三百年前。〈
人族と蛮族の血で血を洗う総力戦の結果、最終的に人族が勝利を収めるものの、蛮族の脅威は三百年経った今でも残り続けている。
そんな蛮族を排除し、滅ぼされた遺跡や迷宮を調査し、名声や一攫千金を夢見る者たち。
人々は彼らを、"冒険者"と呼んだ。
そして、そんな冒険者たちが集うのが、冒険者の宿と呼ばれる場所である。
「おはよう、マスター」
「やあ、おはようマーシィ。昨日はお疲れさん」
「ええ、おかげで起きるのが遅くなってしまったわ」
大半の冒険者の宿は、一階が酒場、それより上階が宿泊施設となっている。
この"天高き花火亭"も、そんなオーソドックスな構造だ。テーブル席には店に所属する冒険者たちが集って飲食をしながら情報交換を行っており、壁には各地から集められた依頼表が何枚も貼り付けられてある。
カウンターで帳簿をつけているのは、この店の主人、ミックだ。
引退した元冒険者で、種族は人間。年齢は四十に届くか届かないかといった壮年の男であり、マーシィに視線だけ送りながら、人好きのするにこやかな笑みを浮かべている。
一階と二階を繋ぐ階段はカウンターのすぐ隣に設置されている。ここを使用する者は、すぐにミックが気付く仕組みなのだ。
「あ、おはようございます、マーシィさん!」
「ええ、おはようイオル。ミルクを一杯いただけるかしら?」
「はい、いつものやつですね!」
話しかけてきた従業員が、先程のマスターに負けないような爽やかな笑顔を浮かべた。
まだ十代の、人間の若者だ。
年齢は間もなく成人を迎えるマーシィより少し上程度に見える。
草原色の髪に色白の肌、落ち着いた優しげな顔付きをしており、美少年と呼んでも差し支え無いだろう。
名はイオル。本業は冒険者なのだが、現在は半ば引退状態にあり、すっかりこの店の従業員姿が板に付いてきていた。
「お姉さま! 起きていらっしゃったんですか!?」
「今起きたところよ、ドルチェ」
カウンター席に座ったところで、遠くにいた別の従業員がドドドドドッと勢い良く近づいてくる。
見た目は、十代前半の少女。
肩口で切り揃えられたブラウンの髪に、ぱっちりとした瞳。ウェイトレスの給仕服は若干サイズがぶかぶかだが、それが逆に彼女の可愛らしさを引き立て、よく似合っていた。
「メグとミナは?」
「ミナは散策に出かけました。マーガレットさんは、まだ寝てると思います」
「そう。ドルチェはもうお祈りは済ませたの?」
「はい。だからこうして、久しぶりにお手伝いを」
「昨日の今日だから、ゆっくり休んでてもいいと思うのだけれど。偉いわね、ドルチェ」
「えへへっ」
嬉しそうに、照れた笑みを浮かべるドルチェ。
幼いように見えるが、彼女はマーシィの冒険者仲間であり、優秀な
神官とは神に祈りを捧げ、神の奇跡たる"神聖魔法"を行使する存在。怪我や病気を癒やすのが主な技能であり、彼女が倒れることがチームの全滅に即繋がるほど、重要な役割なのである。
ラクシアにおける神とは、ラクシアを創造せし三本の魔剣に触れたことで神格を得た人族、あるいは蛮族のことだと伝承は語る。
ドルチェはラクシアで知らぬ者はいないとされる
「ミルク、お待たせしました! 今、お注ぎしますね!」
と、そこにイオルが現れ、慣れた手付きで空のカップをマーシィの前に手早く置く。
その上からポットを傾けようとしたところで、くいっ、とイオルの袖が引っ張られた。
「イオル。私が、お姉さまに注ぐよ」
「え? いや、でも」
「お願い」
「…………う、うん」
「ありがと! さあお姉さま、ドルチェが愛情込めてお注ぎしますね!」
イオルにポットを手渡され、ドルチェは満面の笑みでカップにミルクを注いでいく。
マーシィは、仮面越しでもわかる呆れた表情でイオルを見上げた。
「……いえ、まあ、別にいいのだけれど。断るにしても譲るにしても、もう少し自己主張しなさいよ、イオル」
「す、すみません」
「イオルを責めないでください、お姉さま! お姉さまを愛する私の想いに、イオルは答えてくれただけなんです!」
「それは……恋人の前で言う台詞なのか?」
カウンターの向かい側で一連の様子を眺めていたミックが、ぼそりと呟く。
イオルとドルチェは自他共に認める、恋人同士なのだ。
「イオルのことは愛してますよ? でも、お姉さまのことも同じくらい愛してるんです!」
「……やれやれ、"双愛一途"とはよく言ったものだ」
「一途って言っていいのかしら、これ」
名声を得た冒険者は、マーシィの"美しき徒花"のような、二つ名あるいは称号で呼ばれ始める。
それは他人がその人物の功績や印象等から付けたものが広まったか、あるいは自分からそう呼称するよう他人に広めていくパターンがある。
例えばマーシィの場合、謙遜する時に自分のことを"徒花"と自虐的に例えていたことが多く、そこに他者の『あの仮面の冒険者、素顔は美しい顔立ちしているらしいぞ』という噂が重なり、"美しき徒花"なる二つ名が誕生した経緯を持っていた。
対して、ドルチェの二つ名は"双愛一途"といい、これは自分から名乗ったものだ。
「何度も言うけど、私は
「はい! 私が勝手に愛しているだけですから!」
「……イオルはどうなんだ? 恋人がこんなこと言ってるんだぞ?」
「はぁ……ドルチェが心から望んでいるなら、僕は別に……」
イオルは苦笑いを浮かべるも、その目は少しだけ遠いところを見ている。
完全に本心から納得しているわけではないらしい。
「いっそ、イオルもドルチェ以外の恋人を作ってみればいいんじゃないかしら」
「ええっ!? そ、そんなこと出来ませんよ!」
「何言ってるの。男なら、女の二人や三人囲って養えるような甲斐性がなくてどうするのよ」
「おい、女としてその発言はどうなんだ、マーシィ」
「……ん? 何か変なこと言ったかしら?」
かくん、とマーシィは首を傾げる。
マーシィの父、先代皇帝は数多くの妃や愛妾を持ち、その全てに等しく愛を注いだ。
それが男として、あるべき姿なのではないのだろうか?
