3
捏ねた血肉は糊となり、砕いた臓腑は墨となる。
■
――あの子が、死んだ。
村を困らせる悪質な怪異――それは、あの子の事を指していた。
そうさ、彼女は嵌められたのだ。
私達が村を去った後も村人共は変わらず私達を貶し続け、起こった飢饉を、村人の不幸を、天候の荒れを、他人の悪事を、自分の過失を。都合の悪い事全てをあの子に擦り付けていた。
そして奴らはあの家に、あの女に討伐を依頼した。あの、あの……ッ!!
……あの子の、身体には。焦げ跡一つ無かった。
おそらくはそれがあの女のせめてもの情けだったのだろう。そう、身体の内から、呑ませた花弁を媒介とし正確に魂だけを焼き屠り、私の目の前であの子を殺したのだ。
事実を承知の上で。ただ怪異の血が入っていたというそれだけの事で、あの子を騙し。燃やして! 殺した!
――認められるか、こんな事が。
あの子の欠片。唯一掴み取れた霊魂の焦げ粕を胸に、慟哭した。
嗚呼、私はこんな結末を認めない。
許される訳が無いだろう。あんな優しい子が、何故殺されなければならない?
魂を焼かれ、屠られ。訳が分からなかっただろう、自分が殺される事を理解出来なかっただろう。
認めない、認めて堪るものかよ。私は。絶対に、絶対に、絶対に――。
「――――絶対、に……ッ!!」
■
……死体が。
「――許してくれ、私は、お前の、為なんだ。お前、の……」
死体が、目の前にあった。
年の頃は十代の中頃、と言ったところか。
涼やかに整った顔立ちに色素の薄い長髪を垂らした、一糸纏わぬ少女の肢体。
「何、心配はするな。痛いだろうが、無駄ではない。お前の身体は余す所無く呼び水と、そして媒介となる……!」
そして、その傍らに傅く影がある。
先程まで語り部であった、白衣を纏った老人だ。
彼は祭壇の上に横たわる少女に愛おしそうに手を這わせ、両手から流れ出る血液と、零れ落ちる涙と唾液を肌の上に刷り込んでいた。それは時間を経る毎に激しく、そして激情を帯びていく。
……狂っている。そう、狂っていたのだ。ここへ至った時には、彼はもう。
「――……ぃッ……!」
――狂気が、高らかに渦巻く。
老人は全身を震わせながら、自らの体液に塗れた指でメスを握り締め。何度も何度も死体を刻む。
皮を剥ぎ、肉を削ぎ、臓腑を抉り、骨を外し。美しかった少女の躯が次々と解体されていく。
石壁に囲まれた地下の部屋、その隅にある書物に血液が飛び散った。
それは「怪異法録」と題されていたようにも見えたが、今この時に置いては些末事。
ただ、只管に、ずっと。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと。
「め、いごぉぉ…………ッ!!」
そう呼ばれた彼女が「加工」される光景を、ずっと。僕は、見続けていた――。
■
「――――が、っご。ぼ」
『! 大丈夫かい、ちょっと!』
意識を取り戻した僕が感じたのは、息苦しさと苦味。そして鼻奥を抜ける悪臭だった。
「ぐ、ぼおぇッ」
何か生暖かい物で口内が満たされ、呼吸する度に気道を逆流する。見なくても分かる、それは強い匂いを放つ吐瀉物だ。
どうやら僕は気絶しながら吐いていたらしい。吐瀉物の匂いが嗅覚を内外から刺激し、定まらない意識を強制的に覚醒させ――そして、再び嘔吐。
ビチャビチャと下品な音が木霊した。
「ぐ、く、ぅ……ッ」
気持ち悪い。消化液と溶けかけた食物の匂いだけじゃない、今まで見ていた誰かの夢。老人の行為、凄惨な光景、その結果出来上がった「それ」。その全てが気持ち悪くて堪らない。
