社会福祉公社における義体の生活というものは恵まれているのかそうでないのか、判断が難しいものだった。
食事はそれなりに豪勢だし、紅茶やお菓子、各種書物やピアノに映画など娯楽品も割と揃えられている。許可さえとれば敷地内の土地で家庭菜園をすることも許されているし、門限というものも厳密には存在しない。
自由が認められていないのは「愛する人を選べない」ということだといっても、過言ではないくらいだ。
そんなわけで社会福祉公社での陽気な春の昼下がり。
食堂で手に入れてきたいくつかの軽食をバスケットに入れて、義体たちが住んでいる義体棟に向かって俺は歩いていた。
と、その時。正面から見知った影が歩いてくるのが見えた。
「あ、ブリジット先輩」
アマティのバイオリンケースを大事そうに抱えた義体の少女、ヘンリエッタだった。
ボブカットの栗色の髪が愛らしく、仄かに漂ってくるプパの香水が香しい。
見た目通りの品の良さを称えた少女に妙な居心地の悪さを感じて、俺は手にしたバスケットをそっと後ろ手に隠した。
「何度も言いますけれど、先輩はヘンリエッタのほうですよ。私は公社で四番目の義体。ヘンリエッタは三番目。私が先輩だなんて可笑しいです」
そう。これは完全に俺が悪いのだが、まだ長い悪夢に諦めがついていなかった頃。
殆ど同期だったヘンリエッタに噛みついていた時期があったのだ。病室が近かったということもあり、ぼちぼちと交流があったのである。
今覚えば、不安定な精神状態だった俺を監視するためだったのだろうが、馬鹿な俺はそんなことに気がつかずに、ヘンリエッタのことを邪険にしていた。
その時嫌味混じりに言った「先輩」という言葉の何を気に入ったのか、こうして俺を呼ぶときには先輩付けで呼ぶようになってしまった。
時たま当時の意趣返しをされているのかと思うことがあるが、彼女を見ていればどうやらそれはいらぬ心配みたいだ。
「ううん。ブリジットは私の先輩なの。だってクラエスが『先輩というのは人生において尊敬する人だ』っていってたから。だから間違ってないよ」
何だその理論とは声には出さない。
無垢な視線をこちらに投げかけてくる彼女を見ていれば「ジョゼはどうしたとか、そもそもアンジェリカはどうなんだ」とかそういった無粋な感想は吹き飛ばされてしまっていた。
「ところでブリジット先輩、それ、食堂のご飯だよね。これからお茶?」
言われてぎくり、とバスケットを持つ手に力が入った。別に彼女をみそっかすにしているつもりはないのだが、こうして掛け値のない好意を向けてくる相手を俺は苦手としていた。できればこっそりとバスケットを部屋に持ち帰りたかったのだが、見つかってしまっては仕方がない。
「ええ、クラエス先生主催のお茶会です。あなたもどうですか、ヘンリエッタ」
観念した俺はヘンリエッタを伴って、義体棟へと向かうのだった。
1/
「へえ、それでジョゼさんに褒められたんだ。良かったじゃん」
テーブルを挟んでトリエラとヘンリエッタが談笑している。俺はその様子を少し離れた椅子に座って、本を読みながら眺めていた。
さらに部屋の中にはもう一人、ベッドの上で本を広げるクラエスという義体もいる。彼女は眼鏡が似合う理知的な風貌で、公社の義体のまとめ役のような存在だった。
「うん。ブリジット先輩とトリエラが南部で頑張ってくれたから、ナポリでもう一度仕事をさせてもらったの。前は私が独断専行しちゃって失敗したから……」
「でも今回はしっかりとアルバニア人の武器密輸人を捕まえたんだろ? それはヘンリエッタの手柄だよ」
原作では冬の間に失敗していたアルバニア共和国からの武器密輸阻止。それのリベンジを果たすことができたと、ヘンリエッタは笑って見せた。
「二人がしっかりと裏取りをしてくれたからだよ。だから真っ先に報告したかったの」
記憶が正しければ、春のこんな時期にヘンリエッタが仕事をしていた描写は原作にない。描写はされていなくとも、裏で進行していた出来事かもしれないが、
自分の知らない展開に俺は静かに怯えた。
「まあヘンリエッタがそう言ってくれるのなら私たちも頑張った甲斐があったもんだね。ねえ、ブリジット」
