「ん、3と6のツーペア」
船旅は実に快適なものだった。マグマ団残党が現れることもなく、こうしてハマゴがポーカーに興じられるくらいには平和が保たれている。というのも、護衛としてついてきてくれている3人のベテラントレーナーがいるおかげもあるだろう。
「こっちはハートのフラッシュだ」
「また負けかよ!? くっそ、もってけドロボー!」
しかしこのハマゴ医師、異様なまでに運が無い。ツーペアですら揃えるのも稀であり、今のところ同じく定期船に乗っている暇人相手に、100円だけ賭けた小遣い程度のポーカー勝負を仕掛けているが全て負け越している。
むしろ、幸運を他人に渡しているのだろうか。ルールをよく知らない子供相手が5枚全部を入れ替えた時も、相手が3カードでハマゴはノーペア。冗談だろうと左頬を引きつらせながら100円を小さな掌に渡した時もあった。
「店じまいだ終わり終わりっ! これ以上は財布がすっからかんになっちまわぁ」
「何なら寄付してくれても良いんだぜ?」
「船乗りのあんちゃんよお、そりゃキツイぜ」
ガッハッハ、と豪快に笑って背中を叩く船乗り。
甘んじて受け入れるハマゴはとことん運のない自分に打ちひしがれていた。
そんな何気ない日々が続いて数日。
今日の夜、ジラーチが眠りにつく最後の日になるだろう。だからこそ、危険がないとわかったうえでジラーチには船の外から見られない範囲なら自由に動いていいとの許可を出してある。
その際、船長に言われて一緒にとったキュウコン・ハマゴ・ジラーチの順に並んで撮った写真がある。キュウコンはいつものすまし顔、ハマゴは三白眼とにやけた口元の悪人面、ジラーチは彗星のネックレスを両手で触りながら、満面の笑みを浮かべている。三者三様の個性があふれる楽しそうな集合写真だ。
(悪くねえな、こういうのもよ)
それを見つめてクハっと笑ったハマゴは、スリーブに入れた写真を白衣の内側に仕舞った。口も悪いし人相も悪い。だが、彼はこういった思い出何かを大切にするタイプだった。
「なぁジラーチ。バトラーが会った方は喋るんだって? 出来ることなら色々聞いてみたかったもんだが」
どうしたの? 首を傾げたジラーチ。屈託のない笑みを浮かべ、撫でて欲しいと擦り寄るポケモンの姿を見て、ハマゴはこの無邪気な生き物に疑問を投げかけるのも馬鹿らしくなってしまう。
よしよしよし、と撫でる中にフッと笑みが溢れる。
「ま、いいや」
その隣ではキュウコンが窓の外を眺めて黄昏れていた。ハマゴの仕事を手伝うとき以外は何を考えているのかよくわからないのがこのキュウコンだった。視線の先は海よりも、先を見ているようにも見える。
彼女とはロコンの頃からの付き合いで、ハマゴは何となくその内面を察することはできる。しかしそれでもキュウコンはいざという時に最高のパートナーであるということ以外、あまり内面を外に出そうとはしない性格だった。
ある意味でいつもどおり。そんな相棒の様子から目を離して、また自由に自室を飛び回るジラーチを見ていると少しばかり別れが名残惜しくなる。
ポケモンドクターをやっていれば、一期一会というのも多い。ファウンスの奥地で傷ついていたチルタリス。歳なのか、自分の目の前で子孫の様子を見守りながら息を引き取ったフライゴン。そして数年前、ポケモンドクターの道を歩もうと言うきっかけになったジグザグマの子供。
あの頃に出会ったポケモンたちに思いを馳せていれば、ジラーチとの別れもそういうものなんだろうと踏ん切りが付く。いつまでも駄々をこねていれば誰かが解決してくれる、なんて歳はとうの昔に去ったのだ。
「初めての海はどうだ? 楽しかったか?」
彼の問いかけに、もちろんだとジラーチは頷いてみせる。
迷いのない瞳の奥では何を考えているのだろうか。千年の眠りとは、初めて見る景色とはどういった思いなのだろうか。好奇心? それとも寂しさ? スケールの違いすぎる相手だが、最後くらいは楽しく笑って見送ってやりたいものだ。
日は紅く染まり、水平線の向こう側に半円が溶け込んでいく。トップリと沈むまばゆい光に長い影を伸ばして、ハマゴは立ち上がった。
「キュウコン、お湯作っとけ。戻った時にココアでも振る舞うからよ」
