序盤は更新が遅めですが、本章もよろしくお願いします。
01.いがいな展開を彼女らはしたたかに利用する。
週明けの月曜日は憂鬱なものだと相場が決まっているけれど。
修学旅行で二年生がいないという普段とは違った状況に、心の何処かが興奮しているのだろうか。それとも天然あざとい中学生と三夜を過ごすのを、思いのほか楽しみにしていたということなのか。
いつもよりも早い時間に目が覚めた一色いろはは、勢いよくベッドから起き出すとカーテンを力強くえいっと開けて。曇天に迎えられて、浮かれ気分はたちまち霧消した。
あの瞬間に嫌な予感はあったのだ。すぐに日が差し始め、程なく晴天に恵まれたのですっかり忘れていたけれど。青天の霹靂とは、まさに今のような状況を言うのだろう。
「生徒会長。立候補者、一色いろは……?」
朝のSHRの最中に全校生徒に向けて通知が届いた。送り主は生徒会、より正確には選挙管理委員会からだ。
それを見てさすがに呆然としてしまった一色の耳に、担任の声が聞こえて来た。
「やっと情報が解禁されたな。この中には知ってた奴も多いと思うけど、うちのクラスの一色が次の生徒会長だ。みんなで応援してやって欲しい」
「えっ?」
意外な顔をしているのはクラスのごく一部。反射的に声まで出たのは、普段から付き合いのある女子数名だけだ。
そこまでを確認して、ようやく頭が働き出した。自分に対抗意識を燃やすあの子たちがこれを画策したのだろう。ご苦労なことだと、まずは呆れる気持ちが沸き起こる。
「え〜と、わたしは立候補した覚えはないんですけど〜?」
目をきょとんとさせて首を軽く傾けながらそう言うと。教壇には届かないぐらいの小さな、しかし一色には確実に届く大きさの笑い声が聞こえてきた。なるほど、そういうことかと納得する。
「だから立候補じゃなくて推薦だな。お前に会長になって欲しいって奴が三十人も集まったと聞いて、先生ちょっと涙が出そうになったぞ。お前らが事あるごとに険悪な雰囲気になってたのは、今思えばお互いを理解し合うために必要なことだったんだな」
「はあ……」
耳障りの良い言葉で担任をまんまと抱き込んだのだろう。そしてクラスの大半をまとめ上げた。女子にはわたしへの対抗心を、男子には忠誠心を煽って。
そう推測した一色の口から思わずため息が漏れた。
わたしを生徒会長に祭り上げて喜ぶ女子も大概だが、そんな役職に就かせようとする男子の思考が理解できない。お気に入りの子を総選挙で一位にするために血道を上げる人たちと同じなのだろうとは思うが、その気持ちを理解したくはない。
そこまで考えて、入学直後のやさぐれた感覚が蘇っているのに気が付いて。一色はもう一度ため息を吐いた。
「はあ。わたしが知らない間に、先生はこんなことを企んでたんですね〜。ちょっとショックなんですけど〜?」
軽く唇を尖らせて、拗ねた口調で担任に話しかけた。無駄な抵抗だと言いたげな笑いが耳に届いたが、特に気にならない。むしろ、こんな程度で余裕ぶっている彼女らの頭の出来が心配になるほどだ。
「みんなが一色に内緒で話を進めたのは良くなかったな。けどな、お前のためを思ってクラスの大半が動いてくれたんだぞ。陰でこそこそと悪いことを企むのはダメだけど、良いことを企むのは許してやってくれないか?」
先生にはそもそも責任がないという前提で、首謀者を許せと言ってくるのだから大したものだ。高校生にまんまと丸め込まれて、裏の意図を疑いもしないで。これで大人ぶっているのだから、救いようがないなと一色は思う。
もともと担任は自分に酔う傾向が強かったし、この程度の返事は予想の範囲内だ。それよりも喫緊の問題は、今の自分の精神状態だろう。早く冷静にならないと、足元をすくわれる可能性がある。
