オーバーロード 粘体の軍師   作:戯画

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第46話 白を紅く染めて

 屋敷を出たのは深い考えあってのことではない。ただあの場での思考が行き詰まったがために、環境を変えることでその閉塞に穴が空くかも知れないと儚い希望に(すが)っただけだ。

 街中で(いわ)れのない暴力に晒されている少年をつい助けてしまったが、策を考えるつもりがその(じつ)何も考えることができていない現状に愕然とする。

 他のことにかかずらっている時間は無いというのに、鋭敏な感覚は人気(ひとけ)の無い路地を進む自分を追跡してくる気配を拾っていた。さっきの暴行騒ぎのときにいらぬ目に引っ掛かったのか。頭の痛い厄介ごとの解決法を探しているのにさらなるトラブルを呼び寄せるとは、己の愚鈍さにはほとほとあきれかえる他無い。

 

 幸い相手は尾行に慣れていないらしく、聞こえる足運びの音からしても警戒に値する強さは持ち合わせていない。ならばこの場で対処を完結させるべきだろう。その目的を知る手段はいくらでもある。

 不可思議なのは複雑な路地をぐるぐる回ったり、意図的に隙を見せて誘ってみても尾行者は全くこちらへ攻めの手を掛ける様子が無かったことだ。いくら尾行が明らかであっても、接触してこなければ対処のしようもない。

 これが相手の策の内だというなら大したものだ。嫌がらせにこれだけの時間を費やすとは執念が無ければ中々できることではない。

 

 聞く者のいない冗談はさておき、くだらない探偵ごっこに付き合っているだけの時間も余裕も今の自分には無い。

 やや口の広がった路地の先は少し開けた場所で、特に身を隠すものも無い。後方の曲がり角にいる尾行者は理解しているか怪しいものだが、ここで尾行は終わりだ。

 

「そろそろ用件を教えていただけないでしょうか。私も夜通し散歩するほど暇ではありませんので」

 

 身を固くした尾行者は一つ深い呼吸をすると観念したように影から姿を現した。

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、うっぐ、はぁあ」

「生き残りましたね。おめでとうございます」

 

 クライム、と名乗った少年と青年のあいだくらいの男。胸鎧(ブレスト・プレート)腰鎧(ウエスト・アーマー)を着けた戦士風の彼は抜剣して、セバスの前でへたり込んでいた。

 恐怖のあまり、硬直した両手で握った剣が地に触れることにすら気を回す余裕は無い。この世のものならぬ殺気を叩きつけられたうえに絶対的な死を覚悟せざるを得ない拳が皮一枚のところを通り過ぎたのだ。忘れていた生命活動を思い出した肉体は遅すぎるアラートを鳴らして心拍数の増加と大量の発汗を行っていた。

 

 あと何度か繰り返せば多少のことでは動じなくなると当たり前のように言い放たれたクライムが思い起こしたのは先ほど死の淵で見たのと同じ、黄金と称される自分の主人だ。王族ではあっても彼女は第三王女という権力から遠い立場であり、ご友人と違って華奢な細腕は武勇に優れるといったこともない。自分は主人に計り知れない恩がある。それこそオーバーではなく人生を拾い上げてもらったと言っていい。であるならばその人生を掛けて尽くすのが筋の通った行動だ。

 

 死を前にして一瞬のうちに駆け巡った記憶は忘れかけていたものまでを鮮烈に掘り起こした。主人に拾われた雨の日のこと、力を求めて剣を手に取ったときのこと、それからの日常であった訓練の日々。それらの記憶に共通していたことは一点、自分の非力さであった。生きるためには強さが足りなかった。胸を張るには強さが足りなかった。主人を護るためには強さが足りていない。才能の無い自分がいくらがむしゃらになったところで進んだ先は袋小路だ。それが分かっていたからこそ死ぬかもしれない修練と聞いても前に一歩踏み出せた。だが肌で感じる死は想像を遥かに越え、どこか騎士然とした行動に酔っていた自覚なき虚勢をあっさりと消し飛ばした。

 

 生きたい。生きて主人の(そば)にいたい。普段からなんとなく享受していたものこそが自分の真に求めていたものだと否応無しに認識させられる。

 強さを欲するのは手段でしかなかった。

 

 そして根源的ともいえる己の行動原理が明確になればこそ、まだ数度繰り返されるのであろうセバスの与える死の恐怖を(くぐ)り生き残ってやるという思いが強くなった。

 いまだ固い身体を心中叱咤して立ちあがり、剣を構える。まだ俺はやれるんだと示すために。

 

 クライムを鋭くもどこか優しさの含まれる目で見ていたセバスは口角をわずかに上げると、半身になって右拳を引いた。

 

 

 

 セバスが繰り出す拳はまだ見えない。それでも腰と肩の回転を見た時点で直感したのは、初手を耐えたからといって気を緩めていたら確実に死ぬ一撃が飛んでくるということだった。

 一度跳び越えた崖を再び同じ幅で跳ばせてくれるほどこの老人は甘くない。

 

「ふぐっ! う、うあ……!」

 

 それでも立っていられたのは大きな進歩だ。目の前に構えた剣のなんと頼りないことだろう。セバスの拳を前にすると薄氷の刃を握っているかのような心境になる。

 

