あの素晴らしい愛を   作:落窪よしお

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中篇

 今日、エリカとグリシーヌは半日非番であった。エリカは暇があれば聖書を読むか巴里の甘味処巡礼に興じることにしており、今日も何れをしようかと思っていた折、グリシーヌが声を掛けた。

「そなた、我がブルーメール邸の模様替えを手伝ってはくれぬか」言葉には出さなかったがエリカが露骨な顔をしたので、グリシーヌは慌てて付け加える、流石に表現が悪かった。

「実は今日、邸の一部を孤児院に貸し出す為の作業をしようと思ってな。いや、メイドや孤児院のスタッフが主だって仕事をしてはくれるのだが、我が家に来る子供達の顔も見ておきたいところだし、(わたくし)も手伝おうと思ったのだ。シスターであるそなたも来て、気の利いた事でも言ってくれれば子供達もこれからの生活に希望を持てよう。無論、礼はするぞ」グリシーヌの言葉を聞き、俄然エリカの顔は明るくなった。

「ふふふ、グリシーヌさん。グリシーヌさんが子供達に無償の愛を施そうと言うのに、どうして私がグリシーヌさんに対価を求められましょうか?寧ろ、グリシーヌさんの善行に手伝わせてもらえることが、最大のお礼です」

 エリカのやや大仰な言い回しにグリシーヌは少々面食らった。だが、すぐに微笑みを返す。「そなたなら、そう言ってくれると思った」

「勿論です!さあ、張り切っていきましょう!」

 

 

 貴族としての務め。その議論は浩瀚(こうかん )な書を著し得る程に興味深いものだが、グリシーヌ・ブルーメール、この若き貴女が至った結論は民に寄り添うと共に彼らを先導すること、就中(なかんづく)貧困の泥の中で生きねばならぬ人々に何をか為すことであった。

 これは、実はエリカの功績に因る。以前に何度か、エリカがグリシーヌを修道院の救貧活動に連れ出したことがあった。そこでグリシーヌは巴里の霊的脅威に遭遇した時と、同じ衝撃を感じた。世には想像を絶する貧しく、切なく、侘びしい環境で生の蝋燭を融かしている人々がいるという事実を、その美しい青眼で受け止めたのである。

 以来、グリシーヌは変わった。何かにつけ巴里の貧困に関する情報、そして彼らに対する施策についての情報を集めた。その勤勉さは真に貧者のことを考えたものであった、即ち(いたずら)に自己満足的な一時の慈善を良しとするのではなく、持続性のある、社会の弱い立場にある人々が頼ろうとした時にいつでも頼られる様なそうした行いをすべきだと考え、研究した。

 調べば調べる程に、学べば学ぶ程に、グリシーヌの口から巴里の貧困の話題が上ることは少なくなった。それは興味がなくなったからではない、彼らについて軽率にものを言えなくなったのである。

 貧困とは社会構造によって生み出される。故にその改善は容易ではない。社会構造は鋼鉄以上に強固だからである。

 しかしだからと言って、何もしない訳にはいかなかった。結局私一人の満足の為やも知れぬが――とグリシーヌは思いつつも、今の自らに出来る限界として、ブルーメール邸の一部を孤児達の為に使おうと決意したのである。

 エリカとグリシーヌは屋敷の中を並んで荷物を運んでいた。二人の他にも大勢の人間が幾条を成しせっせと働く。必要な家具を運ぶばかりではない、今週から屋敷の増築工事も行われていた。二人が持つのは孤児らが使う調度品の数々である。

「ところでグリシーヌさん?お家の名前はどうするんですか?」ペンやノート、筆記具の詰まったバスケットを抱えながらエリカが言った。

「名前?」グリシーヌが視界を覆わないギリギリまで積み重ねて持っているのはテーブルクロス、どれも青色のものばかり。

「そうですよ。新しく子供達を住まわせるんですから、「グリシーヌさんのお家」以外にも表札が無いと変ですよ。まるでグリシーヌさんが勝手に子供達を住まわせているみたいな…グリシーヌさんはちゃんとした手続きを取った上で子供達と暮らすのですから、それと分かる名前がこのお屋敷にないと」