中学までのやり方が高校でも通用するのかと危ぶむ気持ちは一色にもあった。だから入学式の日は柄にもなく緊張していたし、男子の反応が今までと同じかそれ以上なのを見て密かに胸をなで下ろしたのを覚えている。
あの日に予想外だったのは、今回の首謀者でもある女子生徒に絡まれたことだった。いきなり「初対面の男子に色目を使うなんて」と居丈高に責められて、先ほど話しかけた男子生徒が彼女の想い人なのだと気が付いた。
喧嘩腰の相手と正面からやり合うのは面倒だったので、別の男子に助けを求めると。怒り顔の女子が二人に増えた。
わたしに食って掛かる暇があるのなら早く想いを伝えれば良いのにと考えて、男子の様子を思い返してその発想を却下した。見込みがないと理解しているからこそ、ぽっと出で色よい反応を引き出したわたしが気にくわなかったのだろう。
入学式を前にして体育館はざわついていたので、多少の騒ぎは見逃されていた。でも目に余ると思われたのか。式の手伝いに来ていた男子の先輩が間に入ってくれた。
先に向こうに注意をして。念のために離れた席に移動して欲しいと言われた一色は素直に指示に従った。
だが、移動の最中に不用意にお礼を伝えたのが良くなかった。
それまでは若干照れ気味に、決して視線を合わせようとはしなかったのに。「いや、お礼なんて」と口にしながら慌てて振り返った先輩と目が合って。その瞬間にやばいと思っても、もう後の祭り。
本人は上手く取りつくろっているつもりでも、下心は見え見えだった。この機会を逃してなるものかという感情がありありと伝わってきて。内心で深くため息を吐いたところで通りかかったのが、由比ヶ浜結衣だった。
あの偶然のおかげで、一色の今がある。
ほんの二言三言で男子の先輩は急に大人しくなったし、こっそり耳打ちしてくれた「付近で一番の進学校だからか初心な男子が多いみたい」という忠告は実に的確だった。要するに、高校生が相手だからと身構えすぎていた一色にも原因があったということだ。
考えてみれば、中学の時にも教師を手玉に取っていた一色だ。大人が相手でも大丈夫だったのに、どうして高校生ごときに怯えていたのだろうと思うと、色んなことが一気に馬鹿らしくなってきて。大人も高校生も男も女も、その大多数が幼く見えてきて、少しやさぐれた気分になった。
負け惜しみという気持ちはなかったものの、密かに「この先輩も外見の割にはすれてないな」と思った一色だったが。二週間後に、あのテニス勝負の場で再会した由比ヶ浜からは見違えるほどの存在感が伝わってきた。
おどおどとした気配はどこへやら。人懐こくて素直な性格はそのままに、自信に裏打ちされた由比ヶ浜からは、人間関係を打算で割り切ってきた一色でさえも「もっと親しくなりたい」と思ってしまうほどの魅力が感じられた。
それを金髪の女王の影響だと考えていた一色だったが、今は認識を改めている。奉仕部の二人が原因に違いないと確信に近い思いを抱いている。いつの日か詳細を知りたいものだと思いながら、少しだけ口元を緩めて。
一色は静かに、意識を現実に戻した。
「えっと、確認なんですけど〜。これって立候補じゃなくて推薦ですよね〜?」
意図的にふくれっ面を浮かべて、口調はそのままに話を切り出す。語尾を必要以上に伸ばして平然と振る舞い続けることで、黒幕たちを苛つかせようと考えてのことだ。すぐに墓穴を掘ってくれるだろうと、一色はそう考えていたのだが。
「そうだな。一色の意思を確認しないで届けを出したのは、推薦側の落ち度だと先生も思う。予想もしていなかった役職に就く形になって、一色が不安に思う気持ちも理解できる。でもな、このクラスのみんなはお前の味方だし、他のクラスにも数は少ないけど推薦人がいるんだぞ。一色なら立派に生徒会長を務められると先生は思ってるし、何かあったらみんなが助けてくれるから大丈夫だ」
