彼女は暮らしに不自由を感じたことはなかった。
有名な資産家の家に生まれ、寝床も食事も娯楽も勉強も、何一つ不足しない毎日を過ごしてきた。何もしなくても家のメイドは頭を下げるし、今日も可愛い、美しいと彼女の事を奉る。少女にとってこれが普通。呼び鈴を鳴らせばメイドが来て用件を聞く。何か欲しいと言えばその日には頼んだものが来る。毎日毎日おいしい料理が出てきてたくさん食べた。
生まれながらにしての勝ち組とはまさにこういうことだろう。だから彼女はほかの同年代の少女がみすぼらしく見えて仕方なかった。よって友達もそんなに多くなく、いたとしても服やアクセサリー、旅行先を自慢しあうだけの似たような境遇の娘だけ。
でもいい。こんなに満たされているのだからこのままずっとここに居ればいい。子供ながらにして、彼女はこの家から出ないことを決める。
そんな日々を過ごし、もう少しで十代の仲間入りを果たす時期だった。部屋で本を読んでいると、父親が呼んでいるとメイドが彼女の部屋を訪ねる。面倒くさそうなため息を吐きながら彼女は玄関前のエントランスに出ると、ちょうど父親が中に入ってきたところだった。その隣に、自分とほとんど同じ背丈の少女が立っていた。
目につくのは何よりもその髪の毛。青味のかかった銀髪は長く伸び、癖を持つ曲線を持ってはいたが思わず見とれてしまうような美しさを持っていた。
そして髪の毛の色と似た、無表情のアイスブルーの瞳。顔立ちは日本人と似ているが、おそらく外国人の血が混じっているのだと彼女は察する。なんて綺麗な女の子なのだろう。まるでお人形さんの様だ。
「さぁ、今日からこの家に住む新しい家族だ。ちゃんとあいさつするんだぞ」
父親がそう言うと、目の前の銀髪の少女は表情を変えずに軽く頭を下げる。その直線的な動きはますます人形を髣髴させる。
しかしである。一つだけ、少女は気になるものがあった。そのおかげで父親が何を言っているのかを聞き取ることができず、「新しい家族」という単語が頭に入らなかった。それだけ目の前の銀髪の女の子が頭にかぶる「それ」が気になって気になってしょうがなかった。だから何よりも先に言った。
「……なんで、鍋なんてかぶってるの?」
「…………」
それが、彼女に話しかけた第一声だった。
*
彼女の名前は高須暁美(たかすあけみ)。資産家高須家の長女であり、同時に唯一生まれた一人娘である。今彼女は高級レストランのようにテーブルクロスやナプキンが整えられた食卓に座って夕食が出てくるのを待っている。普段なら楽しみで仕方のないこの時間。しかし今日の彼女は不満そうな表情で真正面をじっと睨んでいた。
「…………なんだい?」
と、目の前の少女は暁美の視線に答えた。服を着替え、膝の上に手を置いて料理を待つ彼女の頭にはやはり鍋。それがなければ冗談抜きの美少女なのだが、彼女はそれを外そうとはしなかった。
「何回も聞いてるの。なんでそれ外さないの?」
「これがいいから」
「理由になってないわ。何かかぶりたいのなら帽子でもいいじゃない」
「帽子じゃ安心できない」
「だからって鍋にすることないでしょ」
「…………」
それ以上、この家に新しくやってきた銀髪少女は答えることはしなかった。暁美は彼女のこの態度が気に食わず、またむすっと頬を膨らませる。
「ははは、変わっているな響子は」
のんきにそういう父親は、銀髪鍋っ子こと「響子」に対してデレデレしているようにも見えた。見た目は外国人のような(実際外国人の血があるらしい)暁美はそれも気に食わない。
「パパ、おかしいわよ。お鍋っていうのはお料理を作るためにあるのよ。なのになんで頭にかぶるのよ」
「まぁもっともな意見だな。けど世の中には本来とは違う使い方で新しい価値が見えてくるものだってあるんだ」
「わかんないわよ、そんなの」
参ったな、と父親は苦笑いする。そのタイミングで扉が開き、メイドが夕食を乗せた台車を押して現れる。それと同時に広がるいい匂い。暁美のお腹がぐぅ、と鳴る。
「お嬢様、今日から新しい家族が増えるという事で、腕によりをかけて作った、特性プレートセットです」
暁美と響子の前に料理がたくさん置かれたプレートとコンソメスープが置かれる。大きなハンバーグが置かれ、その隣には太めのフライドポテト。その隣にはキャベツの上に置かれたエビフライとから揚げが一つずつ。そして真ん中には綺麗な赤い色をしたチキンライス。そしてその上には爪楊枝の旗が刺さっていた。一言でいうなら、お子様ランチである。ただし今は夕食のため、お子様ディナーとでも言っておこう。
そんなお子様ディナーを、暁美はキラキラした目で見ていた。いつもならバランスがどうだとか言って嫌いな人参が入っていたりするが、今日に限って好きなもの尽くし、野菜も自分が食べられるものばかりで盛り付けられている最高の組み合わせに、さっきまでの不満顔が消し飛んだ。
それを見た父親も満足げな笑みを浮かべ、二人に食べるよう促した。
「さぁ、今日は暁美の好きな食べ物で新しい家族を歓迎しようじゃないか」
「パパありがとう! いただきます!」
暁美は迷わずフォークをひったくると、ハンバーグのど真ん中に突き立ててそれを持ち上げ、口に運ぶ。一気に半分近くのハンバーグが消え、飲み込むと置かれたジュースを口に入れて一気に飲む。
続いてスプーンを手に持つと、チキンライスの旗を崩さないように側面からすくいあげ、口に入れる。ジューシーな鶏肉とケチャップで包まれたご飯の味は格別だった。これにフライドポテトが似合う似合う。
そして再びフォークを握り、ハンバーグを食べようとした時である。暁美の脳裏に、父親の言葉が通過する。そして何かおかしいと思い、手を止めて父の顔を見つめる。
「……ねぇパパ。さっきなんて言ったの?」
「ん? いただきますの時か? 暁美の好きな食べ物で、新しい家族を歓迎しようじゃないかって言ったんだ」
「新しい……家族?」
「そうだ。言ったじゃないか、響子はこの家の子になるんだぞ」
絶句。暁美は口をあんぐりと開けながら向かい席にいる鍋っ子に目を向ける。目の前の少女は、暁美の視線を知ってか知らずか、丁寧にナイフとフォークを使ってお子様ディナーを口に運んでいた。
この家の子になる? 少し泊まるとかじゃなくて? なんで? 暁美はあまりの衝撃に完全に硬直する。さっき初対面した時に言ったのに覚えていないのは響子の頭の鍋が気になっていたからだ。おかげで事の重大さに気が付くのに時間が掛かってしまった。
