オーバーロード 粘体の軍師   作:戯画

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第45話 王都にて

 地平線の代わりに、建ち並んだ家々の奥へ陽が沈む。すっかり夜の帳に覆われた街にまだ人々の往来はそれなりにあるが、そろそろ帰路へ着こうとしている者もいるようだ。これからが稼ぎ時になる飲み屋街の灯りは煌々と空を照らしており、酒を欲する者や日中に溜まったストレスを吐き出す者や情報を求めて忙しくする者などを誘蛾灯のごとく引き寄せ飲みこんでいく。

 あちこちの窓から溢れる光は世間の一日がまだ終わっていないことを示していた。

 

 その光のうちの一つ、館の二階にある一室。

 

 広々とした室内には天蓋付きのベッドと化粧台とクローゼット。どれも貴族が好みそうな、機能性と関係の無い華美なロココ調の装いになっている。

 

 日常生活において着飾ることは貴族にとって非常に重要だ。他の誰よりも目立ち一目置かれることが社交界を巡り巡って一族の盛衰を決めることもあるのだから、貴族社会においてこれはルールよりも根底的な、一般常識の範疇だった。

 

 だがパーティに招かれて大貴族の目に止まるため化粧だ服だと躍起になる者はこの館にはいない。何よりそれは窓際に気配もなく佇んでいるソリュシャン・イプシロン自身が望んでいないことでもあった。

 

 ストレートにすれば優に腰まであるであろう金髪を肩に掛かる辺りでロールさせ、頭の上には大きな赤いリボン。オレンジをベースカラーにしたオフショルダーのドレスは端々にフリルがあしらわれており、全体としてはやや幼めな雰囲気のコーディネート。

 

 窓の外を眺める目に光は無く、何かに興味を感じている風ではない。

 

 熟達した戦闘者ならば、このソリュシャンが外からの射線に晒されない位置に身を置いていたことに気付いたかも知れない。だが館の面する通りは閑散としており、荷運びを生業(なりわい)としている者たちがノロノロと荷馬車を転がしているだけだ。

 警戒をしているということではなく、これは彼女本来の職業(クラス)や性質による習慣といった方が正しい。ナザリックから出立してからはずっと大商人の娘の偽装をしているため局所的にはむしろ目立つ演技をする場合が多いが、あくまでそれはセバスがより効率的に情報を集められるように旗を振っているだけに過ぎないのだ。

 

 ゆっくりと振り向く。この部屋に居たのは自分だけではない。肉体的な極限の状況で軽い錯乱状態に陥り、いまは打ちこんだ弱性の睡眠毒で眠っている人間の娘がベッドへ寝かされている。

 肉体的な傷は昏睡状態にした(のち)巻物(スクロール)を使った治癒を施しているため、運びこまれたときのパンパンに腫れた顔や、殴打鞭打ち他によるものと思われる青痣や裂創は完全に治癒している。外も、内もきれいなものだ。

 

 しかし肉体の傷は癒せても精神の傷は治すのに時間が必要だ。だからという訳ではないが、ソリュシャンはこの人間に自らの意思で関与しようとはしなかった。

 

 問題なのは元々自分たちがこの王都へ来た目的が情報収集のためであって、毒にも薬にもならない人間を抱えこむことでは決してないということだ。いまは実害が無いので黙認しているが、なんらかの問題が発生したときは原因を速やかに排除する必要がある。

 場合によっては体内に収納している、至高の御方から預かった巻物(スクロール)を使う必要が出てくるかも知れない。だがそれは疑念が確信に変わったときだけだ。推察や懸念の段階でアイテムを消費するのは愚策以外の何物でもなく、慎重に判断しなければならない。

 

 頭痛の種を持ち帰ったセバスは人間が目覚めたときに与えるのであろう食材を買いに出ており、言い付けられていることをいまのあいだに済ませておく必要がある。

 

 一階で沸かしておいた湯を二つの手桶に注ぎ、何本かの手拭いを投入する。挟まった空気が端に流れ、じわりと底へ沈んだ。

 

 扉を開けるのに断りは入れない。その筋合いも無ければ、答えが返ってこないことは分かっているからだ。

 

