グランマと昼食をとっている時であった。エリカにとっては糖分摂取と同義であるその日課の後、珈琲を飲んでいる時にグランマから告げられた。
「えっ…アイリスが巴里華撃団を離れて陸軍の士官学校へ?」
「と言っても正規の学生じゃあない。特別研究生ってのが、向こうが用意してくれた身分だ。卒業は出来ないし公式の軍籍も与えられないけど、ともかくそこで本式の軍事教練を受けられる。エリカ、アンタには度々話していることだけど巴里華撃団はこれからどんどん強い組織になっていなかなくちゃならない。その為には少なくとも他の隊員を指揮する人間には、軍人としての教育を受けた者がいた方がいい…ムッシュ大神の様にね。
これは別に、アイリスが武者修行から帰ってきたらエリカを隊長の座から外して後任にアイリスを据えようって訳じゃあない。アイリスが華撃団に戻ってきても、引き続きアンタには花組の隊長を務めてもらう。その時、そしてそれ以後に、アンタには巧くアイリスとアイリスの智識を使ってもらいたいって話さ。隊長として意見は?」
唐突なことに、エリカは目を丸くしていた。「いえ、私からは特に――あ、ですがグランマ、それでしたら軍から教官を引き抜いた方が良いのでは?」
「遠からずそうする予定ではある。ただ、いきなりそれが出来ないのは、軍や軍に近い政治家に華撃団を警戒させない為さ。華撃団が軍事における陸軍の絶対優位性を脅かそうとしている――ってね。だからまあ当座の対応としてってことさ。それでもアイリスの担う役割は重要だけどね」
「ええ…」エリカは無自覚に、空になったカップを唇に当てて傾けていた。
ブルーメール邸はグリシーヌの私室で、チェスをしていた。子供達の遊ぶ声も聞こえず、またカーテンが閉められ二人の視界は傍らの蝋燭によって維持されていることから、夜であると思われた。
エリカもグリシーヌも黙って駒を動かした。時折グリシーヌが「そなた、もっと考えろ」とエリカにアドバイスする。ただその声、そして「はあい」と応じるエリカの声も、何処か気が抜けていた。
「実はな、エリカ。これはまだ機密扱いだとグランマから言われているのだが――」
「はい?」
「グランマは数年のうちに「巴里防衛新計画」に次ぐ第二の新防衛大綱――「フランス華撃団構想」を政府に上奏する。これは巴里華撃団の如き霊的防衛組織をフランス全土に拡大して設置、及び各地の組織を統括する一つの大きな軍令部を置こうというものだ。つまり――」薄明かりの中でエリカの目を見詰めた。「いよいよ、我らは陸海軍の様に堅強な官僚組織を軸とした軍事組織へと変貌をしようというのだ」タンッと盤に駒が叩き付けられる。
「そうですか…」うん?その話って以前にグランマから聞いた様な…。
「そして、だ。グランマ曰く、未だに我が国では畏れ多くも国王陛下を始めとし、生まれつき高貴なる人間が一般国民からもそれなりに尊敬を集めている…そうであるから、貴族の称号を持つ者が組織の長となることは組織に対する一般の求心力を高め維持するのに効果的である、と」
「グリシーヌさん、説明が回りくどいです。はい、チェック」
「どあほう、その位置ではチェックにならんわ。で、その、つまり…フランス華撃団が日の目を見た暁には、
「え――」手元が狂い、エリカは駒を正しく盤に置き損ねた。ビショップの空襲を喰らい幾つかの駒が倒れた。
「おい、阿呆隊長、ここだけの話だが」
二人は雑踏を縫いながら歩いていた。市が企画した芸術祭だとか何とかで、いつも二人が歩く道にも人がごった返している。人と人の隙間たるや寸分になく、人波という言葉が
「アタシはそのうち、華撃団内部に新設される新部署に異動になる。帝都では月組って呼ばれていた連中の仕事を、アタシが巴里でやることになった。調査部隊、諜報部隊、影から花組を支える役目だ――」