「え、ちょっと待って。この子、この家の子になるの?」
「そうだぞ。さっきも言ったじゃないか」
「でもでも私何も聞いてないわよ! なんで今日いきなり!?」
「まぁびっくりさせようと思ったからな。現にびっくりしてるじゃないか」
「そうだけど、でも……でも……」
とても気に入らないのだ。そうは言いたかったが、そういうと何故気に入らないと返答が来るに決まっている。この不愉快な気持ちを今の暁美が口で表現することができそうになく、それを理解してもごもごと口を動かしてそれ以上何も言わなくなった。
「まぁ、なに。すぐに仲良くなれるさ。ちょっと無口だけど響子はいい子だぞ。仲良くするんだな」
と、父は食事を再開する。さすがにみんなと同じお子様ディナーでは示しがつかないため、自分は別にステーキを食べている。暁美は何とかして次の言葉を出そうと思ったが、結局何も浮かばずに食事を再開した。おかげで後半のお子様ディナーの味は、よく分からなかった。
*
こうして、響子は高須家の養子となり、高須響子として暮らすことになった。暁美が朝起きれば二人分の朝食が並べられ、同じ小学校に転入していたから二人で登校する。響子は相変わらず鍋をかぶり、周りの目線も気にしない。おかげで自分も変な奴と思われていないだろうかと暁美が嫌な気分になる。だから暁美は響子に話しかけることなく、また響子も無関心だろうか、二人は無言で学校へと到着し、それぞれの教室に入る。この瞬間が暁美の唯一安らげる時間であった。
今日も家で散々勉強した算数の授業を退屈に受ける。あいつの顔を見なくて済むこの瞬間が今後の楽しみになってしまいそうだと暁美はため息をついた。
すると、開いた窓の外から歓声が聞こえた。窓際に座っていた暁美は何事だろうかと目を向けると、別のクラスが外で体育の授業をしていた。グラウンドのトラックを使っての短距離走をやっており、今は女子の部だろうか同級生たちがカーブを曲がっていく。
その中に一人だけずば抜けた速さを誇る少女がいた。目につく銀髪、よく見なくてもそれだけですぐわかる。ほかの女子がカーブを曲がる中、ただ一人直線トラックのゴール目の前まで突き進む響子であった。
ゴールした響子は足を止め、肩で呼吸をして体を落ち着かせようとしていた。そんな彼女を女子たちが一斉に取り囲む。暁美はあの女子たちが何を聞いているのかは聞こえないが、大方「どうしてそんなに早いの」だの「すごいね、美人だしかっこいいよ!」だの、そんなことばかり言われているのだろう。
「……足が速くても何も得しないわよ」
と、つまらなさそうに前を向こうとした暁美だったが、響子が鍋をかぶっていないことに気が付いてもう一度見る。相変わらず周りに誰かいたが、彼女の頭に鍋がないのは一目瞭然だった。一体どこに? そう思っていると、おもむろに響子はグラウンドの隅へ足を向ける。その先を見て暁美は納得する。やはり、鍋が置いてあった。
響子は置いてあった鍋を手に取ると迷わず頭にかぶる。どうやらかぶれるときは極力かぶりたいらしい。変な奴、と思うが彼女を取り巻く女子たちはまるで見えていないかのように彼女に話しかけ続けていた。
最初こそ彼女の活躍を気にも留めなかった暁美であったが、日が経つにつれて響子が暁美の義理の妹である、という話が広まって暁美にも伝染し始めた。
「ねぇねぇ! 響子ちゃんって高須さんの妹なんだって!?」
と、なんとなく顔を覚えている程度の女子が昼休みに問いかけてきた。目をキラキラさせ、鼻をふんふん鳴らして暁美を見つめるその女子の迫力に若干引く。
「え、ええ……そうみたい。義理だけど」
「キタコレ! あんなすごい義妹がいるんだ! あの子、外国人の血も交じってるって聞いたけどどこの国? すっごい綺麗よね、お人形さんみたい! まるでおとぎ話に出てくるお姫様!」
「そ、そうね……」
とマシンガンのように質問をしてくる少女に五分ほど拘束され、暁美はそれだけでげんなりした。だがこんなのはまだ序の口で、日を追うごとに暁美に響子の事を聞きに来る生徒は増え、昼休みの時間が五分、十分、二十分と消えていき、彼女の昼休みがほぼなくなるのにそう時間は必要なかった。だから我慢できなくなるのもあっという間で、
「もう! 私じゃなくてあいつに聞けばいいじゃない!」
と、暁美は言った。しかし聞きに来た全員は口をそろえてこう言う。
「響子ちゃんが答えてくれないから」
こうしてしばらくの間、暁美の昼休みは同級生女子からの質問攻めにあい、ようやくそれが終わったと思えば男性陣から響子はどんな男性が好みなのかを質問され、それも終わったと思ったら今度はラブレターを代わりに渡してほしいと段ボールいっぱいに入りそうな手紙を渡される羽目になり、彼女の学校生活は変貌を遂げてしまった。
いや、学校だけではない。家の生活も大きく変わることになる。あくる日、先日受けたテストが返却され、90点を取った暁美は意気揚々と父親に見せに行く。私室にいる父に自慢の点数を見せると、笑みを浮かべて「この調子だ」と言ってくれた。とても誇らしいことだった。
だが、やや遅れてやってきた響子の点数は文句なしの100点。しかも担任教師の花丸付きで、それが三教科。暁美は唖然とし、父は暁美に見せたのとは違う満面の笑みで響子の事を褒め称えた。
「すごいじゃないか! 日本に慣れてないと思ったが、これは驚いた!」
よしよしと頭を撫でる父親。自分にはしてくれなかったのに。暁美はじろりと響子の後姿を見つめる。だが露骨に見すぎると指摘されるため、あえて鍋の方を見ていた。
またある時だ。家の中を歩いていると書斎からメイドの声が聞こえてきた。一体何をしているのだろうと音を立てずに部屋を覗く。
「まぁ、響子様! よくこの本が置いてある場所が分かりましたね、助かります!」
こくり、とうなずく彼女をメイドがよしよしと頭を撫でてやる。またあいつなのか。と言うか、メイドなのだから本の置き場所位把握していろと言ってやりたかったが、それを口にするのも腹が立ったから暁美はその場から立ち去る。
そうやって、みんなが自分を見なくなる。事あるごとに響子の事ばかり褒め称えている。暁美にとってそれは突然家にやってきた女に家族を奪われるような気分だった。
そして決定的なことが起きる。食事中の事だった。暁美は大好きなハンバーグを食べているとき、誤ってコップを落とし、割ってしまった。それを見た父親が激怒した。
