モンパツィオの一件以来、モリビトは警戒したのか。モリビトに関する報告例はもたらされなかった。それに関し、冒険者たちは特に思うところはなく、むしろ、戦争などの厄介事を回避できるかもしれないと安堵していた。
ホープマンズは順調に探索を進め、エドワードは前回と同じ顔触れの衛兵たちを四階層に連れた。これが最後で、総勢二百六十名余りの人間が四階層に降り立った。
この二百六十名の者たちが地下世界の悪しきモリビトと戦うことになる。
モリビトとは別に、近頃四階層で不穏な気配がする。モリビトかと思われたが、モリビトとよりもっと大きく、禍々しい気を発していた。四階層探索組の冒険者たちは目下の所、モリビトよりもその怪物たちの方を警戒しつつ、探索を進めた。
そして、昨日。遂に一組のパーティが一七階への道を発見した。
その頃には一六階の全容図(といっても、実際は十分の一にも満たないが)が出来上がり、冒険者たちの冒険への意気込みは増した。
「赤髭のおっさんらが仕留めたのが実は最後の二匹で、もうモリビトなんていねぇんじゃないのか?」
このロディムのような、楽観視した発言をする者まで出る始末。それでも、ゲンエモンやエドワードなど、一部の冒険者は気を緩めなかった。
地下と地上。それぞれの舞台で水面下に現れない状況が進行しているのではないか。
十七階は十六階ほどでないが、決して楽な道のりではない。
樹に紛れて毒の息を吹きつける、毒々しい色合いの一つ目の樹の怪物。
赤い火噴きネズミの群れ。スノードリフトそっくりの
残念なことに、モリビトと戦う前に、既に二一名の者が亡くなった。幸いというべきか、その中にホープマンズのメンバーの者が見知っている顔はなかった。
執政院ラーダはそこで、その間新たに降りてきた五組の内、四組の冒険者たちが戦力に加えられた。あの胡散臭い契約を済ましてからだ。
*――――――――――――――――――*
「神官殿。地上の奴らが一七階に到達しました」
「して、お主とお主の仲間はどう見る?」
「はっきりとは申せませぬが、この分だと、早くて十四日。遅くとも一ヶ月過ぎには一八階には到達するものと思われます」
「そうか」
神官が退出の旨を告げる前、斥候の者はお待ちを止めた。
「……実は、地上の奴らとは別件でお伝えしたいことがありまして。もう少し、お時間をいただけないでしょうか」
「許す、申せ」
「はっ! 地上の奴らと別にお伝えしたいこととは、怪物共の事でございます。近頃、地上の者共の活動がいや増すにつれ、あの河から這い上がったおぞましき者たちが一族郎党と手下を引き連れ活発に動いているということです。目撃情報も多々あり、先ほど述べた我ら斥候が曖昧な推測と比べたら、こちらは確かです。今の所、被害はありません」
「……分かった、下がってよろしい。各林村の者たちには、警戒を怠らぬよう伝えておけ……」
斥候の者が退室したあと、神官は一人、黙考した。
長い歴史。いつも必ず、地上の者たちが先に攻撃を仕掛けた。
今は道がわからずとも、いずれ我らの村へと道を見つけ、新兵器を引っ提げて大挙してやってくる恐れがある。
そして、地上の者たちとは異なる脅威。河から這い上がったおぞましい獣たちの子孫。
長らく目立った動きもなく、安心していたが、よりにもよってこの大事な時期に活動を再開するとは。しかも、一族郎党と手下となる生物たちまで連れて動いていようとは、何たる不運。
おぞましい獣たちは地上の者たちより高い頻度でモリビトに戦いを挑んできた。
ある意味、地上の者より恐ろしいモリビトの天敵だった。
もし、あれらと地上の者と同時に戦うことになったら、さながら、諺で言う所の”吹き矢を背に斧を前にした獣”か(地上で言う。前門の虎、後門の狼に相当)。更に言えば、諺とは違い。吹き矢か斧、どちらが先に来るか判らぬ。
動向の分からない敵の動きを悩んでいても仕方ない。此度の戦いで、我らは地上の者とおぞましき獣の群れ、二つの勢力を打ち破り、永らく平和を手に入れるのだ。
