お腹がいっぱいになると、眠くなるのが世の常だった。
もぐもぐとあくびをかみ殺しながら、赤城は明るい大通りをてくてくとゆく。
今日も素晴らしい昼食だった。
近くの山々から採れた山菜小鉢、千葉直送の鰤の照り焼き、冷や奴は通りの店から卸したもので、ふくよかな大豆のうまみにそれだけでうっとりとしてしまうほど。手打ちの蕎麦もまた素晴らしく、ぴりりとスパイスの効いたまろやかなカレーは、まさしく絶品のおいしさだった。
だが今日一番の収穫は……他でもない、藤田に出された特製シーフードグラタンだ。
厚手の土鍋に敷かれたマカロニの上に女将手製のホワイトソースと粉チーズをたっぷりかけてこんがり焼き上げられたその逸品は、お盆の上に乗っているときから実にかぐわしい香りを放ち、赤城をとことん魅了してくれたのだ。大盛りのカレーをたいらげながらも『私にもいただけますか』と赤城が聞くのもやむをえないことだと言えたし、実際それはごちそうだった。藤田は相変わらずにこりともせず黙々とグラタンを食していたが……あれが彼の人となりなのだろう。『いかがですか』と鳳翔が言うと、彼は『うまい』と一言だけ言い、鳳翔は『それはなによりです』と微笑んだものだった。隣で鳥海が『あとでグラタンのレシピを調べないと……』などと言っていたのが不穏だったが――まあ、なんにせよ良い昼食だった。今度から昼食を注文するときは必ずあれも一緒に頼もう。
「あっ、赤城さーん!!」
「あら?」
これなら午後の物理の講義もすんなり頭に入りそうだ、とそんなことを考えながら路面電車の踏切前で鼻歌を歌う赤城に、遠くから誰かが声をかけてきた。
くるりと踏切の脇を向くと、ヘルメットをかぶったダッフルコートの少女が、バイクのシートの上から元気よくこちらに手を振っていた。反重力エンジンの滑らかな駆動音を響かせながら、彼女は赤城のすぐそばまでやってきた。
「赤城さん、こんちはー」
「こんにちは、夕張さん」
「はい、今日もいい天気ですね!」
夕張はにっこりと微笑み、樹脂製の白いヘルメットを取った。
普段はボリュームのあるポニーテールが、ぺったりと平たくなっている。ネットつきの前籠に入った鞄の中には、油で汚れた作業着が雑に押し込まれていた。
「今日は加賀さんは一緒じゃないんですか?」
「さきほどお昼をご一緒した鳥海さんと少しお話があるとかで」
「なるほどぉー」
「夕張さんはどうしてここに?」
「今日は学校がお休みだったんですが、機械室に顔だけ出しに行ってたんです」
これでも副部長ですからね、と夕張は誇らしげに胸を張る。
夕張は赤城の後輩――というよりも、妹のようなものだった。鳥海に劣らず利発で聡明、とびきり快活な友人でもあり、理数系の教科では赤城が教わることもある、赤城の尊敬する人物だった。実家は北海道の夕張市。“夕張”というのはもちろんあだ名で、『メロン』とかも呼ばれてたりする。そろそろ私服での登校も板につき始めた工業大学の一年生だが、歳は十六。飛び級で、六年前に群馬に越してきたのも、高名な学者である彼女の保護者から直接勉強を教わるためだと聞いた。
頭脳はもちろん折り紙つきで、今乗っている彼女のバイクもスクラップ置き場から部品を集めて組み上げた自慢のものだし、そもそも反重力エンジンを取り扱える技術を持っているというだけで大手企業でも引く手あまただ。
そんな優秀さを鼻にもかけない彼女のことを、赤城をはじめとする周囲の人は一目も二目もおいていた。
「今度先輩達が新エンジンのコンクールに出るんだそうで、その相談に乗ってたんです」
「コンクールですか」
「はい。それも地方の小さいやつじゃあなくって、政府主導の国際コンクールですよ」
赤城が興味を引かれて聞くと、夕張は目を輝かせて語り出した。
