「赤城さん、お昼はどうしますか?」
午前の講義が一段落し、赤城がノートをまとめていると、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、加賀だった。
彼女は大学からの知り合いだったが、なにかと赤城と気が合って、今では親友と言える間柄だった。
「今日は外で食べようかと思います。加賀さんは?」
赤城が尋ねると、加賀は無表情で頷いた。
「赤城さんとご一緒します。……他に誘える方はご存じでしょうか」
「霧島さんは……もういないみたいですね。伊勢さんたちもお休みですし、今日は二人で参りましょうか」
「はい。今日はカレーが食べたい気分です」
「私はお蕎麦がいいですね」
「では鳳翔さんのところにしましょうか。今日は日替わりがカレーの日です」
四方山話をしながらロッカーに風呂敷をしまい込み、二人は講堂を後にした。
五段重ねの弁当箱は二限の途中で空にした。頭脳労働は腹が減るのだ。
●
構内は今日も盛況だった。
軍の寄宿舎を改造して作られたという変わった来歴を持つこの大学は、沼田では唯一の大学だ。
施設はおおむね頑丈で、どこか刑務所めいた空気があるのだが、狭いながらも寮があったし、敷地面積はかなりあるため、後から建てられた施設も多い。前橋の国立大学にはかなうほどではなかったが、いち地方大学としては恵まれているほうだと聞いている。
「来週にはもう卒業する先輩方がいるんですね」
「そうですね。少し寂しくなるかもしれません」
「そうだな。あまり気弱なことは言いたくないが、お前達と会えなくなるのは私もやはり寂しいよ」
突然後ろから声を掛けられ、二人は振り向くことになった。
四年生の先輩、長門だ。手には巨大な風呂敷を持ち、食事時ということが窺えた。
「長門先輩、こんにちは」
「ご機嫌よう」
「ああ、ご機嫌よう。お前達もこれから昼か」
「はい。鳳翔さんのところでお世話になろうかと思いまして」
「なるほど。彼女のアジフライは絶品だからな」
長門は気持ちよくからから笑った。
〈鳳翔〉は繁華街の定食屋で、女将の通称でもあった。
味は格別、値段は親切、料理の盛りはとびきりによく、美人で気立ての良い女将もいると近所でも評判の店だったが、しかし大きな行列が出来るでもなく気が向いた時にいつでも使える、学生達にとっての憩いの場だった。
「長門さんもどうですか?」
「喜んで……と言いたいが、今日は妹を待たせてるんだ」
長門は笑って肩をすくめた。
彼女の妹の溺愛ぶりは、生徒達には有名だった。
察するに、今日も構内のどこか静かな場所で仲良く食事を取るのだろう。一人っ子の赤城だったが、そういうにぎやかさには覚えがあるし、いいものだというのも知っている。
「甘えん坊の妹さんを持つと、長門さんも大変ですね」
「なに、これも姉のつとめだよ。それにあの子も立派とはいえ、お前たちが思っているほど完璧な女じゃない。まだまだ至らない私だが、せめてあの子が一人前の淑女になるまで力添えをしてやらねばね」
「ご立派です。私も見習わせていただきます」
『是非そうするといい』などと胸を張られては、もうやっかみの言葉も出てこない。
これでくだんの妹からもことあるごとに姉の惚気話を聞かされるというのだから、似たもの姉妹にもほどがある。
「さて、それでは私は失礼するよ。お腹を空かせた私の子猫が、だだをこねるといけないからな」
「はい。どうぞよろしくお伝えください」
「それでは」
気取らない仕草で手を振って、長門は颯爽と去っていった。
ああした気持ちの良い人間を人は『粋』と言うのだろう。
じっと長門を見送る赤城の隣で、加賀がぽそりとつぶやいた。
「それにしても、こうして見ると改めて意外だなと思います」
「なにがですか?」
きょとんと赤城が尋ねると、
「いえ。赤城さんの好みの方は、もっと可愛らしいタイプだと思っていたので」
「加賀さん! 何をおっしゃってるんですか!」
「恥ずかしがらなくてもいいと思います。長門さんはあの通り――」
「いけません! そういうことを言うならこうですよ!」
