「いつからどの程度把握してた?」
屋敷へ走りながら一刀は美花に問いかけた。既に息があがりかけている一刀に対して、美花は涼しい顔だ。スカートを翻さないように走りながら一刀を追走し、主の質問にも笑顔で答える。
「いつから、という問いに関してましては最初からです。ご主人様が甘寧将軍と一夜を共にしたという話は、ご主人様が来られる前から并州にも届いておりました。後で話が拗れる可能性も考慮して、懐妊出産の有無を確認するため人を放っていました」
「子供ができたということも把握してたと?」
「将軍がご主人様と別れてからおよそ半年の時点で将軍が公の場に姿を現さなくなり、暫定的に太史慈様が役目を継いでおられました。孫堅様との鍛錬中の怪我により療養というのが公式の発表でしたが、どの経路からも将軍への接触が果たせず。状況から見て懐妊しているというのが私の見解でしたが確信を持つには至りませんでした」
少なくとも孫呉は地元でさえ思春懐妊出産の事実を公にはしていなかったということだ。洛陽にて北郷一刀と一夜を共にしたという話は広い範囲に広まっているらしい。その上で当事者の女の方が姿を見せないとなれば懐妊の噂くらいは広まるだろうが、大本営であるところの炎蓮が怪我の治療だと言っている以上公にはそういう風に扱わざるを得ない。何しろ江東の狂虎というのは地獄の鬼より怖いのだから。
流石に幹部はこの情報を共有していただろうし、思春と役目を変わった梨晏も当然把握していたことだろう。梨晏と文のやり取りはしていたが、そんな素振りは文面からは感じられなかった。思春の性格と彼我の立場を考えれば当然の判断であり、これを責める気持ちは全くない。
第一、情報を秘匿していたことを責める根拠とするのであれば、美花と近いレベルで情報を知っていて黙っていたであろう軍師たちを先に責めなければならない。黙っていたのは梨晏だけではないのだ。
「今日ここに思春が来てるってことは?」
「孫呉使節が出立の時点で将軍についての報告は所在不明でした。お屋敷の方からは使節の一人が体調不良のため、医者に見せた上で客間で休んでいると報告がありました。監視は二名つけてあります」
それが思春だった、という訳だ。
走りながら一刀は考える。この世界は現代日本に比べて髪色のバリエーションが豊富であるが地域差とでも言うべきか、土地によって身体的特徴に偏りが出る場合があった。孫呉の場合はそれが褐色肌であり、連合軍に参加していた孫呉の幹部には大体この特徴が見られた。
髪の色にしても平民まで含めれば黒髪とそれに類する色が圧倒的に多く、孫呉において黒髪の褐色肌というのは女性としてはかなり平均的な特徴である。思春以外には周瑜と周泰がこれに当たる。
「ちなみに侍女は全員が黒髪の褐色肌でした。心なしか容姿まで将軍に近い者を揃えたように思えます」
「木を隠すために森ごと動かすとは、炎蓮らしい」
屋敷の門に到着すると、一刀は大きく息を吐き出し整える。その間、やはり汗一つかいていない美花が一刀の周囲を動き回り、汗を拭いて髪を梳き身なりを整えていく。脇に引いた美花が小さく頷くと、一刀は門衛に帰宅を告げ自分の屋敷に踏み入る。扉の前には先触れとして全力疾走した黄叙が聊か疲れた様子で待っていた。
「変わりなく。一の客間です」
「ありがとう。美花、人払いを頼む」
「かしこまりました」
主の言葉に、美花は頭を下げた。一の客間は扉を開けてすぐのロビーから奥に入り、最初の十字路を右に折れた場所にある。十字路に差し掛かる前に美花は無言で『散れ』というサインを出すとそれまでの通路と十字路に配置されていたメイドたちが客間とは距離を置くように離れていく。
客間の前で待機していたメイドも同じようにして下がらせると、美花は一礼して自分も十字路まで下がった。
実際、監視の目がゼロになるということはおそらくない。美花やそれに準ずる腕の人間が気配を絶っていたら、北郷一刀にそれを察知する術はないのだ。人払いをしてくれというのは一刀がそういう指示を出し、また美花もそれを受け入れたという客観的な事実を残すためにやっていることである。安全を他人任せにしているのだから、プライベートはないものだともはや受け入れるしかない。
