私が生きている限りそれぞれの小説は少しずつ更新していきますので、よろしくお願いします。
人差し指の動き一つで命というものが掻き消えていく。
虫以外に生き物なんて殺したことがない人生だったのに、虫以下の手間で人がたくさん死んでいく。
三回目の弾倉交換を行った時点で、周囲に生きている存在は自分だけになった。
世界に存在する動きは、地面に広がっていく血の動きのみ。
「——アルファルドさん、今終わりました。今度は全員殺しました」
耳からぶら下がったイヤホンとマイクに声を掛ける。応答は数秒の後になされた。
『お疲れさん。怪我はないか?』
自身の四肢を目線で追ってみる。痛みもなければ異常も無い。至って綺麗な——不気味なほど滑らかで白いそれらが視界にうつった。
それはまさに、自身の肉体が人工的に作られたものである証。
自分が人でないことを突きつけてくる冷たい現実。
でもそれらをぐっと飲み込んで、
「いいえ、問題ありません」
声は誰もいない民家に大きく響いた。
01
「で、まだ生き残りがいることに気がつかず、ナイフでの特攻を受けて、いなしきれなくて、右目がこうなっちゃったわけだ。ブリジットさんは」
三日後。社会福祉公社の敷地内に割り当てられた自室で、トリエラは俺の包帯を手早く交換してくれていた。
もう血に染まってはいないが、衛生的な観点から一日に数回、交換しなければならないらしい。
「でも珍しいね。ブリジットがそんなポカをやらかすなんて。まあ、眼の周りに裂傷をつくるだけで乗り切ったあたりがあなたらしいけれど。さすがだわ」
化粧用の鏡を覗き込んでみれば、右目の少し下に大きな縫い跡が刻まれてしまっている。抹殺を命じられた活動家の一人につけられた傷だ。ぼんやり突っ立っていたらいらぬお釣りを返されてしまった。
「ねえ、これ跡になるのかしら。ファンデーションで消せるのかしら」
こちらを覗き込みながらにエルザが口を開く。最初、右目から大量出血した状態で担ぎ込まれてきた俺を見て、彼女がいたく取り乱したのはナイショの話だ。まあ、そのあと滅茶苦茶怒られたんだけれど。
「——大丈夫ですよ。人工皮膚の手配が済み次第簡単な整形手術でもとに戻して貰えるそうです。それまでの辛抱ですね」
「そう、なら少しはマシね」
まだ完全に怒りが払拭されていないのか、眉を顰めながらエルザは言葉を返してきた。こればっかりは俺が完全に悪いのでただ嵐が過ぎ去っていくのを待つばかりである。
俺たちが雑談に興じている間、包帯交換をかって出てくれたトリエラが医療室から手渡された説明書をもとに処置をどんどん進めていく。
「えっと、包帯は今朝までで、今からは滅菌済みのパッチか。こいつを貼り付けて、あとはこうして、よしこれでいいでしょう」
ビアンキから渡されていた医療用シールをべたり、と閉じた右目の上に貼り付けられる。無遠慮に力強く貼り付けられたものだから、とんでもない痛みが患部を駆け巡っていくが、ぎりぎり声にはでなかった。そしてトリエラはそのままいつの間に用意していたのか、黒い眼帯をするすると巻き付けていく。
「おー、キャプテン、て感じだね。似合ってるよ」
片目を黒い眼帯で覆い隠された自分がそこにいた。医療用の白い眼帯でも良かったのだが、痛々しいから嫌だとにべもない理由でトリエラに断られてしまっている。なんだか中二病まっさかりの少年みたいで普通に嬉しくない。
けれども俺以外の二人には好評のようで、記念写真まで提案されたが、それはさすがに断らせてもらった。写真に残るのはやめてほしい。
「じゃ、あとはアルファルドさんに見せておいでよ。あの人も心配性だからさ、元気な格好を見せると安心してくれるよ」
ヒルシャーとはそうはいかないくせに、この子は直ぐに気を回して俺とアルファルドを絡ませようとする。本当、自分は絶対にそんなこと出来ないくせに。
02
「整形手術だが来週の末にできるそうだ。できるだけ急がせているから、もう暫く我慢してくれ」