「暁美! いい加減にしなさい! もっとお淑やかに食べられないのか!」
「ひっ……」
バンッ、と机を叩き、食器が震えてその音に暁美は驚いてしまう。今までこんなことしたことがなかったのに。それが暁美の恐怖を加速させ、思考が追い付かなくなっていく。
「響子を見なさい。お前とは違って静かに、そしてマナーをもって美しく食事をしている。それに比べてお前は何だ、無造作に料理をフォークで突き刺して食べ散らかし、口の周りは汚れているしお前の机だけ染みまみれだ。加えて好き嫌いも激しいときた。お父さんは響子とお前を見比べて恥ずかしく思ったぞ」
暁美には父親が何を言っているのか一瞬理解できなかった。つい先日まで何ら変わりなかった自分の食事だったのに、突然それを否定されたのだ。
「罰として今日はおまえの食事は終わりだ。おい、片づけるんだ」
「え、え、なんで! まだ私食べ終わってない!」
「今まで甘やかしすぎてしまったがこれからはそうはいかん。おい何している、片づけるんだ」
少々困惑気味のメイドではあったが、有無を言わさぬ家主の表情には勝てず、暁美に申し訳なさそうな顔をしながらまだ半分以上残っているハンバーグを取り上げた。人生で類を見ない父親からの叱りを暁美は未だに受け入れられず、呆然と父の顔を見ることしかできなかった。
結局、暁美の夕食はそれで終わった。
*
暁美は拳を作ってどすどすと廊下を歩いていた。眉間にしわを寄せてぎりぎりと歯を食いしばりながら父親の言ったこと、それに対して何にもアクションせずに食事を続けていた響子、自分の料理を持っていたメイド、何から何までに怒りを向けていた。
(なによ……なによ……)
自分部屋が近づくにつれて歩く速さが増していく。頭の中で呟いていた言葉は小声になり、口を開いて発するようになり、そして部屋に入り、乱暴にドアを閉めたときには絶叫に近い声量になっていた。
「なによなによなによ!!」
ベッドに飛び込み、枕に拳を何回も叩き付ける。羽毛枕がぼふぼふと小さな拳を受け止める。頭に血がのぼっている暁美は仰向けになって枕を投げると足で蹴飛ばし、枕は壁に叩きつけられてその場に落ちた。
「なによ! みんなで響子響子って、この家の子は私なのよ! なんで私が悪いみたいに言われるのよ、意味わかんない!」
毛布をひったくると、ベッドの上をごろごろと転がりまわってまたベッドを殴る。そうでもしないと本当に収まりそうになかった。外から見るとさながら羽毛布団のお化けがベッドの上で喚き散らして暴れているように見えるシュールな光景であった。
一通り暴れた暁美は疲れて息を荒くして呆然と天井を見上げた。小さいころにお月様の見える天井がいいと駄々をこねて改装してもらった星空をイメージした天井。スイッチを入れれば光るのが自慢である。
けど、今やその天井を見ても何の嬉しさも感じなかった。所詮天井だし、それに飽きてしまった。見るなら本物の星の方がいい。
―ぐぅう……―
暁美の腹の虫が鳴き声を上げる。中途半端にしか食事をせず、加えて盛大に暴れた後だからあっという間に空腹状態に戻ってしまう。たまらずお腹を押さえ、食べかけだったハンバーグの姿を思い出す。今頃ゴミ箱の中にいるのだろうと思うと、もったいなくて仕方がなかった。
「……お腹すいた」
そういうのと暁美の腹が鳴るのはほぼ同時だった。お菓子か何かストックがなかっただろうかと思うが、昨日全部食べてしまったのを思い出す。大して空腹でもなかったのに暇つぶしに食べた代償がこれである。
「なによ……買い置きくらいしなさいよ」
だが、さすがにこの発言は暁美自身も理不尽だと思った。まだ収まりはつかなかったが、いかんせんごねるのにも疲れてきたから怒るのはやめて、どうにか食料を得られないかと考えることにする。
―カチャ―
「……あれ?」
と、廊下で何か物音がした。何かを置いたような小さな音で、じっとしていなければ聞き取れないほどだった。そのため一瞬気のせいだろうかと思ったが、やはり気になったのでそっと扉を開けてみた。
「?」
廊下には誰もいない。少し顔を出して改めて左右を見回すが、誰かが立ち去った気配はなかった。やはり気のせいだろうかと
扉を閉めようとして、足元に目が行く。そこにはボウルが乗った真っ白なトレイが置いてあった。
そのボウルを開け、暁美は目を見開いた。中にはハンバーガーとアツアツのフライドポテトが入っていたのだ。
「えっ、え!?」
暁美は廊下を見まわし、誰が置いたのだろうかともう一度目を凝らす。しかしやはり周辺には人の気配はない。暁美は一瞬この料理を置いて行った主を探そうと思ったが、その間に誰かに見つかってまた持って行かれるかもしれないという不安がよぎり、トレイをもって部屋に戻る。
おそらくポテト同様作りたてほやほやであろうハンバーガー。大手チェーン店とは一味違うジューシーな高級国産牛で作り上げられ、すでにその肉汁がじんわりと溢れているその様は、暁美の胃袋にダイレクトアタックをしてきた。思わずつばを飲み込み、鷲掴みにして食べようとしたが、父親の言ったことを思い出し、一瞬手が止まる。少しだけ落ち着いて、暁美は両手でしっかりハンバーガーを握ると、一口。その動作はぎこちなさこそあったが、しっかりと行儀良い作法だった。
とは言っても、品がなっている食べ方は結局最初だけだったと、後に彼女は語っている。
*
その後も、響子は高須家になじんでいき、暁美の形見はさらに狭くなっていった。このままではまずい、家を取られてしまう。そう危惧した暁美は考えた結果、響子の事を観察して弱点を見つけ、そこに付け込んでこの家から追い出そうと思い立った。そのためにはまず情報が必要である。その基本はずばり観察であろう。
とにかく響子の行動を観察し、苦手な物や弱みを見つけ出すのだ。そこに付け込み、父に報告。そうして自分の株を持ち上げ、最終的に家から追い出すのだ。
まずは朝の身支度からの観察である。今までは別の洗面所で会わないようにしていたが、調査のためには必要事項だ。時計を見るとそろそろ響子は歯を磨きに行く時間。極端にまで規則正しい彼女ならこの時間に必ずいるだろうと踏んだ。
実際居た。相変わらず鍋をかぶり、まだ少しだけ眠そうな目で歯をブラッシングしていた。
(もしかしたら、実際はちゃんと歯を磨いていないのかもしれないわ。そこをばっちり目撃して、問い詰めてやる!)