 部屋の中では先ほどまでと変わらず弱々しい寝息が聞こえてくる。麻酔も兼ねて昏睡レベルで打った睡眠毒。解毒しない限り一定時間は外部からの物理接触で目を覚ますことはない。

 

 被せてあった羽毛布団を毛布ごとめくり上げる。身体は治癒しても、表面の汚れや衣服までは元通りにならない。見たところ彼女が着ている服は安っぽい大量生産品で、蚤の市でもあっさり揃いそうな粗末なものだった。

 溶解液の濃度を調整して衣服だけを溶かすこともできるが、少し逡巡して手作業で脱がしにかかる。まだこの人間がどう扱われるかが未確定な以上、可能な範囲は現状維持に努めるべきだと判断した。溶かした衣服を元に戻せとでも言われたら困る。

 

 一糸纏わぬ姿になった人間の身体を起こし、絞っておいた手拭いで上から順に拭いていく。髪だけは流石に大掛かりになってしまうので汚れやらだけを溶解液で片付けたが、それ以外は全て手作業だ。(ぬぐ)っては湯で洗い、(ぬぐ)っては湯で洗い。繰り返すうちに湯桶の中はすっかり黒ずんだ汚水になった。

 

 30分ほど掛けて全身をくまなく綺麗にし終わり、床に捨て置いた服には一瞥もくれずソリュシャンはクローゼットへと向かう。

 

 両開きの戸を開けた中には20着あまりの女性服が吊るされている。これらも擬装のために用意したものであり、王都到着までのあいだにソリュシャンが着たものもいくつか含まれている。

 この館を借りてから外での用事は全てセバスが担当しているため滅多に使うことは無くなっていた。

 

 寸法は当然ソリュシャンに合わせてあるため、この人間に着せると多少丈が余る。かといって仕立て直すこともできないので、あまりフィットの強くない地味めな、良く言えばシンプルなデザインのワンピースを選んだ。

 下着もとりあえずあり合わせのものを着せておくが、カップは合ってもオーダーメイドではないためどうしても完璧なフィッティングにはならない。布をサラシ状に巻くのに比べたらいくらかはマシという程度だが、一時的な対処としては許容範囲だろう。

 

 

 

 完全に陽も落ちた頃、セバスが帰ってきた。シーツを替えたベッドに服を着せた人間を置き、手桶を持って部屋を出るところでちょうど顔を合わせた。

 指示されたことが完了している旨と、魔法が精神まで癒す訳ではないことを端的に伝える。

 

 あとにして思えばそんなことはセバスも重々承知のはず。ささやかな当て付けだったのか、それともトラブルになったときの責をセバスに負わせるための言質を取りたかったのか自分でも分からない。

 

 結局のところ至高の御方々のために用意したこの館が、衣服が、自分たちという存在が、外からの異物、それも人間ごときに消費されているということがたまらなく嫌なのだ。

 そこに至高の御方々にとって明確なプラスとなる理由があるならば納得もしよう、嬉々として人間の世話も焼こう。だが少なくとも現時点ではその点は不明瞭だ。

 何もメリットが無かった場合、掛けた労力が無駄になるためセバスの旗色は悪いと言う他無いが、いったい何を考えているのか。

 

 扉越しに聞こえてきた怨嗟の声だけはわずかに嗜虐心を満たすものだったが、こちらが与えたものに釣り合うとは思えなかった。

 

 ひとまず雑務から解放されたソリュシャンは口直しをする気分で書斎へ入り、机の上に積まれている巻物(スクロール)を見る。

 

 新しいものが1本追加されていた。

 

 至高の御方直々の指令を実行しているとき。それがシモベにとってはこのうえなく幸せな時間だった。

 

 

 

 3日が経過し、ソリュシャンは書斎から出ることがさらに少なくなった。これまではセバスの外出の見送りと出迎えをしていたのだが、あの人間────名をツアレという────が現在はその役目をしている。

 客人として扱っても構わないとセバスが提案したのだが、申し訳ないからと固辞した。

 

 業務内容としてはメイドのそれだが家人と言えるのはセバスとソリュシャンの二人だけであり、やることと言ったらツアレ自身を含めた3人分の食事を作ること。あとは館内の清掃くらいだ。

 

