俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。   作:clp

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前回のあらすじ。

 待ち合わせ場所で軽いやり取りを交わしながら、八幡と葉山はそれぞれが抱えている問題と内面で向き合っていた。

 折本と仲町が合流して、四人は和気藹々と会話を続けながらカフェまで移動した。
 会長がメッセージを頻繁に送ってくるので苛立つ折本。そうした事情を説明する際に葉山と至近距離で顔を合わせてしまい照れる仲町。
 そして折本が昨日の一件と中学時代の勘違いを謝り、文化祭の体験談と同中の闖入者たちの話を伝えて、集まりはあっさり解散となった。

 カフェに残った男二人が雑談していると、そこに陽乃が現れる。
 情報源は不明だが、現状を余さず把握されている気がして八幡は落ち着かない。葉山がフォローに動いたものの、過去の話を仄めかされると何も言えなくなってしまう。

 重い雰囲気を何とかしようと会話を引き受けた八幡は、ずっと前から求め続けていたものに思いがけず言及して。口に出して初めてその言葉の重みを認識した。
 陽乃はその発言を面白がり、返す刀で妹と葉山を斬り捨てると、八幡に一つ確認をして去って行った。

 葉山と連れだって駅まで戻り、別れ際にやはり一つ確認をされて。
 こうして、大魔王とのエンカウント付きダブルデートは無事に終わった。



09.おたがいに思惑はあれど彼と彼女は必勝を期す。

 一夜明けた日曜日の午後のこと。いつぞやも待ち合わせをした海浜幕張の駅前にて、比企谷八幡はぽつねんと突っ立っていた。まだ約束の時間まで十五分ほど余裕がある。

 

 前回は九月の上旬だったので暑さがずいぶん残っていた。少し歩いただけですぐに汗が吹き出してきた記憶がある。

 とはいえ由比ヶ浜結衣が疲労で倒れたという話と比べると汗などものの数ではなかったので、あの時の八幡は息せき切ってこの駅までやって来たのだった。

 

 それと比べると今回は道中もゆっくりだったし用事も切羽詰まったものではない。

 呼び出しの理由を妹に言いたくなくて、それで妙な勘違いをさせてしまい家に居辛くなったので早めに出て来ただけ。なのだけれど、逸る気持ちが外出を後押ししたことも否定はできない。

 

「考えてみれば、竹林から出たところで解散して以来まともに話してないんだよな……」

 

 あの前日に顧問を含めた三人で夜の京都を訪ね歩いた時も、あの日の昼間に由比ヶ浜を含めた三人で洛中洛外を練り歩いた時も、目には映らない特別な繋がりを八幡は感じ取れた。

 

 けれども翌日に提案した東京駅での待ち合わせは却下され、八幡は由比ヶ浜と差し向かいで話すことになる。その結果、煮え切らない結論を受け入れてくれた由比ヶ浜への想いが増すのと同時に、あいつとも話をしたいという想いが募った。

 

 なのに旅行から帰ってきたその日に生徒会長選挙の問題が明るみに出て。降って湧いたような話を前にした八幡たちに個人的な会話を交わす余裕などなく、おまけに三人の間で意見が分かれて別陣営になってしまったので、顔を合わせることさえままならなくなった。

 

 だからこそ、この呼び出しはまたとない機会だ。そう考えた八幡は強く拳を握りしめて、しかしその決意は瞬時に薄らいでしまう。

 だらんと力の抜けた手を軽く振りながら、八幡は問題点に思いを馳せる。

 

 

 これが好機なのは間違いないとしても、どんなふうに話を持ち出せば良いのかまるで見当が付かない。もっと深くもっとたくさん話をしたいという気持ちを伝えるのは、へたをすれば愛の告白よりも難易度が高いのではないかとすら思えてしまう。

 

 なぜならイエスかノーの二択を強いる告白とは違って、自分の話の持ち出しかたや相手の返事いかんによって無数の可能性が考えられるからだ。

 自分が最終的に何を求めているのかが明瞭ではなく、相手の希望もどの程度のものなのか全く読めない。それは、付き合うか否かに結論が集約される告白との大きな違いだろう。

 

