俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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本話は文字数が多いので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→142p1


以下、前回のあらすじ。

 二条河原まで呼び出された八幡は材木座を相手に、竹刀を交えながら内心を語る。由比ヶ浜に返事ができない本当の理由を、八幡はついに認めた。材木座に一泡吹かせたりくだらない会話を重ねるうちに、八幡は普段に近い状態まで戻れた。

 ホテルに帰って、戸部が海老名との関係に付き合う以外の価値を見いだしているのを知って。八幡はその姿に、かつて依頼を解決した時の材木座の姿を重ねていた。

 同じ頃、雪ノ下は昨夜と今日で回った各所をもう一度だけ目に焼き付けていた。大学のサロンで一息ついて。こんな時でも我慢ができてしまう自分を、普段どおりの表情で平然と行動できる自分を、雪ノ下はやるせなく感じていた。

 大学の正門でNPCから「骨を折るところをまちがえている」と助言されたり、ホテルの一階で待っていてくれた平塚に大浴場に誘われたり。そんな些細な事を契機に気を持ち直しながら、雪ノ下は修学旅行の三日目を終えた。



15.さし向かいで多くの感情を共有して彼と彼女は別れる。

 修学旅行は最終日を迎えた。一日目や二日目は元気が有り余っていた高校生たちも四日目ともなると疲労の色が濃く見えて、スケジュールを機械的にこなす者が大半だった。

 

 着物の着付けを体験した生徒は帯をくるくると引っぱられてもなすがままだったし、扇子を作れば模様が上下逆になっていたし、せっかく完成した数珠を何をどう間違ったのか線香と勘違いしてロウソクの火であぶろうとした者もいた。

 

 それでも楽しいという感情は最後まで潰えることなく、夢遊病者のように首を時々かくんと倒しながらも生徒たちは残り少なくなった旅行を満喫していた。

 

 

 そして今、総武高校の二年生一同は京都での全ての日程を終えてバスで京都駅に向かっていた。上記のような愉快な出来事が多々あった午前中だが、怪我の功名とでも言うべきか。大部分の生徒がさくさくと体験・見学をこなしたので、予定よりも時間がかなり余っている状態だ。

 

 くあっと口を大きく開けて息を深く吸い込みながら、比企谷八幡がバスの背もたれに身体を預けて夢の世界に戻ろうとむにゃむにゃしていると。

 

「んっ、メッセージか。っておい、続けて二通ってどういう事だ?」

 

 昨日の夕方までなら、部長様とどこぞの部員がやり取りをしているのだろうと思えたのに。八幡がきちんと返事をするまでは、そんなことはもう起きないのだろう。もしかすると二度とないかもしれないと思うと、せつなさがじわりと湧いて来る。

 

 このままだと夢見が悪くなりそうなので、八幡は気分転換がてら届いたメッセージに目を通そうとアプリを立ち上げた。

 

 

『せっかく約束してたけどさ。ごめん、昨日の今日であんたと会うのはね。もうちょっとだけ時間が経てば、前と同じように話せると思うから、今日の東京駅での待ち合わせは中止にしてくれないかな。ただ、あたしも墓標を拝みたいから、いつか一緒に行ってくれると嬉しいな。じゃあ、次に話す時は前みたいな感じでお願い』

 

 たぶん川崎沙希は、ここに書いてあるより何倍もつらい想いでいるのだろう。今となってはどの程度の好きだったのか分からないのが正直なところだが、それでも中学の時に告白して断られた夜はつらかった。もっとも、あの時は翌日に更につらい展開が待ち構えていたわけだが。

 

『中止と、また今度と、両方とも了解。変に「前みたい」にこだわって疲れるよりは、そのままのお前で良いと思うぞ』

 

 本当はこんなことを書くべきではないのかもしれない。だが八幡には判断がつきかねたし、ならば伝えないで後悔するよりは伝えて後悔したほうが良い。そう考えて返事を送った。

 川崎から再度の返信は来なかった。

 

 

『できれば奉仕部の一人一人に謝りたいなと思ってさ。ヒキタニくんが結衣に返事をする前に、どこかでちょっとでも話ができないかな?』

 

 もう一通は海老名姫菜からだった。

 謝られるのは違うのではないかと思ったが、海老名の気が済むのならそれで良い気もする。だが、必要以上に自分が悪いと思っているのであれば、ちゃんと言っておくべきだろう。自分もだし他の二人も、己の責任を他人に負わせることには難色を示すだろうから。

 

『んじゃ、京都駅に着いたら落ち合うかね。待ち合わせの場所とか希望はあるか?』

『じゃあ駅ビルの屋上はどうかな。初日に集合写真を撮ったところから行けるはずだけど、どう?』

『ほい、了解。んじゃまた後でな』

 

 返事を送ると、八幡は座席に深々と腰掛けて力を抜いた。

 バスを降りる時に確認すると、海老名からは「また後で」とだけ返事があった。

 

 

***

 

 

 同じ班の連中に「ぼっちで充電してくるわ」と言って、八幡は一人で駅ビルの上を目指した。

 

 この後の予定に勘付いている者、やたら騒々しく見送ってくれた者もいたが、出社する旦那様を寂しさをこらえて気丈にも見送ってくれる新妻のような対応をされたのが八幡の記憶に残った。というかそれ以外は残らなかった。

 

 新幹線の時間までは各自が自由に過ごすことになっているが、クラスの順にいったん解散となったので、既に他の生徒たちが京都駅の周辺に溢れている。それは屋上も例外ではなく。エスカレーターをずんずんと歩いて来たのに、同じ制服を着た生徒の姿がちらほらと確認できた。

 

「この環境で、落ち着いて話すのは難しそうだな」

 

 そう呟いた八幡は、さっさと裏技を使うことにした。誰にも邪魔されない貸し切りモードに入ろうと考えて、そういえば京都駅の扉を拝んでいなかったなと思い出していると。ずっと下の階に海老名の姿を認めた。

 

 こちらにはまだ気付いていないようで、大階段をゆっくりと上ってくる。

 

『他のクラスの連中がいるから、貸し切り空間に移動しようと思うんだが。十階から百貨店に入って催物場のほうに行くと左手にトイレがあるから、そこを出たところで待ってるわ。他の希望があったら遠慮なく言ってくれ』

 

 どんな文面で送れば良いのか、それを考え始めるといつまで経っても結論が出ないままになりそうなので、ぶっきらぼうな口調で文章を作ってそのまま送信した。待ち合わせを十階にしたのは二日目の夜にフロアマップを見てトイレの位置を知っていたからで、特に深い意味はない。

 

 屋上から階段を下りて十階に向かう途中で、こちらを見上げながら階段を上ってくる海老名と目が合った。軽く頷かれたので同じように返して、八幡は先に屋内に入った。

 

「んじゃま、貸し切りモードを発動して、海老名さんを招待して。よし、じゃあ先に移動するか」

 

 人のいない別空間に移動して、トイレの前でぼーっと過ごしていると。

 しばらくして女子トイレから、眼鏡をかけた見た目清楚な黒髪の女子生徒が現れた。

 

