『私一人では何もできない――。英雄になんて成りたくない』
『孟徳日記』に見る劉備玄徳のこの発言は、今こうして"冬混みけっと"に参加しようとはるばる上海県にまで足を運ばれた歴史愛好家諸君にとっては、意外な発言に思えるかも知れぬ。
何故なら、諸君の知る劉備玄徳とはまさしく英雄の中の英雄……。黄巾賊の騒乱が起きた際には並みいる諸侯に先んじてこれを鎮圧し、権力者との伝手を生かして、あれやこれやと大陸有数の大商人にまで立身出世した人物であるからだ。
ゆえに筆者は『孟徳日記』の記述に眉唾ものの気配を感じ取った諸君等の歴史感覚を否定しない。
諸君等の思い描く劉備像と『孟徳日記』から伺える人物像がかけ離れている以上、その疑念はごくごく自然なものなのである。
かくいう筆者も、南京の大図書館でこの記述を初めて目にした時には首を傾げたものであった。
「英雄を志していなかったと……? んなわけないでしょ。よしんば真実であったとしても、この発言は商人特有の、ただの謙遜に過ぎなかったはずよ。やっぱり、この史料は偽書だったのかしら」と。
さて、勉強熱心な諸君等の中には、ここで劉備に関する人物像を示している史料を根拠としていくつか思い浮かべておられるかもしれない。
例えば、我々にとって読んでいなければ"にわか"呼ばわりされてもおかしくはない聖書――、『三国志』には劉備玄徳についてこう記されている。
劉備伝曰く、『彼女は幽州啄郡、楼桑里の生まれです。匪賊の討伐に功があって、英傑たらんと大志を抱いて商人になったのです。当初は塩の密貿易に手を染めて糊口をしのいでいたようですが、折り良く黄巾の乱に功を得て、ご主人様と曹操の庇護のもと、真っ当な政商としての道を歩み始めることになりました。ご主人様への媚びの売り方は常々気にいらねーですが、そんなやくざ商人も笑顔で懐へ入れてしまうご主人様の何と素晴らしきことか。やくざ者集団の姫、略して賊さーの姫を更生させたのは、ひとえにご主人様の徳によるものですよ。ご主人様、マジご主人様』と。
『三国志』の作者である陳寿は蜀漢の文官であり、決して公平な立場から物事を叙述しているわけではない。
だが、丸っきりの嘘偽りということもなかろう。
後年の歴史家である
『北郷キチなクソ婆の偏向記事ですが、一応同時代人の史料として無碍にはできませんわね。また、魏帝の事跡もきちんと記述されていることから、恐らく劉商聖君のくだりについてはある程度信頼できるものと考えられましょう。けれども……、この記述はむしろ魏帝が主導になって、北郷某がそれに追従したのだと解釈した方が自然ではないでしょうか? 何故なら、燕雀では鴻鵠の志を知ることはできないからです。確かに劉商聖君は私財をなげうち、民の困窮を救いましたわ。これは多くの儒者が指摘するように北郷の目指す徳を専らとする政治に近いものがあると私も認めましょう……。しかしながら、彼女は決して自己犠牲には走らなかった。冷徹な計算によって、人心の掌握と自勢力の拡充をはかったのです。思うに、魏帝と劉商聖君は己が領分を認めあい、乱世を平らげるために政と商の両側面から手を取り合うことにしたのではないでしょうか? そもそも男なんかが魏帝を差し置いて……』と。
この二つの記述から分かることは、劉備玄徳という人物が「やくざ者を戦力として抱えていた新進気鋭の武装商人」であり、「人心掌握術に長けていた」ということである。ここに各地に残された逸話や北郷一刀との関係性をもって、後世の儒学者が「慈愛の人」という属性を付け足した(ご存じの方も多かろうが、劉姓であることと、儒家の名門、荀家の娘が付き従ったことから、劉備という人間は儒学者人気がすさまじいのだ)とするのが、通説的な見方と言えよう。
大陸の津々浦々にある華人街に建てられた劉聖像などはまさにこうした人物像をごちゃまぜに、大袈裟にした形で作られている。
意志の強い瞳や弁が立つ不敵な口元が特徴的な美女であり、"めいど服"や"対魔忍こす"、奇妙な獣耳の頭巾を豊満な肉体に纏いながら優しげに両手を差し伸ばしている……、と改めて冷静に考えてみると、なんというか怪しい宗教の教祖を思わせる見てくれだ。
間違っても「私という人間は駄目駄目だ。英雄になんかなれない。というかなりたくない」などと弱音を吐くような人物には見えない。
そう……、通説に則るのならば、『孟徳日記』の記述はおよそ信じられるものではないのである。
それでは、何故筆者が『孟徳日記』の記述を認めようという気になったのか?
理屈でいうなら最近発見された魏帝陵墓の副葬品に、『孟徳日記』の筆跡や作風と酷似した詩文が紛れ込んでいたことが一つにある。
文人としても高い名声を誇る曹操は、"摩佐史調"と呼ばれる独特な作風を得意手の一つとして修めていた。
別名"ぴぴる調"とも呼ばれる、この時代性を越えた珍妙な詩文の作り方は、三国鼎立期以前にもそれ以降にも存在しない希少なものだ。
この希少性のある作風に則った詩文が陵墓より発掘されたことから、陵墓自体も本物であろうと比定されることになった。そして、同時に"摩佐史調"詩文の散りばめられた『孟徳日記』の信憑性をも高めることにつながっている。
もう一つには、権力者によって作られた国史ではどうしても歴史の潤色を払拭することができないという、歴史学の新しい観点が挙げられるだろう。
昨今、個々人の日記のような古記録を好んで取り扱う若手歴史家が増えてきたのは、このような学術的風潮があり、筆者も彼らを大いに支持するものである。
だが……、ああだこうだと理屈を重ねても、これらの理由だけでは筆者が『孟徳日記』の記述に惹きつけられてしまった理由としては十分足り得ない。
だって、白状すれば……、一番の理由は"ろまん"によるものなのである。
"弱気で凡人な劉備"という人物像に、ある種の"ろまん"を感じてしまったからなのである。
歴史とは、例えるならば現実に起こったある一場面を画家が絵画に描き写したようなものであり、そこから真実を論じようとすることはすなわち、井戸を見て大海を論じるようなものなのだと筆者は考える。
たとえ幾つもの絵を切り張りしたとしても、情報の脱落を防ぐことはできない。完璧な歴史真実を再現することは不可能なのだ。
だからこそ、筆者は断言しよう。
歴史の真実とは個々人によって差異があり、決して一つではありえない、と。
お堅い歴史の見方がある一方で、美少年や美青年や美中年が赤裸々に裸と裸のお付き合いをしていたっていいではないか。
推し面や推しかっぷりんぐについて語り合ったっていいではないか。
