「遅れまして。私は荀攸。字は公達と申します。叔母を助けてくださったそうで、ありがとうございました」
劉姫の後に、家主である荀攸が一歩前に出てくる。自己紹介をするまでもなく、一刀は彼女がそうであるというのは理解できた。それくらいには、荀彧や荀昆と風貌が似ている。ただあちらの二人と比べて荀攸は大分穏やかな雰囲気をしている。
宮廷で仕事をしているのだ。もっとデキる女といった堅苦しい雰囲気をしていると思っていたのだが、良い意味で裏切られた形である。
「行きがかり上当然のことをしたまでです。それに荀昆殿を始め、荀家の方々には良くして頂きました。俺の方が申し訳ないくらいですよ」
「そう言っていただけると助かります。叔母は私達が無理に袁紹を勧めたせいで苦労をしたようなので、北郷殿と気心の知れたやりとりができて、大分気が晴れたと思います」
「彼女の助けになれたのなら、何よりです。荀彧は、元は袁紹のところに?」
辞めてきたばかりで、元々袁紹のところにいたという話も聞いたような気はするが、本人が死ぬほど嫌そうな顔をして語りたがらなかったため、元の仕官先についての情報はまるでなかったのだ。袁紹と言えば本人の能力はともかく名門の出身で、今から天下取りの競争をするとしたら最も天下に近い位置にいる人間だと聞いている。
親戚一同が薦めるのも分かるし、あの荀彧が主人の悪評を差し引いてまで一度は首を縦に振ったのだ。更にこれから乱世になるとなれば、仕官先としては本当に悪いものではないのだろう。結局辞めてしまったのは、荀彧とは反りが合わなかったのか。それとも彼女に『こいつではダメだ』と見限られたのか。
「はい。仕官先としては申し分ないと判断し勧めたのですが……アレならば最初から曹操殿を勧めれば良かったと後悔しております」
溜息の度合いは深い。本当に後悔しているのだろう。誰に聞いても傑物だという話の曹操よりも、その誰に聞いても溜息を吐かれる袁紹にこそ興味が湧いてきた一刀だったが、誰に対しても聞ける雰囲気ではなかった。
「北郷殿は、旅をされるおつもりだとか。これから南に?」
「はい。洛陽に少し滞在の後、南を回ってみようと思います」
「僕が学院に戻るまでの間は、護衛を兼ねて一緒にどうだいって誘ってた所さ」
「そうなの? 元直が一緒なら安心ね」
「お褒めにあずかり恐悦至極にございます」
徐庶は印籠を見せられた悪代官がするように、へへーと畏まっている。『さる高貴なお方』とは聞いていたが、これは想定以上に高貴なのかもしれない。身分権力が現代以上に物を言うこの世界で、人をこれだけ畏まらせるというのは一体どれほど偉い存在なのだろう。
実感できれば良かったのだが、生まれてこの方尊い生まれの方と縁のない生活をしてきた一刀は、偉い人と言われてもぴんとこなかった。おそらく徐庶のするような態度が正しいというのは分かるのだが、目の前にいるのは一刀にとってはただのちょっとおしゃまな美少女である。
それが態度に出ていたのだろう。劉姫の興味が一刀に向いた。一瞬、荀攸がしまったという顔をしたが止める間もなく、劉姫は一刀との距離を詰めてきた。
「一刀くん、お願いがあるんだけど聞いてもらえるかしら」
「内容に寄りますが……なんでしょうか」
「貴方さえ良ければ私とお友達になってもらえる? 気心のしれた間柄というものに、ちょっと憧れていたの」
「へい――伯和様。お戯れが過ぎます」
「あら、先生。私にお友達ができたらいけない? 私ももうすぐ十になるのよ。もう少しすれば子供だって産めるようになるわ。褥を共にする時、殿方に『物を知らない女だ』なんて思われるなんて嫌だもの。色々な人から知識を吸収するのは、悪いことではないと思うのだけど、違う?」
嫌だわ、と言われても教師は困るだろう。そういう風にならないために教師がいる訳だが、荀攸が教えるのは一般常識まで含めた教養全般である。庶民の間には風習としてそういうことがある、というレベルであれば劉姫もそれは理解しているが、彼女の生まれでは実際にそういう場面に遭遇することはまずない。
いずれ褥を共にするという人間も上流階級の出身の男性になるだろうし、その彼もきっと庶民に関する風習を実感はしていないはずだ。出自の不確かな人間と無理に交流を持つ必要はない。ついでにこんな利発な少女を相手に『物を知らない』などと思う男はいないだろう。それは一刀でも実感できる。