 

「はろはろー。また別空間に来るとは思ってなかったけど、やっぱりちょっとわくわくするね」

「あー、その、なんだ。たしか昨日、男と別空間で二人きりだと怖いとか言われたんだがな。今更だけど大丈夫か?」

 

 そんな八幡の質問に、海老名はぷっと吹き出すと。

 

「たしかにそれって今更だよねー。うん、ヒキタニくんなら大丈夫だよ。でも、どうしよっか。ここで喋る?」

「トイレの前ってのも風情がないよな。んで、もし良かったら付き合って欲しい場所があるんだが」

 

 八幡のその申し出は予測していなかったのか。海老名は少しだけ目を丸くして、すぐに表情を変えると口を開いた。なんだか冗談でも言いそうな顔つきだ。

 

「ヒキタニくんに付き合って欲しいって言われてもねー。私はどっちかと言えば、ヒキタニくんたちに突き合って欲しいんだけど?」

「おい」

 

 謝りたいとか言っていたのに、海老名からは殊勝な態度はかけらも感じ取れない。だがそのほうが助かるなと八幡は思った。長々と反論しても逆効果になるだけだと分かっているので一言で済ませると、そのまま話を続ける。

 

「このインスタンス空間に、ゲームの世界に繋がる扉があるんだけどな。この能力を教えてくれた人と、そこを見てくるって約束をしたんだわ。まあ話が終わってから俺が一人で行っても良いし、その辺は好きにしてくれ」

 

「そんな面白そうなことを見逃す手はないかな。創作に必要なのって、何よりも経験だったりするからねー。じゃ、どこに行けば良いのかな?」

 

 とことんマイペースだよなと思いながら。それが意図的なものだと八幡は気付いている。面倒な性格をしてるよなと、自分を棚に上げてそんな事を思いながら。屋外に出て海老名を先導する形で、二人は大階段を下りて行った。

 

 

 集合写真を撮った四階からはエスカレーターに乗って二階まで下りた。少し逆方向に戻って、百貨店の入り口を横目に京都駅の西口を目指す。閑散としているので歩きやすいが、何だか自分たちが物語の世界に取り込まれたような気持ちになる。

 

「誰もいない世界ってのも、なんだか凄いよねー。創作の題材としては珍しくなくても、実際に自分が体験できるって、そうそうないんじゃないかな」

 

 海老名も自分と同じような事を考えているのだなと、思わず苦笑が漏れた。先程は「一人で行っても良い」と言ったものの、ついて来てもらって助かったと八幡は思った。

 

「あの西口から駅に入って、すぐ目の前の壁を通り抜ければ良いって教えてもらったんだがな」

 

 そう言いながら改札口を抜けて駅構内に入ると、いったん壁の前で立ち止まる。おっかなびっくり右手を突き出してみると、壁の感触を得られないまま指から手首までが見えなくなった。

 

「おー。疑ってたわけじゃないけどさ、本当に壁を抜けられるんだね。でもさ、私もここを通れるのかな?」

 

 気のせいか、腐ったネタで盛り上がっている時とは少し違った感じを受けた。めったに体験できないことを目前にして海老名が少し興奮しているのも、ほんのちょっと怖じ気づいているのも、八幡は感じ取ることができた。

 

「んじゃま、試しに手を出してみ?」

 

 八幡としては手を壁に当ててみろという意味だったのだが。何を勘違いしたのか、海老名は「はい」と言いながら、握手を求めるようにこちらに向かって腕を持ち上げた。

 

「あ、いや、あのな。壁に向かって手を出してみろって意味だったんだが?」

「うーん。それは分かってるんだけどさ。向こうに何があるか分かんないし、自分だけ引き込まれちゃったら、ちょっと怖いじゃん。だから、はい」

 

 手持ち無沙汰からか腕をひょいひょいと動かしながら、海老名は八幡に握手を求めてくる。というか、握手じゃなくて手を繋ぐのを求められてるんだよなと。現実逃避をやめて状況を把握した八幡は、一つため息を吐いた。

 

「たしかに言い出したのは俺だけどな。普通こういうのって女子のほうが嫌がるもんじゃねーのか?」

「その辺りは相手次第じゃないかなー。予定よりも自由時間が延びたけど、ぐずぐずできるほどの余裕はないよ?」

「さっさと諦めろってことな。ほんじゃま、えーと、なんて言えばいいんだ。あ、何も言わなくて良いのか」

 

 混乱を口に出しながら、おずおずと右手どうしで握手をかわして。そこでようやく、この体勢だと歩きにくいのに気が付いて左手に持ち直した。隣でくすくすと笑われているのが癪に障るが、腹立たしいというよりは気恥ずかしい。

 

「えーっと。俺はさっきと同じように右手を壁に当てるから、そっちは自由な左手で」

「あ、うん。私も通れそう。でもさ、いちおう横並びになって、一緒に壁を抜けてくれると嬉しいな」

 

 温かい手の感触が伝わってきて、八幡はもう余裕がほとんど残っていないのだが。めずらしく素直に嬉しそうな表情を浮かべている海老名を見てしまうと、何も言えなくなってしまう。

 

「じゃ、じゃあ、ゆっくり歩くぞ?」

 

 かすかに残っている脳の冷静な部分から「二人三脚かよ」と突っ込まれながら。八幡は海老名と並んで、手を繋いだまま目の前の壁を抜けた。

 

 

***

 

 

 雪ノ下雪乃は同級生に囲まれて駅ビルの屋上を目指していた。大階段だと体力がもたないのは明らかなので、集団でエスカレーターに乗っている。

 

 京都駅に着いたのはJ組が最後だったので、既に付近には同じ制服の生徒たちが散らばっている。特に一箇所に固まっているわけではないけれど、どこに行っても誰かしらの姿がある。

 

 雪ノ下が軽薄なお喋りを好まないことや沈黙を問題にしないことは既に同級生に周知されて久しい。だから軽い話題の時は周囲だけで完結しつつ、何か大事なことがあれば気安く雪ノ下に話しかけるというふうにして、彼女らの関係は成り立っていた。

 

 とはいえ何事も例外はあるもので。

 

「雪ノ下さんには昨日みたいに同じ部活の人とゆっくり喋って欲しいのにさー。偶然会うって難しいよね」

「そうそう話題があるわけでもなし、用事もないので気を遣わなくても良いのだけれど?」

 

 少しだけ声に脅しの色を添えて返したものの、効果があるようには見えない。なぜかこの話題だけは踏み込んでくるのだ。こんな話をすることにも、昨日と全く同じように平然と返事ができている自分にも内心で辟易しつつ、雪ノ下はふと遠くを見上げた。

 

 

「あれは……海老名さん?」

 

 二日目の夜にラーメンを食べに入った時も、たしかあのドアだった。

 階段を上り終えた海老名が見覚えのある出入り口に向かっているのを見て。その偶然に突き動かされた雪ノ下は「少し用事を思い出したので、先に屋上に向かってくれるかしら」と告げると、同級生をかき分けてその後を追った。

