午後十時。何でもない会話をして、たまに笑って、俺こと大凪悠はそんな時間がとてつもなく貴重なものだと痛感している。
俺にとっては高校の友達と遊んだり、ソシャゲでレアなキャラを引いたりするよりかも、幸せだった。別に他の物事が悪いという訳ではなく、ただただこの時間がどうしようもなく、代用なんて効かないくらいに大切なもので、つまるところ格が違うのだ。
俺と彼女、夜風華は、俺の部屋と華の部屋とを仕切る非常用の仕切り板がある所で、その仕切り板を挟んで背中を合わせ、そうして何でもない会話を繰り返す。それ以上でもそれ以下でもない。それだけの時間だった。
「夏休みの宿題、どれくらい終わった?」
「三割くらいだな。やる気が出ねぇ」
俺が通っている高校だけなのか、それとも平均的にそうなのか、高校一年生の夏休みの宿題というものは、異常に多い。三年になれば受験勉強に向けて宿題が少なくなることは分かっているが、ならば二年時はどうなのだろうと思う。これ以上多かったら、クーデーターを起こされても仕方がないと思えよ、学校。
「やっぱり、少し溜めちゃってるんだね。あと二十日で夏休み終わっちゃうよ? また、鈴に怒られるんじゃないの?」
「だろうな。明日から本気出すよ」
「出さないパターンだよね、それ」
「出ねぇもんは出ねぇよ。大人しく、怒られとくよ」
怒られる相手、浜浪鈴は俺と同じ高校の、もっと言えば俺と同じ中学校だった同級生だ。ちなみに華は違う高校に在学している。
「本当に、お母さんと息子みたいだね。仲が良くていいな」
「俺と華も結構、仲が良いだろ」
「ぇあ、うん、そうだね。……私達って仲が良いのかな?」
「そりゃなぁ、愚痴を零し合える仲って結構仲が良いもんだろ。基本的には華の愚痴を聞きっぱなしだけど」
「たまに鈴から、悠への愚痴を聞いてるからプラスマイナスゼロかな?」
「俺が割に合わねぇ!」
「ふふっ、元やさぐれヤンキーがこんな風になるんだから、鈴の影響力は強しだね。母強しみたいな?」
母という言葉は、俺と華の間でのみ使う鈴の代名詞だった。俺にとって鈴はそういう相手だった。別ベクトルへと――つまり方向も想いの力も――昇華してしまったせいで、恋愛感情を決して抱かない相手。ちなみに鈴は俺のことを手の掛かるクソガキだと思っているらしい。
「それで、今日も今日とて雑談で終わりか?」
時刻は十時二十分。既にかなり話している。最近は特に要件もなく、だらだらと話し続けるだけの毎日だった。夏休みでお互いに帰宅部なのはどちらの高校でも珍しいらしく、時間が合わずにこうして俺と話すことで暇と孤独感を潰しているらしいのだ。
「んー、それでもいいんだけどね。だけど、ちょっと鈴に相談したら、今すぐ解決しなさいって言われたんだよね。だからそれを解決したいなって」
「へぇ、それは俺に解決できることなのか?」
「うん、できるよ。失敗にしろ成功にしろ、できるよ」
「ん? どういう意味だ? ってか、その内容って?」
「んー、言いたくないっていうか、言う勇気がないっていうか。だから、何とかして自分で考えてくれないかな?」
「ふぅん、まぁ、推理ゲームみたいな感じか。いいぜ、そういうの俺好きだし」
「そっか、よかった。それじゃあ、ヒントというか、昔話というか、私達のことを思い出してみて」
言われて、視線を上げながら追想する。
華と出会ったのは、華と話すようになったのは三月の終わり。入学が決まり、高校側から出された異常な量の宿題に辟易としながら、鈴からちゃんと宿題を出さないと承知しないからねと脅迫された為、必死にやっていた頃だったと思う。
気分転換にと、外に出る。夜風は適度な風量で気持ちいい。外の下は今も尚、ブラック企業で残業手当もないというのに働いている――人々がいたらほくそ笑むことができるのだが、恐らくはちゃんと残業手当が支払われている――人々が明かりを作っており、そして上は一切働くことなく太陽の光を反射させているだけの明るい月光がいる。自然体でいる方が楽という皮肉だろうか。ともかく、まだ見慣れない、自然光と人工光が作り出す世界を俺は結構気に入っている。