洗面所の陰に隠れて、じっと暁美は鍋被りの少女を見つめる。鏡越しに見える彼女のアイスブルーの瞳はまだ呆けていていつもの雰囲気とは違っていた。なんというか、いつも完璧なところしか見ていなかったから人間らしいところを見て新鮮だった。
そこまで考え、暁美は頭を振って余計な考えを振り落とす。そうじゃない、目的は彼女の弱点ないし欠点探し。これは自分の安息を取り戻すための戦いなのだ。
まだしばらくじっと響子を見つめる。肝心な歯磨きはしっかりとこなし、うがいへと入った。その磨く様子、まさに完璧。なかなかブラシが届きにくい歯の裏まで行き届いていた。
(むぅ~……どうせ、顔を洗うのは適当なのよ!)
そう思ってじっと響子を見る。響子は軽く髪の毛を整えて、そして鏡の中の暁美と目を合わせる。……目が合ってる?
「さっきから何をしているんだい?」
「ぴっ!?」
暁美は響子が自分の存在に気付いていることに驚き、悲鳴を上げそうになった。いや、普通に考えて鏡の中で目があえば見えているということだからそれに気が付かない方が下手だと思うが、その考えに行きつくまでの冷静さは今の彼女にはなかった。
(どどどどどどうしよう!!? 完璧な潜入だと思っていたのにこんなに簡単に見つかるなんて!)
こんな緊張は厨房につまみ食いしようと忍び込み、たまたま父がいて見つかりそうになったとき以来だ。人生の危機同然の暁美は頭をどうにかフル回転させて窮地を脱しようと思うが、響子は特に気にすることなく洗顔フォームを泡立てている。
「早く顔洗わないと、お父さんに怒られるよ」
その言葉で暁美ははっとし、自分の洗面所に行こうと廊下に出るが、すぐそこで父とメイドが話し込んでいるのを見てまずいと思い、引っ込む。どうしようどうしようと嫌な汗を流し、打開策を模索するが現実は非常である。と、
「んっ」
響子が何かを差し出す。さっきまで彼女が使っていた歯ブラシと歯磨き粉。他人の物を使うのは一瞬どうかと思ったが、足音が聞こえてきて背に腹は代えられないとそれをひったくり、大急ぎで歯磨き粉を塗りたくると響子の隣に立って歯を磨き始めた。
「お、なんだ暁美もここで歯を磨いていたのか。そうかそうか、二人とも仲がよさそうでお父さん嬉しいぞ」
暁美は歯を磨くのは正解だと思った。これなら父の言葉に答えなくて済むからだ。答えようとしたら、行儀が悪いと一喝されるに違いない。響子も泡で顔が真っ白だから同様に答えない。父はうんうんと頷きながら、その場から去って行った。
(なによなによ……これじゃあ助けてもらっただけじゃない……次は、次こそは弱点を見つけてやるんだから!!)
やや強引なブラッシングではあったが、しっかりと歯をすべて磨き上げた暁美は、洗顔に入る。響子は既に食卓へと向かっていた。
次に暁美が目を付けたのは、学校への登校中である。といっても、正確に言えば登校中に話を振り、何かぼろが出ないかを引き出す作戦であった。それも短期決戦ではなく、じっくりと時間をかけて行う長期決戦だ。これにより彼女に接近し、実は存在する大きな隠し事を掴むのが目的。まずは当たり障りのない単純な問いかけから始めるのだ。
「響子! 今日はいい天気ね!」
「…………まぁ」
と、響子は空を見上げる。確かに青空は見える。だがそれよりも灰色の雨雲の比率のほうが圧倒的に高く、ざっと9:1の割合であった。暁美も響子の視線を追いかけてそれに気づき、笑顔がひきつった。
「あ、えと、そうよ! 今こそ微妙だけど、晴れ間が見えるってことは後々いい天気になるはずよ」
暁美がその言葉を言いえるのを待っていたかのように、雷が近くに落下した。閃光と轟音、空気がびりびり震える衝撃。暁美の顔が硬直し、ぴくぴくと目じりが痙攣する。
「……早く行こう」
「…………」
あえて、響子は「降りそうだから急ごう」とは言わなかった。そんな彼女の気づかいに暁美は気づくことなく、あっという間にさっきまで見えていた青い空も雨雲に覆われ、暁美は身の危険を感じて響子を追いかけた。
結局、ぼろが出たのは自分である。しかし暁美は諦めない。今度は学校内での生活に目を向けた。響子の成績が優秀なのは言い寄ってくる男子からいやというほど聞いたし、運動も得意だということも暁美自身この目で見ていたからそれも知っている。
だが、そういう完璧な人間こそ、裏で他の人を見下していたりするかもしれない。道徳の時間で呼んだ教科書にもそんな描写があった。響子は口数こそ少ないが、誰もいないところでは何を言っているかわからない。
昼休みになって、暁美は相変わらずラブレターと伝言告白をしてくる男子を無視して響子のいる教室へ向かう。ちらりとドアから覗いてみる。黒板前から窓際、後ろのロッカー。しかし彼女の姿は見当たらず、暁美は少しばかり拍子抜けする。
「なによ……どこにいるのよ」
これは怪しい。誰もいないところでいったい何をしているのだろうか。暁美の中に好奇心が湧く。物言わぬ義理の妹は何を思っているのだろうか。
暁美は教室から離れ、響子が居そうな場所を探す。お金持ちの通う小学校だから、それなりに設備は整っているし、それ故に隠れられる場所もある。
(あまり人目につかず、静かに居られる場所といえば……)
暁美は自分の知っている限りの隠れ場所を思い浮かべる。こう見えてもかくれんぼの達人と言われているのだ。今現在昼休み中に見つかったことがないのが自慢である。いくつか候補を上げ、歩き出す。個人的に一番気になるのは体育館横にある職員用具庫の裏である。表側から見ると入れないように見えるが、実は体育館の陰に隠れて入れる場所があるのだ。
早速目的地に到着。居たときのことを考えて忍び足で近づき、覗き込む。なんといきなりビンゴ。嫉妬してしまうくらい美しい銀髪がちらりと見えている。傍らには図書館から借りたであろう本が置かれ、読書をしているのだと察することができた。少なくとも、陰口を言うようなことはしていないようだ。
(あれは……何の本かしら?)