一度深呼吸してからゆっくり、扉を開ける。
思春は寝台の上にいた。白い厚手の装束に髪は結わずに降ろしている。一目見て不健康に痩せていることは解ったが、痩せた思春が物憂げに窓の外を眺めている様は、このような事態にあっても美しいと思わせる色香があった。
酷い男だなと苦笑を浮かべながら椅子を引き寄せ寝台の傍らに座る。思春の視線は相変わらず窓の外を向いていた。幾分細くなった思春の腕には洛陽で揃えた鳴らない鈴のついた飾り紐が変わらず結ばれている。
「述が生まれた時、私は喜んだ。お前との間に天から命を授かったのだと」
「だが、すぐに思い悩むことになった。私と述はお前と孫呉の邪魔にしかならない」
思春の声は力なく揺れていた。
変わらず自分の方を見ないのを良いことに一刀はそっと思春の手を取った。思春の手はそれを振り払おうと動きかけ、止まった。少し強めに握ってもされるがままである。
細くしかし温かな手を握りながら、言葉の続きを待つ。
「お前がこのことを知れば、何を置いてでも私を自分の元に招こうとするだろう。もっと良い条件を得られたのだとしてもそれを放棄し私を選ぶ。お前はそういう男だ」
声の揺れは増していた。怒りで揺れたことは戦場で、情愛で揺れたのはあの晩に。酷く思いつめ一人で悲しんだが故の感情の高ぶりは、それでも身体から溢れ出ることはない。
「そして私がお前の元に行けば、孫呉が後塵を拝することになる。私と述がいるせいで孫呉は得られたはずの地位を得られなくなる」
後から正妻として一族の女を送り込んだとしても、既に相手に子供が生まれている以上その嫁入りにはどうしてもケチがつく。当事者たちは何とも思わなかったとしても周囲までそう思うとは限らないのだ。
ましてその子供を産んだのは、嫁となる女の親友で側近だ。主筋への忠義のために男を斬り捨てることを選んだ思春がどう思うかは一刀にも理解できた。
「何度も述を殺して私も死のうと考え、実行しようとした。だが、刃を持ち述を見るといつも鳴らないはずの鈴の音が聞こえた。頭の中にお前の顔が浮かんで、もう一度、お前に会いたいと、声を聞きたいと思ったら、殺せなかった……」
思春の目から涙が零れる。一人で悩み一人で悲しんだ。今彼女の心の中は様々な感情が吹き荒れているのだろう。愛した人は目の前でそうしている。それを見た一刀は、ただ苦笑を浮かべてできるだけ何でもないことのように言った。
実際それは、一刀にとっては凄く簡単なことだった。
「構わず俺に相談すれば良かったのに」
「言える訳がないだろう!」
荒くれ者を率いた甘興覇とは思えない、力のない叫びだった。感情の思うがまま、ただ身体から出た叫びは、武人でもなく忠義の人でもなく、あの日、あの晩、ただの思春でいた女性のままだった。
あの日、あの感情をあの場所においていったからこそ、思春の時間はあの場所で止まっていた。荒く息を吐き涙を流す思春の頬を撫でる。涙を指で救い、顔を正面から見た。痩せてやつれた顔に、それでもあの日と変わらない瞳が自分を見つめている。
こんな自分を愛してると言ってくれた、この女性を助けるのだ。感情に大きく揺れる思春を前に、一刀は何も迷わなかった。
「何も一人で全部やることはないよ。思春の問題は俺の問題だ。俺たち二人で悩み、二人で考え、二人で悲しみ、二人で喜ぶ。それでいいじゃないか。簡単なことだろ?」
それでも、と何か言い返したかったはずだ。相手を思い、だからこそ一人で戦ったけれどそれが辛くないはずがなかった。会いたかった人の笑顔を見て、言葉が続かなくなり、涙が止められなくなると思春は声をあげて泣き出し、一刀の胸に飛び込んだ。
「でも。思春が本当に苦しんでいる時に一緒にいてあげられなくてごめん。今更遅いかもしれないけど、あの日言えなかった言葉を今ここで言うよ」
