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コルセイトは夕暮れで染まり、さて今日の業務ももうひと踏ん張りかと思い始める頃。
「ふぅー。ただいま」
俺は汗だくになりながら、ようやく、アトリエに戻った。アトリエの中も、もう薄暗い。まだ灯りは必要ないが、すぐに恋しくなりそうだ。
「お疲れ様です、ロジーさん。はい、どうぞです」
俺がアトリエに入ると、エスカが綺麗なタオルを渡してきた。事前に用意していたのだろう。本当にありがたい。
「サンキュー、エスカ」
「いえいえ」
俺はそのタオルで髪の毛の汗を軽く拭う。汗を掻きにくい体質だと自分でも思っていたが、今日は例外になったらしい。
つい先ほどまで、俺は気球発着場の大修理と大改装を手伝わされていた。十日ほど前から始まった大工事で、「コルセイド内で手が空いている男手は即動員」という号令が掛けられるほどの、本当に大規模な物だった。
それも今日で終わり。
ということで、俺を含め、作業していた皆が気合を入れた。結果、全員が全員――俺ももれなく、全身汗だくになったのだった。気温も昨日より随分と高くなったし、仕方ないことだろう。
心地いいタオルで、今度は頬の汗を拭う。直後、タオルの通った後を追うように、ピリリと肌に電気が走った。どうやら日に焼けたようだ。まぁ、今日は陽射しも強かったし、これも仕方ないか。
気を付けながら頬を拭い、俺はソファーに腰掛ける。
さすがの俺でも重労働だと感じる作業量だったようだ。座った途端に、足が重く感じられた。
「冷たい飲み物も用意してますよ、ロジーさん」
「本当か、エスカ。今日はなんだか気が効くな」
「いえいえ♪」
エスカがしっぽを振りながら、飲み物を取り行く。すぐに、硝子と氷が涼しげな印象を与えるグラスを手にして戻ってきた。
「はい、ロジーさん。特性アイスアップルティーです!」
「ありがとう、エスカ。……ん。うまいな、これ」
「えへへ、そうでしょそうでしょ」
「これ、エスカが作ったのか?」
「はい! 冷たくてもリンゴの風味を出るように、少し工夫しました!」
「すごいな、よくできてるよ。んく、んく……ふぅ。ごちそうさま、エスカ」
一息吐くと、ようやく終わったという実感が湧いてきた。今日は疲れ果てたので、正直、もう仕事をしたくない。もはや帰宅するのも億劫に感じて来ている程だ。
俺は首筋に流れてきた汗を、再び拭う。痛みがあるので、ここも日に焼けたらしい。痛がるのはなんとなく格好悪く思えるし、俺は痛みを顔に出さないように、慎重にタオルを滑らせる。
「じー……」
俺が慎重に汗を拭いていると、エスカが俺に視線を投げ掛けていることに気が付いた。
「どうしたエスカ。俺の顔に何か付いてるか?」
「あ、いえ、そうじゃないんです。ただその、ロジーさん、日に焼けてるかなって」
見て分かるほどなのか……。悟られないようにしていたが、バレては仕方ない。
「実はさっきからひりひりしてたんだ。風呂に入る時は気を付けないとな」
俺は苦笑いを浮かべる。言ってから気が付いたが、今日の風呂は地獄になるかもしれない。こんなにひりひりする日焼けは、初めてなのだ。
「塗り薬あるので、持ってきますか?」
「お、本当に今日は気が効くな。だったら貸してくれるとありがたい」
すると、エスカは突然何かを閃いたようで、人差し指をピンと立てた。彼女の表情は、とても生き生きとしている。
「あ、じゃあ、私が塗ってあげますよ!」
「エスカが? いや、いいよ。自分で塗れるって。それに、エスカはまだ仕事があるんじゃないのか? こんな時間まで残ってるんだし」
「今日のお仕事はもう終わってますから、心配しなくても大丈夫です! 遠慮せずに、私に任せてください!」
「そうか? ……まぁ、エスカがそこまで言うなら、お願いしようかな」
「はい! 任せてください!」
エスカがコンテナへと駆ける。ソファーからでは後ろ姿しか分からないが、塗り薬を持ってこちらに来るまで、終始エスカのしっぽはご機嫌に揺れていた。触りたい衝動は、今日は疲れによって掻き消されている。
エスカが戻ってくると、その手には、小さな手鏡程の大きさで可愛らしい装飾が施されている容器が握られていた。
「えっと、どこがひりひりします? って、ロジーさんの顔真っ赤ですから、聞かなくても分かるんですけどね」
「そんなにか」
言われて、俺は少し恥ずかしくなった。黒く焼ける分にはいいが、赤くなると、酔っぱらったみたいに見えてしまうのではないだろうか。
「はい、そんなにです」
エスカは笑顔で答えながら、容器を近くのテーブルに置いた。そして、白いクリームを手に乗せる。
「それじゃあ塗ります。じっとしてて下さいね?」
「ああ」
薬を塗ろうと、エスカの手が近付いて来る。
……ち、近い。
いや、これは不味いんじゃないか。色々と。特に、目のやり場に困った。
エスカは前屈みになって、俺の日焼け――あくまでも日に焼けた部分をじっと見つめている。俺は、エスカを見つめ返すわけにもいかず、かといって視線を下げるとエスカの……その、さ、鎖骨あたりに目がいってしまう……。俺だって男なんだ。
俺は右に左にと視線をさまよわせながら、なんとかそれらを回避していった。
……というかこれは、こんな事をせずとも、自分で塗ればいい話じゃないのか?