 流石にワンピースのままでは支障があるとして、彼女に合わせたものを用意した。たまたま運よく寸法が合うものがあったとセバスは説明したが、嘘だ。メジャーなどを使って測定せずとも服の上から一見、さらに腕を振り上げたときの身体全体の動きやバランスを見れば服のサイズを過不足なく合わせることなど容易であった。

 誰が見ても貴族に仕える執事という雰囲気のセバスが、街の仕立屋にメイドの服を購入しにきても奇異に思う者はいない。新しい使用人が増えましてと言われれば尚のこと。そんなものまで手配をしなければならないなんて、大変だなぁという哀れみと感心が混ぜこぜになった目を向けられるだけだ。

 

 ツアレは精神的な理由から、外へ出ようとはしなかった。セバスは時々買い物に付いてくるよう声を掛けているらしかったが、人間の女一人が館の中にいようが外に出ようが、それがナザリックに対して利益にも不利益にもならないのなら興味は無い。

 

 書斎の机には詳細を確認した巻物(スクロール)が封を解いて広げられている。記載されている魔法は≪フローティング・ボード/浮遊板≫。第1位階魔法であり、使用者の後方に最大積載量50キロの透明な板を発生させる。荷物の運搬などに使われるものだ。

 

 机の引き出しから羊皮紙の束を取り出す。その内から引き抜いた一枚のタイトル部分には『第1位階魔法・その他』と書かれており、いくつかの魔法の名と効果の要約がその下に並んでいる。

 いま確認した魔法の詳細を並びの最下段に追加すると、巻物(スクロール)の紐を結び直して背後の籠に詰めこんだ。

 ナザリック内で使用者のいない魔法の巻物(スクロール)を中心に、また今日も購入してくるはずだ。

 

 それらを用途や位階ごとにまとめるのが最近のソリュシャンの担当なのだが、実を言うと大した作業ではない。位階はそのほとんどが第2位階以下であり、分類項目として機能していなかったからだ。

 

 第1位階魔法は攻撃魔法、防御魔法、補助魔法、その他に大まかに分類し、第0位階魔法は火種を作るなどといった生活上の代用技術としての性質を持ったものがあった。

 正直ナザリックにおいてそれらを使用する意味があるとは思えなかったが、目録を作成している中であることに気付いた。

 

 第1位階は基本的に弱いものの、雑魚相手であれば便利な魔法も多く存在する。たとえば≪マジック・アロー/魔法の矢≫は同じ戦闘メイド(プレアデス)の姉妹であるナーベラルも使用することができる。

 術者の力量によって魔法の威力は変動するので、実力差が大きく開いている場合はコストパフォーマンスが悪い訳ではなくそれなりに使用する価値はある。恐らくナーベラルならば数発同時に撃つことが可能なはずだ。

 

 リストの見直しをしていたときに引っ掛かるものがあった。指を滑らせて分類項目を確認する。

 

 第0位階。

 

 第1位階のリストと見比べてみても、もしやという想定が正しかったことを知る。この第0位階魔法、その全てが少なくともソリュシャンは見たことも聞いたことも無い、未知の魔法ばかりだったのだ。有用性はまるでないものばかりだと思うが、それが逆に第0位階に感じる奇妙さをさらに加速させる。だが新たな事実を発見したからといってそれが持つ意味まではソリュシャンには分からない。

 

(情報収集を命じられたのはアインズ様……)

 

 何故、とは考えない。魔法について自分など足元にも及ばない叡智を保有した主人(あるじ)が調べろと言うなら、それが全てだ。

 

 ナザリックから離れての活動なので、報告自体はいつになるか分からない。明日かも知れないし、2週間後かも知れない。いつ呼び出されても大丈夫なように、陽がすっかり落ちたあともペンを走らせる音が止むことはなかった。

 

 

 

 王都リ・エスティーゼは歴史の古い都市だ。王族の住まう地を中心に発展し、王家の歴史とともに時を歩んできた街だ。

 だがその弊害と言うべきか、古くからある物を丸ごと取っ替えずに改装、補修を繰り返して使うある種慣習のような運用が常識になっていた。大工などは王都にいる限り食いっぱぐれる心配がなくありがたがっているが、不満の声が無い訳ではない。

 

 路地だけに限った話ではなく大抵の道は舗装されておらず、雨が降った日には足元が泥まみれになるのを覚悟しなければならない。そして水()けの悪い地面に溜まった雨水は乾燥して蒸発するか地に染みこむのを待つしかない。