歴史の"ろまん"は大事だということを、「現実はああだこうだ」と視野狭搾に南京の大学でふんぞり返っているクソ爺どももよくよく理解すべきだと思いました。そして、私の執筆した論文『三国鼎立期前夜における華北地域にみられた男色の民族学的考察』に目を通すべきだと思いました。まる。
さて、本来ならばこのまま劉備とその周辺にまつわる話を長々と書き連ねていきたいところなのだが……残念ながら今回はここで筆を置こうと思う。
いや、正直な話、締め切りに間に合わなかったのだ。何とか"冬混みけっと"の期日に間に合わせようとしたのだが、七日間も徹夜をしたというのに全く終わりが見えなかったのである。
一昨年までは印刷屋さんの前で雪の降る中、ぎりぎりまで書き続けるという裏技が使えたのだが……、昨年になって我々に理解のある印刷屋さんが汚職官僚の手によって店じまいを余儀なくされてしまった……。筆者は権力の犬を絶対に許さないよ。
というわけで、続きは"夏混みけっと"での刊行を目指すとして、歴史愛好家諸君等にはどうか未完成の拙作でお許し願いたい。
お詫びにと言っては何だが、ですま八日目の早朝に見えた奇妙な幻覚のことを付録として載せたいと思う。
――あれは筆者が目に隈をこさえて、原稿を枕に意識を失いかけていた時のことであった。
梁山の頂きより東方、朝日の差し込む窓辺の向こう側に、やたら不気味な筋肉ハゲが宙に浮かんでいたのを目撃したのである。
私はとっさに彼に向かって叫んだ。
『よもや、貴方は男色の神様ですか!?』
朝日が眩しくて良く分からなかったが、ホモ神様は困ったように笑われたように見受けられた。
『ああ、うん……。やっぱり、私に時間というものは意味をなさないケド、すごく懐かしい気持ちになるわねん。実はアナタに時空を越えた贈り物があるのよん』
私は狂喜乱舞してホモ神様に願った。
『ついにこの世が腐海に沈むのですか!?』
『いえ、とある歴史の一場面を傍観者として鑑賞させてあげようと思うのよん。けど、完全な再現は不可能だし、あまり長い時間は見せてあげられないわん。宋江ちゃんか、呉用ちゃんがアナタを起こしに来るころには覚めてしまうようなものねん』
私は知人の名を出されて不機嫌になった。新参者の淫乱桃色駄肉な親戚も、"出たら負け軍師"のへたれ男も、現実というものはいつだってクソである。
ゆえに私が不貞寝をしようとすると、ホモ神様は仰った。
『あの北郷一刀様にも当然お目にかかれるわよん。とってもイケメンなんだから』
『是非とも、是非とも私を桃源郷へと連れ去ってください』
瞬間、筆者の意識は暗転し、梁山ではない何処かへと瞬時に跳躍することになった。
◇
まず第一に飛ばされた場面は、何処かの関所前であった。
「――狂夜よ。本当に行くのか」
見れば、伸ばし放題の銀髪を一つに縛った美男子が二人、曰くありげに見つめあっている。
どちらもいけめん、瓜二つ。双子かな? お揃いかな? 私は「やったぜ」と乱舞しようとしたが、生憎と私の身体は消え失せてしまっているらしく、みじろぎも、鼻血を噴くことも、彼らに頬ずりすることもできなかった。
「――くどいぜ、剣牙」
美男子の一人が嘲るように笑った。端から見れば鏡写しのように見える二人であったが、私には容易に判別がつく。狂夜の方が、アホ毛の数が違うのだ。それに声も違うし、八重歯の数も違う。判子絵とかいう言葉を好んで使う盲目どもは絶滅すべきだと思いました。まる。
《挿し絵省略・筆者による狂夜と剣牙の人物画》
狂夜は背中に提げた大剣をがちゃりと鳴らし、街の見える方を睨みつけた。
「曹操はもう駄目だ。俺の価値が分かってない。それに劉備と手を組むのも論外だろう」
「……お前の価値といってもなあ」
剣牙が困ったような顔つきになる。
話の流れで彼らが曹操の飼っていた美男子であることは容易に想像が付いた。良い感性をしていると曹操の肩を抱いて誉めてやりたい。
「あれこれ考えたが、ようやく理解できたぜ。これは"魏ルート"じゃない」
「ああ、まあ確かにこんなルートはなかったと思うが」
狂夜はさらに力説する。
「未来知識で自勢力の超強化。ハーレムルートが解禁されないってことは、歴史の修正力が働いてるんだと思う。だから、俺は勝つ予定の勢力を探すことにするさ」
「それな。俺も色々考えたんだが、ハーレムはやっぱり無理じゃないか。こう、競争率的に」
剣牙の反応に、狂夜の表情が赤黒く染まった。
「倍率とか競争率とか、運ゲーとか、ハーレムエロゲだろうが、これは! エロゲってのは物理的にも精神的にもポルノでなきゃいけないんだよ。ちょろくないヒロインに需要なんかねえ! 適当な努力で適当なハーレムで、それに適当に叩ける雑魚がいてこそのエロゲだろうが!」
「いや、俺、アンチ嫌いじゃないけどそれ以上に純愛二次SS派だったし」
「そうか……」
「そうなのよ」
気まずい沈黙が二人の間に流れる。単語のいくつかは良く分からなかったものの、"ちょろさ"が大事ということについては大いに納得できた。
最初はイヤだイヤだと拒否していても、その内攻め手の手練手管に「あへあへ」と言い始める様式美こそが大事なのだ。
「俺の○○はどうだ!」と必殺技が繰り出されれば、食らった相手が「悔しいが感じちゃう……!」と返す伝統芸能こそ尊いのである。
それをいつまでも「あへあへ」と言わないとか、マグロにも程があろう。現実はさておき、そんな物語は私が決して許さぬ。
「……とにかく、菫卓包囲網が始まるまでが勝負だ。俺は行くぜ」
「菫卓包囲網で勝ちそうな勢力を探すつもりか?」
「ああ、菫卓包囲網で勝つ勢力が恐らく正解ルートだ。とりあえずは、呉に行ってみるさ」
剣牙は納得しがたいといった表情を浮かべ、狂夜に問い。
「それなんだが、仮に呉が菫卓包囲網で勝ち組になれたとして、その後はどうするんだ」
狂夜は何を言っているのかと目を丸くして、これに返す。
「何やかんやで、うはうはだろ」
「何やかんやで、うはうはか」
「ああ」
気まずい沈黙が二人の間に流れる。一見浅慮なようにも思えるが、私は狂夜を否定しない。物語の主人公というのはそれでいいのだ。彼は主人公顔だから、必ず報われる。新天地で勝ち組に加わった暁には必ず、理想の美男子に尻を貫かれることだろう。
「……じゃあな。お前は成立しない魏ルートでいつまでもくすぶっていろ」
「俺だって、この世界が魏ルートじゃないことは分かってるんだけどなあ」
「なら、何でまだ陳留にいるんだよ」
剣牙は言いにくそうに、これに答えた。
「目当てをゲットできそうにないのは確かなんだが……、あの"オリキャラ"に『また明日ッス』と言われてる内は、何か踏ん切りがつかないんだよ」