アルファルドが愛車として乗り回している白いBMWの柔らかいシートに体を沈めて窓の外の景色を見る。
日が暮れ始める中、オレンジの街灯の下で夜を楽しもうと心躍らせている人々が否応なしにも目に入ってきた。
片眼しか使えない今、ぐちゃぐちゃになっている遠近感からくる不快感も相まって視線を車のダッシュボードに戻す。
「痛み止めは飲んでいるか? 抗生物質も処方されている分は全て飲みきってくれ。あと、最近食堂でもあまり食事を取っていないらしいじゃないか。やはり怪我の治りのことを考えたら君はもっと——」
「うるさい」
です、ととってつけたようにギリギリ丁寧な言葉遣い。条件付けは無反応。これくらいならば担当官様に対する口答えも見逃してくれるようだ。
「悪かった。無神経だったな。これから半年前から予約していたディナーなんだ。仕事の話をするべきではなかった」
平謝りを繰り返す愛しの担当官に対してどうしようもない苛立ちが募ってくる。八つ当たりであることは百も承知ではあるので、再び視線を外に固定することでやり過ごす。
「まだ父が生きていて、母も妹もイタリアに住んでいたとき、節目の時にはよく訪れていた場所なんだ。ここ数年は急に人気がでてきて随分早くから予約を取らなければならなくなったのは煩わしいが、その味は保証するよ」
そういえばこの男の家族について俺は殆ど何も知らなかった。配偶者や子供がいないこと、恋人らしきものもいないことくらいしかわかっていない。当たり前ではあるが、この男にも父や母、そして兄妹がいるわけだ。一度天に召されて、こんなわけのわからない人生を生かされている俺とは大違いである。
「——お父さんはいつ亡くなられたのですか?」
心の何処かでやめておけ、と誰かが言った。そんなことを聞いても何も幸せにはなれないぞ、と。変に情が湧いてやりにくくなるだけだ、と。けれどもお馬鹿なつくりものの口は勝手に動いており、取り返しがつかないくらいはっきりとした声色が車中に響いていた。
「もう十年も前のことだ。座学で習ったから知ってはいるだろうが、この国はそれくらいの時期が一番荒れていてね、政治家だった父は敵対政党に嵌められて失脚。アルコールと睡眠薬に頼ってこの世から逃げ出したんだ。それに絶望した母はまだ成人していなかった妹を連れて実家に——ミュンヘンに帰っていったよ」
ほら言わんこっちゃない。まともに返答なんて出来るはずもないのだから最初から黙っていればよかったのだ。今の話を聞いて俺はどうするつもりだったんだ。
「妹はもう随分長いことあってはいないがどこか君と似ていた気がする。特にその鳶色の意志の強い瞳が」
今は片眼が潰れているけれどもね。とは流石に返せない。言葉こそ何も返せなかったが、相づちと視線を運転席に向けることで何とか成り立っている微妙なコミュニケーション。
打ち解けたり、ギクシャクしたり、変な間柄だとは正直思う。
「なあ、ブリジット」
ふと信号待ちの時。ハンドルを握りしめたままアルファルドが口を開いた。残された片眼をそちらに向けてみれば彼の瞳と視線が重なる。思わず生唾を飲み込んだのは断じてこの男の優男ぶりに驚いたからではない。
「俺は君を今回のことでは叱らないよ。確かに油断はあったんだろう。現場の君に至らないこともあったのだろう。だが俺はそのことを責めるつもりはない」
心臓が鷲づかみにされた感触がした。生唾とは違った冷たい呼気を「ひゅっ」と吸い込んでいた。
まだ信号は青にならない。
BMWの広いフロントガラスの向こう側を通行人たちがすれ違っていく。
「いつか君が大怪我をしたとき、君は俺に罪を背負うな、といった。自分の職責を果たせ、と叱咤してくれた。俺の傲慢さを見抜いてくれた」
通行人の波が収まる。もうすぐ信号が変わる。日がいよいよ沈みだし、空は真紅と朱、そして藍色に染まりだしている。薄暗い車内では二人の顔が紅く照らされている。
「だから君のその傷を背負わない。叱責もしない。君は作戦部長に既に口頭注意されているから、俺から職責として何かを告げる事もない。なら俺は君にこういうよ。『今日は嫌なことを忘れて楽しもう。作戦成功を細やかながら祝おう』と」