 要するにこの街はインフラ周りの整備がお世辞にも良いとは言えないのだった。

 

 昨日の夜は雨が降った。ところどころに泥濘(ぬかるみ)が残る通りを黒スーツを着こなしたセバスは歩く。その足取りに迷いは無い。巻物(スクロール)などのアイテムを扱う魔術師協会と仮住まいの館を繋ぐこの道はすでに歩き慣れたと言っていいほど幾度となく往復している。

 

 背筋をピンと伸ばしてキビキビと、しかし流麗に歩く姿は見る者に優雅ささえ感じさせ、足下が悪いことなど関係なくすれ違った者たちを振り向かせた。

 

 腰のあたりの膨らみは、今日仕入れてきた巻物(スクロール)だ。なるべく用途などのカテゴリーが違うものを優先的に入手するようにしているが、魔術師協会で見せてもらった分厚い目録はまだ網羅できそうにない。

 

 

 

「おかえりなさいませ、セバス様」

「ただいま、ツアレ」

「足下を拭くタオルをご用意しました」

 

 帰りを待っていた彼女の手には清潔なタオルが3本ほど掛けられている。泥道を帰るセバスの足下が汚れているのではないかと用意してくれていた。

 

「ああ、ありがとうございます。しかし折角ですがその必要はありませんよ」

 

 片足をすい、と持ち上げて裾を見せる。そこには一滴の泥跳ねも無い。おろしたて同然のスーツはセンタークリースがピシッと立ち、セバスの実直な人柄がそのまま表れているようで、ツアレは思わず笑みがこぼれた。

 

「やっぱりセバス様はすごいです。でも、靴はお拭きしますね」

「あ、ああ、これは、どうも」

 

 流石のセバスも地を踏まずという訳にはいかない。靴の裏に付いた泥を(ひざまず)いたツアレが丁寧に拭き取る。床に置かれたタオルに足を下ろして、もう片方を上げる。これも黙々と、しかし細かなところまで拭き取ると汚れたタオルを素早くまとめた。

 

「お待たせしました」

 

 にこり、と浮かべた笑顔からは数日前の取り乱しようは想像もつかない。精神の傷は時間が掛かるという話だったが、いい傾向だと思うことにしてセバスは書斎へ向かった。

 

 

 

 

 

 

 目を覚ましてまず感じたのは、寒くもなくて痛くもないこと。ひもじくもない。これまでは昼夜もなく叩き起こされ、客の趣味や癇癪で痛めつけられた身体と空腹でまともに眠れないのが普通だった。

 だがここには客もいなければ、自分をモノとして乱暴に扱う恐ろしい従業員もいない。

 

 それらに違和感すら覚えるのは、あの地獄に慣れ過ぎたせいなのか。それともこれはやっぱり夢か何かで、本当の自分はもう死んでしまっているんじゃないだろうかと考えてしまう。

 

 ふかふかの布団に5分ほど頭を埋めてみる。10分経っても叩き起こす怒声が浴びせられることはなかった。

 チラリと覗いた視界には、ベッドの上部に付いた立派な天蓋が見える。部屋の窓からは陽が差しているが、やや肌寒い空気は夜明けからそう時間が経っていないことを感じさせた。

 

 クローゼットに掛けてあったメイド服に着替え、寝間着にしていたワンピースはそれと入れ替わりにハンガーを通す。

 

 この2日ほどで分かったことは、館の主人であるお嬢様は滅多に書斎から出ないこと。そして外出が必要な用事はその執事であるセバスがすべて(おこな)っていること。出掛けるとしてもその時間はあまり早くはなく、いまからだとおおよそ3時間後。

 

 実質的には居候の身である以上、自分にやれることはやらなければいけない。

 数日前までは地獄にいたことを思うと足が震える。でもそれを露わにするのは、救いの手を差し伸べてくれたあの人に失礼だ。

 全身が写るくらい大きな鏡の前で服装の最終チェックを済ませ、最後に何度か深呼吸をした。

 

 一日が始まる。

 

 

 

 まずは部屋を出て階下へ。火を起こしてから食堂のテーブルを拭く。食事にはセバスもツアレもここを使うが、使用人は主人の後だ。お嬢様の両親や姉妹はこの王都から離れたところにいるらしく、食卓が賑わうことはない。

