社会人1年目のトオルは仕事で忙しく、なかなか会えない日々が続いていた。
そんな中、女子会を終えた知乃から『今夜泊めてほしい』という連絡が突然届く。
早朝、まだ外は暗闇。泊まったはいいものの、知乃は気持ちを分かってくれないトオルに対し、ずいぶんと早くトオル家を出てしまう。
始発電車が来るまで30分以上。
「次の駅まで歩かないか」と提案したのはトオルだった。
知乃の思い、トオルの思い、小さなすれ違いを経て、二人は……
心温まる少し大人の青春ラブストーリー
昨年、ボカロpである40mpが、イナメトオル名義でデビューしました。
私自身40mpの大ファンなので、嬉しくて嬉しくて。
それで昨年からデビューを祝して、SSを書いていたのですが、なかなか終わらず、一時中断をはさんで、何とか完成しました。
ちゃんと投稿まで行けて良かった。
イナメトオル(40mp)さんが好きならより楽しめる内容となっていますが、恋愛小説好きな方なら楽しんで頂けると(そうだといいなと思います)
大学をでで社会人2年目の知乃(チノ)と、一つ年下、社会人1年目のトオル。
知乃はイナメトオル(40mp)様の奥さんで歌い手のシャノさんから
トオルは40mp様の本名から頂きました。
シャノさんの方が2、3歳年上だったような気がします(確か)。
舞台は自分の地元、名古屋にしていますが、だいたい架空のものです。ご了承ください。
『始発電車』
――コツン、コツン、コツン――
知乃のヒールの音が、線路沿いの住宅地に小さく鳴り響く。まだ朝日は眠ったままで、線路沿いの道を歩く知乃とトオルの姿は鈍く闇に照らされ、影を落としていた。
11月初旬、早朝6時前。空気は冷えていて、夏を超えて間もない知乃の体にはとても寒く感じられる。こんな冷えているならもう少しトオルに家にいればよかったかもしれない。昨日トオルの家に泊まって朝を迎えて、始発電車に乗るために駅まで来てみたはいいものの、始発まで30分以上あった。
あのまま、始発電車を駅で待ってたら、ほんとに凍えていたかもしれないと知乃は思う。
最寄り駅から一つ先の駅まで歩かないかと提案したのはトオルだった。
――コツン、コツン、コツン―― 足音が暗闇に響く。
「寒いね。やっぱりあのまま駅で始発待ってたら、もっと寒かったかもしれないね」
「まあな。でもあんなに早く家を出るなんて知乃のアホ」
「アホって何? 何となくそういう気分だっただけよ」
(ねえトオル……私たちって一体どこに向かって歩いてるんだろう)
知乃は心の中でつぶやいた。
二人が付き合い始めて3年がたつ。知乃の方が1学年上で、知乃が大学3年生になったとき、2年のトオルが遅れて同じお花見サークル(通称、花サー)に入ってきたのが最初の出会いだった。
お花見サークルと言っても、季節のイベントをメンバーで企画して、色々なところに出かけたり、飲み会をしたりするサークルだ。つまりはそういうサークルである。
知乃は1年生の途中からこのサークルにちょくちょく参加していた。友達もできたし、学年が上がれば仲の良い後輩もできて、それなりに楽しんでいた。
トオルが初めて参加したのは2年の初夏6月と遅めである。お花見サークルにはぼちぼちそういう人がいて、あまりメンバーも気にしてはいなかった。
昨夜、知乃は女子会に行っていた。女子会は3、4か月に1回ある。大学の同じ専攻の仲良し5人組、リサ、さおり、みか、エリカが集まる。知乃は前回出られなかったので、半年ぶりに4人と会った。
社会人になって2年目。大学時代からの友達で、今でも定期的に会うのはこのグループの友達ぐらいだ。
栄駅の近くのちょっとおしゃれな飲み屋は幹事のリサが予約してくれていた。知乃と4人は部屋に入ると、思い思いに飲み物を頼み、そしていつものように会話が始まる。落ち着いた雰囲気の個室に笑い声が響き始める。今夜も、仕事のぐちとか、ジャニーズのだれだれがかっこいいとか、俳優のなんとかさん超絶イケメンとか、そんな他愛もない話をしながら、知乃は好きなあんず酒を2杯ほど飲んで、ほろ酔い気分だった。大学時代いつも一緒にいて、お出かけもたくさんして、社会人になった今もちょくちょく集まれるなかよしグループ。何でも話せてしまうそんな女同士の関係が知乃はお気に入りだ。今夜もいつものように、いつもと同じ時間が過ぎていく。みんな好きな料理やつまみを頼んで、それを食べながらみんなでわいわい盛り上がる。そんな夜が過ぎていくと思っていたのだった。