 

 百貨店の館内に入って、とりあえずは先日の拉麺小路に行ってみようと考えたものの。雪ノ下が一人で無事に辿り着けるわけもなく、一直線に違う方向へと向かってしまった。だがそのおかげで、トイレに姿を消す直前の海老名を確認できた。

 

 追いかけるようにして女子トイレに入ると、使用中の個室がいくつかあった。いったん外に出て、少し時間を置いてからもう一度入ってみると、空きの個室が一つ増えている。その間、誰も外には出て来ていない。

 

 つまり、そういうことなのだろう。

 

「別空間で、比企谷くんと何を話すのかしら?」

 

 もしかすると、由比ヶ浜結衣も一緒なのかもしれない。そう思うと雪ノ下の胸は痛んだが、昨夜ほどではなかった。

 

 

 雪ノ下ほどの能力があれば、挫折の経験など皆無だろうと思う生徒は大勢いるが。実際のところは逆だった。

 

 三歳、そして二十数歳という年齢の差もあって自分を凌駕する能力を誇る()()()たちや、一対一では劣っても集団で陰湿な手段に出る同級生など。後者はおおむね反撃済みだし前者もいずれ近いうちにと思っているけれど、一敗地にまみれた経験は意外と多い。

 

 だから雪ノ下は、諦めることには慣れていた。もちろん「当面は」という限定付きだが、諦めは諦めだ。

 

 それに今回の場合は、将来の挽回を求める気持ちが湧いてこない。自分がこの先どう振る舞えば良いのかも分からないし、由比ヶ浜を相手に張り合いたいとも思えなかった。でもだからこそ、諦めるという行為の重さは以前とは比較にならない。

 

 なぜなら、捲土重来を期しての諦めではなくて。今回の場合は、永久に諦めなければならないからだ。たらればを言えば二人が別れる可能性もあるが、そんなことは考えたくないと思うほどには雪ノ下は潔癖で、優しく、そして自尊心が高かった。

 

 諦めるか否か。諦めるなら永久に。これ以上ないほど明確な二択だが、それが問題だ(that is the question.)*1

 

 いっそこれが明らかな恋愛感情であれば、話はまだ簡単だったかもしれない。だが雪ノ下は自分の気持ちを持て余していた。恋愛の何たるかも知らないまま、永久に諦めるという選択肢だけを突き付けられて。それでも分からないものは分からない。

 

 八幡をどうしたいのか、どんな関係になりたいのか。雪ノ下には分からない。

 

「ただ、一つ言えることは。今の私は主役ではないのよね」

 

 状況を動かしたのが由比ヶ浜である以上は、当面の主役は由比ヶ浜だ。雪ノ下がどんな行動に出るにせよ、そもそもの発端が自分の発言にあるにせよ、二人の結果待ちという状況は変わらない。

 

 海老名たちのように、終わってみれば大山鳴動して鼠一匹となる可能性もある。今までとあまり変わりのない関係が続くことになれば、雪ノ下にとってはそれが一番望ましい結末だ。

 

 だが、未来は当事者二人の手に託されていて、雪ノ下にできるのは待つことだけ。それに行動の順番が回ってきたところで、自分が何をしたいのかが分からないのでは意味がない。

 

 

「ふう。堂々めぐりね」

 

 一つ大きく息を吐いて、雪ノ下は悩みごとをまとめて棚上げした。出せるものなら答えを早急に出したいが、悩み続けたところでそれは実現できそうにない。ならば気持ちを切り替えるしかない。

 

「昨夜のNPCは何だか変な人だったわね。『骨を折るところをまちがえている』のは確かなのだけれど」

 

 昨日の夜に気持ちを持ち直せた二つの原因のうちの一つ。浴衣姿のNPCに言われた言葉を雪ノ下は口に出してくり返した。

 

 バーテンダーのNPCに満更でもない様子だった顧問を、これでは笑えないなと雪ノ下は思う。実はNPCの駅長さんと仲良くしている部員も身近にいるのだが、それはさておいて。

 

 箴言とは、誰に言われたかではなく何を言われたかが大事なはずだ。だから発言者がどうあれ、有益な助言は心にしっかり留めておこうと雪ノ下は思った。

 

 だから続けて、大浴場で顧問に言われた言葉を頭の中でくり返す。

 

 

『ちゃんと見ているから、いくらでもまちがえたまえ』

 

 京都市内の各所を回って、これは自分一人で向き合うしかない問題だと覚悟して。諦め半分でホテルに辿り着いてみれば、一階のロビーで平塚静が待っていてくれた。

 

 あの時に、手のかかる親戚のお姉さんみたいだと思わず苦笑を漏らしたことを雪ノ下は思い出す。そんな側面があるからこそ、あの顧問は憎めない。だから頼り切りになる心配もない。姉がかつて言った「もっとひどい何か」に変貌するのではないかと身構える必要がないのだ。

 

 二人並んで大きな浴槽に身を沈めて。生まれたままの姿を見せ合いながらそう言われたら、これが映画や小説なら間違いなくクライマックスの一つとして扱われるべきシーンだろう。だがその相手が平塚だと酔っ払いの戯れ言という雰囲気が出てしまい、すっきりと見栄えの良いシーンにはならない。そこが面白いなと雪ノ下は思う。

 

 

 昨日の二人からの言葉を思い出せば、私はまだまだ頑張れる。

 骨を折るところをまちがえていても、それを続けていればいつかは正しく骨を折れるだろう。

 見てくれている人が一人でもいれば、たとえ今はまちがえても次を見据えてまた動き出せる。

 

 そう結論付けて、そろそろ同級生と合流しようかと辺りを見渡して。考え事をしながらどこをどう歩いて来たのか全く思い出せない雪ノ下は、付近を闇雲に走り回ることになるのだった。

 

 

*****

 

 

 壁を抜けると、そこは駅のホームだった。真ん中に一つ長いプラットホームが伸びていて、その両側に線路がある。ここが終点なのか、線路は二人の数メートル向こうで終わっていた。向かって左側の線路には「3と9分の4番のりば」と表示があるが、もう片方には何もない。

 

 二つの線路とプラットホームはドーム状の壁で覆われている。巨大な円柱を縦に半分に切って、その切り口を下にして置いたような案配だ。壁の外がどうなっているのかは窺い知れない。円柱がどこまで続いているのかも分からない。線路の先は靄に包まれて、魔列車が走っていると言われても違和感のない風景だ。

 

 首を後ろに向けると、殺風景な壁があった。白が強めの灰色は円柱と同じで、それが半円形をなしている。モノトーンで飾り気もまるでなく、ただ壁としての機能を果たしているだけだと言わんばかりの姿だった。

 

 振り返った姿勢のまま視線を下に向けて、後ろ手で壁を触ってみた。感触を得られないまま右手がすり抜けていくのを見て、ひとまず胸をなで下ろす。プラットホームからまっすぐ歩いて来れば、この壁を通って元の駅構内に戻れそうだ。