了解だ、と鳴いて見せた相棒を置いてハマゴは二匹のポケモンを残して護衛にポケモン達を頼む。入れ替わりに護衛の一人とすれ違った彼は、船頭へと移動して手すりに両手を置く。
ほとんどなし崩しに旅に出てしまった感があるが、ドクターがいなくなった後の調査団は何をしているのだろうか? そして両親はどういう気持で送り出してきたんだろうか? 胸のうちに過ぎる景色は、故郷で暮らしていた思い出を次々と浮かび上がらせてくる。
「……ガラにもなくホームシックか。俺もダセェなあ」
白衣を棚引かせて、沈む夕日を見届ける。
ハマゴの瞳は潤み、目元はいつもように張り詰めていない。自分自身で気づくことはなかったが、こうして離れてみると実感したのだろう。既にほぼ自立して暮らせるような生活を送っていたとはいえ、親しい人たち、馴染み深い土地から離れる感情があふれだす。
今のうちだけだから。そうしてハマゴは、海のしょっぱさに貢献した。
「……んん~?」
ぐねりと90度近く頭をひねるハマゴ。
「あー、ん~? おいおいおいおい、こりゃどういうこった」
いつもの渋面に、余計に眉間の皺が増えた。
心底から信じられないといったように絞り出した声は、空っぽでわざとらしいセリフばかり。ハマゴの飄々としたいつもの態度からは感じられない、素直な驚愕に染められていることが分かる。
彼の視線の先。そこにはふよふよと浮かび、羽衣を振りながらハマゴのジロジロした視線にあたふたするジラーチの姿があるのだから。
「……」
無言で窓の外を見る。日が昇りはじめた早朝。つまりは千年の眠りについていなければならないはずの時間帯だった。
ジラーチが目覚めてから「8日目」の朝が今まさに訪れようとしている。これは、一体どういうことなのか? 彗星のネックレスを一度取っ払ってみた時もあったが、ジラーチは眠る様子を見せなかった。そよりもネックレスを名残惜しそうに抱きしめていたからすぐに返してやったが、それはまあ良いだろう。
護衛の人たちに顔を向けても、焦ったようにブンブンと頭を横にふるばかり。当然ながら彼らがこんな特殊な例を知るわけもない。
しゃーない、と頭をガシガシと掻きむしったハマゴ。彼はポケナビを取り出してすぐさま連絡帳を開き、そこにある番号をタップする。
≪も―――≫
「あいつ起きたまま何だがどうなってんだ? もう168時間は当たり前に過ぎてるんだが一向に眠る様子がねぇぞ!?」
急ぎバトラーに連絡を取ったハマゴは、何コールかして出たバトラーがもしもしと尋ねる前に言葉のマシンガンを浴びせかける。電話の向こうではキィィィンとハウリングと音割れを起こした叫びをモロに食らったバトラーが耳を抑えて座り込んでいるのだが、ハマゴには知ったことではない。
≪ちょ、ちょっと待ってくれないか!≫
そこから矢継ぎ早に混乱したハマゴから繰り出される言葉という名の弾丸を退けたバトラーは、とにかく! と話を断ち切ることに成功した。
≪ジラーチは願いを叶えるポケモンだ。それに、七夕伝説にも酷似した伝説をあやかったポケモンでもある。既に書かれてしまっている短冊の文字に、もしかしたら今回の目覚めについての謎が書かれているかもしれない≫
「解読するまで時間をくれってか? だがその間、どうするってんだ」
≪…これは私の予想だが、願いを叶える力は失われているのかもしれないね。どちらにしても、そろそろシンオウに到着する頃だろう?≫
その言葉に、窓の外を見る。水平線や無人島しか見えなかった外の景色には、確かに近づく大陸の姿が見え始めていた。
「ああ、昼にもなれば着くだろうが」
≪とりあえず、マグマ団がそちらを追っていないかぎりシンオウでホウエンの幻のポケモンがどんなものか何てわかりっこないさ。君の旅の予定にポケモンが一体増えるだけだと思って、なんとかして欲しい≫
「投げやりだなぁ、オイ。……まぁいいさ」
それから一言二言の言葉をかわして、通話を切る。
さぁて、とジラーチに向き合ったハマゴ。彼はおどおどと、困ったような視線で見上げているジラーチに気がついた。
「ったく…」
大丈夫だ、捨てる気はない。一緒にいるから安心しろ。ありきたりだが、ジラーチが求めているような言葉で取り繕った彼は、安心して抱きついてくるかわいらしい生物を撫でながらこれからの未来に思いを馳せた。自分の旅は、思った以上に騒動や混乱に満ち溢れているかもしれないと。それが現実にならないよう祈りながら。