 

 食材はセバスが出掛けたときに買ってきてくれるので、あまり多くはないレパートリーを組み合わせてなるべく同じメニューにならないようにしている。

 朝はパンとスープ類が一品もあればこと足りるので、本格的に頭を(ひね)るのは昼から夕方にかけてだ。

 

 鍋にサッと油を引いて、賽の目に切ったベーコンに軽く火を通す。続いて扇形になるよう3度包丁を入れたタマネギを丸ごとと、一口大に切ったニンジン・ジャガイモを投入。胡椒をややきつめに振って具材が半分ほど(ひた)るまで水を入れ、フタを被せて小1時間弱火で煮込む。

 

 火をかけたまま離れる訳にもいかないので、出来上がるまではキッチン周りの掃除だ。

 まず今朝使ったキッチンナイフを洗い、しっかり拭き取って刃に脂が残っていないのを確認する。次に戸棚に収納されているお皿、はどれも高価そうで怖いのであとに回して、壊れる心配のいらない銀食器を一つずつ丁寧に洗っていく。全体の数を把握できないだろうかとも思ったが、ナイフ・フォーク・スプーンがそれぞれ20本を超えたあたりで正確に数えるのは諦めた。もし20を超える来客があるならいきなりということはないだろうし、そのときに改めて数えれば済むことだ。

 皿も銀製ならば割る心配が無い分余計な緊張をしなくていい。濡らした布巾で拭いた食器は乾燥棚に置いて水気を飛ばしておく。

 

 食器にせよ家具にせよ妙にどれも真新しいと思ったが、この館はごく最近まるごと買い取ったとセバスが言っていたので、恐らく家財道具諸々合わせてまるごとという意味なのだろう。そのときはなんとなく違う世界の話みたいに聞いていたが、さっきの高そうな皿といいスケールの凄まじさが今になってじわじわと現実味を伴って感じられた。

 

 空になった食器棚に銀皿を戻す頃にはタマネギから出た汁気が肉の風味と混ざって食欲をそそる匂いがキッチンに立ちこめていた。

 念のために食材のチェックをしておく。もし足りなくなりそうなものがあればセバスにお願いしておかなければならない。

 

 彼はあれから何度か、自分を外に連れ出そうと試みていた。そばに彼がいてくれると頭では理解していても、すっかり臆病になってしまった精神はそれを拒否してしまう。永遠にこの館に閉じ籠って生きていけるものか。そんなのは子供のワガママと何も違わないことは分かっているのに。

 

 沸いた鍋が吹きこぼれガチガチと鉄製のフタを鳴らす。慌ててうっかり手を伸ばし、熱されたフタは容赦無くツアレの指先を焼いた。

 

「つっ……ぁ!」

 

 思わず後退(あとじさ)ったところで、背中が何かに当たる。後ろには何も無かったはずなのに。それは鉄の扉より強固に揺れず、石の壁には絶対に無い温かみがあった。正体を確認する前に左腕を引っ張られる。流しに突き出された手に冷水が掛けられ、手首を押さえる位置に一緒に水に濡れて染みを作っていく白手袋が目に入った。

 

 答え合わせをする感覚で左腕に絡んだ黒スーツの袖を上に辿っていく。ほとんど肩越しと言うくらい首を回したあたりで、綺麗に整えられた白髭が視界に入った。鋭い中にも澄んだ湖のような穏やかさを湛えた目を持つ人物は自分の恩人で間違いない。

 

「セバス様」

「男子厨房に入らずと言いますが、いい匂いにつられてつい。……大した火傷ではなかったようですが気を付けてください。もう大丈夫でしょう」

「も、申し訳ありません。セバス様のグローブが濡れて……」

「ああ、これですか」

 

 まだ水の滴る左手を一瞥すると右手に持っていた無限の水差し(ピッチャー・オブ・エンドレス・ウォーター)をキッチン台へ置き、流しの上に拳を突き出し力を込めた。

 弾かれたように中空へ飛び出た水が一気に流しの底を叩き、軽く振った手を胸元に置いた。シャツに水が染みることはなく、さっきまでグローブが透けて見えていた肌の色はもう見えなくなっている。

 