「まあ……あいつと付き合えるかって言うと、色んな意味で無理だろうけどな」

 

 第一に思い付くのは自虐的な意味合いで、同じ部活仲間としての付き合いならともかく男女の付き合いを承知して貰えるとは八幡には思えなかった。

 

 第二に、もし仮にまんがいち付き合えたとしても、では由比ヶ浜はと考えるとそこで思考が止まってしまう。どちらかを諦めなければならないとは自明の理であるはずなのに、それが現実的な可能性として眼前に示されると八幡には選べない。少なくとも、今はまだ。

 

 第三に、あいつのことも異性として見ているのは間違いないとして、じゃあ付き合いたいと思っているのかと問われると即答できない部分があった。

 この二つは地続きのようでいて、意外と断絶があるのだなと八幡は思う。そしてこれが、先程の選べない理由にもなっているのだと自覚する。

 

 そして最後に、少し気が早いかもしれないけれど、あいつと付き合うなら向こうの家族との縁も深まるのだろう。でも()()()が義理の姉になると考えただけで、申し訳ないけれど尻尾を巻いて逃げ出したくなってしまう。

 それに……と考察を進めかけて、八幡はそこで踏み止まった。二日続けて嫌な思いをしたくはない。

 

 

「にしても……昨日なんて言ってたっけな。たしか、『自分で動いているようで、大事なところは他力』だっけか?」

 

 そう言われても、身内の評価が辛すぎるだけではないかと八幡は思う。あいつですら他力本願になるのなら、世の中の大多数は他力と言って良いのではないかと。

 

 大人でも無責任きわまりない輩はたんと見かけるのに。例えば、文化祭の前に取材に来た虫の好かない男のように。なのに高校生にその評価は……とまで考えて、ふと思い出したことがあった。

 

「もし、あれが……」

 

 八幡の脳裏に浮かんだのは、前回ここで待ち合わせた日のこと。すなわち、タワーマンションの客室における一場面だった。

 

 疲労が蓄積して細かなミスが出始めていたので、部長様の体調を慮った八幡は「明日はお前も休んだほうが良い」と言って、ずる休みを勧めてみたものの。

 このままだと倒れる可能性が高いと知りつつも、登校できるぐらいには元気なのに学校を休むのは難しいと正論で返されて。

 そこで万策尽きた八幡は、病床に伏す由比ヶ浜を頼ったのだった。

 

 あの時は結果に気をよくして、さすがは由比ヶ浜だと思った程度で済ませてしまったけれど。

 記者を撃退した時の体調万全の姿を見て、休ませて正解だったと己の提案に胸を張っていたけれど。

 

 もし、あれが。

 由比ヶ浜の言葉に納得した上での結論ではなく、決断を放棄した上での結論だったとすれば。

 

「……いや、違う」

 

 こちらに近づいてくる待ち人の姿を視界の端に確認できたので、八幡は力強く結論付けることができた。

 

 こいつが、自身の未来を誰かに委ねるなんて、そんなことあるわけない。

 それに俺は、彼女が何者かに決断を委ねることを良しとすることができない。

 たとえそれが、俺たちが心から信頼し誇りに思う、由比ヶ浜だとしても。

 

 こんなのは単なる願望に過ぎないと頭の片隅では理解していながらも、八幡はその小さな声をあえて無視して。久しぶりに二人きりで雪ノ下雪乃と向かい合った。

 

 

***

 

 

 歩く姿をじろじろと眺めるのは気が引けたので彼方を仰ぎ見ていた八幡は、雪ノ下が至近距離で立ち止まったのでようやくそちらに視線を向けた。

 

 最初に、ショート丈のシャギーニットカーディガンが目に付いた。黒色のそれの下にはタートルネックのニットが淡い色合いで存在感を放っている。

 思わず見惚れてしまい、しかし胸元に視線を向けたままなのは良くないなと思い至ったので目線を下に動かした。マキシ丈のフレアスカートで色はベージュだ。

 