ぐうっ、と本当に口端から漏れていたかも知れない。過去の自分がいらんことを格好つけていった所為で今追い詰められている。車がようやく動き出した。遅い、遅すぎる。涼しい顔をして運転を始めたアルファルドに肘打ちを叩き込もうとしても、条件付けと、あと別の何かが邪魔してそれすらできない。
「君が無事でよかった。俺は心底そう思うよ」
03/
連れてこられたレストランはカフェテリアも併設された、思ったよりカジュアルな場所だった。確かにいつかの時のようにアルファルドから前もってドレスコードはそこまで指示されていなかった気がする。随分前から気合いを入れて予約を入れていたと聞いていたからもっとお高くとまったところかと考えていたが、そうでもなかったみたいだ。
「——ご予約の確認が取れました。こちらにどうぞ」
ウェイターに案内され、窓側の席に案内される。窓の向こう側はちょっとした庭園になっており、石造りの立派な噴水がライトアップで照らされていた。中庭にはオープンテラスなのか幾つかのテーブルが並べられており、思い思いに人々が食事を楽しんでいる。
久方ぶりに肩の力が抜けていくのと同時、どうやら口の方も緩くなっていたようだ。
「いいところですね」
嬉しそうに頷く優男を見て失敗した、と思った。まだ素直に喜ばせるつもりなんてなかったのに、もう少しばかり重たい雰囲気を続けていたかったのに、そんな下らない子供じみた考えと空気は一切合切霧散して消えてしまう。
手慣れた様子で注文を終えたアルファルドは運ばれてきたミネラルウォーターをグラスに注いでこちらに寄越した。
「何はともあれお疲れ様だ、ブリジット。ここ暫くの頑張り、素晴らしいよ」
ちびっ、とよく冷えたミネラルウォーターを口に含む。アルファルドは喉が渇いていたのか少し大きめのグラスの中身をあっという間に飲み干していていた。これ、日本と違ってそれなりの値段が掛かっているお冷やだろうに。
「——おい、もしかしてお前はアルか? まさかこんなところで出会えるなんて」
ふと声がしたそのとき、咄嗟にスカートの中の太ももに縛り付けてある銃に手を伸ばしかけた。だがアルファルドのキャラメル色の革靴がそっと俺のローファーのつま先を踏みしめてきたのですんでのところで思いとどまる。
今まさに条件付けに敗北しかけた事実に冷や汗を流しつつも、俺は恐る恐る声がした方へと視線を向けた。
レストランの雰囲気に合わない、粗野な男だと思った。
いや、ドレスコードもへったくれのない、もともとは大衆向けだった食事場が観光客やらなんやらで潤って体裁を整えただけのカジュアルレストランであることは承知している。だが品の良いジャケットとパンツ、高級そうな腕時計を身に纏ったアルファルドとは対称的に、その男はよれたTシャツと擦り切れ始めている短パン、それにビーチサンダルという出で立ちで無精髭塗れの面は間違いなくこの場では浮いている存在だった。
「こちらこそ驚きだよ。ユーリ。軍警察を除隊してから何をしていたんだ? 見たところ鍛えてはいるようだが」
俺が未だに警戒心を解くことのできない理由。それはユーリと呼ばれた男の体格にあった。アルファルドも時には争いごとに関わる都合上、それなりに鍛えており引き締まった体躯をしている。だが眼前の男はそれをさらに突き詰めたような筋肉の鎧を身に纏っており、下手すれば堅気から踏み外している気配すら感じ取ることができた。
もし今ここで襲いかかられたら、純粋な力勝負では押されてしまうかもしれない。
「ん? ああ、これはフリークライミングのトレーナーで喰っている都合こうなっただけだ。この前の休日はガルダ湖で汗を掻いてきたよ」
ユーリと俺の目があった。彼はともすれば凶悪な人相を器用に変形させて、人懐っこい笑みで笑って見せた。
思わず会釈しそうになったが、こんなところで俺のボロを出すわけにはいかないと、何とか踏みとどまりながら曖昧な笑みを返す。
