赤城はゆっくりと浮上して、明るい水面から顔を出した。
胴着が重い。水が冷たい。ぺろりと舐めた水は辛くて、死ぬほど寒いと赤城は思った。
「無事か」
ぶっきらぼうな声をかけられ、顔を上げると、藤田だった。
彼はいつの間に身につけていたのかオレンジ色の救命具を着て、転覆したボートの上に座っていた。
赤城は胴着の重さにあえぎながら、めちゃくちゃに苦労してボートの端までなんとか泳いだ。水の上を走れでもしたら、こんな苦労はいらないのだが。
「一体なにが?」
やっとボートの縁まで上がって尋ねると、
「岩に乗り上げたらしい。また見事に飛んだものだが」
彼がつい、と顎を向けたその先に、なるほどいかにもそれらしいジャンプ台のような岩が浅瀬からひょっこり顔を覗かせていた。岩の上には、やはり泳ぎ着いたと見られる天龍と、途中で蹴り落とされた何人かの少女達が集まっており、『ふざけんじゃねえ』だの『くたばれクマ』だの『うるせえボケ』だのと到底女子とは思えない言葉遣いでなじり合い、見る間に殴り合いに発展していた。
一応振り返っては見たものの夕張の乗ったボートは、もう随分と小さくなっていた。
あれでは声も届くまい。赤城は「ふう」とやり切ったため息を吐き、ボートの縁に腰掛けて、戯れにざぶりと
瞳をきらりと暁が焼き、赤城は海の彼方を見つめた。
ほんの少しずつ広がっていく、橙色の、日の光。薄いうろこ雲のかかった、枯れ木に赤む赤城の山々。軌道エレベーターは天を貫き、
赤城はその穏やかな海を、見たことがあった。
夢の中で。
記憶の中で。
それは赤城が空母でいたとき、ずっと夢見ていた海だった。
「これからどうする」
煙草をくゆらせながら藤田が聞くと、赤城はゆっくりとそちらを向いた。
彼は銀色のケースから煙草を取り出し、古めかしいマッチで火を付けて吸うところだった。
「煙草を吸うのですか」
いまどき珍しい人だ、という含みを持たせて聞くと、
「昔は吸っていた。嫌いな人間が傍にいたので、それをきっかけにやめてたのだが」
「奥様ですか」
「いや部下だ。だが考えてみればもう部下ではなかった。だから今日からは吸うことにした」
「はあ」
「もう遠慮する必要はないということだ。君もそうしろ」
相変わらず要領を得ない話だったが、彼はまた大事な話をしはじめた。
「なにかを伝えられたのだろうが、別にこれきりにする必要はない。私には、海軍の知り合いがいる」
口が苦手だという彼は、逐一言葉を探しながら話しているようだった。あるいは赤城の別の親友のように、感情を表現するのが特別下手なのかもしれない。そう考えるとあの加賀が、この男と知り合いな理由もわかる気がした。
「軍の機材を使えば、ドイツとここを往復するのも毎日でも無理ないことだ。君が必要だと感じるのなら――」
「朝ご飯はお蕎麦がいいです」
「蕎麦?」
暁を見つめてそう言う赤城に、藤田はオウム返しに尋ねた。
煙草の臭いは好きではないが、彼のささやかな楽しみならば、他人がとやかく言うことでもない。
赤城は半分だけの履き物を捨て、足袋でちゃぷちゃぷと波を蹴りながら言った。
「言いたいことは言いました。だから、今日はお蕎麦を食べます。今は、それが必要ですね」
「その次は」
「お昼は……お寿司がいいですね」
「ふむ」
「すみません。朝のデザートは最中がいいです」
「最中か。最中は好物だ」
「はい。よいお店を知ってるんです」
「奇遇だな。私もいい店を知っている。……だが本当にそれでいいのだな?」
念を押すように尋ねる藤田に、赤城はこともなげに頷いた。
「はい。別に、急ぎませんから」
赤城は一度彼に微笑み、そして水平線にも微笑みかけた。
そう。別に急ぐ必要はない。
悲しむ必要もない。涙もいらない。ただ少しだけ、あの子がいないのはさびしいけれど、べつに死に別れたわけじゃあないし――心はいつも繋がっている。
この穏やかな海のように。どこまでも広がる空のように。どこまでも分かたれることなく繋がってるのだ。
それを、赤城は忘れてただけ。会おうと思えばいつでも会えるし、声も聞ける。姿も見える。ご飯は作ってあげられないけど、また鳳翔さんや間宮さんから教わったとびっきりのごちそうレシピを教えてあげるぐらいはできる。
だから、おいしいお蕎麦を食べるのだ。
「あの子はお蕎麦が大好きなんです」
「そうか。私も蕎麦は好物だ」
「もう! さっきからあなたはそればっかりです!」
「悪いが私は言葉を知らない」
「はいはい。それはもうわかりました」
赤城はにっこりと微笑みながら、かつて見た夢のことを思い返した。
空母になった自分の夢を。真っ赤なたすきをぎゅっと締め、波間を走る自分の夢を。平和で穏やかな海をひたすら夢見て、闘い続けた誰かの夢を。
あれが誰の夢だったのか、赤城にははっきりとはわからない。
だが自分の夢ではないはずだ。
なぜなら赤城は、夢を見ている。
そう遠くない未来の夢を。やがて訪れる小さな夢を。
空母ではない、自分の夢を。
晴れ渡る空と海を見ながら、穏やかな波にたゆたいながら、潮騒の音に耳を傾け、少しだけ寒さに体を震わせ、朝餉の蕎麦を楽しみにして、昼餉の寿司に思いを馳せて、夕餉の内容を考えながら、偏屈でおかしな男と肩を並べて、赤城はこれからの夢を見ている。
いつか父の工房で、手作りのビードロを一つ作って、その出来の悪さに苦笑いして、きっと立派に成長した愛しい自分の妹に、『おかえりなさい』と手渡す夢を。きっとそこにいるだろう、たくさんの友達、悪友達と食べきれないほどの芋を煮て、ほんの少しだけお酒を飲んで、またいつか会う約束をして、別れて、また会う、そういう夢を。
あの優しくきらめく平和の夜明けに、幸せでささやかな夢を見るのだ。
〈了〉
おしまい。
前編終わってから年単位で時間またいで書いたのですが、前編読んでなくてもわかるように書いたのが後編部分です。
ひょっとしたら彼女は前世で艦娘だったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。藤田先生は提督だったかもしれないし、違うかもしれない……そんな感じ。
長々と付き合っていただきありがとうございました。
なお、超絶どうでもいいことですが、この作品は洋物のクソ濃ゆいSFボードゲーム『Warhammer 40,000』というゲームのPCゲーム版、『Dawn of War』という作品をオマージュしています。皇歴四万年という単語でピンと来た方はぜひお友達になりましょう。
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