女子会も中盤を過ぎ、今日もこんなふうに終わるんだろうなと思っていた。
でもその時、リサがおもむろに立ち上がる。
「はーい。みんな注目! もう、何でみんな気づいてくんないの? さおりも、みかも、知乃も、エリカもみんなはくじょーだよー」
リサは不意に左手をみんなに見せる。そこには部屋の照明に照らされて小さな何かが光っていた。
「わたくし、斉藤リサは婚約しましたー! もうすぐ葉山リサになりまーす!」
「えーうそー!マジ!?おめでとー」
「マジ!ほんと! 指輪見せて、見せて!!」
びっくりして体を寄せてきたさおりとみかにリサは左手に輝く指輪を嬉しそうに見せびらかす。
「マジだよ、マジ!!」
突然の報告に知乃は驚いた。隣まで行き、婚約指輪を見せてもらう。
驚きを隠せない。でもリサの指輪は、小さいながらダイヤモンドがあしらってあって、雰囲気のよい個室の照明でキラキラと輝いて、彼女の喜びや幸せを映しているかのように知乃は感じた。
「まさかリサが一番乗りとはねー。だって、半年前そんなこと全然言ってなかったし」知乃は聞いてみる。
「はは、そうなんだけどねー。運命の出会い?ってやつ?」
「きゃー!なにそれ~!聞かせてよ!運命の出会いききたいよ~」みかがそういうと、リサは嬉しそうにえへへと笑った。
そんなリサにみんなが質問をし始めると、リサは少し照れながらも嬉しそうに話し始めた。その相手とは半年前偶然入った雑貨屋さんで運命的な出会いをしたこと、彼がとっても優しい人なこと、たまに見せるちょっと少年っぽいところがとてもかわいいこと。
「あたしたち今年でもう24っしょ~。あたしさ、やっぱ20台前半には結婚したいなーって思ってたじゃん。だから、ギリギリ―セーフって感じ」
「それ、私たちに向かっていうー! 信じられなーい!」お酒の回った知乃は笑って返事した。
「マジでそーだわー」と言い合う声が聞こえてくる。
幸せそうなリサ。ちょっとうらやましいけど、リサの笑顔を見ていると知乃自身も嬉しくなった。リサの手元に光るリングはキラキラと輝いていて、私にもこんな幸せが訪れるのかなと知乃は思う。
一通り質問攻めも終わり、女子会も後半。知乃もリサの相手の写真を見せてもらって、両親と会った時の話などを聞いてしまった。
「知乃はどうなのよー?トオルくんともう3年じゃん」
横に座っていたエリカが不意に知乃に聞く。
エリカとは、他の4人と比べても一番の親友だ。今でも月一では会って、一緒にショッピングしたりランチしたりする。知乃がお花見サークルに顔を出すようになったのもエリカが所属していたことがきっかけだった。
「トオル、仕事忙しいし、まだ社会人一年目だし」
「そーなんだけどさあ。知乃、タイミング逃しちゃだめだよ。それにトオルくんって.……」
エリカが少し言葉を濁す。
「トオルなりに考えてくれてはいるから大丈夫だよ。年下だけど、あれでしっかりしてるし」知乃は答えた。
「それならいいけどさ、昔のことっていうか、トオルが花サーに来た理由考えると、結構そういうとこ緩いのかなーって、心配しただけ」
――昔の話。トオルとの出会い。それはエリカ経由で話は聞いていた話だった。
トオルがお花見サークルに入ってきた理由――これまであまり深く考えることはなかった。
それは「相崎由衣」というトオルと同学年の女の子だった。知乃にとっては後輩の一人という子だった。しかし、彼女は女の子としてとても可愛かった。誰とでもすぐに打ち解けられて、それでいて時々見せる天然なところも可愛らしい。だから男子に人気があって、大学の中でも少し知られた存在ではあった。エリカの話では、トオルは相崎由衣が好きで、彼女に近づくためにお花見サークルに入ってきたという。