 矢継ぎ早にまたも拳を引いたセバスだったが、すぐにそれを降ろしてしまう。訝しく思ったもののクライムには理由が思い当たらなかった。

 

「やっと来ましたか。クライム君、私の後ろに。あれは私のお客様です」

 

 セバスの見据える先には小回りの利きそうな片手剣を持った3人の男。刃をこちらに突き立てんとする殺気を隠そうともしない連中は荒事に慣れた空気を纏っていた。

 

 刺客。

 

 殺気を気取られている時点で暗殺者としては二流以下であり実際には始末屋とでも評するべきところだが、数にものを言わせて人知れず標的を葬れば死という結果に大した違いはない。

 

「後ろからも2人。1人はお任せしてもよろしいですか?」

「は、はい!」

 

 咄嗟に答えて頭に疑問がよぎる。もう1人を受け持つのがセバスというのは頷ける話だが、そもそも正面の3人をどうするつもりなのか。だいいちクライムの知覚は後方から迫るという2人を認識しておらず影も形も見えなかった。

 つまり速攻で正面突破し、まだ見えない連中の一味に追い付かれた場合は2対2で倒すということだろうと理解する。

 

 だがその作戦はものの5秒で瓦解する。

 

「セ、セバス様! 間に合いません! 正面突破して散りましょう!」

 

 作戦の失敗を告げるクライムの後方には物陰から飛び出してきた男の影が2つ。

 

 距離も正確に把握していたセバスに驚きの色は無い。冷静に正面の3人を見据えながらクライムに指示を出す。

 

「その必要はありません。こちらは任せてくださって結構ですので、あなたはそうですね……右の1人に集中してください。左はこちらで受け持ちますので気にしなくていいですよ。ああ、それと毒が塗られているようですので刃はもちろん飛沫にも一応注意してください」

 

 この突如巻き起こった修羅場においてもなお死を乗り越えろと言わんばかりのオーダー。高くを求められず、正しいかどうかも確かめる(すべ)を持たず戦士と騎士の狭間を戦士にも騎士にもなれず歩んできたクライムにとってセバスから淡々と与えられた壁は眩しかった。

 暴風にも等しい人の抗えない死線を(くぐ)った自分が、この程度の相手に後れを取るわけは無い。それを証明してみせろと言われている気がした。

 熱を感じる。主人を想って胸に(とも)る温かな火とはまるで違う。業火のかけらが飛び火して自分という存在が芯から(おこ)っているかのような、原始的な熱だった。

 

 倒すべき敵を見据えたクライムはもうただの一兵卒ではない。その眼光は鋭く、歴戦の猛者を想起させた。

 

 

 

 肩越しに見るとセバスは足を止めて迎え撃つ構えだ。多少下がってきたとしても問題なく、それでいて(あいだ)に入られて分断されることはないと思われる位置でクライムも足を止める。

 

 刺客は1対多として当然の策、2人同時に襲い掛かった。犠牲になるのは依頼を受けている対象ではないが、たまたま居合わせただけの運の悪い男だ。()るしかなかったとでも言っておけば死体の片付け賃くらいは報酬に色が付くであろう、ラッキーなオマケ程度に考えていた。精々パニックにでもなって無様を晒し、本命のターゲットの気を引いてくれればなおいい。

 

 しかし予想外の反応に刺客2人は数瞬思考が止まる。

 

 戦士風の男は向かって左手から襲いくる暗殺者を全く意に介さず、迷うことなくもう一方へと剣を斬りこんできたのだ。

 

 よっぽど乱戦に慣れた者ならいざ知らず、同時に襲われるとどちらの対処をするかの判断が遅れてそのまま為す(すべ)もなくやられるなんてザラだ。少なくとも反応は遅れるのが普通だ。

 

 一見すると何の変哲もない小僧が何故これ程まで死を前に踏みこめるのか。死に()つ程の忠義の心を持ち合わせていない彼らには永遠に分からない。

 

「ぐっ!」

 

 致命傷とまではいかなかったがクライムの斬撃は刺客の右腕の腱を断つ。取り落とした剣を即座に左手で拾い直したものの所詮利き腕ではない。構えているだけでも持ち慣れていないのが明白だった。腱と一緒に動脈を斬ったのか、みるみるうちに男の足下には結構な大きさの血溜まりができている。

 

 大幅に戦力は削がれた。しかしなおもクライムの双眸は右腕を負傷した男に向いていた。

 

 あれ程に底の見えない強さを持つセバスが任せろと言ったのなら、その敵は存在しないのと同じだ。面識を持って四半時と経たない短時間で命を預けるだけの信頼を寄せることができたのは、クライムもまた武力によって生きていかなければならない人間だったからだ。護身術程度に刀を振るっている安っぽい連中ではこうはいかない。

 

「かあっ!」

 

 刺客はせめて一太刀とやけくそ気味に左手の剣を突き出すが、そんなまぐれで相打ちを進呈するほどクライムの力量は低くない。冷静に合わせた刃が硬質な金属音を立てて凶刃を受け流す。

 滑り切った先には無防備な首があった。刃滑りの勢いのままに横薙ぎ一閃。

 

 致命傷を受けた刺客は首から盛大に赤い噴水を散らしてその場に倒れた。ピクリとも動く気配は無い。

 

「はっ、はっ」

「見事です。素直過ぎるのも考えものですがね」

 