エリカは人の波に飲まれまいと必死に体を動かす。それを見てロベリアが手を貸してやる。「え!ホントですかロベリアさん!」エリカは周囲の声に紛れない様に声を張り上げる。
「ああ!」ゴニョゴニョと何か言った気配。「今何て言ったんですかー!」
「アタシにピッタリの仕事だろって言ったんだ!」ロベリアも大声で言った。「あの!エビヤンとも一緒に仕事をすることになる!随分気の利いたジョークだよ、全く!」ロベリアは大笑いした。そしてぐいとエリカを引き寄せたかと思うと、肩に担いだ。
「ちょっと、ロベリアさん!」困惑にエリカは手足をジタバタさせるが、ロベリアは素晴らしい平衡感覚で以て、普段よりも一段高い所の空気をエリカに吸わせた。街路には、ざわつき浮き立って足を運ぶ群衆すらも注目してしまう哄笑が通って行った。
「お二人、どうしたんですか、こんな朝早く、それにその格好」
エリカがいつもの赤い修道服に着替えたばかりの早朝に、花火とコクリコはシャノワールの自室へ訪ねてきた。二人ともいつも着ている様なものではなく、品が良いというか、普段着よりも上等な服に身を包んでいた。おまけに二人共、一人では持てなかろうという大きさの
「まるで、何処か遠くへ旅行するみたいな…随分大袈裟な感じですが」
「そう、僕達、国へ帰ることに決めたんだ。僕はベトナムに」
「私は日本に」
「これから汽車に乗って港を目指す。そこで今日中に極東行の船に乗るつもりなんだ」
「ど、どうしていきなり、お国へ帰ろうと…」
「父さんの国を見たくなったんだ。僕の体に流れる血の半分は、ベトナムのものだから」
「私もコクリコさんと同じ様なものです。私は、日本で学問をやりたい。まだ日本では女性の大学進学は認められていませんが、女でも立派に成果が出せるってこと、証明してみせますわ」
そう言うコクリコの顔は決意堅く、花火の顔は大きな野望に微笑していた。エリカは焦り言った。
「そんな、お二人共変ですよ。今まで一度だってそんなことを仰ったこと、なかったじゃないですか。ぱ、巴里に何処か不満なところがあるんですか?」縋る様な口調。
「そうじゃないよ…ただ、僕も今は十六になった――母に会いたい一心で全てを
「そんな…」
「この街、そしてこの街の人々には大変感謝しています。国籍も肌の色も異なる私達を受け入れて下さって…でもだからこそ、いつまでもその善意に甘えていてはいけない、自分が本来居るべき場所に居、そして自らの仕事を為すべきだと思うのです」
「おかしいです、間違ってます!」エリカは叫んだ。「この街に感謝していると言うなら、巴里に残って一緒に作って下さい、未来を!そうでなきゃ、恩知らずですよ二人共…」
エリカは半泣きであった。しかしエリカが取り乱しても二人は一向気に介さない様子で、「じゃあ僕達行くから」とどでかい行李を両手で掴む。
「待って下さい!」
「エリカ、手紙書くよ。ベトナムから、僕の祖国から」
「日本の甘味には数週間保存の効くものもありますから、良い物がありましたらお送りしますわ。では、ご自愛下さいませ」
エリカは二人を引き留めようと手を伸ばした。けれども触れようとした二人の肩は、閉まる扉の奥に消えた。ばたんと音を立てエリカと二人を隔てたそれは、エリカがノブを回さない限り壁と異ならなかった。
エリカは母親に菓子をねだる子供の様に、泣き喚いた。
「皆さん、どうして私を置いていっちゃうんですか…私を一人にしないで下さい、私は巴里華撃団花組の隊長なんですよ」
「何れ、華撃団は秘密部隊ではなく公の組織としてフランスに君臨することになるわ。私がこれから勉強してくることは、その時、花組にもきっと役に立つ。待ってて、エリカ。必ず一人前の兵士になってくるから」
「私はアイリスにそんなこと望んでません。ただ、一緒に戦ってほしいだけなんです」
地面にへたれたエリカに、青の軍服を着込んだアイリスが目線を合わせる。そして堅く、エリカの手を握った。「じゃ、行ってくるわ、隊長」