綺麗という人単語で言い表すのではなく、ただただ魅入ってしまう。人間の知力と、しかしそれを嘲笑うくらいの偉大な自然。そういう差や対比が、俺は多分好きなのだろう。
「……はぁ、この俺が勉強なんてなぁ」
だから、過去と今の自分による対比などはよくしてしまうのだ。黒歴史とかろうじてマシな今の状態。そういう対比や比較は我ながら恥ずかしくなるのだが、どうしても思い出してしまう。俺も丸くなったよなと言うと鈴は、私はそのせいで削れたけどねと言われてしまう。
更生などと言うと聞こえはいいが、要するに俺は他人を傷付けまくって、周りを削りまくって、そうして丸くなったのだ。誰かを傷付けてそうしてようやく、まともになったのだ。
「はぁ……」
過去を思い出し、同時に溜息をつく。
「ん……?」
しかし、同時に隣から同じような声が聞こえた。違和感を覚えて俺は隣を見る。そこには少女がいた。短髪ストレート、赤渕メガネを掛けており、寝不足なのか少し黒い隈が残っている。そばかすが頬の辺りにちょんちょんとあるが、むしろそれをチャームポイントとして誇ってもいいのではないかというくらいだった。完璧過ぎず、完全な不完全性を少女は持っていた。
「あ、えっと、こ、こんにちは」
「こ、こんにちは」
互いに溜息を聞かれたという動揺から視線を右往左往させてしまうせいで目はあまり合わない。互いにしどろもどろになりつつ、それでも不器用ながらも、会話を続けようとする。
「えっと……、いい景色ですね」
「そう、ですね。私、この景色が気に入ってここに決めたんです」
「そうなんですか。俺も、同じような理由です」
「あはは……、ですよね、多分、みんなそんな感じでしょうし」
「ですね」
「…………」
「…………」
気まずい。気まずさで精神的にまずい。どうしようかと思うが、どうしようもない。そっとこの場を離れようかとも思ったが、残念ながらそういう空気は既になくなっていた。昔の俺ならば、空気は吸うものだとでも言って平然と帰っているのだろうが、しかし今はそうではない。相手のことを考え、必要最低限の相手の尊重を心がけている。主に鈴にぶん殴られるから。
「あ、あの、私、夜風華って言います」
さてはてどうしようかと、困難な難問に思案していると少女、華の方から会話を続けてきた。
「あ、俺は大凪悠って言います」
「え、っと、その、悠さん。その少しでいいので、愚痴を聞いてくれませんか?」
「愚痴、ですか?」
「……はい。その、何も知らない相手になら、こう、素直に話せる気がするんです」
「そう、ですか。……分かりました。えっと、それなら、敬語じゃなくても、いいですよ。その……、その方が話易いと思うし」
「……そうですね、じゃなくて、そうだね。うん。えっと、ありがと」
そう言った後、華は少し間を空けてから愚痴を零し始める。
「私ね、いい所のお嬢様って奴なの。そこまでじゃないけど、それなりの大きさの会社の社長の娘って奴。有名じゃないけど無名じゃないくらいの、お金持ちの家に生まれたの」
自慢だけど、自慢じゃないんだ。もう少し黙って聞いて欲しいの。そう言って華は続ける。
「正直、お金に困ったことはない。好きなものを買ってくれたし、好きなだけお金をくれた。正直、その生活は凄い幸せだったと思う。だけど、それがある時――中学校に上がる前くらいから苦痛になった」
「苦痛、ね。何かを押し付けられた、とかか?」
「……正解。私はね、友達と一緒に公立に行きたかったんだけど、お父さんとお母さんは私を無理矢理私立に行かせたの。それで友達が零になって、でもその後友達もできたし、何とかなったんだけどね、高校まで決めたの。どうして勝手に決めるの、って言うと「それがお前の為だからだ」って、そう言ってきたの」
「なるほど」
「だから私は、なら高校生になったら一人暮らしをするって言って、ここに来たの」
「ドラマみたいな話だな。そういう親に、そういう子供、今時いるんだな」
「あはは、それは私も少し思ってる。それで、こうして半ば家出みたいに飛び出してきたんだけど、結局はお父さんお母さんの言われるがままになっているし、全部決められてる感じとか、それに逆らえない感じとか、そういうのが全部嫌になっているの」
