温厚なドラゴンと、心優しい少女が友達になる物語。

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ツイッターでちょろっと呟いたネタを元に、オリジナルの短編の練習も兼ねて書いたお話。
いやはや、イメージとちょっと違う感じになっちゃいましたし、文字数も膨らんじゃいましたし、オリジナル短編って難しいですねー……。


For my friend

 この世界において、ドラゴンとは人間を含めた食物連鎖の頂点に立つ存在である。

 人間をはるかに上回る知性と力を持っており、成体のドラゴンがその気になればいかなる大国であろうと一夜にして滅びるとされている。もしドラゴンが他者との争いに積極的であったならば、人間などとうに地上から姿を消しているだろう。

 

 そんなドラゴンにとって、病や傷といったものは自らの命を脅かすものとはなり得ない。

 

 その日、一匹のドラゴンが負った傷もまた、傍目から見れば深く見えるものなれど、当の本人からすればなんてことのないものだった。

 

「大丈夫、ドラゴンさんっ?」

『…………』

 

 十に届くかどうかという幼い少女が、ドラゴンの足の指に一生懸命治癒の法をかけ続けている。

 深い森林の中で生き続けてきたそのドラゴンの鱗は暗い緑。大きさからして間違いなく成体である。

 水を飲むべくやってきた森の川のほとりで偶然ドラゴンと少女は出会った。

 ドラゴンの体躯は巨木のそれに等しい。

 そのあまりの巨大さに少女も驚いて逃げ帰るかと思いきや、しかし彼女の行動はドラゴンの想像とは違っていた。

 ドラゴンの脚についた傷——自分でさえいつ付いたのかわからないような、小さな小さな傷を見て、顔を青くしながら『ドラゴンさん、怪我してるのっ!?』と駆け寄ってきたのである。

 

 そのあとは、ずっとこんな調子。

 ドラゴンはあらゆる法に強い耐性を持っているから、少女の微弱な力ではたとえこのかすり傷であろうと癒せまい。

 そもそも、癒す必要もない傷だ。

 

『……問題はない。治癒もいらぬ。そんなことより、日も暮れてきたぞ。帰るが良かろう』

「ダメだよっ! たくさん血が出てるもんっ!」

『だからな、それは儂の身が巨大故に流れる血液も多いというだけの話であって……お主たち人間から見れば多量の出血かもしれぬが、儂にとってはただ一滴ばかりの血を流すのと変わらぬのだよ』

「それでも怪我は怪我でしょっ。ちゃんと治るまでわたし帰らないから!」

『……困ったのう』

 

 人語を使って話しかけてみてもこれである。

 仕方なくドラゴンはこっそり自分へ治癒の法をかける。まったく効果の見込めない少女の治癒による全快を待っていては日が暮れるを通り越して明けてしまう。

 ようやくふさがり始めた傷を見て、少女が満面の笑顔を浮かべた。

 

「うんっ。治り始めてきたよ、ドラゴンさんっ!」

 

 薬草の葉でドラゴンの血を拭き取りながらも、少女は治癒を休めない。

 

「——よしっ。これで治ったよー!」

 

 しばらくしてからやっと少女が治癒の手を止めた。

 透き通るような白い額に浮かんだ玉の汗を腕で拭う少女。それを見たドラゴンは、内心で微笑む。

 

『うむ。礼を言うぞ、人の子や』

 

 たしかに治癒の必要もない傷だったが、少女の行いは完全な善意に依るもの。他のドラゴンはともかく、このドラゴンはそれを無碍にすることを良しとしない性格の持ち主だった。

 

「えへへ。もう怪我しないでね、ドラゴンさん」

『善処しよう』

 

 白い髪を揺らし、赤い瞳をキラキラ輝かせながらこちらを見てくる少女に怯えや恐怖といったものは微塵も見られない。

 なにも知らぬ子どもだからこそ、その瞳は虚偽ではなく本質を映す。ドラゴンが自分に危害を加えることなどないと、彼女は理解しているのだろう。

 

『……では儂は行くぞ。お主も帰るが良い』

「うんっ。またねー、ドラゴンさんっ」

 

 少女はそのまま踵を返して帰ろうとしたが、ふと振り返ってドラゴンに尋ねた。

 

「……って、そうだっ。わたし、ドラゴンさんのお名前聞いてなかったねっ。なんていうの?」

『……ハッハッハ。なにを訊くかと思えば。ドラゴンの名など、そう簡単に訊けるものではないぞ、娘』

「……? 仲良くならないと教えてくれないの?」

 

 ドラゴンにとって名前は重要な意味を持つ。

 名前というのは呪いだ。

 世界を形作る要素に過ぎない大気の流れが『風』という名をつけられることで独立した属性や概念となったように、名前は世界とソレとを隔てる呪い。

 故に、世界の摂理を尊び、その一部——一種族として、あるいはただの一生物として、もしくは世界を構成する一要素として在ることを望むドラゴンにとって、名乗りの行為は世界から独立する誓いのようなものである。人間のように軽々しく告げられるものではなかった。

 だがそれを眼前の少女に伝えるのは、すこし骨が折れるような気がした。

 

『そうさな……まあ、そういう認識で良かろう。滅多なことでは聞けぬと心得るのだな』

「それじゃあわたし、ドラゴンさんと仲良くなる!」

 

 即答だった。

 名を訊くことを拒まれたことに対する怒りなどかけらもなく、少女はまっすぐにドラゴンを見つめる。

 

「わたしはね、ラロルメリテっていうのっ。みんな呼びにくいからメルって呼んでるよっ」

『……ふむ。ラロルメリテ、か。まあ、覚えておこう』

 

 人間の名を覚えるなど随分と久しぶりのことだった。

 数万の時を経て、争うことの無益さをよく理解しているが故に人間とは不可侵の関係を築けてはいるが、名を覚えるほどの関係になったことはここ数百年ほどなかった。

 ただ、敵意も恐れもなく自然に話しかけてくる少女の名を覚えるのはやぶさかではない。

 

「うんっ。それじゃあわたし、またここに来るから! またね、ドラゴンさん!」

 