「正直、私は偶像としての貴族というのは、好かぬ。高貴さとは、行為の実践のうちに見出されるべきことと思う。しかし私が王国の霊的防衛組織の長たることで、少しく民心が安んずるならば、敢えて持説を
「グリシーヌさんも、性急ですよ。お屋敷の子供達のことはどうなるんですか、彼らにはグリシーヌさんの慈悲が是非とも必要なんです。今のままだって、十分貴族の義務は果たせますよ」
グリシーヌはエリカの肩を抱いた。「エリカ、そなたとも、もう長き付き合いになるな…あの頃あの時、出会ったこと、戦ったこと、忘れたくとも叶わぬ。ふふふ――事を成す場が違おうとも、志はおんなじだ」
「大悪党と呼ばれたこのアタシが!巴里市警と協力して霊的脅威に関する情報収集だなんて、まー面白い、傑作と言ってもいい。傑作!ならば上手く演じてみようじゃないか、このサフィール様の名演技、市警共、巴里市民の連中、そしてアンタに見せつけてやるよ」
エリカは泣きじゃくった。「ロベリアさんに…そんなの務まるハズないですよ。ロベリアさんは花組にいて、光武に乗っているのが一番いいに決まってます」
そのエリカの頭をロベリアは、ぽんと叩く。「アタシもよお、これから花組に入隊するガキ共には、今や霊力は劣るだろうけどさ。気に入らない怪人を丸焼きにするくらいは、どうってことない。だから花組がヤバくなったらいつでも呼びな。アンタらがアタシの登場に感動している間に、敵を完全燃焼させてやる。隊長も頑張れよ」
「不安もあるんだ。今更国へ帰って、僕に何か出来ることがあるのかなって。もしかしたら受け入れてもらえないかも――なんてね」
「だったら巴里にいたらどうです。この街の誰も、コクリコに文句なんて言いませんよ」
帽子を目深に被ったコクリコは彼方を見詰めて言う。「でも、行かなきゃ駄目なんだ。この目で祖国の今を見なくちゃ。ベトナム人としての血が、僕を極東へと誘っている…」
「世界の強国と言えば欧米が先ず挙げられますが、世界の果てにあっては日本だって捨てたものじゃないんです。今や神埼重工の製品は世界中に輸出されてますしね。フランスがそうである様に、日本もこれからどんどん発展していきます。工場は建ち、蒸気の力は都から
「巴里は…巴里は世界一の都市ですう…ここには何だってあります――ここでの便利な生活を捨てて日本に行ってしまうなんて、花火さんは大馬鹿さんです…!」
花火は帽子が飛ばされない様に手で押さえながら、エリカに笑った。黒いワンピースが揺れる。「エリカさん。人間、やろうと思えば出来ないことはありませんわ。それは私達の蒸気社会が証明しています、だって、動物としてはこんなにひ弱な生き物が、これだけ素晴らしく力強い機械を大量に作っているんですもの。智性と情熱があれば凡そ不可能事はないんです。だから私は、私の本来いるべき国で、私のちっぽけな智識とローマンスとを燃やし尽くしたいんです!」
銘々別れの言葉を告げると、五人は身を翻し各々目指す方向へ歩き始めた。無様に泣くエリカはよろよろと立ち上がり、それぞれ違う方を向く五人全員の背中を追おうとする。けれども自らの足は石の如く重く、それでいて友は颯爽と光の彼方へ行ってしまいそうであった。
「待って、待って――」
エリカはそう何度も繰り返したが誰も止まることも、振り返ることもしなかった。伸ばした右手はただ虚空を掻く。するとエリカは、ただでさえ五人の背中が遠くなったというのに、躓き、転んでしまった。顔を地面と衝突させる。いつもならば何でもないそのドジが、今は酷く惨めに感じられた。地に臥し暫し寂しさを噛み締める。エリカは孤独であった。
「おい、大丈夫かエリカ!」