そうして正午の少し前、ハマゴたちを載せた船は無事にシンオウへとタラップを降ろした。新天地であったり、故郷への帰還であったり、様々な思いを胸にシンオウの大地へ足を下ろす人々と共に曇りがかった空を見上げるハマゴ。
ふと首筋を通った風にゾワリと背筋を撫でられた。少し寒気が強いこの土地は、ハマゴが居たホウエンの土地よりもずっと北の側に位置している。近くの店でマフラーでも買っておこうかと思案する彼に、近づく人影があった。
「ちょっといいかしら?」
「ん?」
海の方を向いていたハマゴは、声の聞こえた方向に振り返った。
そこに居たのは、全身を黒い衣服で身を包んだ金髪の美女。だが頭の特徴的な髪飾りや、風貌に聞き覚えのあった彼は「ああ」と言葉をこぼして納得する。このタイミングで声をかけてくる人物など一人しか居ない。
「アンタがシロナって人か」
その問いかけに、女性は満足そうに頷いた。
「ハマゴくんで間違いないようね」
いかにも大人の女性、と言った風貌だ。
とはいえ顔が隠れていることや、快活な女性というのが年齢を少しばかり有耶無耶にしている。そのために正確には分からないが、雰囲気からは確実にハマゴより5以上は年上であることは分かる。
信頼できるだろうか。という彼なりの判断をしている中、そんなジロジロと観察するような視線に気づいたのか、シロナは微笑みを返してみせた。
「あら、そんなに私の体に興味があるの?」
「ん、まぁ年齢盛ってそうだなと思ってよ」
「……報告の通り口が悪いわね、まぁ本人確認が取れたから良しとします」
ぐっと何かを堪えるように言うが、髪で隠れた額には青筋が浮かんでいることだろう。そこを表に出さないのは流石シンオウのチャンピオン・シロナといったところか。
「とにかく! 近くのお店に移動しましょう。つもる話はそこで」
「了解だ。ああ、それと予定外の事が起こったからな、あんましビビんなよ」
「え? ええ、それじゃ楽しみにさせてもらうわ」
そうして近くの喫茶店に移動したハマゴは、目の前にいる女性がこのシンオウ地方のチャンピオンという事もあってここまで護衛をしてくれた人たちに礼を述べ、彼女と二人きりになった。
ちりんちりん、とおしゃれさを醸し出す喫茶店のベルを耳にしながら、奥の席に座った二人は早速今後の事について話し始めた。まず口を開いたのはハマゴの方だ。
「まず言っとくが、ジラーチが眠ること無く活動している。千年の周期、なんてのはあんまりアテにならなかったかもな」
「ジラーチが? でも変ね、こちらでもジラーチの伝説について調べていたけど、過去に何件か目覚めたジラーチは8日目以降の活動を確認されていないわ」
これが真実に違いない、と言い切ったシロナにハマゴは目を見開いた。
「シンオウの人がホウエンの事を調べられんのか?」
「まあ、私は歴史と神話の研究者でもあるのよ。それに、色々あってね。神様みたいな存在とか、ツテは多いの」
「へぇ?」
シンオウ地方は神話、という形でポケモンたちの伝説が色濃く残っている土地。だからこそシンオウなりの表現なのか、それをハマゴは判断できなかったが、チャンピオンともなれば冗談も壮大なのだろうとハマゴは判断した。
「まぁ、女性は謎の多いほうが神秘的ってやつで納得しとくか」
「ありがとう。あんまり詮索されるような話題じゃないのよ」
社交辞令はこんなものでいいでしょう。と、締めくくった彼女が本題に切り込む。
「ジラーチだけど、私以外そうそう知っている輩も居ないわ。シンオウで旅をするのなら、隠すこと無く連れ歩いても大丈夫よ」
「そりゃ良かった。コイツもギュウギュウ詰めのモンスターボールの中じゃ窮屈だろうからな。運動不足は健康に悪い」
「そうね。本当なら、結晶化したジラーチを私が引き取って、時が来たらファウンスに返すつもりだったのだけれど……そうなっている以上、あなたと一緒に過ごしたほうが」
大丈夫そうね、と続けられるはずの言葉はそこで遮られた。
店のガラスがビリビリと震えるほどの爆発音が鳴り響いたのだ。
「まさか!?」
ガタッ、と椅子を弾いてシロナが立ち上がる。
