世界樹の迷宮 光求めし者達   作:鞍馬山のカブトムシ

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十八話.新たなる階層へ

 前が見えず、前へ行けない状況。荒ぶる神鳥を見て、誰もが安堵して、油断していた。

 神官は示しをつけようと、モアを数歩分歩かせて前に出た。てっきり、怪物はもう一匹たりともいないと思われていた。しかし、実は一体、マンティコアとは別種の怪物が天井ぎりぎりまで伸びた高い樹の上に隠れていた。

 モリビトから白刀(しろかたな)呼ばれるカマキリ。カマキリは上と下の騒動を聞きつけ、樹上に逃げたが、腹を空かしてた。枝の間を見下ろして、自分の真下に良い大きさの獲物を確認すると、体を縮こまらせた。

 そして、獲物の真上に付くと、縮こまらせた筋肉を一気に伸ばし、羽根を広げず、空気抵抗を受けないよう体をぴんと伸ばした姿勢で飛び降りた。モアは野生の本能で神官より早く気付いたが、間に合わず、モアの頭部に両の鎌が深く刺さった。

 カマキリは凄まじい動作でモアの首に回り、槍を上げた神官は白刀の一撃をくらってモアの背から強制的に降ろされた。カマキリはモアを押し倒した。モアの死体は神官の上に覆いかぶさり、カマキリは完全に息の根を止めようと、モアの死体を神官ごと何度も叩きつけた。

 これで良いだろう。そう思い、両の鎌の動きを止めたとき、小さな物体が右目に当たり、そのまま左目をも貫通した。今まで生きてきて、感じたことがないぐらいほどの強い衝撃。その衝撃で、カマキリは首半分が捻じ曲がった。怒りに駆られ、視力を失い、訳も分からず鎌を振りあげて威嚇したが、更にさっきと同じ衝撃が細い首、でっぷりと楕円形に丸まった内臓が詰まった腹部に命中した。臓物を収めた部分から千切れた内臓と神経器官が洩れ出て、青緑のどろりとした血液が流れ出た。

 カマキリは一歩二歩後ずさると、両の鎌を揃えて左方向へと倒れた。

 カマキリの一五メートル前では、地上の鉄砲隊が火縄銃を構えていた。銃口の煙は神鳥の起こす突風で一瞬にして掻き消された。

 カマキリが倒れたら、一斉にモリビトたちはモアの死体をどけて、神官を引きずり出した。

 神官は右の肩口から腹にかけて、深く切り裂かれ、数え切れないほどの内出血を起こし、叩きつけられたせいで骨が何本も骨折していた。折れた骨が著しく内臓をも傷付けていた。

 

「ひきあげだ! マンティコアの始末はイワオロぺネロプと地の戦士たちに任せ、神官様を上へと運ぶのだ。こんな場所では治療もままならぬ」

 

 クロツェは騒ぎに呑まれぬよう、何回も大声で指示を飛ばした。神官の傷にはただちに包帯が巻かれ、担架に乗せられた。

 

「慎重に、慎重にだ。傷を深めてはならぬ」

 

 重傷を負った神官を乗せた担架が運ばれていく。後へ続いて、モリビトたちが上へと戻っていく。クロツェら指揮者たちは二十階の守り手たちには、引き続き、任務を果たすよう命じた。

 モリビトの最後列をゲンエモン率いる地上部隊が付く。

 

「親父、おれたちゃ一体どうなるかね?」とラクロワ。

「あの方か。あの方の代理を待つのみ。ただ、万が一もあるから、いつでも対応できるよう身構えておけ」

 

 両軍は上へ上へと行く。砂塵が吹き荒れない、比較的安全な十九階へと急いだ。

 マンティコアの群れが去った後も、防御陣は柵の内側で待機した。また、来ないとは限らない。

 次の指令があるまで、援軍にいるであろう司令官が戻るのを待った。全員待つだけはどうかという意見もあり、五人二組を偵察へ向かわした。

 二十人は柵の外に怪我人がいないか探した。主に援軍の者たちで、取り残された負傷者がいないかどうか向かった。地上とモリビト、それぞれの哨戒が戻ってきたぞと告げた。だが、様子がおかしい。

 何人ものモリビトが担架を担いで先頭にいた。モリビトはモリビト語で叫んだ。

 

「神官殿だ! 神官殿が担架に乗せられている。酷い怪我だ! ただちに開門せよ!」

 

 援軍は第一と第二防御線の門を通る必要はなかった。

 門や柵は殆ど破壊しつくされていたからだ。最終防御線の門が上を開け放たれた。どっと担架を担いだモリビトが入り込む。戦士の一人が言う。

 

「医療所はどこだ?」

「あちらです!」

「分かった! お前たちは大僧正の方達の指示があるまでは、ここで待機せよ」

 

 両援軍の指揮者たちは到着するや、早速指示をあおがれた。速やかに指示は出された。防御陣に関しては現状維持。医術の心得があるなら、医術師たちの協力をすること。援軍に関しては、半分をここの防御に残し、もう半分は周囲に取り残された負傷者の救出ならびに、マンティコアを含む樹海生物への威嚇行動を行うことにした。

 血の臭いを嗅ぎつけ、マンティコア以外の樹海生物の群れが大挙する可能性はおおいにありうる。ゲンエモンは柵の外を出る前に、エドワードたちと再開した。

 

「おお! ……おお……! 無事であったか―――コウシチ、シショー、エドワード。他の者はどうした?」

 

 ゲンエモンの瞳から(しずく)がこぼれんばかりである。ゲンエモンは袖でさっと顔を拭き、内側の頬と舌をも噛み、涙を堪えた。

 

「五人兄妹や衛兵が何名か亡くなりましたが、それ以外は特に。死ぬほどの怪我は負っていない」

 答えたのはエドワード。

「そうか。これから忙しくなるだろうが、今しばらくは休め」

 

 ゲンエモンは感動と歓喜で抱きしめたくなる気持ちを抑えた。衛兵とドナ一行、自身のパーティの者たちを連れて作戦に参加した。

 全て終わったわけではないが、ようやく一息を付けそうだ。エドワード、ロディムは少し腰を下ろすことにした。あの白い衣を着た、自分たちを引き入れたモリビトが近くを通ったので、気がかりといおうか、気になることを聞いてみた。

 

「少し聞きたいことがある」

 モリビトは足を止めて振り返った。「何だ? 私はまだ動かねばならん。手短に済ませ」相も変わらず無愛想な口調であるが、戦う前とは異なり、声の嫌悪感は薄れているように聞こえた。

「あの怪物。マンティコアといったか? 後を追いかけて、皆殺しにしないのか」

 

 それを聞くと、モリビトは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

 

「貴様らが敵に襲われたとき、その敵をどうするかは知らん。だが、我らはどんなに同胞を殺されようとも、敵となる生き物を皆殺しにするような非道な行いはしない。これは我らにも言えることであるが、一つの生物が増えすぎると録にことにならん。それを抑止する役割の生き物は必要不可欠だ。