駆け付けたロベリアは石畳の上へ仰向けに倒れているエリカを見つけた。今宵は天からの光なく、この街路には蝋燭一本の明かりさえない。倒れている仲間を介抱するのに良い条件ではなかった。技術大国フランスと雖も、この時代、ポケットに入る大きさの便利で安全な明かりはない。しかし灯がなくとも火ならある。ロベリアは手先に丁度良い大きさの炎を発現させた。大きくはないが、力強く燃える頼もしい火であった。
肩を軽く叩きエリカの名前を叫ぶ。僅かに目尻が動くも明確な反応無し。いきなり抱えようとはしない。頭のみならず頸椎を強打している可能性があるからである。その場合、無闇に頭を揺らすのは生死に関わる。
焦る気持ちを抑え、ロベリアは爪先から頭までエリカの体を丁寧に観察した――が、時間は掛からなかった。後頭部を見ようとエリカの首筋から手を滑り込ませた時、指先にぬるっとした感触がした。ロベリア自身も地に臥す様な姿勢でエリカの後頭部を覗くと、栗色の髪の毛の奥、比較的首に近い箇所から赤黒い液体が流れていた。
「畜生…!」瞬時に心臓の脈打つ音が激烈となる。ロベリアは携帯キネマトロンで市警協力隊に応援要請を送った。二人は計画した順路からそう大きく離れていないハズで、十分も掛からずに協力隊の誰かは二人を発見出来るだろう。それまでにやれることを――ロベリアは大悪党現役時代の悪事を為す時の手際で処置を始めた。
まずエリカとは正反対の方向に落ちていた「ラファエル」を持ってくる。弾倉を外し
だがエリカは頸椎を損傷している疑いが濃い以上、ロベリア一人ではこの作業は出来ない。一人ではどうやってもぐらぐらと頭を動かさねばならないからである。結局、ロベリアは待つ外になかった。
――大丈夫だ、落ち着くんだアタシ。この阿呆は自分の頭に衝撃を与えるのが大好きな女じゃないか。今更一つや二つの傷くらいどうってことない、どうせ今回だって幸せに天使サマを見ているに違いないんだ。
コートを脱いだ身に夜風が吹いた。ロベリアは何かをしたい一心でエリカの手を握る。見れば首全体が赤紫に腫れていた。細いものではなく、太く大きな一本の紐なり縄なりで締め上げられた痕である。
――やはり奴らに!
ロベリアも数体の「塊」を焼殺してきたところであった。エリカ同様、気が付いたら敵の能力に引き摺り込まれており大慌てでエリカを探していたのである。
昏睡するエリカの顔には表情がなかった。苦悶の色がないと言えばそうだが、かと言って安らかに眠っているとすれば適当でない。力の抜けた顔であった。
ロベリアが祈る気持ちでエリカの顔を覗いていると、エリカの目蓋が動いた気がした。
「エリカッ…!」ロベリアの声は起きない人間に対する悲痛の呼び掛けではなかった。それはギリギリまで手を伸ばせば届き、掴むことが出来る人間に対する一声であった。思わず強く握り締め過ぎたロベリアの願いが、夢に引き込まれるすんでのところにいたエリカを呼び戻した。
「…ロ…リア…さん…」
驚いたと同時に胸を刺される様な思いがした。
――まともに呂律が回っていない、それってかなりヤバイってことじゃないのか――クソっ、どうしたら…!
エリカの二つの眼球は覗き込んだロベリアを確かに追った。しかし集中が維持出来ない様子で、すぐに何もない中空に視線を泳がせてしまう。
たどたどしい発音でエリカの唇が動く。「ロベ…さん…で…よね…
「エリカ、多分アンタは怪人の攻撃をまともに食らったんだよ、それで頭と首を強く打っている…まあ凡人ならなかなかヤバそうな状況だが、アンタなら大丈夫さ」精一杯の笑顔を作った。エリカは返事をした…ようにみえた。
「さっき市警の連中に応援要請をした。すぐに助けが来る、そうしたらそいつらと一緒にアンタをシャノワールまで運んで帰ってやるから、アンタは何も心配しなくていい。ただ頭を動かさず、上を見ていな」エリカを安心させたい一心で、普段は到底言わぬことまで口を突いた。「そ、そうだエリカ。シャノワールに着くまで、ずっと神サマにお祈りしてな。ほら、空の向こうには神サマがいるんだろ」
「お…祈り…」
――通じたか!