「成る程。う~ん、でもそれは子供達が元居た孤児院の支部なり別館なりでよいのではないか?」

「グリシーヌさん?ちゃんと子供達の立場になって考えて下さい。そんな無骨な名前じゃ、子供達が誇りを持てませんよ」

「むう、それもそうか。確かに子らの感じ方は大切だな…」

「奥様、お早う御座います!」若い職人が前方にグリシーヌの姿を認めるや張りのある声で言う。それからも何人かの職人に挨拶をされた。その日初めて会った職人は、この様にグリシーヌに挨拶をすることになっている(らしい、グリシーヌが強要している訳ではない)。職人がグリシーヌに挨拶する度に、エリカは「奥様(オクサマ)奥様(オクサマ)!」と言ってグリシーヌをからかう。男達の快闊な態度にグリシーヌはヒントを得た。

「決めたぞエリカ。子供達が住むこの屋敷はブルーメール邸と共に、「荒波を越える者共の家」と称する」

「スパルタっぽい名前ですね」

「彼らは望まなくとも、スパルタになるのさ――辛く厳しい環境を経て大人になることでな。この家に来て、そして出て行く子供達は運命の海原にあっても(たくま)しく舵を取る人物になってほしい……大袈裟と、笑うかエリカ?」グリシーヌはらしからぬ自信無さげな顔をした。

「まさか。ピッタリですよ」

 子供達が使う予定の部屋――それはどれも巴里の一般的な住宅事情からして破格の広さだった――に日常、彼らが使う道具を並べていると、グリシーヌはいよいよ心が引き締まる思いだった。これからの彼らとの共同生活、決して楽しいことばかりではなかろう、けれども私は不愉快なことも含めて、彼らと同じ時を過ごしたいのだ。

 エリカが人数分の筆記具があるか確認していると、外で子供らの戯れる声がした。グリシーヌはこの広き部屋の扉ほどの大きさもある出窓から、慈愛の表情でそれを見た。

「エリカ、私はこれから職人方と打合せをせねばならぬ。その筆記具を並べ終わったら、庭に下りて子供達の相手をしてほしい」

「任せて下さい。巴里華撃団花組隊長の本領発揮ですね!」

「おい、それだと私達を、そなたは子供扱いしているということになるが!」

 

 

 激しい試合だった。エリカの顔面を打ち、脚を踏まれ、空を駆けた活躍にもかかわらず、エリカのチームは負けてしまった。あんまりエリカが身の負傷を顧みないので、一試合が終わると子供達の方から少し休んだらと言った。これくらいヘッチャラですよ、そう言い、頭よりぶっ倒れた状態からガッツポーズしつつ立ち上がった瞬間に、試合で痛めた足首が悲鳴を上げたので、エリカは子供らの気遣いに甘えることにした。

 子供達が無尽蔵かと思われる体力で、なおサッカーに興じている間、エリカは少し距離を取り芝の上に座した。丁度よいメタセコイアの木があったので、それを背もたれとする。

 童らの声、職人が仕事をする音、青い空、流れる雲、そして万のものを照らす太陽。今自らが感じているのは平穏そのものだと、エリカは思った。

 風はそよかに、火照った体を癒やすだけの冷たさがあった。そこでエリカが熱くなった呼吸を静めていると、十を過ぎて幾歳かという少年がおずおずと(そば)にやって来た。その顔つきが緊張していた故に、エリカは自らもやや姿勢を正して応じた。

「少年、私に何か御用ですか?」

 その少年の身なりは他の子供達と同様に一目見て、物質的に恵まれていない環境で生きていることを悟らせた。単に着ているものが平均未満というだけではない、それは粗末なものを長年使い続けた見窄(みすぼ)らしさがあった。体の肉付も良いとは言えない。ただ、少年の瞳だけが修道女への畏怖に強張りつつも、(にわか)に輝いていた。

 シスター、僕の書いた手紙を添削してほしいのです、そう少年は言った。「手紙ですか?」聞けば、以前孤児院に来た神父が子供らに手紙、そして詩の書き方を教えたらしい。そこでこの少年は感謝の意を込めて手紙を書いたのだと。答えは判っていながらエリカは問うた。「何方(どなた)への手紙でしょう?」エリカが聞いたのは友の名であった。