どうやら、一番興奮して感情的に突っ走っているのはこの担任みたいだ。自分のクラスから生徒会長が出るというだけでこれほど盛り上がれるのだから、お気楽なことだと呆れたくなるが。今はそれよりも、既得権を確保すべきだろう。
「えっとぉ〜。じゃあ困った時には
女子の一団から声が出かかったものの、どう反論すれば良いのか分からないみたいであたふたとしている。そして教室のもう一方からは。
「一色さんにお願いされたら助けるに決まってるじゃん!」
「そうそう。遠慮なく何でも言ってよ」
「でも『助けて欲しいのに〜』って拗ねてる一色さんもなかなか」
「はい、脱落者一名様のお帰りでーす」
「ライバルが減るだけなんだよなあ」
「俺たちが絶対に助けるからね!」
男子が我先にと一色に向かってアピールしていた。
内心では若干うげっと引きつつも、それをおくびにも出さず。無邪気な口調で「ありがと〜」と伝えてから、首謀者を横目でちらりと見ると。何やら怒りに震えていらっしゃる。これで終わりじゃないのになと考えながら、教師に目を向けると。
「ほら、一色にもみんなの気持ちが伝わったんじゃないか。その、先生な。千葉村だっけか、お前も参加した夏の合宿のレポートを見た時にな。うちのクラスの揉め事がいじめに発展したらどうしようって心配で心配で。だから杞憂だって分かった時にはそりゃもう嬉しくてな。教師冥利に尽きるって、こういうことなんだなって思ったわけよ」
この担任を巻き込んだのは悪手だったなと、一色は黒幕たちを憐れむような気持ちになった。とはいえ手加減はしない。無制限に使える労働力を確保して、その次に一色が企むのは。
「でもでも〜。わたしサッカー部のマネージャーですし、生徒会長と両立って大丈夫なのかな〜って。いきなり辞めたら部員の人たちに迷惑ですし……。う〜ん、推薦して頂いたのに申し訳ないな〜って思うんですけど、やっぱり難しそうだな〜って」
立候補ではなく推薦という状況を利用することだった。
たとえ担任でも、マネージャーよりも生徒会長を優先しろなどと言えるわけもなく。他の生徒にも迷惑がかかると聞けば、これ以上の無理強いはできない。それでも未練があったのか。
「一色の事情を把握しきれていなかったか。ただ、他に候補がいない現状で立候補を取り下げると、生徒会が困るだろうからな。だから二年生が戻ってくるまでは保留という形でどうだ?」
「そうですね〜。葉山先輩の許可が出れば、立候補する可能性もありますけど……。わたしがマネージャーを頑張ってるって知ってるのに、許してくれるかなぁ〜。それに、奉仕部って生徒会と仲が良いですよね〜。わたしが知らない間に届けを出されてたって、雪ノ下先輩が知ったらどう思うかなって。ちょっと怖い気がしますよね〜」
教師が示した妥協案は一色には受け入れがたいものだった。勝手に推薦しておいて、生徒会が困るからと言われてもこちらも困るとしか言いようがない。
とはいえ、にべもなく突っぱねるのも難しい。せっかく大勢は決したというのに、いらぬ隙を与えてしまう可能性がある。クラスの大半が推薦人に名を連ねている現状で、数に物を言わせるような展開に持ち込まれると厄介だ。
だから校内でも指折りの有名人の名前を持ち出して、しっかりと釘を刺すことにした。形の上では保留だが、実質的にはほぼ却下に近い。ここまで言っておけば大丈夫だろうと一色は思った。
クラスの中に限れば、一色の判断は正しい。だが全校規模で見ると事情が違ってくる。
選挙管理委員会には正確な情報が伝えられ、それは直ちに修学旅行中の二年生も含めた生徒会役員全員に共有された。選管を率いる城廻めぐり以下の一同はこの状況に頭を抱えたものの、妙案がすぐに出るわけもなく。結局は二年生が帰るのを待つという結論に落ち着いた。