「豪州でフォースクリスタルの掘削事業がまた始まりましたが、終戦からまだ十年ちょっとじゃ供給はぜんぜん追いついてません。そもそも技術者が足りないですし、加工も維持も大変ですから。そこで国連が目をつけたのが石油を使ったエンジンなんです」
「セキユ?」
「化石燃料の一種ですよ。もう地中埋蔵量は何世紀も前に枯渇しましたが、人口石油を使えば安価で大量に用意できるし、反重力タービンとは比べものにならないほど楽に作れます。で、復興途上の地域にそれを送ろうって話なわけです」
「なるほど」
「まあでも石油機関も化石みたいなものですからね。もうほとんどデータが残ってないんで一からの作り直しに近いんですけど、なんせ注目度が高いですから。国防軍の関係者とかも大勢参加してるんだそうですよ」
「なるほど……」
納得し、赤城は同じ言葉を繰り返した。
今から十五、六年ほど昔まで、世界は戦争状態だったらしい。
大変な戦争だったと聞くが――赤城は詳しいことを覚えていない。当時はまだ幼い子供だったし、一家は青森に疎開していた。終戦とほぼ同時に軍事政権がなくなって、民主化された選挙が始まり、国営企業が解体されたそうだ。戦争相手とは無事講和して、ときどきニュースの小さな枠で大使との交流が映されているし、たまに町中で見かけることもある。授業でも決して少なくないページで当時の様子を学ばされた。
「本当はアドバイザーってだけじゃなくて実際に参加したいんですけどね……」
「まあ。参加なされないんですか?」
赤城は当然の疑問を口にした。
夕張が機械工業を専攻しているのは、なにも向き不向きの問題ではない。機械いじりのために寝食を忘れて没頭できるほど好きだからこそ、彼女はあれほど優秀なのだ。
「またガレージで栄養失調になって倒れたりするんじゃないかと思ってしまいましたが――」
懐かしい昔の思い出話を、赤城が冗談めかして言うが、
「……そんなこともありましたっけね」
夕張の表情が、ふいに油の切れた歯車のようにぎくしゃくと固まり、止まってしまった。
彼女の親友である赤城は、その違和感にすぐに気付いた。
「夕張さん」
がやがやと騒がしい雑踏の中、赤城が事情を聞こうと彼女の名を呼んだそのとき、いつの間にか降りていた踏切の向こうを旧式の電車が横切った。
夕張の唇が動き、なにかを言っていた。
二人分の言葉が車輪の音に掻き消されるのを、赤城は黙って見ているしかなかった。
やがて間の抜けた音を立てて踏切が上がり、雑踏が線路を踏み越えて往来を行き来し始める。
「すみません。今日はもう、用事があるので」
赤城がはっとしたそのとき、夕張がバイクを発進させた。
ヒュイ、と軽やかな音を立て、車輪のないバイクが地面から数センチ離れた中空を滑るように走る。
「夕張さん」
赤城が声をかける間もなく、黒いセーラー服に包まれた背中が雑踏の向こうに消えていく。
「お待たせしました、赤城さん」
一体なにがあったというのか。
呆然と、だが暗澹たる胸騒ぎに襲われる赤城が夕張の背中を見送っていると、食堂で別れた加賀がそこに戻ってきた。
「今のは夕張さんですね」
赤城が見送っていた方角を見て、加賀が静かな口調で言った。
夕張の背中はもう豆粒ほどの大きさだったが、加賀には見えているらしかった。
はい、と赤城が小さく頷く。どういう奇縁なのかは知らなかったが、加賀もまた夕張の知り合いだと聞いている。
「あの、夕張さんになにか――」
「その分だと言わなかったようですね」
赤城が夕張のことを聞こうとしたとき、加賀がそれに言葉をかぶせた。
はっとして顔を上げると、ちょうどこちらに眼を向けた加賀と視線が交差した。
加賀は躊躇う素振りなく、いつもの、冷たさすら感じる声で言った。
「あの子、ここを去るそうです。平賀博士と海を渡って、そこで学業に専念する、と」