「単純な女だ」
ラスティンはその端麗な容姿に似つかわしくない、下卑た笑みを浮かべた。
立ち止まり、感覚を研ぎ澄ませる。背後から誰かがついてきているような気配は、ない。
ラスティンの
「ま、あの女なら、いい供物になってくれそうだぜ」
先程までの上品さはどこへやら、乱暴な口調で独り言を呟く。
この二週間、信用を得るためにひたすら『いい人』を演じ続けてきたせいか、肩が凝ってしょうがない。だが、それももう少しの辛抱だ。
ティコは完全に、自分が皇子だという話を信じきっている。普通はもう少し疑ってかかるものなのだろうが、冬が近づき、袋小路に追い詰められた絶望感で、ラスティンという一縷の希望に縋ってしまっているのだろう。
おめでたい話だ、そう彼は嗤う。
幸運なんて、拾ったところですぐに手から零れ落ちてしまうものだ。
かつては彼も、うだつのあがらないただの若者だった。そこに幸運が飛び込み、人生が開けたと希望を覚え――そして、全てを失った。
あの時の屈辱。喪失感。思い出すだけで、体の中から憎悪が溢れ出してくる。
「見てろ……今度は失敗しない。俺はのし上がるんだ……もう一度」
村から大分離れた森の奥深くへと、彼は歩を進める。
枯れ葉を踏みしめ、草薮を手で払い、彼が目指すのは、拠点として見つけていた洞窟だ。
そこでは、魔神――この世界、ラクシアの外から訪れた異形のもの――召喚の儀式の準備を進めている。
ティコは、その儀式に使う生け贄だ。
特別な生け贄を用意することで、呼び出せる魔神はより強力なものとなる。純潔の乙女は、特に魔神の好むところだ。
そして、魔神の召喚と契約には、順調に事が運ぶ"時"がある。彼が計算した結果、この場所で召喚するのなら、明日、儀式に臨むのが良いはずだった。
本当なら、魔神の苗床と呼ばれる別の生け贄があればもっと最良の結果を得られたはずだったが、魔神の苗床を作るために必要な『
仕方なく、妥協を選ぶ他なかったが――それでも、十分な成果を期待することは出来るだろう。
「ん……?」
ようやく洞窟の入り口を視界に収めた彼は、違和感に気付いた。
村の住人は無論のこと、幻獣や蛮族なども寄り付かぬように、彼は洞窟の入り口に細工を施していた。素人目には、ただの丘陵地帯が広がっているようにしか見えないだろう。
しかし――何かが食い違う。この洞窟を最後に出たとき、自分が見たのはこれと変わらない光景だったか? 風の影響だけでは決して起こり得ないような、不自然な移動をしていないか――?
ごくりと唾を飲む。ぴりぴりとした焦燥感が、背筋を走る。
彼は、追われる身だ。奴隷の身分に貶されたことはないが、犯罪者というくくりであれば、ティコと変わることはない。彼を捕まえに、何者かが洞窟に侵入した可能性は、十分にある。
「……仕方ない」
彼はその場から後退し、距離を取った。緊張から額に浮かび上がった汗を袖で拭い、背負っていた荷物袋から一抱えもある壺、そして羊皮紙を取り出す。
羊皮紙には子供の落書きとしか思えぬような図柄が、びっちりと全体を埋め尽くすかのように描かれていた。彼は右手の中指に仕込んだ針で親指の腹を刺し、血の玉が浮かんだ親指を、その契約書の端に押し付ける。
そして、異界の言語で、何事かを詠唱する。
すると、彼の顔がみるみる変化していった。眼と耳が、奇怪に、禍々しく――まるで魔神のような変貌を遂げたのだ。
「出ろ、ザルバード。契約に従い、我に付き従え」
更に、そう告げて壺の蓋を開く。
すると、壺の中からしゅるんと何かが飛び出した。それは、彼の側に降り立ち、残虐な笑みを浮かべる。
皮膜の翼を広げ、大きな角を生やした、赤い肌の異形の存在。どのようにして壺の中に収まっていたのか、その全長は三メートルを優に超えている。
魔神。
彼は壺から、契約済みの魔神を召喚したのだ。
そして顔の変化も、魔神の力を借りたもの――召異魔法と呼ばれる、
「これはこれは、我が主。いよいよ、我をこの世界に解き放ってくれる気になったのかな?」
「馬鹿を言え。いいから、黙って俺の言う通りに歩け」
「おう、いいとも。いいだろうとも。命令には従う、それが契約だからな」
ザルバードは愉快そうに笑い、彼に指示されるまま、洞窟へ近づいていく。
魔神は、契約した召異術師には絶対服従する。しかし、それは魔神が召異術師の下僕になったことを意味はしない。
異界より召喚された魔神は、隙あらば契約主を殺し、自由になる機会を伺っている。忠実な従者のように振る舞いつつ、主の命令を曲解し、裏切ろうと虎視眈々と狙っているのだ。
だから、召異術師は魔神を信用したりしない。契約した以上、魔神を守る義務は生じるが、その関係はドライなものでなければならないのだ。
「洞窟へ入れ。そのまま、ゆっくりと、警戒しながらだ」
ザルバードの背後に続きながら、彼はぎりと奥歯を噛み締める。
施したカムフラージュの違和感に気付いたのは、侵入者がカムフラージュを元に戻そうとして、戻しきれなかったからだ。侵入者は、凄腕の斥候というわけではないのだろう。
だが、斥候として半人前だったとしても、戦士や魔法使いとしても半人前かどうかはまた別の話だ。ひょっとしたら、仲間だって何人も連れているかもしれない。