それがわかると、暁美の興味は次の場所へと向く。よく見てみると、海に関係する本らしかった。それも自分が見たら頭が痛くなるような、分厚くて文字がぎっしり詰まった奴。
(……深海棲艦?)
その中に、「深海棲艦について」と書かれた本があった。深海棲艦、その存在は暁美も知っている。難しいことはよくわからないが、とにかく世界を変えた存在だというのは理解しているし、投資家の父もその新開誠館を撃退する施設の運営に資金を提供しているとちらりと聞いたことがあった。
(なんでそんな難しい本を?)
暁美が興味を持ち、もう少し近づこうとしたとき。足元にあった木の枝が折れ、パキッと音を立てる。それは響子の耳に入るのには十分すぎる音量で、彼女は飛び上がって振り向く。
「誰!?」
「ぴっ!」
殺気に似た勢いが暁美に降り注がれ、その瞳は恐怖が混じっているように見えた。暁美はその響子の動きに驚き、こちらも少しばかり恐怖を覚えつつ、その一方でなにか心躍る感覚があるのを見逃さなかった。後にこれは、響子の振る舞いを美しく感じたと知るのだが、それはかなり先のことである。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が流れる。暁美は動揺から口が開かず、響子もまたここに誰かが来たこと言う想定外の事態、加えてその相手が暁美だったという事実に動揺した。一体どうしたらいいのかわからず、この沈黙を早く終わらせなければならないと思いつつも、お互い声が出そうにない。
しかし、このままというわけにもいかない。先に声が出たのは暁美だった。だが、内容なんて全く考えていない、苦しい言葉であった。
「みっ、見つけたわよ響子!」
「……へ?」
「まさか私しか知らないこの最強の隠れ場所を見つけるなんて、見どころあるじゃないの! さぁ、今度はあなたが鬼よ! この私を見つけられるかしら!?」
と、暁美は身を翻し、脱兎の如く走り抜ける。ああ苦しい。なんでこんなことになったのだろうか。別にこいつとかくれんぼなんてしたくないのに。しかし、自分から言ったからには制限時間いっぱいまで逃げ切ってやるとやけくそになり、暁美は走った。
結論を言うと、昼休み終了の五分前に暁美は見つかった。
*
その後、幾度となく暁美は響子に対して偵察活動を行ったが、弱点や欠点になるものなんて見つけられず、鍋をかぶっている以外は容姿端麗成績優秀スポーツ万能の完璧超人という結論に至ってしまった。この結論に至った暁美自身、納得しがたい結論であったが、どうしてもそうとしか言えないため、渋々受け入れた。
さて、何か欠点を見つけて響子を家から追い出すという計画は完全に崩壊した。次なる一手は何かあるのだろうか?
家では相変わらず、自分よりも響子のほうが日の目を浴びることが多い。テストの点数だって暁美は全然優秀な方ではあるが、それ以上に響子が優秀すぎて話にならないのだ。この前の学年成績だって堂々たる一位だった。ちなみに暁美は三位である。
いったい何をどうしたらそんな点数が取れるのだろうか。暁美は疑問で仕方なかった。ちなみに、カンニングをしている可能性も考えて探りを入れたが、カンニングペーパーなどの証拠はなく、日常生活でも父親との会話では時折博識な面を見せるから実力なのだろう。なにか独自の勉強方法でもあるのだろうか?
「…………こうなったら!」
自室にて対響子専用攻略ノートを書きなぐっていた暁美は、勢いよく立ち上がり、拳を作って決意する。相手の弱みを見つけて追い出すのはやめだ。なら自分が彼女より優秀になるしかないのだ。
そうと決まれば話は早いと、暁美は学校の教科書とノートを机の上に広げて勉強を始める。予習復習は普段からしているが、それだけでは足りない。もっと確実に点数を稼げるようにならなければ。
もちろんそれだけではだめだ。内面的にも変わらなければならない。作法も礼儀も全部覚えてやる。響子になんとしてでも勝って見せる。目指すは優雅でエレガントなレディ。そのためにはまず、することがあるだろう。
暁美は部屋から出ると、響子の部屋に向かう。時間には秒単位で正確な彼女のことだ、今頃は自室で勉強に励んでいるに違いない。部屋の前に到着し、ノックと同時にドアを開ける。やはり彼女は机に向かっていた。珍しく驚いたような表情をしていた彼女であったが今はそれどころではない。暁美は開口一番、高らかに宣言した。
「響子! あなたに宣戦布告するわ!」
「……?」
突然のことに響子はさすがに戸惑いを隠せないようだった。南極の氷のように冷たい表情かと思っていたが、こんな表情もあるのかと少し得した気分になる。
「今はあなたが勉強も運動も得意みたいだけど、それは今だけよ! 絶対私が追い抜いて、私は一人前のレディになってみせるわ!」
暁美の決意は、非常に硬い物であった。
*
そこから暁美は猛勉強の毎日であった。正直勝てる要素なんて少なかったが、それでもやらなければどうにもならないと暁美は奮闘した。
あるときは定期テストで張り合い。
「響子! 私はあなたの苦手な国語で90点を取ったわ!」
「…………94」
「きぃいいいい!!」
あるときは50メートル走のタイムで戦いを挑み。
「やったわ! 自己ベストの8.99! 響子は何秒かしら!?」
「8.50」
「ぴぃーーー!!」
ある昼休みではかくれんぼ大会でも。
「見つけた」
「何でわかるのよ!?」
またある時はお客様の接待で。
「た、たかしゅ……じゃなくて、高須暁美です! ほ、ほほほ本日はお日柄もよく、なのです!」
「高須響子です。いつもお世話になってます」
食事時の作法でも。
(フォークとナイフをちゃんと持って、きれいにお肉を切るっと……)
「暁美、ナイフとフォークが逆だぞ?」
「ふぇ? あっ!」
「まったく、響子のほうが一人前のレディだぞ」
惨敗であった。周囲からしてみれば暁美は十分奮戦していると見えるだろう。事実先に述べたテストでの成績は響子と暁美でワンツーフィニッシュだし、50メートル走についても同じく二人が上位を独占、かくれんぼ大会は暁美が最後まで見つからず、礼儀作法についても周囲は暁美の努力をしっかりと認めていた。この点から考えるに、暁美は大人たちからの視線を取り戻すことには成功していた。