知乃はトオルには直接事の真相を聞いてはなかった。トオルのことが好きだし、昔のことを掘り起こしても、怒らせるだけかもと思って聞かなかった。ううん、聞けなかったのかもしれない。
トオルが入ってきて2か月ほどたった後、入れ違うように相崎由衣はサークルを去っていった。
エリカの見立てだと、相崎由衣が去った理由はトオルで、相崎由衣に失恋したトオルは近くにいた知乃と付き合い始めたんじゃないかという。そしてギクシャクした関係が嫌で相崎由衣はやめていったのだろうと。
知乃はこの話を以前エリカから聞いた。その時も、今幸せならトオルがどういう経緯で私と付き合っていてもいいと知乃は思っていた。でも、やはりこのことをエリカから聞くと少し不安になる。トオルにとって知乃は代わり的な何かであって、知乃が感じているようにはトオルは思ってくれてはいないのではないかと。
それで、なんとなく今夜はちょうど栄駅から20分ほど電車で行った距離に一人暮らししているトオルの元を訪ねた。女子会が終わって頑張れば、終電は間に合ったし、家に帰れた。でもリサが結婚したというお祝い気分でお酒も進んでいて、トオルに会いたいとも思った。だから飲み会が終わった後、トオルにLINEしたのだった。
――コツン、コツン、コツン――
知乃のヒールの音が二人のBGMのように、薄暗い、朝日の上り切らない薄暗闇の中に静かに響く。いま知乃とトオルは最寄り駅から一つ先の駅までゆっくりと歩いている。
結局、昨晩は会いたくなって会いに行ったものの、トオルは仕事で疲れていて、何もなかった――と知乃は思い出す。
――知乃が感じる不安をぬぐってはくれなかった――
コツン、コツン、コツン。知乃とトオルは暗い線路沿いの道を歩いていく。
「ねえ、あのさ。リサが結婚するんだって。昨日の女子会で報告してくれたんだけど、なんかうちらのグループじゃ一番初めだし、びっくりしちゃった」
知乃が歩きながら、隣を歩くトオルに呟く。
「リサって友達の? そうなんだ」
「うん、すごく幸せそうだった」
「やっぱ女の子は早いな。俺の友達なんて、まだ結婚はいいって言ってるやつも多いし」
「そうだよね」
知乃は小さな声で答えた。
――結局、私って何なんだろう。3年付き合って、色んな思い出が出来て、トオルが好きではあるけど、幸せであるけど、トオルにとって私って何?――
「ねえ、トオル?」
「やっぱいい」
知乃は言いたかった言葉を飲み込んだ。
「なんだよそれ」
「別に…。寒いなって思っただけ」
知乃からトオルにLINEが来たのは11時半ごろだった。『帰るのが面倒になったから、今夜泊めてくれる?』と。今夜は確か友達と女子会だったはず――とトオルは思う。
知乃はよくとりとめのないLINEを送ってくる。もう昔の様にスタンプを連打して笑いあうようなことはないが、今日はこんないいことがあったとか、今日は会社でこんな嫌なことがあったとか他愛のない内容である。トオルはそういうやり取りが嫌いではない。むしろ、好ましくも思っていた。ただ、返信は苦手で、『そうだね』とか『大変だったね。お疲れさま』とかで結構終わらせてしまっている。少し申し訳ないなと思いながら、かといってそんなに長い文を送るのも男としては恥ずかしい気もしていた。いつも近くにいようとしてくれる知乃に感謝しつつもうまい言葉をかけてあげられない自分が時々嫌になる。変わらない毎日の中で年上である知乃が1年早く社会人になり、仕事もそれなりにこなすようになって、今の会社で踏ん張るので精いっぱいのトオルには羨ましくもあるのだ。
そんな知乃が不意に泊めてくれという。今日はまだ早い時間なのに、何かあったのかもしれない。実家の両親と喧嘩でもして帰りづらいのだろうか。
知乃が来るのなら早めに風呂入っておいた方がいいな。そう思いトオルは仕事で疲れている体を引きずってシャワーを浴びた。
12時過ぎ、知乃はトオルのアパートに着いた。ドアの前に立ち、チャイムを鳴らす。――が、反応はなかった。
(トオルもしかしてもう寝てる?)
