赤城の夢   作:hekkoween

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あの暁の水平線へ

 

『これより第二ゲートより新東京行きのボートが出航いたします。乗船予定の方はチケットをお忘れないよう、速やかに乗船してください』

 

 夕張は、どんよりと暗い水平線を憂鬱な気持ちで眺めていた。

 時刻は午前四時五十分。昨晩は一睡もできなかった。ストレスで頭がおかしくなってしまっているのか、今でも不思議と眠くはないが、気力は萎え落ち、頭は重く、それに輪を掛けて胸が苦しく、考えるのはたった一つのことばかり。

 結局別れを告げられなかった、あの愛しい姉の、赤城のことだ。

 平賀はひどく心配してたし、残ってもいいと言ってくれた。自分もどれほどそうしようかと思ったが、農家の次女のくせにろくすっぽ野良仕事もできなかった自分がひとかどの知識を授けてくれた恩師への――堅苦しい言葉かもしれないが――忠義の礼は、たとえ姉と慕った人と生き別れても無碍にする気にはなれなかったし、それは引いては夕張の、そして愛する赤城のためでもあると聡明な夕張は理解していた。

 

 夕張は幼いころは病弱で、歩くことすらままならなかった。

 学校のみんなとかけっこをして、途中で胸が苦しくなって、病院に運ばれた日のことを夕張は今でも覚えている。

 父も母も優しかったし、兄も自分の代わりに野良仕事をして家族を手伝ってくれていた。

 それが夕張には辛かった。彼女は聡明すぎたのだ。

 たとえ十かそこらの子供であっても、自分が家族の負担になっていることを夕張は理解できてしまった。

 死のうと思ったこともある。結局恐くてできなかったが、それでも、自分は生まれなければよかったと考えながら朝を迎えたのは辛かった。

 それを救ってくれたのが平賀だった。

 きっかけは両親と一緒に平賀の家に小豆餅を届けたこと。両親と平賀が話し込んでいる間に、夕張は書斎の本を開き、やがて戻ってきた平賀老に『あれはなあに』『これはなあに』と子供らしい疑問をぶつけ、それを気に入った平賀のほうから、うちに来ないかと誘ってくれた。

 そうして平賀の家で本を読み、向かい合って学ぶうちに、平賀が自転車を作ってくれると、それが夕張の転機となった。

 走れば誰よりびりっけつ、途中で息が切れて倒れる自分が、風を切って走れる喜び。夢にまで見たその光景を与えてくれた平賀のことを、夕張は神さまなのかとすら考えた。

 そんな彼女が師と同じ道を行くのは必然だった。病弱な我が子を外に出すのは忍びないと渋る両親を説き伏せて、夕張は平賀と共に北海道を出て行った。

 そこでもう一つの運命と会った。

 赤城だ。

 夕張には姉がいなかったから、赤城は夕張にとっての初めての姉だった。

 歳は四つも離れていたし、同じ学校に通えたことは結局一度もなかったけれど、赤城はやんちゃで気ままな夕張を時に厳しく諫めながら優しく見守ってくれてたし、服のほつれもろくに縫えない平賀と夕張の生活を、本当に近くから支えてくれた。

 困らせたことは何度もあったし、どれだけ心配を掛けたかはわからない。

 だがずっと一緒にやってきた。楽しいことも嬉しいことも苦しいことも分かち合った。自分の世話を焼いてるせいで彼氏の一人もできないのではと、不安になった時もある。

 だけど。いいや、だからこそ。夕張は赤城に恩を返したかった。

 父親の恩に報いようとしている赤城の道を、今度は妹である自分が助けるのだと、それが自分が平賀と巡り会った理由なのだと夕張は固く信じていた。

 だから夕張は平賀から独逸へ征かないかと言われたそのとき、迷いながらも受け入れた。

 巡り会ったのが運命ならば、別れるのもまた運命なのだと。

 そう決めていたにもかかわらず、夕張はひどく消沈していた。夜通し泣いたあの日のように、消えてしまいたいほど辛かった。だけどあの愛する姉の前で別れの言葉を口にするなど、いくじなしの自分がどうしてできるものだろう。

 そうして結局今日になり、別れの一言も言えずじまいだ。

 あとで電話をすればいいかもしれない。そんな簡単な考えすら少しも思い浮かばないほど泣き腫らし、ため息ばかり吐いていた。

「博士、時間じゃ」

 今日だけで何度目かもわからないため息を吐いていると、黒服を着た女性二人がブリーフケースを持って近づいてきた。彼女達は軍人だ。政府の要人である平賀とその被保護者である夕張を守るために、三日前からこうして二人の周囲につき、船の手配から食事まで、あらゆる準備をしてくれた。

