う、管理局に」
何度でも願い続けよう。友との絆を願い、この空に思いを馳せる、貴方のような――。
「――そうですよね、ライリーさん」
雪が降る、寒いミッドチルダの空を見上げ、私は、あの日の空を思い返す。気がつくと私の頬には暖かい涙が一つ流れ落ちていた。
****
0075年――冬。ミッドチルダ北部、第四陸士訓練校。
その日は、例年に比べてやや寒いほどの気温だった。
自分の古巣である「訓練学校」の敷地内を歩きながら、私は雲で陰った空を見上げた。
今にも雪でも降ってきそうな空だ。
首筋が冷え、思わずマフラーに顔を埋めながら、訓練学校の正面玄関の扉を開けた。玄関から中に進んで行くと暖房の人工的な温もりが伝わってくる。
「J・S事件」終結から三ヶ月が経った今日、高町なのはは、管理局の仕事が非番であった。非番の時は、本当ならヴィヴィオと共に過ごすと決めてはいたのだが、今日は特別だった。
「八年前の事件」を知る人物が、この場に居るのだ。私はその人の話を聞くために、この場所に来ていた。羽織っていたコートとマフラーを外して、辿り着いた教員室の扉を二度ノックする。
「あら、高町さん。久しぶりね」
出てきたのは、自分が訓練学校に居た時から知り合った教導官だった。私も「お久しぶりです」と会釈をすると、差し入れに持ってきた「翠屋」のケーキを彼女へ差し出す。
「もう、そんな気を使わなくてもいいのに」
ケーキの箱を受け取りながら、彼女は嬉しそうな、困ったような、そんな曖昧な笑みを浮かべていた。久しぶりに会ったからか、三十路に入る彼女の表情が更に柔らかくなっているようにも見えた。教員室の奥からも、「久しぶり」と、昔から知る教導官から声を掛けられた。
「学長は部屋にいるわ、用事があるのでしょう?」
教員室に入りながら、案内をしてくれる彼女がそう言った。学長室は教員室の奥にある。机に挟まれた通路を歩きながら、「はい」と、私は空返事をした。
けど、この教員室に入ってから、頭の中では別の事を考えていた。私が学長に会いに来た理由。私が学長に聞きたいこと。その話を聞くために、私はどう切り出すかを、何度も頭の中でイメージする。
「学長、失礼します。高町さんが来られました」
コンコン、と木を叩く軽い音で、私はイメージを止めた。
背筋をしゃんと伸ばす。自分でも分かる、らしくないほどに緊張している。きっと今の私の口元は、への字の口に曲がったような強ばった表情をしているだろう。案内をしてくれた教導官が、学長室の扉を開く。「どうぞ」と会釈をしているのを見てから、私は「失礼します」と一礼してから学長室へと入った。
「そろそろ来ると、思っていましたよ」
部屋の中に入ると、その人は私の方を見ず、窓の外に映る冬の空を眺めながら私にそう言った。
後ろで静かに扉の閉まる音が聞こえた。賑やかな教員室とは違って、学長室は凄く静かだった。この部屋だけが、まるで別世界のように思えるくらい、静寂に満ちているように思えた。
昔と変わらない学長の背中を見るだけで、ピリッと電気が走るような感覚を覚える。おかげで、思考の中で何度も繰り返していたイメージがすべてどこかへ飛んで行ってしまった。
「まぁ、お掛けなさい」
そう言って、私に振り向く白髪の女性。
訓練学校学長である、ファーン・コラード三佐。
彼女は、私が訪れている訓練学校の学長であり、私とフェイトちゃんも、彼女に教鞭を振るってもらったことがある。まだ若い頃、フェイトちゃんと二人掛かりで彼女へ模擬戦を挑んだ。が、結果はこちらの惨敗だった。彼女はそれほどに凄まじい魔導師であることを今でも痛感する。私は、ファーンの言う通り、それぞれ対面するように設置されているソファに腰を降ろした。
「貴方とこうやってゆっくりお話をするのも、ずいぶん久しぶりのように思えますね」