 確かに、我らはマンティコアを含むおぞましい獣共が憎いが、それは向こうの立場に立てば、同じことが言える。多くの犠牲を払ったが、時が経てば、我らもマンティコアのような生き物もまた増える。そうして、またいつか戦い、この地下世界における生命のバランスを保つ。例えこの場での戦いに敗れたとしても、全モリビトが一致団結して追い払っただろう。では、私は行くぞ」

 

 白い衣を着たモリビトは群集の中に紛れた。エドワードたちはじっと、彼の背中を見つめた。

 このモリビトの考え方には心底驚かされた。

 自分たちの仲間をあれだけ多く殺した相手を生かし、そればかりか、生命のバランスを保つために必要とまで言う。到底、地上のどの人間も思いつかないような思考だ。こんな考え方をするのは、地方の民族など、ごく一握りの者たちしかいない。エトリアも一応、含まれると思う。

 モリビトは人間より文明は遅れているが、精神的文化はある意味、人間より進んでいた。

 ほんのひと時、休憩した後、手の空いている者たちも作業に移った。マンティコアの死体除去作業だ。除去作業を行う上で、言語を話せるモリビトが注意してくれた。

 

「気を付けろ。こいつらは虫並みにしぶとい奴らだ。死んだと思っていたら、いきなり口をひらいてくるかもしれん。動かす前に、武器で頭とかを突いてみるんだ」

 

 除去作業は柵の周囲から行われた。さきのモリビトが言ったことを考えれば、死んだふりをしたマンティコアが潜んでいるかもしれない。槍で突いてみると、ぴくと反応を示すのもいたが、傷の具合からしてどう見ても演技ではない。そのまま運ぶわけにもいかず、もう一度、深く突き刺し解釈してやったりした。死体はひとまず、防衛線の隅に集められた。

 倒れたモリビトや地上の人間もマンティコアに混じっていたが、生きている者はいなかった。いたとしても、殆どが死にかけていた。

 作業している間、援軍による威嚇作戦行動が聞こえた。絶え間なく太鼓の音が轟き、笛が鳴らされ、まれに火縄銃が発砲される音がした。

 交代しつつ作業は続けられた。マンティコアの死体は見かけより重く、おまけに面倒な確認作業をいちいち踏まなければならない。第二と最後の柵内側にある死体を出すのは、とても苦労した。

 戦闘後、たいして休みもなく働いているため、作業効率が滞ってきた。時計が無いので何とも言えないが、平均した体感時間で二時間くらいだろうか。ぞろぞろと列をなして、食料や水が入った瓶を持ったモリビトたちが来た。大半は女子供だった。

 マンティコアとの戦いは取りあえず決着したと知り、せめてもと、食料を運んできたのである。この差し入れは大変ありがたく、フルーツや薄い肉片には手が殺到した。

 地上の人間たちにも分け与えられた。危険なため、女子供は死体除去作業に加わるのは許されなかったが、食料の運搬や怪我人救護の手伝いを任された。女子供たちの加入により、男たちは除去作業に全力で取りかかれた。

 数時間後、すっかり疲れた援軍が帰還した。その頃には、防衛戦内部のマンティコアの死体は半分ぐらい片付けられていた。

 威嚇作戦に参加していた援軍にも食料が振舞われた。ゲンエモンは女モリビトから受け取った柄杓で水を飲んだ。武器や鎧は土と血で汚れ、ゲンエモン自身もくたびれていた。それでも、やるべきことがある。

 ゲンエモンとモリビトの指揮者たちは短い相談をした後、何名かの歩哨を立てて、まずは防御陣と援軍の兵たちも思い切って、四時間ほど休ませることにした。

 

「もう俺は疲れた」

 

 そう言うなり、ベルナルドはマントを丸めて重い武装を解くと、マントを枕がわりにして寝た。グラディウスは休憩を聞かされるなり、誰が寝て、見張りにつくかすぐにジャンケンで決めていた。最初はカールロが寝ずの番についていた。

 戦いは終わったが、モリビトがいつ、刃を向けるかは分からない。

 

「お前は救護所の傍に行って寝てろ。俺は適当な頃合いを見て、ジャンベと交代するから」

 

 エドワードに言われて、ロディムは喜んで、マルシアがいる救護所の傍に行き、小さなに盾に布を重ねて、そこに頭を置いた。マルシアを手伝っていたジャンベも、二時間後には仮眠を取ることにした。ロディムの近くで眠るジャンベを見て、エドワードは参ったなと頭を掻いた。そこでエドワードは、寝ずの番についていたキアーラに頼み、グラディウスの面子に交じって一眠りすることにした。

 一方、マルシアとオルドリッチは手を休める暇が無かった。医術の心得がある者は少なく、今は一人でも、怪我人を介抱できる手が必要だった。しかも、二人は重大な局面に立ち入っていたので、実際に休めたのは一時間ぐらいだった。

 四時間の休憩終了を告げる、太鼓の音が響く。

 思い思いに体を伸ばし、次々と戦士たちが起床する。軽く水分補給をしたら、本格的なマンティコア死体除去作業と平行して、戦死者たちの捜索を行った。

 威嚇作戦に回っていた者たちの手が来たお陰もあり、除去作業はスムーズに進み、戦死者たちも発見回収されていく。元は第一の柵があった場所。最初の防衛線前の近くに、けだもの共の死体の山が幾つも築き上げられる。第一と第二の防衛線の間には、戦死者たちが一人一人、丁重に並べられた。

 近くにある物を除き、防衛戦の外にあるマンティコアの死体は放っておかれた。自然と朽ちるか、他の生物による掃除を待つことにしたのだ。

 大方の作業は済んだ。残すところは、モリビトの最高指導者。神官である彼の判断を待つのみ。

 彼の判断で、ここにいる地上の者たちも、マンティコアと共に葬られることになる。ただ、ごく短い期間だが、共同戦線を張り、作業を行うことにより、人間とモリビトの間には絆とまでいかなくても、信頼関係が僅かながらも築かれていた。

 援軍が到着してから、半日以上が経過していた。戦闘時間は一時間半をやや超す程度だったが、今できる最低限な後始末でも半日の時間を要した。

 いくら待てど、神官は姿を表さない。

 神官は医療所よりも小さな掘っ立て小屋にて治療を受けている。マルシアとオルドリッチも診ていたはずだが、はてさて、どうなることやら。あの神官が俺たちを生かして返すのを願おう。

 掘っ立て小屋から一人、クロツェと名乗る大僧正が出てきた。クロツェは小さな台に登り、注目を集めた。

 彼はわざとらしく咳払いもせず、淡々と告げた。彼が告げたことを聞いて、モリビトたちに明らかな動揺が走る。地上の者たちは何を言っているのか分からなくて困惑した。

 

「な、なんだよ? 俺たちをやろうってのか?」

 

 ロディムは警戒したように斧と剣に手を触れた。エドワードはロディムが下手なことをしでかす前に、あの大僧正の男を見つけて、彼に訳してくれないかと頼んだ。

 彼の顔は悲痛で歪めれられていた。言葉は交わせないが、他のモリビトの表情から窺っても、何となくわかったような気がした。彼は少し口をもごもごさせたが、諦めたように言った。

 