 そうして少女は今度こそ走り去っていった。

 ドラゴンは、佇みながらその背中を見送っていた。

 

 念のため、少女が無事帰れるかどうかドラゴンがずっと見守っていたことは余談であろう。

 

 

 次の日になってドラゴンが川のほとりで休んでいると、昼頃になって約束通り彼女は現れた。

 

「あっ、いたいたっ。こんにちはー、ドラゴンさんっ」

『……まさか、本当に来るとはな』

 

 たしかここは近隣の国内では危険区域に指定されているはずだが、なぜ彼女は平然とやってくるのだろうか。

 

「えへへー。また怪我してない?」

『するか。儂らの鱗は堅牢なのだ』

「そっか、良かったー」

 

 ラロルメリテはとことことこっちに来ると、ドラゴンの側に座って手に持っていた鞄から箱を取り出した。

 

「わたし、お弁当ひとりでつくってきたんだー。おにぎりなんだけど、ドラゴンさんも食べる?」

『……いや、遠慮しておこう』

 

 ラロルメリテの手におさまるサイズの握り飯を差し出されても、腹など到底膨れない。そもそもドラゴンに食事は必要ない。

 

「……そっかー……」

『……そんなに残念そうな顔をするでない』

 

 もしかして食べてほしかったのだろうか。

 しょぼーんと肩を落としたラロルメリテがもくもくとおにぎりを食べているのを見て、すこし居心地が悪くなってきたドラゴンは、自分から話題を振ることにした。

 

『……お主、親はどうした? ここは子どもがひとりで入り込むような場所ではあるまい。この川も森の浅いところにあるわけではない。昨日今日と連続で訪れることができるということは、お主、辺りの地形を把握しているだろう?

 いったい何度この地を踏んだ』

「……! ん、んーとねーっ!」

 

 ラロルメリテは話を振られたのが嬉しかったのか、急いでおにぎりを飲み込むとすぐさま喋り始めた。

 

「わたしのお母さまはね、とっても優しくてねっ。でも、一年に一回しか会えないの」

『……ほう?』

「わたしがの、のろ……のろわれたあくまのもうしご? だったっけ? とかなんとかで、……お父さまがね、お城からずーっと、街からもずーっと離れたところにあるお屋敷に住んでいろって、わたしに言って。お母さまはお城に住んでるけど、一年に一回しかわたしのとこに来ちゃダメなんだって。

 ……お父さまはまだ、見たことないけど」

『……それはまた』

 

 ドラゴンは低い声でつぶやいた。

 おそらく、ラロルメリテはなんらかの訳があって実の父や周囲からよく思われていないのだろう。事情を知らないドラゴンでは推測するにも限度があるが、なんとなく察しはついた。

 恐らく原因は、ラロルメリテの純白の頭髪と、血のような真紅の瞳だ。

 常人とは一線を画すその姿は、愚かな人間たちにはいかようにでも解釈できるものなのだろう。

 事実、ドラゴンも彼女のような人間を神と崇める国を見たことがある。

 ラロルメリテの国は、どうやらその逆らしい。彼女の口ぶりから察するに、あまり恵まれた生活を送っているわけではなさそうだった。

 

「だからわたし、太陽に焼かれちゃわないように防護の法を自分にかけてから、お屋敷を抜け出してここにお散歩に来てるの。わたし日差しに弱いから。だから悪魔とかなんとか呼ばれちゃうんだけど……。

 あっ、でも、抜け出すって言ってもわたしの事なんて誰も気にしてないから、ふつーに正面から出てきてるんだよー」

 

 ラロルメリテはなんてことのない風に言っているが、裏を返せばこんな危険地帯に入っても大丈夫な人間だと認識されているということでもある。

 しかし彼女に自衛できるほどの力があるとは到底思えなかった。

 そんな子どもがこの森に足を踏み入れれば様々な要因で死んでしまったとしてもなにもおかしくはない。

 つまりは、そういうことなのだろう。

 周囲の人間に、ラロルメリテは別に死んでも構わないと思われているのだ。

 率直に言って不愉快だった。

 それをおくびにも出すことなく、ドラゴンはのんびりと会話を続ける。

 

『よく獣に襲われなかったのう』

「ふっふっふー、わたしには《唄》があるもんっ。わたしの唄を聴いた動物さんはみんなおとなしくなっちゃうんだー」

『……なに? そんな力がお主にあったのか』

「うんっ。お母さまも、おばあさまもその《唄》で動物さんをおとなしくできるんだよー」

 

 聞いたことがある。様々な手段を使って獣を大人しくさせるような技術を持った人間がいる、と。

 ラロルメリテに流れる血筋も、その力を帯びているらしい。

 

「良かったらドラゴンさんにも聴かせてあげようか?」

『ハッハッハ、ならひとつ頼むとしようか』

 

 またおにぎりの件のように拗ねられてもなんだし、断る理由もない。ぜひ聴かせてもらうことにした。

 

「うんっ、任せてっ」

 

 ラロルメリテは嬉しそうに目をキラキラさせる。

 自分がドラゴンの中では情に篤い方だからなのかもしれないが、こんなに愛い少女のことを迫害するなど、人間のことはよくわからなかった。

 ラロルメリテが息を深く吸い、胸に手を当てながら唄を歌う。

 柔らかなメロディだった。

 歌詞は今の人語ではなく、かなり古い言葉のようだ。種族や言葉の壁を越えた永遠の友情の賛歌だった。

 彼女の声は可憐かつ美しく、それでいて魂とでも呼ぶべきものが唄に篭っている。

 ドラゴンでさえ聴き入るほどだった。

 やがて唄が終わると、ラロルメリテがワクワクした様子で尋ねてきた。

 

「ねえ、どうだった!?」

 

 素晴らしかったけれども、そうすぐ尋ねられては余韻もなにもない。

 ドラゴンは苦笑したが、それでも素直な感想を伝える。

 

『いやいや、驚いたぞ。良き歌だった』

「……! ほ、ほんとっ!?」

『嘘をつく必要もあるまい』

「えへへっ、やったーっ!