「愛してる、思春。結婚しよう」
「…………我が、永遠の、愛しい人。死が私たちを分かつとも」
「我が真名にかけて、永遠の愛を、ここに誓う。ありがとう、一刀。愛してる――」
「今日はお忙しいですねご主人様」
「そういう日もあるさ!」
泣きつかれて気を失うように眠ってしまった思春を孫呉の侍女に任せ、その思春をもらい受けるべく、一刀は今度は庁舎に向けて疾走していた。自分の息切れの音に体力のなさを心底実感する。
「美花はどうやって体力を維持してるんだ?」
「昔死ぬほどやった分の貯金が一つ。後はそうですね……時間よりも密度でしょうか。これからは甘寧様も一緒に暮らすことになるでしょうから、一緒に体力作りなど始めてはいかがですか?」
「あの状態の思春よりも先にバテたらちょっと傷つくかもな……」
冗談のように言いつつも思春より先にバテるという確信が一刀にはあった。この世界でモノが違う女性というのは同じ人間かどうかが疑わしくなるくらいに違う。恋という突き抜けた存在が近くにいるせいで忘れがちになるが、思春もそのモノが違う女性の一人なのだ。
先ほど走っていった有名人が、今度は逆方向に向かって走っている。何だどうしたと周囲の視線が行く時よりも更に集まるが、一刀にそれを気にしている余裕はなかった。
庁舎に戻り、会議室に飛び込む――。
「炎蓮!」
「すげえ! これが軽功ってやつか!」
炎蓮は酒瓶を片手に既に出来上がっていた。彼女が伸ばした腕の上では、恋が片手で逆立ちをしている。いくら江東の狂虎と言えども片腕で人間一人の重量を支えるのは骨だろうが、炎蓮に労した様子はない。片手でスカートを抑えた恋も涼しい顔だ。
双方全く重さというものを感じていないのだろう。シャンや鈴々は口を半開きにして驚いている。虎牢関で死にかけてからちょっと強くなったらしいのだが、元より最強の人間が一段階ステップアップした所で凡人に理解できるはずもない。
強くなったというのは一体どういうことなのか長らく謎だったのだが、どうやらこういうことらしいと恋の実際を見てようやく理解できた。
一刀が入ってきたのを見た恋はひらりと――押さえたスカートの中身が万が一にも見えないように態々炎蓮の腕の上で反転してから飛び降りた。自身に無頓着に見えて本人なりの羞恥心はあるしお洒落にも拘る。一緒に過ごすようになってしばらくになるが、未だに内面がよく見えてこない女性の一人だった。
「よお一刀。俺にも二人目を仕込むのを待つだけの配慮はあるぞ!」
「炎蓮。思春と述を俺にくれ」
「俺はもう隠居した身だ。そういうことは冥琳に言え」
「周瑜殿」
一刀が視線を向けたことで周瑜はようやく視線をあげた。12ラウンド戦い死力を尽くしたボクサーのような姿勢で会議場の隅の椅子に南海覇王を抱えて座っていた彼女の悲壮感は、容姿が整っているだけに半端ではなかった。酒盛りでバカ騒ぎをしていた炎蓮とは光と闇。まるでそういう絵画のような対比に見えた。
「冥琳とお呼びください」
「では……冥琳。孫呉の代表としての君に頼みがある。思春と述を俺にくれ」
「構いませんよ。十分に配慮はしましたが赤子を無理に移動させたのはそのためですからね。こちらの出立に合わせて既に孫呉の方でも選抜は済んでいます。近い内に孫呉ではなく思春についていく、という人間もこちらにやってくることでしょう」
「彼らもこっちで引き受ける。ありがとう」
「礼など不要です。こちらもお願いはありますから」
きたな、と一刀が身構えると冥琳は目配せをした。それまで炎蓮の酌をしていた孫権が衣服を直し、冥琳の隣に立つ。
「現当主の妹御にして先代のご息女、孫権様を正妻として娶っていただきたく存じます」
冥琳の言葉に一刀は無言で孫権の顔を見た。
述のことで静かに怒鳴られた時にも思ったことであるが、炎蓮の娘、孫策の妹にしては穏やかな印象を受けるも、性根の苛烈さは受け継いでいるのか行動と言動の端々に気の強さが見て取れる。一刀が最初に相対した時から持っている『孫呉らしさ』を持った女性だ。