狂夜は小馬鹿にするように鼻で笑い、無言でその場を立ち去った。
狂夜の背中が関門の向こう側へと行ってしまったところで、剣牙はぽつりと呟く。
「アイツ、多分一生童貞だな……」
処女は早々に喪失することが決定しているため、私としては願ってもないことであった。
◇
形容しがたき満足感のある内に、私の意識は次なる場面へと旅だった。
そこはどうやら、何処かの兵舎であるようで、美髪の女武人や帽子をかぶった文官らしき少女、"めいど服"に身を包んだ少女など、様々な美少女たちが一人の男性を囲んで、不安げな表情を浮かべている。
囲まれていた男性の姿を見た瞬間、私の胸は高鳴った。
見てくれ自体は凡百より多少優れている程度。先ほどの双子美男子とは比べるべくもない。だが……、身に纏う雰囲気が凡百のソレとは隔絶しているのだ。
浮世離れしているというべきか。
貴人を思わせるきらきらと輝く白い西洋服に、この世の善性を信じ切っているかのような瞳の輝き。
私は「中身がいけめんだ!」と叫びたかったが、生憎と肉体を持たぬがゆえに声が出なかった。
私は知っている。
ああいう手合いは、強気攻めに転じると途端に美味しい役どころに収まるのだ。
一見無邪気に見えるのに、鬼畜で手慣れているところに萌えるのである。
"壁ドン"だ、"壁ドン"こそ、彼にはふさわしい。無論、男に。私は詳しいんだ。彼を見れば、いけめんにうるさいまさこおばさんだって同じことをいうだろう。ああ年賀状書いておかなきゃ。
《挿し絵省略・筆者による"中身いけめん"の人物画、及び棒人間複数》
絶頂の只中に浸っている中で、"中身いけめん"が口を開いた。
「参ったな。劉備さん、すごいや……。俺、三国志の世界を生きることに夢中で、その"外側"のことなんて考えもつかなかったよ」
たはは、と力なく笑うその姿に私の背筋がぞくぞくとする。
弱気もまたいいものだ。
もっともっと、あの涼しげな目もとを曇らせたい。
「朱里……。そんなに劉備殿の持ってきた話は衝撃的だったのか? その場にいたというのに、私には彼女が何やら崇高なお志を抱いていることしかわからなかったのだ」
美髪の武人に朱里と呼ばれた文官らしき少女は、これに頷き答える。
「衝撃的……。うん、そうですね。劉備さんのお話は本当に衝撃的でした。今ならご主人様が前に仰られた『本来、私たちは劉備さんの家臣になるはずだった』というお言葉も納得できます……。愛紗さんもそれは感じたのではないですか?」
「それは……」
愛紗と呼ばれた女武人は、承服しがたいと言った風に口元を切り結んだ。
「思うに、劉備さんはこの大陸から、乱世の原因そのものを未然に取り除こうとしているんです。それに、乱世が続くことで脅威が増す"外患"まで何とかしようとしているんですから……、これはちょっと常人の考える計画じゃありません。もし事を成し遂げることができたら……、あの人は文字通りの"救世主"になっちゃうかもしれないです」
「救世主、ですか」
"めいど服"の少女が、その言葉を聞いて曇り顔の雰囲気いけめんを見た。
いや、まどるっこしい物言いは止めよう。この人、あれだ。北郷一刀だ。
やたら不気味な筋肉ハゲをまだ引き連れていないところを見るに、まだ男色と種馬の両刀使いに目覚めていない頃の北郷一刀だろう。
つくづく惜しい。ホモ神様、もう少し後の時間を見せてくれないものか。
それにしても、彼が北郷一刀だとすれば、彼の曇り顔も納得のいくというものだ。
"天の御遣い"とまで謳われた彼は、恐らく劉備に嫉妬しているのだろう。
私の推測は正しかった。二人は、負の感情をもって強く意識し合う関係であったのだ。
後は「実は劉備は男だった」とかいう新説が生まれれば完璧なんだけどなあ……。兎角に人の世は住みにくい。
「朱里、劉備さんの計画は上手く行くのかな?」
北郷がそう問いかけると、朱里は残念そうに首を振る。
「残念ながら、黄巾の騒乱のような局所的な反乱を防ぐことはできても、乱世自体を未然に潰すことはできません。……それどころか、緊張状態にある諸侯の力関係を大きく揺り動かすことになるでしょう」
「えっ? 何でなのだ? 劉備お姉ちゃんは良いことをするんだよね? 悪い奴らが邪魔をするってことなのか?」
少女たちから少し離れた位置で、肉まんを頬張っていた背の小さな赤髪の少女が首を傾げる。
「その悪い人たちが悪いことをできないようにするのが、劉備さんの計画なんだよ。だから、国中の悪い人たちがこぞって邪魔をしちゃうの。劉備さんの計画は上手くいかないと思う。敵が大きすぎるから……」
三角帽子の少女が、赤髪の少女に答える。
私は面白い場面を見ることができたと、目を細めた(いや、今の私に目などないのだが……)。
どうやら話の流れから考えて、彼女らは劉備の志した"全国的な民間による均輸策"について話しているようだ。
これは後世において、大商人の既得権益を弱め、新興商人たちが自由に商売できる土壌を作り出し、ある程度物価を安く安定させる効果があったと理解されている。
だが、それと同時に大きな動乱のきっかけにもなる計画であった。
「そっか、失敗しちゃうのか……」
北郷は苦虫を噛み潰したかのような表情で言う。
彼は民を第一に考える徳の人として有名であったそうだから、劉備の策がとん挫することを面白く思わなかったのだろうか。
そんな彼に対して、朱里が一つ進言する。
「……ご主人様、討夷将軍様にかけ合って、幽州か涼州の役人にしてもらいましょう!」
「え、そんな厚かましいこと言って大丈夫なのかな?」
うろたえる北郷に対し、朱里は更に畳みかける。
「匪賊退治の軍功で何とか叶えてもらうんです。それに、劉備さんの志を手伝うため、と付け加えれば、将軍も無碍にはできないと思います」
「確かに盧植さんは劉備さんの師匠にあたる人だから、彼女を助けたいと思ってそうだけど……」
「だが、それは人の弱みに付け込む卑劣な所業ではないか?」
朱里の言葉に頷きかけた北郷を制し、今度は愛紗が難色を示した。
美髪に、この潔癖な態度……。成る程、この少女は関羽らしい。
あまりの勇ましさに、実は女顔の男だったのではないかという珍説もあったのだが、胸元を見るに女のようだ。
残念すぎる……。
しかし、ということは関羽と相性の悪そうな少女は諸葛亮ということだろうか。
胸元的には、諸葛亮を応援したい。大きな胸元は、知人の桃色髪な親戚を思い出すのだ。
まったく、頭脳と胸は反比例の関係にあるのかもしれない。
頑張れ、貧乳! 負けるな、ぺちゃぱい!