 わたしね、歌を歌うのも大好きだけど、歌を友達に聞いてもらうのはもーっと好きなんだ!」

『おや、それじゃあ儂はお主の友達かね』

「え? わたしはそう思ってるけど……もしかして、ドラゴンさんは違うの?」

『……』

 

 本音を言えば、そこまで深い関係だとは思っていなかった。

 せいぜいラロルメリテも知り合い程度に思っているだろうと考えていた。

 しかし喜びの絶頂から一転、不安で涙目になりかけているラロルメリテにそんなことを言えるほど、ドラゴンも冷酷ではない。

 

『……そうだな。お主と儂は友同士よ』

「……!」

 

 まあ、傷の手当をしてもらった恩もある。

 ドラゴンの言葉を聞いたラロルメリテは、立ち上がってぴょんぴょん跳ねてドラゴンの脚に抱きついた。

 

『おっとと。……ふふ。なれば、お主にひとつ、特別なものを見せてやろう』

 

 幼くも健気な好意をぶつけられたドラゴンは、ラロルメリテの服を口でつまむと自分の背に放り投げる。

 

「わ、わわっ? ドラゴンさん?」

『しっかりつかまっておれよ』

 

 ラロルメリテが自分の鱗を押さえたことを確認し、ドラゴンは立ち上がった。

 そしてそのまま翼をはためかせ、

 

「——!」

 

 飛んだ。

 次の瞬間、ラロルメリテの視界には見たこともない世界が広がっていた。

 輝く太陽。蒼い空。白い雲。はるか向こうに見えるは堂々たる山であり、その手前に見えるは先ほどまでラロルメリテとドラゴンがいた森林の海である。

 人間では決して見ることのできない世界がそこにあった。

 

『どうだ? ラロルメリテ。空もなかなか悪くなかろう?』

「……す、」

 

 ラロルメリテはその赤い瞳を限界まで輝かせ、魅入っていた。髪を撫でる風さえ、いつもとは違うように感じる。

 

「すっごーい……!」

 

 ラロルメリテは好奇心の強い少女だ。

 ましてやまだ十前後の子ども。未知に対する恐れよりも喜びが勝ってしまうのは仕方ないことであろう。

 

「ドラゴンさんっドラゴンさんっ、もっと飛んで! わたし、お屋敷の周りとあの森しか行ったことなくて、こんなの初めてなのっ!」

『ハッハッハ、お安い御用よ』

 

 ラロルメリテの歓喜が伝わっているのだろう。ドラゴンの声もまた、若々しい響きを持っていた。

 

 そうして深緑の巨竜は空を飛ぶ。

 誇り高きその背中に、たったひとりの少女を乗せて。

 

 

 その日から、ドラゴンとラロルメリテは毎日会うようになった。

 ラロルメリテは大抵昼頃、早い時は朝からやってきてドラゴンと話し、日が沈む頃には帰る。

 夜の闇が訪れてしまえば凶暴な獣が多く出るし、《唄》の効果もどこまであるかわからない。遭難してしまう恐れもある。もう森へ行くことを止めはしないから、せめて日が沈む前には戻るようにと、母に言われたのだという。母親だけは彼女の身を案じているらしい。

 そのうちふたりが落ち合う場所は川のほとりからドラゴンの住処である洞穴へと移った。

 ふたりはそこでいろんなことを話した。

 ラロルメリテにとってドラゴンははじめてできた友達だったし、ドラゴンにとってもラロルメリテは純粋にして可愛らしい存在だった。なので、お互い会話は苦にならなかった。

 会話の内容はなんの変哲もない世間話が中心だったけれど、それでもふたりにとっては心地良いものだった。

 

「ドラゴンさんって普段なに食べてるの?」

『なにも食べぬよ。わざわざ食事などせずとも、日の光を浴び、雨粒を纏い、風に撫でられ、月に照らされ、澄んだ空気を吸い……そうして普段から自然の恵みを全身で受けておるからな』

「へー、そうなんだー……! う、羨ましいなあっ。わたしなんて食べすぎるとお腹が出ちゃってみっともないから、いつも我慢してるのに……」

『満たされずとも、不足なき程度に食べるのだぞ?』

「えへへ、わかってるよー。……あ、それじゃあドラゴンさん好きな食べ物とかないの?」

『ないな。そういうお主は?』

「わたし? わたしはね、ケーキとかかなぁ」

『けーき? ……ふむ、聞いたことはあるが食べたことはないな』

「えーっ!? も、もったいないよっ、あんなおいしいもの食べたことないなんて! ようし、それじゃあ明日わたしが作って持ってきてあげる!」

『いや、儂は食事など必要な……わかった。わかった、貰おう。だからその、捨てられた仔犬のような顔をするでない』

 

 そうしてラロルメリテがたくさんケーキを作ってもっていくと、ドラゴンが思いの外おいしそうにそれを平らげたり。

 

『ラロルメリテ。お主、同族の……人間の友はおらぬのか? もしいるのであれば、儂よりそちらに構った方が』

「んー? いないよー、わたしの友達はドラゴンさんだけ。

 ……みんなわたしのこと避けるから、おんなじ歳の子とかとお話したこともないんだよねー……」

『……そうか』

「うん……」

『……よし、ラロルメリテよ。また、空へ行かぬか? 前は北へ赴いたが故、今度は南へと翼を向けようぞ』

「……! ほ、ほんとっ!? わーい、いくいくー!!」

『ハッハッハ、そうら。背へお乗り』

「きゃー♪」

 

 彼女の身の上話を聴くうちに、ドラゴンが時折ラロルメリテに優しさを見せるようになったり。

 