ともかく、獣共にまださしたる動きがない以上、警戒すべきは地上の奴ら。
我らモリビトの魂と力をとくと見よ! お前らがどんなに逞しい戦士を送り込み、どんなに優れた武器を使おうとも、我らは決して退かぬ。
****
地下世界のとある納屋。
この納屋はいわばモリビトたちの博物館。納屋には物がひしめていた。
功績を上げた戦士の名前を刻んだ板、大敗した神官一団の遺品、最高の歌い手と称された戦乙女の髪飾りなど、あらゆる物が置かれていた。その中で、異色な物が数点あった。
多くが円い形で、金もあれば、銀に銅、鉄でできた物もあり、長方形の数字が書かれた薄っぺらい紙もある。これら物が置かれた小さな卓には落書きのような物が描かれていた。モリビトの文字である。非常に複雑なこの文字は呪詛を意味する。
昔、モリビトと地上にも少なからず交流があった。
その際、地上の人間が持ち込んだこの道具と文化のせいで、モリビトは世界と「土地」と呼ぶようになり、モリビトの間で「貧富」の差が生まれるという有り得ない事態にまで発展した。
モリビトたちはこの小さな物を貪欲に欲し、そのために、モリビトの間で諍いが頻発に発生した。以前も諍いはあるにはあったが、大体平和的に解決してきた。この地下世界の環境は非情。一人ではとても生きていけない。それなのに、地上から持ち込まれた小さなこの道具のせいでモリビトの生活や関係にひびが生じ始めた。
時の神官はモリビト同士で諍いを起こす源となったこの道具を即刻回収し、処分したが、後世に伝えるべきとして数点ほど遺した。その後、地上との交流は断絶。以来、度重なる小競り合いの末、モリビトと地上の人間の間には深い溝ができた。
モリビトが最も憎む。地上の忌むべき穢らわしい道具。
―――それは、「お金」である。
この納屋でそれら、歴史ある品々を眺める者たちがいた。一人は納屋の管理人、一人は巫女の少女、もう一人は神官である。
二人は連れだって来たのではなく、たまたま、ばったりと出会ったに過ぎない。
神官は金貨をつまみ、しばし眺めてから置くと、汚い物でも触ったかのように、服で金貨を摘まんだ指先をこすった。
不思議な光だ。成る程。これを求めてモリビトたちの間に争いの火種が撒かれたのも理解できる。それ故に、穢らわしい。逆に言えば、我らの文明はそれほどまでに劣ることを証明しているのかもしれない。だが、奴らもこれを求め、常日頃争い、人生をこんな小さな物を集める為だけに生きている。我ら自身に争いをもたらした物を今でも持ち続けているようなら、おかしな話だ。
地上の厄介の種は地上のみで撒けばいいものを、わざわざこのような場所にまで持ち込んでくるとは―――つぐつぐ罪深き奴らよ。
地下にまで争いの種を持ち込むとはのう。神官はこうして、自らの敵愾心が廃れぬよう、暇があればこの納屋へ訪れていた。
今日ここへ訪れたのは、今朝方幾人もの占い師に聞かされた予測を聞いて、そのせいで不安になったたため。ここへ来たのは、心を落ちつけようとする所為によるものであった。
占い師が言霊を告げる場所は灯りが差さない洞窟の奥で行われる。
占い師のおばばは静かに眼を閉じ、瞑想した。占い師は僧侶たちとは異なる方法で大地の精から力を賜り、頭に直接断片的かつ抽象的なイメージを思い浮かべる。
占い師のおばばは静かに言霊を告げた。暗い洞窟内でもはっきりとおばばの陰影が確かめられる。
深い闇に水が滴り、四方八方から数えきれない槍が降り注ぎ、その多くが折れる。
この占いの意味は子供でも知っている。
すなわち、戦争。深い闇はいつ終わるかも知れぬ焦燥や亡くなった者への嘆きを意味する。闇に滴る水とは血。四方八方から降り注ぐ槍とは戦を意味し、その多くが折れるとは、双方甚大なる被害が出ることに他ならない。ここまでは普通。幾度も繰り返し聞かされてきたであろう言霊。その先が問題だった。
無垢なる魂が繋がりを生み 二つは一つに重なる。
幾多の
聞いたことがない言霊。通常なら、光明が右ならモリビト。