私の応援を受けてというわけではなかろうが、諸葛亮は退かなかった。
「愛紗さん。乱世に入る前に、良い立地に権力基盤を持つことはすっごい大事なんです。諸侯が劉備さんを知らない、今こそが千載一遇の好機なんでしゅ……、です!」
貧乳が噛んだ。
そのあまりの必死さに、さしもの関羽もたじろいでしまう。
「そ、そこまでなのか……?」
貧乳が勝った! 時代は、何時だって貧乳が勝つべきなのである。
私が勝利の余韻に浸っているところに、諸葛亮が続けた。
「はい。乱世を止めることはできませんが、劉備さんが作ろうとしている商人閥は、きっと多くの人とお金と物を根拠地にもたらしてくれるはずです。そして、劉備さんの根拠地は大商人や大豪族のいない場所が適しているでしょうから、辺境が選ばれると思います。異民族との交易をやってみたいとも言っていましたし」
「そうなると……、戦略上、なるべく都に近い、この国の"端っこ"を取った方が後々有利になるよね。化外との交易が活発化したら、その玄関口は多くの富をもたらしてくれるようになると思う」
「だからこその辺境かあ」
三角帽子の少女――、乳の凹み具合からしてホウ統だろう――。が彼女の言葉に賛意を示し、北郷も成るほどと納得した。
私も成るほどという思いである。
世にいう三国鼎立初期にあたる、"南北の経済戦争"はこの時より始まったのだ。
「ご主人様……、恐らく曹操さんも劉備さんを利用するための策を練っていると思いますし、決断は早い方が……」
「……朱里」
急かす諸葛亮の目を、北郷はまっすぐに見つめた。
諸葛亮の顔は真っ赤である。彼女のような内気そうな手合いにとって、雰囲気いけめんの視線は神経毒に等しい。
案の定、はわわとうろたえ始め、先程の勢いは何処にやらという風にしおらしくなってしまった。
「……俺が偉くなったら、劉備さんを利用するんじゃなくて、彼女の支援者になれないかな? 乱世をできるだけ早く終わらせる手伝いができるのかな?」
「それは……」
「俺、何となく分かるんだ。朱里が俺に気を使ってくれてるってこと……。多分、劉備さんに負けないような立場に俺を押し上げようとしてくれてるんだよな? 俺と劉備さんの立ち位置があまりにも似すぎているから……」
その言葉に諸葛亮が押し黙る。
図星であったのだろう。彼女は労しげに北郷を見上げながら、主の真意を推し量っている。
彼の存念いかほどか。
自分と立ち位置が似ている存在が、知らぬ間に自分よりも崇高な志を成し遂げようとしているのだ。悔しくないはずがない。
自分の至らなさが情けない? それとも、相手の器量が恨めしい?
主の心を曇らせないよう心を砕く朱里の様は、まさに理想の忠臣を体現しているかのように見受けられた。
こうしてしばしの沈黙が訪れ、やがて北郷は柔らかく微笑む。
ポンと朱里の頭を優しく撫でて一言、
「別にどっちが上とか、そんなのどうでもいいと思うんだ」
「え?」
目を丸くする少女たちの反応を見て、北郷は苦笑いを浮かべる。
「乱世を平穏に終わらせたいと願うなら……、それってもう仲間だろ? 誰が主導で乱世を終わらせても、この世界が平和になるなら言うことないよ」
私は彼の言葉に驚きを隠せなかった。
……どうやら、私の推測は間違っていたのかもしれない。
北郷一刀という男は、他者の優れた一面を目の当たりにしても嫉妬などせずに、ただ己の不甲斐なさを恥じる、真に善性の塊のような男であったようだ。
誰かの風下に付くことが苦ではないというのは、一見向上心のかけらもないように見て取れる。
例えば、梁山泊においてひいひい喘いでいる"出たら負け軍師"のクソ男などは、「働きたくない。貝になりたい」と公言してはばからない。殺意を催す向上心のなさだ。
だが、北郷は違った。
いけめんだからである。
いけめんは何を言っても様になるなあ……。現実にいたら潰しているけど。目から鱗が落ちる思いであった。
北郷の言葉を周囲がじいんと重く受け止めている中、
「ご主人様の懐はやっぱり広いですね……。何だって収まっちゃいます♪」
"めいど服"の少女がするりと北郷の懐へ収まっていった。
専門用語で、抱きついたとも言う。
「なあっ!?」
当然ながら、周囲の少女たちは色めきたった。
「美花、ずるいのだ!」
「はわわ、ご主人様! 離れてください!」
私は目を瞑り、目の前で繰り広げ始めた痴態を視界に納めないようにする。
誰が女にたかられる男の姿を見たいというのか。
ホモ神様よ、私は貴方を恨みます。
失意のままに、私の意識は暗転した。
◇
次なる場面は、豪奢な官舎の中であった。
朱塗りの柱が立ち並び、その中で多くの人々が上座に座るただ一人の女性にかしずいている。
あの桃色髪に、暴力的なほど膨れあがった駄肉……、恐らくは孫家の係累に当たる誰かであろう。
"混みけっと"で同じような体型の少女と良くお隣さんになるので、とかく孫家の血脈は分かりやすい。
彼女と知人を比較して、ふと「胸って遺伝するんだな……」と血涙を流したくなったが、私はぐっと感情を飲み込んだ。
血脈を羨ましがると言うことは、突き詰めて言えば私のご先祖様を冒涜することにも繋がり、儒の道から外れてしまうからである。
「んで、子幹のところはどうだったんだい? 収穫の一つでもありゃあ良いけどね。別段無くても構いやしないが」
孫家の女性が、頬杖を着きながら最前列の文官に問いかけた。
先程の場面からそう時代が離れていないと考えれば、孫堅とするのが妥当であろうか。
孫堅らしき女性に問われた文官は、波打つ白藍色の髪をそよがせながら、これに答える。
「……即刻近隣の商人をかき集め、密な協力関係を結ぶべきだと考える」
「協力ぅ? そりゃまた、何故」
眉をひそめる孫堅らしき女性に対し、文官は言葉を選びながら真剣な面持ちで続けていった。
「塩鉄論の焼き直しとでも言うべきか……。大陸中の豪族と商人、双方の既得権益に切り込もうという大馬鹿者を見かけたのだ」
その言葉を聞いて孫堅は一瞬ぽかんと大口を開けた後、すぐに「そりゃ、大馬鹿だ」と腹を抱えた。
「我が君よ……、笑い事ではないぞ」
「悪い、悪い。でもねえ……」
余程愉快であったらしく、その笑い声は中々におさまらなかった。
孫堅の人となりは、後世において"派手好き"で"喧嘩好き"な反骨の人であると伝わっている。
あまりにも大きな敵を相手に喧嘩を売ろうとしている人間に対し、好感を抱いたのかもしれない。
「でも、そんな馬鹿は潰されるのがオチだろ。だというのに、雷火がそうも警戒してるってことは、ただの馬鹿じゃ済まないってことだね?」
孫堅の問いに、文官が頷く。
「当人自体もただ者でなく、また曹家の小娘も何やら小細工を仕掛けようという節がある。そう簡単に、数百年以上も続いた豪族の世が崩れるとは思えんが……、せっかく乱世に備えて地力を蓄えておる時に、屋台骨を揺るがされてはたまらんからな……。今まで以上に、既存の商人と結託をしておく必要があるのだ」
「張昭様」
と隅に控えていた黒髪の少女が、文官に声をかけた。
幼いながらに無駄に胸がでかい。これは頭が悪そうだと私は当たりをつけた。