彼女はそのまま会計を伝票ごとカウンターに叩きつけ、お釣りはいらないから! と叫んで退店してしまう。どうにも、自分と話している暇すらない緊急事態なのだと判断したハマゴはシロナにつづいて急ぎ外に出る。
喫茶店のドアを過ぎた向こう側の景色。そこには、煙を上げて施設の一部が崩壊したポケモンセンターの姿が見える。
「ひでぇことしやがって…!」
歯の奥をギリリッと噛み締めたハマゴはセンターに急行した。先に走っていったシロナの姿は見えないが、恐らく一足先にあれの中に飛び込んでいったのだろうか。
ハマゴはドクターとしての思考スイッチに切り替え、一匹でも多くのポケモンを、一人でも多くの人間に怪我をさせないためにもセンター内部へと突撃する。割れてしまった自動ドアの欠片が散乱したエントランスを抜けると、避難誘導に尽力するシロナやジョーイの姿がある。
こうなれば、やることは決まっている。ハマゴは腰のベルトに手を回した。
「出てきやがれキュウコン!」
モンスターボールを放り投げ、長年の相棒であるキュウコンが美しい所作で降り立った。
彼女はボールの中で既に事態を把握していたらしいキュウコンは、ハマゴに向かって頷くと、炎が燃え盛る場所に向かって飛び込んでいく。指示を出さずともこういう時にはどうすれば良いのか、両者が共に理解しているのだ。
ベストパートナーが救助民を見つけに行ったのを見届けて、ハマゴはあらかたの人を逃し終わったシンオウのチャンピオンに声をかけた。
「シロナ!」
「ハマゴくん、あなたも来たの!?」
おおよその避難誘導が終わって、トリトドンのわざで消火活動中のシロナに話しかける。一人堂々と立っている彼女に、煙を吸い過ぎるなとハンカチを渡して態勢を低くする。ここの火元は収まってきているが、エントランス内の物品はあまり散乱していない。つまり、爆発の中心部―――黒煙の元はもっと奥のほうだということが分かる。
「あなた、バトルはできる?」
センターの奥を睨みつけながら、シロナが問う。
「いや、からっきしだ。だがやれることならなんだってやってやるぜ」
「そう……わかったわ、時間がないから手短に話すわね」
本当なら巻き込みたくはないが、というシロナの思いもある。だが今は一人でも混乱せずに事態にあたることのできる人物が必要だった。拳を握りしめ、意を決した彼女は言った。
「あなたはこのエントランスを中心に、逃げ遅れた人やポケモンが居ないか探してほしいの。トリトドンをつけるから、火が残っていた場合はこの子に頼んで。私は原因の排除に向かうわ」
原因、という言葉に面食らうがどこにいても人は存外変わらないものだ。過去の記憶を思い起こしたハマゴには、マグマ団のような人間たちの姿を幻視する。おおよその事態は察して、彼は片眉を釣り上げ笑った。
「おうよ。あんま無理すんな」
「こちらのセリフ。一般人なんだからハマゴくんも程々にね」
それじゃあ、とシロナは煙がモクモクと吹き出すセンターの奥へと走っていく。ハマゴも自分の仕事を任された以上、それに尽力するために立ち上がり、そしてこちらに向かってくるキュウコンに気がついた。
「どうだった?」
手短な質問に、キュウコンは顔をエントランスのとある点に向ける。つまり、逃げ遅れた誰かがそこにいるということだろう。だがキュウコンの力だけでは助け出せないほど火が強いか、それとも何か別の要因があるのか。
しかし、悩む暇すら惜しいと疑問を振り払い、ハマゴはトリトドンについてこいと指示を出して現場へ急行した。場所は、シロナが向かっていった部屋の近くの壁際。まだ消化しきれていない炎が壁となり、爆心地に近いのか、落ちてきた瓦礫が退路を覆っている。
だが、確かに見えた。炎の揺らめきの向こう側に小さな人影がそこにあることを。
「助けて! 誰か助けてえええ!! ―――が、死ん―ぅ!」
少年の方も、炎の向こうにいるハマゴたちに気が付いたのだろう。突然声を張り上げて助けを求め始めた。
その声から察するに幼い少年が取り残されているのかもしれない。後に続いた言葉はパチパチと弾ける日の音や瓦礫の崩れる音で掻き消されたが、要救助者が2人以上いるのは確かだった。