 

「あっ、すまん。ずっと繋いだままだったわ」

 

 周囲の状況をひととおり確認して、ようやく自分の現状に意識を向けられるようになった。左手から温かな感触が伝わってくるのに気がついて、あわてて手を離す。不満そうに唇を突き出している海老名がなんだか可愛らしく見えて、急いでそっぽを向いた。

 

「男子と手を繋ぐのって、最近はあんまりなかったけどさ。久しぶりにやってみると、なかなか良いもんだねー」

 

 それなら誰かと付き合って思う存分やってくれと、そう言いそうになって。微妙な話題なので自重して、プラットホームの奥を眺めた。ゲームの世界に繋がる扉があるのなら、この先だろう。それとも電車に乗って移動する必要があるのだろうか。

 

「ちょっと歩いてみても良いか?」

「うん、大丈夫だよ。なんだか探検気分だね」

 

 先ほど怖じ気づいていたのはどこへやら、今は好奇心を表に出して目を輝かせている。戻れなくなる心配とかは無いのかと、内心で首を傾げながら。八幡は海老名と横並びのままホームに向かって歩を進めた。

 

 

 線路を両側に見ながら歩いていると、靄が次第に濃くなってきた。後ろや横はくっきりと見えるのに、前方だけは極端に視界が悪くなっている。歩くぶんには問題ないが、何が出てきても不思議ではない雰囲気だよなと考えていると。

 

「もしかして、お客さん?」

「はじめてだね」

 

 そんな声がしたので辺りをきょろきょろと見回していると、すぐ目の前に小さな妖精が二人姿を見せた。親指ぐらいの大きさで、男の子が一人と女の子が一人。羽根が小刻みに小さく動いているのが何だか微笑ましい。

 

「こんにちは、妖精さん?」

 

 物怖じせずに話しかけている海老名を、驚きと頼もしさが入り交じった目で眺めていると。二人の妖精が自己紹介を始めた。

 

「ぼくはチャーン」

「ニーナ」

 

 名乗り終えると同時に、二人の頭の上にはアルファベット表記で名前が浮かぶ。

 

“I am Chahn.”

“Nhia.”

 

 耳で聞いただけだとニーナかニーアか微妙な感じだったのだが、アルファベット表記だと分かりやすいなと思いながら。でも文字の並びが珍しいなと考えて。ふと気がついた事があった。

 

「これ、もしかしてあれか?」

「んーと、いきなりどうしたの?」

 

 首を傾げている海老名に素直に答えなかったのは、さっき頼もしさを感じてしまったからだろう。別に対抗意識を燃やす必要はないのに。こんな子供っぽいことを考えてしまうのは、俺も興奮している証拠だなと思いつつ。

 

 八幡は海老名ではなく二人の妖精に向かってこう宣言した。

 

「おじぎをするのだ!*2

 

 へへーっと空中で器用に畏まっている妖精たちを尻目に、海老名は納得顔になっていた。「あー、アナグラムか*3」と言いながら、八幡の啖呵を思い出してお腹を押さえて笑っている。

 

 別空間に入った辺りからずっと、年相応の反応を見せられるので調子が狂うよなと思いながら。でも、普段もこんなふうにしていたら良いのにと、そう伝えるのはおこがましい気がして。笑いが収まるまで、八幡は黙ってその表情を眺めていた。

 

「あー可笑しい。えっと、チャーンとニーナだね。ごめんだけど、先にこっちの話を済ませたいからさ。ちょっと待っててくれるかな?」

 

 二人の妖精にそう告げて、海老名は身体をこちらに向けた。

 つられて八幡も身体の向きを変えて、そして見たことのない表情を浮かべる海老名と目が合った。笑顔のかけらもない、無表情と呼ぶにふさわしい顔つきの海老名と。

 

 一気に現実に引き戻された気がした。

 

 

***

 

 

「じゃあ、ちょっと真面目な話をしよっか」

 

 そう言って海老名は少し口元を緩めた。だが眼鏡の奥の目は笑っていない。それどころか、どす黒く濁っているようにも見えた。

 

「それって、昨日の話だよな?」

「うん、そうだね」

「つっても、謝られるようなことは特にねーぞ?」

 

 バスで受け取ったメッセージを思い出して、そう伝えると。くすっと笑われた気がした。だが海老名の目から他に視線を動かせないので、本当に笑われたのかよく分からない。少なくとも目は全く笑っていない。

 

「でも、こんな展開になっちゃって困ってるでしょ。それともヒキタニくんは、結衣のことなんかどうでもいいの?」

 

 思わずかっとなって、感情的な言葉が出そうになったが何とかこらえた。

 

 海老名の表情に既視感を覚えなければ声が出ていただろう。たぶん、あの時の俺もこんな顔をしていたはずだ。職場見学の後で、由比ヶ浜と向き合った時の俺も。

 

 あの時からまた、一緒に過ごした時間を積み重ねてきた。

 ずっと、うまく行っていると思い込んでいた。

 それなのに。

 

 

 どうして、こんなことに。

 

 八幡は苦虫をかみつぶしたような表情で首を振って、昨日から何度となく頭の中に浮かんだ疑問を打ち消した。

 

 事ここに至っては、そんなことを言っていられる状況ではない。そう自分に言い聞かせて、しぼり出すように声を発する。

 

 クラスどころか、校内でも指折りのトップカーストに向かって。

 

「俺は……優しい女の子は、嫌いだ」

 

 こんなに大きな駅の片隅で。

 同級生の女の子と、二人きりで。

 さっきまで繋いでいた手には、まだぬくもりが残っている。

 

「でもさ。昨日のは……優しい女の子じゃ、ないよ?」

 

 ああ、その通りだ。海老名に言われるまでもなく、八幡はそれを知っている。

 

「由比ヶ浜は、強いよな。優しいだけじゃなくて。今までに何度、それを思い知らされたか」

「うん。それは私も同じかな」

 

 少し長めに目をつむって、その間に海老名は何を考えていたのだろう。言葉をはさむ隙を見出せないまま黙っていると。

 

「今回の件でさ。とべっちと私の関係はたぶん、今までとあんまり変わんないと思う。無難な形で収まったと思うんだけどね。でも、だからってさ。奉仕部の関係を変えてまで、こんな結末を望んでたわけじゃなかったのにね」

 

 海老名と自分とは、同じ気持ちを共有している。そう八幡は思った。

 こんな展開を、こんな結末を望んでいたわけではなかったのにと。

 

 だが、起きてしまったことはもう覆らない。覆水は盆に返らない。

 

 

 昨日の夜の一件が、あの竹林で起きたことが、全てを変えた。

 あの時の二人の言葉が、八幡の脳裏によみがえる。

 

『あなたのやり方、嫌いだわ』

『人の気持ち、もっと考えてよ……』

 

 そして、あの一言。

 

 あれは由比ヶ浜の本心だと、八幡はそれを信じられた。だが、あんな状況であんな形で聞きたくはなかった。自分の気持ちが固まっていない状態で知りたくはなかった。

 