が、肝心な暁美はその目標をすっかり忘れ、いつしか響子に打ち勝つというものに変化していた。だから大人たちのいうことは今の暁美には全てお世辞のように聞こえ、響子にどこかで勝らない以上本来の意味はないとして聞かなかった。だから響子に負けないように勉強も運動も今まで以上にやりこんだ。
そんなことを一年ほど続けた。
*
「勝てない……」
ぼふん、と暁美はベッドに突っ伏した。今日は定期テストの成績発表の日である。一年以上響子に対し挑戦を続け、差が縮まったと思えば離れ、ついに追いついたと思えば自分の些細なミスで負けと、敗北を繰り返して来たが、今回こそは自身の人生で最も完璧な出来だったと断言した。
が、結果は2点差で響子が一位。暁美はまたも二位。これで四回連続高須家のワンツーフィニッシュで同級生たちは盛り上がったのだが、2点という小さくも大きな差に、暁美は全く耳に入らなかった。あと一問正解していたら追いついたし、さらに一問正解したら勝ったのだ。
力なくベッドに突っ伏した暁美は、するべきである復習に手が付きそうになかった。今まではテスト結果を見たら真っ先に改善点を探すべく血眼になって解答用紙とにらみ合っていたが、ぐったりと力が抜けてなんの気力もわかなかった。すべてがどうでもいいように思えて、とにかくこのままベッドと一体化して溶けてしまいたいと思った。
「あいつ……なんであんなに頭いいのよ」
同じ人間なら勝てるはずなのに、暁美は圧倒的な差を感じていた。あと少しで追いつける、しかしいつまでたってもその差が縮まらないというのは全く追いつけないのと同じである。己の限界を感じ、暁美の目元に涙が浮かんだ。
「……あー、もう! やってらんない!」
暁美はどうにか気合を入れて声を出し、体を起こす。すっかり腫れてしまった目元をごまかすために、顔を洗おうと廊下に出る。幸いにもメイドも誰もいなかったから、すぐに目的地にたどり着くことができた。
蛇口から冷たい水を出し、両手いっぱいにためて顔にたたきつける。顔を上げて鏡の自分を見ると、ひどく疲れたような顔をしていた。今まで何か壁にぶち当たるということを経験したことのなかった暁美にとって、今の自分がみじめに見えて仕方なかった。初めて知った圧倒的な差、越えられない壁。それを超えるにはどうしたらいいか、幾度となく努力一択で解決しようとしたが、その結果がこれであった。
暁美は部屋に戻ろうと廊下に出て、しかし人の気配を感じて一旦引っ込む。こっそりと顔を覗かせてみると、誰もいない廊下を一人歩く響子の姿が目に入った。手洗いにでも行くのだろうか? いや、あの方向だと一番近い場所から反対方向だ。あの先にあるのは裏口である。
暁美に好奇心が湧く。あれだけお利口だった少女がこの夜更けに屋敷の外に出ようとしているのだ。これは純粋な興味であり、遥かなる高みにいる彼女の新しい一面が見れるのではないかと感じた。
響子が角を曲がったのを確認し、暁美は尾行を開始する。相変わらず頭に鍋をかぶり、音もなく歩く姿は見ようによっては不気味でもあるが、暁美は気にしない。
しばらく追いかけ続けて、やはり響子は屋敷の裏口に到着し、迷うことなく扉を開けて出て行った。暁美もそれを確認し、音を立てないように扉を開けて外に出る。屋敷の裏側には海があり、そしてやや急な坂を下るとその先には自分が好きな秘密基地のような入り江がある。学校で自分のお気に入りの場所に行きついた彼女のことだ、おそらくそこに向かうに違いないだろう。ならば。
暁美は別ルートから入り江に先回りすることにした。いつも使う道とは反対方向の若干の回り道。だが、走れば彼女より早くたどり着ける。そこで張り込んでみようという魂胆だ。
しめしめ、いったい何をしているのだろうかと暁美は小道を下る。この岩陰を抜ければ到着だ。そう思った直後、岩の向こうに突如として響子の顔が現れて、その予想外の展開に暁美はたまらず悲鳴を上げた。
「ぴゃぁーーーーーーーっっ!!」
*
結局、尾行がすべて見破られていた暁美は、半泣きになりながらもどうにか落ち着きを取り戻し、二人は仲良く(?)並んで座り込んでいた。
が、特に二人会話するでもなく、暁美は月明りを反射する海をじっと見つめ、響子は鍋の中から本とLEDランプを取り出して本を読んでいた。暁美はとにかく自分の尾行がばれたのか、というかここでいったい何をしているのか、いろいろ疑問がグルグルしていた。
ちらり、と横を見る。響子は漢字がたくさん書かれた難しい本を読んでいた。自分が隣にいるというのに、全く気にせず本を熱心に読む姿は、十分尊敬に値するだろう。
「…………あんたって、すごいわよね」
「……何が?」
おや意外、返事がきた。てっきりそのまま黙っているのかと思っていたのに。暁美はほんの少しうれしい気がして、言葉をつづけた。
「たしかさ、あんた外国から来たんでしょ? なのに日本語すっごく上手だし、勉強も運動もなんでもできる。お食事の作法も完璧で、お箸もすぐ使えるようになって、学校では人気者。パパもあなたのことがお気に入り。適わないわ」
その言葉を口にした後で暁美は気づく。ああ、自分は心のどこかで彼女に勝てないのを察していたのだろう。最初に会ったあの時。あの透き通るような瞳と髪の毛は、ガラス細工の人形のように美しかった。綺麗だと思ったあの時から。
「そんなことないよ、『姉さん』」
ぱたん、と本を閉じる音。響子は読んでいた本を傍らに置き、目の前に広がる海に目線を向ける。その仕草は本当にティーンエイジに入ったばかりの少女とは思えない色気があった。
「私は姉さんには絶対勝てないと思ってる」
「お世辞ならいらないわよ」
「ううん。本当に勝てないと思う。姉さんは私のことをすごいっていうかもしれないけど、私だって姉さんのことをすごいって思うことがある」
「え?」
「姉さんの言うように、私は勉強も運動も出来る方だと思うし、学校でもいろいろな人が話しかけてくる。でも、そんなことは昔からずっとされてきたんだ。どこへ行ってもみんな言うことすることは同じ。いっつも私の後ろに誰かいる。そんなのばかりでつまらなかった」