「いけません。彼が帝国の臣民である以上、貴女は敬意を持たれる存在でなければなりません」
「彼は帝国の臣民ではないよ、荀攸殿」
「…………今なんとおっしゃいました?」
「東の島国の出身らしいよ。何の役職にもついていないし、今はただの旅人のようだからどこの臣民かと言えば故郷の国の臣民なんじゃないかな」
「先生?」
劉姫の言葉に荀攸が押し黙る。他の国の人間だからと言って彼女に礼を尽くさなければならないことに代わりはない。彼が立っているのはこの国の地であり、ましてこの洛陽は首都である。貴い血筋に生まれた人間は、ただそれだけで偉いのだ、という理屈はこの国の根幹に根差している。
ここで一つを見逃すことはとても小さいことかもしれないが、本来、見逃されることなどあってはならないのだ。国に仕える人間として、劉姫の申し出は簡単には受け入れがたいものだったが、自分の教師のそういう性質をよくよく理解している劉姫は更に言葉を重ねた。
「特別に便宜を図ったりはしないわ。そんなもの、持ち込ませないし持ち込まない。私が彼を友人と思い、彼も私を友人と思う。そういう関係を築きたいの。本当にそれだけだわ。本当よ?」
真摯な劉姫のお願いに、荀攸がついに折れた。
「解りました。外に持ち出さないと仰せであれば、もはや私に否やはありません。よくよく、友誼を結ばれるがよろしいでしょう」
「ありがとう、先生。私、先生のこと大好きよ」
「調子の良いことを仰られても、これ以上譲歩したりはしませんからね」
「解ってるわ。私は基本的には、良い子だもの」
自らの野望に対し、最大の障壁となっていた荀攸を黙らせると、劉姫は笑みを浮かべて振り返った
「そういう訳で、今から私と一刀くんはお友達よ。対等な感じでお話ししてほしいわ。あと、私のことは伯和って呼び捨ててね。絶対よ。お友達だもの」
ほらほら呼んでみて、という劉姫に釣られて伯和と呼び捨てると、彼女は嬉しそうに大きく頷いた。念願叶ったという風である。名前一つで、と思わずにはいられないが、家庭環境というのは人それぞれである。伯和には伯和の家庭の事情というものがあるのだろうと、一刀は納得することにした。
同時に、伯和の後ろで彼女が伯和と呼び捨てにされる度に、お腹を押さえて苦しそうにする荀攸のことは見ないことにした。こちらはこちらで立場があるのだろう。その苦しみは理解できなくもないが、特に子供のお願いというのは世の中の何よりも優先されるのだ。
荀攸の苦しみを知ってか知らずか、伯和はまるで他には誰もいないかのように一刀の手を取り、応接椅子に座らせた。そこが指定席だと言わんばかりに、当たり前のように隣に座る。それで何をするのかと言えば、伯和がしたのは一刀に話をせがむことだった。
教育係の反対を押し切ってまで作った友達と最初にすることが、お話という。一体どれほど友達が少ないのか。一刀の思う友達らしいことなどしてあげられそうにないが、少なくとも、ここで彼女と向かい合っている間は彼女の要望に応えてあげようと思った。
せがまれるままに、話をする。と言っても、するのは故郷の話ではなくしばらく前、荀家に滞在していた時の話だ。実感の籠った苦労話は利発な少女に大層受けが良く。一刀君のおばかさん、という軽い罵倒を交えながら和やかに進んでいった。
最初はどうなることかとはらはら見守っていた荀攸も、今は力を抜き徐庶と並んで向かいの応接椅子に座っている。
「一刀くんは知ってるかしら? 一年くらい前に予言が流行ったのよ。天の国から御使いが現れて、この国を正しい方向に導いてくださるって」
伯和はにこにこしているが、他の二人はどんよりとした顔をしている。この話題を聞いていたくないと顔に書いてある二人に、伯和は気づきもしない。
「それは、この国的には不味いんじゃないかな? そうなると今の皇帝陛下の立場がないだろ」
どういう理由でその予言が発せられたかに関わらず、人の口を伝わり世に広まった以上、最終的な内容には少なからず人々の願望が含まれているはずである。彼ら彼女らは既に、国が自分たちを救ってくれるとは信じていないのだ。現代と違って、権力者の権力は絶対だ。