 落ち着き払った自然体の声はすぐ後ろから聞こえてきた。

 

 

 

 セバスが足を止めたのはちょうど正面から包囲網を狭めてくる3人の距離がより近くなる位置。同時に掛かってくるのは明白だったため、相手の踏み出しに合わせてこちらも前方に仕掛ける。

 

 一瞬で詰められた彼我の間合いは剣が十分な威力を発揮できない至近距離、伸ばし切らない腕が互いに届く距離だ。

 通常ここまで接近すれば素手の格闘も打撃の効果は半減するところだが、腹に入った拳打はほとんど無い予備動作から想像もつかない速さと重さを伴っており、刺客はうめき声すら上げず意識を失う。

 

 1人目が倒れるより早く後ろ回し蹴りを繰り出すと同時に、拾った小石を振り返らずに数発後方へ飛ばす。指弾と呼ばれる飛び道具であり動作が少ないことが利点の一つだ。硬質な金属音とやや鈍い音が合わせて(つぶて)と同じ数だけ聞こえた。

 

 腹を殴られた者と靴先が掠めてヒットした顎から確実な振動を脳に受けた者はほぼ同時に倒れ伏した。

 状況を理解する暇も与えられない3人目は目の前にいたはずのターゲットを見失い、あたりを見渡す間も無く他の2人の後を追うように倒れた。

 

 男の背後には手刀で意識を瞬時に奪い去った涼しい顔のセバス。その視線は手傷を負った刺客とクライムが再びぶつかる様子に向けられており、クライムがもう一方の刺客を同時に捌き切るだけの力量は無いことも見抜いていた。

 

 背後関係が明らかではない以上、クライムという名しか知らない彼に何かあってはさらに事態をややこしいことにしかねない。ナザリックにおける自分の現状からしてそれは致命的なキズになる。

 勢い余って殺さないように、乱れてもいない呼吸を一応整え、抑えていた力のリミッターを少しだけ緩和する。実際になんらかの拘束があるのではなくあくまで気分の問題なのだが、抑えることをこまめに意識しなければ焦りの心が過剰な力を込めてしまいかねない。そうなればこの路地裏はかつて人間だったものがあちこちを赤黒く染めあげ、()せ返る程の生々しい鉄さびた臭気に包まれてしまうだろう。

 距離を詰めるために踏み込んだ速さは俗に英雄などと呼ばれる者たちを軽く凌駕していたが、目撃した者はいなかった。

 

 

 

 掛けられた声に振り返ったクライムの前にはある意味予想通りの光景が広がっていた。奥の3人と自分に襲い掛かってきていたはずの一人。刺客のことごとくが倒れ、沈黙している。眼前には汗が浮かぶことすらないセバスがおり、下ろしたてと見紛う白手袋を着けた手で拍手をしていた。

 

「訓練は役に立ちましたか?」

「それはもう。昨日までの私であれば不覚をとっていたかも知れません」

 

 謙遜ではなく本心からそう思う。だがいまは自分の成長の喜びを傍に置いておいてもますますセバスへの興味が尽きなかった。

 

 凄まじいまでの実力者だとは薄々感じていたが、あの数瞬で刺客3人を無力化してさらにはクライムも気付かない程の静かさでもう1人を沈める。

 果たしてこの王国広しといえど同じことのできる人物がどれだけいるだろうか。可能性があるとするなら主人とリーダーが友人であり、その関係でクライムもよく顔を合わせることのある『蒼の薔薇』だ。王国でも最近増えた1組を足してわずかに3組しかいないアダマンタイト級冒険者チームの1つであり、女性だけで構成された5人組は個々で見てもその能力は決して低くない。

 

 だがやはりというべきか、蒼の薔薇の真骨頂はそれぞれの特性をよく理解して組まれた作戦と、それを阿吽の呼吸でこなすチームワークなのだ。

 単独の強さにおいてはセバスに勝る人物を少なくともクライムは知らない。

 そもそも蒼の薔薇が本気で戦うところを見たこともないのに、その足下にも及ばないであろう自分があれこれ比べるのは失礼極まりない。そこで考えを打ち切り、セバスの事情も必要以上に深く尋ねることはしなかった。

 

 気を失っていた刺客の一人に活を入れると、依頼主の名や所在、セバスの命を狙うよう依頼されたこと細かな経緯までもを男は絞り出すように語る。

 

 <傀儡掌(くぐつしょう)>という特殊技術(スキル)であり、これを受けたものは一時的にではあるが肉体も精神も存在すべてが文字通り術者の操り人形となる。初めて目にする技を前にクライムは呆気に取られていたが、刺客が次から次へと情報を吐き出すにつれてその表情には(かげ)りが出てくる。

 

 話を聞き終えたクライムの胸中には純粋な義憤。そして主人の働きを踏みにじるに等しい犯罪を成す者たちへの明確な怒りがあった。

 

「なんということだ……」

「刺客がしくじったのを知ればもっと面倒なことになりそうなのでこれから私は直接乗り込みます。クライム君は帰りなさい」

「そういうわけには参りません。セバス様には遥かに力及ばずとも協力させてください。私の主人もきっとそう言うはずです」

 

 揺るぎない信念がこのクライムにもある。悲しいかなそれをどこでも誰にでも押し通すには弱過ぎるが、本人はそれを認めたうえで開き直っているのだから始末が悪い。

 