知乃はもう数回チャームを鳴らすが何も反応がない。
仕方なくトオルのケータイに電話する。
トオルは机の上に置いてあったスマホのバイブ音で目が覚めた。風呂に入ってそれからテレビをつけて観ていた。その後どうやら寝てしまっていたらしい。バイブ音と重なるように玄関のチャイムが鳴る。
トオルがねむい目のまま起き上がり、玄関のドアを開けると、酔った知乃が待っていた。
「トオル寝てた?」
「ああ、ごめん。ちょっと疲れてて」
部屋に入ってきてた知乃は化粧を落として、トオルは知乃にコップにくんだ水を渡した。
「あー、飲んだー。飲み過ぎたー。あのさー、トオル……」
「ごめん。ちょっと俺疲れてて眠いからもう寝るわ。風呂使って。ベッドも使っていから」
トオルはテレビのボリュームを下げてソファーの上に寝そべる。
「あのさ、トオル…」
小さな声で知乃が言った言葉は背を向けて寝てしまったトオルには届かなかった。
知乃は聞きたかった――あのね。友達のリサがね。結婚するんだって――
今日酔った勢いでトオルに会いに来たけれどトオルは疲れて寝てしまうし、話もほとんどできなかった。最近仕事忙しいのは分かってる。でも最近はLINEの返信も遅めだし、短いし、今日だってまだ12時過ぎだよ? 彼女が来るんなら男だったら少しはいろいろ期待したり、少し疲れてても話くらい聞いてくれてもいいじゃない。
そんな不満が知乃の心の中をもやもやさせる。仕方がないことは分かっている。でもトオル全然分かってくれてない。
朝いつもより早くトオルは起きた。知乃が立てる物音にふと目が覚めたのだ。
まだ時計の針は6時前、まだ外は真っ暗だというのに知乃はもう起きていて帰る準備をしていた。
「もう帰るの?」
「うん、今日も仕事だから、いったん家に帰りたいし」
「そっか、じゃあ駅まで送るよ」
「ううん、トオル疲れてるんでしょ?寝てていいよ」知乃はもやもやしたものが出ないように口にする。
「いや、まだ暗くて危ないし、駅までは送ってくよ」
「いいよ。そと寒いし」そう知乃が言うが。
「いや、送るよ」
トオルは直ぐに下だけジーンズに履き替え、出したばかりの冬用のコートをTシャツの上から羽織った。
――コツン、コツン、コツン――
知乃のヒールの音が二人の唯一のBGMのように、朝日の昇り切らない薄暗闇の中に響く。しかし、少しずつ、その闇は赤色を帯びてきていた。
別について来なくてもよかったのにとは思った。昨日話を聞いてくれなくて、さっきリサの結婚話をしても何か無関心で……。でもついてきて機嫌を取ろうとでも思ったのだろうかと知乃は思う。
空気が澄み切った朝の暗闇を二人っきりでこうやって歩いていると、気持ちも落ち着いてくる。
「なあ、知乃、両親と喧嘩でもした? 酔っぱらって泊まりに来るなんて初めてだったから」
「ううん、別に……」
「昨日の女子会で何かあったのか?」
「ううん。今度リサが結婚するって言ったよね。すごく幸せそうだった」
「ああ、そうなんだろうな」
「うん、運命の出会いなんだって。とっても優しい人だって」
「そっか……」
「……うん……」
――私たちはどうなんだろうね?――そんな言葉を知乃は飲み込んだ。
「そういえば、相崎由衣って覚えてるよな? あいつも今度結婚するって」
知乃はその名を聞いてどっきっとした。
「花サーの由衣ちゃん? へー、そうなんだ」
トオルが昔好きだった子が結婚する。聞いてすこし安心した。でもそれを突然聞いて驚いた。エリカから聞いていた話がまた頭によぎる。
「ねえ、トオルって昔、由衣ちゃんのこと好きだったの? エリカから聞いたんだけど」