「何だ、公瑾」
「塩鉄論……、ということはその馬鹿な所業とやら、均輸法の実施による自作農の救済を指しているのでしょうか? ならばこの国の構造的に不可能だと私は考えます。だって、既存の商人や豪族を味方につけなければ、商う品物を仕入れることすらできないではありませんか。それに商人たちは中央への顔も利きます。下手な改革など、鼻薬を嗅がせてしまえば、どうとでもなりましょう」
私は舌打ちをしたい気持ちでいっぱいであった。
この黒髪の巨乳は、どうやら未来の大宰相、周瑜であるらしい。
日頃より私の提唱する、胸の大きさと知能の反比例を否定する生きた証拠こそが彼女であるわけだ。
呪ってやる。過去の人だけど。
張昭と呼ばれた文官は周瑜の意見に頷いて、
「確かにお前の言うとおりだと、私も思う。だが、最終的にはどうであれ、既得権益がかき回されることで諸侯に動揺が走るはずだ。……それは好機とも言えんか?」
「あっ」と声を漏らした周瑜に対し、張昭は更に言った。
「動乱が起きれば、頭角を現す者と馬脚を出す愚図に人は分かれるものだ。武力による動乱だろうが、金に関わる動乱であろうが。我らは当然、頭角を現す側にならねばならん」
「……理解いたしました。つまらぬ事を聞き、申し訳ありません」
「あまり年上相手だからってへりくだるもんじゃないよ、冥琳」
頭を下げる周瑜に、今度は孫堅が声をかける。
「年上……、だと?」
張昭は孫堅の言葉に目を丸くして、
「そうか、年上か……。そうかあ」
と何故か突如表情を和らげてしまった。
ひょっとすると、今まで年上扱いをされてこなかったのだろうか。確かに背の丈も胸の凹み具合も、共感できるほど小さくまとまっている。
もし、私の予想が正しければ、それはもうさぞかし嬉しいに違いあるまい。
そんな張昭の上機嫌を一瞬の内に粉砕したのは、孫堅によく似た桃色髪の少女であった。
「そうよ、冥琳。雷火なんて威張ってる割にちっこいんだから、あんまり持ち上げても嫌みったらしくなるだけじゃない」
「ち、ちっこいだと。このイノシシ娘! もういっぺん言ってみろ!」
少女の一言で、緊張感の溢れていた会議の場が女と女の取っ組み合いの場に早変わりしてしまう。
やはり胸のでかい女にろくな奴は居ないのだと確信しました。まる。
「……のう、策殿よ。お前の捕まえてきた、あの変態男は今どうしておるのじゃ」
取っ組み合いも佳境に入ったところで、肌の浅黒い銀髪の女性がイノシシ女に声をかけた。
策と呼ばれたところから察するに、この空気を読まない乳でか女は、かの有名な孫策なのかもしれない。
後の"南海覇王"が、こうも人をからかって楽しむ性格をしていたとなると、色々がっかりする人も多いんじゃなかろうか。
私が今の世に少なからずいる"呉信者"に「ご愁傷様です」と黙祷を捧げていると、孫策は張昭を腕力に物言わせて押さえ込みながら、浅黒い肌の女に答えた。
「ああ、馬元義の奴? とりあえず、素っ裸のままってのも見苦しいから適当に服を見繕って、部屋に放り込んであるわよ」
「理解しがたいのじゃが……、結局あ奴は何故素っ裸で幽州の荒野を一人歩いていたのだ?」
女の問いに、孫策はへらりと笑う。
「何でも、劉備のところのワンちゃんに服を全部吹っ飛ばされたんだって」
「ワンちゃん?」
「そ、ワンちゃん。あんまり強そうには見えなかったけど、面白そうな性格してたわね。何でもヒテンミツルギ? だか、十七分割? だか、流し斬り? が完全に決まって吹っ飛ばされたんだって」
要領を得ない孫策の説明に、浅黒い肌の女はこめかみを押さえた。
「まったくもって状況が分からん……。流し斬り? が完全に決まると何故服だけが破けるのじゃ。服だけを破く奥義なんぞ在ってたまるかよ」
「いやあ、そこは馬元義の身体が頑丈ってだけじゃない? とにかく、面白そうだから捕まえてきたってわけ。言ってることも訳わかんなくて面白かったしね」
「はあ……」
浅黒い肌のため息など素知らぬ風に流して、孫策は自由を奪った張昭の頭頂部を撫でる作業を再開する。
「ぬおお……、やめ、やめんか!」
私はその様を見て、浅黒い肌の女と同様に嘆息した。
他人をからかってばかりいる彼女のこの姿を見て、誰が彼女の輝かしい未来を想像できようか。
こう見えて、彼女は近い将来華南全域を牛耳る大勢力の主になるのである。
曹操と北郷による曹北同盟を敵に回し、彼女らの猛攻から自領を守りきるどころか、一転攻勢に出るほどの名将に育ってしまうのである。
それが、あんな、大きな、胸を……。育ち……。
何だか気分が悪くなってきたため、私は目を瞑ることにした。
そして私の意識も、それに伴い何処かへと飛んでいく。
◇
「ついに"楽市楽座"を実施する時が来たようね……」
次なる場面は、金色の巻き髪を揺らしながら、小柄な少女が周囲に侍る側近たちに向けて言葉を発しているところであった。
「楽市、楽座ですの?」
三国時代にしてもいささか先進的な服装感覚を持った、金髪の少女が解せないと言った風に口元に手をあてた。
「そうよ、栄華。領内に商税を減免する特別区を作るの」
「商税を……」
「はい、はい。華琳様。質問いいですかあ?」
挙手をしたのは春巻きを思わせる髪型が特徴的な少女だった。
その無邪気な在りようは陣営内でも可愛がられているようで、こころなしか周囲からの視線も柔らかい。
「何かしら、季衣」
微笑む巻き髪に対し、季衣と呼ばれた春巻き頭は首を傾げつつ、疑問を述べた。
「難しいことはボク分かんないんですけど、それって領民の人たちが負担する税が減るってことですか?」
「結果的にはそうなるでしょうね。特別区で商いをする全ての商人が商売をしやすくなり、結果として民に必要な生活物資の価格も安く抑えられるはずよ」
「ということは、良いことなんですね。華琳様すごいです!」
手放しで喜ぶ季衣や黒髪の武将とは対照的に、青髪の女性が難色を示した。
「しかし、減免する税は我々で肩代わりする必要があります」
「はあ? ちょっと待ってください。曹家にそんな金銭的余裕なんて……」
青髪の指摘に栄華と呼ばれた少女が色を失う。
彼女の反応はごくごく自然なものだと言えよう。一体、誰が身銭を切ってまで民の税を肩代わりしようと思うのか。
徳治とは美徳であるが、愚かでもある。
いつの時代も、きれいごとがそのまま通るのならば苦労などしないのだ。
そんな現実的な憤りを見せる栄華に対し、巻き髪はくすりと笑う。
彼女の懸念など、どうという問題でもないとでも言わんばかりに。
「負担は利益で賄うわ」
「利益で……」
「私のことが信じられないかしら?」
「いえ、お姉様の見識を疑うわけではありませんが……」
この相手を試すような口振りに、私は嗚呼と息を吐きたい衝動に駆られた。
彼女は恐らく曹操孟徳だ。
この、まるで予知能力か、千里眼でも持っているかのように"損して得を取る政策"を易々と思いつく政治的視野の広さに、人の才を見定めようとする癖を持つ為政者は、曹操孟徳をおいてほかにないだろう。
何故だろうか……?