「んでこの子は誰だ? ドイツ系のお坊ちゃまは昔からいろいろとよりどりみどりだっただろうが、さすがにこれくらいの年の娘はいただけないな。軍警察時代のツテを辿ってポリツィオットに連絡を入れなければならないかもしれない」
アルファルドは気さくな笑顔を貼り付けて、予め用意されているカバーストーリーを流ちょうに口にした。
「親戚の子だよ。こっちに遊びに来たから食事に連れてきたんだ。名前はブリジット。はるばるドイツからやってきてくれたから本場のパスタでも、と思ってね」
アルファルドの台詞に俺は特に反応を示さないようにする。そういう約束になっているから。ドイツから遊びに来た親戚の女の子は早口にスラング交じりのイタリア語なんてわかるはずもないのだ。
「そうか、そういえばお前の実家はそっちだったな。よろしく、俺はユーリだ。アル——アルファルドの昔の仕事仲間だ」
アルファルドがわざわざそれをドイツ語で言い換えた。
俺もまた、わざとたどたどしいイタリア語でユーリに話しかける。
「は、じめまし、て。 ブリジット、です。おじさんの家に遊びに、来ています。イタリア、楽しいです」
差し出した手を握り込まれる。やはり筋肉は見かけだけではないようで、向こうの体の奥底に感じる圧力に気圧されかけた。
フリークライミング業のお陰が、節くれ立った手のひらの感触がその感覚を後押ししている。
「いい娘だな。ところでお前、今は何をしているんだ? 俺より後に除隊したことは風の便りで聞いてはいたが……」
「しがないライターさ。父に放り込まれなければ軍警察なんかよりこっちで生活したかったからな。念願叶ってこの年でその夢がかなったわけさ」
アルファルドの苦笑にユーリはそうか、と微笑む。どうやら本当に旧交を温めようと近づいてきただけだったようだ。
「おっと、お前達の注文が来たみたいだな。これ以上お邪魔にならないよう、もういかせて貰おう。じゃあな、古き友よ」
「ああ、元気でな。ユーリ」
ユーリが去って行くのと同時、アルファルドが注文したパスタやピザが届いた。かなり偏食気味の俺に配慮してなのか、彼はほんの少しだけこちらの皿にそれらを取り分けて、残りは自分の目の前に置いてくれた。
「今の演技、完璧だった。日頃の練習の成果だな」
「よしてください。あれくらい、誰でもできますよ」
届いた料理達を口に運びながら会話が進んでいく。その過程で旧交をかわし合っていたユーリの話に話題は自然と逸れていった。
「凄腕のスナイパーだった。人質を取った過激派の親指だけ吹き飛ばしたこともあった。あれ以来、奴は俺たちの中で伝説だよ」
およそ食事の席には似つかわしくない話題なのだろうが、これがいつもの俺たちだ。
周囲の客達もそれぞれの世界に没頭していることをちらりと確認して、会話が続く。
「でも除隊したんですね。二人とも」
「ああ、まあ色々あったのさ。あの時代は。あのころを繰り返したくないからこそ、俺はこの仕事を選んだ」
除隊理由については思いっきりはぐらかされた。でもまあ、そこまで掘り下げようとこちらも考えてはいないので、ちまちまとカレイのバタームニエルを切り分けて少しずつ口に運んでいく。この国の歴史について不勉強な弊害と言えば弊害だが仕方がないだろう。
「おっと、ブリジット。口端にソースがついているよ」
身を乗り出したアルファルドにテーブルナプキンで口元を拭われた。無性に恥ずかしさが込み上げてくるが、そこはぐっと我慢して平静を取り繕う。
「だがそんな姿まで美しいとは、やはり君は凄いな。何にでも様になる」
「自然に口説かないでください。課長に言いつけますよ」
こちらの苦言をアルファルドは笑ってやり過ごしてくる。ついこの間、傷ついた俺に泣きついてきた姿が嘘みたいに余裕綽々だ。けれどもこの男はおそらくこういった仕草がよく似合うのだろう。悩み苦悩し、顰めっ面をしているのは正直嫌いだ。
「——また二人でこよう、ブリジット」