「無力感に、自己否定か」
「うん、そんな感じ。結局私は、お父さんとお母さんに決められたレールを走らなきゃ行けないのかなって、そう思うと何か嫌な感じになっちゃうの。私はこれからどうしたらいいのかなって」
それは愚痴だと華は最初から言っていた。愚痴とは、つまりは溜まっていたものを吐き出す作業のことだ。解決策などあまり求めておらず、ただただ今華が抱えている感情を吐き出し、できることならば共感して欲しいという、そういうものだった。しかし、それでも俺は、それを言いたかった。
「無軌条電車って知ってるか?」
「……へ?」
「そもそも、電車ってなんでレールの上走ってるか知っているか? あれは単に、効率がいいからなんだぜ。電車の車輪を車の奴に変えたら、一応は道路でも走れるんだ。むしろ電車が縛られているのは、その上の架線なんだ。電車は、電気がないと走れない。だけど、逆に言えばその架線さえあればどこでも走れる」
「えっと、悠?」
「で、さっきいった無軌条電車だけど、これはさ、トロリーバスとも言われてて、要するに電車の道路版なんだ。名前の通り、バスに近くて、物によっては補助エンジンでしばらくは走れるものもある」
「へ、へぇ……」
「……悪い、話が逸れた。えっと、だから、その。変わればいいんだよ、華が。ただのレールの上しか走れない電車から、無軌条電車に。今から、好き放題やって、成長して、そうすればいい。不可逆変化ってあるだろ、変わることはできても戻ることはできないって奴。そうなって、「ごめん、変わっちゃった」って、そんな感じでさ、華の両親を見返せばいいんだ」
「…………」
華が黙りこむ。しまったと思う。鈴からもよく注意されるのだ、俺は雑学を異常な程に知っているが、相手はそれを知らない。だからそういう雑学の披露は控えるようにと、相手が俺との会話に披露疲弊するから、と。
やらかした、と全力で凹む。不器用なのは重々承知しているが、今日に限って自分の不器用を呪ってしまう。――しかし。
「……ありがと、悠」
「へっ?」
盛大なミスをやらかしたのだと思い込んでいた俺は、その華の声を最初あまり理解できなかった。数秒立って、それが感謝の言葉だと理解した。そして同時に、華の自然な笑みが目に入った。
「応援というか、励ましてくれたんだね。ありがと、頑張るよ」
「お、おう」
それが最初だったはずだ。
「……あれからもう四ヶ月くらいか。早いなぁ」
「そうだね」
「それじゃあ、次を思い出してみよう。二回目の日」
「確か、お互いに入学式の前日だったんだよな」
「うん」
入学式前日。
結局課題は間に合いそうになく、鈴に土下座をして日が暮れるまで手伝って貰い、何とか完遂。帰宅して、漏れがないか確認を済ませてからようやく開放感に包まれ、俺はベランダへと出た。まぁ、何かと理由を付けては毎日ベランダに出ていた。既に見慣れてはいる夜景だが、見飽きはしない。飽くなき、偉大さを教えてくれる。目を凝らして空を見上げれば星もちらほら見えることに気付いてからは、結構長く浸っている時もあるのだった。
「……あ、いた」
ほけー、と星を眺めていた俺の隣から、そんな声が聞こえた。少し嬉しそうな声。
「久しぶり、華」
「うん、久しぶり、悠。えっと、その、またいいかな?」
「構わないよ。今日は何?」
「えっとね、前に悠から、好き勝手やればいいって、高校生になってから好きなことをすればいいって、そんなことを言われたじゃない? だから、私は沢山考えたんだ、高校生活でしたいこと」
「そっか。役に立てて嬉しいよ」
それは間違いなく本心だった。誰かを傷付けることなく、むしろ助けになった。それは十分に嬉しい事だった。
「それで、考えたんだけど……。高校でもね、同じ中学の人がいなくて、また友達がゼロなの。それで、その……」
「友だちができるかどうか不安、と」
「そ、そうなの。私が行く高校、中高一貫校でね、ほとんどがそこの中学校から来てて、だから邪険にされないかなとか、考えれば考えるほどさ、不安になっちゃってさ」