友人のために怒れる人間性も好ましい。何よりあの思春がこの人と思った女性である。
「孫権殿」
「蓮華とお呼びください」
「蓮華さん。貴女からすると非常に不愉快なことではあるかと存じますが、そこは全て――失礼、可能な限り直します。俺と夫婦となり、俺たちを支えてはくれませんか?」
子供ができたと知ってから女性にプロポーズをして返事をもらったばかりのことである。それなのにまた別の女性にプロポーズをするのは酷く不誠実なことのように思えたが、そう思っているのは少数派であるらしい。
偉い人間には配偶者が複数いるものだ。それを当然に受け入れる文化の中で育った蓮華は一刀の言葉を噛みしめるように目を閉じる。
「母から、姉から、臣たちから、友人から。誰から聞く話でも、貴方を悪く言う人間は一人もおりませんでした」
「何より、私は貴方に嫁ぐのだと母と姉が戻ってきた時から覚悟していました。その貴方が、私の親友のために走り心を砕いてくれたこと、とても嬉しく思います」
「北郷一刀殿」
「喜んで、貴方の妻となります。思春共々、どうか幸せにしてください」
人生の節目。感動的な場面に酒臭い空間にも静かに拍手が広がっていく――。
「つまりお前らは今この時から夫婦ということだな!」
そんな和やかな雰囲気を完膚なきまでにぶち壊したのは酔っ払いの無遠慮な笑い声だった。がははと笑いながら、もはや酒臭さが雰囲気となってしまった炎蓮がばしばし背中を叩いてくる。
完全に酔っているようにも見えるが口数が増えて少し陽気になった程度で、これくらいならば平常運転だ――と悟りきった表情の黄蓋と、頭痛を堪えるような蓮華と冥琳が無言で語っている。
さっさと何とかしなければと一刀が向き直ると、しかし炎蓮はひらりと踵を返した。
「孫はさっさと仕込めよ! じゃあな!」
と足音高く炎蓮は消えて行った。酔っ払いというのは勝手な生き物だと理解していたつもりだったが、今日ほどそれを実感したことはなかった。
「機嫌が良いようだからな。今から翌朝くらいまでは場所を変えつつ飲み続けるじゃろう。儂は供をしてくる。北郷殿、我らの蓮華様をどうかよろしく頼みます」
一礼して、黄蓋は足早に炎蓮を追っていった。遠くに炎蓮の笑い声がまだ聞こえる。機嫌が良いというのは本当のようだった。
「仕切り直しましょう。細かい話はまた明日ということで」
「炎蓮は……」
会議に参加させるのか、という意思を確認すると冥琳は苦り切った顔で首を横に振った。
「甚だ不本意ではありますが既に炎蓮様は孫呉を離れそちらに移った身です。貴方に参加させる意図がないのであれば、こちらから参加を促すことはありません」
暗に頼まれても連れてきてくれるな、と言っているのは一刀にも理解できた。決定権はないのに影響力はある人物など、冥琳の立場からすれば邪魔でしかないだろう。
「俺としては当面は、并州の料理と酒を堪能していてほしいと思う」
「全面的に同意します。明日こそは有意義な話し合いをしましょう」
力ない笑みを浮かべた冥琳と握手を交わすと、彼女は疲れた様子で宿舎の方へと戻っていった。会議をする雰囲気ではないと早々に察したのか、こちら側の軍師たちは既に姿がない。いるのは武官ばかりで、お開きとなった会場を皆で片付けている――ふりをして霞などは炎蓮が置いて行った酒瓶をこっそり回収しているが、それは見なかったことにした。
さて自分はどうするか、と横を見ると同じく手持無沙汰だったらしい蓮華と視線が合った。
今日あったばかりで、親友のために怒り、そして今さっき自分の妻となった美少女は、夫となった男の視線を受けて勝気に笑ってみせた。
「では、旦那様? 新居に案内していただけませんこと?」
走って一往復した屋敷までの道のりを今度は蓮華を伴ってゆっくりと歩いた。既に孫呉の姫と結婚したという話は伝わっていたのか、すれ違う人々から祝いの言葉を贈られる。街の人々に妻となった蓮華と一緒に笑みを返し手をふり、本当に自分は有名人なのだなと実感しながら走った時以上に疲れた気持ちで屋敷の門を潜った。