彼は召異術師として、それなりの腕前は持っていると自負している。しかし、それだけだ。他には斥候としての腕が少々と、護身用に覚えてみた、
「くそっ。こんなところでやられるか。返り討ちにしてやる」
悪態をつく彼の前方、およそ五メートル程度の距離を開けたザルバードが、洞窟内部に足を踏み入れた。
洞窟内部は狭い。
すぐに戦闘になるだろう。左手に召異魔法を使うために必要な『魔神の契約書』を握り締め、彼は油断なく、全神経を異形と化した眼と耳に集中させる。
と――
「――
「!?」
洞窟内部から、淡々とした声が響き渡った――と思った次の瞬間、一陣の風がザルバードの前方に吹き荒れた。
「ザル――」
ザルバードの巨体が邪魔で、詳しいことはわからない。だが、侵入者が魔神の前に躍り出たことだけは、今まで踏んできた場数から、瞬時に推測出来た。
だから、彼は魔神に命令しようとした。その鉤爪で眼前の敵を引き裂け、と。
しかし。
「ガァ……ッ!」
ザルバードは――崩れ落ちた。
不意打ちを仕掛けてきた敵の攻撃で、反撃する機会を与えられないまま、心臓を刺し貫かれて。
赤い魔神は地面に伏したまま、ぴくりとも動かない。僅かな呼吸音も感じられない。
死んだのだ。一瞬で。
そして、ザルバードが倒れたことで、侵入者の正体が彼の目にも届いた。
「ス、スポーン……!?」
そこにいたのは――ザルバードとは別種の魔神だった。
いや、魔神と呼ぶのは語弊があるかもしれない。彼の眼前にいたのはスポーンと呼ばれる、魔神が創りだした擬似生物だ。
他の魔神を模した造形をしているが、知る者が見れば、特徴を大雑把にしか真似ていないのは一目瞭然なため、誤認することはない。
だが――そのスポーンが、ただのスポーンであるはずがなかった。
スポーンはザルバードより格下の魔神だし、魔法の効果を持つ装飾品をあちこちに装備したりしないし、その武器はザルバードと同じく、鉤爪のはずだ。目の前のスポーンは――両手に剣を握っている。
「――会いたかったわ、ゾグオン」
と、スポーンが言葉を発した。涼やかな、女性の声だった。
(こいつ、俺の名前を!)
彼――ラスティンという偽名を名乗っていた召異術師、ゾグオンは、苦虫を噛み潰した表情を見せた。
やはり、追っ手か。しかし、これは、まさか――
「って、この姿じゃわからないわよね。じゃあ、感動の再会といきましょうか」
スポーンの周囲を
いや、変化ではない。元の姿に戻っているのだ。
そう彼は判断した。せざるを得なかった。これは召異魔法の一つ、"
やがてマナの光が消失したとき、そこにはもう、魔神の姿はなかった。
代わりに立っていたのは――女だ。
灰褐色の肌に、銀色の長髪。全体的に細身だが、引き締まった肉体をしている。
だが、一際目を引くのは、その顔につけた金属製の
肌と髪の色、そして三つの目――ゾグオンは、この女がシャドウという種族であることを悟る。
テラスティア大陸の北、レーゼルドーン大陸から流れてきた人族。その猫のような瞳は暗闇を見通し、魔法に対して強い抵抗力を持つ。
「仮面をつけた……シャドウ」
そういえば、そんな噂を耳にしたことがあったな、とゾグオンは思い出す。
アイヤール東部、ディルフラムにほど近い領で、活躍しているという冒険者のチーム。
そのリーダーが、仮面で顔を隠した女のシャドウ。踊るように派手な動きで戦う軽戦士。
名前までは聞き及んでいなかったが、通称――"美しき
その噂を聞いた時には、何故仮面をつけているのに美しいなどと称するのかと、一笑に付したものだが――
「……お前の顔、見覚えが……ある」
ゾグオンは、いつの間にか震えていた。
相手が、自分よりも召異術師として遥かに優れ、ザルバードを瞬殺するほどの実力者だから――ではない。
その容姿に、心当たりがあったのだ。
仮面をつけていても、その突き刺すような瞳は見える。唇の形、顎のライン、全てが、彼の知る存在と似通っている。
何より――彼女は先程、再会という言葉を使った。シャドウはフェイダン地方ではまったく見かけない、珍しい種族だ。そして――ゾグオンの知り合いに、シャドウは一人しかいない。
「お前は!」
ゾグオンは甲高い声で叫んだ。
「お前は、死んだはずだ! 俺が……俺が殺したんだ!」
「ええ、そうらしいわね。その時のこと、私は覚えていないのだけれど」
「……蘇生を受け入れたのか!? お前が!? 魂に"穢れ"を!?」
「ずいぶん迷ったのよ。でも、やっと自由を取り戻すチャンスだった――まあ、それもあんまり覚えてないけど」
女はくすくすと笑う。
そして仮面を手に取り――ゆっくりと、外した。
「あ……あああ……ッ!!」
――美しき徒花とは、よく言ったものだ。
彼女は――美しかった。
まだ幼く、完成しきっていないが――それでも、彼女には『本物』のオーラがあった。
ゾグオンの記憶にある彼女は、ボロボロで、汚くて、痩せ細っていて、小さくて、まるで物乞いの少年のようだったのに。
こんなにも、綺麗になって。
だからこそ、信じられなかった。
彼女が蘇生に応じるなどと。
何故なら。
彼女は。
「我が名はマーシエル・ロズカート。復讐を誓い、闇に生きる咲けずの徒花」
「――"皇族還り"を自ら拒否した、アイヤールの皇女なり」