 セバスは髭を軽く扱きながら考える。これはチャンスだ。相手が強引な手段に出たのなら直接叩き潰したところでそれなりの言い訳は立つ。クライムから聞いた話では王女自らが奴隷解放命令を布令している。ツアレの例を見る限りでは実効を上げているとは思いにくいが、裏稼業の商売人は表立った無茶はし辛いはずだ。だからこそ闇に乗じて刺客を送り込んできた。

 

 相手の懐へ飛びこもうというのだ。刺客を撃退するのとは勝手が全く違う。非合法な娼館だとすると捜査の手が入ったときの脱出路がある可能性は高く、それなりの暴力も常備しているだろう。死線を(くぐ)って精神的に一段も二段も上のステージに上がったとしても、所詮は実戦経験の乏しい若造の剣。室内での乱戦となればそれなりのリスクを伴う。

 

 軽々しく暗殺という手段に出る相手だ。自分たちの拠点に踏みこんできた者を殺すのに躊躇(ためら)いがあるとは思えないし、下手に捕まれば拷問を受けることも大いに考えられる。

 

 かといってここで万一にでも敵を取り逃せばいよいよもって事態の収拾は難しくなる。戦力としての期待はしていないが脱出口を塞ぐための手数が欲しいのは実際のところだった。

 王家や大貴族の屋敷ならまだしも、言ってしまえば非合法なだけの娼館に抜け道が4つも5つも作られているとは思いにくい。隠し通路というものは建物の構造に違和感が出ては台無しになる。そのため多くの通路を作るためには土台作りの時点から計画的に作らなければならないのだ。

 あとから無理矢理作れないこともないが強度などを考えると精々1つだろう。

 

 この短い時間でもクライムがやすやすと手を引くつもりがないことは分かった。それだけ本心からの行動なのだろうが、見かけによらず頑固な男だ。

 

「分かりました。貴方が命を懸ける場所ではないと思いますが、それを決めるのは私ではありません」

「では」

「行きましょう。時が過ぎれば機を逸します」

 

 調査のため市街の地図は頭にしっかり入っている。迷いは無いがやや()いた足取りで敵地へと向かうセバスと、それを追うクライム。命の遣り取りをした震えは収まっていた。

 

 

 

 問題の娼館の裏口近くにクライムは息を潜めて突入の時を待っていた。建物を観察したところ出入口は正面と裏口の2つ。

 セバスは正面に回り、こちらはあらかじめ決めておいた時間を目安に裏口から突入する手筈だ。

 

 自分の役割はここから応援を外に呼びに行かせないこと。強襲は騒ぎが大きくなればなるほど逃走を容易にしてしまう。

 道中聞いた話ではどう考えてもセバスと娼館に深い因縁は無い。ろくに知らない相手にちょっかいを掛けてきたのは中途半端な貴族や商人程度では(あらが)(すべ)など無いと知っているから。調べるのが後先になっても大丈夫だとほぼ確信できるほどに似たような手口を実行してきたからだ。

 表沙汰にならず葬られた人々がいったいどれだけいるのだろう。不意に覗きこむ羽目になった闇の深淵にかすかな目眩(めまい)を感じる。

 

 娼館を潰したとしても、それは一時的なものでしかない。またほとぼりが冷めた頃にひっそりと悪行を繰り返す。黒幕をどうにかしなければ、根本的な解決は不可能なのだ。裏の世界の人間に自浄作用など望むべくもない。

 今夜はクライムにとってもチャンスだった。かつて剣を初めて手にした子供のときとは違い、自分独りの力では主人の意を実現することはできない現実を理解している。だが今夜は違う。自分には測ることすらできない実力を持ち、敵陣営に犯罪組織である八本指の中でも全員がアダマンタイト級冒険者に匹敵すると言われる六腕のうちの1人サキュロントがいるにもかかわらず平然と潰すと言ってのけるセバスがいる。利用するようで多少気が引けるが、彼がいれば悪の拠点を叩くことに何の問題も無いと思えた。

 折角の布令が目に見えた結果を上げていないことに主人がため息をついていたこともある。それを少しでも晴れやかなものにできるとしたら、命を懸けるには充分過ぎる理由だった。多少込み入った話なのでセバスには言っていないが。

 

 セバスの<傀儡掌(くぐつしょう)>によって通常なら対応が遅れる大きな原因になる情報収集が瞬時に終わった。

 標的の実力も測らずに刺客を放つとは杜撰な計画と言わざるを得ない。しかしそのお蔭で直接の報告を待つ依頼者が娼館にいるところを襲撃できる一石二鳥の状況が生まれたのだから、こちらとしては好都合だった。

 

 

 

 そろそろ時間だ。刺客から聞き出した関係者の符丁。金属の扉を4回ノックする。扉の奥からは数人の話し声が薄っすら聞こえ、しばらくすると足音が近付いてくる。あまりにもあっさりと裏口の鍵は開放された。一瞬の()を空けてクライムは扉を勢いよく引き開ける。恐らく鍵を開けた本人であろう大柄な男は不意を突かれる形になり、クライムの大上段から放たれた渾身の一撃を食らって意識を飛ばす。1人目、戦闘不能。

 