 街角でよく配られている共産主義者のアジビラの裏に下書きされた少年の手紙を、エリカは読んだ。しかしその内容は取り立てて添削などするまでもない整った文章であり、恐らく辞書を逐一引いたのであろう、綴の間違いもエリカには見付けられなかった。

 となると、問題は少年が手紙の草稿の下に、隠すかの様にして渡してきたもう一枚の方である。それは詩であった。男が女に詩を贈る時、それは大概一つの理由による。エリカは少年が本当に見せたかったものを解した。

 

 

  春風の運びたる 

    巴里に花の()を 我に()

  汝の下されし慈雨

    我が心の 泉とならん

  然れども  

    天道の万人が為にある如く

  汝が御徳(おんとく)

    卑しき鼠の為にあらざるなり

  世の(なら)

    生けるものども 相似たるものを相好む

  虫 鳥を愛さざり

    石 雲を愛さざる

  人 我を見るならば

    天日目指す イカロスと言うらん

  然り 我の求むるは

    畏れ多くも 聖母なり

  天秤が

    釣り合わぬものと 知りながら

  矮小なる自我 如何とも

    此を抑うるに能がなく

  我が内より出でし炎焔(えんえん)

    (こいねがわ)くは我が骨を 灰燼(かいじん )に帰すまで盛らば盛れ

  我と(いえど)もそうならば

    汝が美しきその御庭 或いは利するもあるらんと

  そして春風吹いたらば

    花をば咲かせ 汝を楽しません

 

 

 上等な詩とは言えなかった。しかしこの稚拙な詩が、そして詩を書いて愛を伝えようとする少年の直向さが、エリカをはっとさせた。

 ――燃えるような恋。萌えるような恋。

「少年?私は詩の良し悪しはあまり分かりませんが、一つ言えることがあるとすれば、私だったら、こんな卑下した詩は嬉しくありません」詩の出来には自信があったのか、少年は面食らった表情をした。

「恋の炎で僕は燃えちゃってますってトコまではいいですけど、それが自分を灰にしちゃって、それから後にあなたのお庭にお花を咲かせます…って、私が誰かから好きだって言われたら、断然!抱き締めてほしいです」少年は幼いながらのこの詩の技巧を、エリカに説明する。エリカはそれをウンウンと頷いて聞くがそれでも承服しなかった。

「私にはですねぇ、少年。お花を咲かせるの最後の行が、酷く消極的に思えるのです。自分の中で、あの人が好きで好きで堪らずに!炎まで出しちゃうにもかかわらず、どうして、本人に直接愛を伝えないのですか!別に釣り合わなくたっていいじゃないですか、もしかしたら向こうもあなたのことが好きかも知れないのに」エリカは愛についての持論を(まく)し立てる。少年は愛だの恋だの書かずにその意を伝えようとして詩を書いたにも拘らず、エリカが恥ずかしげもなくそうした言葉を使う為に、顔を赤くした。

「何と言えばよいのでしょう。少年、あなたの表現は謂わば静的なのです。プラトニックというのですか、こういうの?恋の詩を書く以上は、そんなんじゃ駄目です!」そこまで言わずとも、と少年は赤らみ照れながらの不満顔をした。

「という訳で、愛しきあなたは仔羊、私はそれを狙う狼で、隙あらばあなたを食べちゃいます!みたいな、動的な表現が良いですよ」

 エリカが勢いよく喋りまくった後、少年は圧倒されていた。単にエリカの語調が何かに憑かれたかの様に熱心だったというのもあるし、シスターが恋だなんて俗っぽいことをそれだけ語ることに驚いた。しかし一息ついて、風に髪をさららと揺らすエリカの横顔を見ると、エリカが少年の手紙を読みそうであった様に、少年もまた悟ったのである。

 シスター、恋した人がいたのですね。

 エリカは明らかに不意を突かれた色をした。しかし少年の方は見ず、子供らがサッカーをしている方を相変わらず見続けた。

「どうして、そう思うんですか?」非難めいていると聞こえなくもないエリカの語気に、少年は少々狼狽した。触れてはならぬ傷に触れたかと口ごもっていると、一転、エリカは「分かっちゃいますよね」と少年に微笑んだ。エリカの一貫しない態度に少年はきょとんとする。