「何も問題はありません。それより手は痛みますか?」

「あっ、そういえば……全然痛くない、です」

 

 確かに強い熱を感じたはずの指先は痕跡などもまったく無く、火傷特有の脈打つような痛みも無かった。これまで精神に負った傷が、過剰な痛みの幻覚を引き起こしたのか。

 

 頷きを返したセバスはお嬢様を起こしてくると言ってキッチンを去っていった。

 

 今度こそ慎重にフタを開けて、満足のいく出来になっているか確認をする。母に教わったのはひと昔近く前の話だが、それでもおぼろげな記憶を頼りに意外となんとかなるものだ。

 

 まだ水気の残る左手を火照った頬にあてる。ひやりとした感覚が心地良かった。

 

 

 

 皿に盛った料理や水、清潔なナフキンをワゴンに載せて運ぶ。一人分なので往復する必要は無い。

 

 お嬢様の食事が終わるまではおおよそ1時間。そのあいだに湯を沸かしておく。沸いた湯はティーポットに移しておけば後でセバスが取りにくる。食後の紅茶を淹れるためだ。食事が終わったという合図でもあるので、大体十分ほどすれば片付けにいって構わない。

 

 空になった皿を再びワゴンに載せて引きあげると、ぬるくなりつつあったスープを温めなおす。次に運ぶのは二人分。

 食事は一日の中でも特に好きな時間だ。まるで食いしん坊のように聞こえるのは弁解の声を上げたいところだが、お腹いっぱいに食べられるのが嫌な訳はないので複雑な心境だ。

 セバスは何かと足りないものは無いか困ったことは無いかと聞いてくれる。心配性なのだろうかと思って少し見つめてしまったのだが、お嬢様は気難しい方なので執事としてはあらゆることに常に完璧であろうとしていると言われてなるほどと思った。

 

 立ち居振る舞いに欠けがあるとは思えないが、自分の見えないところではセバスも色々あるのだろう。

 あまり無遠慮に掘り下げても迷惑かと思い、この日の朝食の時間はそれで何事も無く終了した。

 

 

 

「では行って参ります」

「いってらっしゃいませ。セバス様。昨日は雨が降ったので足下に気を付けてくださいね」

「ええ、分かりました」

 

 深々とお辞儀をして見送りをする。帰ってくるのは陽が落ちる頃だが、彼の手に弁当が入るような手荷物は無い。どこからどう見ても手ぶらだ。

 残念ながらこれで半日は会うことができない。多少の不安を感じるものの、昨日も一昨日もセバスの言った通りお嬢様が書斎から出てくることは無かった。なんでもこの前買いこんで部屋に貯めてある保存食を試しているそうなので、昼食は自分の分だけ作って食べればいいと言われている。

 不思議に思わなかったと言えば嘘になるが、下手に藪をつつくことがときに恐ろしい不幸を招くことは皮肉にも身をもってよく知っている。

 

 すでに朝食の片付けは完了した。次は洗濯だ。と言っても大した洗い物は無い。今朝使ったナフキンを桶で手洗いして、洗い場に張った細いロープに引っ掛ける。今日のような陽気であれば昼過ぎには問題なく乾くはずだ。

 

 吹き抜けになったホールの二階から周囲をぐるりと見る。ざっと考えただけでも個室が五、共用部分に応接室、そして書斎。お嬢様やセバスの個室へは無断で出入りする訳にいかないので、基本的にホールの一部と共用部分を中心に清掃を進めている。

 階段から二階に繋がる手すりの柱を一本ずつ丁寧に水拭きし、ホールと玄関周りを掃きこちらも念入りに磨いた。

 掃除や簡単な料理しかできないことに申し訳なさを感じるが、しょげていても何にもならない。できることが少ないなら、それを徹底的にやるしかない。

 

 幸いと言うべきか、この館には絵画や壺といったいかにも高級かつ取り扱いに困りそうな品は無かった。貴族や商人というものは何かと見栄を張りたがる生き物だと思っていたが、飾り気がまるでなくそれを気にしている様子も無いセバスたちはなおさら超然として見えた。

 

 料理の仕込みを済ませてセバスの帰りを待つ。ふと窓の外を見ると、夕暮れが黄昏に変わりつつあった。

 