「……崩御された……。神官様が。我らの最高指導者が亡くなられた。しかも、いましがたではない。神官様がここに着いて、一時間と経たないうちに……。半日前にはとうに亡くなられていたのだ」

 

 彼は頭を垂れ、モリビト語で大地の祈りを唱えた。

 

   ****

 

 運ばれているとき、神官は言った。声はか細く、とても弱く、集めた全ての者に届くほどの大音声で演説する指導者の威厳が損なわれていた。

 

「頼む……出来ることなら、私を……隔離するなり、他の者と離れたところに置いてくれ。伝えなければなら……ない」

「大僧正長様、どうか口を閉ざしてください。傷に触りますゆえ」

 

 担架を運ぶ戦士の一人は大僧正にも伝え、彼の願い通りにすることにした。六の林村(りんそん)に着くと、神官は掘っ立て小屋に静かに置かれた。

 マルシアなどメディックたち、医術を心得たモリビトが集まってきたが、神官は二人を残し、他の者の治療に当たれと僧侶を通じ、命じた。

 神官はもう、小屋の中に居る者たちに聞かせるほどの力もなくなっていた。

 

「お前たち、医術を心得た者たちの手は私以外の者にもいる。私はそこにいる、地上から来た女人医術師と彼だけでいい。頼むから行ってくれ。ここに残るのは、私を含めて七人でよい。大僧正長の厳命である」

「頼むぜ」

 

 オルドリッチはマルシアの肩をつかんで言った。マルシアは心得たように頷いた。

 医術を心得る者たちは名残惜しそうに小屋から去り、他の負傷者の治療に当たった。去ろうとするマルシアを、僧侶はお前は残っていいのだと引き留めた。

 残ったのは、マルシア。黄色の衣を着たモリビトの医術師。二人の紅服の戦士と僧侶と大僧正が一人ずつ。

 医術師は地上の言語を話せないため、間に僧侶が翻訳として立ち会った。僧侶は交互に訳した。

 僧侶は悲しく厳しい面持ちで、まず神官の言葉を訳した。言葉は分からなくても、神官である彼が危ない状態であるのは、素人が見たとしても、一目でわかる。傷は酷く深く、出血も相当である。生きているのが不思議なぐらいだ。

 

「私をほんの少し、生き延びさせてくれ。伝えねばならぬことがある。私がそこにいる大僧正に伝えられる限りの時間が欲しい。その間、君ら二人は口を挟まず、黙って手を動かすのだ」

 

 マルシアと医術師は頷くほかなかった。まともな医療器具もない。ここで全ての力を使えば、彼が生き伸びる可能性は微かにあるかもしれないが、それだと、他の助かるべき命が助からない。医師として残酷な判断を下さなければならないのは初めてではないが、自分の無力さを思い知らされるようで非常に悔しい。

 二人ができることと言えば、痛みを和らげるくらいだった。

 クロツェ大僧正は治療の邪魔にならないよう、顔元より上の位置に寄った。杖や武器を壁に立てかけると、話を聞きやすいよう正座姿勢で佇んだ。

 

「クロツェよ。そなたも口を挟むのでないぞ」

「受けたまわりました」

 

 神官はとつとつと遺言を語った。本当はもっと片言であるが、それでは分かりにくく、読み辛いので、聞き役の者が整理した形で送る。

 私が死んだことを皆に教えるのは、別作戦に向かったであろう援軍が仕事を終えて帰還してからだ。今は作業に集中する時。余計なことで気持ちを煩わし、仕事の手を止めさせたくない。

 私が亡きあとは、私の弟子であるあの娘に神職の座を譲るのだ。あの娘は優秀ではあるが、まだ若くて未熟。就いてしばらくは、お前たち大僧正と各林村の長たちであの子を見守るのだ。

 神官は残す最期の時間で精一杯、伝えるべきことを伝えた。

 ついで、あのモアも私と共に葬ってくれ。あれも長年私と付き合ってきたともがら。一羽で逝かせるのは心苦しい。

 ―――最後にひとつ、地上の者たちは無傷で地上に返せ。言いたいことは分かる。だが、これは彼らのため、ひいては我らのためにもなりうる。

 この地下世界の下には、立ち入りを禁じた世界があるのを知っておるか? 私は若い時分、一度、そこに踏み入ったことがある。すぐに引き返したが、今も忘れられない。その世界はここより光り輝き、見たこともないような巨大な建築物が立ち並んでいた。

 私は急に心細くなり、怖くなって引き返した。

 人や生き物の気配を感じられなかったせいでもあるが、何故だかは知らぬが、あの世界はモリビトという存在を拒んでいるように思えた。

 彼らの大将から話を聞いた。彼らは地下世界の謎を解くためにここに来たと言っていた。幾度となく語られて来た地上の者の言葉であり、信ずるに値しないと思われてきたが、私は彼らを信ずることにした。地下世界の謎を解くことこそ、我らと地上の者の無用な争いを避ける鍵となる。私はそう考えた。

 モリビトの犠牲はおぞましい(けだもの)共の戦いで十分だ。心ある者同士が戦っても意味はない。

 これらの遺言は、モリビトの指導者である神官職に就いた者の最期の言葉であり、私というモリビトの平和を願う一個人の願いでもある。

 聞き届けてくれ。クロツェが少し、口を挟んだ。

 

「最初に申しあげましたでしょう。受けたまわりました、と。私はあなたの意志とお言葉をきちんとお伝えします。口を挟んで申し訳ございません。話を続けてくだされ」

 

 神官は万が一のことを想定して、今とは別に、自らの遺言を綴った甲骨文字がある場所を伝えた。予め、幾つかの起こり得るパターンを記した甲骨文字を数個。地上の者へ伝える、細かな決め事が書かれた文字。神官はクロツェの聡明さを信用し、細かなことは伝えずとも、彼ならば、伝えるべきことを記した文字以外は破壊してくれるだろうと思っていた。

 彼がこのことを伝える前に死亡した場合、占いのおばばから、彼の弟子へと遺言は渡る予定だったが、そんなことまで語る余裕は無かった。脈を計るマルシアは、いよいよ最期の時が来たのがわかった。

 モリビトに大地の幸が賜われんことを願ふ!