「俺もな。あいつらが不安に思うようなやり方はやめろって、ずっと言われてたのにな。俺のやり方を由比ヶ浜にやられるまで、あいつらの気持ちがぜんぜん分かってなかったんだわ。だから、まあ、あれだ。由比ヶ浜のことがどうでもいいとか、そんな言い方は勘弁してくれ」

 

 そう言われて首を縦に動かして、それでも海老名は空気を読まない。他の話題を持ち出すなど考えもせず、浮かんだ疑問をそのまま口にする。

 

「ちょっと、知りたいんだけどさ。結衣から告白されて、嬉しかった?」

「だな。つか、嬉しくないわけねーだろ。でも、それで済む問題でもないんだわ」

 

 即答を受けて、海老名は納得顔で頷いている。その目は暗く濁ったままだが、少しだけ雰囲気が変わったようにも感じられた。こいつは意外と友人思いなんだよなと八幡は思う。

 

「そっか。煽るようなことを言ってごめんね。でもさ、やっぱり私ととべっちとは違うんだなって。私がそう思ってるのも、知っててくれると助かるかな」

 

 八幡はその言葉を頭の中でくり返して、何も言えない自分に気が付いた。

 

 夏休みに一緒に千葉村で過ごして以来、戸部翔のことはいい奴だと思っていたし、その印象はこの旅行中に更に深まった。

 

 それでも自分が想いを告げられた由比ヶ浜と比べると、残酷な話だが格が違うと思ってしまう。戸部の気持ちはさておいて、海老名と釣り合うかと問われると答えに窮するのが正直なところだ。

 

 それほどに、目の前の女子生徒は才能と容姿に恵まれていて、実は情にも厚くて、複雑な性格をしていて、そして深い闇を抱えている。

 

 

 お互いに見つめ合ったまま何も言えないでいると、頭の中でどんどんと暗い想いが広がっていく。自分たちのような面倒な性格の持ち主が、由比ヶ浜や雪ノ下と、由比ヶ浜や三浦優美子と一緒に過ごしていたのが、そもそものまちがいだったのではないかとさえ思えてしまう。

 

 だが、そこで。

 

「お二人の精神状態が不穏です。心を落ち着けることを提案します」

「おちついて、ゆっくり、しんこきゅうしてー」

 

 すっかり存在を忘れていた二人の妖精から声を掛けられた。

 

 

***

 

 

 反射的に正気に戻ると同時に、妖精がここにいた意味を理解した。いわゆるメンタルヘルスケアとか、そんな感じの役割を担っているのだろう。早い話がユイちゃんだ*4

 言われるがままに深呼吸をくり返していると、海老名の声が聞こえた。

 

「あらま。思考がちょっと変な回路に入っちゃってたみたいだね。チャーン、ニーナ、ありがと」

「だな。俺も助かった」

 

 妖精二人にお礼を言って、八幡と海老名はそろって苦笑した。一人で過ごしている時に、さっきのようなどよんとした心理状態に陥ることは時々あるが。まさか目の前に他人がいる状態でああなるとは思わなかったからだ。

 

 お互いに親近感を深めながらも、せっかくだし別の用事を先に片付けようと考えて。

 

「たぶんチャーンとニーナって、扉の場所を知ってるんだよな。もし可能なら、案内して欲しいんだが?」

「知ってる。案内できる」

「でも、そのさきにはいけないよ?」

 

 先程はどこか定型文を読み上げていた感があったチャーンは片言になって、一方のニーナは舌っ足らずな話し方のままだ。性格が読み切れないなと思っていると。

 

「ゲームの世界に行く気はないんだよねー。扉を見られたら満足だから、案内してくれるかな?」

「ま、そういうことだな。ちょっと頼むわ」

 

 雪ノ下とはまた違った話の早さがあるなと思いながら、海老名の発言に便乗する。

 少し間を置いて、おそらくは精神状態を確認していたのだろう。二人の妖精が口を開いた。

 

「うん、今は大丈夫そう。ダメって言っても粘られそうだし、押してダメなら諦めてさっさと案内するべきだよね」

「えー。もうちょっと、りそうのカップリングとかききたかったのにー」

 

 こいつらの性格は誰がモデルなんだろうなと思いながら、そろって頭を抱える二人だった。

 

 

***

 

 

 その扉は、プラットホームの最果てにあった。ホームから垂直に伸びる大きな門が行く手を遮っていて、扉はその下のほうに存在している。人が通るドアの下にペット用の小さな扉があるのと同じような感じだ。

 

 円形で取っ手が付いているその扉は、金庫か何かを連想させた。だが大きさが並外れている。門の左右ぎりぎりまで広がっているので、その直径はホームの幅に近い。誰がどうやって開けるのか、どれほど多くの人を呑み込めてしまえるのか、ちょっと見当が付かない。

 

 でもたぶん、この扉はもう誰にも見られることはないのだろう。そう思った八幡は大きく柏手を打って、心の中で「お役目ご苦労さん」と呼び掛けながら数瞬だけ手を合わせた。

 

 目を開くと、隣に並んでいる海老名はもちろんのこと、二人の妖精も同じように手を合わせていた。少しだけ顔の筋肉を緩めて、もう一度だけ扉の威容を眺める。

 

「なんか、ほっこりしちまったな。さっきの話って、どこまで行ってたっけ?」

「えーっと。私ととべっちは合わないって話だったかな。ヒキタニガヤくんと結衣とは違ってね」

 

 その呼ばれ方は新しいなと思いながら、即座に指摘する。

 

「なんか俺の名前が変な感じになってるぞ?」

「あ、ごめん。ヒキヒキタニくんだっけ?」

「失礼。噛みました?*5

「違う、わざとだ!*6

「おい、ちょっと待て」

 

 げらげらと笑っている海老名を憮然とした表情で眺めていると、何もかもが馬鹿らしくなってきて。思わず八幡も吹き出してしまった。

 

「やり取りを一つ飛ばされたから、順番が入れ替わっちゃったじゃん。笑い出さないようにセリフを言うのって、しんどいよねー」

「いや、正直に言うと反応が来るとは予測してなくてな。そのまんま続けられてあんなに面白くなるとは思わなかったわ」

 

 こうした辺りが、あの二人との違いなのだろう。

 昨夜の二条河原で、この手の話もあの二人とならできるのではないかと思ったものの。海老名が相手だと話のテンポが桁違いだ。

 

「あのさ。とべっちがスラムダンクとか読んでたじゃん。漫画の話題を振られるのは、楽しいのは楽しいんだけどさ。雪ノ下さんみたいに深く読み込める人と話す時とか、今みたいに分かってる相手と話す時と比べると、ちょっとね」

 

 ちょうど同じようなことを考えていただけに、八幡はぐうの字も出ない。旅行の前に二人が部室で、バスケの戦術の話で盛り上がっていたことを思い出しながら。一言だけ「まあな」と返すのが精一杯だった。

 

 海老名は特に返事を期待していなかったのか、そのまま話を続ける。

 