旅行を楽しんできて欲しいという理由から、他の二年生には詳細を伏せることにして。とはいえ校内に残る一年生と三年生にじわじわと事情が伝わるのは避けられず。放課後を迎える頃には、多くの生徒が状況を把握していた。
「一色さんが会長やるの、見てみたいよなー」
「本人にやる気がないんなら、さっさと立候補を取り下げたらいいのにさ」
「じゃあ誰がやるんだよ?」
「さあね。男を手玉に取って自由に動かすような候補者じゃなきゃ誰でもいいよ」
「あのなあ。一色さんがそんなに腹黒いわけがないだろ」
「これだから男子ってほんと救いようがないよねー」
その結果、クラス外でも男女別に分かれて擁護派と反発派がいがみ合うことになったり。
「結局、雪ノ下さんは立候補しなかったんだろ?」
「由比ヶ浜さんも、あと可能性はないと思ってたけど葉山くんもだね」
「その三人が出ないなら、ぶっちゃけ誰がやっても同じだよな」
「三浦さんや海老名さんが立候補するとも思えないしね」
「人気で言えば川崎さんや戸塚くんもいるけど、無理だよね」
「じゃあもう、一色さんがやってくれたら楽なのになあ」
事を荒立てないでさっさと収拾して欲しいという無言の圧力が、一色に向けられることになる。
そうした校内の変な空気に屈することなく、一色はいつも通りの振る舞いで部活を終えて。
「このぐらいのことで、負けてられないですよね〜」
夕闇に浮かぶ校舎を見上げながらぼそっと呟いた一色は、前を向いて歩き始めた。
***
そして迎えた木曜日の放課後。
修学旅行を終えて、東京駅でしばしの歓談を楽しんだ雪ノ下雪乃が総武高校に帰ってきた。
「去年はずっと一人で仕事を引き受けていたのだけれど……いなくなると寂しいものね」
奉仕部への依頼は一年時にはなかった。それは前生徒会長との不幸なすれ違いが原因なのだが、今となっては終わったことだ。文化祭で再会した際に和解を果たし、姉に対抗するための同盟を結ぶ仲にまでなっている。
昨年度の仕事は、一年生の代表として引き受けたものばかりだった。一年男子代表の肩書きを背負った幼なじみと顔を合わせることもしばしばで、外見上はともかく内心は落ち着かない時が多かった。でも、一人の仕事を寂しいと思ったことはなかった。
「二人がどんな結論を出すにせよ。あと一度ぐらいは、一緒に依頼を受けてみたかったのだけれど。一色さんが立候補したことといい、ままならないわね」
正門を抜けて、誰にも聞こえないぐらいの小さな声で呟きながら歩を進める。
独り言を言い終えて、ふと立ち止まると。雪ノ下は夕陽に照らされた校舎を見上げた。
「いずれにしても、私の行動に変わりはないわ。二人が部に残ってくれても、たとえ奉仕部と距離を置くことになっても」
そう口にして、雪ノ下は前を向いて歩き始めた。
次なる依頼に三人が別々に挑むことになるなどとは、予想だにしていなかった。
***
生徒会室に直行すべく廊下を歩いていると、見知った男子生徒とすれ違った。旅先で本牧牧人から「旅行が終わったら会長と連絡を取って欲しい」と言われた時に、すぐ近くに立っていたのを思い出す。
「稲村くんは、今はもう生徒会には関わっていないはずだけれど。でも、この先には生徒会室ぐらいしか……?」
首を傾げる雪ノ下だが、それ以上を追及しようとは思わなかった。
昨年度は生徒会の臨時メンバーという立ち位置だった稲村純とは、仕事で何度か顔を合わせたことがある。とはいえ人が足りない時にヘルプで入るのが基本で、用事が済めばすぐに去って行くので、会話をした記憶はほとんどなかった。
今年の入学式を最後に稲村が生徒会を離れてからは、めったに姿を見ることもなく。サーフィンに熱中していると城廻が言っていたが、特に何の感慨も持たなかった。その程度の仲だ。
気持ちを切り替えて、生徒会室のドアをノックして。聞き覚えのある声で「どうぞー」と言われたので、部屋の中に入る。