 最後にモリビトの言葉でそう叫ぶと、神官の眼から光がすうと消えた。脈もとく……とく……と打ち、やがて、止まった。心臓に耳を当てても、聞こえない。脈を打つ音がどんどん弱まる。

 今日この日。二十年来、モリビトを導いてきた指導者が逝った。

 彼は皆の前で弱音を吐かず。文句も言わず。何が起きても鉄の仮面を張りつけて応じた。死の床にあっても、彼は怯えず、死を当然のこととして受け入れ、最後まで指導者の立場にいる者として振る舞った。死に場所は指導者らしくないところだが、彼自体は惨めたらしいものには見えず、死してなお厳かな気が漂い、神聖にすら感じた。

 神鳥は神官の死を察知したのか。勝利の雄叫びを上げただけなのか。神鳥の声の鳴動は十九階にまで響き渡る。

 医術師と戦士二人、僧侶は沈痛な顔で頭を垂れた。大僧正は立って背を伸ばし、モリビト語で短い祈りを唱えた。

 

「しかと聞きました。そして、見届けました。あなたはやはり、我らの偉大なる導き手でありました」

 

 全員掘っ立て小屋を出た。大僧正はマルシアと医術師に頼んだ。

 

「ある程度過ぎたら、ここに戻ってきてくれ。あのお方のお体を綺麗にしてほしい。他の者に聞かれても他言無用。上手く誤魔化すのだ」

 

 紅服の戦士には掘っ立て小屋を守るよう命じた。大僧正は僧侶を伴い、仕事に戻った。香を焚いて、死臭が洩れるのを防ぎ、悪い虫が寄り付かないようにした。一時間を過ぎ、マルシアが戻った。ちょっと遅れて、医術師も戻った。香がたかれて紛れているものの、死臭がする。

 紅服の戦士には水をくんできてもらった。

 二人して、何枚もの布で神官の顔と体を綺麗に拭いた。

 拭いているときに思ったが、モリビトの体は僅かに人間とは違い、例えば、ペニスの位置や形は人間とは少々異なる。と、この場でじろじろ見るのも失礼なので、マルシアは体を綺麗にしてあげることに専念した。

 彼の体を綺麗にする仕事が済むと、二人は医療所にて、負傷者の処置にあたった。

 クロツェは言われていた場所に行き、掘り返した。確かに、数枚の甲骨文字版がある。クロツェは一枚一枚遺書の内容を読んだ。神官は予め、幾つかの事態を想定していた。モリビトが勝った時。モリビトが負けた時。引き分けに終わった時。冷戦に入った時。そして、地上と再び、和平が結ばれた時など。必要と思う物以外は斧で壊し、自らの術式で焼いた。

 四時間の休憩とその後の作業が終了した時、クロツェと名乗る大僧正が小さな台に上り、群衆に神官の遺志を告げた。

 群集はクロツェから伝えられた神官の遺志を聞き、動揺を隠せなかった。まさか、我々の敵対者をこのまま帰すのか? それでも、彼らは従った。彼らの尊敬に値すると認めた人物の死の間際の願いを聞き入れた。

 大僧正はゲンエモンに語りかけ、地上の者を集め、地上の言語で同じことを語りかけた。

 地上も地上で動揺したが、やったと言ってしまいそうになる者もいた。

 クロツェは神官が言った地上との決め事を告げた。大僧正は僧侶たちに持たせて、甲骨に記した条約を民に見せた。大僧正は淡々とした態度で、冷たさも温かさもない朴訥な声で話した。

 一つ、地上の月日で言う、一週間の木曜日から金曜日。二日の間は『枯れ森』の通行を許可する。

 二つ、身を守る以外では、無闇な殺生を行わぬこと。土を掘ったり、樹や植物もあまり傷つけないこと。

 三つ、木曜日と金曜日に通れるとは限らぬ。我らにも我らの都合があり、来てほしくない日もある。

 その場合、上にある紫の光の柱の付近に色を塗った石を置き、通行を禁ずる印とする。もし通った場合、警告はするが、それすらも無視するような輩は侵入者と認め、殺生もやむをえぬものとする。

 四つ、我らの村には立ち入らないこと。我らが意図して地上の者たちに姿を見せるのは、我ら自身で決めること。

 五つ、仮に双方が互いの姿を認めても、無視し合う。だが、どちらかに危機が訪れた場合、当人たちの判断により、助けるか否かを決めること。

 六つ、話も利かずに我らを怪物として襲うのは止めよ。

 

「互いの利益のため、六つの条約全てを遵守せよ。これは、神官殿の願いであり、モリビトたちの願いでもある。一つぐらいとは思って、気軽に破らぬように」

 

 ゲンエモンはクロツェに一礼をした。

 

「あなたの口頭から伝えられた、崩御された指導者の方の御遺志。理解いたしました。すぐには難しいでしょうが、皆に意見を聞かれる立場の者として、(わたくし)も後輩諸君に決め事を守らせるようお約束します。迷惑でなければ、条約を遵守する証拠に私の血印を押しても構いませぬか?」

「よい」とクロツェは言った。

 

 クロツェは民にも説明した。ゲンエモンは小刀を抜き、親指を切りつけたら、甲骨文字の空白に血印を押した。この場にいる全ての者が証人となり、ゲンエモンの行いを見た。ヘンリクがさっとゲンエモンの親指に包帯を巻いた。

 

「かたじけない」

「これより、我ら、モリビトと地上の間で再び盟約が結ばれた。この盟約が破られたとき、血をもってこれを償わせるとする」

 

 二度手間になるが、クロツェは地上の者にも全く同じことを聞かせた。

 

「では、地上の者らよ。これが、大僧正長がそなたらに聞かせる文字に記された最後の言葉である。そなたらを半日の間だけ、客人として扱う。心ゆくまで休まれよ」

 

 本当は変位磁石を使ってすぐに帰れるが、ゲンエモンと地上の部隊はこの申し出を受けた。

 とはいえ、昨日まで争いあっていた仲。はい、そうですかと、宴会するわけにもいかない。モリビトと地上側は距離を置いて集まった。

 とにもかくにも、これにて、地下における戦いは意外な形で終結した。

 一同は安堵よりも、やったと終わったと、深く長い溜め息を吐いた。気になる点がある。ゲンエモンはどうやってここに来たのだ。というより、モリビトたちはどうして、敵であるはずのゲンエモンを連れてきたのだろう。

 ドナや数名ほど、速記ができる者を連れて、条文を羊皮紙に記す準備をしていたゲンエモンにコウシチが尋ねた。

 

「師よ。そう急がれずとも、時間はあります。あなた働きすぎです。そこでですが、あなたの休憩も兼ねて、おりいって、お尋ねしたいことがあります。何故、モリビトたちはあなたとあなたが率いる者たちをここに連れてきたのですか? 昨日今日まで、敵対していた間柄だったのに」

 ゲンエモンは顎髭をつるりと撫でた。「当然の疑問よな。よかろう、半日もかからんだろうが、お前たち二十数名に事情を聞かせよう。少しは暇潰しにもなろうて」。ゲンエモンは捕らえれた者たちを自分の回りに集めた。「といっても、わしの語りを過剰に期待しないでくれよ。ありのままを話すだけで、杓子定規的でつまらんぞ」

 

 一同は気楽な恰好で地べたに座った。ゲンエモンだけは、胡坐を掻いた姿勢から正座へと変えた。ゲンエモンは語り出した。

 千を越えるモリビトに囲まれたとき、モリビトの大将と見受けられる人物が出てきた。ゲンエモンはその人物へ銃口と弓矢を集中させた。攻撃命令を下す直前に、大将格のモリビトが分かる言語で叫んだ。

 

「武器を下ろせ! 我らは武装しているが、戦いに来たのではない。話し合いに来たのだ。これから、諸君らにも関わる問題を教えよう」

 

 ゲンエモンは叫び返した。

 

「話し合うべき事柄などない。わしらは戦いに来た。心の拠り所を失った今、わしには戦いを拒む理由はない」

 