 このコーデだと、着る人が違えばあざといという印象にもなりそうなのに。雪ノ下ならシックで大人っぽい装いに思えるのだから不思議なものだ。

 そんなことを考えながら、片手に持っているA4サイズの封筒から目を逸らしていると。

 

「少し待たせたみたいね。約束の時間はまだだと思っていたのだけれど?」

「いや、小町に追い出されただけだし気にすんな。つか、なんて言ったら良いのか分からんけど、あれだな。服、似合ってるな」

 

 目の前の女の子が思わずぷっと吹き出した。その表情も口元に持っていった手の動きも、昨日会ったかつての同級生とはまるで違って見えるのだから、人の印象というものはよほど気まぐれなものなのだろう。

 

 とはいえ表現が拙いのは重々承知だし、なにも吹き出さなくても良いのではないかと八幡がむすっとしていると。

 

「たぶん小町さんに、ちゃんと言葉に出して褒めろと言われてきたのでしょう?」

「そこまでお見通しなら、ちゃんと言葉に出して確認しなくても良いんじゃね?」

 

 その返事を耳にした雪ノ下は喉を機嫌良くころころと動かしながら上品に笑うと、そのまま口を開いた。

 

「貴方も小町さんのお勧めを上手く着こなせていると思うのだけれど?」

「着せ替え人形に甘んじた甲斐があったのかね。まあ、昨日の夜は疲れたわ」

 

 そう返しながら首を引いて下を向いて、自分が着ている服を視界に入れる。

 

 コーチジャケットとその下のハイネックニットは黒で、そこに黒スキニーを合わせてモノトーンを強調しつつインナーと足元は白にしてバランスを取った、らしいのだが。

 正直なところ、バランス役たるTシャツとスニーカーこそ安心感があるものの、その他は何だか着せられてる感が半端ない。

 

 なので、見えないところにせめてアイラブ千葉Tシャツをと訴えかけてみたものの。あんなに冷たい目をした妹を見たくはなかったと、思い出し身震いをする八幡だった。

 

「でも何だか、貴方の昔の病気が再発しそうな姿だという気もするわね」

「それな。気を抜いたらすぐにでも、漆黒に包まれしこの身に地獄の業火よ来たり給え……とかって適当な詠唱をしたくなるんだよなぁ」

 

「失礼。訂正するわね。貴方の今の病気が悪化しそうな姿だという気がするのだけれど」

「おい。これでもまだ身振りを入れてないだけマシだっつーの」

 

 テンポの良さを懐かしみながら会話を重ねていると、あの部室の空気まで思い出せそうな気がした。ほとんど使われていない割には埃っぽさがまるでなく、扉を開けると同時に紅茶の香りが出迎えてくれるあの部屋の、親しみ深い雰囲気すらも。

 

「では、立ち話もなんだし移動しましょうか。少し裏手に落ち着ける喫茶店があるのだけれど」

「まあ、お前の地元だし任せるわ。つっても、あんま高級なのを出されても味なんて分かんねーぞ?」

 

 二人の軽妙なやり取りは、お店に着くまで絶え間なく続いた。

 

 

 からんからんという音を耳にしながら重い扉を手前に引くと、先にお店に入った雪ノ下は迷いなく奥のテーブルへと足を進めた。

 こちらを向いて椅子に腰掛けたのを見届けてから、その正面の席に腰を下ろす。

 

「何となく、紅茶専門店とかに連れて行かれそうな気がしてたんだが。思った以上にコーヒーも豊富なのな」

「そうね。昔よく通っていたお店なのよ」

 

 ほーんと納得した八幡は、無難にお店の名前を冠したブレンドを注文した。机の上には砂糖がたっぷり詰まった瓶が確認できるけれど、この昔ながらの喫茶店でマックスコーヒーもどきを作れるほどの蛮勇はさすがに持ち合わせていない。

 

 運ばれてきたカップをブラックのまま一口だけ含んでソーサーに戻した。雪ノ下がグァテマラの香りを堪能し終えるのを待ってから話を始める。

 

「んじゃま、嫌な話をさっさと片付けるか」

「貴方のために準備してあげたのに、そんな言い方をするのね?」

「はい、ごめんなさい。助かります」

 