「失礼します。本牧くんから……説明の必要はなさそうですね」
旧知の本牧や藤沢沙和子の姿を認めて、雪ノ下はふっと息を吐くと話を打ち切った。そのまま会長の席まで移動しようとしたところ。
「雪ノ下さん、おかえりー」
生徒会長の威厳などどこへやら。ばたばたと席を立ってこちらに近づきながら、城廻がそう言って出迎えてくれた。両手を握ってぶんぶん振られるので、離しどころが難しい。
「その、定番の八ッ橋で申し訳ないのですが。これ、生徒会の皆さんで食べて下さい」
ようやく満足してくれたみたいで手が自由になったので、お土産を取り出しながらそう言うと。「おおっ」という声とともに、城廻の背後から黒子の集団がまろび出た。雪ノ下のお土産を受け取って、大机の周りに集まってわいわい騒いでいる。
彼らだけはいつ見ても不可解だが、気にしないでおこうと決めている。少なくとも、城廻に忠誠を誓いたくなる気持ちは理解できるものだから。自分や姉とは違ったやり方で他人を率いる能力があると、そう認める先輩だから。こんな程度のふしぎは些細なことだ。
「それで、何か問題でも起きたのでしょうか。差し迫った行事としては会長選挙がありますが……?」
「うん、それがねー。一色さんが立候補してくれて良かったって思ってたら、同じクラスの子が内緒で届けを出したんだって。担任の先生と一色さん本人から話を聞いたんだけど、嫌がらせと捉えるべきかなって、私は思ったの」
城廻と向かい合って腰を落ち着けて。右隣に腰を下ろした藤沢と、すぐ近くで立ったままの本牧が見守る中で。対面の先輩から意外な話が飛び出した。
「城廻先輩が断言されるのなら、間違いないとは思うのですが。でも、話の落としどころが難しいですね。一色さんが会長職を引き受ける可能性は?」
「ゼロって考えてたんだけどね。でも立候補者として名前が知れ渡ってて、他に候補もいない状況だから……。一色さんが『やらない』って言った時に校内でどれほどの反発が出るのか、それがちょっと怖いなって」
なるほどと首肯して、顎に片手を当てながら暫時の間を置いて。雪ノ下は再び口を開いた。
「一色さんは今は部活ですよね。その間に担任の先生と、他の関係者からも話を訊いてみたいのですが。推薦人の名前を確認しても?」
「うん、雪ノ下さんなら大丈夫だよー。じゃあ藤沢さん、お願い」
前もって雪ノ下の要求を予想していたのだろう。がさがさとクリアファイルから取り出した書類を机の上に置いて、藤沢は丸印のついた名前を指差しながら説明を始めた。
「大半は一色さんと同じC組の生徒ですね。雪ノ下先輩と面識があるのは、文実に参加していたこの子たちぐらいかなと」
「ええ、覚えているわ。私が呼び出すよりも、文実の件で話があると言って貴女に連絡して貰ったほうが良いかもしれないわね。頼めるかしら、副委員長?」
「え、ええ。任せて下さい!」
今はあの二人がいないから、こうした配慮も全て自分でやらなければならない。人間関係をはじめとした背後の問題を全て任せられたり、奇策や搦め手が有効な時にはそれを一任できるような人材は、ここにはいないのだから。
自ら率先して正攻法に専念できた頃には思いもしなかったが、なんと贅沢な環境だったのだろうと雪ノ下は思った。
「二人とも、今からここに来てくれるみたいです。D組が何人かいるのは、文実の繋がりで声を掛けたんでしょうね」
「だとすれば、C組の文実の子は首謀者かそれに近い立ち位置だと思うのだけれど。D組の子を牽制しつつC組の子から情報を引き出す方針で問題なさそうね」
そう言ってちらりと城廻の様子を窺うと、ぱっと目が合った。
ニコニコとこちらを見守る姿勢が伝わってきたので、今回の件を一任されたのだと考えかけたものの。気負うべきではないと思い直した。自分だけではなく、本牧や藤沢に経験を積ませたいと考えて一歩引いているのが正解だろう。