 神官はある程度予想していのだろうか。もったいぶらず、素直に教えた。

 

「では、捕虜はまだ生きていると言ったらどうかな? 一人、灰色の鉄鎧を身に付けた者は罠にかかって死んでしまったが、他は生きておる」

 

 この報せを聞いて、部隊には衝撃が走った。まさか、生きているというのか? モリビトたちは神官が情報を明かしたことを聞いて、驚いた顔で神官を見た。

 

「信じられん。ならば、証拠に一人をここへ連れてこい!」

「できぬ! したくてもできぬ。何故なら、我らの村は今、窮地に直面している。それは我らモリビトだけではなく、お前たち地上の者や他の生き物にも禍をもたらす存在だ」

「何が望みだというのだ? 正直に言え! さもなくば、最後の一兵になるまで戦う覚悟はあるぞ」

「短刀直入に申そう。我らは我らの村を救うため、お前たちは捕虜を救うため、一度戦いの手を止めて、共通の敵となりうる存在と戦わないかということだ」

 

 土壇場にきて、神官は英断を下した。地上との戦いといい、彼は計画を立てて、思い切った発言をするが、彼は以前から、望みは薄いが密かに和解の手立ても講じていた。そんなことはないだろうと諦めていたが、彼にとって、この日におぞましい獣が来るとはかえって都合が良かった。

 そして、農夫の報告を聞いて思いついた。おぞましい獣たちから身を守るため、共に戦いあうことが和平へと繋がる最良の方法と考えた。神官は相手が疑問を挟む余地を与えなかった。

 多少、強引ではあるが、時間が無いのもまた事実。一種の賭けである。

 

「断るならそれもよし。だが、そうなれば、我らは捕えた者たちを怪物たちの囮にする。もっとも、戦いで命を落とした者の責任までは取れぬが、戦いに協力すれば、生き残った者たちは絶対に無傷で帰す。私の命を賭けて保障しよう。森に火を放った行為も許そう。返答は数えて六百までだ」

 

 神官は僧侶に六百を数えさせた。ゲンエモンは目から鱗が落ちた。

 彼の心から疑問や憎しみの渦、復讐心は消え去り、希望の灯がぱっと宿った。とことんとやると決めたのだ。ならば、こういう方法でやるのも、またありだと自らに言い聞かせた。何よりも、ゲンエモンにそう思わせたのは、モリビト大将の言葉である。彼の言葉には裏表があるように聞こえず、威厳があり、言っていることに対する責任、確かな重みが感じられた。

 初対面ではあるが、一切の迷いや気負いがないモリビト大将を、ゲンエモンは迷いっぱなしの自分とは異なる相手を見て、素直に尊敬の念すら抱いた。

 彼はもう迷わなかった。嘘をついているのではないかと思っている者にも聞こえるよう、ゲンエモンは決然とした表情で百五十名の者を説得した。

 

「これは真の意味での最大のチャンス。わしはあのモリビトの大将の言うことを信ずる。わしは最後にもう一度、わしはお前たちに隊長としての権利を行使させてもらう。モリビトの和平、捕虜と我ら自身のため、モリビトとの戦いは一時休戦し、下にいる怪物共と戦うことにする」

 

 全員無言でゲンエモンを見つめた。戦士たちには、身内や同僚の仇を取ろうと、とうに一戦交えようという者もいて、近頃になって揺れがちなゲンエモンや指揮力が殆ど無い副隊長に不満を抱く者もいた。

 

「異論のある者は前に出よ。わしは折れぬぞ。モリビトとわしが気に食わないというのなら、わしを切って、その首を向こうに投げつけよ。ただし、その前にわしに近づければの話だ」

 

 ゲンエモンは腰の刀に手をかけて、集団を睥睨(へいげい)した。

 彼の本気を知り、多くが困ったように隣り合う者と顔を合わせた。モリビトと手を取るか。否か。上層部と話し合わず、早急に重大な決断を下さなければならない。多くの冒険者たちはゲンエモンの説得に耳を傾けたが、衛兵の半数は話半分。疑り深く聞く者もいた。

 その時、ドナ・A・トルヌゥーア。エトリア期待の星が立つ!

 聡明な彼女は、この場で何をすべきか理解して立ち上がった。

 

「私はゲンエモンに賛同する! 手前勝手だが、私のさっきの発言はなかったことにしてもらいたい。私はエトリアの真の平和を守るためにモリビトと共に戦う!」

 

 これはエトリア勢である衛兵たちには効果的だった。不満を隠せない者もいたが、賛同する大多数を見て、渋々と従った。満場一致とまでにはいかなかったが、とりあえずまとまった。

 

「返答はいかに!?」

 

 神官が問いかける。ゲンエモンは臆せず、高台から一人、姿を現した。

 

「わしらは皆、モリビトと共に戦うことをここで決めた」

 

 ただちに下へ降りる準備が進められた。神官はもう一つ条件を加えた。目隠しをして、モアの背に武装解除した状態で乗せるというものだ。いくら和平を望んでいるとはいえ、まだ、村がある場所まで教えるわけにはいかない。これには、当のゲンエモンも反抗したが、いた仕方ないと、この条件を飲んだ。

 百五十のモアの背に人間とモアが乗り、残り百五十のモアの体には地上側の武装が載せられた。

 神官の号令の下、千五百と百五十の部隊は出撃した。移動している最中、ゲンエモンは不安に襲われた。間違った判断をしたのかもしれない。いや、迷うな。戒めに自らの舌をかちりと噛んだ。

 モアの背に揺られて、おおむね三時間か五時間経ったのだろうか。時間の感覚が麻痺してくる頃、ようやく降ろされ、装備品も全て元のまま返された。

 妖精モリビトの斥候の報告から、思ったより被害が拡大していることを知り、モリビトたちは戦太鼓と笛を盛大に鳴らした。

 僧侶の口から危機を知ったゲンエモンたちも、遅れをとるなと法螺貝と角笛を吹き鳴らした。

 こうして、両援軍の到着によって当面の危機は去ったが、モリビトの大将である彼は「命を賭けて保障しよう」と言っていたが、本当に命で支払うことになるとは。本人以外には思いも寄らないことであった。

 ゲンエモンたちも知らない、モリビト側の視点も交えた経緯(いきさつ)である。

 

   ****

 

「ということは、あなたの英断あってのことですね」

 

 ゲンエモンは顔を少し苦々しく歪めて、首を振り、コウシチの言葉を否定した。

 

「わしは何もしておらぬ。わしがしたことと言えば、刀で怪物を幾らか切り、森に火を放つという愚策を犯したぐらい。(ほま)れるのは、こんなわしに付いてきた勇気ある衛兵と冒険者諸君。ドナ殿。いましがた亡くなられた、英断を下したモリビトの指導者の方。そして」

 

 ゲンエモンはコウシチから順に捕えられた者たちの顔を眺め、最後にエドワードを見た。

 

「そして、捕えられて尚、真実を見誤らず。わしより先に真実に気付き、種族の垣根を越えて協力しあったお前たちだ」

 