紙の上のいけめんにしか興味のないはずの私の胸が高鳴る。
私の中に流れる血が、女色に励めと轟き叫ぶ。
《挿し絵省略・曹操を美男子風に描いた人物画と棒人間多数》
「無論、一人の商人から得られる利益が少ない以上、量を確保する必要があるわ。思うに、アナタはその量が確保できるという保証がないと言いたいのよね?」
「……仰るとおりですわ。私には量を確保できるあてが思いつきませんの」
悔しげに口を尖らせる栄華のことを、曹操は愛おしげに見つめている。
と、見つめられていることに気がついた栄華の頬が桜色に染まった。
瞬く間に展開される百合百合した空間。
「お姉様……」
「栄華」
その母に頬を撫でられたかのような心地の良い空気を打ち砕いたのは、飄々とした雰囲気を持つ別の少女であった。
「あー。もしかして、劉備さんッスか。華琳姉ぇ」
手鼓を打った少女の言葉に、曹操は我が意を得たりとばかりに頷く。
「その通りよ、華倫」
一方で百合空間の展開を邪魔された栄華の方は、こころなしか不満そうに見える。曹操はそんな彼女の頬に手を当て、小さな声で「また後で」と呟いた。
その百戦錬磨の手腕には、物語の世界を生きる私をしても、「まるで物語の人間みたいだ」と驚嘆を禁じ得ない。
「華倫の言うとおり、劉備を利用するのよ。彼女が率いることになる商人閥……。その人的資源を味方にすることで、この陳留を一大交易拠点に作りかえるの」
「しかし、既存の商人が何と言うか……」
青髪の発した憂慮を、曹操はきっぱりと切り捨てる。
「既得権益に胡坐をかいている怠け者など切り捨てても惜しくはないわ」
これだ。
この打てば響く明晰さと、愚鈍を切り捨てる冷徹さこそが、私の心を癒してくれるのだ。
やっぱり、馬鹿は要らないよね。
やはり、頭脳明晰な人物は良い……。
良い……。
「それにまさしのいうノブナガの政策を一度試してもみたかったのよね」
何か言った気もしたが、良くは聞こえなかった。
曹操は続ける。
「当面は経済の拡充を図り、動乱に備える。情勢が混沌としてきたら、一気に辺境への進出を図るから、皆もそのつもりでいるように」
「辺境」の言葉に一同が目を丸くする。
「辺境……、端っこかあ。って、華琳様。敵は誰になるのでしょうか?」
良くわからないといった風に黒髪の女性が問いかけた。
青髪の女性と面影が似ていることから、この二人は姉妹なのかもしれない。
曹操は黒髪の質問に少し悩むそぶりを見せた後、「北の袁紹」と端的に答えた。
「えっ!?」
家臣たちの間から仰天の声が挙がった。
当然である。この時期の袁紹といえば、大陸屈指の大豪族であり、小勢たる曹家とは比べようもない財力と兵力を保有しているのだ。
常識的な見方をすれば、アリが巨象に挑むようなもので、全く勝負にならない。
だが……、それでも曹操は彼女をして「辺境を手に入れるには、一番与し易い相手」と豪語した。
家臣に白紙の紙を用意させ、彼女は筆で大陸図を書き込んでいく。
「涼州は都を挟んでおり、遠方に過ぎる。華南は大豪族のひしめく土地であって、抜本的な政治改革に向かない。ゆえに取る価値のある辺境といえば自然と北方になるわけだけれども……」
とここで無念そうに歯噛みして、続ける。
「幽州は既に公孫サンの縄張りよ。幽州牧の劉虞とどちらが政治的主導権を握ることになるかまでは分からないけれど、劉備とのつながりを考えるなら、公孫サンが頭角を現してもおかしくはないわ。化外との玄関口を既に保有しているというのは、それだけ大きいの」
だからこそ、と彼女は冀州を丸で囲んだ。
「我々の伸張次第で、袁紹は二つの仮想敵勢力と接することになる。やりようによっては十分に勝ちが拾えるわ」
曹操の説明に、家臣たちが口々に感嘆の息を漏らした。
私も感動ひとしおである。
「当面は辺境で賑わう富を自領へと誘導する策をとり、ゆくゆくは我々の土地が拠点となるように仕向けましょう」
先の北郷や孫家における一場面もそうであったが、どうやら三国鼎立に向かう群雄たちの道筋は、劉備の行動に影響を受けていたらしい。
となると、俄然劉備という人物に対する興味関心が、私の中で膨れ上がっていく。
一体どんな人物なのだろうか……?
