あの素晴らしい愛を   作:落窪よしお

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後前篇

 ……そうした理由によりこの地区の治安は巴里中でも最悪であり、日々市警並びに行政を悩ますところである。最新のデータにおけるこの地区の霊的治安指数は九二、この指数が経験的な、信頼性の試験段階にある不安定なものであることを鑑みてもこの事実は等閑に附してよいものではないだろう。早急な調査を要する。

 しかし巴里華撃団本部の妖力レーダーへの反応が確認出来ない以上、彼の地区で霊的脅威が醸成されつつあるにしても、それは現段階にては高い霊力を持つ者のみが感知出来る状況にあると思われる。なお調査に際し実動員の安全を確保する為に、市警は協力を惜しまない。

 ついては調査の具体的な検討の為、速やかな返答を求む。

 

 

 巴里華撃団本部、作戦司令室。連なる分厚い書物の数々、壁に掲げられたライラック家の先人の肖像画、古典ゴシック風の落ち着いた内装、その中でエリカは一人静かに調査の関連書類に目を通していた。身に(まと)うのはトレードマークの赤い修道服でも、また戦闘服でもない。それは地味な色合いに輪を掛けて着古しているのが一目で分かるシャツにスカートで、よれよれの様は凡そ清新さからは程遠い。この工場労働者然としたエリカを、街で富裕な紳士淑女が見掛けたら哀れな娘と思ったことだろう。上着には男用のトレンチコートを用意していた。

 またエリカはいつもなら何らの拘束をしていない艶のある髪を、今は一つ結びに束ねていた。傍らには色褪せたハンチング帽。そこへ、エリカと同じ様に平素とは異なる成をしたロベリアがやって来た。ロベリアの見目もまた、踊り子たるの溌溂(はつらつ)さを感じさせぬ地味なものである。エリカは書類から視線を外した。

「よお隊長、待たせたな」

「今考えると、ロベリアさんは却っていつものアバンギャルドな格好の方が安全なのでは?」

「言われてみればそうかもな。ま、あの地区の「いつもの状態」を見たいんだから、出来るだけアタシらが調査することであの地区の雰囲気に与える影響は小さい方がいいのさ」

「なるほど」

「それじゃ、時間外労働と洒落こむか」

 二人は信頼の笑みを交わしシャノワールの裏口から夜半へ踏み出した。

 

 

 その後、エリカとロベリアの両名は巴里市警の協力隊と合流、そこで作戦を確認した。エリカとロベリア、並びに協力隊第一班はその地区に足を踏み入れ調査の実働にあたる。その際、協力隊第一班は地区全体に散開しエリカ達から応援要請を受信した場合に、即時駆け付けられるよう備える。協力隊第二班は機関銃等による重装備で当該地区の周辺で待機し、事態の悪化に警戒する。

 警察署の一角、協力隊の全員が入るには狭っ苦しい部屋。壁に貼られた市内の詳細な地図や事件に関するメモと共に、蒸気灯の光に照らされ薄暗い部屋に浮かぶ警察官らの目は、尊敬の視線を送っていた。その先にいるのは、彼らよりも一回り体格の小さなエリカである。彼らにとってのエリカは嘗て巴里を救った英雄であった。

 グランマ立案の「巴里防衛新計画」では市警との高度な連携が謳われている。そこでは巴里市内における霊的早期警戒への協力が市警に主な役割として設定されていた。グランマの個人的な顔利きもあってその一部は個別的に、大綱からは先立って実施されていた。その際に巴里華撃団部外者への情報開示としては初めて、正式に市警協力隊の警官へ巴里花組に関する情報が一部共有されたのである。そこには乙女らが尋常ならざる力を有していること、乙女らはその能力を適切に行使するだけの良き信念を有していること、そして今日まで巴里が在るのは彼女らの献身的な活動があってのこと――などが書かれていた。五年前の「巨樹」事件では直接間接に、巴里花組の活躍に命救われた者も警官の中には大勢いる。ヤニ臭い部屋に似つかわしくない二人に、やもすると警察署のお偉いさんに払うよりも大きな敬意が示される所以である。