 時間が経つのが遅く感じた。長い一仕事が済んだ今、地上部隊。特に捕虜となった者たちは一刻も地上へと帰りたくなった。ゲンエモンは、クロツェというモリビトに一つ頼んだ。

 

「あのマンティコアから物を採取させてくれぬか? 証拠の品にもなり、彼らの報酬となる。全ては無理だが、手を付けた遺体はこちらで処分する」

 

 大僧正は他の者と相談をした。モリビト側は採集を許可した。彼らもまた、マンティコアの角や毛皮の他、体内にある毒腺を利用するものの、肉は食えないのでどうしたものかと迷っていた。手を付けた分に限りだが、処分してくれるのは助かる。

 ものはついでと、ゲンエモンは緋緋金の竜と青熊の獣人も頂いていいかと伺ったところ、これも持って行って良いと言われた。

 彼らにとって、正体が判らない以上、二体はでかいだけの邪魔な廃棄物でしかなかった。

 五人六人に関わらず、ゲンエモンは一組につき公平に三体を割り当てた。地竜と青熊の獣人に関しては、執政院ラーダに買い取ってもらい、衛兵の遺族や亡くなった冒険者の葬式代、負傷者たちの費用に割り当てることで合意した。

 おかげで、しばらく退屈をしのげた。急がず、のんびりと皮や爪を剥ぎ取り、毒液を空ビンに溜めた。剥ぎ取ったら、角だけを残し、引っ張って一箇所に集め、そこで角を剥ぎ取った。傷付きすぎたり、そもそも取れるような物がないほど傷付いた死体もあったが、比較的傷付いてない死体は必ず一体は分けられた。中には、離れたところにある物まで取りに行く者たちもいた。

 アクリヴィは、少しでもモリビトから話を聞こうとしたが、簡単な挨拶では会話できず、話せる相手でも、「それは駄目だ」と断られた。モリビトの少年ジェルグ、戦乙女のサラも近づこうとしない。エドワードはジェルグを救ったつもりだったが、ジェルグにはショックだったろう。

 エドワードはこれで良いだろうと思った。後腐れなく帰れる。

 ゲンエモンは一言断って、予定より早く帰ることにした。

 確かに共同戦線を張ったが、千年にも及ぶいざこざがたった一日で氷塊するわけもない。時間が経つごとに、両者の間は微妙な空気で覆われた。そろそろ帰ってもいいだろう。大僧正も帰るのを許可した。

 一応、モリビトたちは彼らを見送った。

 

「石はそんなにない。わしのパーティが最後に行く。光が出たら、とにかく飛び込め。別れを済ませるのなら今のうちだ」

 

 誰も別れを済ませる者はいない。そも、別れを済ますほど仲の良いモリビトはいない。だが、例外はいた。

 ジェルグがつつと、顔を下に向けながら、恥ずかしそうに近づいてきた。もう、彼の勇気はさっきので萎えて、元の普通の少年に戻ってた。

 

「さよならだよ。サラさんにもお元気にと言ってね」とジャンベ。

 

 一の牢に居た者たちは、ジェルグに別れを告げた。エドワードは頭のゴーグルを手渡した。

 

「勇気ある者への詫びの意味も込めて、約束通り、これを渡そう。お別れだ、ジェルグ。立派な戦……大人になるんだぞ」

 

 エドワードは”戦士”ではなく、大人と言い直した。ジャンベが後で聞いても、本人はさあととぼけた。

 光の柱が二本出現した。五十人がここの戦いで亡くなった者たちの遺体を抱えて帰還した。続いても、二本の光の柱が出現し、七十人が十六階の樹海時軸に戻った。最後にもう一度、光の柱が出現した。消えゆく間際、小さく手を降るジェルグとサラの姿が目に映った。

 一瞬にして十六階に到着した。エドワードたちホープマンズは、ロディムが斧で伐りつけた跡が残る樹を見て安心した。エドワードは最後に来たゲンエモンに聞いた。

 

「地上の時間帯はどうなんでしょうか?」

「わしらは二日前の早朝に出立した。それから、二日の早朝に半日足せば、夕方かの?」

 

 居ても立ってもいられず、ロディムは早速樹海時軸を通って帰還した。マルシア、コルトン、ジャンベ、アクリヴィ、エドワードが通る。

 眩しい光。地下世界から戻った者たちを歓迎するように、太陽は燦々と輝いてた。太陽と雲を見れて、これほどまでに歓喜できる日はそうないだろう。紅く染まる夕焼け空が一段と美しかった。

 

「いいぃぃやっっほおぉぉーーー!!」

 

 ロディムや多くの者が感動で大声を上げて、トルヌゥーア内壁に木霊する。

 内壁の見張り役の者たちは、ぞろぞろと帰還してきた部隊を見て、唖然とした。彼らや市民は、部隊は帰ってこないだろうと諦めていたのだ。

 驚きは喜びへと移り変わり、内壁の上にいる衛兵たちは部隊が戻って来たぞと口々に叫ぶ。ラッパを吹き鳴らし、部隊の帰還をエトリアの街に伝える。

 

 内壁の衛兵が一人降りてきて、ゲンエモンを称賛した。「あなたは期待どおり、エトリアに勝利をもたらされた」

 ゲンエモンは彼の右肩を掴み、にこやかに首を振った。

「違う。勝利よりもっと素晴らしいものを得た。休戦停止ではあるが、とりあえず戦わずに済むようになったぞ。詳しいことは、執政院ラーダに報告した後にでも教えよう。それより、見ろ」

 ゲンエモンは夕焼けで紅く陰る世界樹を見上げた。

「太陽は素晴らしいではないか。何を言っているのか分からんだろ? わしも自分で何を言っているのか分からんわい」

 

 ゲンエモンは久しぶりにがははと笑い声を上げた。

 エドワードははっと思い出した。長鳴鶏(にわとり)の館への支払い期日は今日じゃないか。エドワードは苦笑した。帰って、地上へ帰還した喜びの次に、いきなり宿賃の支払いを思い出した自分が滑稽でならない。

 

          *―――――――――――――――*

 

 上と下から、モリビトの民、巫女の少女、長たちと神官の弟子。いや、新たなる神官の地位に就いたモリビトの女性が一九階六の林村に集合した。実の父親のような存在であった人の悲報を聞いて、顔こそ気丈に上げているものの、彼女の心は例えようがない深い悲しみで張り裂けそうだった。神官を含め、三百を超す者が戦死したので、人々の悲しみも大きかった。どの村でも、友人知人、身内が亡くなったという話題で包まれていた。

 亡くなった神官は、新たなる神官の地位に就いた者と巫女、数人の僧と上位の戦士三十に囲まれ、各林村にひととき滞在をしてお別れをする。

 巫女の少女は悲しみよりも、後悔の念で苛まれた。

 こういう事態を全く予想していなかった訳ではない。それでも、彼が死ぬ前に話すべきであったのだろうか? 私の教えは全て間違っていたのか? よもや、本当に地上の者たちと手を取り合って戦うことになろうとは。彼の行動と大胆さときたら、大戦を勝利に導いた指導者たちより上であった。現状を考えたら、彼にはもうしばらく、生きてもらいたかった。