「ねーねー、どうしてわたしのことラロルメリテって呼ぶの? メル、で良いんだよ?」

『……おお、そういえばそうじゃのう。いやはや、なぜかラロルメリテと呼んでしまう』

「むー。わたし、他人行儀な感じであんまり好きじゃないなー」

『そうは言うがな……愛称で呼ぶほど人間と密接な関係を築いたことなどなくてのう』

「……ドラゴンさん、わたしのこと友達だと思ってくれてないんだ。ぐすん」

『……ぐっ……』

「……ふふふっ。なんて、冗談だよーっ。そこまで気にしてないからそんな顔しないで、ドラゴンさんっ♪」

『……。……ぐぬぬ。儂としたことがコロッと騙されたわ』

「ドラゴンさんもそんな困った顔するんだねっ。ふっふっふ、ドラゴンさんの意外な一面発見!」

『ええいっ、からかうでないわっ』

「あはははっ。……でも、メルって呼んでほしいのは本当だよ?」

『……そうか。ふん、まあ機会があればそう呼んでやるわ』

「……あ、あれ? ドラゴンさん、もしかして結構怒ってる……?」

『…………』

「そっぽ向かないで!? ご、ごめんなさいっ、わたしが悪かったです! もうドラゴンさんのことからかったりしないから、だから許してーっ!?」

 

 ほんの少しからかってやろうぐらいの気持ちでドラゴンが素っ気ない態度を取ると、ラロルメリテが涙目になりながら謝ってきたり。

 本当に、いろいろなことがあった。

 

 

 そうして半年以上が経った日のこと。

 ふたりの関係もすっかり定着し、いつものように洞穴へやってきたラロルメリテは、やはり普段通りドラゴンの尻尾に抱きつきながら嬉しそうな声で言った。

 

「ねえねえ聞いて、ドラゴンさんっ。一週間後にね、お母さまがお屋敷に来るんだって!」

『ほう……それはめでたい』

「うんっ。わたし、今からすごく楽しみなの!」

 

 彼女は尻尾を離し、ドラゴンがラロルメリテのために作ったふかふかの草のベッドに飛び込む。

 そこでごろごろと転がった。

 

「あー、はやく一週間経たないかなー! わたし、お話したいことがいっぱいあるんだっ。

 《唄》がたくさん歌えるようになったこととか、お料理とかお菓子作りが上手になったこととか、」

 

 指折数える彼女は本当に楽しそうで。

 そんな姿を見ていると、ドラゴンまでも早く時がやってくることを祈ってしまう。我ながら随分情が移ってしまったものだと苦笑するも、それだけラロルメリテは魅力的な人間だった。

 

「——それに、ドラゴンさんっていうお友達ができたこととか!」

 

 こんなことを精いっぱいの笑顔と共に告げられてしまっては、さしものドラゴンといえど頬を緩ませざるを得ない。

 

『……儂のことを伝えては母殿も驚くだろう』

「んーん、大丈夫だよー。お母さま、結構度胸あるもんっ。えへへ、いつかドラゴンさんとお母さまとわたしの三人でお話したいなあ……!」

『そうさなぁ』

 

 ドラゴンも、そう思う。

 ラロルメリテが裕福でありながら不遇な環境にいるらしいことは、この半年と数ヶ月でドラゴンも把握していた。

 そしてそんなラロルメリテを支え、かつもっとも案じているのが彼女の母であるということも、また。

 であれば年に一度などとは言わず、毎日でも会いに行ってやれば良かろうにとは思いつつも、しがらみからそれもできぬのだろうと理解してもいる。

 人間の世界において、力で劣る女性は軽視されがちだ。

 ラロルメリテの父が娘をよく思っていないことは察しがつく。でなければ、娘をこんな場所へ勝手に行かせようとは思うまい。

 ラロルメリテの母は、彼女の父によって思うように動けないのだろう。

 まったくなんと愚かなことかと、ドラゴンは呆れ果てた。

 ラロルメリテいわく度胸のある彼女の母でさえ、自由に行動できないほどの強い呪縛。なんの意味もない、親子の愛情すらをも害するゴミのようなしがらみ。

 そして、それらを作り上げた無能な多数の小人。

 これらを愚かと言わずになんと言うのか。

 

「どんなおもてなししようかなーっ。去年はわたしのつくったお料理とかお菓子とか、あとは歌ったりしてお母さまを迎えたんだよっ」

『ほう。ならば、花束でも贈るのはどうだ? この森の奥には花畑がある。お主のような人間の愛の証に使われるのであれば花も本望だろうて』

「え、えへへ……ありがと。でも、良いねそれっ。あとで連れてってほしいな、ドラゴンさんっ!」

『ハハハ、任せるが良い』

 

 そうして楽しそうに話すふたり。

 ラロルメリテが一週間後を楽しみにしているように、ドラゴンもまた楽しみだった。

 彼女の喜びこそが、自らの喜び——などと言っては、大げさかもしれないけれど。

 それでも、ラロルメリテの笑顔を見るのがドラゴンは好きだった。

 

 

 

 ——だから。

 彼女はきっと来ないだろうと思っていたその一週間後の雨の日、ラロルメリテが住処の洞穴へやってきたことに、ドラゴンはひどく動揺した。

 

『……ラロルメリテ?』

 

 いつもは名前を呼んだだけで嬉しそうな声で返事をするのに、今日は違った。

 洞穴の入り口で立ったまま、彼女は拳を握りしめて俯いている。

 ラロルメリテの赤くなった頬を伝う雫が雨粒だけではないことなど、すぐに理解できた。

 

「……なかった」

 

 ラロルメリテは、涙声で言った。

 

「——お母さま、来なかったよぉっ……!」

 

 そして次の瞬間には、堤防が決壊したかのような勢いで泣き出した。

 ドラゴンといえば、なにがなんだかまるで状況が掴めず困惑するばかりだった。

 とはいえ、ラロルメリテの涙を前にしたドラゴンがやることなど決まっている。

 

『……中に入るが良い、ラロルメリテ。そこにいては濡れてしまうぞ。儂で良ければ話を聞こう』

 

 優しくそう言うと、すぐにラロルメリテは駆け寄ってきてドラゴンの前脚に抱きついた。

 そしてしばらく、泣き続けていた。

 なぜ母が来なかったのか。

 なぜ自分が泣いているのか。

 それを語りながら、ずっと、泣いていた。

 

『……なるほどな』

 

 やがて彼女が落ち着き始めた辺りで、ドラゴンは低く呟いた。

 

『母殿は体が弱く、折悪く昨夜体調を崩してしまった、と。……そしてそれを聞いたお主は見舞いに行こうと思ったが、それすら許されなかった。こういうことだな?』

 