「さーって!休憩もしましたし、そろそろ皆の方へ行きましょう、少年。このエリカ・フォンティーヌ、皆さんへ新生活に向けたアドバイスをしちゃいますよ」

 エリカが歩きながら言った。

「少年、今の詩の話は、半分冗談くらいに取っておいて下さい。私に詩の才能はないし、あなたが愛を伝えたい人物が、私が好きじゃないって言った書き方が好きな可能性もありますからね。でもこれだけは言えます」立ち止まり、少年の肩に手を置き、その目を見据えてエリカは口を開いた。

「大好きな人がいるのなら、愛を伝えるだけでは駄目なんです。あなたの大好きな人が、もしちょっとでもあなたの愛に振り向いてくれたのならば、次の愛の言葉を伝える前に、その手を握ってしまわねばなりません。そして、二度と解いてはならないです。あなたが大好きになった人は、他の人にとっても大好きな人でしょうから――愛は奪い取るものなんです」少年は黙って大きく頷いた。

 見ると、エリカ達が向かっていた子供達の集団は二人から遠ざかる様に移動していた。「あれ、何かあったんでしょうか」子供達の行く先にいたのはグリシーヌであった。さっと、少年がエリカの後ろに隠れようとする。

「あ、そういうことしちゃうんですか。それなら――」と言って、エリカはグリシーヌの名を叫びながら駆け出した。少年はエリカが何を企んでいると思ったのか、シスター待って――と釣られて芝を蹴る。

 グリシーヌは子供らに囲まれて笑みを湛えていた。

「おおう、どうしたどうした二人共!」

 エリカは勢い良くグリシーヌに抱き着く。ただそれだけのことに一同は、邸の工事をしている職人も思わずにやける程の、大きな笑い声に包まれた。

 

 

 季節は巡り、夏の()を懐かしんでいるうちに冬の空が恋しくなる。万物は流転し、生き物は命の連鎖を営む。少年は青年となり、新入りが達人となる。そんな当たり前のことを、私は忘れていた気がします。この無常の世の中で、私の季節はずっと止まっていたのですから。大神さんに会ったあの日から、私の人生はずっと浮き立ちっぱなしでした。

 少年には否定する事を言いましたが、でもホントはすっごく良く分かるんです、あの気持ち……もう大神さんと一緒にお花を眺められないのなら、いっそ大神さんのお家の花の、その一輪となって、季節毎に大神さんが、お庭の草花を愛でる中で私も見てくれたのならそれでいいって――

 

 

 その歌は題して「祈り」と言った。お喋り好きの子供の一人が、二人はシャノワールの踊り子であることを言い出し、何か歌ってとせがんだのである。

 では一曲だけ――そうした歌ったのがそれだった。その歌声は、青空の下に、ただ童らを相手としたものにしては、切なく美しく、聞く者をして思わず目を見張り黙させずにはいられない、つまり素晴らしいものだった。それはプロによる歌舞に不慣れな子供達だけではなく、いつも共に練習しレビュウをしているハズのグリシーヌでさえ、この時のエリカの歌が、真に迫るという点で異様な輝きを持っていることを感じた。

「たとえ未来ぃー…」歌うエリカは涙ぐんでいた。エリカの前に座した子供達は息を呑みながらその声を聞く。子供達の後ろにいた孤児院の保母が、隣にいたグリシーヌにそっと耳打ちする。どうやら、この保母はエリカが選んだこの歌の(ことば)を聞いて、篤信(とくしん)なシスターだと感動したらしい。この保母はエリカの歌う「あなた」を神と解した様で、極めつけはサビの部分、「未来約されておらずとも、我は汝が為に生きん」、つまり死後に救済されることを貴方様がお約束になられなくとも、私は貴方様の栄光を讃う為に生きます、とこうだ。グリシーヌは敢えて保母の幸せな誤解を正すことはしなかったが、しかしエリカのこの歌声には、それだけ人の心を揺さぶるものがあったのだった。

 歌い終わると子供達はありったけの力で拍手をした。「えへへ…どうもどうも」子供達に囲まれてエリカは照れる。だがグリシーヌはそのエリカの赤らんだ顔に、別の意味を見出した。

 ――何か、私に出来ることをせねば。

 傾いた日差しがエリカの顔に影を作っていた。

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