 通路の奥にはまだ2人ガラの悪そうな男たちがいた。鍵を開けにいった男が地に倒れたことで異常を察知、即座に腰のショートソードを抜き放った。このあたりは流石というべきか、暴力を使うことに躊躇いが無い。クライムの持つバスタードソードと比べて軽く短い剣は一見すると不利だが、軽さはすなわち取り回しのしやすさであり、障害物の多い室内での戦闘には向いている。 

 

 足下に崩れた男を跨いで中へ。

 

「なんだてめぇ!」

 

 見た目通りに品の無い怒声を浴びせながら、手前の男が振りかざした得物で斬りかかる。洗練とは程遠い荒っぽい太刀筋であり、クライムにとっては避けるも受けるも自由に選べる。言ってしまえば稚拙な攻撃だった。しかし先と同じような緊張感をクライムは感じていた。

 

 これは稽古ではない。相手の剣は刃を潰してもいないし、殺意は本物だ。

 稽古ならば多少エキサイティングしてしまって骨が折れたとしても誰かしらの手当ては受けられるし、今朝修練場で稽古をつけてもらった王国戦士長ガゼフ・ストロノーフに至っては気前のいいことに決して安くはない治癒のポーションを1本もらった。

 もっともクライムがほぼ一方的にやられた挙句に蹴りを受けた肋骨(あばら)のダメージが大きかったので、戦士長なりの落とし前だったのかも知れない。

 

 一度(ひとたび)倒れればそのままトドメを刺される。掛け値無しの修羅場へと踏み入れたのだ。

 

「はっ!」

 

 ギリギリのところで(はじ)く。剣の重量に救われた。力の向きは合っていなかったが、押し込まれて頭を割られるということも無かった。これで相手の方が膂力や剣の重量があればあわや致命傷である。

 腰の入っていない体勢で受けたためによろめき、片膝をついた。すぐに立ち上がったものの、眼前の荒くれ者2人の表情には明らかな嘲笑が浮かんでいた。

 

 商売敵の鉄砲玉かとも思ったがそれにしてはあまりに普通過ぎる男。少年と青年のあいだくらいの歳はいかにも周りに踊らされやすく自分に酔いやすい年頃ではないか。これが貴族や商人のボンボンで色香に誘われてちょっと大人のワルい世界を覗きにきたというなら、つまるところ金持ちの客ならこちらとしても揉み手で対応するところだ。精々現金を吐き出させて、いよいよ窮すれば借金漬けにして骨までしゃぶり尽くすだけのいいカモなのだから。

 ところがこの男が出したのは同じ金属でもバスタードソード。それも叩き売っても二束三文の、武器屋で樽に突っ込まれて一律いくらで売っているような鉄クズ同然のゴミだ。

 同僚がどうなろうが知ったことではないが、易々と侵入を許したというのは一応ここの番を預かっている雇われの身としてはうまくない。

 捕らえたところで金も欲も満たされないであろう侵入者に対して湧き上がってきたのはせめて甚振(いたぶ)って無様を晒させてから仕留めることで溜飲を下げようという、裏の住人としては大して珍しくもない歪んだ思考だった。

 

「へへ、腰が入ってねぇなあ」

「ぶあっはっは! 確かにここなら腰は鍛えられるがよ!」

 

 クライムを迎え撃つ2人は珍しく意見と息が合った。

 軽口を叩きながらも左右に広がり、狭い室内とはいえ2方向からの攻撃を仕掛ける構えだ。

 

 これに対してクライムは無造作に正面の男に距離を詰め、面食らった男は反射的に剣を振り下ろす。

 さっきの男と違って正面の男はクライムよりふた回りは大きな体格で、隆々とした両腕はパワーでは完全に敵わないと確信するのに充分だった。

 

 それは向こうも同じらしく、無造作に振った剣の軌道は手癖で放っただけであり何の虚実も無い。

 剣筋を読むのは造作もないことだった。

 

「<要塞(フォートレス)>!」

 

 頭上に掲げたクライムの剣と男の剣が交差する。本来なら力負けしてしまうはずがオリハルコンの塊を叩いたように男の剣は硬質な音とともに容易く弾き返される。

 バランスを崩した男の隙を見逃さず逆袈裟に斬り上げると()ねた血が壁と天井に前衛的なサインを描いた。

 

「ぐふぁっ!」

 

 安っぽい皮胸当(レザーブレスト)ごと斬り裂かれた跡には大きな裂傷。これ以上確認の必要無しと判断したクライムが小柄な男の方を向いたと同時に大柄な男がどう、と倒れた音がした。

 

 小柄な男はしばし唖然としていたがすぐにクライムが斬りつけてこないことに気付くと下卑た笑いを浮かべて口を開いた。

 

「や、やるじゃねえか。何がの、望みだ?」

 

 馬鹿正直に「時間稼ぎだ」とは言えない。クライムの沈黙を旗色悪しと誤解した男はにちゃりとした笑みを浮かべて探りを入れる。

 

「女か? それなら選り取りみどりだぜ」

「武器を捨てて投降しろ」

「わ、分かったよ。アンタにゃ敵わねえだろうしな。若いのに大したもんだ。へへっ」

 

 投げ捨てた剣は床を2、3度跳ねてすぐには拾えない程度の距離に落ち着いた。仮に拾いに行ってもクライムの剣の方が早い。

 