 涙こそ止んだものの、それでも引き攣った喉が戻っていないラロルメリテは頷きのみをもって返事とした。

 ラロルメリテが泣いているのは、楽しみにしていた日に母親が来なかったというのもあるけれど、それ以上に自分が見舞いに行くことすら許されなかったということの方が大きい。

 不安で心配で、なんとかして助けてあげたいのに。

 看病だってできるのに。

 顔をあわせることすら、許されない。

 その悲しさと悔しさが、ラロルメリテの涙の理由だった。

 

『……度し難いな』

 

 ドラゴンの中で苛立ちが募る。

 他者を純粋に想う気持ち——それはとても素晴らしく、高潔なものだ。

 その大切さは、他ならぬ人こそが真っ先に気付いて然るべきものだというのに。

 くだらぬ偏見を理由に、その想いまで否定する人間たちに対し、無性に腹が立った。

 今までそのような事柄を聞いて、驚き呆れることこそありはすれ、怒りを抱くことはなかった。

 しかし今回は違う。

 その忌むべき思想によって、ラロルメリテが涙を流しているからだ。それはドラゴンにとって充分な苛立ちの理由となりえる。

 今ラロルメリテがそう願えば、ドラゴンは彼女を偏見の眼差しで見る人間を殺していたかもしれない。いつのまにか、ドラゴンにとってラロルメリテはそれほどの存在となっていた。

 

「……なんで。なんでわたし、お見舞いにも行けないのかなあっ……!」

『……その髪と瞳は、愚かな人間どもには恐ろしく見えるのだよ。故に、お主が行けば母殿の容態がより悪化すると信じておるのだろう。忌々しいことにな』

「お母さんからもらった大切な髪と目なのに……周りの人はみんな気持ち悪いって……綺麗だって言ってくれたの、お母さんだけでっ……」

『安心せい。お主は美しい。自然と共に何万もの年を生きてきた儂が保障しよう。

 そして周りの曇った目の小人どもには、こう言ってやるわ。——貴様らには審美眼の欠片もない、とな』

 

 彼女の背を尻尾で撫で、ぽんぽんと叩く。慰めの言葉ではあるが、そこに嘘はひとつもない。

 

「悔しいよ……わたしっ……!」

『…………』

「すぐにでもお母さまのところに行きたいのに……っ」

『…………』

 

 どうするべきか、と一瞬の葛藤があった。

 しかしそれは本当に一瞬だけ。

 次の瞬間、ドラゴンは彼女に背を向けると草のベッドを一瞥した。

 自然の法の下に、人間には到底理解できない不思議な力でそのベッドを自由自在に操る。

 やがてそれは、ドラゴンが手を触れていないにも関わらず小さな笛の形をなした。

 それはふよふよと一人でに浮いて、ラロルメリテとドラゴンの下へやってくる。

 

『……草笛。これを持っていくと良い』

「え……?」

『自然の中には周囲の景色に紛れることにより、敵から身を隠す術を持った虫や獣がいる。それを利用した隠形の術がこの笛にはかけられておる。持っておれば、生半な人間にはお主の姿は見えなくなるだろうて』

 

 ラロルメリテの手にすっぽりと収まった笛は、柔らかな新緑の光を放っている。

 

『……母殿の下へ行きたいのだろう? それを持っていけ』

「……!」

『どうしても危うくなったらその笛を吹くと良い。ただし、本当に危険になった時以外は吹くでないぞ』

「……う、うんっ!」

 

 笛から二本の蔓が伸び、しゅるりとラロルメリテの首の後ろで結ばれる。

 笛を首にかけたラロルメリテは、ドラゴンから体を離すと洞穴の外を見た。

 いつのまにか、雨は止んでいた。

 それにならうように、ラロルメリテもごしごしと自分の目元を拭って。

 まだその面差しには赤みが残っているけれど、それでも懸命に、そして心底から感謝するように笑って。

 

「ほんっとうに、ありがとう! ドラゴンさんっ。わたし、行ってくるね!」

『ああ、行っておいで。くれぐれも、見つからぬようにな』

「うん!」

 

 そうしてラロルメリテは洞穴から出ていった。

 ドラゴンはその背を送りながら、思う。

 ——彼女の身に、幸あらんことを。

 

 

 城までの道のりを、ラロルメリテは本当に誰にも見つかることなく行くことができた。

 町人はもちろん、兵士や騎士を含めた誰もラロルメリテに気付かないのだ。

 城の構造は把握している。

 ラロルメリテは迷うこともなく城の中を駆け抜け、やがて母の部屋へたどり着いた。

 古い紙の匂い。書斎なのか自室なのかさえよくわからないほどにある大量の本棚は、母の勉強熱心な性格を如実に表していた。

 母のベッドの近くにはお付きの従者がいて、やはりこちらには気付いていない。

 しかし母だけは違った。

 

「……?」

 

 母だけは、じっとこちらを見ている。まるでラロルメリテの姿が見えているかのように。

 

「……失礼。少し、席を外してくださいますか?」

 

 母は従者にそう言った。

 とはいえ病人だ。なんとかして留まろうとする従者だったが、母は上手く言いくるめて従者を追い出してしまう。

 扉がバタンとしまり、従者の足音が遠くへ行ったその時だった。

 

「……そこにいらっしゃるのは誰ですか? 随分と高位の隠形を行使しておられ?ご様子ですが」

 

 ラロルメリテは草笛を首から外した。

 それだけで草笛の効果が切れ、すうっとラロルメリテの姿が露わになる。

 それを見た母が、驚愕に目を見開いた。

 

「お母さまっ……!」

「……メル……?」

「うんっ。わたしだよ、メルだよ! お母さまっ!」

 

 ラロルメリテは彼女の下へ小走りで向かった。

 

「どうしてあなたがここに……」

「それより大丈夫? 倒れたんでしょう? 体、辛くないっ?」

「……はい、私はなにも問題ありません。この程度でメルの屋敷に行くことを禁ずるのですから、まったく困ったものです。一年に一度の楽しみだというのに」

 

 母は光のように輝くプラチナブロンドの髪と瞳をラロルメリテに向けながら、いつもの優しい顔になる。

 