少し間をおいて、トオルが答える。
「まあ昔好きだったよ。どうして?」
「あんまり聞いたことなかったし、昔のこと」
コツン、コツン。知乃のヒールの音が少し明るくなり始めた暗闇に響く。
「うん、そうだな」トオルは答えた。
トオルは3年も付き合っていてこの話が出なかった理由を考えていた。知乃はあまり自分の過去のことを聞いてきた記憶がない。過去の恋愛について女の子が気になるであろうことを口にすることはなかった。知乃は自分に気を使ってくれていたのか。いや聞けなかったのかもしれないなとトオルは思う。
「エリカがね、トオルは、あの夏、由衣ちゃんに振られて、で私と付き合ったんじゃないかって」
トオルはすぐには何も答えなかった。ただ、知乃の歩幅に、歩くリズムに合わせるようにゆっくりと隣を歩く。
「なあ、ちょっと寄り道しないか? 近くに五代山っていうのがあるんだ。まあ、山って言っても、そこに見えてる小さな丘だけど、朝日がけっこう綺麗なんだ」
トオルが、線路とは反対側を指す。それはまだ暗くて知乃にはよく見えない。
「え、寒いし、いいよ」
「いいからさ。少し話したいこともあるし」
トオルはコートに突っ込んでいた右手を出して、知乃の冷えていた左手をつかんで、脇道へと知乃を導く。
知乃にはトオルが何を考えているのか分からなかった。でも、住宅街、静かな空間に二人だけ。二人だけ置き去りにされたような。
こうやってゆっくり手をつないで、だれもいない場所を歩くのは久しぶりかもしれない。
「なんか、私たちだけだね。こうやって歩いてるの」
「いつもと違う世界に二人だけ来たみたいだな」
「うん、そうかもね」
「もしかして明るくなったら全然違う異世界になってたりするかもよ」
「なにそれ」
知乃がそう話しかけたとき、不意に自転車のベルが聞こえる。
住宅街の細道から、自転車がベルを鳴らして飛び出してきて、ふたりの横を通り過ぎていった。
知乃とトオルは目を合わせるとクスクスと笑い始める。
5分ほど住宅街を二人は手を繋いで歩いた。すると五代山の輪郭がおぼろげに見えてくる。
五代山は本当に小さな丘で、頂上へと向かう坂道が一本続くだけ。二人は木々の暗闇へと続く道へ進む。知乃は少し不安になってきた。トオルの右手を少しだけ強く握る。
そうやって5分ほど木々に囲まれた細い坂道を歩くと、途中から舗装されていない砂利の道になっていた。
ヒールの知乃には歩きにくい。知乃の歩くペースが落ちる。
手を引くトオルと引かれてついていく知乃。
トオルは知乃の手がこんなにも冷えていたのかと思う。ちゃんと手を繋いでいると思っていた。でも最近は仕事ばかりでこんなふうに二人で手を繋いで歩くことも少なくなっていた。それでも知乃が何も言わずに側にいてくれている。
トオルは思う。最近知乃のことを当たり前と思っていた。仕事で忙しいことを言い訳にして、昨日も知乃の気持ちに気づいているのに蓋をしてしまった自分がいる。
「あっ」
知乃がトオルの右手を強く引っ張る。
「大丈夫か?」
「大丈夫。ヒール脱げちゃっただけだから」
「いいよ。頂上まであと少しだから。もう一方も脱いじゃって。歩きにくいでしょ」
「え? 何言ってんの?」
トオルは知乃の前でしゃがんで、後ろに両手を回した。
「え? なにそれ……やめてよ。そんなの恥ずかしいし」
「大丈夫。誰も見てないし」
知乃はトオルの背中から腕を回す。
知乃の体を背負ってトオルは歩き出す。
知乃は前に組んだ両手で持ったヒールゆらゆらさせながらが、トオルの体温を感じる。