 神官の死を見届けた、クロツェ大僧正が幕内に居る巫女にそっと近寄った。

 

「このような場でお伺いするのは失礼と存じあげておりますが、二つ申しあげたいことがあります」

「許す。ただし、小声で申せ」

「一つは生前、神官殿があなたと交わしたお約束の件でございます。亡くなる前、あの方は私に念を押して聞けと申されていたので」

 

 巫女はふふと微笑した。

「案ずるな。約束はたがえん。約束どおり、皆が集まったら、我らの歴史に関する真実を話す。で、二つめとはなんだ?」

 クロツェは更に声を潜めた。

 

「非常に申しあげにくのですが……現神官殿の契りと申せばよろしいでしょうか?」

 

 巫女はクロツェの契りという言葉を聞いて、少し目を見開いた。

 

「契り……だと?」

「どうか、怒りを静めてください。これも、神官殿が亡くなる前に申されたことでありまして、これからは神官も、子をなしてもいいだろうとおっしゃっられてました。ただし、その子には引き継がせてはならぬ。後は済まぬが、巫女を中心に皆で相談して、私の代わりに新たな決まりを作ってくれとも申されてました」

 

 巫女は手をかざし、少し待てと示した。神官……指導者の結婚か……。考えたこともない。

 地上の独裁政権を真似てなるものかと思ったが、今私がしていることは、影の支配者。独裁者と変わりないのかもしれない。それにしても、土壇場で長年敵対していた地上の者と手を組んだり、自らの命を賭けて私に真実を約束させたことといい、大した若造だよ。

 変化か。神官の選出方法を変えるべきかなと思っていたが、こんな変化があってもいいだろう。この変化がきっかけで、我らモリビトも新しい道を見つけることができるかも。それに、親も無き今、現神官には別の支えも必要だ。神官から、彼女が密かに想いを抱いてしまった相手がいると聞くが、さて。

 巫女は笑い声を上げた。たかが結婚のことで、こんなにも深く真剣に考えている自分が馬鹿らしくなってきた。だが、慎重に進めなければいけないのも事実。巫女は少女らしい、緩やかな笑みを浮かべて言った。

 

「すぐには難しいでしょう。大僧正長の婚約は、皆とよく話し合わなければなりませんがね。ですが、その前に彼と戦士たちを見送りましょう。さあ、あなたはゆきなさい。私も支度を整えたら参ります」

 

 クロツェは一礼して退出した。

 クロツェが出た後、巫女は無言で天井を見つめた。彼らは私の話を聞いて、受け入れられるだろうか。せっかく、埋められるかもしれない地上との溝はより深まってしまうのではないか?

 ―――彼らは強い。どうか安心してくだされ。

 誰かが自分の肩に手を置いたような気がした。振り返っても、誰もいない。ふっと、どこでもないほうを見て微笑んだ。

 

「分かってますよ。彼らモリビトの強さは私が一番知っているつもりです」

 

 そうだ。話さなければいけない。どんなに辛く苦しく、耳を塞ぎたい事実だとしても、いつかは明かさなければ。それは、彼の望みであり、私自身の望みでもあったのだろう。

 巫女はいざ語る日がきて、肩の荷が下りたような気がした。

 

          *―――――――――――――――*

 

 七月五日。

 帰ってまずしたことは、体を清潔にすること。特に、囚われた者たちは何日間も入っていなかったので、二日間、行軍していた援軍百五十名より臭かった。綺麗さっぱりにしたら、急激な疲れに襲われた。長鳴鶏の館の主人など、冒険者が寝泊まりしている所の主たちは、支払い元気になってから来いと言う。そう言われて安心して、冒険者たちは久々に、土やざこの上ではなく、柔らかい枕を頭にして、暖かい布団を被って眠れた。

 七月十二日。地上部隊が帰還して一週間経った。その間、冒険者とエトリア住民たちは亡くなった者たちを追悼した。

 ジャンベは地下戦争の最中、心に決めたとおり、ダルメオやバジリオらバードたち、街に居る各宗教者たちと共に亡くなった勇気ある衛兵と同業者たちに哀悼歌を捧げた。

 顔見知りの者がいれば、一人一人、誰彼身分と立場の違いを問わずに訪ねてお悔やみの言葉と故人への別れをすました。

 実質、丸一週間休めた為、虜囚の身だった者たちの体力と精神も大分、回復していた。

 あらかたの事を終えたら、冒険者たちは誰が一番に潜るかで揉めた。捕まっても諦めなかった自分達こそと主張する者あらば。応援に駆けつけた者達こそ相応しいと主張する者あり。この中でどこのパーティが一番初めに五階層への切符を手にするか。物議は一昼夜かけて催されたがどこが代表するか決まらない。

 ホープマンズやグラディウスなど、一部のパーティは傍観者に徹した。

 ボス格のゲンエモンが辞退したので、どこが最初にいくかの物議は更に難航した。そこへ、ゲンエモンに頼まれて見るに見かねたギルド長のガンリューが助け舟として現れて、こう提案した。

 

「運で決めろ」

 

 彼はさっとトランプを並べた。ガンリューはさも、この騒ぎを楽しんでいるかのように酒場の冒険者たちを見渡した。

 

「ポーカー。七並べ。ブラックジャック。大貧民。何でもいいから選べや」

 

 かくしてガンリュー実行長委員長の下、各パーティから代表者を一人ずつ出したポーカー大会が丸一日かけて行われた。一試合ごとにパーティ代表を出場させる方式。最初から最後まで一人通すのも良し。試合ごとに交代するのも良しとした。エトリア住民と今回の戦いに関わらなかった冒険者たちもこぞって、真昼間でポーカーの勝負に火花を散らす冒険者たちを見学し、いつしかお祭り騒ぎへと発展していた。

 

   ****

 

 ゲンエモンとオルレス。二人きりで膝を合わせての対談。

 

「オルレス殿。あんたは来度のモリビトとの戦、どう思われる?」

「どう思われると申されても」

 

 オルレスは外の気配を窺った。特に誰か居る様子はない。

 

「わしはあんたより感覚が鋭い。聞き耳を立てているような者はおらん。安心して申せ」

「では……遠慮なく。はっきり言いまして、このままモリビトと戦っていたら、悪戯に兵力を消耗するだけで、我らエトリア勢が押し負けたでしょう」

 

 ゲンエモンは無言で首肯した。情報不足。

 自分たちのことをよく知っていたモリビト。モリビトのことを全く知らないエトリア軍。そのモリビトを相手に、相手の本拠地、こちらにとっては全くの未開地で戦う。いくら装備や個々の兵士の精度が秀でているとしても、無謀にも程がある。

 その上、歴然とした戦力差もある。エトリアがモリビトと戦って勝てる要素や見込みは非常に薄い。おまけに、エトリア陣営は相手をみくびるという、最大の過ちをも犯してしてまった。

 正直、執政院の首脳陣は形はどうあれ、モリビトとの戦が無事済んだことに胸を撫で下ろしていた。執政院だけではない。冒険者、エトリア在住の市民も同じ心境である。

 

「私にも責任がある。遺族への対応や後始末は協力する。しかし、これだけ言わせてくれ。もう政治屋や軍人は結構だ」

 