夕食時であったこともあり、軽い食事を済ませてから食堂で一刀は蓮華と向かい合った。食卓を挟んで向こう側には蓮華と孫呉からやってきた侍女たちがいる。黒髪に褐色肌。確かに皆思春にどことなく似ている気がする。これが蓮華の後ろに五人。思春と述の方にも五人いるから蓮華の侍女は今いるだけで十人ということになる。
こちら側には美花を始めとした元からここにいた侍女たちが並んでいる。美花に黄叙と、管理職の侍女が三人。本当はもっといるが相手の数に合わせた形だ。
式は後でやるにしても、今日から蓮華はここで暮らすことになる。まず最初に、夫として家長として決めておかなければならないことがあった。
「僭越ながら、組織の再編をする必要があるかと存じます」
切り出したのは一刀の意を受けた美花である。
「まずお屋敷での差配は奥様である蓮華様がなさるべきです。屋敷を維持するもの、警備をするもの、財産を管理するものなど、可能な限り奥様の意に沿う形で再編する必要がありますでしょう」
「貴女たちにお任せする、という訳にはいかないのよね?」
「オススメはできません。元の所属に起因する派閥ができることには思うところがないではありませんが、ことはご主人様のお家に関わるお話。本人方の意思と形式を最優先にすべきかと」
「美花の話をそのまま採用すると蓮華は家庭に入るってことになる訳だけど、そこに問題はないか?」
連合軍で一緒になった時、孫呉の本拠地に置いてきたという真ん中の娘の話は炎蓮から何度か聞いたことがあった。自分の娘とは思えない程穏やかな性格をしているが、それでもめげずに鍛錬をしたり、政の差配をしたりしていると。結婚を理由にそれらの仕事を手放せというのは身勝手なことのように思えた。
美花の言葉ではないが、本人の意思を尊重するというのであればまずは蓮華の意思を確認するべきだ。おそらく政なり軍務なりに関わり仕事をしたいのだ、という予想で一刀は問いかけたのだが、蓮華は苦笑を浮かべて首を横に振った。
「問題ないわ。一年前なら結婚したからと言ってと反発したでしょうけれど。今は家庭に入って夫を支えるのも素晴らしいことと思えるの」
述のおかげね、と蓮華が付け加える。江東の狂虎の娘とは思えない程、その表情は穏やかで優しい。
「お屋敷の侍女を私中心に決め直すとして、今まで働いていた貴女たちは?」
「今までお家の仕事とお仕事の補佐を兼務していただけですので、お家の仕事を奥様が差配なさるのであれば、我々は侍従としてお仕事の補佐に回りますのでご心配には及びません。私と璃々――そこのポンコツのことですが、の他に何人かこちらに詰めることになるかと思いますがそこはご容赦ください」
そうと蓮華はさらっと流したが後ろの侍女たちの反応は微妙に渋いものだった。お家の組織体系に組み込まれないのに屋敷に逗留するというのが一つ。孫呉の人間が公務に入り込む余地が少なくなったというのが一つ。
蓮華も侍女の不満は理解しているのだろうが、急にやってきた人間に場所をあっさり明け渡した時点で、美花の立場からするとかなり譲歩している。これ以上譲歩を要求すれば、主人の公務を補佐している人間と拗れることになる。
努めて、蓮華が侍女たちの雰囲気に気づかないふりをした。
「警備も再編することになりそうだな」
「それは思春が元々率いていた部隊がまるごとこちらに来ることになっているから、彼らが合流してからにした方が良いわね」
「全部で何人いるんだ?」
「兵として三百。兵としては一線を退いている者が百の合わせて四百。兵でない方は船大工や船頭として腕の立つものばかりよ」
「うちにはいなかった人材だな」
水運に力を入れたいと灯里が言っていたからちょうど良いだろう。船が増えるのであればそれを取り締まる人間も必要になってくる。兵でない人間は、そういう連中の調練にも相応しい。
「ご主人さまの直属兵と合流する部隊を合わせて『親衛隊』とし、団を率いていた時のように分割して運用するのがよろしいかと。元の所属ごとに部隊を分ければ混乱も少ないかと存じます」