と、油断していたらいきなりのキラーパス。一応二人の会話を聞いていたとはいえ、突然話を振られても答えられることはあまりない。
「まあ、楽な仕事ではなかったですけれど、ヘンリエッタの御役に立てたのなら嬉しく思います」
自分でもびっくりするくらい他人行儀で社交辞令にまみれた台詞だったが、トリエラとヘンリエッタは別に気にした風もなく二人の会話を続けた。
「相変わらずの育ちの良さね。アルファルドさんの教育がいいのかしら」
俺の台詞に食いついたのは、それまで我関せずと言わんばかりに書物を眺めていたクラエスだ。彼女は二段ベッドの上段からするすると降りてくると、俺の隣に腰掛けて紅茶を啜った。
「ここに来たときは男みたいな口調だったのに、今では立派なお嬢様。これほど興味深いことはなかなかないわね」
「五月蝿いわね。ほっといて」
クラエスの言うとおり、一人でいるときは砕けた口調で話しもするが、人の目線があるときは馬鹿みたいに丁寧な言葉遣いを心がけている。
それは中身を悟らせないための擬態でもあるし、演技をすることによって逆に自我を保つという、俺なりの悪あがきでもあるのだ。
きっとこの態度が演技で無くなったとき、俺が俺で無くなる瞬間なんだと思う。
「ところでヘンリエッタ。あなた、そんなに甘党だったかしら。どうにも砂糖の量が多いように思うのだけれど」
クラエスがふと、砂糖のポッドに手を伸ばしたヘンリエッタに声を掛ける。そう言えば彼女はここに来てから数回、砂糖を紅茶の中に落としていた。
これは原作の中でもあった光景だ。たしか理由は――
「うん、最近あまり甘く感じられないの。薬の量が増えたせいかな」
そう、義体の耐用年数の問題だ。
常人より遙かに頑強な肉体を与えられている俺たちだが、脳だけは生身のままだ。身体の他の部位は換えが聞いても脳に各種薬品が与える影響ばかりはゼロにすることができない。脳への影響は様々な身体の不調――例えば味覚異常などに現れる。
恐らく何も怪我をしないままに、手術なしで生活して数年の耐用年数。
戦闘によって傷ついて、そのたびにパーツを交換すればそれがさらに縮まっていく。
簡単に言い換えてやればつまりは余命だ。
「でもね、私はトリエラがいて、クラエスがいて、ブリジット先輩がいて、こうしてお茶会が開けることがとても楽しいの。だから全然悲しくないよ。それに、ジョゼさんが褒めてくれたんだもの。これ以上望んだら罰が当たっちゃう」
朗らかに笑うヘンリエッタを見て、トリエラとクラエスが破顔した。俺は何も言えないまま、手元の本に視線を下ろした。
彼女の余りに眩しすぎる笑顔を直視することができなかったのだ。
そして都合の良いことに、そんな俺の態度が三人にばれることはなかった。何故なら室内に携帯電話のバイブレーションが響き渡ったからだ。
「ブリジット、電話だよ」
たまたま俺のベッドの近くに腰掛けていたトリエラが枕元から携帯電話を拾ってくれる。投げて寄越されたそれを難なく受け止めてみれば、液晶にはアルファルドの文字が躍っていた。
「わあ、ブリジット先輩、携帯電話を貰ってるんだ。なんだか大人みたい」
「本人は気が休まらないからいらない、ってぼやいているけどね」
なんだか的外れな会話をやりとりする二人を尻目に、俺は通話ボタンを押す。耳に本体を押し当てれば、ややあって聞き慣れた男の声が聞こえた。
『すまない、ブリジット。仕事だ。三十分後に下に来てくれ』
会話はそれだけ。何故なら俺が直ぐに通話を切ったからだ。理由は至極単純。
アルファルドに話しかけられて喜んでいる顔をトリエラたちに見られたくないから。
「あらあら、私たちとはお茶会をするくらいには打ち解けているくせに、相変わらず担当官との仲は悪いのね」
茶化すようにクラエスが呟けば、トリエラがそれに乗せられてケラケラと笑った。ヘンリエッタだけが、どう声を掛ければいいのか、おろおろと紅茶のカップを持ったままこちらを心配している。
「大丈夫ですよ。ヘンリエッタ。この二人が言うほど仲が悪いわけではありません」
くしゃり、とヘンリエッタの柔らかい髪を撫で、クローゼットのもとに歩いて行く。中にはアルファルドから贈られた外行きの服が数着吊されていた。その中から動きやすい綿の白いシャツと黒いジーンズを取り出しその場で着替える。