膝を抱えこみ、響子は目を伏せる。暁美はその話を聞いて同じだと悟った。昔からなんでも買い与えられ、不自由のない暮らし。誰もかれもが自分に頭を下げて慕っている毎日。確かに、そんな生活を十年近く続ければつまらなくなる。響子も同じだったのだ。
「でも、姉さんが現れて一気に変わった。みんな後ろからついてくるのに、姉さんだけが私の前に立ちふさがった。すごく新鮮だった」
「…………でも、私全然相手になってないし」
「そんなことはない。私にとってそれは大きな変化だった。私に立ちはだかろうと頑張る姉さんはまぶしかった。今まで張り合うってことをしたことがなかったから、とても新鮮で楽しかったんだ。だから感謝してる」
そういう響子の口元に笑みが浮かんでいた。初めて見る彼女の笑みに暁美は少しだけドキリとする。女なのに女の笑みにどぎまぎするとは思ってもみなかった。
だから、少しだけ自分のことを恥じた。この自分はこの少女を家から追い出そうとずるいことを考えていたのだ。なのに、響子は自分に感謝している。そうなると罪悪感があふれてしまう。
「わ、私は……その、なんていうか……あなたが言うほど、感謝される人じゃない、と思う」
「姉さんがなんて思っても、感謝するのは私が決めることだよ。だからいいんだ。でも、まさか自分と姉さんが比較されてご飯まで抜かれることになるのは思ってもなかったかな。その時はすごく悪いことをした気がした」
「…………じゃあ、もしかしてあの時のハンバーガーを用意したのは!」
「うん。メイドさんに内緒で作ってもらって、私が持って行った」
あの時自分の空腹を救ってくれたのは響子だと知り、暁美はますます自分が愚かな考えをしていたと実感させられた。無口かと思えばこんなにも話をして、しかも自分のことを「姉」とも呼んでくれた。本当にいい子じゃないか。なのに自分は何をした? 何を考えた? くだらない嫉妬や幼稚な考えで彼女を否定しようとしていた。だから、自分は姉と呼ばれる資格はないと思った。
「でも……私はお姉さんって呼ばれる資格はないわ。そう呼んでくれるのはうれしいけど……」
「違う」
聞いたことのないような声色だった。思わず暁美は響子に顔を向けると、彼女もまた暁美のことを見つめていた。ガラスの瞳がじっと暁美を見つめ、目線を逃がさまいとする。
「違うって……どういうことよ」
「…………私と姉さんは血がつながってるんだ」
「えっ……」
いったい何の冗談だ? 暁美の第一の意見がそれである。しかし響子は冗談の微塵も見せない真剣な眼差しだった。
「確かに、私の生まれはロシア。姉さんは日本。母親も違う。でも、お父さんが一緒なんだ」
「え……そ、れって……いけないこと、よね」
「うん」
頭を殴られたかのようなショックだった。自分の父親が浮気をしていたのだ。テレビでは芸能人や国の偉い人たちが浮気してはニュースになっていたから浮気がどういうことなのか知っている。だから自分の身内がそんなことをしたと知るのは大きなショックだった。
「お母さんが日本に来たとき、たまたまお父さんと出会ったんだ。詳しくは聞いてないけど、二人はすぐ仲良くなって、お母さんが日本にいる間はいつも会っていた。それからロシアに戻ってしばらくして、私が生まれた」
淡々と、他人のことを話すかのように響子は言葉を続ける。知りえなかった彼女の過去に、暁美は聞き入ってしまう。
「お母さんは日本が大好きだった。私の名前を『響子」ってしたのも日本が好きだから。日本語だって話せたし、私も小さいころから聞かされていたからすぐに覚えられた」
響子は鍋の中に手を入れ、そこから一枚の写真を取り出して暁美に見せる。その中には小さな響子と、まるで響子をそのまま大きくしたかのような綺麗な銀髪の母親が写っていた。
「綺麗な人ね」
「うん。このお鍋も、お母さんがくれたもの。私を守ってくれるお守り」
「お守り?」
「お母さん、死んだんだ。深海棲艦のせいで」
その言葉に暁美は今日何度目かわからない驚愕をする。だが、これで大方の察しがついた。響子が一体なぜ高須家の養子になったのかも、なぜ深海棲艦の本ばかり読んでいるのかも、電気回路のスイッチが入るかのようにつながっていった。
「空襲を受けたんだ。私の家は海の近くで、ある日突然学校が燃えたんだ。そしたら、空いっぱいに爆弾を抱えた敵の戦闘機。あちこちにまき散らして、私の周りの家は燃えて行った」
響子は鮮明に覚えている。あの光景を、あの理不尽を。決して忘れることのない禍々しい爆撃機の大群。彼女が過ごしていた日常は簡単に破壊されていった。
「怖くて足がすくんで、逃げることもできなかった。そしたらお母さんが私を抱え上げて、家の地下室に入れた。この鍋を頭にかぶせて、『これがあなたを守ってくれるわ』って言って扉を閉めた。何回も揺れて、すごい音がして、そのたびに怖くて怖くてこの鍋を深くかぶった。それで静かになってゆっくり外に出てみた。そしたら私の住んでいた町はもう無かった」
すぅ、と響子は深呼吸する。その表情は相変わらず変わることなく、冷静そのものだった。自分が語る側だったら間違いなくまともに話せなくなっている。
「その先は簡単。一旦施設に預けられて、私のことを知ったお父さんが引き取りに来た。ロシアを離れるのはちょっと不安だったけど、これがあればお母さんがずっと守ってくれる気がするから平気だった。昔からお母さんが使っていたお鍋、これでいろいろなものを作ってもらったし、私もこれで初めてボルシチを作ったんだ」
響子は愛おしそうに鍋を撫でる。やや古ぼけ、あちこちへこみがあるその鍋は彼女の母親の奮闘ぶりが伺える。そんな響子の話を聞き、暁美は響子がなぜこうも鍋をかぶり続けているのかを理解できた。母親からもらった大切なお守り、形見だからだ。確かにそんな大切なものを渡されたら破断離さず持っていたくなるだろう。だが、このお守りこそが彼女をここまで強く、そしてまっすぐに導いた存在であるとも理解した。
そして、それは同時に響子はこの形見によって苦しめ続けていることも
暁美は理解できた。
「だからこれは大事なものなんだ。これがあれば私は一人でも大丈夫」
「……違う」
「え?」