「そうするのが良いかな。具合が良くなったら思春とも相談してみるよ」
さて、と話がまとまったと感じた一刀は椅子から立ち上がり笑みを浮かべた。
「この屋敷には浴場もある。長旅の疲れを癒やすと良い。奥方用の部屋が元々あるから、蓮華は当面そこを使ってくれ。部屋割についてはこちらの引っ越しが済んでから……と言いたい所ではあるけど、現状部屋は余ってる。侍女の皆々については好きな部屋を好きなように使ってもらいたい。ただし、後のことも考えてな」
「庁舎に戻るの?」
「昨日までと事情が大分変った上に会談の予定が伸びたから、その打ち合わせをしてくる」
軍師たちが早めに消えたのはそのためだ。新婚であるというのはあちらも理解しているだろうから多少待たせても怒りはしないだろうが、すっぽかしたら何を言われるか解ったものではない。一刀の足は既に出口の方に向いていた。美花がそれに続き、黄叙も続こうとしたところで蓮華が椅子から立ち上がり、一刀にぱたぱたと駆けよった。
何かあるのか、と一刀は蓮華に向き直るが彼女は中々言葉を切り出さない。首を傾げると、意を決した蓮華が声を張り上げた。
「行ってらっしゃいませ。きをつけてね……あなた」
気恥ずかしいらしく頬を朱に染めて俯く蓮華に、悪戯心の沸いた一刀は蓮華を軽く抱きしめると小さく悲鳴をあげた蓮華の耳元に顔を寄せた。
「ありがとう。行ってくるよ、蓮華」
蓮華を放し、踵を返す一刀に美花と黄叙が続く。一刀側に立っていた侍女たちも退出し、後に残されたのは孫呉組だけとなった。頬に手を当て、一刀の消えた扉を眺める主の姿に先行きに不安を感じていた侍女たちはほっと胸を撫でおろした。
稟たちとの調整を終えて屋敷に戻ってきたのはぎりぎり日付の変わる前のことだった。小腹が空いたので厨房に顔を出すと、孫呉からやってきた侍女が厨房の中であれこれ作業をしていた。
実は屋敷には調理専門のスタッフというのがおらず、今までは美花たち侍女隊の面々が食事を作っていたのだ。家人のものだけであればそう手間でもないが、侍女や使用人、警備の人間の食事もここで作ることになる。仕事は地味に多いのだった。
一刀の姿に気づいた侍女が慌てて姿勢を正すが、仕事の邪魔をするのも本意ではない。一度断ってから饅頭を一つ取ると、それを口に咥えて廊下を歩く。
美花と黄叙は部屋を空けるための段取りを整えているところだ。引っ越しなどすぐにできるものかと思ったのだが、輿入れは早々に起こるものとして物件の準備だけは進めていたらしい。ほとんどの人間が住み込みから通いになるのだが、住環境についての不満はないようだった。
黄叙以外の人間は元々メイドが副業のようなものだ。根を張る暇もないほどあちこち飛び回って足で仕事をしていたことを考えれば、決まった場所に決まった時間に帰ることができる今の環境は天国のようなものだそうだ。
不満がないのであればそれは良いことだ。明日も早いし今日はさっさと寝よう。饅頭を飲み込み部屋の扉を開けると、これから飛び込もうと思っていた寝台に夜着姿の美少女が腰かけていた。
「待ちくたびれたわ、旦那さま」
にっこり微笑んだ蓮華は無言で『脱げ』という仕草をする。さっさと寝かせてはくれないらしいと悟った一刀がしぶしぶ上を脱ぐと、蓮華は寝台脇の机の桶で布を絞って一刀の身体を拭いていく。その後、乾いた布で身体を拭くと一刀にも夜着を着せて小さく頷いた。
「できるだけ身綺麗にしないといけないわよ」
「疲れてる時はそっち優先……ていうのは物臭なのかなやっぱり」
「褒められたことではないわね。今まではどうしてたの?」
「言われてみれば何だかんだ部屋に入る前に誰かに捕まってた気がするな」
「皆私と同じ意見なようで安心したわ」
さて、と蓮華は一刀を寝台に促し、自分もその隣に腰掛けた。流石にこの段になってくると一刀にも蓮華の用向きは理解できたのだった。気恥ずかしいのか、視線を床に彷徨わせながら蓮華が呟く。