左に向かうなら地上側に利があることを示すが、光明の兆しが行方知れずとは? 二つが一つに重なるとは? どうも分からないことだらけだ。
「どのような意味でしょうか? また、幾多の牙とはいかような?」
占い師は首を振った。年長者であり、歴代の占い師でも術が長けた彼女をもってしても分からないことに、彼女自身は非常に悔しいような歯痒い思いを抱いた。
「咢は分かる。これは、
「戦が起こる事自体が既に一波乱ですよ。戦に不測の事態は付き物。我ら、いや、私は迷わず民と戦士を正しき道に導くのみ」
神官はまだ何か言いたげな占い師に礼を述べると、洞窟の奥の隅っこから出てきた。短い時間だというのに、外の光が随分眩しく感じた。神官は一八階の小屋へ戻る途中、妖精モリビトの斥候から急報をもたらされた。妖精モリビトは神官の肩に留まり、耳元でこそこそと話した。
「有り難くないことに、信じられないくらいの早さです。このままだと、遅くて四日。早二日以内には一八階に着きましょう」
神官は慌てることなく、ただちに僧たちを集めるよう命じた。
集まった者から使者として三名の大僧正、大僧正一人に付き二人を付け、護衛に戦士三十名の同行も任じた。交渉の間、戦士たちは遠からず、近からずのところで隠れているようにとも命じた。
開戦前、作法に則り、必ず使者を立てる。
もっとも、今まで使者が地上からの和議申立の一報を持ち帰った例はないが。
かといって、地上の者のように、こちらが使者も立てずにいきなり攻撃を仕掛けたら、向こうはこちらを言葉の通じぬ程度の低い野蛮人と見なし、大方、我らを人の姿をした血も涙もない冷徹な怪物と決めつけ、英雄気取りで嬉々としてモリビトを殺しにかかるだろう。
神官だけではないが、大半の者は戦を望んでいない。しかし、最早引き返せない。
恐らく、今回も使者は開戦の報を持ち帰るだろう。ひょっとして思う者もいるが、神官はあまり淡い期待は抱かぬよう説いた。できれば、避けたいが、過去の事例が彼の期待を揺らがせていた。
僧侶と戦士のうちには十二の林村も一人ずついる。
同村の者が二人殺されただけあって、並みならぬ敵意を抱き、申し立ての場に参加させるべきではないが、どうしてもという十二の林村の長とその村民たちのたっての願いに、神官は渋々と承諾した。
ただし、同行する十二の林村と僧侶と戦士は後方に控えさせ、自らを制せよときつく言い渡した。
「よいか。刃を交える事になるまでは、決して愚挙を犯すな。もし、交渉中に行為に及び、そなたらのせいで和議が完全に断たれれば、死罪は免れぬぞ」
「御意」
僧侶と戦士は膝を地に付けて頭を下げ、忠誠と承諾の意を示した。
神官は使者の一団を祝福した。一団は赤紫のモアの背に乗り、ささやかな見送りのもと、出発した。
地上の者は信用できないが、神官は彼らを信用した。今、私にできることはない。せめて、彼らの内誰一人として欠けることなく無事帰還するのを祈ろう。
ああ、それにしても、この胸騒ぎの正体はなんだ? 占い師が最後に告げようとした言霊を彼は聞いていた。
森に住まう民の頂きに立つ者、全てを導き、崩れる。
これの意味するところは単純明快。自分は死ぬということだ。それはどうでもよかった。
この命、同胞たちが救えるのならば惜しくない。それよりも、胸の妙なもやもや感が気になる。
そう、まるで、後ろから常に見えない誰かに後押しされている感覚。もっとわかりやすく例えれば、歯の間に肉が挟まり、いくらなにをやってもその肉が取れずに焦燥感を募らせる。そんな感じ。
杞憂だな。多分、占い師が予測した未来の結果の一つに私が死ぬことが予知されたのを聞いて、自分でも気づかぬうちに死への恐怖を抱き、怯えているだけだろう。
全く情けない! 万物にいずれは訪れる至極当然の摂理に怯えるとはな。
神官は瞑想をするため、緊急時以外、誰にも小屋に入らぬよう言った。
自らを無理に納得させたが、過去の事例に全くない占いの結果と自らが死ぬという予言は少なからず、彼の心に揺さぶりをかけた。
……新作の発売日前日に間に合わなかった。