「まぁ、基本的に部外者はあまり快く思われないものだしなぁ。それに、女子グループって怖いもんな」
「うん。まぁ、だから結構、怖くてさ」
「俺さ、中二の頃にグレてさ、女子グループとかも敵に回したんだよな。だから女子の怖さとかは知ってるつもりなんだ。いや、まぁ、知ったかぶりをする訳じゃないけどな」
「そうなんだ」
「まぁ、俺の時は、全く派閥を持たない女子がさ、助けてくて、何とかなったんだけどな。そういう立場になれたら、多分楽なんだろうけどな」
「だろうね。絶対に敵に回したらダメなタイプ。派閥を持たないけど、他の派閥と上手くやってて、その人を敵に回すと全グループを敵に回すことになるっていう、そんな子。私には無理だろうけど」
「まぁな、よっぽどの世渡り術と精神力を持ってねぇと、できねぇと思うぜ」
あははは、と笑い合う。俺は鈴のことを、華は中学校時代のそういう女子のことを思い浮かべていたらしい。
そういう女子がどれほど、人間的な意味で強いのか、俺は中学校の時に身を持って思い知らされた。だから今もまったくもって頭が上がらないわけである。
「俺が思うに、基本的には一つのグループにいるけど、他のグループにも受け入れられるみたいな、そんな感じが一番なんだろうな」
「中学と同じ感じかな。でも、うん……、何か、怖いなぁ」
「大丈夫だろ。隣人にいきなり愚痴を聞いてくれって言うくらいなんだし」
「うっ……、それを言われると、困る」
冗談だ、と俺が言うと、華が知ってるよと笑い、それにつられて俺も笑う。
「大丈夫だと思うぜ、華なら」
「……そっか、うん、ありがと」
「どういたしまして」
どうやら、華の中で決心はついたらしい。華の中でも、既にその覚悟は決まっていたのだろう。しかし、本当にそれが正しいのか不安だった。だから俺という第三者視点が欲しかった。そのくらいのことなのだろう。俺でもよかったし、俺でなくても構わなかった。その程度のことなのだ。
「あ、そうだ。これから、こういう風に話す時の為にライン、交換しておかない?」
「ああ、いいぜ。寝てない限りは、一応ちゃんと応えるからさ」
「ありがと」
結局、友達は非常にあっさりとできたらしい。
「知ってるか。華はラインの十人目の友達だったんだぜ」
「……少なくない?」
「まぁ、仕方ないさ。次の日に言っただろ、俺の過去」
「うん、そうだね」
入学式当日の夜。
ラインの友達の数が十人から六十人に、つまりは一クラスプラスアルファ分だけ増えていたことに半ばにやけながら、ベッドの上を転がっていた。クラスグループの通知は鬱陶しいくらいに多く、既に通知オフにしている。通知数を知らせるアイコン右上の数も気になるので、スマートフォンの設定から消した。何と言うかこれからずっと関わっていくというのに、更にラインで個人的な時間すらも浪費して関わろうとするその意識が俺には分からないのだ。
まぁ、そんなことを同じクラスになった鈴に愚痴ると、付き合えないことを分かっているのに愛を叫び続けるアイドルオタクとか二次元オタクと一緒よ、と言われて半分納得半分疑いと言った感じになってしまった。
閑話休題。
そんな時に、一件のメッセージが来た。華から、結果報告をしたいといったような内容だった。ラインでもいいような気もするが、どうせ隣なのだから入力するよりも伝えたい事が伝わりやすくていいかと思い、りょーかいと送ってベランダに出る。どうやら華はベランダに出てからラインを送ったらしく、出ると少し嬉しそうな笑みでこちら側を覗き込んでいた。
「成功、したみたいだな」
「あ、うん、分かる?」
「分かる分かる。滅茶苦茶嬉しそうだしな」
「うん、そうなんだ。大成功。三クラス分くらいの人とライン交換したし、その半分とは仲良くなれたの」
「へ、へぇ、そうか。そりゃ、確かに大成功だな」
平然と俺より多くの友達を得たと告げる華に内心驚きながら、それを何とか、かろうじて、表に出さずに話を続ける。別にショックなんかじゃない。いや、マジで。
「で、今回はその報告だけ?」