『とりあえず落ち着きな。ほら、深呼吸して……』
「は、っぐ。ぁ……?」
感触は無いが、背中を擦っているらしき花子さんの声に幾分落ち着きを取り戻し、そこで初めて自分の置かれた状況に考えが及んだ。
……暗緑の中だ。前後左右を見回せば、深く生え揃った濃緑の葉々が夜闇の中に浮かんでいる。
どうやら僕は今、どこかの森の中――おそらくは、さやまの森の中――に居るらしい。
「う、あ。ぼく、何が……?」
『そりゃこっちのセリフだって。いきなり森ン中に引っ張られて、やっと見つけたらこんな……何があったのよ』
「何、て……」
……そう言えば、何かに強く首を引っ張られた気がする。自覚した瞬間、思い出したように全身が痛みを訴えた。
察するに、僕は気絶した後そのままこの場所へと引きずり込まれたのだろう。
何が、何の為に。考えるのが怖い疑問は多々あるが、頭を振って先の夢ごと強引に振り払う。今考え始めたら、何もかも訳が分からなくなりそうだった。
「……う……?」
そうしてある程度落ち着くと、身体を支える掌に伝わる感触が土の物では無い事に気がついた。
ざらりとした、硬い石の感触。僕の吐瀉物に塗れたそれは、森の中と居場所には似合わない石床のようだ。
……いや、縁にある取っ手のような突起をみる限り、床というよりは、むしろ。
「地下、扉……――っ、う、うわぁッ!」
地下、暗室、老人。連想ゲームの如くあの凄惨な夢が蘇り、転がるように飛び退いた。
そうしてついでとばかりにポケットのめいこさんも投げ捨て、必死に、無様に、距離を取る。
『……本当にどうしたの、アンタ。大丈夫かい』
「っど、どうしたも、だって、こんな、こんなッ……んぶ、ぐッ」
……老人が、少女の死体を加工する。唾棄すべきそれを鮮明に思い出し、再び吐き気が喉元を塞いだ。
幸い今度は吐き出す事は無かったものの、団子虫のように身体を丸め、ただ耐える。
「……ふーっ……ふーっ……!」
酷く荒い呼吸音が夜の森を木霊して。土と草の匂いが、鼻の粘膜をくすぐった。
「……び、尾行、は。あの男は、どうなりましたか……?」
『……分からない。今無事って事は、追ってきてないんだと思うけど』
のろのろと目線を上げ、腕時計を見れば深夜帯。どうやら僕が気絶してから結構な時間が経っていたようだ。
それでも捕まっていないのだから、おそらく一時は凌げたと見て良いのだろうけど――しかし、状況は悪化している。
僅か一週間足らずで僕を見つけた手際の良さ、こちらを追尾し続けた謎の技術。
完全に特定されるのも時間の問題なのかもしれない。
「っぐ、く……」
脱力感に苛まれる身体を起こし、手近な樹の幹に背を預ける。
確実に詰んでいるとしか言えないこの状況。既に頭の大部分は諦めで支配されていたが、しかし不思議と絶望は無かった。
それはまだ夢の事を引きずっているのか、頭が追いついていない所為なのか。
多分そのどちらでもあるのだろう、フラフラと心の置き場が定まらない。
『……吐いたって事は、頭。さっき引っ張られた時に強く打ったみたいだったから、病院で診て貰った方が良いよ。逃げらんなくなるかもだけど、命には代えられないだろ』
「いえ……そういうんじゃ、ない……。気分の悪さは、さっきの、夢の……」
心配そうな花子さんへそう返し。一瞬の躊躇の後、足元に転がり中身を晒すめいこさんを視界に捉える。
『――――』