 

「そういえば竹林でさ。『この世に自分ほど信じられんものがほかにあるか*7』って。あれ、わざとだよね?」

「あー、やっぱり『文殊*8の知恵』とか言ってたのは意図的だったんだな」

 

 他の二人は気付きもしなかっただろう。事前の打ち合わせも何もなく、こうした二人だけのやり取りができてしまうことに、八幡は苦い気持ちになった。

 だが海老名は違ったみたいで。

 

「でさ。今回のお詫びって何がいいかなーって考えててね。迷った末に、この絵を描いてきたんだけどさ。できたら、受け取ってくれないかな?」

 

 どうせまた即座に突き返したくなるようなBL関連の絵なのだろうなと思った八幡は、即座に目を閉じられる状態で視線を送って。思わず目を見開いてしまった。

 

「これ、ルシオラ*9だよな。何巻か忘れたけど、扉絵になってたやつか?*10

「うん。ちゃんと和歌も添えてあるよ。これ、由来って知ってる?」

 

 受け取った絵の左上には「外に居て 恋ひつつあらずは 君が家の 池に棲むといふ 蛍にあらましを」という和歌が書かれていた。ルシオラは蛍の化身だったなと思い出しながら、八幡が首を横に振ると。

 

「元は万葉集に入ってる和歌でね、蛍じゃなくて鴨なんだけどさ*11。でも、ちょっと意味が取りにくいよね。恋い慕いながらそばに在らないのは、みたいな感じ?」

 

「いや、その『あり』は補助動詞だろ。現代語でも『枝豆を茹でてある』と『枝豆を茹でた。机の上にある』だと『ある』の意味が違うだろ?」

「あー、なるほど。でもさ、どっちにしても何だか変な意味にならない?」

 

 普段だと、解説の先生というよりはアシスタントのお姉さんといった役割なので、先生役のこうしたやり取りが新鮮に思えてしまう。

 

「たぶん『ずは』で引っかかってるんだと思うけどな。『ず』の否定の意味に引きずられるっつーか。でも万葉の頃だと『〜よりは』みたいな軽い感じになるんだわ。まあ品詞分解するよりも、『つつあらずは』を『〜しているよりは』って意味だと覚えたほうが早いけどな」

 

 八幡の丁寧な解説に頷いて、海老名が口を開く。

 

「じゃあ意訳すると、こんな感じかな。離れた場所で恋い慕っているよりは、鴨や蛍になってもいいから近くにいたい、みたいな?」

「まあ、実現したら実現したで、早く人間になりたい*12って叫んでそうな気もするけどな」

 

 おそらく元ネタも伝わっているのだろう。可笑しそうに身をよじって、そして海老名は。

 

「でもさ。人間のまま遠くで恋い慕ってたり、近くのどうでもいい人と付き合うよりはさ。たとえその身が人外になっても、想い人の近くにいたいと思うけどね」

 

 

***

 

 

 また、一気に現実に引き戻された気がした。

 いつも通りの声で喋ろうとしたが、それができていたとは思えない。

 

「誰か、好きな奴とかいるのか?」

 

 喉の渇きを覚えながらそう尋ねて、口にすべきではなかったと思い直した。だが後の祭りだ。

 

「うーん。いるように見える?」

 

 軽く首を横に振った。そうした動作の一つ一つを、あの目で見られている。無機質な表情の奥に潜んでいる、暗く濁った二つの目に。

 

「ま、仮にいたとしてもさ。上手く行きっこないんだよね。だって私……腐ってるから」

 

 ほんの少し頬を緩めたその表情は、笑っているように見えなくもない。だがその笑顔は凍り付いたまま、それ以上の変化を許さない。きっと、ずっと昔から浮かべ続けてきた笑顔なのだろう。そういえば清水で撮った写真の中の海老名も、今と全く同じ表情だった。

 

「同じクラスの連中とか、なんなら全校にまでBL趣味のことは知れ渡ってるだろ。それでも普通に過ごせてるじゃねーか」

 

 自分でも違うと解っているのに、八幡はこう言うしかなかった。海老名が抱えている闇は、こんな程度で収まるものではない。俺にとってのぼっちと同じだと、そう解っているのに。

 

「ヒキタニくんも、今はぼっちには程遠いよね。でもさ、一人で過ごしたくなる気持ちも解るなーとか、俺もぼっちになりたいなーとか言われたら、どう思う?」

「……すまん」

 

 そうした言葉を口にする連中には、業の深さというものが理解できないのだ。負の側面を認識できないのだ。それを八幡は、他の誰よりも知っていたはずなのに。

 

 二日目の夜に自販機の前で、戸部から「ぼっちになりたいって気持ちも、ちょっと分かるべ」と言われたことを思い出した。

 

 あの時に気にならなかったのは、戸部との関係はしょせんは浅いものに過ぎないからだ。表面的なものだとは言わないし、徐々にお互いの理解も深まっているとは思うが、肝胆相照らす関係には程遠い。

 

 もしも、もっと深い付き合いを求められたとしたら。戸部の前で本音を晒せるかと問われれば、八幡は即座に否と答えるだろう。海老名と全く同じ理由で断るはずだ。

 

 戸部が悪いわけではない。ただ、自分たちが他とは違うだけだ。それも、選民思想のような上から目線の話ではなくて、負の意味で。自分たちは他とは違うのだ。

 

 

 戸部にも、そして三浦にも言われたが、確かに自分と海老名は似ていると八幡は思った。もしかすると、俺が一番こいつの気持ちを理解できるのではないかとさえ思えてしまう。

 

 きっと、同じようなことを考えていたのだろう。

 

「だからさ。私、ヒキタニくんとなら付き合えるかもね」

「……あのな。海老名さんにそう言われたら、その冗談を真に受けてうっかり惚れてしまうまであるけどな。行き着く先は地獄だって解ってるだろ?」

 

 海老名がいつも通りの呼び方をするのは、そういうことなのだろう。だから八幡も、いつも通りの呼び方で応じる。

 

 もしも付き合ったとしたら、今日ここまでで何度か思い知らされたように、意外と楽しい時間を過ごせると思う。あの二人とはまた違った付き合い方ができると思う。

 

 だが、先ほど妖精二人に止められた時のように。深刻な場面に直面したら二人して負のスパイラルに陥ったまま、浮かび上がれない可能性が高い。

 

 だから、自分にとって海老名は特別な異性とはなり得ないし。

 海老名にとって自分は特別な異性にはなり得ない。

 

 

 それでも、友人として関係を築くことはできる。そもそも、自分にとっての特別な存在が大切に思っている相手だ。築かないという選択はない。

 

 それに、海老名の気持ちを自分ほど深く理解できる者はおそらくいない。冗談のやり取りを重ねて、お互いに特別ではないと判明してもなお、先程のその直感を八幡は信じられた。

 だから、問う。

 

「なあ。BL趣味って、表に出してるやつだけじゃないよな。ついでだし、ここで一回ぶちまけてみるか?」

「うーん、そうだね。ヒキタニくんが聞いてくれる機会なんてもうないだろうし、じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」

