終わった。
自らの足元に倒れ伏した男の死骸を見下ろし、マーシィは目元に滲んだ涙を拭った。
拍子抜けするほどに、呆気ない結末。
マーシィが得意とする、《集いの国リオス》で学んだ流派、"エルエレナ惑乱操布術"の秘伝を使うまでもなかった。記憶の中の彼はとても恐ろしく、絶対に勝てないと思わせられるような相手だったのに。
放たれた召異魔法"アストラルバースト"は、かすり傷を負うだけだった。
両腕に魔神の爪を生やす"デモンズクロウ"の一撃は、あくびが出るほどに遅かった。
むしろ、ゾグオンより高位の魔神と契約を結んでいる、その自慢がしたいがためだけに呼び出した
だけど――これで本当に、終わったのだ。
自分の正体に気付いたときの狼狽ぶり。
小瓶からアルギガスを解放してみせた際の唖然とした表情。
深い傷を負い、地に頭をこすりつけて命乞いをする惨めさ。
そのどれもが、マーシィの溜飲を下げた。
ならば、これ以上望むものはないだろう。
「仇は討ったわ――義父さん、義母さん」
マーシィ――マーシエルが養子として送られた古株の騎士の家が、ある過激派の盗賊ギルドによって皆殺しの憂き目に遭ったのが八歳のとき。
その盗賊ギルドの首領に拾われたマーシィは、いつか行われるアイヤール皇帝暗殺計画の主犯として最も相応しい存在という理由で、暗殺者として育てられることになった。
これまでの優雅な生活とは一転、ぎりぎり死なないというレベルでしかない暴虐に晒された毎日。
食事は碌に与えられず、風呂は一週間に一回あるかないか。技術の習得が遅ければ殴られ、蹴られ、何度も胃の中のものや血反吐をぶちまけた。
幸いだったのは、彼女の肉体的成長が同年代に比べ、かなり遅れていたことだ。そうでなかったら、彼女はギルドの者たちによって、語るのもおぞましい扱いを受けていただろうことは想像に難くない。
そうして四年の月日が流れたころ、マーシィは救出された。
当時、皇位継承権第一位だった異母姉――現皇帝であるセラフィナが冒険者を雇い、自ら乗り込んでギルドを壊滅に追い込んだのだ。
その時のゴタゴタで、マーシィは逃げ出そうとし――そしてゾグオンに見つかり、殺されたのだろうと、事後報告の形で聞いている。
「――セラフィナ姉様。私は、皇族として戻る気はありません」
蘇生を受けた者は、死ぬ直前から一時間の記憶を失い、更に一日ほどは身体を動かす気力を奪われてしまう。
救出から数日経ち、ようやく現状を飲み込めるようになったマーシィは、会いに来た姉にそう告げた。
「――盗賊ギルドに攫われ、暗殺者として育てられた。輪廻に逆らって穢れを帯び、おまけに魔神使いでもあります。そんな女が皇族を名乗ったところで、逆に、アイヤール皇家の評判を下げるだけの結果となりましょう」
そんなものは気にしなくていい、そうセラフィナは言った。
文句を言う奴は、私がぶっ飛ばしてやるぞ、と。
なんて優しい姉だろう。
こんな素晴らしい姉に、迷惑をかけるわけにはいかない。
「――姉様は、表からアイヤールを導いてください。私は、姉様たちの目の届かない裏の世界から、アイヤールを守ります」
理不尽に奪われた皇族としての将来に、未練がなかったといえば嘘になる。
しかし――どうしても気がかりなことが一つだけあった。
それは、自分を殺したと思しき、魔神使いの師であるゾグオンが行方不明のままだということ。
彼を野放しにしていたら、いつまた、自分のような犠牲者が現れるのか、知れたものではない。
ゾグオンを見つけ出し、成敗する。そのときこそ、マーシィの失った青春に対する復讐が完結し、新たな一歩を踏み出せるのだ。
そして、そのためには、力をつけなくてはならない。
だからマーシィは、冒険者となったのだ。
「……帰ろう。姉様に報告しないと」
そして――これからも、冒険者として生きていく。
皇族として戻ることは出来ないが、姉たちはいつでも、自分を迎え入れてくれる。