「話し合いで解決しましょう。暴力はなにも産みません」
「えいっ! えいっ!」
赤城にぽかぽかと胸を叩かれ、加賀がくすりと笑いをこぼす。
そんなこんなで二人が辿り着いたのが、繁華街の一角にある食堂〈鳳翔〉だった。
「いらっしゃいませ。あら、赤城さんに加賀さんこんにちは」
上品な深紫の暖簾をくぐり、店の中へと足を踏み入れると、早速女将の鳳翔が挨拶してきた。
「こんにちは」
「こんにちは鳳翔さん。繁盛してらっしゃいますね」
「ええ、おかげさまで。今日はお二人様ですか?」
「はい。今日もお世話になります――と言いたいところなんですが……」
二人も丁寧に会釈を返すが、一つ困ったことがあった。店内が繁盛しすぎているのだ。
カウンターは満席で、テーブルにも見たところ目立った空席はない。
赤城がそれを目配せすると女将は申し訳なさそうに、
「ごめんなさいね、赤城さん。少し待っていただけますか」
「いえ、お昼時ですからお構いなく。加賀さんも大丈夫ですよね?」
「はい。堪えきれないほどの空腹ではありませんので」
「まあ! それでは今日は腕によりを掛けてお作りしますので――」
「赤城先輩! こっち! こっちです!」
二人が玄関近くの待合席に腰を下ろそうとしたそのときだった。
奧のテーブルから聞き覚えのある元気な声。視線を向けると、鮮やかな青いセーラー服。赤城の友人の
ぱたぱたと手を振って、こちらに来るよう促している。
正面には白髪の紳士が座っていたが、見たところちょうど二つの空席があるようだった。
「鳳翔さん。あちらの席にお邪魔しても構いませんか?」
「ああ、鳥海さんですね。わかりました。すぐにお茶をお持ちします」
「お世話になります」
「ではまた後で」
加賀が一礼すると、鳳翔は挨拶もそこそこにするりとその場を立ち去った。
どうやら相当忙しいらしい。今も店内では追加注文やお冷やの催促の声が上がっており、鳳翔以外の従業員もねずみ花火のように動き回っている。
「参りましょうか。ここに立っているとお邪魔になりそうですから」
「賛成です。お腹も減ったことですし」
「もう! 今日の加賀さんはそればっかりです」
よほど空腹なのだろうか。どこかそわそわした加賀と連れ添い、鳥海の待つテーブルに着く。
「こんにちは鳥海さん」
「どうも」
「どうもお久しぶりです、赤城さん」
赤城と加賀が会釈すると、鳥海と――隣の男性も会釈を返してきた。
鳥海が顔を上げる。くるりと丸っこい瞳がきらきらと輝いているように見えた。
相変わらずまぶしい目だった。
赤城が大学に進んで早二年、こうして鳥海と食事をするのは随分と久しぶりなように感じる。
鳥海はかつて赤城が通っていた高等学校の後輩で、四姉妹の三女だと聞いている。
姉たちとはほぼ面識がなかったし、二つも学年が離れてはいたが、勉強熱心で礼儀正しい鳥海を赤城はひどく可愛がり、試験の前や休みの日にはよく一緒に勉強していた。赤城が卒業してからも家庭教師の名目でたびたび鳥海の家を訪れてはいたものの、なぜか四女の摩耶に毛嫌いされているせいで上がらせてもらったことはほとんどないのだった。
「こちらは藤田先生、私の塾の講師をしてらっしゃる方です」
どこか弾んだ声で紹介する鳥海。
すぐに挨拶が来るかと思ったが、男はなぜか赤城と加賀を交互に見やり、じっと黙ったままだった。
「先生?」
不思議そうに鳥海が言うと、
「……すまない。知り合いに似ていたような気がしてね」
「私がですか」
と加賀。男は小さく頭を振って加賀の目を見据えると、
「いや、君の顔は忘れない」
まるで殺し文句である。
「加賀さん、お知り合いだったのですか?」
赤城が聞くと、加賀は頷いた。
「ろくでなしの隣人です」
「ろく――」あんまり過ぎて赤城は詰まった。
「鳥海君の紹介通り、塾の講師をしている藤田だ。君たちのことはよく聞いている」
藤田と名乗るその男性が、目の前のやりとりを見てないかのように頭を下げる。
抑揚のない、朴訥といった印象の声。