恐らくは、胸の小さな賢人であるに違いあるまい。
私がここではない何処かへと思いを馳せている中、曹操もまた遠くに目をやってため息を吐いていた。
「まさしの話にあった南進が遅れてしまうのは残念だけれども……、仕方がないわね」
何処か寂しげにも思えるまなざしを険しくさせて、さらに彼女を独白する。
「劉備玄徳……。アナタは自分のことを英雄でないなどと言い張るけれども、私はそれを認めてあげない。アナタのことを徹底的に英雄として遇して、私に並び立つ存在として利用し尽くしてあげましょう」
◇
私はその後も様々な場面を垣間見ることができた。
都で元気に酒を飲んでいる涼州弁を話す痴女や、呉子遠の親族らしき女性と大将軍が語らっている場面。
そして、弱気なお嬢様然とした少女が、眼鏡娘や動物に好かれた赤髪少女、きゃんきゃんと吠える小娘と語らっている場面、そのいずれもが劉備に関する話題を口に上らせている。
劉備玄徳とは私たちの時代においても特別な存在だ。
困窮した民を救うために立ち上がり、結局は"志半ばで失敗してしまった"という同情を差し引いても、その人気は三国の英傑、いずれに勝るとも劣らない。
一体、彼女の魅力の源泉は何処にあるのだろうか。
私は、彼女の魅力がその特異性にあるのではないかと睨んでいる。
時代の最先端を走る寵児というわけでなく、むしろ時代に歯向うようにして生きた、その異質さに人々は惹きつけられたのではないだろうか。
……そんなことを思いながら次に飛んだ場面は、この大陸ではない何処かの村落であった。
火を噴く怪鳥が空を飛び、二足で走るトカゲの群れが草食のトカゲを襲っている、おぞましい世界の中にぽつりとたたずむ村落である。
村の入り口には『だっしゅ村もどき』と看板が掛けられていた。
私の精神は入り口をくぐり、村内の散策をひとりでに始める。
「ゴッドヴェイドオオオ」という勇者じみた叫び声が聞こえ、仮面をかぶった良く分からないちっこい蛮族やら、猫耳をはやした蛮族やらが「ゴッドヴェイドオオオ」と好き勝手に暮らしている中、漢民族らしき女性が毛皮の上に座り込んで、豪快にまんじゅうのようなものを頬張っていた。
頬張った瞬間、その表情が苦み走る。どうやらお気に召さなかったようだ。
「……不味すぎる。まさしよ。この"べじまいと"とかいう食べ物は本当に人が食すものなのか? こんなもの塗らずに普通にまんじゅうだけを食えば良いではないか」
女性の隣には"まさし"なる人物が座っているようだが、絶妙な位置に蛮族の祭壇が建てられていて、その顔が良く見えない。
「なに、おうすとれいりあに来たのだから、再現してみたかっただけ? 相変わらず、お前は良く分からんことを考える。都にいた時もそうだったなあ。好き勝手になにかをやって、好き勝手に暮らして……」
まさしが何かを返すと、女性が眉根を寄せた。
「何? "にーと"とはそうあるべき、だと? 常々思うが、その"にーと"とは何なのだ。楽しいことが大好きで働いたら負けだと思っている人種だと? 何処ぞの豪族か。迷惑をかける相手はもっと少ないと? お前の言うことは本当に分からんなあ……」
とそこで思い出したように女性が言う。
「迷惑をかけた相手といえば、都で良く見かけた"じむかすたむ"に文は出しているのか? 出してない? いや、それは恩知らず過ぎだろう……。他人が主人公の"らぶぷらす"に興味はない? お前、もうちょっと私に分かるように話せよ……」
女性は辟易したように肩をすくめる。ただ、相手のことを疎ましく思っているわけではないようだ。
そこはかとなき親愛の情が見て取れる。
女性は咳払いをして続けた。
「……まあ、お前がそう破天荒なおかげで私も天職を見つけることができたわけだがな。化け物退治は楽しいよ、実際。強くなっているという実感がある。今なら、霞の奴にも勝てるかも知れん。何、すてーたす的にむりげーだと? う、うるさい! 無理を努力でひっくり返すからこそ、価値があるんだ!」
その後、女性はまさしの方へと手を伸ばし、まさしが食べていたまんじゅうを奪い取ってしまう。
「……やはりだ。ずるいぞ、お前。自分の分には"べじまいと"を塗ってなかったのだな。これだからお前は……」
ずるいだの何だの。いい加減、真名で呼べだの何だの、ああ、これあれだ。痴話喧嘩だ。
急速に興味をなくした私は、更なる歴史的場面へと飛んでいった。
『次で最後よん』
ホモ神様のお言葉に期待が膨らむ。
いよいよだ。今の今までは前座であった。
思うに、ホモ神様が見せたかったものとは、劉備の残した軌跡なのであろう。
これまでの場面において、私は劉備という人間のことを、同時代人がどう捉えているかを理解することができた。
……だが、肝心の本人を未だ直接見ることができていないのだ。
一体、彼女はどのような人間だったのだろうか。
私は気弱だが、一本芯の通った貧乳の少女であることに今月分の給料を賭けてもいい。
聖像にあるように、猫耳の頭巾をかぶっていれば言うことなしである。
そしていつでも劉備を甘やかしてくれる忠実な家臣が、呉子遠様を筆頭に侍っていて……、たまには男色にふけることで私の目を楽しませてくれるのである。
私の意識は飛んでいく。
景色もそれに伴い移り変わり、移り変わり、辺境を乗り越え、砂漠を渡り、巨大な湖の周りにある石造りの都の寸前で、
ぽよん。
ぽよん。
「し、子遠さん、どうしよう! あ、あれ、この国の兵隊さんだよね。話して分かる雰囲気じゃないんだけど……」
ぽよん。
ぽよん。
「お、おおおお落ち着くのですぞ。玄徳殿。こう言う時は外交的な非礼を犯さぬよう、毅然と……。ヒエッ、矢が飛んできた! 上司殿、上司殿! どうすればっ!?」
ぽよん。
ぽよん。
「アンタたち、うっさい! 今必死に考えてるんだから! 何であいつらが血眼になって私らを追いかけてるのか――、そういえば桃香。さっき女の子拾ってたわよね。あの子、何よ」
「んう? えっと、お父さんやお母さんを悪い人たちに殺されちゃったとかで……。放っておけなかったから、つい……」
ぽよん。
ぽよん。
「……やけに身なりが良かったわよね。ちょっと身分聞いてみなさい」
「え、えええっと。王族だって、すごい。偉い人の子だったんだ……!」
「……子遠。精鋭率いて、突撃。前に向かって、敵を蹴散らして逃げるわよ」
「ファッ!?」
ぽよん。
ぽよん。
「いやいやいや! 上司殿! 逃げるというのに、前に進むとかまるで意味が分かりませんぞ!」
「うっさい、やれ! 殿をじりじりと削られるよりも、死中に活を求めた方がずっとマシよ!!」
「いやそれは無理、あいででででででで!? は、はひ、よおし頑張るぞい!」
私は目を閉じ、さっさと現実へと戻ることにした。