ならば胸を張って生きていこう、とマーシィは思う。
咲けずの徒花であったとしても、認めてくれる存在がいるならば、美しくはあれるのだ。
「もしもし。少し、よろしいでしょうか」
「ひっ……!」
声をかけると、その少女は怯えた風に振り返った。
「失礼。私は冒険者の、マーシィといいます」
「は、はぁ……」
「こちらには人を探しに来ました。別に、あなたたちのことをどうこうしようという気はないので、安心してください」
「そ、そうですか」
全然納得した様子を見せず、警戒するようにこちらをじろじろと見つめてくる。
仕方のないことだ。ここは逃亡奴隷の村で、彼女たちは《陰影領ゴラ》から逃げ出した犯罪者。常に追っ手に捕まる恐怖に囚われている。
そこに、仮面で顔を隠した怪しい女が現れれば、警戒しないほうが嘘というものだ。
「こちらに、ゾグオンという名の男が訪れていませんでしょうか」
「ゾグオン……?」
「とある犯罪組織の一員で、現在逃亡中なんです。こちらの方面に逃亡したという情報を得たので、この辺りを捜索中なのですが」
「いえ……知りません」
「そうですか。彼は凶悪な魔神使いで、特に人族の子供や少女を生け贄に捧げようと企てています。丁度、あなたのような」
「お、脅かさないでください」
「すみません。とにかく、気を付けてください。容姿は金髪で、青い瞳の、一見極悪非道とは思えぬような、美しい顔立ちをしています」
「…………え?」
ぽかん、と少女は口を開けて固まった。
マーシィの告げた言葉が、理解出来ないかのように。
「どうしました? 何か、心当たりでも?」
「い、いえ……な、なんでもありません……」
「では、私はこれで。見かけたら、近寄らないようにしてくださいね」
少女に頭を下げ、マーシィは背を向けて歩き出した。
だから、少女が今どんな表情を見せているのか、窺い知ることは出来ない。
興味もない。
おそらく、真実を知るよりも、
しかし、マーシィは教えた。直接的にラスティンとゾグオンが同一人物と言っても反発されるだけだろうから、間接的に匂わせるだけの、自分の立場で出来る最大限の信じさせ方で。
ただ、少女――ティコがあの男に抱いている幻想を、歪ませたかった。
作り出された偽りの恋愛感情だとしても、あの男が慕われているという痕跡は、微塵も残したくなかった。
そんな、ただの我儘だ。
木々の隙間を抜け、冷え冷えとした風が首元をくすぐった。秋の終わりは近い。
――これからどうするかは、彼女たち次第だ。
冬が到来すれば、彼女たちは生きていけないだろう。餓死するか、あるいは凍死してしまうか。
そうなる前に、自分から奴隷としてゴラに戻るのが懸命な判断だ。しかし、彼女たちがそんな理性的な行動を取れるかどうかは、不明とか言いようがない。
マーシィはこの逃亡奴隷たちとは無関係である。自業自得な結末を迎えたとしても、どうすることもできない。助けてあげなければならない義務はないし、そんな義理だって持ち合わせてはいない。
逃亡奴隷となることを選んだのは彼女たち自身だ。マーシィのように、自分の意思とは無関係に、苦境に立たされたわけではない。
ならば、自分の行動には責任を持ってもらわなければならないのだ。
「私も一歩間違えれば、彼女のようになっていたのだろうか」
自問する。もし、盗賊ギルドの首領に拾われなかったら。物乞いになり、盗みを働き、捕まって、陰影領に送られていたのなら。
答えは出ない。
そんな未来は、訪れなかった。過去は変えられない。なら、今を生きるしかないのだ。
自分の決断で。
行動に責任を持って。
「ま……何にせよ、ようやくケリがつけられた。これからは思い残すことなく、新しい人生を楽しませてもらうとするわ」
もう、辛い過去を振り返るのはおしまい。
今ある幸福を、ありのままに受け入れていこう。
仮面をつけたシャドウは晴れやかな表情で、駆け出すのだった。