「聞こえてんな!? 今からそっちに俺のポケモンが行く! 地面に伏せて動くなよガキんちょ!」
黒煙を吸い込むのもやむなしと、声を張り上げたハマゴはトリトドンに頼んで瓦礫を吹き飛ばしてもらった。高い練度で鍛えられた、トリトドンの「いわくだき」は向こう側へ余分な衝撃を与えることもなく、瓦礫を粉々に砕いて崩す。さすがの技量にハマゴも息を巻いた。
まだ障害として炎が残っているが、ここからはキュウコンの領分だ。「もらいび」がハマゴのキュウコンの特性。つまり、このような火事の炎をも己の力として変えてしまう。炎の壁を難なく通り抜けたキュウコンは、向こう側に辿り着くと同時に少年と、その傍らにいたフワンテを引っ掴んで、背中にのせる。
「あ、ありが」
少年が二の句を告げる前に、彼らが炎にあぶられないよう尻尾で蓋をしたキュウコンはハマゴたちの傍を通り過ぎ、ポケモンセンターの外にまで一気に離脱した。
去り際、確かに彼女が頷いた姿を確認したハマゴは、もうこのセンター内、シロナから任されたエントランス内には要救助者が残っていないことを確信する。バラバラと崩れ落ちる瓦礫に気をつけつつ、立ち上がった。
その瞬間、再びポケモンセンターが大きく揺れる。
「ッ!? やべぇ、か」
ぎぎぎぎ、と軋む音が鼓膜を引き裂いて、エントランスで天井を支える太い柱の一つが崩落した。大黒柱、とまではいかずとも構造上は重要な役割を持つそれが折れた途端、天井から崩落する瓦礫の数が一気に増える。これ以上ここにいては危険だろう、とハマゴは判断を下してトリトドンに指示を向けようとし、
「トリトドン! 俺らも脱出す……うん?」
しかし、脱出を促そうとした瞬間、彼は薄らぼんやりとだが人影を見た。
シロナが向かっていった奥のほうだ。流石に彼女ほどのポケモントレーナーともなればこの程度の非常事態、何も心配する必要はないのだが、まだあちらの方に職員などが逃げ遅れている可能性もある。
「キュウコン!」
少年を外で待っていた家族に帰し、急ぎハマゴの元に戻ってきていたキュウコンは、彼の掛け声を聞いて隣に降り立つ。ハマゴがシロナのトリトドンに視線を移してみれば、大丈夫だとやる気に満ち溢れた様子を見せる。
「ワリィな、もう少し付き合えや」
トリトドンとキュウコン。両者ともに思惑は違えど、その道は同じ。ハマゴの言葉にしっかりと頷いて、彼らはシロナの向かった通路へと足を進め、奥へと続く通路へと踏み入れた。当然、誰か逃げ遅れた人が居ないのかと叫んで確認しながら、だ。
ここは天井も低く、作りも簡素かつ強靭なのかあまり損傷は見受けられない。しかし、彼がたどり着く頃にはそこに見えた人影は既になかった。ハマゴにしてみれば、なぜだ、と疑問を浮かべるほかはない。
(非常口は……遠い。俺らも叫びながら来たんだ。職員だとしても、あのジョーイさんが連絡を取らないはずもねぇな。さっきのあれは見間違いか? いや、だが服は確かに見えた)
白い、ブーツを履いたような足が見えたのは確かだ。
「クソっ」
まさか、という思いとともに結論に達する。
シロナの焦りようと、先ほどの自分の考察。それが合っていれば、自分が見たのは救助が必要な人間なんかではない。この事態を引き起こしたクソッタレな犯人の一人ということに―――
「あら? 綺麗なポケモン」
背後から、聞いたことのない女の声。
ゾワリ、と総毛立つ。
シンオウに降り立った時のただの寒さではない。
振り返るだけでは、マズイ。
「キュウコンッ! やきつくす!」
「あら」
振り返ると同時、手刀の形にした手を向けた方向にキュウコンの「やきつくす」攻撃が殺到する。ハマゴは威力そのものよりも、今はとにかくひるませることを選んだ。そして彼の判断は功をなし、今にも飛びかからんとしていたゴルバットの牙は輝きを収めて飛び退いた。
「余裕が無いわね。それで良いの?」
「トリトドン!」
トリトドンが何を覚えているのかは分からない。だから単にバトルのために指示を出した。そしてゴルバットに向かって攻撃を繰りだそうとしているトリトドンとは別に、キュウコンへ次の指示を出そうとして。
「ほら、がら空き」
先程から感じていた恐怖。その正体が目の前にいたからか。
背後のスカタンク。ソイツから吐き出された毒に気がつくことも出来なかった。