「エ、エスカ。やっぱり自分でやるよ」
「えー。ちゃんと塗ってあげてるじゃないですか。もう少しの辛抱です……あ、それとも、痛かったですか?!」
「い、いや、そうじゃないんだが……」
エスカは、俺がエスカの処置に対して不満を抱いたと思ったのだろうか、より一層ゆっくりと薬を塗っていく。かなり優しい手つきで、右頬を撫でられた俺は、そのこそばゆさを我慢するのに必死だった。
右頬はひと通り終わったのか、エスカが一度離れる。彼女は再び白いクリームを手にして、俺の目の前に立ち、同じ姿勢で左頬を攻め始めた。
右頬と同じように、優しく、ガラス玉を磨くように、丁寧に……、
「もう少しですから、我慢して……くだ、さい……ね……」
……ん?
急に、エスカの手が止まった。
俺は怪訝になって、目のやり場に困っていた目線をエスカの顔の方に向ける。と、エスカは真っ赤になって静止していた。どうやら、エスカもお互いの姿勢が不味いことになっていると、意識したようだ。頬がほんのりとしたリンゴ色になったエスカは、とても可愛いらしい。一見すると、俺とお揃いで日に焼けたようにも見える。
それがなんだか微笑ましくて、俺は少し笑ってから、エスカをもう一度説得した。
「ほらエスカ。もう自分で塗るから、薬を貸してくれ」
「……」
「エスカ?」
反応が無い。ボーっと、朱に染まる頬のまま、彼女は俺の目をじっと見詰めて止まっている。
不思議に思って俺もエスカの目を見ていると、エスカが近付いているような錯覚が起った。……いや、間違いなく近付いてる。明らかに、さっきよりも、エスカの熱が近い。
「ちょっとエスカ、近いって」
「……」
頬に優しく添えられていたエスカの右手は、いつの間にか俺の頭を固定する役割に変わっていた。小さな手は熱を持ち、触れられたところがやけどをするのではないかと一瞬考える程だったが、そんなことはすぐに霧散する。とにかくなにより、エスカの眼から、目が離せない。エスカの小さな右手だけで、俺は逆らえなくなってしまう。
エスカの影が俺を覆う。
吐息が熱い。
お互いの体温が、まるで溶け合っているように感じる。
「お、おい、……待てって、エス――」
やがて、二人の距離が零になった。
――どれほど、俺たちは時を止めていたのだろうか。
いつの間にか、アトリエには薄闇が広がっていた。明かりが欲しくなったので、俺はソファーの横にあったランプを点ける。柔らかな火はそのまま、薄紫のアトリエを橙色に変えた。
「あ、あの、ええっと、その……すみま、せん……」
「い、いや、俺の方こそ……。嫌じゃなかったか?」
「イヤだなんてそんな……キスしたくなったの、私の方、ですし……。ロジーさんの方こそ、嫌じゃ、ありませんでしたか?」
「嫌なわけないだろ。俺だって、その……エスカと、したく、なったんだよ……。そもそも、こういうのは、男が自制するものだと思うし……その、ごめん」
「あ、謝らないでないで下さい……」
会話が途切れ、互いに沈黙する。窓の向こうにも、静けさが広がりつつあるようだった。俺が帰ってきた頃はまだ騒がしさがあったように思えたが……気が付かないうちに、それほどの時間が経過していたのだろう。おかげで塗り薬は、漏れなく塗れた。日焼けの痛みはない。俺の心臓は、未だ、痛いくらいに落ち着いていないが。
「そ、そうだ、エスカ!」
「ひゃい!」
紛らわすように、俺は話題を作ろうとする。といっても、元から気になっていたことを、エスカに聞くだけだ。
「今日の仕事、もう終わってたんだよな? なんで残ってたんだ? 先に上がってても良かったのに」
まさか俺にタオルを渡すために待っていた、なんてことはないだろう。
「え、あ、ああ! そうでしたそうでした! えっとその、今日で大工事が終わりって、昨日ロジーさん言ってたじゃないですか! なので、ご褒美を用意してたんです!!」
「ご褒美? ……あ! さっきの冷たいアップルティーか? 本当に美味しかったよ、エスカ。また作って欲しいくらいだ」
「本当ですか? ありがとうございます! また淹れてあげますね!」
エスカはニコニコしながら、しっぽをぶんぶんと振る。なるほど、アレが褒美だったか。うん、悪くなかった。本当に上手いフレーバーティーだったからな。
「……って違いますよぉ! アップルティーはついでに作ったんです!」