 冒険者室長室オルレスにゲンエモンはこう言った。エトリア市民の多くは、人を入れてはならぬ地に人を送り込んでいることを理解しているが、来度のことでエトリア人と冒険者たちの間にこれ以上、不和が生じるのは避けねばならない。

 オルレスはくいと眼鏡を掛けなおした。

 

「これからどうされるのですか?」

「だから言っただろう。政治屋や軍人は結構。今回のことで、私には大人数を率いるほどの器は無いと知った。将たる者、一度戦に出たら、情に流されてはいけない。だが、私はコウシチたちを思うあまり、今思えば手前勝手な命令を出した。将失格だ。私にはやはり、少人数の気心と知れた者たちと冒険に行くのが性に合っとる」

「そうでしょうか。あなた方、東洋出身者が語る『謙遜』というものでしょうか。あなたは不慣れな任務を十二分にこなしてくれた。あなたがどう言おうと、私にはあなたは大将としての器があると思います」

 

 彼は首を振って、それはないと謙遜した。

 

「もう、あるかないかの話しはよそうや。これからは、世界樹の迷宮における冒険の新しい規約。第四階層の決まり事を後輩とわし自身がしっかりと学ばなければならん」席を立とうするゲンエモンに、オルレスは最後にもう一言聞いた。

「外の騒ぎは中々盛況でしたね。私も叶うことなら、仕事の手を止めて見に行きたかった。それでは、新たなる階層。つまるところ、前人未踏の第五階層の最初の一歩を踏むのはどなたになるのでしょうか?」

 

 ゲンエモンは満面の笑みを浮かべた。心底、面白おかしい感じだ。

 

「何かおかしなことを聞きましたでしょうか?」

「くく……あんたも存じでおろう。ガンリューめ、困ったことがあったらポーカーなどトランプ勝負に持ち込むのが奴の小賢しい常套手段じゃったが、今回はそれに感謝せなばな。誰が何百年ぶりかとなる階層へ潜るかで揉めて、いがみ合った末に流血沙汰となったら元も子もない。多くから誘われて、わしらも参加したが、早々に負けてしもうてな」

「それでいいのですよ。昔の時代では、モンスターによる死傷者よりも、モンスターに殺させたように見せかけた、相手の取得物を狙った冒険者同士の殺し合いによる被害が遥かに大きかったとあります」

 

 ゲンエモンの顔に微かに影が差した。オルレスはしまったと誤魔化すように曇りもない眼鏡を拭いて、改めて誰が五階層初探索チケットを手に入れたかを聞いた。ゲンエモンはオルレスに耳打ちした。オルレスはやはりそうですかと納得した。

 

「幾つか予想はしていましたが、やはりあそこのパーティですか」

「そうじゃ。勝負は時の運というしな。彼らはモリビトに捕らえられても殺されず、マンティコアなる怪物の群れとの戦いでも誰一人として欠けなかった。彼らには幸運のなんとやらが舞い降りているのだろう」

 

 ゲンエモンの豪快な笑いが室長室に響いた。オルレスも折り曲げた人差し指を口元近くに持っていき、ゲンエモン並みに笑いそうになる自分を押さえた。ゲンエモンは笑い声を止めて、外の世界樹を眺めた。

 

「今頃、もう六人は到達しておるかもな」

 

 去り際、ゲンエモンは副隊長の処遇を尋ねた。オルレスは淡々と答えた。

 副隊長は地位に見合う能力が無いと見なされ、地位剥奪。

 しばらくはエトリア領土の隅に建てられた、小さな村役場の衛兵の任に就くとのこと。本来ならば、命令無視などの軍紀違反でもっと重い処罰であったが、彼の父親の働きかけと彼の過去における冒険の功績をかんがみて、このような処遇に決まった。

 ゲンエモンは残念そうに溜め息を小さく吐いた。彼と仲違いしたまま別れたのが気掛かりだ。このことが、後に災厄をもたらすきっかけとなるのでは?

 そんな不安が頭の中を掠めた。

 

   ****

 

 今回に限り、ホープマンズは六人態勢で潜った。道中、白い獅子が一頭襲ってきた以外は、スムーズに探索を進めた。一九階への道を見つけた。降りて、辺りを見たら、不自然に道が切り開かれていた。

 罠かと思ったが、多分、モリビトたちが村には来させず、かつ、下の二十階へと降りる道を切り開いてくれたのだろう。

 植物たちはどれも複雑に絡み、太く、数メートル切り開くだけで大変な労力を強いられそうだ。一時間半後には二十階へ降りる道を見つけた。太い根っこでできた道を降りた。

 暗いので、カンテラの蝋燭に火を点けて降りた。ゲンエモンが降りた道は明るかったと聞くが、モリビトたちが通してくれた道はそうでもないようだ。感覚からして七~八分ぐらいか。二十階に到達した。降りる時間で分かったが、天井とは距離がかなり離れている。ゲンエモンが語った例の巨大怪鳥とやらも、この広さがあれば十分飛べるだろう。残念ながら、黄金の怪鳥の姿は見当たらなかった。

 道中、怪物が一匹足りとも出てこないのは、不幸中の幸いだ。

 現在、コルトンは盾を持つ左腕をマンティコアにへし折られて、まともに戦うことができない。

 マルシアや優秀な医家たちの看病もあって、目安として二週間程度で元通りくっつく。治るまでは本格的な探索は禁止。一時離脱である。

 

「こんな機会はそうないだろうし、俺一人だけ置いてけぼりをくらうのは断じて嫌だ」

 

 コルトンはベッドから降りて、懸命に懇願した。彼の冒険者としての矜持がそうさせたのだ。第一の発見の名誉を味わいたい。頭まで下げられて、エドワードも仕方なく許した。

 分かりやすいよう、目印があったので、それを辿って新階層への道を目指した。小休止を挟み、二時間後には木々に匿われるように、新階層への道を発見した。新階層への道はこれまでと違い、植物ではなく明らかな人工物だ。石や石膏とも、地上のどの材質とも異なる物で造られており、四角い穴があり、穴にある高さ三メートルの小さな梯子を降りたら、階段がある。

 どこからか光が発生しているため、松明(たいまつ)やカンテラも不要。

 六人は柄にもなく子供みたいに興奮した。前人未踏破の地の第一歩を踏むことに、喜びを隠せない。胸の鼓動がどくんどくんと高まる。もしかたら、俺は一族の復興よりも、こういう楽しみもあるから冒険者になろうと思ったのかな? と、エドワードは思った。

 天井の明りを頼りに下へ下へと階段を降りた。そのうち、天井とは違う明りが見えてきた。

 

「見えて来たぞ!」コルトンが叫ぶ。

 

 これまた柄にもなく、下に危険なものが待ち構えているかもしれないのに、六人の探索者たちは一気に駆けだした。

 まだ見ぬ世界の興奮と感動。新たに待つ冒険が冒険者たちの体を本能的に押し出した。

 




第四階層探索編は終了。ここで書くべきことではないでしょうが、登場人物一覧で、どうでもいい設定(身長)を追加しました。

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