 深夜であっても館のいたるところには≪コンティニュアル・ライト/永続光≫が込められた魔法の照明が設置されているので、「光れ」の一言で昼日中と遜色無い照度を得ることができる。だが不便が生じるまでツアレはこれを使わない。

 消費されるものなのかは全く知らないが、決して安いものではないだろう。そんな魔法の照明を自分の都合で軽々しく使うことは自重するべきであると考えた。居候としての遠慮とでも言うべきか。

 そしてもう一つ理由があった。陽が昇り朝がやってきて、再び沈み夜が訪れる。全身で一日を感じられることがとても尊く思えたからだ。

 

 

 

 

 

 

 セバスを囲む状況は逼迫していた。来訪者の応対に出たセバスが戻り、彼らがあのツアレが元々いた店の関係者と称していることを聞いた。ツアレを拾ってから8日後のことである。

 主人を呼びにいくと言い残しているため来訪者は今も館の前で待っている。

 

「どうなさるのですか」

 

 この館を訪れる者は基本的にいない。そうならないように商人などへの対応は徹底していたからだ。

 望まぬ来訪者はどう考えてもいい話を持ってきたとは思えない。

 

「……とにかく時間がありません。まずは彼らの話を聞いてみないことには。私が対応しますので、ソリュシャンは初めだけ同席して適当なところで席を外してください」

「それは……。かしこまりました」

 

 確かに形だけの女主人がいても仕方がない。相手の出方が分からない以上はソリュシャンもまだ決断するに足る確信は持てなかった。

 

 館内へ誘導するためにセバスは再び訪問者の待つ玄関へ向かった。

 

 

 

 ソリュシャンの予想は的中した。物事が想定の範囲外へ出ないのは悪いことではないが、事態が悪い方へ悪い方へ転がるのは見過ごすにも限度がある。至高の御方の計画の障害となるものはなんとしても排除しなければならない。

 

 ツアレの引き渡し、さらにはふざけた金額の支払いをふっかけてきた連中はまた明日返答を聞きに来ると言い残して立ち去った。セバスは取り乱すことは無かったものの妙案は浮かばず、何か閃かないかと雲を掴むにも等しい希望を求めて夜の街へと出ていった。

 

 残されたソリュシャンはすっかり座り心地が馴染んでしまった、ナザリックに比べると粗末と言う他ない椅子に浅く座り足を組んで考える。服装は普段のドレスではなく、彼女本来のメイド服だ。交差して触れた脚甲が硬質な音を立てる。

 

 お嬢様の演技すら一時的に手放して、自分本来の思考をより完全に行うために。ここにいるのは商家のお嬢様でも、そのフリをした存在でもない。ナザリック地下大墳墓の戦闘メイド(プレアデス)、ソリュシャン・イプシロンだ。

 

 一切の感情を排し、シミュレーションを開始する。まず妙案浮かばず明日を迎えた場合。理不尽で不利な二択を迫られるうえ、どちらをえらんでも連中がそれで大人しく終わらせるとは思えない。あの下卑た目は、弱者と見れば骨までしゃぶり尽くすことを日常にしている者の目だ。

 整った顔立ちが歪む。一切の感情を排したと言っても瞬間的に湧き上がるものはいかんともし難い。一瞬で物言わぬ死体にできるあんなゴミ同然の連中が、被捕食者どもが、よりによって栄光あるナザリックのシモベたる自分たちを弱者とみなすなど。

 

 自然に治まりそうにない怒りの奔流は、理性を総動員して無理矢理押し込める。ここでさらに打つ手を誤れば、至高の御方々に不利益を(こうむ)らせてしまうかも知れないのだ。それだけは屈辱の炎にこの身を焼こうとも絶対にあってはならない。

 

 (はな)から要求に応じる選択肢は無い。

 

 要求を突っぱねた場合、王国の法とやらを盾に強制捜査や逮捕拘留さらなる罰金といったところか。この館の抵当権まで見ている可能性もある。

 あの粘り気のある視線をこちらに向けていた男が自称していた通りの地位と権力を持っていると仮定した場合、穏便に事態を収拾するのは非常に難しいと言わざるを得ない。王国の法律なんぞに律儀に従う必要性も無いのだが、目立たず騒がず情報収集をせよという命令には真っ向から反する結果になる。やはりマズい。

 

 殺すか。

 