「本当にごめんなさい、メル。あなたのところへ行けなくて」

「ううん、良いの。お母さんが倒れたって聞いた時、本当にびっくりして……でもお見舞いに行っちゃダメって言われてっ……」

「……そのようなことを。やれやれ、ただの貧血に過ぎないというのに……それに娘にさえ見舞いに行くことを許さないだなんて……」

「そうだよっ……! もう、すっごくひどいよねっ! わたし、悔しかったから自分でここまで来ちゃった!」

「……なるほど、そういうことでしたか。

 しかしこの城の警備を抜けるだけの隠形など、並大抵の人間には使えないはず……。あなたも大して魔法は上手くないですよね。メル、もしかして誰かに協力していただいているのですか?」

 

 聡明な母は早くもラロルメリテの背後にいる者の存在に気付いたらしかった。

 

「うんっ。お屋敷の近くに森があるでしょ?」

「ええ。……あまりあそこに行ってはいけませんよ。あなたの性格からして止めるのは無理だろうと諦めていますけど、私としては気が気でないのですから」

「えへへ、気をつけますっ。

 それでね、わたしね、その森のドラゴンさんとお友達になったの!」

「……なっ、」

 

 さすがの母といえど、ラロルメリテの言葉に絶句した。

 普段から優しく理知的で冷静な母の慌てたような顔など、ラロルメリテは初めて見た。それが少しだけ、面白い。

 

「んっとね、暗ーい緑色のドラゴンさんでね、すっごくでかいの! 背中にも乗せてもらったし、ケーキとか作って食べてもらったこともあるんだよー」

「……暗い緑色……もしや、森の主……いや、まさかそんな。しかしあの森には主以外のドラゴンなど……。

 ……ああ。メル、お母さんはたまにあなたがわからなくなります……」

 

 母は頭をおさえると、大きなため息を吐いた。

 

「そのドラゴンさんにこの草笛をもらったんだっ。これを持ってればバレないだろうって!」

「……もう良いです、考えるのはやめます。

 たしかに、その笛には強力な法がかかっていますね。私でさえ見抜くことができませんでしたし」

「お母さまですら見抜けないんだからすごいよねっ。

 あっ、あと危なくなったらこれを吹けって——」

 

 その時だった。

 扉が開く。

 掃除にやってきたメイドだった。

 母でさえ、久方ぶりの娘との会話を楽しむあまりその気配に気付くことができなかったのだ。

 メイドはまず母を見て、そしてラロルメリテを見る。

 ラロルメリテの綿雲のような髪と真紅の瞳を見た途端、彼女は悲鳴を上げた。

 

「っ……! メル、そこの窓から逃げなさい!」

 

 母が咄嗟にラロルメリテに衝撃緩和の法をかける。

 そのままバンと一人でにカーテンと窓が開く。

 

「お母さまっ……!」

「私は大丈夫です。衛士が来る前に早く!」

「う、うんっ!」

 

 そのただならぬ気迫におされるように、ラロルメリテは窓から飛び降りた。

 母の部屋は城の最上階にある。故にそこから飛び降りれば死ぬのみだが、母の衝撃緩和の法によってラロルメリテは簡単に着地することができた。

 そのまま笛を持って走り出す。

 風に乗って母の声が聞こえてきた。

 

『逃げるのです、メル! 誰にも見つからないように!』

「わ……わかった!」

 

 笛を首にかけ、全力で走る。

 まずは城の敷地を抜けなければならない。

 とはいえ、この笛がある限りそれも容易だろう。

 

 ——そんな油断をしていたのが、悪かったのかもしれない。

 

 なんのイタズラか、笛の蔓がブチリと切れた。

 草笛が地面に落ち、ラロルメリテの姿が露わになる。見間違いでは済まない、悪魔と噂されたその姿が。

 よりにもよって、衛士たちの前で。

 

「あ……」

「なっ……!」

「く、曲者だ!」

 

 衛士たちがすぐに剣を構える。

 ラロルメリテの存在は公にされていない。

 白髪赤目のラロルメリテは、衛士たちにとって王妃の娘ではなくただの化け物だった。

 衛士の声を聞きつけて、他にも多数の衛士が集まってくる。

 急いで笛を拾い、逃げようと思考が回復した時にはもうどうしようもないほどに手遅れだった。

 囲まれ、逃げ道らしい逃げ道はすべて封鎖されている。

 

「王に連絡を! 化け物が現れた!」

「国に災いをなす悪魔め……!」

「化け物か、醜悪な!」

 

 次々の向けられる憎悪と嫌悪の感情。

 それを受けたラロルメリテは、止まったはずの涙がまた溢れ出しそうになるのを懸命に堪えていた。

 なんでそんなひどいことを言うんだろう。わたしはただの人間なのに。悪魔じゃ、化け物じゃないのに。

 そして、なによりも思うのは。

 化け物にだって、優しい人はいるのにという、そんなどこか抜けたとも言い換えられることだった。

 それらの言葉がラロルメリテを侮辱するものであることに違いはないが、加えてもうひとつ。

 ラロルメリテにとって、その言葉は自らの唯一の友を愚弄する言葉でもあった。

 たしかにあのドラゴンは化け物だろう。大きく強く賢く、人の手など到底及ばない怪物だ。

 だけど、あのドラゴンは優しかった。ラロルメリテにいろんなことを教えてくれたし、いろんなものを見せてくれた。今だって、草笛でラロルメリテを助けてくれていた。

 なのに、そんな優しいドラゴンのことまでも馬鹿にされているような気がして。

 ラロルメリテは、どうしようもないほどに悲しくて、悔しくなった。

 

「メルっ!」

 

 その時、空から舞い降りるものがあった。

 日光のように明るく、月光のように優しい金色の髪と瞳。純白のドレスを纏うその姿は、

 

「お母さま!?」

 

 他ならぬ王妃である。

 最上階からラロルメリテの危機を見つけた王妃は、自らにも衝撃緩和の法をかけて飛び降りたのだ。ラロルメリテの助けとなるべく。

 

「王妃様!?」

「危険です、その化け物から離れてください!」

「……っ、黙りなさい! 我が客人に対してなんたる無礼を働くのですか!」

 

 その声はひどく透明で澄んでいたが、だからこそ誰もが裏にある憤怒の色を明確に感じ取ることができた。

 

「この子は私の客です! 即刻剣を納めなさい!」

「し……しかし、」

「——やれ。構わぬ。その女ごと、あの悪魔を斬るが良かろう」

 

 王妃に対抗するかのようにまた、ひとりの人間がそこに現れた。

 身に纏う豪奢な衣服は、他の衛士たちとは一線を画す地位のあらわれである。

 淀んだ瞳と漆黒の髪。深い皺を刻んだ男だった。

 面識のない男だったが、側にいる王妃が小さく呟くのをラロルメリテは聞き取っていた。

 

「王っ……!」

「その女は悪魔を産んだ女だ。そこの化け物と変わらぬ。我が命ずる、斬れ」

「あ、なたはっ……!