暁美は本能的に悟った。違う。一人でも大丈夫なんてことはない。誰かがいないと人は寂しくて仕方がないのだ。しかも、自分も響子もまだ子供なのだ。
「そんなの違うわ。響子、あなたは間違ってる!」
「なにが……」
「一人で大丈夫なわけないわ。このお鍋をずっとかぶってると、何も変わらない!」
そうだ、何も変わらないのだ。過去に縛られていては、本当の意味で前に進むことはできない。確かに響子は完璧超人かもしれない。だが、今のままではきっと持たないのだ。母の形見を肌身離さず持たなければ不安になる、それじゃだめだ。人はいつか自分の力で生きていかなければならない。そんな中、どうしても誰かに助けてもらわなければならない時が訪れる。それが訪れた時、響子は誰かに助けを求めることができなくなってしまう。死んだ人間が遺したものなど、どんなに強力なお守りのつもりでも、自分の身を守ることなんてできないのだ。
そして、この形見は響子とともに恐怖を経験した。つまり、彼女はお守りといいつつも過去の恐怖をいつも身にまとっていたことになる。そんなことを続ければ心が疲れ切って、響子が壊れてしまう。そんなのはだめだ。初めて出会った好敵手。そして自分のことを「姉」と呼んでくれた大切な腹違いの妹。最初は嫌いで仕方なかった。でも、今は違う。彼女は、間違いなく私の家族。暁美は決意し、響子から鍋をひったくった。
「!?」
突然頭が軽くなったことに響子は一瞬思考が止まり、しかし次の瞬間自分を守ってくれていた鎧がなくなったことで恐怖が激増し、人が変わったかのように鍋を取り返そうと身を乗り出した。
「返して! お母さんのお守り、返して!」
鬼の形相で迫る響子は、手を必死に伸ばして鍋を取り返そうとするも、暁美はどうにかそれを食い止めて彼女を止めるべく声を張り上げる。
「だめ! これは確かに大事なものかもしれない。大切な思い出、あなたを守ってくれたお守り、すごく大事だと思う。でも、これは怖いことも一緒に経験した。だからこれをかぶっていると、怖いこともお母さんも思い出しちゃう。ずっとずっと怖いもの、悲しいものがなくならない。そんなのが一番ダメ!」
「いや! それでもいい、お願いだから返して!」
「これは返せない。もうかぶっちゃダメ。あなたはこれからさよならしないといけない。だから!」
暁美は響子の腕を掴むと、思い切り引き寄せる。取り返そうと前のめりになっていた響子は勢いそのままバランスを崩し、暁美に抱き着くような形になって倒れこんだ。その瞬間、暁美は鍋から手を放し、響子をぎゅっと抱きしめて、その頭に手を置いた。響子の動きが止まる。
「その代り私がずっとそばにいてあげる。お母さんのことはしっかり覚えていい。でも、怖いのもずっと覚えているのはだめ。だから私が一緒にいる。お姉さんならこれくらいのことできるわ」
「ねえ……さん……」
「怖いものも、全部私がやっつける。深海棲艦だってへっちゃらよ。だから私に頼っていいのよ」
響子の体の力が抜けていくのがわかった。荒くなっていた息がおとなしくなり、彼女の手がぎゅっと暁美の袖をつかむ。すすり泣くような声が聞こえ、あっという間に嗚咽に変わった気がしたが、ここはレディとして何も聞かないことにした。
*
―数年後―
まだ外が薄暗い未明。屋敷の周辺はまだ静まり返っている時間に、暁美は自室でリュックサックの中に荷物を詰め込む作業をしていた。部屋着、替えの下着、歯ブラシにシャンプーセット、お気に入りのマグカップ。はたから見ればこれから旅行に行くと思うだろう。
しかし、暁美の頬は真っ赤にはれ上がり、目に涙を浮かべて表情はいまにも崩れそうでひどい有様だった。その理由は暁美の決意が大きな原因であった。
暁美は響子との一件以降、深海棲艦と艦娘について調べ、そして自身も艦娘になることを決意したのだ。それを昨夜父親に話した結果、大喧嘩が勃発して平手打ちを食らって今に至る。
大方の荷物をまとめ、最後に小さいころから貯めていたブタさん貯金箱を手に取る。試しに上下に振ってみるが、音はしない。ただこれは中身が空っぽなわけではなく、小銭もお札も満タンになった証拠なのだ。
それをリュックに放り込み、暁美は部屋から出る。未明を狙ったおかげで誰もいない。あっさりと一階にたどり着き、窓からの脱出に成功。裏口の門に手をかけた、その時だった。
「家出でもするの?」
「ぴっ!」
危うく悲鳴を上げそうになったが、ぐっとこらえて我慢する。音もなく現れる妹のスニーキングスキルは一体どこから来るのだろうかと何回も考えたが、答えが出ることはなかった。
「……なによ、止めても無駄よ」
「止めやしないさ。ただ」
後ろから響子の手が伸びて、門を開ける。その動作に驚いて彼女を見ると、響子もまたパンパンに膨らみ、加えてすっかり料理用になった彼女のお守りの鍋を縄で縛りつけたリュックを背負っていた。
「響子……あなた」
「私も一緒に行く」
「だめよ! これはとっても危ないことなの、こういうのはお姉ちゃんの私が……」
「でも、二人のほうが寂しくない」
「そうだけど……」
「ずっとそばにいるって言ったのは姉さんだよ?」
うっ、と暁美は言葉に詰まる。しっかり覚えていたのかわが妹よ。さすがだ、もう何も教えることはない。
「勉強は私が教えていたけどね」
「うるさいわね!」
響子はほんの少しだけ笑みを浮かべて門の外に出る。暁美は慌ててその背中を追いかけ、少し振り向いて後ろを見る。十年以上住んだ自分の家。これから自分は艦娘になるために厳しい世界に行く。だが、決意が揺るぐことはない。世間知らずの自分とはおさらばするのだ。
暁美は響子と並んで歩き出す。実を言うと、一人で行くのは少し心細かった。けど、二人一緒なら怖くない。暁美は響子に感謝した。
「ありがとう、響子」
響子は返事をせず、ただ手を伸ばして暁美と手をつないだ。見上げると雲が太陽に照らされて赤く染まり、美しい暁の空が広がり、その中に響くのは二人の小さな足音だけだった。
高須暁美、並びに高須響子。後に二人は艦娘士官学校に入学。暁美、響子ともに駆逐艦適性試験を同率首席で突破。某鎮守府へと配属され、第二次キス島撤退作戦やPT小鬼群掃討作戦など、多大な戦果を挙げた第三期第六駆逐隊「暁」「響」として活躍するのは別の話である。