「銃はいつものでいいのかい?」
お茶会前に分解清掃を終えたハンドガン――SIGSAUER P226をトリエラが手渡してくる。整備の後枕の下に隠していたものだ。
スイス製の愛銃を肩から吊すホルスターに収め、少し厚手のコートを羽織ってそれを隠す。
僅か数十秒で終えた戦闘準備に、随分と慣れたものだな、と的外れな感想を抱いていた。
「それじゃあ、いってきます。私の分のサンドイッチなどは誰かが食べちゃって下さい」
「はい、いってらっしゃい」
ひらひらと振るわれるトリエラの手。ヘンリエッタは緊張した面持ちで「頑張って」と告げ、クラエスは何も言わなかった。
いつも通りの光景に思わず頬が綻ぶ。
いつかは覚めて欲しい長い夢だけれども、こんな毎日なら、もう少しだけ浸っていたかった。
2/
ブリジットが出て行った後、紅茶の匂いで満たされた室内で、最初に口を開いたのはトリエラだった。
「ねえ、ヘンリエッタ。前から気になっていたんだけどさ、なんでブリジットのこと先輩って呼ぶの?」
問われたヘンリエッタは持っていた紅茶のカップをテーブルに置いて、「うーん」と首を傾げた。
「ん? 特に意味はないとか、そんな感じ?」
「ううん。ちゃんと意味はあるんだけど、これは言って良いのかなあ、って」
何処か歯切れの悪い反応のヘンリエッタに、トリエラはますます気になると問い詰めていく。
「ブリジットが怒ったりするの?」
「それはないかな。だって先輩、たぶん覚えていないから」
覚えていない――、それを聞いてトリエラは正直失敗した、と思った。何故なら義体というのはとても不安定な運用のされ方をされており、投薬一つで記憶の忘却など日常茶飯事だからだ。
実際、義体になる前の記憶をもっている義体は殆どおらず、大抵は洗脳の過程で生前の自分を忘れてしまっている。
だから互いの記憶の曖昧な部分には干渉し合わない――いつのまにか出来た義体間の暗黙のルールだ。
「あ、忘れたと言ってもね、お薬で忘れられた、とかそんなことじゃないんだ。たぶん先輩にとっては何気ない一言だったから覚えていないだけなんだと思う。――まあ、先輩に黙っててくれるなら言っても良いかな」
そう前置きをして、ぽつぽつとヘンリエッタは自分がブリジットと今のような関係になった顛末を語っていった。
3/
「……仕事じゃなかったんですね」
急な呼び出しなものだから、随分と急いで向かったのにアルファルドは平謝りで「騙してすまない」と言ってのけた。
正直きびすを返して部屋に戻ってやろうか、とも思ったが、彼が「連れて行きたいところ」があると告げたので黙ってそれについていったのだ。
途中、ローマ市内のちょっとしたカフェで軽めの夕食を取り、そのままローマ郊外の丘陵地に車は向かっていた。
「そうでも言わないと、断られそうだったからね。お詫びに何でも好きなものを買ってあげるよ」
「……なら少ない量でも甘みを感じられる上質なティーシュガーを下さい」
「おや、甘いものが嫌いなのに珍しいじゃないか。どうかしたのか?」
「いえ、ヘンリエッタが味覚が鈍ってたくさんの砂糖を使っていたので……」
無意識に最後まで答えかけて、俺は口を噤んだ。運転席の方は敢えて見ない。何故ならどうせ、きっと、俺の言葉を聞いて相貌を崩すだらしない顔をした男がそこにいるからだ。
「君は変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ、変わったとも。少し眩しいくらいだ」
アルファルドの言葉の意味はよくわからなかった。助手席から外を見てみれば、ローマの市街地に日が沈むのが見えた。時刻を確認すれば19時前。丁度日没の時間帯だった。仕事でも無ければ、どうしてこんな時間帯にこんな場所にいるのか理由がわからなかった。
「さて、このあたりなんだが……ああ、あったあった。ここだ」
丘のてっぺんにたどり着いたとき、アルファルドはおもむろに車を止めた。ちょっとした広場になっているそこは天文台の駐車場だった。
彼は車を降りると、トランクからテキパキと何かしらの機材を運び出している。
