蛮族の主たる活動時間は、夜だ。
蛮族の大半は暗視能力を持ち、夜闇に紛れて行動する。逆に日中では肉体が弱体化を引き起こし、十全に能力を発揮出来ない蛮族もまた多い。
とはいえ、《不浄領》は人族の街だ。確かに他領に比べれば蛮族の割合は多い方ではあるものの、住民の九割以上が人族であることには変わりない。人族の常識に従えぬ者は、それは即ち人族の敵。潜り込んだ
そんな理由で、《不浄領》領内の街、ケートレアの夜は静かだった。
神殿が日没を告げる鐘を鳴らしてから、およそ二時間。既に商店の看板は下ろされ、扉は固く閉ざされている。あちこちの酒場からは活気あるおしゃべりの声が途切れることなく続いているものの、基本的に外を出歩くような輩はいない。特別に許可を受けたエルフやドワーフなどの暗視能力を持つ人族の兵士が、担当区域を巡回しているくらいなものだろう。
また、窓から明かりが漏れている民家も少数だ。貴重品とまではいかないものの、蝋燭や、ランタンに使う油はそれなりに高価なものなのである。特に生活の苦しい貧乏人たちが多く住まうケートレア北部では尚更、家人の大半は夢の世界へと誘われている。
そんな月明かりしか届かぬ暗闇の世界を、仮面をつけた三つ目の少女が一人、確かな足取りで歩いていた。
一見特別なことは何も無さそうな歩き方なのに、その少女からは足音がしなかった。仮面の奥で爛々と光る黄金の瞳が、油断なく周囲を警戒している。
マーシィだ。そのシャドウ特有の黒に近い灰褐色の肌は、まるで同化するかのように闇の中へと溶け込んでいる。
やがて、マーシィは公園に行き着いた。
日頃、主婦たちが集まって世間話に興じたり、子どもたちが駆けまわっているその公園には、人の気配というものが存在しない。時間も時間なのだから当たり前の話の話である。仮面のシャドウは端のベンチに腰掛けると、そっと自身の耳に指を添えた。
耳には、黒いドロップ型のピアスがあった。そのピアスに指を這わせ、マーシィはゆっくりと口を開く。
「――刺抜きより、水遣りに告げる」
周囲には何者の気配もない。仮に目撃した者がいたとしても、独り言を呟いたようにしか見えないだろう。
しかし、十秒ほどの間を置いて、ピアスから突如、堂々とした口調の女の声が響いた。
「――――」
その声は小さく、ピアスをつけた少女の耳にしか届かない。
マーシィの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「亜麻色」
「――――」
「薔薇」
「――――」
「害虫」
「――――」
「絆」
虫の鳴き声だけが微かに響く公園の中、マーシィはピアスから聞こえてくる声と、短いやり取りをいくつか繰り返す。
やがて、少女は仮面の下で相好を崩した。
声色も、先程までの事務的な様子とは違う、親愛の情が混じったものとなる。
彼女を知る者がこの場にいたら、きっと驚いたことだろう。
それは彼女が
「お久しぶりです。そちらも元気そうで何より――え? あはは、ご冗談を。ところで、こうして『通話のピアス』を送ってきたということは――」
マーシィが『天高き花火亭』に戻ると、そこは小一時間前に外出した状態と変わらず、喧噪に満ちていた。
「ったく、聞いてるんですかぁ!?」
「聞いてる、聞いてるわよ」
「大体ですねぇ! マーガレットさんのくせに生意気なんですよぉ! マーシィ! マーガレット! 名前の最初の二文字も同じだなんて……羨ましい!」
「あんたも、あたしのことメグって呼んでいいのよ?」
「呼ぶわけないでしょぉ!? これでも敬ってんですよ、年上はぁ!」
いつも自分たちが使わせてもらっている――別に独占しているわけではないのだが、他の冒険者たちが遠慮して座ろうとしない――テーブルには、出発前はきちんと給仕をしていたはずのドルチェが座り込み、ぐでんぐてんに酔っ払った様子で隣のマーガレットにくだを巻いていた。
その脚は人間のものから彼女の正体――ラミアのものへと変貌しており、マーガレットと逆側に座った給仕服の男――イオルを締め上げていた。哀れイオルは泡を吹き、青ざめた顔でテーブルに突っ伏しているのだが、ドルチェはまったく気付いた様子はない。
いくら街の住人たちが蛮族という彼女の正体を知っていたとしても、緊急時でもないのに人前にその異形を晒すのは褒められた行為とは言えないだろう。しかしながら、そのことを注意しようという勇気ある者は、店内にいないようだった。
「珍しいわね、ドルチェがこんなに酔っ払うなんて」
「確かに。いつもはマーガレットが酔って奇行を晒しているところを、ドルチェが介護している場面だ」
ドルチェの相向かいの席で我関せずとばかりに専用の小箱で鍵開けの練習をしていたミナは、その優れた
「ちょっと、あたしはこんなに酷くないわよ」
同じく、斥候としてマーシィやミナと並び立つマーガレットもまた、マーシィが店に戻った瞬間を目ざとく感知していたらしい。
唇を尖らせるマーガレットに、やれやれ、と二人の少女は同時に首を横に振る。
「自覚がないって、本当に迷惑な話だわ」
「毎度毎度絡まれるワタシたちが、どれほど迷惑していると思っているんだ」
「な……何よ、知らないっての、そんなの」