 あなたは、まだ自らの娘を化け物と呼ぶのですか!?」

 

 王妃の顔は真っ赤だった。怒りによるものだ。

 そこまで聞いて、ようやくラロルメリテはあの男が自分の父なのだと気付いた。

 

「我に娘はおらぬ。妻もおらぬ。貴様らのような醜悪な化け物など知らんな」

 

 ゴミでも見るかのような目と共に告げられた言葉。

 それを聞いて激昂したのは、王妃ではなくラロルメリテだった。

 

「——お母さまを、馬鹿にするなあああああああッ!」

 

 術を介さずに解放された法力は、しかし狙い済まされた一筋の閃光となって王に迫る。

 目を見開いた王が咄嗟に身をよじるも、弛んだ肉体では完全に躱しきれず頬にかする。そこからだらりと血が垂れた。

 それを見た衛士たちが泡を食ったように慌てふためく。

 

「ラロルメリテ……!」

 

 激しい怒りの直後にラロルメリテを襲ったのは、深い悲しみだった。

 なぜ人に平気でそんな目を向けられるのか。まして、自分が妻と選んだ相手に。

 自分も母も馬鹿にされて。そしてこの人たちはそれを当たり前のように思っている。

 辛かった。

 悲しかった。

 それらが涙となってラロルメリテの瞳からこぼれ落ちる。

 

「……図に乗るでないぞ、小娘ぇ!」

 

 自らの頬を押さえていた王は怒りで震えながら手を振り、衛士たちに命令する。

 

「殺せ! 奴らは我に傷をつけた大罪人ぞ! 躊躇はいらぬ!」

「はっ!」

 

 衛士たちもまた、侮蔑と怒りを目に宿らせながら武器を構える。

 もはや激突は避けようもなかった。

 

「……仕方ないですね。ラロルメリテ、あなただけでも逃げなさい。道は私が作ります」

 

 母が一歩、前に出た。

 

「お母さまっ、」

「生きなさい、ラロルメリテ。あなたが怒ってくれて、悲しんでくれて、母は嬉しかったですよ」

 

 武器を持った男たちが近づいてきているにも関わらず、母から向けられる笑顔はやはり、どこまでも柔らかいものだった。

 しかしその裏に見え隠れする決死の覚悟にラロルメリテは息を呑んだ。

 母は、死んでも道を作る覚悟でいる。

 わたしのために、お母さまが死ぬ。

 

「……ダメ、だよ……」

 

 衛士たちと母の距離はもうそれほどない。包囲を狭めた衛士たちは今すぐにでも襲いかかるだろう。

 そうなれば、いくら母が優れた術師だとはいえ多勢に無勢だ。

 

「助けて、ドラゴンさんっ……!」

 

 咄嗟に、あるいは無意識に。

 ラロルメリテは彼を呼びながら、本能的に笛を吹いていた。

 清涼な川の流れのように澄み切った音色が周囲に響き渡る。山彦めいた波紋を広げる音色は、やがて国を超えて、ある場所へと届く。

 

 そしてその時、一陣の風が吹いた。

 爽やかな風だった。

 

 

『——応よ。友の頼みとあらば』

 

「ぁ……」

 

 その風と共に、ひとつの大いなる獣がラロルメリテの側に現れていた。

 暗い緑の鱗。山のごとき堂々とした巨躯。神代から在り続けてきた圧倒的な存在感が、一瞬にしてその場を呑んだ。

 

「なっ……!」

 

 その驚愕の声は衛士たちのものでもあり、また王妃のものでもあった。

 遥かなる存在であるドラゴン。その力は単体で大国のそれに匹敵するとされ、間違っても人が倒せる相手ではない。

 それほどの怪物が突如として現れたことに対して、ひとりの例外を除きその場の誰もが驚愕と動揺を隠せずにいた。

 ただ唯一、王だけが、動ずることなくそこに佇んでいる。

 

「……これはこれは、森の主よ。人の国に降り立つとは珍しい」

 

 王の仕草は余裕のあらわれだった。

 このドラゴンが非常に温厚であり、人や他の獣と争うことを良しとしない性格の持ち主であることを知っているが故の余裕である。

 

『なに、少しばかり騒がしかったようなのでな。こうして降りてきたというわけだ』

「なるほど。しかしご心配には及びますまい。我が城にそれ、そこの化け物どもが潜んでおり、我らがそれを討伐しようと兵を挙げていたに過ぎませぬ。わざわざ主殿が干渉するほどの事態ではあらぬ」

『ほう……化け物か』

 

 そうしてドラゴンは足下の王妃とラロルメリテを見た。

 

「左様。この国では古来より白い髪と赤い目を持つのは化け物と言われておる」

『…………』

「見よ、その恐ろしい風貌を。不気味にして醜悪なその姿を。まさに悪魔なり」

『……なるほど』

 

 ドラゴンが低くつぶやいた。

 それを聞いたラロルメリテは思わず自分の肌に寒気が走るのを感じていた。

 王の姿に平静を取り戻す衛士たちや、他ならぬ王は気付いていないのだろうか。

 このドラゴンが、静かな激情を胸に秘めているということに。

 

「おわかりいただけたかな? 我らはその悪魔どもを滅ぼさねばならん。そこから身を退いてくださらぬか」

『……ふむ、なるほどな。よおく、わかった』

 