「てめーら、仕事だ。お頭のために命張れや!!」
「久しぶりにタマの取り合いだ。臆病もんはここで死ね!」
親戚によく似た桃色巨乳女も、"出たら負け軍師"に良く似たクソ男も、仕事場にうじゃうじゃいる山賊もどきの男どもも現実にいる分で十分である。
仕事したくないなあ……。
梁山泊よりも待遇が良くて、この美少女軍師を甘やかしてくれる素晴らしい職場はないものか……。
ないよね……。
~おまけ~
20XX年、日本で刊行。『初心者の三国志』より。
その後の劉備……
広宗での会談後、張世平の助力を受けて大規模な武装隊商を組織化。大陸中を渡り歩く大商人となる。
彼女の活躍により、商人の世界は大きく二つに分かれた。
自由な市場と競争原理が一定に働く華北の商界と、豪族と結託した御用商人が価格を厳密に統制する華南の商界の二つにである。
前者は、魏帝曹操の先進的な施策により、洗練された官僚制度が整備されることになり、後者には後の世まで続く貴族を頂点とした身分制度が構築されることになった。
この政治的、経済的に立場を違えた二つの世界が軍事的衝突を繰り返した時代こそが、今で言う南北経済戦争の時代であり、後に曹操の風下に立っていた北郷が蜀へと移転し、勢力図が三国鼎立状態に膠着するまで、数多の戦いが繰り広げられるのである。
こうして南北争乱期、三国鼎立期成立の立役者となった劉備であったが、本人自体は大陸情勢に関わることはなく、自身の影響力が及ぶ範囲で困窮した民を救うべく、私財をなげうち続けた。
彼女の投資した財を元手に、商人として大成した集団が後の山西商人であり、その支援を受けた武侠集団、梁山泊である。
彼ら山西商人の特徴は、何と言っても独特の理念に基づいて行動していることにあるだろう。
生産の拡大。それは商売によって得た利益により、また新たな商売と雇用を自発的に生み出そうとする概念である。
劉備によって救われたことが、他者に手を差し伸べようという姿勢に繋がったのであろうか。
彼らの商業活動は実に広範にわたって広がっていき、今日には大陸の外側に幅広い交易圏を作り上げるまでに至った。
漢王朝以上に効率化された官僚機構を生み出した曹操――。彼女という存在は一代によって完成しすぎていたために、彼女の作り上げた魏王朝は、次代において呉王朝に吸収されることになった。
対する華南を牛耳った孫家は、呉王を中心とする強固な貴族制を作り上げることに成功したが、同時に権力の分散を招いてしまい、数代の後に有力貴族に王権を簒奪されることになった。
そして蜀の北郷は数多くの子孫を残し、魏勢力や呉勢力との婚姻外交によって終始、一定の存在感を持ち続ける。
呉王より権力を簒奪した貴族も、元をたどれば北郷の流れを汲む者であったことから、「曹操が素材を集め、孫策が饅頭を作り、北郷の子孫がそれを食した」と、世人に評価されている。
だが、その北郷の血筋ですら今や玉座に存在しないことを考えると、今の世に名と功績を残しえたのは劉備ただ一人だと言えるのかもしれない。
そんな彼女だが、天寿を全うする際に残した資産は周囲の人々が驚くほどに少なかったそうだ。
彼女の目指した戦のない世の中を作り上げることは生涯かけてもかなわなかったが、臨終の際には安らかな表情を浮かべていたそうであるから、その人生はおおむね幸福であったのであろうと考えられる。
その後の荀イク……
儒学の名家である荀氏の息女として生まれた彼女であるが、その半生は戦いの歴史であった。
劉備一党における、事実上の総大将兼実戦部隊長であった彼女は、劉備と反目する勢力との武力衝突を一手に引き受けることになる。
彼女の名声が大陸に轟くことになる最初の戦いとしては、まず黒山賊との戦いが挙げられるであろう。
当時、洛陽の近隣に根城を置いていた黒山賊は都の大商人から支援を受けており、その兵数たるや数万を下らなかった。
個々の練度や装備も流民を核としていた黄巾賊とは比べものにならず、権力のしがらみによって動くことのできなかった官軍も、市井の人々もまさか劉備の一党が黒山賊に打ち勝つとは思っていなかったと考えられる。
彼女が黒山賊の纖滅に用いた十面埋伏の計は、今でも軍人を志す人々にとっては理想的な伏兵の用い方であり、タラス河畔の戦いで用いた荷馬車の城砦化戦術と並んで後世の評価が高い。
もし彼女が曹操か孫策のいずれかに仕えていれば、南北朝の争いはあれほど長期化しなかったのではないだろうか。
余談だが、彼女は強烈な新参嫌いであったと今の世に伝えられている。
例えば、趙雲が劉備の才覚に惚れ込み、家臣に加わりたいと申し出てきたときには「決して加えてはならぬ」と家臣入りを反対したという。
更に黒山賊との戦い後に駆け込みで加わろうとしてきた張遼についても同様に反感を示したが、こちらは追っかけという形で無理にと一行に加わってきたため、最終的に家臣入りを許している。
後に呉懿の副官となる王平との相性も悪く、「反骨の相がある」という言いがかりをつけたことはあまりにも有名だ。
これらの逸話は果たして彼女の人見知りによるものなのか、それとも才覚あるものへの嫉妬なのかは未だに議論の分かれるところである。
その後の呉懿……
三国一の忠臣として名高い彼であったが、正直な話、劉備一党に所属したことこそが、彼にとって不運であったのではないかと言わざるを得ない。
武装隊商として各地を流転するようになってより、まず彼が直面したのは略奪経済を主とする匈奴らの襲撃たちであった。
万里の長城の外側で暮らす騎馬民族にとって、迷い込んだ農耕民族とはまさに搾取・略奪の対象であり、平和的な交渉など臨むべくも無かった。
無論、後に彼らと和解することになるのは歴史が証明しているが、それまでは激しい争いの連続であり、呉懿はそこで人並み以上に恵まれた武才と、天才軍師との奇妙な相性の良さをもって、副官である王平とともに戦場を縦横無尽に駆け巡ることになる。
有名な逸話としては、三日三晩の全力疾走が挙げられるだろうか。
その功績は、神出鬼没の騎馬民族をして「あいつら怖い。馬を走って追っかけてくるんだもん」と言わしめるものであり、今でも"貧者の最終兵器"だの、"対騎馬民族決戦人型兵器"だの"とりあえず困ったら呉懿使っとけ"だのと、世に居る歴史愛好家から高い評価を受けている。
余談だが、彼が天寿を全うする際に残した資産は周囲の人々が驚くほどに少なかったそうだ。
恐らくは主の清廉さを踏襲してのことだろう。
多くの功績を為した人物はそれに伴う財貨を得てしかるべきだが、「今度は貝に生まれ変わりたい」との迷言も残していることから、歴史上初めての社畜であったとする珍説も流布されている。
以上でとりあえず完結です。
ここまでお付き合いくださった方々、本当にありがとうございました。