誰もいない、二人しかいない五代山の坂道を登っていく。
知乃を背負ってトオルは登っていく。
暗闇の中で知乃を背負いながらトオルは言う。
「知乃にまだ言えてないこと、まだちょっとあるんだ。確かにあの時、おれは相崎由衣が好きだった。でも違うんだ」
「え、いきなり……どういうことよ?」
「由衣とは中学が一緒で、片思いで、初恋の相手で、でも気持ち伝えられなくて。だから偶然、あいつを大学で見かけて、これはもしかしたら運命かもしれないって思ったのは本当。だから、花サーに入って、由衣に近づこうとしたことも本当」
「何それ」
「でも、その時ちょうど由衣には付き合ったばかりの彼氏がいた。俺が、中学の時好きだったんだよねって言ったら、最近彼氏ができて、その人が好きだからごめんって言われたよ」
「ふーん。振られたんだ」
「まあね。で、この前、結婚おめでとうってLINEしたら、ありがとうって。で今さら、実は中学の時トオルくんわたしの初恋だったんだよって」
「何それ。で、何が言いたいの?それトオルの自慢話? かわいい女の子の初恋っていう。結局、私は相崎さんに振られて傷ついた心を慰めるためにトオルにつられて、都合のいい女で……」知乃はトオルの背中から言った。
「ごめん、違う違う。そうじゃなくてさ、最後まで話聞けって」トオルは話を続ける。
「彼女今幸せだって。だからあの時すれちがってよかったと思てる。だから、知乃とこうして今ここにいられる」
「な、なに……言ってんの。わけ分かんない」
「ごめん。ちょっと分かりにくいこと言った。でもちゃんと聞いてほしい」
「あの時、ほんとは由衣に彼氏ができてて、花サーやめようかなって思った。でも知乃がいた。偶然、同じ音楽が好きで、話盛り上がって、一緒にコンサート行って」
――知乃は思い出す。そうだ、トオルと最初に仲良くなったのは同じアーティストの音楽が好きで、でもその人はあまり有名じゃなかったからなかなか話せる人いなかった。だから偶然トオルがその人の大ファンってこと知って、とても嬉しくて、勇気を出して話しかけたんだ。そのあと、彼の曲についてたくさん話して、他にもお互いの好きな音楽を聴き合って、そこから、毎日の些細な嬉しいことや悩みも交わすようになった。話をすればするほどトオルが好きになって行った。そしてその秋、偶然一緒に好きなアーティストの1stアルバムが出ることが決まって、彼のリリース記念コンサートに一緒に出掛けたのが初デートだった。
「正直、由衣はどうでもよかったんだ。知乃と会って、色んなことたくさん話して。毎日楽しくて」
知乃はトオルとのこれまでの3年間を思い出す。トオルがコンサートの後、好きだと言ってくれたこと、そのあと交わしたキス。二人で過ごした思い出は掛けがえがなくて、甘くて温かくて、大切で。
「じゃあ、どうして由衣ちゃんは花サーやめちゃったの?」
「なんか忙しくなったってのもあるらしいけど、あの時、俺が由衣のこと好きだってのが、人づての人づてで遅れて広まりそうになって」
「だから、由衣は気を使ったんじゃないかな。おれ、夏には由衣に知乃好きだって言ってたし」
「なによそれ……」知乃は小さくつぶやく。
たった40メートルの坂道。最初は暗くて歩きづらくていやだなと思った坂道。でもトオルの温かな背中に背負われた知乃は思う。この坂道が終わらないでと、いつまでも続いてと。
上り終わった坂の先には、朝日がすでに昇っていた。さっき歩いていた線路沿いの向こう側に昇る朝日が二人を照らし、木々の隙間から見える街並みが、トオルの背中越しから見る景色が、知乃には朝日を浴びてキラキラと輝いているように見えた。