 雪ノ下の口調に、今までにはなかった近しさと艶めかしさを感じ取ってしまい。咎められたことよりもそちらのほうが気になった八幡が反射的に詫びを入れると。

 

「とはいえ平塚先生に押し付けられただけ、という見方もできるのだし。気が進まなければ無理強いする気はないのだけれど?」

「数学の勉強は今でも気が進まないけどな。でもま、やらないで文句を言うよりは、やってみて文句を言うかって心境かね」

 

 京大の正門前に連れて行かれた時に(冷静に考えると、まだ五日前の話だ)、顧問が雪ノ下に持ちかけた話があった。実際に京大を受験するか否かはさておいて、数学の復習を少しずつ進めて欲しいので頼まれてくれないか、と。

 

「あの時に話した内容を覚えているかしら?」

「感情が入る余地がないからむしろ俺に向いてるとか、そんな話だよな。そういやあの時、暗記のほうが向いてるからって俺が言ったら頷いてただろ。あれ、どういう意味だ?」

 

「そうね……例えば貴方が小町さんに、英作文の勉強の仕方を教えて欲しいと言われたら。どう答えるのかしら?」

「英作か……まあ、応用性の高い基礎の例文を覚えまくって、それを問題に合わせて切り貼りするのが一番じゃね?」

 

 にっこりと頷かれたので、八幡が嫌な予感におののいていると。

 

「それなら貴方も同じやり方で数学の勉強ができるわよね?」

「いや、ちょっと待て。数学だと覚えることが膨大に……」

「ならないわよ。まずはこれを見て欲しいのだけれど」

 

 どうやらこれは反論をしても無意味なパターンだなと理解して、封筒から紙の束を引っ張り出している雪ノ下の指先を眺めていると。

 

「今度の期末は、指数対数と行列の一部が試験範囲になっていたわね。問題の数を厳選したので模範解答を何度か読んで、解法の流れが掴めたら別紙の公式も含めて全てを丸暗記して欲しいのだけれど。貴方の応用力があればそれだけで七割から八割は確実だし、覚えた解き方が他の問題でどんなふうに使われているのかを確認しながら数をこなせば、定期試験やセンター程度なら満点以外を取るのが難しくなるわよ?」

 

 なんだか恐ろしい事を言われている気がするのだが、それよりも厳選したという割には紙の枚数が予想よりも多かったので密かにショックを受けている自分がいる。

 もっと楽に成績が上がるのではないかと、これでも期待をしていたのだろうか。

 

「今回は最初なのでこれだけの数を用意したのだけれど、次からはもっと少ない問題数で理解できるようになるわ。数学は論理だと納得できさえすれば、復習も一気に進むはずよ」

 

 八幡がほんの少しだけ気落ちしたのを敏感に感じ取ったのか、希望を持てるようなことを言ってくれた。

 よくよく考えれば俺のために問題を厳選してこうして準備をしてくれたんだよなと思い至って。その行動に応えないのは不誠実な気がしたので、紙の束を引っ張ってきてぺらりとめくる。

 

「なあ。これ、お前の直筆だよな。もしかして全部の模範解答を作ってくれたのか?」

「確認ついでに解いただけなので、労力はさほどでもないわよ。読みやすいように大きく書いたのと、思い付いたことをメモできるように余白を多めに取ってあるので、数が嵩んでしまったのだけれど」

 

 雪ノ下の説明を聞きながらプリントをぱらぱらと確認してみると、たしかに余白が多いことに加えて裏面は全て白紙だった。これなら予想したほどの苦労はしなくて済みそうだ。むしろ逆に、たったこれだけで良いのかと不安に思ってしまうほどだった。

 

「前世紀までの数学は、乱暴に言えば物理を理解するためのツールという側面が大きかったのよ。アインシュタインが一般相対性理論を完成させるために数学を学んだという話が好例ね。けれど今はデータサイエンスの基礎という側面が強くなったので、物理に興味がなくても数学を学んでおいたほうが良いと思うわ。せっかく京大に連れて行ってもらったのだし、今回の範囲だけでも勉強してみたらどうかしら?」