歳は60から70ほど。がっしりとした細身の長身に、真っ白な頭髪と立派な口ひげ。目鼻の彫りは深く、どこか日本人離れをした容姿。左目をまたぐ大きな傷があるが、その優しげな眼差しのおかげだろう、凄味やいかつさは感じない。むしろ頑固な父親のような安心感を覚えるその男性に、赤城は一目で好感を持った。(なぜ『ろくでなし』呼ばわりなのかは不思議だったが)
「初めまして藤田先生。赤城と申します」
「よろしく。赤城君」
お辞儀をする赤城に、藤枝は深いお辞儀を返した。
そして赤城が頭を上げるのを待ってから姿勢を正す。
ともすれば孫かと間違われそうなほどに年の離れた赤城に対して慇懃すぎるほどの礼を尽くす藤田は少し奇妙に思えたが、それが彼の性格なのかもしれない。
やや戸惑う赤城をよそに、鳥海は普段より少しばかり大きな声で、彼を紹介してくれた。
「今日は開校記念日で学校がお休みだったので、昼前から先生のお宅にお邪魔していたんです。あ、先生は以前は京都の大学で教鞭を取っていたほどの方なんですよ! いつもためになる話をしていただいていまして……それで今日はいつものお礼に手料理でもご馳走できないかと思ったんですけど――」
「本当、この人の出不精ときたら苔のむした石みたいで」
いつの間にか席に来ていた鳳翔が、茶を置きながらそう言った。
「藤田さんも常連なのですか」
赤城が尋ねると、鳳翔はにっこりと微笑んだ。
「いつもご贔屓にしていただいてます。ねえ、藤田先生?」
鳳翔は上等な漆塗りの盆から千枚漬けや柴漬けの盛られた小鉢を手際よく卓に下ろしながら藤田に聞いた。
彼はまるで珍しい物でも見たかのように、その小鉢の一つ一つを眺めてこう言った。
「相変わらずよく漬かった柴漬けだ。随分と久しく食べていない気がするが」
「一ヶ月と十日前ですよ、先生。もっと頻繁にいらしてくれてもいいんですのに」
いたずらっぽく鳳翔が言うと、
「すまない。だが来てよかった」
「柴漬けが見られてですか?」
「いや、君の元気そうな顔が見られた」
完璧な無表情で彼は言った。しかし鳳翔はころころ笑い、
「ありがとうございます。でも、たまには違う喜びかたをしてくれてもいいんですよ?」
「善処する。……今日はなにか良い物はあるか」
「それはもう。活きのいい車海老が入ったばかりです」
「そうか。海老は好物だ」
「存じてますよ。今日はあなたの大好物をお作りしますね」
「ありがとう。……そうだ。最後に一つ言い忘れてたが――」
「『いいお尻だ』は聞き飽きましたよ?」
一瞬ぎょっとする赤城をよそに、女将はほほえみを崩さない。
まさかこんな立派そうな男性が、そんなセクハラまがいの発言をいつもしているのとでも言うのだろうか?
藤田はむっつりと押し黙り、なにか言葉を探しているようだったが、
「…………うむ。そうだな。では――」
「でがご注文がお決まりでしたら誰かお呼びくださいな」
彼がなにかを言いかけたところで、女将はことさら楽しげにくすりと笑うと、すぐまた別のテーブルに移ってしまった。
勝手知ったる仲なのだろうか。藤田の外面と言動の差違に、赤城はキツネにつままれた気分だ。
「もう。先生は女性と見るとすぐそれなんですから」
「私が言葉を知らないのは君も知っての通りのはずだが」
珍しくふくれて鳥海が言うが、藤田は悪びれる様子もなく、黙々と漬け物を食べていた。
よほど気に入っている味なのだろうか、実によく噛みしめて食べているが、その野暮ったい出で立ちのせいで、河馬かなにかの食事風景を彷彿とさせる。存外と愛嬌のある仕草だったが、鳥海はなおもおかんむりだ。
「だからと言って、ああいうのはふしだらです。奥様もきっと草葉の陰で泣いてらっしゃいます」
「あれは本当によく出来たやつだった。君もそう負けてはいないが」
「も、もう! すぐそうやって誤魔化すんですから!」
鳥海はぽっと頬を朱に染めて、ほうじ茶の注がれた湯飲みを掴むと、リンゴのような頬を隠すように、ちびちびとお茶を飲み始めた。
水滴が流れる音一つ立てないかのような、見事なテーブルマナーである。普段はがさつとまではいかなくとも、それなりにくだけた仕草のはずなのだが――
(……つまり……そういうことなのかしら?)