「ねえ、トオル…私たちずっと一緒にいられるかな?」
「いるよ。ずっといる」
「うん」
もし、世界に運命というものがあるのなら、それはきっとたくさんの偶然の積み重ねなんだと知乃は思う。あの時、もし相崎由衣に彼氏がいなかったら、もし偶然トオルの趣味を知らなかったら、あの時もし、大好きなアーティストの1stアルバムがリリースされなかったら、私が勇気を出して、トオルに声をかけなかったら、きっとこの幸せはなかった。
二人の姿は朝日を浴びて、キラキラと明るさを増していく。
トオルは思う。あの時、知乃が声をかけてくれなかったらこんな幸せはなかったんだと。知乃に会って、これまでたくさんの思い出ができて。ケンカもたくさんした。でも、3年付き合って、今は知乃が自分にとって掛けがえのない存在になっている。こうして知乃がすぐ近くで笑っていてくれること。それがとても幸せなことなんだと。
「知乃、もうちょっと待って。おれもう少しだけ仕事頑張ったら……」
「うん。待つよ。絶対待つ」
五代山を照らす朝日は二人を照らし出し、そして二人を温かく包み込んでくれていた。
坂道を二人でまた下って、線路沿いまで着くと、もう空のオレンジ色は薄くなって明るさを増してきていた。
駅の近くまで来たとき、乗ろうとしていた始発電車は走り出そうとしていた。
「やば!始発乗り遅れる!」トオルが言う。
「やば!行っちゃう!」知乃が言う。
改札を抜けてホームに降りた時、ガタン、ガタン、ガタン――
――と始発電車は朝日に温められた冷たい空気を切って走り去って行った。
「行っちゃった。ねえ、ほんと、うちらってこういうタイミング悪いよね」
「ほんとに。でもごめん、おれが……」
「ううん」知乃が言う。
知乃はトオルと繋いだ右手をやさしく握った。
トオルは繋いでいた知乃の右手をやさしく握り返した。
「なあ、今日は一緒に会社休もうか。風邪ひいたってことにして」
「え、そんなの……そんな急に仕事休めないし、トオルこそ忙しいんでしょ」
「おれの方は何とかなるから。前行きたいって言ってたカフェ一緒に行こうか」
そういってトオルは知乃の右手をまた強く握った。
「トオル……ありがとう」
トオルと知乃は手を繋いで明るくなった街の中をまた歩き出す。
今来た道をまた引き返す。
……知乃は思う。
こうやって二人でずっと手を繋いで、たとえそれが遠回りであったとしても、ゆっくり進むことが出来たらと。
きっとそれは幸せな遠回りだ。
……トオルは思う。二人が歩いてきた道のり、それはきっともう偶然ではなくて、交わったことも、離れず今ここにいることも、それはきっと――
トオルは知乃の手を再び強く握り返した。
だからもう……
知乃の手を、この小さな手を絶対に離さないと。
――終わり――
はじめまして、ひとみゆうです。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
SSはこれが初投稿です。
ほぼ書き終わった段階で、名古屋市内ってほとんど市営地下鉄だよなぁ。始発電車走り出したの見えなくない?っていう矛盾に気づきましたが、たぶんJRということで(笑)
シャノさんの出身は三河(愛知の東側)の方であったと記憶していますので厳密には名古屋とは離れていますが、自身の地元という理由もあって、栄駅を登場させてみました。
五代山は架空のものです。
剣も魔法もないお話ですが、ほっこりしてもらえたら嬉しいです。
さらに、ご感想など頂けたらとても嬉しいです。