 ドラゴンは一歩、踏み出した。

 その巨大な足が大地を踏み抜く度に、地面そのものが怒りをあらわすかのように震える。

 

『つまり』

 

 ドラゴンの瞳がすっと細められる。爬虫類特有の鋭い瞳が、王や衛士たちを射抜いた。

 絶対零度のプレッシャーは、彼らに身動きひとつ取ることすらをも許さない。

 

『貴様たちは、そのようなくだらぬ理由で我が友を愚弄し、悲しませたのだな』

 

 ドラゴンが大きく翼を広げた。

 天を覆い尽くす巨影は日光を遮り、彼らの視界に影を落とす。彼らを威圧するように、そしてラロルメリテを守るように展開された剛翼は、大自然がもたらす恵みと天災の二つを象徴しているかのようである。

 強烈な怒気に、はじめて王の顔に動揺の色が浮かぶ。

 

「……友、ですと?」

『そうだ。この少女は傷を負った儂を必死に癒してくれた。儂は彼女に恩がある……彼女は我が友であり、そしてこの女性は我が友の母殿。

 儂の恩人かつ、何者にも代え難き友人でもある彼女とその母を侮辱した罪は……重いぞ?』

 

 ドラゴンの口腔で紅蓮の炎が揺らめいている。今にも解放されんばかりの煌めきは、太陽のそれに勝るとも劣らない。

 

「な、ば、馬鹿なっ。奴らをかばい、我らに牙を剥くと!? そなたはは争いを好まぬはず——!」

『そうさな。儂は……ドラゴンは一部を除き争うことを良しとせぬ。

 だが言わせてもらおう。

 ——友を傷つけられて黙っておるほど、《我》は腑抜けではない』

 

 彼の一人称の変化がはたしてどのような意味を持つのか、具体的に理解できるものはこの場にいない。

 けれども、それがなんらかの意味を伴った変化であるのは間違いないと、この場にいる誰もが理解できた。

 その瞳に、気高い金色の光が宿る。

 

『久しぶりぞ。世界に我の名を刻むのは』

 

 そうしてドラゴンはまた一歩踏み出した。

 その覇気は天地を震えさせ、あまねくすべてを慄かせる。この世界に芽吹く命と自然を従えるこのドラゴンと敵対するということは、すなわち世界そのものを敵に回すと言っても過言ではない。

 

『名乗ろう、矮小なる愚人よ』

 

 その言葉は、極刑の審判を告げるように厳粛で。

 

『そして名乗ろう。親愛なる友、ラロルメリテとその母よ』

 

 その言葉は、父なる自然が人々を祝福するかのように穏やかで。

 

『我が名は《グァリノガルド》』

 

 その名は、悠久の唄のように神秘的で。

 

『今の我はただのドラゴンにあらず。友のためならば、世の理すらねじ伏せる覚悟よ。

 ……故に、我は』

 

 紡ぐ言葉は、凄絶に。

 

『——この名を以って、貴様らを滅そう!』

 

 グァリノガルドが顔を天に向け、大きく吼えた。

 その咆哮は天地の果てまで響き渡り、世界を震わせ、大気すらをも揺らめかせる。偉大なるドラゴンに気圧されたか、はたまた物理的な衝撃さえ伴う音の暴力によるものか、周囲の衛士たちが嵐に押されるかのごとく後ずさった。

 グァリノガルド。

 それが、彼の名。

 出会ったばかりの時は聞かせてもらえなかった、彼の名前。

 そんな名が今、ラロルメリテのために振るわれている。

 ラロルメリテは、それがどうしようもなく嬉しかった。

 

「ば——」

 

 王はなにかを言いかけて、言い切るよりも先に声を失っていた。

 その炎が美しすぎたからだ。

 グァリノガルドの口から吐き出されたその炎はあまりにも壮絶で、けれど恐ろしいくらいに綺麗で。見惚れるような荘厳さの中に、畏怖を呼び覚ます美しさと恐怖を呼び起こす凶悪さが同居していた。

 そうして言葉すらないままに、王と衛士は炎に飲み込まれていく。

 その壮大さを、瞳に焼き付けたまま。

 一切の苦しみすらをも燃やし尽くされ、すべてが赤に染まり。

 

 そして最後に残ったのは、空を揺蕩う灰燼のみだった。

 

 

 

 

 王国の王と王妃——そして公にはされていなかった彼らの娘が、ある日忽然と姿を消した。

 彼らの居城には大規模な戦闘の跡が残っており、その苛烈さと国民の目撃情報から、三人はドラゴンに襲撃されその犠牲となったのだと囁かれている。

 それは緑色の鱗を持ったドラゴンだと証言されているが、彼らはいずれも温厚であり、人を襲うようなものではない。

 そのようなドラゴンが城を燃やし尽くすほど激昂した理由ははたしてなんであったのか。

 今もなお、謎に包まれている。

 そして、三人の遺体は見つかっていない。

 

 肉片すら残さず灰になったのだろうか。

 あるいは、おとぎ話の悪い竜が人を攫うように——。

 

 その行方を知るものは、誰もいない。

 

 

 

『おお、どこにおるかと思えばここにおったか。さあ、行くぞ。母殿はもう準備を済ませておる』

「あれっ、もうそんなに時間経ってたの?」

『そうじゃのう。……やはり、名残惜しいか? 祖国は』

「ううん、ぜーんぜん。わたしにとってはこの川のほとりの方が大事かな。もっと言えばこの森。……わたしとあなたが最初に出会った場所」

『……』

「あの時はね、とにかくあなたのことが心配で心配で。……こんなことになるなんて、予想してなかった」

『ハッハッハ、それは儂もよ』

「えへへっ。……でも、良かったかも。これからは大好きなお母さまもいて、大切な友達もいて、一緒に世界を旅できるんだもんね」

『応とも。どこまでも、どこへでも、儂が連れて行ってやろう』

「うん。……ありがとう。

 それじゃ、行こっか」

 

『うむ。共に世界を見に行こうぞ。メル(・・)よ』

「ふふふっ。これからもよろしくね、ノガルド(・・・・)さんっ!」

 


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