「それでもいいんだけど、こう、たまには私の話だけじゃなくて、悠の話の聞きたいなって。その無駄話とか、雑談でもいいからさ。えっと、ほら、昨日、悠ってグレてたって言ってたでしょ。その話とか、聞きたいかな」
「んー、まぁ、別にいいか。今更、一人二人増えても問題ねぇし。だけど、流石に、こう顔が見える状態で話すのは、キツイかな。その、そこの仕切りの所に背中合わせ、みたいな感じなら、いいぜ」
「じゃあ、それで」
背中合わせになって、はぁと溜息を吐いてから俺はそれを話す。俺のどうでもいい黒歴史を。
「中学二年生の頃かな。思春期ってこともあったんだろうな、俺は何ていうか目に見えるもの全部苛立ったんだ。気に食わなかった。だから、俺は気に食わない奴全員に喧嘩を売った。精神的にも物理的にも、ぶん殴った。男女問わずな。だから、女子全員も敵に回した。女子を敵に回すとさ、必然的に男子も敵に回るんだよな。女子グループとペアの男子グループみたいなのがあって、そして後は誰とも関わらない、そもそもクラスとしては存在していない男女。俺はそれからも嫌われていた」
今考えてみれば当たり前のことなのだ。自己中心的に、自分が嫌なことを嫌と言って、そうして暴れ回る。そんな人間が好かれる訳がない。当たり前のことなのだ。
「だけど、それを俺は、俺が間違えているとは思わなかった。他の奴がバカで、他の奴が理解できてないだけで、俺は正しいと思ってたんだ」
価値観が違う相手を相手にしたところで、相手は自分の意見を受け入れる訳がない。だからそんな奴は無理矢理従えさせるか、無視するかしかないと、そう本気で思っていた。
「それは、凄いね」
「だろ。おかげで、虐められた。ボッコボコだぜ、フルボッコ。だけど、三年に上る前くらいかな。前に言った、誰の派閥にも入っていない女子がいるって言っただろ。そいつに叩きのめされた。イジメじゃなくて、一対一で戦って、物理的にも精神的にもぶちのめされた。……救われたんだ」
「女子に負けたの? 悠って結構、力ありそうだけど」
「そこそこ腕にも自信はあったけどな、相手は柔道部主将。黒帯。しかも他の格闘技も軒並みマスターしてるような、その上で頭のいい奴なんだ。強いんだよ、鈴は。精神的にも物理的にも。今もまだ、俺は鈴には逆らえねぇ」
「鈴って言うの? その人」
「ああ、浜浪鈴。そいつ、俺をボコボコにした後に何て言ったと思う? 「アンタがこれ以上間違えるなら、次は本気で殺しにかかるよ。自分の間違いくらい、自分で気付きなさい。少なくとも他人の間違いを見つけるよりは、簡単なことでしょ」だぜ」
「あははは……、凄い、ね。えっと」
「言葉を選ばなくてもいいぜ。単に、アイツは正しかった。俺が間違えていた、それだけだ」
鈴は、間違いを気付かない俺に、敗北という形で間違いを叩きつけた。真っ向からぶつかって、そうして貴方は間違っていると、そう告げたのだ。
「その後、俺の、まぁ、更生を手伝ってくれた。鈴に言われて、俺は全員に謝った。ぶん殴った男子女子、親、教師、もう、全員に、一人一人。屈辱的だったけどな、だけど、今となったらそれでよかったと思ってる。あの時にあった、それでも俺は正しいっていう間違ったプライドを、鈴は捨て去ってくれた。……本当に、逆らえねぇ。頭が上がらねぇ」
最初は当然誰も許してくれなかった。それでも、鈴の影響力というのは強く、次第に、鈴が言うのならと、そうして許してくれる人間が多くなった。
「まぁ、今となっちゃ、いじられキャラだぜ。今日も、鈴にその当時の画像をみんなに見せ回っていた。……本当に止めて欲しいよな。もう、あんなことにはならねぇからさ……」
文句を言うと、抑止力だと、鈴はそういうのだ。次は私は助けない。私も味方にはならない。だけど、今は味方だから、こうして抑止力を作っているのだと、平然と言うのだ。
「そうなんだ。鈴に一回会ってみたいな。ちょっと気になる」
「鈴の隣の部屋だぜ。俺じゃない方。そこに住んでる」
「わざわざ同じマンションに引っ越してきたの!?」
「いんや、偶然だよ。急にインターホンを鳴らされて、そしたら鈴が、隣の隣だね、これからよろしく、だぜ」