「呼び出した藤沢さんが中央になるようにして、本牧くんも向こうに座ってくれるかしら。この配置で二人を迎えて、推薦の件を問い質したいと思うのだけれど。私が横で目を光らせているから、藤沢さんが話を主導して本牧くんがフォローする形でお願いね」
緊張の色は伝わって来るが、二人から否とは言われなかった。一つ頷いて対面に顔を向けると。
「じゃあ私は、黒子のみんなと向こうで八ッ橋をいただいて来るね。お茶は出してあげるし、何かあったらフォローするから大丈夫だよー」
そう言って城廻が席を立ったので、三人そろって上座のほうに移動して。
程なくして、ノックの音が聞こえてきた。
***
元文実の生徒二人を見送って、雪ノ下は軽く額に手を当てながら口を開いた。
「まさか私たちの会話が原因だったとは、思ってもいなかったのだけれど」
「いや。あれを雪ノ下さんと比企谷の責任にするのは……藤沢さんもそう思うよね?」
「そうですよ。雪ノ下先輩は悪くないです」
文実は呼び出す名目に過ぎなかったはずなのに、「嘘から出たまこと」と言うべきか。おかげですんなりと自白を引き出せたものの。まさか初回の実行委員会で彼と交わした雑談が今回の件に繋がっていたとは、さすがの雪ノ下でも予測できなかった。
「でも、『気に入らない奴を祭り上げる』『大人数で結託されると手の打ちようがない』と言ったのは比企谷くんだし、『あの子が相応しいと思いますと教師にも言えてしまう』と補足したのは私よ。責任が全くないとは思えないのだけれど」
本牧と藤沢が完全な無罪を主張してくれるので、何だか少し申し訳ない気持ちになるのだが。ちょっとした思惑もあって、雪ノ下は反省の念を口にする。
「でも雪ノ下先輩がさっき言ってましたよね。比企谷先輩は『遊びでそんなことをやるような歳でもない』って言って話を締めくくったって。だから先輩たちが悪いんじゃなくて、こんな幼稚なことを実行するあの子たちが悪いんですよ」
もともとは引っ込み思案な性格だったはずなのに。よく知った面々しかいないからか、それとも尊敬する雪ノ下のことだからか。藤沢はぷりぷり怒って饒舌になっている。
まあまあと宥めている本牧と軽く目を合わせて苦笑して、雪ノ下は本題に入る。
「担任の先生にも話を伺うべきだとは思うのだけれど。事情が判明した以上は、一色さんに会長職を押し付けるのは酷ね。つまり、早急に他の候補を探すべきだと思うのだけれど。私は今から職員室に行って先生から話を訊いてくるので、その間に二人には候補者の検討をお願いできないかしら?」
そう言うと、二人は困ったように顔を合わせて。奥にいる城廻へと視線を向けた。
「会長ともさんざん話したんですけど、今さら他の人に頼むのは難しくて。正直に言うと、一色さんに引き受けてもらうのが一番角が立たない形かなと」
「その……やっぱり、雪ノ下先輩はダメ、ですか?」
同学年はもちろん上級生でも珍しくはないので今更だが、なぜか丁寧語で話してくる本牧に頷いていると。藤沢が意を決して問い掛けてきた。
待ち望んでいた展開だが、慌てて飛び付いたりはしない。
「そうね。先ほど言ったように、今回の件では私にも責任が少なからずあるのだから。他に適任がいなければ、引き受ける用意はあります。でも順番としては、一色さんの話を片付けて、それから考えるという形にしてもらえると助かるわね」
視線を藤沢から城廻、そして本牧へと順番に移動させて。雪ノ下は慎重に返事を伝えた。
喜びと歓喜と安堵の表情を浮かべる三者を微笑ましく眺めながら、少しだけ物思いに耽る。
今学期の初めに思い描いたことがある。