 

 八幡が無言なのを躊躇していると受け取ったのか、雪ノ下が常になく気を使って誘いかけてくれた気がした。

 

「……なあ。もし俺が中間とか、一学期の復習もやりたいって言ったら、その都度お前がこれを作ってくれるのか?」

 

 春先と比べるとずいぶんと当たりが柔らかくなったなと思いつつ。でも普段は自制心に優れているのに今も時々毒舌が絶好調になるんだよなぁと内心で冷や汗を流しながら、八幡は気になる点をストレートに尋ねてみた。

 

「ええ、別に良いわよ。これが平塚先生からの依頼だと思えば、貴方も納得できるのではないかしら?」

「いや、依頼だとしてもな、ここまでお前に頼りっぱなしなのは情けないだろ。だから、その……独学のコツみたいなもんも教えてくれると助かる」

 

 ふっと柔らかい表情を浮かべて微笑みかけてくれた雪ノ下は、持ってくるようにと伝えていた数学の問題集を八幡に取り出させると、ぺらぺらとページをめくりながら凄い勢いで印を付け始めた。

 その光景を眺めながら八幡が唖然としていると、さっさと作業を終えた雪ノ下が口を開く。

 

「二年になってからの範囲はこれで大丈夫だと思うのだけれど。☆印は丸暗記する問題、○印は覚えた解き方を確認する問題、それ以外は後回しで良いわよ」

「なあ。もしかしてお前って、全部の問題を把握してるのか?」

「そんなわけないでしょう。でもこういうのって、たいていは見れば判るものよ」

 

 首を小さく左右に振りながら苦笑いを漏らすことで、八幡は「それはお前らだけだ」というセリフをすんでのところで呑み込んだ。模範解答が書かれた紙の上に問題集を置いてそれを両手で掲げるようにして、目の前の女の子に最大限の感謝の気持ちを捧げる。

 

 

「ここまでして貰ったお前の労力に見合うかって言うと疑問だがな。とりあえず、今日のコーヒー代は俺に出させて欲しいんだが?」

 

 恭しく掲げたものを丁寧にリュックに仕舞い込んで。これで借りを返せるとはとても思えないけれど、せめて自分ができることをと考えた八幡がそう提案すると。

 雪ノ下はくすっといたずらっぽく笑った後で口を開いた。

 

「貴方はすっかり忘れている気がするのだけれど、火曜日の夜に京都駅でラーメンを奢って貰ったでしょう。その代わりに翌日に飲物をという話だったのに、返しそびれていたのよね。だから今日は最初から私が出すつもりだったのよ」

 

 そういえばそんな事もあったなと思い出した八幡だが、だからといって大人しく奢られるわけにはいかない。専業主夫が夢とはいえ施しを受けようとは思わないし、一方的に養われるだけの身分に甘んじるつもりもないからだ。

 

 養われることと引き替えに返せるものが自分にあるという自負こそが、意識高い系の専業主夫を目指す八幡の拘りであり流儀だった。誰かに伝えたら頭を抱えられるのは目に見えているので口に出したことはないのだけれど。

 

「それって今回の模範解答だけでお釣りがくるだろ。あれを貰ってコーヒーも奢りだと自分が情けなさ過ぎるからな。ここの支払いぐらいはこっち持ちにさせてくれ」

 

 わずかに目尻を下げた雪ノ下は、静かに首を縦に動かした。

 

 八幡にも由比ヶ浜にも伝えそびれているのだけれど、北野天満宮で合格祈願の絵馬を四人分奉納したので、実はラーメン代はすっかり完済している。

 とはいえ当人がそれを知らない以上は借りを返せていない状態だとも言えるわけで、生真面目な雪ノ下にとっては心残りになっていた。

 

 あの元気いっぱいの中学生が無事に合格を果たして、四人揃って絵馬を見に行ける日が来ると良いなと考えながら。八幡の奢りという形に相成ったグァテマラを、雪ノ下はゆっくりと堪能する。

 

 