ジト目で睨まれ、マーガレットは腰を引く。味方を探すように周囲を見渡すが、冒険者たちや店主のミックは顔全体を背けるようにして目を逸らす。日頃、泥酔したマーガレットに散々迷惑を被ってきた彼らが一斉に取ったその行動が、彼女の酒癖の悪さを何よりも雄弁に語っていた。
「あ、お姉さまぁ!」
ようやくマーシィに気付いたドルチェが、うねうねと大蛇の下半身を揺すりながら近寄る。締め付けから解放されたイオルがごぶぅ、と変な音を立てて息を吐いた。
「また例の上司からですか! また私の側からいなくなっちゃうんですか!?」
「こら、人の事情をあんまり大声で話さないの」
「せっかくお姉さまにべったりのコリンさんがいないのに! お姉さまったら、あんまり血を吸わせてくれないんですから!」
「イオルの吸ってなさいよ」
「お姉さまのも、吸いたいんですーっ!」
涙目でぽかぽかとマーシィを叩くドルチェの姿は、とても二十歳を過ぎているとは思えない。
ラミアという種族は女性しか存在しない。そのため、繁殖には必ず人族の男性が必要となる。そうして生まれた子の容姿は、父の種族と近寄ったものとなる、とマーシィは以前ドルチェに教えてもらったことがあった。
ドルチェの父はドワーフだ。ドワーフという種族は総じて背が低く、男性は筋肉質で豊かな髭を蓄えており、女性は人間の少女のように細身で、どれだけ年齢を重ねてもほとんど老化しないという特徴を持つ。マーシィよりも年上のドルチェが幼い容貌をしているのも、それが原因なのだろう。
そして、ラミアは定期的に人族の血を吸わなければ、衰弱死してしまう体質だ。とはいえ、ドルチェに関してはイオルが毎日のように血を与えているので、マーシィの血を求めるのは単に趣味嗜好の部分が大きい。
「それに、一人でどこかへ行かれると心配なんですよ! ちゃんと帰ってくるのかって!」
「ああ、今回はメグに同行を頼もうと思っているのだけれど」
「え、あたし?」
突然名を呼ばれ、マーガレットが驚いた顔を見せる。
「ちょっと面倒な案件でね。力を貸してほしいのよ」
「だ、だったら私も!」
「別の領に行くのよ? ドルチェ、あなた正体を悟られない自信があるのかしら?」
「う……」
ラミアは下半身を人族のものに変化させることが可能だが、それは一日最大十八時間が限度とされている。
ドルチェが蛮族という正体を知られてなお受け入れられるのはこの《不浄領》、あるいはその周辺領だけだ。『黄昏求道団』の勇名が届かない他領や異国では、ドルチェは人族に仇為す蛮族以外の何者でもない。
本来、人族と蛮族の間には、それだけ深い溝があるのだ。ドルチェはすっかり酔いが覚めた様子で、すごすごと引き下がった。
「というわけなのだけれど、いいかしら、メグ?」
「あたしは構わないけど」
「ありがとう。そういうわけで、悪いんだけど今回の遠征は別のパーティを頼ってくれないかしら、ミナ」
「……仕方ない。リーダーの方針に異は唱えられない」
「いや、我儘くらい言ってくれていいのよ?」
「元々コリンの帰還が不透明なスケジュールだった。問題はない」
なんでもない様子で、ミナは鍵開けの練習に没頭している。
一ヶ月に一度行われる、地下工場への一斉突入の日が近日に迫っていた。マーシィとしても、ミナの復讐のために参加してあげたい気持ちはある。
しかし、個人的に受け取った依頼のほうが、マーシィの中では優先順位が上だ。何を差し置いても、ここだけは譲れない。
「アムタイから声をかけられている。ワタシとドルチェは、レイブレンのパーティに入れてもらうことにしよう」
「あら、すっかり仲良くなったのね」
「別に……そういうわけではない」
ぷいっとそっぽを向いてしまったミナに苦笑していると、さめざめと泣きながら酒を呷っているドルチェの相手を復活したイオルに任せたマーガレットが、ちょいちょいと手招きしていた。
顔を近づけると、耳元に唇を寄せ、
「女帝の依頼なのよね? あたしが必要ってことは、結構危ない橋を渡るってこと?」
と、小声で囁く。
「やること自体は、単に敵を倒すだけよ。ただ、その相手が厄介でね」
マーシィもまた、声を潜めて応答する。
仮面のシャドウ、"美しき徒花"が度々女帝セラフィナから依頼を受け、ラディータを離れて密偵として活動していることを知る者は少ない。依頼があるときは別の密偵が"通話のピアス"――どれだけの距離があろうと、一日一回、最大十分間だけ対同士で会話出来るピアス――を予め定められた方法でマーシィに預け、マーシィはピアスを通じて依頼を受けた後、やはり定められたやり方でピアスを返却する。全ては女帝とマーシィの繋がりを悟られないためだ。
ドルチェとミナは依頼者が女帝だとは知らないし、マーガレットは女帝とマーシィの間に存在する特別な関係に気付いていない。二人が血の繋がった姉妹だと知っているのは、姉たちを除けばマーシィがこの世界で唯一親友だと認めているコリンだけだ。
「敵の種族は?」
「メグは知らないと思う。私も知らなかったし……ただ、凄い強敵よ」
一拍置いて、マーシィはその名を告げた。
「デュラハンロード。人々に死の宣告を与える首なしの騎士。強化された魔動バイクに騎乗し、数々の高位魔法を操る、凶悪なアンデッドよ」