自分という存在を確たるものにするために。姉とは違う自分だけの何かを得られたなら、きっと救えると思ったから。だから、密かな思惑を胸に毎日を過ごしてきた。
文化祭に体育祭と、紆余曲折もあったし細かな部分では方針変更もあったけれど。終わってみれば順調に事が進んでいた。そこに少し油断があったのかもしれない。
先週の金曜日の時点では立候補者が一色とは知らなかったが、自分以外の者が生徒会長になると知っても雪ノ下に動揺はなかった。思惑を完全無欠の状態では実現できそうにないと知って。それでも、あの二人と距離ができずに済むという利点があったからだ。
彼と夜の京都を堪能した時点では、そう考えていた。でも、状況は変わってしまった。その原因は自分にある。
当事者の二人もまた「自分に責任がある」と考えているとはつゆ知らず。由比ヶ浜に想いを告げさせるような展開にしてしまったのは自分だと、雪ノ下は考えていた。
東京駅であの二人がどんな結論を出すにせよ、今まで通りというわけにはいかないだろう。何があっても取り乱さないようにと、高校に帰って来てからの雪ノ下は最悪を想定して動いていた。
だが、これは好機だ。一度は諦めた会長職が目の前にある。それに自分が生徒会に軸足を移すことで、三人で過ごす時間が減るのも間違いない。部室でも二人で時間を過ごせるとなれば、あえて奉仕部から遠ざかろうとはしないはず。
即答するにせよ保留して先延ばしするにせよ、最終的には二人は付き合い始めるだろうと考えている雪ノ下は、距離の取り方に悩んでいた。同時に、二人から距離を取られることを恐れていた。だがこれなら、うまい具合に収まるのではないか。
それに今回の件を依頼という形にすれば、また三人で仕事ができる。会長になればもうそんな機会は得られないかもしれないと思うと寂しい気持ちが再燃しそうになるが、これが最後になったとしても一緒に依頼に挑めるという高揚感が勝っている。
一色の現状を解決するという話を、どこかのタイミングで会長就任という話にすり替えて。二人に協力してもらって当選を果たす。おそらくは信任投票になるだろうし今までの依頼と比べると難度は低いかもしれないが、三人の関係性を肌で感じられるのが重要なのだ。歯ごたえなどは求めていない。
もしかすると、あの二人には最初からお見通しとなるかもしれない。だって、一学期からずっと濃密な時間を過ごしてきたのだから。この程度の事はわかるものだと、そう思っておいたほうが良いかもしれない。
いずれにせよ、二人を巻き込む大義名分が必要だと考えて。雪ノ下は考察を終えた。
「では、まずは一色さんの問題を片付けるということで。それを奉仕部への依頼とさせてもらっても良いでしょうか。部員に連絡を取りたいと思うのですが」
「うん、それで大丈夫だよー。本牧くんも藤沢さんも、それでいいよね?」
二人が首を縦に振ったのを確認して、逸る気持ちを抑えながらアプリを立ち上げる。そして雪ノ下は、二人に向けてメッセージを送った。
本年も読者の皆様には大変お世話になりました。
元号が変わるという、人生でそう何度も体験することのない節目の年が、皆様にとって良い一年になりますように。
来年もよろしくお願い致します。
それと前回の後書きでは書き忘れていましたが、原作7.5巻は、
柔道部の話は1巻20話と6.5巻5話〜6話
嫁度対決のうち料理は3巻BT(対決にはなりませんでしたが)
衣装対決と結婚コラムはそれぞれ6巻幕間と6.5巻幕間
などで済ませており、独立した章として取り上げる予定はありません。
次回は1月の10日以降、2月と3月は20日以降に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
追記。
本話から読み出しても大まかな事情を把握できるように少し説明を加えて、細かな表現を修正しました。(12/28)