「式も何も挙げてないけど今日夫婦になったのだから、今晩が初夜でしょう? ならすることは決まっているわ」
「そりゃそうなんだけどさ……」
この寝室に入って蓮華の姿を見るまで一刀は今日が初夜であることを忘れていた。色々なことがありすぎて、眼前の美少女と夫婦になったのだという実感がまだ湧いていないというのもあるが、一人で子供を生み苦悩していた思春が近くにいるのに他の女性を貪るようなことがあっても良いのものかと、男としての本能を同じく男としての倫理が妨げていた。
同時に、この装いで蓮華がこの場にいる以上、何もしませんでしたで収まらないとは一刀も理解していた。初夜を過ごすためにやってきた蓮華に手をつけずに寝室から追い出すなど論外であるし、一晩過ごして何もなかったというのもお互いの沽券と今後に関わる。特に嫁いできた側である孫呉の面々は問題視するだろう。
全員の取り分がなるべく多くなるように。現代にあって個々人の人間関係でさえ面倒臭いと思うことがあったのに上に立ってみると更に面倒臭く感じる。
最初からいた者、後から加わったもの、水鏡女学院の出身者、并州の出身者、後ろ暗い経歴のある者、ない者。諸々の属性の中に今後は孫呉が加わる。それは数としては決して多くはないが最も無視できない勢力になるだろう。
今までは自分だけで済んでいた話に、今後は子供とその母親、更にはその実家まで関わってくる。全く胃の痛くなる話である。
「貴方と思春が一夜を共にした下り。色々な噂が立っているのだけど、大抵は貴方から誘ったのだと間違った内容が広まっているの。誘ったのは思春の方からでしょう?」
無言で一刀は蓮華を見た。何故それを、とこれ以上ないくらい顔に書いてでもあったのか、蓮華は口元を抑えて上品に笑う。
「思いつめたあの娘なら、絶対に自分から誘うに決まってるわ。母様辺りに助言を求めて、自分で誘う言葉を考えるの。『今宵一晩、私の全てを貴方に捧げます』って、あの娘にそんな言葉を言われたらどんな殿方もその気になるでしょう」
全てを本人に聞いた上でからかっているのでは、と一刀は真剣に考えたが、思春の性格からしてあの晩の口上について口を割るとも思えない。いくら主筋である蓮華相手でも、断固として隠し通すだろう。
ならば蓮華の言葉は本人の言った通り完全に推測ということになるが、ほぼ正解を言い当てていることに覚えた本能的な恐怖を強引に押し込む。相手をよく見ているが故の判断である。それを怖いなどと言ってはいけない。
「同じ女として中々見事だと思ったものだけど、それだけに私も負けていられないの。私はあの江東の狂虎と呼ばれた孫堅の娘。閨のこと、親友相手とは言え遅れを取る訳にはいかないわ」
「何もそこで勝負しなくても――」
言葉を遮るようにして寝台から立ち上がった蓮華は、一刀に向き直ると夜着を床に落とした。
その下には生まれたままの姿が――ということはなかった。この時代の技術を極限までつぎ込んだ、どこまで薄くできるのかの限界まで挑んだ生地で作られたその衣装は、その下にある蓮華の身体を何も隠してはいなかった。
身体が熱くなり、血が勢いよく身体中を巡っているのが実感できる。冷静になれと自分に言い聞かせても、視線は蓮華の身体から離れない。
よく誤解されるが北郷一刀というのは性欲がない訳ではない。それ以上に優先することがあるから抑え込むことができているだけで、実際には一般的な男性の平均よりも性欲は強めである。
結婚したばかりの妻と初夜を迎えて、そっちもその色なんだなと下世話な感想を抱くのは無理からぬことだった。
完全に動きを止めた夫に、蓮華がしな垂れかかる。柔らかな感触と熱すぎる体温。
そして少女らしい甘やかな匂いと生々しい汗と香油の香りの中、蓮華は耳元で囁いた。
「旦那さま」
「私もかわいい赤ちゃんほしいの」
「おねがい――」
「は ら ま せ て」
追記
当初はもう少しエロ度高めの展開で最後の五文字も『めしあがれ』でしたが↑のようになりました。