ワインレッドの革表紙、そしてその中に挟まる黄白色の紙束。彼女は確かにそこにあり、ただ沈黙していた。
ひょっとすると、森に入った事で記憶が刺激され、何かを思い出したのかもしれない。
例えば――さっき僕が見たものと同じ情景、とか。
「……あんた、は」
投げ出したいと、強く思った。でもそれをやったら負けなのだ。
必死に、詰まりそうになる言葉を絞り出す。
「あんたは、人間だったのか。その……そうなる前は」
『――――』
反応は無い。
花子さんが何かを聞きたげな表情を浮かべたが、空気を読んだのか声はかからなかった。
「み、見た。見たんだよ。本当なのか分かんないけど、どこか冷たい場所で、綺麗な女の子の、し、し死体が……本に、加工されてた」
『――――』
反応は無い。
「出来た物は、不格好な大判ノートみたいで、間違っても手帳じゃなかったよ。でも、多分あれはあんただ」
『――――』
「……だって、それをやってたお爺さんは、その娘を『めいこ』って呼んでたんだ。分かるだろ。前の、前の、前の――最初の、あんたなんだよ、きっと」
反応は。
「初め、名前を決める時に感じた違和感、あれは気の所為じゃなかったんだ。そう呼ばれる事を望んだろ、意識的か無意識かは知らないけど」
『――――』
反応は――。
「――そろそろ何とか言えよぉッ!」
ダン、と。強く足を踏み鳴らし、めいこさんを風圧で揺らす。
八つ当たりだったのかもしれない。だけどもうウンザリだった。
オカルトなんて趣味じゃない物を調べる事も、追われる事も、逃げる事も、何もかもが分からない事も――あんな光景を見せられた事も、全部。
「何なんだよあんたは! 一々意味深な態度取りやがって! 何で知らないんだよ、何で曖昧なんだよ、もう書物なんだろう、その身体はッ!」
『ちょ、ちょっと落ち着きなって。言ってる意味はよく分かんないけどさ、頭冷やしなよ。ね』
激高し、花子さんに抱き締められた。その感覚なんてあるべくもないが、多少なりとも血は下がる。
そうして何度も深呼吸を繰り返し、気を落ち着かせていると――めいこさんのページに、ゆっくりと文字が浮かんだ。
『――ごめん、なさい。わからない、のです』
「はぁ……?」
やっと反応が返ったと思えばその一文。怒気が再燃しそうになり、再び花子さんに押し留められた。
するとめいこさんはそんな僕に怯えるかのように、震える筆跡で続きを紡ぐ。
『ほんしょには、わたしの記憶が、ないのです。おもいだそうとしても、きさいされておらず。わからない、のです』
「……それはもう、何度も聞いた」
『はい、違う、是。でも、ほんとなんです。わたし、いえ、本書も。わたしのきおく、見た夢とか、検索したい、のに。思い出したい、のに。説明項には、なにも、なにも……』
「…………」
その文面は不安に満ち溢れ、泣きそうでもあり、彼女自身も考えが纏まっていないように見えた。
……何というか、気弱な女の子を苛めているような気分だ。
こちらをジト目で見る花子さんの視線と合わせ、ちくちくと罪悪感が突かれる。
『ごめん、なさい。ごめん、なさい……』
『ええと、まぁ、うん。アタシにはさ、めいこの気持ちも分かる気がするよ。記憶が思い出せないってなァ、何か収まり悪いんだよね。ねぇ?』
そうして終いには子供が泣きじゃくるような雰囲気を出し始め、慌てて花子さんが飛び寄り宥めすかす。
これでは完全にこちらが悪者だ。そっと目を逸らし、舌打ちを鳴らした。
(……いや、でも。もしかしたら本当にそうなのかもしれないのか?)