今のは確実にアタシの喋ったことに反応しただろうと、ロベリアはほんの少しだけ安心する。思考能力が壊滅的な打撃を受けていない証拠と信じたかった。するとロベリアはエリカの片手がピクピクと動いているのに気が付く。
「…て……て…」
「て…?手か、エリカ?ああそうか、お祈りをする為に手を結ぶ必要があるってことだな」
この光景を見てやはりロベリアは泣きたくなった。
「ああ、分かったよ」
普段のエリカはまるで自分とは異なる構造の体を持っているかの様に、走り回り、跳ね回り、転げ回る。人の身で為し得る動作の限界に挑戦しているかの如き無鉄砲、それがエリカ・フォンティーヌという隊長。そのエリカが今、自分の手すら結べないという。
ロベリアがお祈りのポーズをさせてやると、エリカは再び目を閉じた。
「そうだエリカ、アンタの霊力は確か人の傷を癒やすことが出来たハズだろ、アレを自分に使うことは出来ないのか」
「れぃ…く…?…」
「神サマの奇跡だよ。神サマにお祈りするんだ、私の体を治して下さいって」自分でも情けないと思う声色で言った。見ている
「…み…さま…」
エリカは天に向かって絞り出す様に呟いた――光、あれ。
「!」ロベリアは驚いてエリカの全身を見た。目の錯覚によるものかと疑う、だがそうではない。エリカを桜色の輝きが包んでいた。刹那、ロベリアは呆気にとられた――だが、次の瞬きをする前にエリカの両手をしっかりと握り、己の掌に全霊を込める。
――やりやがった!
桜色の
天まで届かん勢いで焚き上がるのその強烈な光輝は、一つの路を満たすばかりではない、角を曲がり壁を越えて遂には地区全体を燦然たる命の輝きで抱擁した。
市警協力隊の数人が辿り着くと、エリカの傍らにロベリアが
ロベリアの雰囲気がおかしかった為に、まるで怪異に近付くかの様に協力隊は慎重に歩み寄る。直ぐに様その理由は分かった。ロベリアは泣いていたのである。
「アンタらも見ただろ、あの馬鹿でかい光を?口も利けないくらい弱っておきながらあんな力を発動するなんざ、やっぱりこいつは大した女さ…コンチクショウめが」
協力隊の中の用心深い一人が、ロベリアが乱心した可能性もあると考えそっとエリカの脈を確かめる。果たして脈拍正常、おまけに胸が大きく上下していた。
「こいつは恐らく頭を強打していた――首だって締められて腫れ上がってたんだ。それなのにさっきので頭の傷は跡形も無くなっているし、首は絹の白さに戻っていやがる。ホント、どっちが怪人なんだかって話だぜ…はは――」
協力隊の警官らが反応に困っているのを見て、ロベリアは涙を拭き立ち上がった。「アンタらを呼んだのはこのエリカが敵の攻撃を喰らってヤバそうだったからだが――こいつの怪我は取り敢えず心配要らなくなった。調査は完了さ。さあ、帰ろうぜ」
警官がエリカの体を丁寧に抱えようとする。しかしロベリアが、
「いや、アタシが連れて帰ろう」
と言って、疲労困憊しているハズの身にエリカを抱いた。
「ったく、赤ん坊みたいにすやすや寝やがってよ……」
目を醒ますと、見慣れた天井に嗅ぎ慣れた匂いがした。
雲が所々に浮かぶ青い空の下、心地良く風の吹く草原に立っている様な、太平然とした気分。日常は次から次へと雑事がやって来るけれど、今この瞬間だけはそれら一切から解放されている様な気がする。
傍らの椅子に腰掛けていたグリシーヌはエリカが起きたことに気が付いた。読んでいた文庫本をぱたりと閉じる。
「エリカ、起きたか」
「グリシーヌさん」エリカは身を起こした。
「体の調子はどうだ。何処も痛まないか」