「なあ。話ついでに勉強のことなんだがな。お前って英語の勉強はどんなふうにしてるんだ?」

「きちんとした文章を読んで書いてネイティブに細かな表現を指摘して貰って、発音のしっかりした相手と会話のやり取りを数多く重ねて、文法などの点で疑問を覚えたらその場で確認して、後はひたすら繰り返しね」

 

 俺の質問が悪かった、と八幡は思った。

 とはいえ雪ノ下はそうは考えなかったみたいで。

 

「よく参考書や単語集は何が良いのかという質問を受けるのだけれど。何をするかよりも、どれだけしたかが重要なのよね。だから比企谷くんが言った暗記という手段は、実は効率的だしとても大切だと思うのよ。私の家族を例に出せば、私や父さんは実用的な傾向が強くて学習の経緯も異端だったわ。姉さんたちは我が国の英語教育に沿って無駄のない学習の進め方をしてきたので、貴方が詳しく知りたいのなら尋ねておくけれど?」

 

 思いがけずそんな提案をされてしまったので、八幡は慌てて口を開く。

 

「いや、気持ちは嬉しいんだがあんま陽乃さんとは関わりたくねーからな。人の姉に向かってこんなことを言うのはなんかあれだけど」

「その気持ちはよく理解できるから、申し訳なく思わなくても大丈夫よ。現に昨日だって姉さんは……」

 

 そこまで話したところで、雪ノ下ははっと気付いて口を閉ざした。

 今日は選挙に関する話は持ち出すまいと決めていたのに、姉の話が出てつい気が緩んでしまったのだ。

 

「あのな。そこで話をやめられたら逆に気になるんだが」

「……そうね。葉山くんが昨日姉さんと偶然会ったみたいで、その時に嫌な事を言われたのよ。今回の選挙で、葉山くんは『将来じゃなくて今』に拘る点が。私は『大事なところは他力』という点が気に入らないと」

 

 まさかと思って問い掛けると昨日の話が出て来たので。ダブルデートの件が露呈したのだと覚悟を決めて身を固くして傾聴していた八幡だったが、どうやら話しぶりからして俺がその場に居合わせたことは伝わっていないらしい。

 

 これも借りだと考えると面倒だなと思いながら、八幡は目の動きだけで続きを促した。

 

「選挙の話になったついでに確認しておきたいのだけれど。貴方と海老名さんは二・三位連合を企んでいるのよね?」

「まあ……そうだな」

 

 予想外の方向に話が進んだので八幡が身構えていると、それを見た雪ノ下からも笑みが消えた。

 つい先ほど姉の話が出た時でさえ険のある表情ではなかったのに。選挙戦のライバル陣営同士の関係に一気に変化したなと思った八幡は、続く言葉に耳を傾ける。

 

「貴方なら、それが無意味に終わると知っているのでしょう?」

「つっても、歴史がくり返すとは限らないだろ?」

 

 ひとつため息を吐いてから、雪ノ下は半世紀以上前の歴史を振り返る。

 

 日ソ共同宣言と日本の国連加盟を花道に鳩山一郎が総理辞任を表明したので、一九五六年十二月に自民党初の総裁選挙が行われた。下馬評で圧倒的に優勢だったのは岸信介。しかし単独で過半数に届かなければ二位の候補との決選投票となる。

 

 そこに目を付けたのが、石橋湛山を推す三木武夫と第三の陣営に属する池田勇人だった。二人は投票前夜に、決選投票では三位の陣営が二位の候補に投票するという二・三位連合の約束を取りまとめた。

 

 一回目の投票は七〇票以上の大差をつけて岸の圧勝。しかし過半数には手が届かず、そして決選投票では七票差で涙を呑んだ。

 だが石橋は一ヶ月後に病に倒れ、わずか二ヶ月で総辞職。岸が後継指名を受けた。

 

「奇策で物事をねじ曲げても、最終的には落ち着くところに落ち着くのよ。由比ヶ浜さんが当選しても一色さんが当選しても、海老名さんや貴方が支え続けないと生徒会は運営できない。生徒会役員の数が絶対的に足りていないという現実を、貴方はどう考えているのかしら?」

 