流行ったのが一年前ということは、既に沈静化しているのだろう。体制側が火消しに走ったのか、民衆が単純に飽きてしまったのか。いずれにせよ、誰もがこれから乱世に突入する気配を感じている現状、御使いはまだ現れていないに違いない。
とは言え、仮に御使いが既にこの地に舞い降りていたとしても、私がそうですとは名乗りにくいだろう。自分の立場に置き換えてみても、誰の後押しもない状態で、名乗り出たりはしないはずだ。
「別に気にしないと思うわ。予算が浮いたって喜ぶんじゃないかしら」
「随分現実的な皇帝陛下だな……自分が追われるかもしれないんだぞ?」
「誰もが意に沿った立場にいる訳じゃないと思うの。皇帝陛下だって、そうだと思わない?」
「…………伯和が言うなら、そうじゃないかって気がしてくるよ?」
「そう? きっと私の高貴さがそうさせているのね」
ふふ、と伯和は嬉しそうに笑った。
「一刀くんは、予言って聞いたことある?」
「あんまり聞いたことないな。俺が生まれる前は、空から恐怖の大王が降ってきて世界が滅ぶって予言が流行ったらしいけど」
「…………その予言は一体誰が喜ぶの?」
「一部の人は凄い喜んだって聞いてるよ。後は大昔の王様が魔法使いからこんな予言を聞いたらしい。『お前は女の股から生まれた者には殺されないだろう』って」
一刀が期待していた反応は『それじゃ無敵じゃない』という無邪気な反応だったのだが、伯和は少しだけ視線を彷徨わせると、あっさりと答えた。
「お腹を切開して生まれた人に殺されたんじゃない? 事例は少ないけど、そういう生まれ方もあると聞いたわ」
「…………こんな予言もあるぞ。森が動かない限りお前は安泰だ――」
「ねぇ先生。木々や葉っぱの被り物をして夜間に皆で移動したら、森が動いているように見えるかしら」
「伯和様。その辺りで勘弁して差し上げたらいかがですか? 一刀さんが表現に困るような面白い顔をされてますよ」
「だめよ。もっとこういう顔をさせてみたいわ。初めてできたお友達だもの。もっと色々な顔を見てみたいの。さぁ一刀くん。私に凄いって言わせたいようだけど、何かとっておきのお話はないかしら」
次を促してくる劉姫に、一刀は考えた。先ほどの二つも何となく思いついたもので、元々温めておいた話ではない。話の上手い人間ならばこういう時に披露できる笑いの取れる話の一つや二つくらいは用意しているのだろうが、そうでない一刀にとっておきの話などない。
だが、伯和は期待に満ちた目でこちらを見つめている。そんなものはないと言えない雰囲気に、一刀は無理やり記憶の奥から話を捻りだした。
「一応確認だけど、体制を批判するような冗句ってアリなのか?」
「他ではどうか知らないけれど、私が認めるわ。好きな話をしてくれて大丈夫よ」
「助かるよ。さて……ある男が、皇帝陛下が物乞いにお声をかけているのを見た。どうしても皇帝陛下と話がしたかった男は、翌日物乞いの恰好をして通りで待った。すると狙いの通り、皇帝陛下が近くにいらっしゃった。どんな言葉をかけてくださるのだろう。期待に胸を膨らませる男に、皇帝陛下はおっしゃった」
「昨日、とっとと失せろと言ったはずだが理解できなかったようだな」
この冗句に特に思い入れがあった訳ではない。追い詰められて最初に思い出したのがこれだったから口にしただけだが、この国では不味いんじゃないか、というのは披露してから思った。
荀攸など過呼吸を起こしかけて、徐庶に介抱されている。それだけ貴い立場の人を扱うのは冗句でも難しいのだ。これからは冗談でも言わないようにしようと反応のない隣の劉姫を見れば、お腹を抱えて俯いていた。
貴い身分であるという。気でも悪くしたのだろうかと顔を見れば、涙を流しながら声を押し殺して笑っていた。大受けである。
「…………ち、巷にはそんなに面白い小話があるのね。初めて聞いたけど面白かったわ。でも、私の前以外でそういう話をしたらダメよ。皆が私みたいに冗談を理解してくれるとは限らないんだから」
「気を付けるよ、本当に……」
最初は最後にするのは小話ではなくモンティ・ホール問題というらしい確率論の話だったのですが、分かりやすい小話に差し替えました。何しろ私が理解できないもので……
この後、2、3日滞在して徐庶さんと色気のないデートをしたりしましたが無害です。
特に何も思い浮かばなければ次回から村編になります。