「――調査概要は以上です。質問のある方は?」

 手を挙げる者はいなかった。何を欲しているのか、男達の目がエリカに語る。

「皆さん、くれぐれも当該地域への刺激には注意して下さいね。何分治安の悪い所で、皆さんが黙っていられないという場面にも遭遇するかも知れません、ですがぐっと堪えて下さい、繰り返しになりますがそうしたことまで含めて霊的脅威を把捉しなけれなならないのです。

 では「グレート・プディング作戦」を開始します。各員、気を引き締めてかかって下さい!」

 ――ほう、なかなか良い男共だ。

 大声で和し、気力(たぎ)らせる警官らを見てロベリアは一人愉快そうであった。

 

 

 行政上の境界を越して数分とせずに異様な雰囲気を感じた。

 臭い――処理の雑な屎尿の臭い、血の臭い、動物が腐敗する臭い、不衛生の観念とばかり接続される異臭ばかりが漂っている。また夜の闇を補う音も物騒なものしか聞こえてこない。喧嘩の声、怪しい薬の売人の声掛け、誰かが泣く声叫ぶ声。暴力が溢れていた。

 人心の荒みは言うまでもない。路傍に(たむろ)している連中の通行人を見る猫の目、猜疑と品定めの目である。蒸気灯の光なき故分かり難かったが、ロベリアはその青年らが手にナイフを忍ばせていることを見抜いていた。手前ェらがアタシらに手ェ出そうってんならこっちも手前ェの首を飛ばす位の用意はあるんだぜ――そう威嚇するかの如く肩肘張ってカツカツと歩く。二人の変装は幸い上手くいっていた。女だというだけで命取りになりかねない緊張が張り詰めていた。

 まともな街灯少なし、建造物密集、路は尽く狭し。犯罪の集まる良い条件が揃う地区、二人が歩くのはこの様な場所であった。

 二人はなるべく人通りの少ない道を選んで歩く。そういう道こそ危ないのだが、ある意味では今の二人はその危なさを求めて歩いていた。

 物乞いをする浮浪者を脇目に、時折二人は建物の壁の棄てられたビラを見た。『労働者による労働者の為の政治を!今こそ我が祖国には革命が必要である!』ビラの背景色に使われた赤色が鮮やかさに欠けていて何とも物寂しい。

「ポイント二の五――ルート通りですね。ロベリアさん、これまでに何か感じました?」

「いーや何も。市警による事前評価にあった通りだな…凶気はそこかしこにあるが妖力となると…」

「最深部まで行ってみなくては分かりませんね」

 警邏の際の道標として市警が偽装したアジビラを辿りながら、二人は奥深くを目指す。空には雲が立ち込めてますます行く手を不気味なものにしていた。

 

 

 それは恐怖の感覚と似ている。肌がぞわぞわと震え出す感覚である。調査開始から一時間、いよいよだとエリカとロベリアは思った。

 歩くのにすら難儀するこの暗中を(つじ)の如く駆け抜ける何かがいる。縦横無尽にこの地区の気の立った連中にぶつかることも厭わずに、動き回る何かがいる。形無き声無き存在、二人はそのモノを感じた。

 しかし様子がおかしい。以前に対峙した怪人らは斯くの如き不安定な存在ではなかった。人の形をし明瞭に自己を認識していた。その意味で彼奴らは人間と(たが)うところ、ただ超常の力を有する点のみである。ならばある種のガスの如く渦巻くこいつらは何か?

「形態としてはとても原始的な気がします…怪人以前というか」

「ああ、こいつらは妖力が緩やかな纏まりを作っているだけって感じだ。もう少し経つと十分な力が集まって、何処からともなくこいつらは怪人としての体を持つ様になるんだろう」

「妖力の(かび)…」

「成る程ここはコロニーか」

「――!」

 空中を漂う違和が集中して点となる、エリカは咄嗟にロベリアに警告しようとした――が、居るべき場所にロベリアはいなかった。

 振り向くとあたりは漆黒が包んでいた。夜の暗さとはまた違う闇である。夜とは言え季節外れの冷気が肌を撫でる。エリカは完全に飲み込まれていた。

 実体としての「街」は無くなっていない様子だった。建物は依然としてあるし路も路としてある。だが人気(ひとけ)が一切(さら)われていた。それが証拠に今まで聞こえていた物騒な音が耳に届かない。少し路を戻ってみるとさっきまで浮浪者が寝ていた場所には誰もいない。