鳥海は考え事や感情がすぐ顔に出る素直な子だった。つまり、まあ、ようするにそういうことだろう。
そして鳳翔もまた気さくな人柄とはいえ、若くとも女将の立場がある人間だ。客の目がある手前、あまり特定の男性にあけすけな好意を見せることはないはずだし、実際赤城も見たことがない。
先ほどまでは、の話だが。
(あの鳥海さんが……うーん)
……いやはや。意外なこともあるものだ。
鳳翔にしろ鳥海にしろ、町を歩いていれば自然と人目を惹き付ける物言う花が、この一見枯れた男に……いや、それどころかこの男、この二人に飽きたらずそこら中でああいうことを言って回ってるような気もする。自分でも野暮で下衆の勘ぐりだとはわかりつつ、気になってしまうのはとめられない。加賀のろくでなし発言もそういうところから来てるのだろうか?
まあ一つ確かに言えることがあるとするなら、この見た目よりもよほどぼんくらめいた男に懸想をするのは、たいそう忍耐と苦労を要するのだろうなということぐらいだろうか。
「ご注文はお決まりですか?」
どうでもいい物思いに耽る赤城に、店員が声を掛けてきた。
美人だが、見慣れない店員だった。新人だろうか? 名札には『大井』とある。
「まだお決まりでなければ後ほどお伺いいたします」
「ちょ、ちょっと待ってください。今決めますから。はい」
しまった。物珍しい人間観察に夢中になってて肝心の注文を決めてなかった。
慌ててメニューを開くが――時すでに遅し、だ。店員の冷ややかな目は『こっちは忙しいんだから早くしろ』と無言のプレッシャーを掛けてきている。なんでこんな子を雇ったんだと内心八つ当たり気味に女将を恨むが、とにもかくにも注文だ。
うどん。そば。焼き魚定食。豚肉の生姜焼き。雑炊。海鮮丼。炊き込みご飯。カレー。豆煮。おしるこ。だめだ、目移りする。いっそ全部頼むべきか。いや駄目だ。食べ合わせはとても大事だ。そんないい加減なことではいけない。そもそも今日はカレーと蕎麦を頼むつもりだったのだろう。初志貫徹だ。慢心ダメ、ゼッタイ。でもそんな目で見ないでください。生来のアドリブに弱い性格からか、どんどんパニックを起こしていく赤城だったが、
「すみません。天そばと日替わりのポークカレーを二つお願いします」
そこに救世主が現れた。
藤田以外の分の漬け物を黙々と食していた加賀である。
「それと山菜小鉢、鰤の照り焼き、冷や奴とメヌキのおつくり、黒豚の春巻きとすき鍋、からあげ盛り合わせとポテトフライ」
「はい、かしこまりました」
「あと金時とおしるこも二つお願いします」
「……『も』?」
なかなか健啖な女性達だな、とでも彼女は思っていたかもしれない――が、そこで大井店員は注文を伝票に書き込む手をぴたりと止めて、聞き返した。
丁寧に整えられた片眉がひょいと上がる。国語の試験中にちょっと意地悪な問題に出くわしたような、そういう愛嬌のある表情だったが、きっと利発な子なのだろう。そのまま考え込んだりはせず、戸惑いながらも加賀に尋ねた。
「ええと……金時とおしるこ、天そばと日替わりを二つずつでよろしいでしょうか?」
加賀ははっきりと答えた。
「いいえ。“全て”二つずつです」
「…………か、かしこまりました。ではご注文を確認させて頂きます。天ぷらそばと日替わりのポークカレー、金時と――」
注文を復唱する大井店員の眉が、心なしかひきつっているようにも見える。
だが一方の加賀は――なんと堂々としたことか。気持ち満ち足りた表情でお茶を飲み干し、通りがかった別の店員に漬け物のおかわりを催促している。そして彼女の注文したメニューの素晴らしさはと言えば、これまた文句のつけようもない完璧さだと言えた。
親友からの強力な援護射撃に感動する赤城が加賀の瞳を覗き込むと、加賀はきょとんと赤城を見返してきた。
『なにも言うな。わかってる』とでも言っているかのように赤城は感じた。(彼女はなにも言ってないのだが)
「私はシーフードカレーをお願いします」
「私は女将に任せてある」
「かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか?」
藤田と鳥海が注文を済ませると、大井店員がほっとした表情でカウンターへと戻ろうとする。
いけない。加賀の親切に感動していて、大事なことを忘れていた。
「すみません。よろしいでしょうか」
赤城は奥ゆかしく右手を挙げて加賀を差し、
「私にも彼女と同じものをお願いします」
今度こそ大井氏の笑顔が凍てついた。
最後のオーダーネタはどっかで見たコピペが元ネタです。
「私にも同じものをお願いします」っていう。詳細は忘れました。