「嬢はよいのか」

 背の低い女性が言った。

 夕張に気を使っているのか、平賀は長身のほうの女性と共に先に船に乗り込んでいた。

 残ってもいい、そういう気遣いなのだと思ったが、いち兵士に過ぎない目の前の女性に、平賀の機微がわかるとは思えない。どこか気分が腐ってしまい、夕張は「すぐ乗ります」と素っ気なく言った。

「あまり無理はするでないぞ」

 また先回りされたことを言われた気がして、夕張はため息を吐きながらボートに乗った。

 戦後になってから建造された最新式のフロートボートはどこもかしこもぴかぴかで、十人ばかりの警護を除けば夕張と平賀しかいなかった。普段なら歩き回って計器を調べ、機関室に潜り込もうとしたかもしれない。だが今はその広さも綺麗さも、孤独を思わせるものでしかなかった。

 内臓がふわりと浮き上がる感触がし、ボートが動き出したのがわかったそのとき、夕張はもう二度と赤城と会えないのではないかと思い、衝動的にボートの中を見渡した。

 警護の人間達がいそいそと歩き回って窓から外を眺めている。

 夕張に気を配っている人間など、そこにはまるでいそうもなかった。どこかで警笛の音がする。大きな歓声。向こうの港では別のボートに手を振ってる人達がいるのだろうか。フローリングの床は嫌いだ。白色灯は好きじゃない。足下の絨毯の感触にすら、心臓を抜き取られるような孤独を感じる。

「赤城さん…………」

 い草の匂いがする部屋が恋しい。夕張がこらえきれず泣き出したとき――それは突然姿を現した。

 

「夕張さん!!」

 

 夕張は夢を見ているのかと思った。

 窓の外に、赤城がいた。

 まるで夕張を激するためにでも来たかのように、学校の弓道場でさんざん着ていた胴着を纏って、まぶしいほど綺麗な朱色のたすきをぎゅっと締めた赤城が、大声で夕張を呼んでいる。手を振っている。

 幻でもない。夢でもない。潮風になびく、その美しい黒髪を、自分が忘れたりするものか。

「赤城さん!!」

「夕張さん!!」

 夕張はいてもたってもいられなくなり、デッキに飛び出した。

 そして目に大粒の涙を溜めて赤城を呼ぶと、赤城もまた夕張を呼び返した。

 そこは暁の水平線から日が立ち昇る、青とか、藍とか、紫の、境界があやふやな海だった。

 白波が激しく飛沫を上げるなか、赤城はゆらゆらと揺れる小さなボートのデッキ上で、危なっかしい手つきで必死に手すりに掴まりながら、何度も夕張の名を呼んでいた。船体にはわけのわからない『ぜかまし』の文字。ドロドロと鳴り響くやかましい音。信じられない。馬鹿じゃないの。頭おかしい。あれ石油式の内燃機関だ。昔平賀さんの書斎で見たことがある。動いてるなんて。涙出てきた。あんなの動かなくたって国宝級のお宝なのに! ボートのデッキには他にもぎっしり人、人、人、人! 後ろからは馬鹿みたいな量の国防軍の反重力式バイクとヘリが追いかけてきて――ああ、もうやだなんなのこの人! どうにかしてる!

「バカッ! バカッ! 赤城さんのバカーッ! バカーッ! 大好きーっ!!」

 自分でもめちゃくちゃなことを言っているのはわかったが、夕張はこらえきれなくてわめき散らした。もう涙で目の前はぐちゃぐちゃで、鼻水だって止まらない。平賀さんが膝を叩いて爆笑していた。守衛の人達は気が気じゃないのか、プラズマガンを抱えて窓の周りをうろうろしてて、そのうちさっきの背の低いツインテールのお姉さんが最高に愉快そうに笑いながら「よきにはからえ!」なんて偉そうに言い、みんなそれぞれ困った顔で知らんぷりを決め込み始めた。

「赤城さーんっ!」

「夕張さーんっ!」

「赤城さーんっ!」

「夕張さーんっ!」

「赤城さーんっ!」

「夕張さーんっ!」

「いつまでやってんだバカ! アホ! うおぉっとぉっ!?」

 延々と名前を呼び合う赤城の後ろで、ハッチから顔を出した眼帯女がプラズマ砲にびっくりして頭を下げた。彼方で爆発。飛沫が上がり、超オンボロの骨董品は衝撃を受けてぐらぐら揺れた。甲板ではセーラー、ブレザー、私服を着たてんで歳も背丈もばらばらな少女達が大きな袋を脇に抱えて、クリームたっぷりのパイ生地を後続のボートにバンバン投げては、ワイパーの視界をやっつけていた。

