護衛・Ⅰ
トバイア少年にとって、自らの家が裕福であるということは、逆に不幸であることだと言えた。
今よりもっと幼いころ、この地方では珍しく、うだるような暑さが連日続いたことがある。
たまたま緊急の要件が纏めて片付いたばかりだった彼の父は、避暑のために家族や使用人たちを連れて別荘地――《青嵐領デラルザ》へと赴くことになった。
デラルザ領内に入り、あと少しで到着といったところで、彼らを乗せた馬車の車輪が脱輪した挙句に泥濘へとはまり、ぴくりとも動かなくなってしまった。出発から半刻と経たずに突如空を覆い、半日ほど大粒の雫を地上へと流し続けた雨雲のせいだ。執事やメイドたちが周辺の領民に金銭を渡して協力を仰いでいる最中、馬車の中で退屈という名の魔物に取り殺されそうになっていたトバイアは、両親の目を盗んでそっとその場を抜けだした。
程なく、同い年くらいの子供たちが見つかった。
最初こそ警戒されたトバイアと子供たちはすぐに打ち解け、上品な仕立ての服が泥だらけになるくらい遊び回った。広い屋敷の中の世界しか知らなかったトバイアは、子供たちに色々な遊びを教えてもらい、その全てが新鮮で、驚きの連続だった。
ほんの少しだけの、だけども非常に濃密だった時間は、トバイアに「自分はなんて恵まれない環境にいるんだろう」と思わせるには十分な体験だった。世間一般的には、アイヤール帝国において男爵という地位にある貴族の子息という立場は喉から手が出るほど羨ましいものであったのだが、常に厳しい家庭教師がべったりと側に張り付いて、やれあれが悪い、これが悪いと叱りつけてくる環境にいるトバイアにとって、自由きままにはしゃぎまわれる一般家庭の子供のほうが、自分より『上』なのだと感じたのだ。
その日から、トバイアは度々授業を放棄し、屋敷内を逃げ回る姿が使用人たちに目撃されるようになった。
今の状況は不服だが、さりとて家を捨てて暮らしていけるなどと考えるほど浅慮ではない。親の庇護を完全に断ち切れない少年に出来る、最大限の反抗だったのだろう。
他の貴族に侮られぬよう、完璧な礼節を叩きこもうとしていた彼の父は、素直だったはずの息子が起こす数々のトラブルの報告を受けるその都度、非常に頭を痛める羽目になるのだった。
そうして、数年の月日が流れた。
成長するに連れて、エスケープこそしなくなったトバイアだったが、内に溜め込んだ不満はもはや爆発を待つ臨界点ギリギリといった有様だった。
追いかけっこや木登りはあんなに楽しいものなのに、父も母も下品だ、下々の者がする遊びだと文句しか言わない。そんなものよりも、全然楽しくないパーティでの礼儀作法や曲の解釈がどうとかまったく意味の分からない音楽を学べという。
もう我慢の限界だった。
今すぐこの屋敷から逃げ出そう。そして、《青嵐領》まで行って、もう一度あの子たちと一緒に遊ぶのだ。
すぐに追っ手がかかり、連れ戻されてしまうだろうが、構うものか。例え一分でも一秒でも、こんな窮屈な生活にはない、自由の素晴らしさを再び味わいたい。
トバイアは憤懣遣る方無いといった様相で屋敷の正面扉を開け放とうとし、
――コン、コン。
突如扉から響いたノックの音に、出鼻を挫かれた思いだった。
客だ。どうせまた、父の友人だろう。
仕方ない、脱走は中止だ。溜息と共にトバイアは使用人を呼ぼうと後ろを振り向きかけ、いや、と思い留まる。
――父の面子を、僕が気にする必要があるのか?
トバイアは客人の応対など出来ない。だから使用人を呼びに行こうとしたのだ。しかしながら、ここで客人を無視して屋敷を飛び出し、無礼者だと顔を顰められたところで、何を痛痒に思うことがあろうか。そのことが原因で父が客人に軽んじられることになろうと、僕の知ったことではないじゃないか。
再度ノックの音。トバイアは決意を固める。
幼い容貌に酷薄な笑みを貼りつかせ、トバイアは扉のノブに手をかけた。
――トバイアは、自分が不幸だと思っていた。
――それは、満ち足りているからこそ生まれた傲慢。
――ならば神は、これを罪と定め、それに対して罰を与えようとしたのだろうか。
その日、トバイアは本当の不幸がどういうものなのか、痛感することになるのだった。