 エリカはスカートを(めく)り特注のホルスターに収められた愛用の短機関銃「ラファエル」を取り出した。腰溜めに構え前後を確認する。我を攻撃しようという意志の他には何も感じられない。頭の中で警報がガンガンと鳴る。

 ――第一にロベリアさんの発見、第二に市警の方々への警告、第三に可及的速やかな脱出。

 銃を握る手が汗ばむ。エリカは足早に移動を始めた。

 暫くしてエリカは出会った。

「やはり…」

 エリカよりもやや大きいそれは、正面から見ると上下に伸びた楕円形の如き(さま)であった。だが上方に(くび)れが、中程に左右対称の触手が、そして下半身が二つに枝分かれていることから人形(ひとがた)を模していることが分かる。酷く歪な人形であった。またその形状は蠢いていた。比較的大きい「要素(エレメント)」が一定の規則に基いて緩やかに結合している様だった。そのモノ全体は黒かったが、結合しつつも蠢く「要素」の奥から時折青白い光が漏れる。

 それはゴソゴソとエリカに近付いてきた。エリカは恐怖と闘志で引金を引く。

 銃弾が当たった箇所ではそれの「要素」はバラバラと霧散する。それに伴って露呈した内部が一層の輝きを見せた。暗闇に慣れきった目に光が突き刺さる。

 弾倉の半分も使う前にそれは、最後に閃光を残して消えた。すると路地の奥で「おーい」という声がした。エリカは走る。

 人が二人並ぶことも出来ない狭い路を抜けると割合に大きな街路に繋がっていた。昼間であれば出店が並ぶであろう空間である。寒さがコートを抜けて柔肌に触れる。

 他に誰もいない石畳の上に立っている者が一人。そいつは手を振りエリカは銃弾で返事をした。頬や頭頂から発光する人間はいないからである。そいつは又もや鋭く光って煙の如く消えた。

「ふう」

 ――一々戦っていたらキリがありません…早くしないと…。

 エリカは否が応にも十分に警戒していた。伝わってくるのである、あの妖気の塊から怨恨の情が、隙あらば相手の体を滅茶滅茶にしてやろうという悪意が。しかし一人で警戒出来る範囲は所詮限られている。特に今エリカのいる場所が防衛する者には不利であった。

 敵の能力もまだ未知数故、遮蔽物のない広い空間を歩くのは危険と見てまた狭い路地を往こうとした時である。音もなく妖力の塊が現れた――建物の屋根からするりと落ちてきたのである。エリカの真正面、距離ゼロメートル。本能が呼び起こす一瞬の怯えが消え去ったならば、直ぐに弾丸を浴びせるつもりだった。だが敵はその一瞬を()いた。

「あ…ぐ…」

 手と呼ぶにはまだ未分化な触手がエリカの首を捕らえた。間近でそれの体表を見る。どうやら奴を構成する「要素」とは深黒の球体の様で、直径は手の爪の半分程。すぐさま右手で敵を狙うも触手で銃が叩き落とされた。エリカの足が徐々に石畳から離れていく。

 触手から直接に敵の思念が流れ込んできた。

 ――やはりこのモノはこの地区に溢れる「憎悪」の集合体…まだ明確な自我も意志も目的も持たない…ただ己を構成する攻撃性の赴くままに行動しているだけです…。

 呼吸が出来ずにエリカの意識は薄くなっていく。そこにこの妖力の塊の思念がエリカに伝わり、乙女の内を侵食し始めた。強烈な負の感情がエリカを支配しようとする。抗おうとするも克つだけの思考を巡らすことが出来ない。

 だらり、とエリカの四肢は脱力した。するとそのモノは童が何処まで高くボールを投げられるか試す様にして、ぐいと触手を(しな)らせエリカを宙に放り投げる。エリカは路地を俯瞰する高さまで上り、そして頭から石畳に叩き付けられた。起き上がる様子はない。

 征服欲を満たしたと見え、「塊」は次なる獲物を求めて闇のその奥へ――拙い足取りで――向かった。

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