「明石、おっそーいっ! こんなのになんで私の名前つけたの! ひどいよこのボロ!」

「バカ言わないで! 見てよ、私のPTボート! この華麗な舵さばき! 感動的です! う~~~ん最高ッ!」

「てめーが舵切ってるわけじゃねえだクマ! だいたいなんでこんな40ノットも出ないボロ船に球磨たち乗っけて――」

「クマねえこそ自分で舵切ってるわけじゃないニャいのに、なんでそんなえらそうニャなこと言ってんだニャ」

「すみません。船酔いです。さすがに、気分が――ウッ……」

「ああああっ!? か、加賀ッ! あんたなんで私のほうに向けて吐くのよ!!」

「す、すまない。この木曾も……もらいゲロを……ウッ」

「だいじょうぶ、北上さんは酔ったりしてない?」

「んー、だいじょぶだけど。大井っちはー?」

「まあっ、私を心配してくれるのね北上さんっ!」

「三隈、まだ元帥とは連絡着かないの?」

「くまりんこも試してるんですけど、先ほどから応答なくて」

「三隈ねぇ。それ受話器逆じゃーん?」

「なんかすっごいバカっぽい?」

「しょうもないですわねえ……」

「カメラさーんっ! こっちこっちーっ! 那珂ちゃんの水上ゲリラライブだよーっ!」

「zzzz……」

『コラーッ! クソ提督ーッ! 待ちなさぁーいっ! 待てっつってんのよーっ! あたしのー! どこがーっ! 不満なの! バカーッ!!』

 並走する夕張のボートは中の守衛達のおかげで大人しかったが、後方のボートやヘリ達はそうは行かない。プラズマ砲弾、光子魚雷、炸裂徹甲弾を搭載した機銃による威嚇射撃があめあられと降り注ぎ、しかも藤田の知り合いと思わしきヘリパイロットがしつこくエンジンを狙ってきている。天龍とかいう眼帯女性の神業操舵でかろうじて被弾は避けてはいるが、船の舳先があっちを見たり、こっちを向いたりする度にデッキからはぼろぼろと人が落ち、船室はすし詰めの少女達が天井に尻をぶつけるようなありさまだった。

「オイッ! このままじゃ船が寄せられねえぞ!」

「うむ。完全な重量オーバーだな」

 天龍が悲鳴に近い叫びを上げると、長門がえらそうに腕組みして言った。

「いらない荷物を捨てるとよかろう。機動性はだいじ――な、なにをするきさまーっ!?」

「おーしっ、でかくていらねえのから落とせ落とせ! ……っていうか、乗りすぎなんだよ降りろボケナス!!」

「北上さーんっ! ああっ、私達なんだか悲劇のヒロインみたいっ……!」

「いやー、一緒に落っこちるんだけどね?」

「ワオ! 私の出番、もうこれだけですカー!?」

「また沈むのね……」

「ギニャーッ! 水は嫌だニャーッ!」

 どぼどぼと音を立てて少女達が海に投げ込まれていく度に、ボートは滑らかな機動を取り戻していった。

 赤城と夕張の距離が次第に近づく。

 

 あと一メートルは遠すぎる。

 あと五十センチでも、まだ遠い。

 あと三十センチでも、触れあえない。

 たった十センチしか離れてないのに。

 

「夕張さんっ!」

 泣きながら手を伸ばす夕張に、赤城もまた手を伸ばした。

 言葉ですらない言葉をしたためた、ほんの数言ばかりのその文を。

「天龍さんっ!」

「――行けぇっ!」

 天龍がスロットルを一気に開け、船が勢いよく加速した。ボートが夕張をぐんと追い越す。

 気が付いたときにはもう五メートル。

 こんなにも遠い十メートル。

 離れるときだけこんなに早い。

 泣いても笑ってもチャンスは一回。

 当たるかどうかは運次第。

 

 ――だけど、神さま。どうかいるなら。

 

「夕張さんっ!」

 赤城はその手紙を右手で掴み、そっと夕張に向けて放った。

 海色に溶けた世界の中で、時間が永遠に引き延ばされる。

 手紙はふわりと宙を舞い、夕張目がけて飛んでいく。

 

 きれいに折りたたまれた白い紙。

 たった一機の紙飛行機(かんさいき)は夕張の手にすとんと収まり、たしかに赤城の心を届けた。

 

「赤城さんっ!!」

「――ッ!?」

 瞬間。ぐわん、と視界が急回転する。

 体がふわりと浮き上がる。ガリガリと引っ掻くような音が聞こえた。

 何が起こっているのかと思ったそのときにはもう、夕張が遙か地上に見えた。

 PTボートが、飛んでいる。

 

 空を飛びながら、赤城は笑った。

 暁の太陽に照らされた海は、馬鹿馬鹿しいほど青かった。

 夕張は泣きながら微笑んでいた。その笑顔を見られただけで、赤城は本当に満足だった。次々と喜びが満ちあふれ、胸が熱くてはち切れそう。

 こんなにも大きくなってくれてよかった。あなたの旅路を祝福したい。だから、さよなら。また会いましょう。

 そうして永遠にも思える時間の中で赤城と夕張は見つめ合い、やがてざぶんと水柱を立て、赤城はぶくぶくと沈んでいった。

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