 

 そう言った海老名は、かすかに笑った気がした。いつもの笑い顔がほんのわずか崩れた気がした。

 

「早い話がね。私にとってのBLは精神的なものじゃなくてさ。もっとしっかりと肉体を伴ったものなのよ。私の絵や小説を楽しみにしてくれている子たちが全員、裸足で逃げ出しかねないようなレベルのやつね」

 

 その答えは予測していたので、八幡に混乱はなかった。だが少しだけ気になることがある。

 

「千葉村でな、小町に見せてログハウスを追い出した絵があっただろ。こっちに合流させるためにわざとやったのは解ってるし、感謝してはいるんだけどな。あれがその手の、どぎついやつだったのか?」

 

 少しだけ楽しそうに、同時に哀しそうに海老名は首を横に振った。

 

「あれは特定の部分をデフォルメして、インパクトを煽っただけの絵だからさ。そういうのとはまた違うんだよね。もっとがっちりと匂い立つような感じでさ」

 

 どうせ伝わりっこないと、そう海老名は思っているのだろうが。できれば思い出したくはないものの、八幡には心当たりがあった。

 

「たしか修学旅行の班決めの時だったよな。教室で鼻血を出した時に、『挿されてさされてサされる』とか言ってた記憶があるんだが。要するに、その手のやつだろ?」

 

 一瞬だけ不思議そうに目をしばたたいて、すぐに思い出したのか「あー」と言いながらも海老名は平然として見えた。いや、違う。これは少し照れているなと八幡は思った。これだけ話し込んでいると、微妙な表情の変化にも慣れて来たようだ。

 

「あの時は、とべっちをきっぱり振る展開になるんだろうなーって、微妙に憂鬱な時期だったからね。ちょっと素が出ちゃってたかー。まあ、あんな感じのリアルな絡みを求めてるって話でさ」

 

 そのまま誤魔化されても良かったのだが、つい魔が差して。思い付いた疑問を口に出してしまった。

 

「なあ。三人に挿されるのってリアルじゃなくね?」

「えっ、なんで?」

「いや。なんでって、その、あれだ。入れるところが足りてないだろ?」

「だってお口でしょ、お尻でしょ、それからやおい穴……」

「ねーよ。やおい穴なんて、そんなもん無いっつーの!」

 

 目の前できょとんとしている海老名を可愛いと思ってしまったのが少し悔しい。それに細かな説明を求められても困る。だから八幡は、無いものは無いという一点張りで乗り切った。どっと疲れた気がする。

 

 

「でもさ。たぶん結衣のために心配してくれてるんだろうけどさ。私の趣味は私だけのものだから。誰にも理解できないだろうし、理解されたくもないんだよね。もしも他人に求めるものがあるとしたら、それとは別の話でさ」

 

「あれだろ。解ったようなことを言われたくないってやつだろ。……俺がそうだからな」

 

 例えば「ぼっちで可哀想」とか「ぼっちでつらかったよね」とか、その手の言葉を告げられると虫酸が走る。誰かの価値基準を押し付けられるようなことは、御免こうむりたいのが本音だ。

 

「だねー。そんな趣味は止めなさいって言われるのも何だかなーってなるけどさ。きっと誰かが解ってくれるから表に出してみたらって、それでみんなに引かれたら責任とか取れないくせにさ。解り合える尊さとか、そんな空想論で勧められると、ほんと何だかなーだよね」

 

「そういう奴って結局最後には、こっちに責任を振るんだよな。ぼっちが楽しいなんて、あの子の考えが理解できませんとか何とか言って。あれだけ努力したのにとか自分は悪くない系の言葉を並べ立てて、こっちを否定しに来るんだよな。お前は助けに来たんじゃなくて刺しに来たんだろって、白い目で見たくなるわ」

 

 その手の連中への憤りがあるのも確かだが。こうして一緒に不満を言い合うのは、きっと悪いことではないだろうと八幡は思う。というか、言い始めの頃は計画的に誘導していたつもりだったのに、今や自分も感情的になっている気がする。

 

「あとさ。カチンと来るのはあれだよね。今までは我慢できたんだからって、こっちに忍耐を求めてくる人が時々いるよね」

「お前のその減らず口を聞いてやってる時点で忍耐力は相当なもんだぞって、言ってやりたくなるよな」

「そうそう。あとはあれかな。我慢できてたってことは、その程度の想いなんだろってやつ。あれねー、ほんとどうにかしてって思うんだよねー」

 

 うんうんと首を強く縦に振って、すっかり冷静さを失っていた自分に気付いた。海老名を乗せるつもりが、実は乗せられていたのかもしれないと疑念を抱くと同時に。自分もこれだけのものを知らず知らずのうちに溜め込んでいたんだなと八幡は思った。

 

 だから、どうせならこのまま愚痴を言い合って盛り上がろうと考えて。

 

「せめてあれだよな。人によって我慢の限界が違うぐらいは理解して欲しいよな」

「だってさ。想いの強さを、外に出て来たものだけで測るんならさ。おもちゃが欲しいって泣き喚いてる子供なんて最強じゃん」

 

「そういう我慢を知らないお子様に限って、すぐに飽きたりするんだよな」

「そうそう。だから私はさ、恋愛ものであるじゃん。気持ちを抑えきれなくて行動に出ちゃうみたいなやつ。ああいうのは苦手なんだよねー」

 

「あー、なるほどな。俺もそういうパターンだと、行動に出た連中の後ろで気持ちを隠して我慢してる奴の方がなんか気になるな。つか、その方が偉いよな。でも変な解釈をする奴がいてな、自己犠牲だなんだって美談にしたがるんだよな。それもどうかと思うわ」

「美談っていうか、良い話だなーって感じにまとめようとするのは勘弁して欲しいよねー」

 

 そんなふうに身も蓋もない事を言い合っている二人を、空中から見守っている二人の妖精がいた。もう自分たちが口をはさむ必要はないと、そんな表情を浮かべている。

 

 

「ふう。なんかすごい喋った気がするな。あんま人には聞かせられない話だった気もするが」

「たまにはこういうのも悪くないねー。本当はさ、謝ることは謝って、それからヒキタニくんを元気付けられるなら少しでもって考えてたのにさ。自分が元気付けられちゃったら駄目だよねー」

 

「いや、でも駄目ってことは無いんじゃね。俺もなんか愚痴ってたら気持ちが軽くなったしな」

「うん、その気持ちも分かるんだけどさ。でも、さっきの話を蒸し返すとね。好きなものを我慢して表に出さずに、みんなが好きそうなものだけを出してる自分ってさ。私はやっぱり、嫌い。それと同じ」

 

 海老名が何でもない口調で、しかし思いの丈を込めて「嫌い」と呟いても、八幡はもう現実に引き戻されたとは思わなかった。くだらない話も、漫画や小説のネタ話も、この手の真面目な話も。前向きの建設的な話も、後ろ向きの愚痴も。それら全てに価値があって、同時に無価値だという気がした。