狙撃用のスポッター機具などでなければ、恐らく望遠鏡か何かだろう。
俺はそれを手伝うか一瞬迷ったが、悪戯が成功した少年のような表情をしているアルファルドを見て、何もしないことにした。イタリア人の男はこういった表情がよく似合う。
代わりに、カフェで水筒に入れて貰ったコーヒーを、持っていたバッグから取り出した。
まだ仄かに暖かいそれをカップに注いで、望遠鏡の準備をしているアルファルドに差し出す。
「おっ、有り難う。気が利くじゃないか」
望遠鏡の調整が終わったのか、アルファルドがそれを覗くよう指示してきた。
正直、星座の類いはわからないけれど思わず声を上げるくらいには綺麗な光景がそこに広がっていた。
「……気に入ってくれたようで嬉しいよ」
アルファルドの安堵した調子がこちらにも伝わってきて、思わず苦笑が漏れる。
正直、今ひとつ距離感を掴みきれない男だが、こういったことをされてしまうと、それなりに信用しても良いのかな、と油断してしまいそうだ。
俺に殺人を命じるくせに、俺に死の危険がある命令を下すくせに、こうやって俺の心に歩み寄ってくる。
それがとても嫌らしくて、腹立たしくて、そして愛おしい。
作られた感情だとわかっていても、抱き寄せられた肩を振り払うことができない。
それが、今の俺なのだ。
4/
おそるおそる抱いた肩はとても小さく、力を込めてしまえば折れてしまいそうだった。
気の利いた文句なんて何も思い浮かばない。ただ、星を見て感動する彼女が冷えてしまわないよう、側に寄り添うことしか出来なかった。
罪滅ぼしというわけではない。
でも、償いの気持ちが無いわけではない。
ただブリジットのために出来ることを探して、アルファルドは必死に生きている。
それが自分の使命だと、彼は誓いを立てている。
だからブリジットの感情の機微にはいつも神経を張り巡らせ、彼女が少しでも幸せに生きられるよう心を尽くす。
アルファルドがブリジットの小さな変化に気がついたのも、その誓いのたまものだ。
望遠鏡から一瞬だけ彼女が視線を外したとき、切れ長の瞳の目尻がうっすらと濡れていることに気がついた。
「ブリジット……」
声を掛け、そっとハンカチをあてがう。するとその時になって初めて気がついたのか、ブリジットは驚いたように自身の目元に手をやった。
「あれ?」
何故自分が泣いているのかわからないという風に、彼女は戸惑いを隠さない。
ブリジットが目元を乱暴に拭うたびに涙は溢れて、やがて大きな道筋となった。
アルファルドは発作でも起こしたのか、と青白い顔でブリジットの顔をのぞき込む。
「どうした、体調でも悪いのか」
「いえ、違うんです」
アルファルドから視線をそらし、ブリジットが息を一つ飲む。
「なんだか懐かしくて、ずっと昔、それこそもう思い出せないくらい昔にこうしたことがあるみたいで、なんだか涙が……」
ブリジットはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、アルファルドから手渡されたコーヒーを口に含んで、そのまま黙りこくった。
彼女が口を開いたのは、アルファルドが無理矢理にでも連れて帰るべきかと、思い至ったとき。
「ねえ、アルファルドさん」
アルファルドの手が止まる。
「今日はありがとうございます」
5/
ブリジットがどれくらい、今日のことを覚えていられるのかはわからない。
けれどもアルファルドは、せめてその日がくるまで、彼女を泣かすのは駄目だ、と己に言い聞かせた。
6/
ヘンリエッタは語る。
「私が義体になったとき、無口で怖くて、何もできなかった。いっそのこと、殺してくれればいいのに、とも思った。でもね、夜中一人で私が泣いていると、いっつもブリジットが側に来て私の頭を撫でてくれるの。そして彼女は言った。『昔も、こうして泣き虫な妹分をあやしていたから気にしないで』って。あとからお礼を告げたらブリジットは忘れてたんだけどね。だからあの子は私にとってお姉ちゃんみたいで、でも、本当のお姉ちゃんじゃないから、『年上の人はどう呼べばいいのかな』って聞いてみた。すると『先輩かなにかでしょ』って教えてくれて、そこからブリジットは私の先輩に――」