「ええ…とっても、良い気分です」
「で、あろうな。そなたが寝ている間に医者が随分調べていたが、健康体そのものと結論して帰って行った――そうだ、水でも持ってこようか、エリカ?」
「ええ、お願いします――ですがその前に。ロベリアさんは…私、ロベリアさんを探している時に敵の襲撃を受けたんです」
「自分の前にまずロベリアか。その話は水を飲んでからでも遅くない。待っておれ」
グリシーヌはすぐに帰ってきた。病後の様な気の抜けた顔をしていたエリカだったが、コップ数杯の水を立て続けに飲み干す様を見て、確かに大丈夫そうだとグリシーヌは大いに安心する。
「ロベリアなら怪我もなく、今もグーグー寝ておろう。奴は何時ぞや――と言ってもそなた覚えておるか?――の様に、そなたをこの部屋まで運び、しかも着替えの世話までしたのだぞ」
「無事なんですね、良かった――それにこの服もロベリアさんが…」エリカは自らの服を見る。それは汗と油で化粧したあのボロっちい服ではなく、上下白の清潔な病衣であった。「後でお礼を言わねばなりませんね」
「そなたの体調に関してだが、ロベリアの話に拠ればそなたは後頭部を負傷していたそうだ、まともに会話も出来ぬ程にな。その時の記憶は?」
「ほんの朧気に」
「ふむ…そしてその傷だが――」
「神様が奇蹟を」
「そう、そなたの言う神の奇蹟が顕現しそなたを救った」
グリシーヌはエリカの能力が発動した時の様子をロベリアから聞いていた。ここ一番という時に大した体力と霊力だ――とグリシーヌは改めてこの隊長の内に日頃は潜在している力に驚く。
「そなたの敬虔さは主の御墨付きということであるな」
「えへへ…グリシーヌさんも私を模範としてくれてよいのですよ?」
「それはお断りだ」くすくすと二人で笑った。
「それと、グランマが調査報告書の提出は明日の昼まででよいと言っていた」
「了解です」ほら、日常は私を捉えて離さない。
「ああ、グランマで思い出した、エリカが目を醒ましたら連絡しろと言われていたのであった」グリシーヌは携帯キネマトロンを取り出しカチャカチャとやる。
――あの実態が不安定な、他者に対する敵意ばかりが先行していた様な怪人…というよりも妖力の集合体。あれを発見出来たのは幸運でした。これで嘗ての様に怪人が強い力をつける前に、こちらから先手を打つことが出来ます。
しかしエリカは静かに唇を噛む。情けない結果であった。
隊長たる自分がやられていては他の隊員の指揮はどうなる、今回の調査は事無きを得たものの一歩間違えれば隊全体を危機に陥れかねない大失態だった…と、幾つもの自責の言葉が胸に
――出来るだけ早期に、あの地区の霊的掃討作戦を――
次の作戦案が浮かび、エリカは壁に掛けてあるカレンダーを見た。
「!」そして浮かんだ案は消えた。
「グリシーヌさん、今日は何日ですか?」ぱっと明るい顔で問う。
「うん?」送信ボタンを押したグリシーヌが顔を上げる。「今日は――」グリシーヌが答えたのは帝都で大神一郎と真宮寺さくらの結婚披露宴が行われる日附であった。
「やっぱりそうですよね!アイリスとコクリコが巴里を発ってからそろそろ三週間、そう言えばあと数日のハズだって思っていたんですケド!」
グリシーヌは急に緊張した顔つきになった。「ああ、そうだな、今日は隊長とさくらの披露宴の日だ…」
「ふふふ…あーあ、私も行きたかったなあ、帝都!羨ましいです、二人共」からりと言う。対してグリシーヌの口振りは湿っぽかった。
「私もだ」
「えーっと、巴里と帝都の時差ってどれくらいでしたっけ」
「八時間だ」