 

 ただ一つ、嫌いと言わせて終わるのだけは締め括りに相応しくない気がして。八幡は口を開く。

 

「自分が嫌いって言うんなら、俺も同じだな。むしろ嫌いすぎて好きになるまである」

「だねー。私もさ、どうしようもないことを言えちゃう自分は嫌いじゃないかな。こんな話に付き合ってくれたヒキタニくんのこともさ」

「奇遇だな。俺も海老名さんのことは嫌いじゃないな」

 

 ふっと、確かに笑われた気がした。作った感じがまるでしない、そんな笑い方に見えた。だからそのまま反応を窺っていると。

 

「ヒキタニくんってさ、興味のない相手には露骨だよね。それ、優美子にも言われなかった?」

「うげっ。もしかして、なんか聞いたのか?」

 

 予想外のことを言われて、三浦とたこ焼きを食べた夜のことを思い出していると。

 

「あ、やっぱり優美子の雰囲気が変わったのはヒキタニくんと話したからかー。確証はなかったんだけど、これで裏が取れたかな。結衣も不思議そうにしてたけど、当分はないしょにしておくね」

「……頼むから勘弁して下さい」

 

 そう言いつつも、人を食ったような態度に戻った海老名は素敵な女の子だなと八幡は思った。自分にとっては特別な異性ではないけれど、戸部が惚れるのも納得できる。

 

 

「そろそろ戻ろっか。おかげでヒキタニくんと楽しい話ができたし、チャーンとニーナもありがとね」

「あのな。ちょっと弱みを握ったぐらいで安心するなよ。ほら、昔から言うだろ。男子三日会わざればって*13

「三日会わざれば引き籠もりを疑えってやつだよね。今のヒキタニくんが引き籠もりになっちゃったら、心配する子は多いだろうなー」

 

「おい。その続け方はどう考えても変だろ?」

「うーん、まだ本調子じゃないのかなー?」

「いやま、面白いのは面白いっつーか、そう来たかって感じだけどな」

「じゃあいいじゃん別に。それよりほら、妖精さんとお別れしないと」

 

 プラットホームを戻りながら、そんなふうに雑談を続けていると。先導してくれていた妖精二人が、ちょうど中間点ぐらいで止まっている。空中に浮かんだまま、こちらを振り返って来たので。

 

「もう会う事はないのかって思うと、ちょっと寂しいな。今日は助かった。ありがとな」

「うん、私もありがと。さっき『しんこきゅうしてー』って言われたことは、ずっと覚えてるからね」

 

 東京駅で駅長さんと約束したことを思い出した。海老名はたぶん、深い意味を込めて口にしたわけではないのだろう。だがその言葉が、NPCにとってはこの上ない贈り物になるのだ。

 

 二人並んでふっと笑みを漏らして。八幡と海老名は妖精たちに背を向けると、そのまま一度も振り返らなかった。

 

 

 プラットホームを歩き切って、目の前の壁に向けて歩を進める。少しだけ速度を緩めて、右手を前に出しながら近づいて行くと、制服の裾の辺りに軽い感触を覚えた。気が付かないふりをして、そのまま壁を抜けようとして。強く引っぱられたので足を止める。

 

「なあ。今の俺って、壁に半分めり込んでる状態なんだが。なんかあったのか?」

「うーんと……さっきの話だけどさ。えっと、我慢できるって話」

 

 首を傾げたくなる気持ちを抑えて、とりあえず頷いてみると。めずらしく俯きがちになって、海老名が話を続けた。

 

「たぶんヒキタニくんも同じだと思うんだけどね。仲の良い同性の子が好きな相手ってさ。どんなに気になっても、私は我慢できると思う」

「……そうか。まあ確かに、俺もそうだろうな」

「うん。そうだと思った。じゃあ、私は先に行くね」

「あ、おい」

 

 駆け出した海老名を思わず追いかけて、気付けば壁を抜けていた。京都駅の西口が目の前にあって、海老名は向かって左のトイレの方に走っている。

 

 追い掛けるべきか否かと、その場で迷っていると。海老名が足を止めて振り返った。

 

「結衣とのこと、頑張ってね。ありがと、比企谷くん。……バイバイ」

 

 そう言い残して海老名はトイレに消えた。そのまま元の世界に戻るのだろう。

 

 八幡は何となく同じトイレを避けて、新幹線の構内へと歩を進めた。そこのトイレで別空間とお別れをして、帰りの新幹線が待つホームに上がる。

 

 

 八幡はメッセージアプリを立ち上げて、本文に『昨日の返事をしたいから、東京駅で解散後に、丸の内中央口で』と書いて。迷った末に、それを二人に宛てて送った。

*1
ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」にある”To be or not to be, that is the question.”を念頭に置いている。

*2
J・K・ローリング「ハリー・ポッター」シリーズ(1997年〜2007年)に登場するヴォルデモート卿のお言葉。

*3
上記シリーズに登場する、とある人物の名前を並び替えると、”I am Lord Voldemort.”になる。

*4
川原礫「ソードアート・オンライン」(2009年~)に登場する少女で、プレイヤーのメンタルヘルスカウンセリングを担う予定だった。

*5
西尾維新「物語」シリーズ(2006年~)で、主人公の名前を間違えた八九寺真宵が口にするセリフ。

*6
上記の場面で主人公が口にするセリフ。

*7
椎名高志「GS美神 極楽大作戦!!」(1991年~1999年)で横島忠夫がGS試験中に言い放った言葉。

*8
上記の横島が修得した反則級の特殊能力。

*9
上記作品に登場して多くの読者を涙させた、夕陽が好きな健気な魔族。

*10
上記作品の32巻最終話「甘い生活!!【その1】」扉絵。

*11
大伴坂上郎女「(よそ)()て 恋ひつつあらずは 君が(いへ)の 池に住むといふ 鴨にあらましを」万葉集・巻四・七二六

*12
「妖怪人間ベム」(1968年〜1969年)に出てくるセリフ。

*13
男子三日会わざれば刮目して見よ。




次回の更新は、性懲りもなく今週末を予定しています。でも来週に延びたらごめんなさい。
20日の夜までに本章を終えるという当初の目標は絶望的ですが、できるだけ早く更新して心置きなく13巻を読みたいなと思っています。13巻を先に読んで変更すべき部分は取り入れるべきだと考え直したので(誘惑に負けたとも言いますが)、次回更新は早くて月末、おそらく来月初めになります。ごめんなさい。

それと以前に予告していた初期の手直しの件ですが、とりあえず区切りの良い1巻11話までは修正ができたので新しいものに差し替えました。
特に、ラストを除いて新しく書き直した1巻04話について、良い悪いだけでも構いませんのでご感想を頂けますと助かります。

新しく導入された脚注機能が手探り状態なのと、改行の割合が不安定なままですが。以前より少しでも読みやすくなっていることを願っています。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
後書きを修正しました。(11/25)
細かな表現を修正しました。(12/17,28)
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