 そしてクライムに自分を殺す気がなさそうだと見た男は頼んでもいないことをぺらぺらと垂れ流し始める。

 

「なぁに、いきなりカチ込んできたってことはここがどういうところか知ってるんだろ? どこの誰に(そそのか)されたのかは知らねーけど、アンタは結局鉄砲玉さ。そんな貧乏クジ引かされてていいのかい? どうだい、いまならこいつら2人が裏切って通報しようとしたのをお客さんが解決してくれたって雇い主に言ってもいいんですぜ。あわよくば謝礼扱いにタダでお楽しみいただけるかも……」

 

 客引きトークに没入していた男は思わず声を潜めた。自分に向けられたクライムの目に烈火のごとき怒りが渦巻いていたからだ。握った左拳は震え、いまにも斬りかかってこんばかりの形相だった。

 

「少し、黙っていろ……」

 

 男の言葉は神経を逆撫でした。クライムがここにきた理由は本心からの個人的な義憤と同じくらい、この場所でラナーの慈愛に満ちた働きに反する所業が行われているのを見過ごせない気持ちが強かった。

 かつてラナーに拾われる前は、スラムの路地で明日をも知れぬ生活をしていた。子供が自力で生き抜くのは決して容易いことではなく、そういった非合法な取引が行われる現場をクライム自身何度か目にしたことがある。当時はそれが日常の世界だったし、力も考えも持たない痩せたガキにできたのは下手に危険なことに関わらないで身を守るくらいだ。

 

 いまは違う。目の前の小悪党程度なら討つ力があり、考える頭がある。

 

 何よりも決して叶うことはないであろう儚い願望(ゆめ)のために、主人の(そば)に立つのに恥じない自分になるために。

 

 平和な未来をラナーが想い、それを描く筆の1本になれるならばこれ以上のことはない。

 

 クライムの青く熱い心情など知る由もない小柄な男は取りつく島もない反応にやれやれと両手の平を天井に向け、わざとらしくガックリうなだれた。

 

「身持ちが固えんだなぁ。いや、サイフの紐か……? よっとぉ!」

「なに!? ぐっ!」

 

 飛びかかってきた男を咄嗟に腕で打ち払おうとするが、不意を突かれたのに加えて相手はクライムのどの部位を狙うか虎視眈眈と隙を(うかが)っていた。

 左腕に鋭い痛みを感じ、小柄な男を見るとその手には隠し持っていたのであろうナイフが握られている。

 

「へへ、頭も固かったみてぇだな……あ?」

「はあっ!」

 

 次に虚を突かれたのはざまあみろと余裕の笑みを浮かべた小柄な男の方だった。実戦慣れしていない雰囲気のクライムが斬られて血を流せば日和(ひよ)るだろうと踏んでいたのだが、それが通用したのは今日の夕方までだ。

 すでに死線を(くぐ)る感覚を知っているクライムは、道の遠く先に自分の死が見えた程度では止まらない。

 

 敬愛する主人の思いに2度も唾を吐いた男に手加減の必要は無い。蒼の薔薇のガガーランから受けたアドバイスを元にして磨いた、大上段からの渾身の斬撃を目の前の悪に叩き込む。到底ナイフで受け切れるものではない。

 肩口から入った剣が鎖骨を割り、第2肋骨を破壊して止まる。痛みと衝撃で白目を剥いた小柄な男は苦悶の声を漏らすこともなく崩れ落ちる。

 

「はあっ、はあっ」

 

 手傷を負っても前に出て攻められたのは、セバスの稽古のお陰で自分が何のために戦うべきなのかを強く再認識できたからだ。剣の実力で勝るといっても、経験や引き出しの差があれば確実に勝てるとは断言できない。特に正々堂々の決闘でもなく、こちらを陥れるためにどんな手を使ってくるか分からない者が相手ならなおさらだ。クライムが選択した手は自分にできる最速の一撃を打つことであり、それはまだクライムへの侮りがあった小柄な男に対して実に有効だった。

 

 しかし何もかもが都合良くいくとは限らない。

 

 いまも血の滴る左腕と左脇腹に与えられた感覚。それが痛みだと認識するよりも早く、吹っ飛ばされたクライムは勢いのまま机に激突する。衝撃に耐えられなかった机の脚が2本へし折れてもろともに床に転がった。

 

「う……ぐ、げほっ……!」

 

 何が起こったのかを把握するためにうつ伏せになっていた身体を右腕だけでなんとかひっくり返すと、そこには突入時に斬ったはずの大柄な男が憤怒の形相を浮かべて立っていた。壁についた手は向こうも軽傷ではないことを思わせ、右手には何の意匠もない安っぽそうな木製の棍棒が握られている。

 安っぽいといっても棍棒は振るう者の腕力次第で充分な威力を発揮する立派な鈍器だ。さっきはあれで横っ腹を殴られたのだろう。

 

 疼くような痛みがやっと意識に届いて、肋骨(あばら)が数本やられかけているのが分かった。道場の稽古も当たりが激しいときには骨折することもあり、クライム自身手(ほど)きを受けた頃からいったい何度やったか覚えていない。それでも慣れる類いの感覚ではなかった。

 

 表情が歪みそうになるのを必死に食いしばる。弱みを見せてもいいことは何もない。

 