「それですと?日本はお日様が昇る国って自称しているくらいですから、帝都の方が進んでいるって計算すべきですよね…あれ、私の懐中時計は何処に…」
「そなたは懐中時計など持っておらぬだろう。帝都はもう日没だ」
「あれ、私そんなに寝ていました?」
「無茶を言うな。死んでもおかしくない容態だったのだぞ」
「それもそうですか。そうだ、披露宴のタケナワは過ぎてしまったかも知れませんが、お祈りしましょうよ、グリシーヌさん。お二人の前途を祝して」
「そうだな」ぎこちなく笑った。
両手を胸の前で結び目を閉じる。二人の視界は仄暗さに覆われた。
暫しの沈黙の後であった。強張った声でグリシーヌが言う。「エリカ、こんな時に何だが――そなたには言わねばならぬことがある」
「はい?」
「大神隊長の影を追うのは、もう止せ」
「えっ…」
グリシーヌは息が詰まりそうな気分に、何とか肺から空気を捻り出そうとした。「そなたが隊長を好いておるのは承知だ。しかし隊長が生涯の伴侶に選んだのは――そなたではない。その現実を受け入れて、前を向いて歩くべきだ」
エリカは言葉を返さなかった。
目を瞑ったまま、グリシーヌはなお続ける。「確かにあんな男と人生を共に出来るのであれば、苦しきことも易く、楽しきことは一層愉快に生きられるであろう。だが世の中の男は大神隊長ただ一人ではない、そなたが心を開いて街を眺めれば気に入る男を見付けられぬことはないハズだ。だから、だから…」
目で見ずともエリカには友の感情の流露が分かった。
「もう、どうしてグリシーヌさんが泣くんですか。こういう場面で泣き出すのは、普通私の方でしょう」その声がグリシーヌの張り詰めた心を優しく包み込む。
「だって、そなたの気持ちを思うと胸が
「グリシーヌさん、耳を澄まして下さい。ほら聞こえるでしょう」
そう言われてグリシーヌは何とか嗚咽を抑え込み、静かに届くその音を意識した。天から落ちた雫が、屋根を、窓を、道を、巴里をそっと鳴らしていた。
「グリシーヌさんには、前に言いましたっけ…?私、以前は雨が嫌いだったんです。イヤなことがある時は決まって雨が降っていて…まるでジンクスの様に。けれど、そんな考えも百八十度塗り替えられちゃいました――大神さんが巴里に来てから。
大神さんが帝都へ帰ってしまっても、雨があると思い出すんです。大神さんが巴里に私達に注いでくれた、あの素晴らしい愛を」
「エリカ…」
「昨晩、私は一瞬の幻影を見た気がします。どんな幻だったかさやかには覚えていません、ですがとっても寂しいものでした。まるですーっごく広い場所に一人取り残された様な…。
グリシーヌさんが仰ったことは、よく分かっています。そして告白すれば、正直、非常にショックでした…大神さんの結婚。大神さんとの思い出丸ごと忘れてしまいたい程に。
でも、あの幻影、あれは怪人の能力によるものでしょうが、私への警告だと思いました。このままウジウジしていたら、誰とも手を繋がず誰とも抱擁せず
諦めがつく――って、なんだか如何にも負けた人間の表現みたいで好きじゃありませんが、まあそんな感じです。大神さんとさくらさんの結婚は虹なんです、きっと…。美しい、けど触れることは出来ない。ならないものねだりをしたって仕方ありません。空に架かった虹を見て、その綺麗な景色を心にピンナップして、また生きるべき日常へ帰っていく…」
「それがそなたの出した結論か」
「はい」
「そうか…僭越なことであった」
「ただ――」
降る雨に気持ちが溶けていく。
「今日、このおめでたい日だけは、濡れる街並みに大神さんの横顔を重ねさせて下さい」