食事を終え、すっかり日が落ちた帰り道。真っ暗な車内でナビゲーションに照らされた青白い顔でアルファルドはそう口にした。
その言葉に俺は何とこたえたのだろう。
日頃の疲れもあったのか、重い瞼を何とか固定しながら俺は声を発していた。
「 」
04/
夜の街の車通りは多い。特に大きな交差点の前では信号待ちの車列が延々と続いていた。
そんな中、光沢のある黒いSUVベンツに二人の男が乗り合わせている。
「レストランで一人で食事とは、ずいぶんな余裕だな」
活動家を自称する男の嫌みにユーリは無表情で言葉を返していた。
「——依頼された仕事はきちんとこなしてきた。それ以上何を望む」
SUV型のベンツのハンドルを握っていた活動家は「ちっ」と露骨にその不機嫌さを吐き捨てて見せた。
そして赤信号であることをいいことに、ユーリのほうへと食ってかかった。
「アカの血のお陰か知らんが、時は金なり、という諺をしらんようだな。お前が道草を食わずにあのアパートに踏み込んでいたら2時間の余裕を持って仕事を終わらすことができていたんだ」
「ほう、イタリア人が時間厳守を語るなんて随分とこの国は固くなったものだ。だったら教えてやるよ、2時間早ければ定時の連絡員と出くわして面倒なことになっていた。お前達は定時連絡の時間帯が変更されたこともしらないようだな」
ユーリの言葉にぐっ、と男が言葉をつまらせる。
だがすぐに気を取り直したのか、乱雑にドアのサイドポケットから一通の封筒を取り出してユーリに投げつけた。
「次の仕事だ。あの人はお前ならば必ず食いついてくると自信を見せていた」
真っ暗な車内の中、ユーリが封筒の蝋を切る。
中からはやや分厚い書類の束といくつかの写真が出てきた。
夜目を懲らして写真を睨み付けていていたユーリの息が一瞬ではあるが静止する。
「お前に対する褒美だとよ。愚直に仕事をこなしてきたことを評価されたようだ」
写真にはある政治家の男が映り込んでいた。ユーリはその男のことを知っていた。いや、正確にはある日から1日たりとも忘れたことがない。
「——ついにヒルダの仇に届いたのか」
「この男は少々ロビー活動をやり過ぎた。いい加減潮時だとさ」
男の言葉は最早ユーリの耳には届いていなかった。彼はちぎれんばかりに書類と写真を握りしめ、血走った目でひたすらに写真の男を睨み付けている。
「まったく、復讐のためにヒットマンを志望とはクソッタレな世の中だ」
男の小さな呟きは渋滞に痺れを切らした誰かのクラクションにかき消されていった。
05/
私、この手が好きよ。ごつごつしていて傷だらけだけれど、その分誰かを護り続けてきた誇らしい手だわ。
誰かが頭の中でそういった。
何のことだ、と自問するよりも先にブリジットは目が覚めた。
06/
「あ、やっと起きた。なんか今日は随分うなされてたね。寝汗くらいシャワーで流してきたら?」
既に着替えを終えて、身支度を整えているトリエラがこちらを覗き込んでいる。俺はそんなトリエラを尻目に自身の手のひらをじっと眺めた。
「ねえ、トリエラ。あなた私が寝ている間にこの手を触りましたか?」
「いいや? そんなエルザじゃあるまいし、寝込みを襲ったりはしませんよっと」
「あの子もそんな事はしませんけれど」
不思議な感覚だった。未だ手にこびりついている誰かに握りしめられた感触。もし夢見の結果だとしたら嫌にリアルすぎる経験だった。
「あ、それとアルファルドさんが呼んでたよ。朝食を終えたら執務室まで来て欲しいって。多分何かしらのお仕事の話じゃないかな。ちょっと緊張しているみたいだったし」
トリエラの伝言に生返事を返し、俺は寮のシャワールームに足を向けた。いつかの時のようにエルザと出くわすこともなく、正真正銘の貸し切り状態のシャワールーム。
温かい流水の中に身を置きながら、俺はもう一度手のひらを見た。
顔の表面を伝っていく温水の中に、自身の涙が紛れ込んでいることに気がついたのはそれから暫く経ってからの事だった。
後編は少しでも早く更新できるように頑張ります。