「やってくれたなぁ……。楽には殺さねえぞ」

 

 確かに向こうにすれば平穏な日常がたちまち命を懸けた戦場になったのだから文句の1つも言いたくなるだろうが、悪に(くみ)する自分たちを棚に上げてよく言えたものだ。いや、自覚すらないのだ。

 それがひどくアンバランスで滑稽なものに思えた。

 

「ふん!」

 

 予測される軌道は縦の振り下ろし。クライムのすぐ後ろは壁だがお構いなしだ。

 

「くっ!」

 

 万全の状態なら躱すのもわけはない平凡な攻撃だが、痛打を食らった直後では(ろく)な回避行動もとれない。なんとかまだ上がる左腕を添えて受けた衝撃を流そうとするも、実質片手ではいかんせん力の総量が足りない。辛うじて破綻しないのは無意識でも動けるくらいに積んできた修練の賜物(たまもの)だが、じわじわと追い詰められる今の状況ではむしろ残酷さを増すばかりであった。

 

 そしてついに決定的な一撃が放たれる。

 

 

 

 このままではジリ貧になることは目に見えていた。時間が流れれば流れるほどに血を失い勝機を失う。時間制限付きの状況でクライムは決断を迫られていた。左腕を捨ててでも前に出なければならない。問題はタイミングだ。

 

 もう武技は使えない。防御で耐えながら注意深く観察していると、大柄な男は今までよりも浅く振りかぶった。

 

(ここだ! 次は打撃が少し弱いはず……っ!?)

 

 読みは外れた。相手が右肩に担いだ棍棒は半円を描いて横からクライムに襲いかかった。縦の動きに慣らされた感覚は突然の横の動きに対応できない。もはや型も何もなく、ただ反射的に身を守るために右腕を左へ振る。

 

 鈍い音とともに巻き添えを食った建物の壁はすでにボロボロだ。

 

 棍棒を剣の腹で受け止めて衝撃を軽減できたのはたまたま、運が良かっただけだ。

 

「ぐ……あ……」

 

 どさりとその場に倒れるクライム。

 侵入者の右頬へ叩きこんだ拳を握り締めたまま、大柄な男はクライムの上に馬乗りになり棍棒を無造作に投げ捨てる。目を慣れさせてからの縦横の切り替えと、武器を持っている者は武器で攻撃してくるという先入観を利用した精神的死角からの一撃。実戦の経験値は大柄な男に一日の長があった。

 

「へっ、どこの飼い犬か知らねえが躾がなってねえ、な……っと!」

「がっ!」

 

 (いささ)かの躊躇(ためら)いもなく振るわれた(こぶし)が顔面に叩きつけられる。しかもご丁寧に床で後頭部を強打しないように左右からフックのオンパレード。体格で劣る相手を跳ね返せる余力も無いクライムは、辛うじて動く右腕で申し訳程度のガードをするしかなかった。

 素手の拳を片腕で防御しきることなど天と地ほどの実力差がなければできはしないし、そもそもそれならこんな不利な状況にはなっていない。

 

 弱々しいガードを弾き飛ばしてパンチはあっさりとクライムの顔面を捉える。弾かれた勢いでぶつけた指先を少し斬ったが、殴られている痛みに比べたら大したものではない。

 

「クソが! お前のせいで仕事が増えたじゃねえか!」

「ぐうっ」

 

 数分の間にクライムが受けた殴打は優に30発を超え、腫れで視界はほとんど塞がっていた。喉の奥に流れ込んでくる粘性を持った血が絡み、すぐに殴られるため口での呼吸も満足には行えなかった。

 朦朧とする意識の中で不思議な既視感がある。ものすごく昔のことのようにも思ったが、そのときの感覚が何だったかを思い起こすために、ぼやけているイメージをより強く頭の中で具現化する。

 

 最初にあったのは恐怖だった。全身の神経に針を打ちこまれて微動だにすることが許されない。あるいは獰猛な大型のモンスター、たとえば話に聞いたことがあるギガントバジリスクの鋭い牙を喉元に押し付けられているような(あらが)いがたい圧倒的な暴力が衝撃的に自分を貫いていく。

 永遠にも感じられた一瞬を越えた先にいたのは悠然と佇む1人の老紳士だった。

 

 年老いてという部分もたっぷりと蓄えられた白髭と白髪の部分くらいのもので、すらりと伸びた立ち姿は1本の大樹のようにむしろ生命力に溢れて見えた。名をセバスと名乗った彼はクライムに質朴な称賛を送り、その感覚を忘れないようにと言った。

 

 それは死。誰もが逃れること叶わず多くの者が遠ざけたがる冥府の(いざな)いがすぐそこまで迫っている。

 

 今朝までは実戦に立つことがあるかも怪しい剣を主人のためにと幻の敵に振り抜いていた。それが今日というこれまでの鍛錬の日々からすればほんのわずかな時間のうちに既に2度も死線を(くぐ)っているとは何の冗談だと笑えてくる。しかもそれらはセバスが忠告した通り主人に大きく寄与する正念場かというとそんなことはない。だが、いや、だからこそ冷静に決意する。3度目も無事に潜り抜け、必ず主人のもとへ戻ると。

 