部屋の角にある紅茶セット。ワンタッチ式の湯沸かしポットからは、すでに湯気が出ていて、ファーンはポットから紅茶を二杯分注いだ。
「先生も、お変わりないようですね」
「えぇ。訓練学校の学長になって、もう七年目ですから」
私の前にカップを置くと、ファーンも静かに向かい側のソファに座った。私やフェイトちゃんがまだ訓練学校にいた時、初めて彼女と対面した時から清楚さや落ち着きを彼女は持っていて、それはまるで「聖母」を思わせるような印象だった。そして今でも、その雰囲気は変わっていない。けれど参った、私はそこで言葉が詰まった。頭の中では何を聞きたいかなんてわかっているのに、口に出そうとも億劫になるばかりだ。
「あの、先生」
「ジェイル・スカリエッティが引き起こした『J・S事件』。貴方が解決に導いたんですね」
私が話そうとするのに被さって、ファーンが紅茶のカップを傾けながら私にそう言った。
「噂は聞いていましたが、貴方は想像する以上の働きをしますね。貴方が訓練学校に居たときは、まだどこか手探りで落ち着きがない顔をしていましたが、今はあの日とは比べ物にならないくらい穏やかな顔をしていますよ?」
ファーンの言葉に、私は素直に驚いた反面、どこか嬉しいような、そんな感覚が私の中にじんわりと広がった。だけど、それとは反対に、彼女の瞳はどこか哀しみを孕んでいるように思えた。
「対魔導師戦術。ガジェットドローンの〝AMF〟。それに対抗するための新たな戦術、そして新たなデバイス」
ファーンが呟いた言葉が、すべて『J・S事件』に結びつく内容だった。フェイトちゃんも魔力結合を一時的に弱めるジャマーフィールド、通称〝AMF〟の対処法について、この訓練学校に訪れたらしい。
「ミッドチルダ地上本部の目覚ましい防御能力と統率性の発展は、『八年前の事件』がきっかけでもありました」
カップへと伏せていたファーンの視線が、私の眼を捉えた。『八年前の事件』という言葉で、胸が高鳴った。何も言えない私に、彼女は優しげな笑みを向ける。
「リンディさんから聞いたんです。貴方が、八年前の事件を調べていることを」
宙にかざした指先に、光学モニターが機械的な音と共に現れる。ファーンの指先が、モニターを何度かスクロールをすると、こちらに向ける。モニターにはメールの文章と『八年前の事件』に関する資料が添付されていた。差出人は「リンディ・ハラオウン」となっていた。
「そして、私のもとへやってくることも、わかっていました」
ファーンが資料を開く。そこには、若きファーンと共に映る、ライリーの写真がある。私にも見憶えがある写真だ。いや、これを頼りに、私はこの人を尋ねに来たのだ。
見つけたのは偶然だったが、私が彼女と『八年前の事件』の関係それに気付くきっかけになった写真。
「…教えて欲しいんです。八年前に、一体なにがあったのかを」
モニター越しに、私は彼女にまっすぐと、そう伝えた。
ファーンは「そうね」と静かに呟くと、何かを思い更けるように、瞳を伏せる。
「その前に、ひとつだけ聞きたいことがあります」
彼女は、私にそう言う。それは昔、同じように彼女から問われた質問の時と、同じ瞳をしていた。
「なのはさん、貴方は〝本当の強さの意味〟を、見い出すことはできましたか?」
本当の強さの意味。ファーンからの、その問いに私は迷うことなく頷いた。
本当の強さの意味を、私は私なりに見つけていたのだから。不思議と迷いはなかった。彼女は満足そうに頷くと、そのまま窓から外を眺めていた。
「これは、私が本当の強さの意味を知った時の話です。あの日も、今日のような天気で。けれど凍てつくような風が吹いていました」
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