 八幡が二位三位連合という言葉を敢えて使ったのは、当初は三番手と目されていた石橋が総理総裁の座を射止めた歴史にあやかりたいという気持ちがあったからだ。同時に、予期せぬ結末は断固避けるという決意もそこに潜ませていた。

 だから、思惑を心の裡に秘めたままでも反論の言葉がすらすらと出てくる。

 

「つっても、お前の超人的な能力で成り立っているだけの生徒会なら、あんま大差は無いだろが」

 

 ふっと笑ったその顔は、今日見たどの笑顔とも異なっていた。

 この短時間で数え切れないほどの笑い顔を見せてくれた雪ノ下は今、いずれも親しげな感情が伝わってきたそれらの表情とはうって変わって、隔たりを感じさせる面もちで八幡を見ている。

 

 昨日の笑顔と似ているなと八幡は思った。

 遠目から見れば笑顔を浮かべているようでも目は全く笑っていないし、全身からは滲み出るような圧力が伝わって来る。だが口元に嘲笑の色は無く、八幡を怯えさせるような雰囲気などは微塵も感じ取れない。

 

 おそらく、既に決意を固めていたが故に、いつも以上の優しさを感じられたのだなと八幡は思った。

 

「葉山くんから姉さんの言葉を聞いて、自分の甘さを痛感したわ。もちろん、今までも勝つつもりで選挙戦に挑んでいたのだけれど……温情が残っていたのね。貴方と、由比ヶ浜さんに対する温情が。こんな程度で姉さんが納得なんてするはずないって、少し考えれば解ることなのに」

 

 温情が何を指しているのか八幡には予測が付かないし、最後に小声で付け足した言葉は意味が掴めない。どうして雪ノ下が姉を納得させる必要があるのか全く解らないけれど、確実に言える事がある。

 雪ノ下の圧力が、更に増した。

 

「だから私は、勝って証明することにしたの。由比ヶ浜さんと、貴方と、私と。こんなふうに対等の立場で戦えるなんて、そんな機会はもう無いかもしれないのだから。だからこそ、由比ヶ浜さんと貴方を全力で叩き潰すつもり。さっきの貴方の指摘には、その過程で応えられるはずよ」

 

 八幡に挑発されても決して手の内を見せず、けれどもその挑戦的な態度はこの上なく分かりやすい。

 どれほど少なく見積もっても二段階は難易度が上がったというのに、これでこそ雪ノ下だと考える八幡は思わず破顔してしまった。

 

「いや、違うな。お前らと対等の立場で戦えるチャンスは、俺にとってこそ希少価値があるんだわ。なんでかって言うと、お前が王道を歩む限りは、誰の挑戦も受けないわけにはいかないだろ。でも俺が挑戦者に名乗りを上げるのは、こんな機会をおいて他にないからな。だから……勝つのは俺だ」

 

 そう言い終えると同時に、八幡は机の隅に置かれていた伝票を手にとって勢いよく立ち上がった。雪ノ下を見下ろす形になったものの、対面からの圧力はかけらも変化していない。

 

「では、勝っても負けても恨みっこなしで良いわね?」

「当たり前だろ」

 

 そう言い残して踵を返すと、八幡はお店の出口近くで支払いを済ませて振り返ることなく外に出た。

 

 

 駅までの道を歩いていると、やり残したことを思い出した。とはいえ今からとって返して雪ノ下と顔を合わせるのもしまりが悪いし、あんな話になったからには今さら話題に出せることでもない。

 

 それに雪ノ下とじっくり話をすることよりも、真剣に競い合うことのほうが楽しいのではないかという気もする。なぜなら八幡にとって、部室での歯に衣着せぬ応酬ほど胸躍る記憶はそうそうないのだから。

 

 由比ヶ浜と出した結論を伝えて、雪ノ下ともじっくり話を深めたい。

 その希望をいったん棚上げした八幡は、雪ノ下に勝つことだけに意識を集中して、週明けの行動を検討しながら家路に就いた。

 




今月中にもう一回と思っていましたが難しそうなので、次回は来月の上旬とさせて下さい。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(6/15)

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