もともと鈴は一人暮らしをしていて、俺が引っ越すことも知っていて、それでも黙っていたらしい。
「……鈴のこと好きなの?」
唐突なその質問に驚きつつ、しかし、その誤解は解かなければならない。俺は、そういう感情を、鈴には抱けない。
「いんや。恩人だよ。なんだろうな、第二の母親みたいな感じだな。昔の俺が愕然とするくらいには、変わった。変えられた。それに恩はあるけど、だけどそれだけだよ。親友であり、母親みたいな感じだ。……こんなくだらない話でよかったのか? 俺がバカだったって、それだけの話だぜ?」
「うん。凄く面白いよ。私のことをドラマみたいって言ったけど、悠も十分にドラマみたいで」
「まぁな。よく言われるよ」
「まぁ、他のことも話せるけど、どうする?」
「……ううん、今日はもういいよ。ありがと、悠」
その日から、こうして背中合わせに話すのが定着し出したのだった。
「結局今も、鈴お母さんには迷惑掛けっぱなしだと」
「そろそろ親孝行の時期ってか。まぁ、適度に恩返しはしてるけどな」
料理が苦手だということなので、唯一勝てる料理をまれに作ったり、鈴が好きだという相手との仲介役を担ったり。よく、アンタを更生させてよかったと本当に思うわ、と俺が作った飯を食べながら言っている。
「繰り返すけど、本当に親子みたいだね」
「ああ。最近は鈴も俺も自称してるよ」
「へぇ、それはそれで誤解されそうだけど」
「まぁな。誤解と言えば、俺の過去について話てからしばらく経ってからだったよな、あの相談を受けたのは」
「うん」
相談したいことがあります。
やけにかしこまった感じでメッセージが送られてきた。時刻は午前一時。
「こんな時間にか」
分かった、と返信してベランダに出る。
「……ごめんね、こんな時間に」
「全然。明日は土曜日だし、徹夜しようと思ってた所だ」
「そっか、よかった。……今日はね、愚痴を聞いてほしいの」
今回に限っては、真剣に悩んでいる。これまでのそれは、単なる愚痴であり、後押しが欲しいというものだった。しかし、今回はそうではない。ただひたすらに悩んでいる。悩みに悩んで、尚且つ答えが出ず、堂々巡りをしている。
「……前に、友達が沢山できたって言ったよね。その仲の一人と、物凄く仲良くなったんだ。うん、『親友』って、呼び合うくらいには。だけど、少し前に別の友達から「私の悪口を陰で言っている」って、そう言われたんだ。それで聞いてみると、その子ね、結構そういう所があるみたいなの。何ていうか、陰では全く違う人格みたいな、そんな感じのこと」
「聞きたいけど、聞いて本当だったら嫌だし、嘘だったなら、何故自分にそんな嘘を吐いたのか気になるし、って感じか?」
「うん。もし、聞いて「そんな風に思ってたんだ」みたいになって、今の関係が壊れちゃうのも怖いし。……それで、今その人と話すのがぎこちなくて、怖くてさ」
「俺は、ハッキリ言うけどな。違ったら、悪いで済むし、言っていたなら、ダメな所を話してもらう。それで改善或いは妥協し合って、改めて友達になって、『親友』になる。……だけど、女子は違うか。一度亀裂が入ると直らない。直ったのだとすればそれは仮初か、或いは最初から亀裂が入っていなかった、みたいな感じか」
「……うん」
声が暗くなる。
「何もしないっていう手はないのか?」
「嫌だ。私はハッキリしたいの」
「なら、自分の信じたい方を信じればいいんじゃないのか? 知らないでいい事実もあるだろ。言い方が悪いかもしれないけど、騙されてもいいだろ」
「…………」
それも、嫌だったらしい。要するに華は結論が欲しいのだ。結論が欲しくて、しかし、その為には何かを失う可能性がある。だから、何もできない。できなくて、だけど解決がしたくて。そういうロジックを幾度となく繰り返している。
だけど、それを俺は許せなかった。
「ちょっと、酷いことを言うかもしれない。気を悪くしたら許してくれ」
その姿は、自分の過去に似ているのだ。
「華って、損な性格をしているよな。知りたいことをなあなあで終わらせられない。それで自分が傷付くことを分かっていても、止められない。知らずにはいられない」