以前僕は、花子さんの記憶喪失の原因は焼かれた霊魂が完全に復元し切れなかった為だと聞いた。
そして、その上でめいこさんの事を考えると、どうだ。
僕はめいこさんに何も情報が記載されていない事を、単にそういう仕様の道具だからと思っていた。けれど彼女が元が人間であったとするならば、それは。
(――そうか。焼かれた事で、全部無くした。だからこその、存在理由……)
夢での出来事、老人の嘆き、狂気、その真意。
一部の事情の裏を朧気ながらに察せられた気がして、思わず両目を閉じる。
(そもそも、めいこさん自身の怪談が記載されてないって時点でおかしいんだ)
異小路も花子さんも、近寄った際に自動的にその怪談が収集されていた。
なのに一番近くに再現されていためいこさんの怪談だけが、書に載らない。
それはつまり、怪談としての再現条件自体が存在しないという事になる。
されど現実として、めいこさんは告呂市のあちこちに再現され続けている。彼女だけが、彼女自身の提示した怪談を巡るルールから外れ、独立しているのだ。
(……そして、その矛盾を成り立たせる理屈は、一つしか無い)
カチリ、カチリと。
頭の中で、これまでに得た情報の欠片が継ぎ接ぎながらも組み上がる。
脳の奥が明滅し、腹の底が重くなり。知らず、大きく吸った息が震えた。
追い詰められた状況が生んだ、都合のいい妄想かもしれない。だけど、その時の僕はそれを真実としか思えず――。
『ああもう、ほら。アンタも機嫌直しなよ。大体喧嘩してる場合でもないだろ、今はさぁ』
「…………ふん」
花子さんの言葉に従った訳じゃないけれど。僕はゆっくりと目を開け、めいこさんを見つめる。
視線を受けてか、ビクリという擬音が聞こえそうな程に手帳が揺れたが、無視。
静かに近づき「……っ」必死に嫌悪を堪え、拾い上げた。指先の汗と革の表紙が擦れ、湿った音を上げる。
『ひっ。あのう、その。ごめん、なさい。わたしは、ほんしょは、やくたたずで、その、えっと……』
「……何も分からない、知らない。それは理解できた。だから、一つだけ聞く」
もう、グダグダ言うのは止めだ。
最後に一つだけ確認し、その後の事を決めようと思った。即ち。
「――あんたは、どうしたい」
――沈黙。この場の誰もが黙り込み、手帳に浮かぶ文字を待つ。
彼女が道具でなく人であったとするならば。形は違えど、丸眼鏡の男や花子さんと同じく縛られた存在であったとするならば。
僕は聞かなきゃいけない。その義務を、感じた。
『……ほ、ほんしょは。本書の目的は、唯一つ。存在するし続ける事、だけで』
「そういう事じゃない。分かるだろ、それくらい」
『ぁ、え……』
返るテンプレートを切り捨てると、彼女は一瞬戸惑った様子を見せて。
そうして暫くの沈黙の後――やがて、意を決したように、一つ。その身体を小さく揺らした。
『……いたい。まだ、あなたと、いたいです』
それは器物ではなく、人の声。震える線の集合体で発せられる、感情の波。
『いろんなことが、分からないけれど。でも、分かる。いまのわたしは、ここにあるけれど。燃えてしまえば、わたしは別の本書になって、またどこかにいく。全部が、きえてしまう」
「……うん」
『嫌、なのです。わたしは、もっともっと、ここにいたい。あなたと、れいこんと……いいえ、はなこさんと、お話して。あなたのおみそしるを、たべて。いろんなことを、感じたい……!」
――おねがい、です。もっと、いっしょにいたい、いさせて、ください。
その叫びは空気を震わせる事は無い。けれど、確かに僕の耳へと届いた。夢で見た、誰かも分からぬ少女の姿を伴って。
そして、それに返す言葉なんて、考えるまでも無く決まっている。
息を吐き、目を眇め、唾液を飲み込み、瞳孔が収縮し――。
「――分かった。僕が、やってやる」
声に出した瞬間腹が座り、意識がしっかりと定まった。
『は、い』
そしてその言葉を最後にめいこさんは文字の羅列を止め、安心したような雰囲気を纏った。
心なし手帳の重量が増した気がしたが、それは思い上がりだろうか。
……思えば、この言葉に真っ直ぐな意味を籠めたのは初めてだ。かつて同じ言葉を放った二つの場面を思い出し、思わず苦笑が零れ落ちる。
『……話、纏まったっぽいのは良いんだけどさ。展望あるのかい、これから』
会話が終わった頃合いを見計らったのか、背後から花子さんの声が掛かる。
まぁ自信満々にやってやるとは言ったが、現状は詰んでいるに近い。
希望なんて無いに等しいと言って良いだろう――けれど。
「そうですね……まぁ――」
僕は諦観とも覚悟とも言えない粘ついたもので心を固め、めいこさんのページを弄り、そして。
「――僕の本質に沿って、何とかやってみようかなって。思います」
ゆっくりと、自嘲と共に。
彼女から引き抜き翳したその指には、数字の羅列された紙切れが一枚。ひらりと風に揺れていた。