いや、きっとそうに違いない。
「イオル! う、浮気なんてしないよね!?」
「どの口が言うのよ」
イオルに詰め寄るドルチェの膝裏を蹴り飛ばし、ようやくマーシィはミルクに口をつけた。
蜂蜜を少量溶かしたこの店のミルクは、マーシィのお気に入りだ。これを飲まないと、一日が始まった気がしない。
「そういうマーシィは、恋人は作らないのか?」
「お、お姉さまに恋人なんて必要ありませんよ!」
「あなたはいい加減仕事に戻りなさい」
ずびしっ、と今度はドルチェの額にチョップを喰らわせる。
「モーニングサラダセット、注文するわ。あなたが作りなさい、ドルチェ」
「は、はい! お料理ならお任せください!」
「あ……ぼ、僕も、これで」
「……ふぅ。それで、恋人だったかしら?」
体よくドルチェを厨房に追い払い、接客に戻るイオルを見送ったマーシィは、頬杖をつきながら短く嘆息した。
「私、まだ成人前よ。恋人なんて、十五歳になってから考えるわ」
「どんな男がいいとか、そういう好みぐらいあるだろ」
「そうね……やっぱり、オッサンは嫌ね。付き合うなら、同年代がいいわ」
「ふむ」
頷くミックに、マーシィは憐憫の表情を向ける。
「そういうわけで、申し訳ないけどマスターの想いには答えられないわ」
「別にお前相手に懸想なんぞしとらんわ」
「なんですって!? 私の美貌に一切のトキメキを感じないと!?」
「お前も大概メンドクサい奴だな!」
この
まあいい、自分はまだ成長期。あと三年もすれば、この美貌に更なる磨きがかかり、体型だってボンキュッボンとなるはずだ。
その時になって吠え面をかくがいい――仮面のシャドウは姉、セラフィナのようなナイスバディに育った自分がミックに平服されているところを妄想し、悦に入った。
別に、ミックに惚れられても嬉しくもなんともなかったのだが。
「まったく……どうせアレだろ? 相手の顔も自分に釣り合うような容姿じゃないと駄目だってか?」
「…………」
呆れた風なミックの台詞に、一転、マーシィのテンションが急落する。
「……別に、そんなことはないわ」
「ほう?」
「絶世の美男子っていうのはどうも胡散臭く感じてしまってね……それなりに整っていればそれでいいわ」
かつて自分に召異魔法を教えた師匠の一見害のない微笑が脳裏を過ぎり、マーシィはうんざりとした顔を見せる。
そんな事情など知る由もないミックは、仮面越しに伺える表情の落差にきょとんとした顔をしていたが。
「まあ、同年代で顔に頓着しないっていうなら、すぐにいい出会いがありそうじゃないか」
「そうね」
仮面のシャドウは、にっこりと微笑を浮かべ、
「後は、私より強くて」
「いきなり候補が激減したな!」
「複数の女性をオープンな関係で愛せて」
「何故そこにこだわる!?」
「お年寄りにも子供にも優しい性格だと、なお良いわ」
「いねーよそんな完璧超人!」
「なんでよ!? いるわよ、探せばきっと!」
何故なら、マーシィの父がそんな感じだったからだ。
流石に年齢こそ中年期に入ってはいたが、代々アイヤール皇帝に伝わる強力な魔剣〈
実例が存在するなら、きっとどこかで似たような男が見つかるに違いない。それも、若さという追加要素込みで。
「お姉さま、モーニングサラダセットお持ちしました! ……あれ、どうしたんですか、マスター?」
「……疲れたよ、俺は」
厨房からお盆を両手に持って現れたドルチェに、ミックは深々と溜息をつく。
そんなマスターの様子を意に介さず、マーシィはいずれ巡り合うだろう運命の相手を妄想し、だらしない笑顔を浮かべるのだった。
なんだかんだ言って、マーシィはまだ14歳。
夢見るお年頃なのである。