なんだ、違うのか。いやでも、ついででアレだけのものを作ったのか。本当にすごいな、エスカは。
「となると、じゃあ……もしかして、さっきの……?!」
た、確かに、エスカの唇は、褒美の類に仕分けても良いだろう。個人的には、俺以外にはあの褒美を出さないようにして欲しい、とは思う。
「そ、それこそ違いますよっ!! さっきしたのは、その……ろ、ロジーさんの匂い、が、その……そうさせたっていうか……と、とにかく、ロジーさんにご褒美を用意したんです! ちょっと待ってて下さい!」
違う、のか……いや、そりゃそうだよな。良かったような……少しがっかりしたような? 途中で聞えた匂いがどうたらは、まぁ汗かいてたし、俺、臭ったんだろうな、多分……。今日は念入りに身体を洗おう、うん。
俺が複雑な気分に陥っていると、エスカは錬金釜に身体を半分突っ込み、何かを探りだした。揺れるしっぽが愛おしい。握りたい。……アレって、洗っているのだろうか。匂いなんてもちろん嗅いだことはないが、少し気になる。今度聞いて……いや、デリケートな問題になるのだろうか、これは。
「んっ……しょっと。じゃじゃーん! 疲れを吸い込む『れいせいアップルタルト』です!」
俺があれこれ考えを巡らせていると、エスカは錬金釜から皿に乗ったタルトを取り出し、頭上に掲げる。いつ見ても不思議だ。釜にモノを入れて、どうしてケーキやらクッキーやらが出来上がるのか。
というか、エスカは今、「疲れを吸い込む」と言ったよな……。精神に作用する効果でも付いているのか、それ。
「……食べても大丈夫なんだろうな?」
「失礼ですね、大丈夫ですよ! ……試してませんけど」
「おい」
でも、せっかくエスカが用意してくれたんだし、食わないわけにはいかないよな。
「……まぁ、ありがたくいただくよ」
俺は出されたタルトを切り分け、一口、口に運ぶ。直後、その冷たさで、火照った身体が静まっていった。なるほど、これがこの「“冷静”アップルタルト」の効果なのかもしれない。気分もだんだん落ち着いてきた気がする。
「……うん、美味いよエスカ。シャーベットみたいなリンゴも、今までにない食感だし、何より、色々と落ち着く。エスカも食べてみろよ」
「いえいえ私は……それはロジーさんへのご褒美ですし」
「でもこれ、本当に美味いぞ? んー、それじゃあ……はい、あーん」
どうしても美味しさを共有したかった俺は、タルトを一口分フォークに乗せ、エスカに差し出した。
「えっと、いいんですか?」
「ほら、ぬるくなる前に食べてみろって」
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……あー……ん……んー、冷たくて甘くて、とっても美味しいです!」
エスカの満足そうな顔と、くねくねと嬉しそうに動くしっぽを見ると、自分でも納得できる出来だったようだ。
俺の手も止まらない。一口、二口、三口と、タルトはどんどん減っていく。
エスカにもきちんと分けてやり、タルトは二人で完食した。ここまで体が甘いものを欲していたとは……それほどまでに、俺の体は疲れていたんだろう。
その疲れは工事のせいか、それとも先程の突発的な行動のせいか。
ともあれ、エスカの甘いご褒美は、俺の身体に沁み込んだ。
……おそらくは。
俺の心の方にも、エスカの甘いご褒美が、沁み込んでいるのだろう。確認する術は無いが。
「美味しかったですね、ロジーさん!」
「……ああ、そうだな。ありがとな、エスカ」
「えへへ~♪」
この時間を幸せに感じられるようになるくらいには、回復しているのだから。
「だいたいあの二人、恥らう部分がずれてるのよ!」
「ちょ、ちょっとマリオン! そこは押さないで下さいっ!」
「キスを恥らうのは分かるけど、ほっぺた撫でたり、食べさせあったりするのは恥ずかしくないってことなの?! ねぇ、どういうことよ!!」
「マリオン、痛いです!」
「神聖な仕事場で、いちゃいちゃいちゃいちゃ……!」
「だ、だったら止めに入ったらいいのでは……」
「今止めたらあの二人くっつかないでしょう! ただでさえ馴染み過ぎて進展出来なくなってるのに! ああもう、うらやまけしからん! 二人があのタルトを食べ終わるまで待つわよ! いいわね、リンカ!」
「マリオンがおかしくなりました……」
「返事は!」
「は、はい!」