「……うん」
声が小さくなる。――泣いている。
「でもさ、世の中って全部知らなくてもいいよな。むしろ、知らない事とか、知らなくていい事の方がバカみたいにある」
「……うん」
「それでも、知りたいんだよな?」
「……うん」
「なら、聞くべきだと思う。例え、それで仲が悪くなっても、自分を通すべきだと思う。そうじゃないと、華は自分を捻じ曲げることになる。俺は捻じ曲げて、狂った。俺には鈴みたいな奴がいて、曲がっていたのを無理矢理に曲げ戻してくれた。だけど、俺は華を曲げ戻すことはできない。俺は何もできない。鈴だって、多分そこまで面倒を見てはくれない。それに、俺は華に自分を曲げて欲しくはない」
「…………」
「華は、損な性格をしている。だけど、その分、遥かに強いんだ。俺なんかよりも、数倍、数百倍、な。だから、今傷付いても、華ならそれを糧にできる。経験にすることができる。だから、当たって砕けろ。砕けても、華はそれを平気で元に戻せる力があるんだ。愚痴なら、文句なら、相談なら、俺が幾らでも聞いてやる。俺が華に今できるのは、それだけだからな。だからどんな罵倒でも、聞いてやるよ」
「……ありが、とう」
上擦った声を華は、何とかごまかそうとしていた。
「……っ」
心の内に溜まっていたものを吐き出す。本来、そんなことをしてはいけないのだが、しかし今回だけは例外だった。俺は部外者だからこそ今の関係となっていた。
華は、俺と関わりがないからこそこうして話してくれているのだ。関係ないからこそ、こうして何もかもを話してくれているのだ。だから、俺は華に極端に関わるつもりはない。しかし、今回だけはそれができなかった。見ていられなかった。
「……ごめん。俺は、もう寝るな」
見ていられなかった。見ていられず、その場にいられなかった。逃げるしかなかった。
「おやす、み」
結局、あの後は華のことが気になって、何日か、眠れなかったことは今も秘密だ。
「でも、結局は、みんながみんな、少しずつ誤解をしていたっていう、それだけだったんだよな」
「そう。あはは、あんなに悩んでいたのに、凄い馬鹿らしいよね」
「でも、おかげでもっと仲良くなれたんだろ?」
「もう疑う隙すらもないかな。本当に悠のおかげだよ、ありがとう」
「どういたしまして。でも、少し言い過ぎたな。あの頃から、華は鈴と話すようになっていたんだろ? おかげで俺がこっぴどく怒られたんだ。言い過ぎだって、もう少し丸い言い方があるだろって」
「あはは……、まぁ、悠についての相談や愚痴は、鈴に話すようになったしね」
「ああ、よく鈴から注意されて、……ん?」
違和感を覚えて、そうしてそういえばの、今一体全体何を話しているのかを、思い出す。
今日のこれは華が抱える問題を俺が推理ゲームとして解き明かすというものだった。違和感を覚えたのは、引っかかったのは、そういうことだった。
推理ゲームの、推理のヒントとして、単語が引っかかったのだ。
「ああ、そっか。そういうことか」
ゆっくりと結びついていく。
俺に言うの遠慮したくて、鈴に話した相談。俺にはできない、相談。つまり、俺についての相談。
「……いや、でも」
それを答えるのは自意識過剰で、尚且つ間違っていれば恥ずかしいものだ。だから、俺はそれを言えない。
「正直、最初はただの、隣の人だった。だけど、悠の考え方とか、悠の過去とか、そういうのを聞けば聞くほど、楽しくて、嬉しくて、気付かない間に悠のことを知りたいと思っていたの」
「…………」
どうやら俺の推測は正しいかったらしい。
「悠のおかげで勇気を持てた。悠のおかげで高校生活が楽しくなった。悠のおかげで変われた」
なるほどと思う。それが俺のおかげとは到底思えないが、それでも華は変わっていた。大きく変わっていた。自信を付け、自分の意見を誰かに告げることができるようになっていた。
「……私は、悠のことが好き。これからは、隣人としてではなくて、一番のパートナーとして、悩み事や相談、愚痴を話させてください」
純粋な思い。俺はそれに対して、きっちりと答えるべき義務があるのだろう。
悠の答えは。果たして。