 本職らしい考え方で解決法を立案してみたが、愚かな考えだ。思ったより意外とまいっている自分に呆れつつ(かぶり)を振る。

 

 ツアレを殺したところでウチの従業員をよくも殺したななどと心にも無いことを言ってさらに強く要求をしてくるだけだし、十中八九セバスの不興を買う。

 来訪者を殺しても地位があり裏社会との繋がりがある者ならばその死は早晩外部に漏れる。どちらにせよ望ましい結果にはならない。

 

 手詰まりだ。正体を誰かに見せた訳ではないので、最悪証拠となるものを処分して引き上げればナザリックの情報が外部に漏れる事態は防げる。

 だがそうなれば情報収集の任は失敗に終わり、次の潜入メンバーから自分とセバスは外されるだろう。

 だいいち完璧に全ての痕跡を消すならば少なくとも階層守護者クラスかその上、至高の御方の協力を仰がなければ不可能だ。本当に頭が痛い。

 

 すでに事態はセバスの裁量としてソリュシャンが許容できる範囲を超えている。

 

 天井へ向けた手の平から押し出されるように1本のスクロールが出現する。ナザリックを()つ際に、緊急時の連絡用として(たまわ)ったものだ。

 

 込められた魔法は≪メッセージ/伝言≫。

 

 魔法そのものは珍しくもない低位階魔法だが、ほぼリアルタイムにこちらから連絡を取れる手段としては貴重な一手だ。

 

 巻物(スクロール)の供給問題についてはデミウルゴスの尽力によって低位階に限って言えば解決の糸口が掴めているが、王都に出ているソリュシャンたちにはそれを知る(すべ)がなかった。

 

 だからこそ切り札を残していたのだが、これ以上機を逸する訳にはいかない。

 

 報告するべき内容、(のち)に続くであろう連絡手段の確認。限られた時間で的確に伝えなければならない情報を頭の中で整理する。

 

「≪メッセージ/伝言≫」

 

 軽く放って発動させた巻物(スクロール)が空中で広がり、セバスが買い集めてきた物とは似ても似つかない文字で記述されていることが分かる。放物線の頂点で開き切った巻物(スクロール)は音も熱も無く一瞬で青白く燃え上がり、灰となって消えた。

 

 魔力でできた見えない糸が伸びていき、繋がる感覚。頭の中に崇高な声が聞こえてくる。

 

『私だ』

 

 ナザリック地下大墳墓を支配する至高の四十一人のまとめ役、組織の実質的トップたる御方アインズ・ウール・ゴウン。

 久しぶりに耳にした声はここしばらく尊顔を拝することができていないソリュシャンの感情を大いに揺さぶったが、いまは流石に危機感の方が上回った。

 

「申し訳ございません、取り急ぎお耳に入れたいことが。結論から申し上げますと、セバス様に裏切りの可能性がございます」

『ああ……え? はあっ!?』

 

 素っ頓狂な声が上がった気がするが、少しの()を置いて聞こえてきたのは記憶通りの落ち着いた声だった。

 

『確か、なのか? 冗談にしてはいくらなんでも悪ふざけが過ぎるぞ』

「明確に敵対した訳ではございませんが、これ以上放置していてはナザリックに不利益をもたらすと私の判断でご報告致しました」

『う、む……! と、とにかくこちらでも確認する。5分……いや、10分後にこちらから≪メッセージ/伝言≫を繋ぐ。いまセバスは近くにいるのか?』

「発生している問題の解決策を探して外出しております。事の経緯は後ほど」

『分かった。ではな』

 

 そこで繋がっていた感覚は途絶える。さっき出たばかりのセバスが十分のうちに帰ってくるとは考えにくい。

 次に報告するべき中には当然ツアレの話も出てくる。と言うよりあれが事の発端なのだ。

 至高の御方と話した喜びのためについ気が緩んでしまいそうになるが、状況は何一つ好転していない。

 

 引き上げを命じられた場合のことを考えて未報告の書類や破棄対象の物品のチェックをしていたソリュシャンに連絡がきたのはちょうど10分後だった。




早いもので投稿初めてからもう1年になるんですね……。

いよいよ王都編、なんだけどどういう展開になるか未定です。泣きたい。

2018/11/8 行間を調整しました。
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