 これが正真正銘最後のチャンスだ。自らの溜飲を下げるために手加減していた大柄な男も、クライムにわずかでも反撃の余力があると知れば迷わずとどめを刺しにくるだろう。

 

 傷を負い、スタミナの切れてきた大柄な男の攻撃の手は明らかにペースダウンしていた。初撃のことを思えばパンチの一発一発にも威力が無い。

 

 こちらを殴ろうとする動きと音に紛れて、クライムは右手の感覚を頼りに準備をする。4、50発は殴られる覚悟だったが30発殴られた時点で間に合ったのは僥倖だ。

 

 拳が飛んでくるタイミングに合わせて、クライムは崩れ剥がれた土壁の欠片を親指で弾き飛ばす。

 放物線を描いた先は大柄な男の真上。着弾はちょうどクライムの顔面にフックがミートした直後だ。

 

「あ?」

 

 頭上に異物を感じた男の意識もまた、上に向く。

 

 クライムは掛け値無しの全力で大柄な男の喉元目掛けて右手を振り抜いた。その手には小柄な男の持っていたショートソードが握られていた。

 

「ゔっ、がっ、ぅおごおお!」

 

 火事場の馬鹿力とよく言うが、間違いなく命のかかった土壇場に振るわれた瞬間的な力はあのガゼフ・ストロノーフにすら迫るものだった。

 

 赤い噴水を撒き散らしながら痙攣した大柄な男は水勢と反比例して動きが緩慢になり、ほどなくクライムに覆い被さるようにして倒れ、動かなくなった。

 

 受けたダメージが深いためかそこまで痛みは感じなかったが、やはり左腕はピクリとも動く気配を見せない。

 

「くっ……! ぐ……!」

 

 もはや傷を直視する気も起きないが、胴の傷と合わせてそれなりに出血はしているはずだ。かろうじてまだ動けるあいだに大柄な男の下から脱出する。

 

 血を浴びて(ぬめ)る右手の感覚を頼りに腰のポーチから慎重に抜き出したのは、青い液体の入ったポーション瓶だ。自前で持っていたものは見知らぬ少年の治療に使ってしまったが、これは朝の稽古のあとガゼフに譲られたものだ。

 まず傷が深そうな左腕全体に、そして突かれた脇腹へと中身を振りかける。顔の上に瓶を持っていったあたりで(から)になり、視界が狭くなるくらい腫れた顔面を主人にどう説明しようかと自分の浅はかさを後悔した。

 

 ポーションを使用しても充分な効果の発揮には時間差がある。満足に動けない状態のクライムにできることは周囲の観察だけだった。

 3人と戦っているあいだ、決して静かではなかったが増援が現れる様子はいまも無い。それに男たちは悪態をついたり強い語調で威圧はしても助けを呼ぼうとはしなかった。

 つまり踏み入られた時点で連中にとって人を呼べないほどまずい事態だったのか、助けに来そうな仲間がいなかったかのどちらか。あるいはその両方だ。見張りの交代も何も来ないのを見るに後者の可能性は高い。

 

 視界から得る情報が少なくなっているため、普段よりも感覚が鋭敏になった耳がその音を拾ったのは偶然だった。

 

 パラパラと乾いた砂粒が落ちるような音に周囲を見回すと、さっき大柄な男が殴った衝撃で剥がれた壁の一部が細かい粉末状になり、床に舞い落ちていた。どうやら背を預けた振動が後押しになったらしい。

 問題なのは壁ではなく、床の一画だ。

 

 部屋の隅の一箇所だけ欠片が落ちたときの音に妙な残響があったのだ。這いずっていく前に手元の欠片を指で弾き飛ばして音の違いを確認する。やはりその場所だけ反響を伴った音が返ってきた。

 

 退路を塞ぐためには時間の猶予はそう多くないはずだ。地上階を商売に使っているとしたら露見するリスクが高く、いざというときに逃走が難しい。本命の地下室はどの程度の広さなのかは分からないが、セバスがてこずる光景は全く想像すらできなかった。

 だとしたら追われたネズミが穴から出てくるのは時間の問題だ。

 

 部屋全てを調べまわれる機動力が回復するまで待っている訳にはいかない。これは一つの賭けだが、申し訳程度に感覚の戻ってきた四肢に力を込めてなんとか立ち上がると、クライムは剣を杖代わりにおぼつかない足取りで部屋の角へと向かう。

 剣先で軽くつつくと確かに板一枚の向こうはなんらかの空間があるのが分かった。

 

 地下との出入り口は建造物自体が大きく広い敷地を持つ城などならまだしも、個人所有の土地が屋敷一軒単位で混在する市街地においては縦横無尽に張りめぐらせることが困難だ。それに無闇に出入り口を増やすことは警備上の問題を必ず伴う。それなら3人の人員を割いていたこの場所こそが地下への入り口に違いなかった。

 後は念のために地下への階段で間違いないかを確認して、下からここを抜けられないようにするだけだ。

 

 腰を下ろして剣を置き、床に指を這わせて小さな取っ掛かりを発見する。剣の先を差し入れて()じると、クライムの無骨な指が入るくらいの隙間が容易く空いた。

 片腕だけでの作業は決して楽なものではなかったが、いまは弱音を吐いてはいられない。自分のやるべきことを果たすという使命感がクライムを突き動かしていた。

 わずかに(きし)蝶番(ちょうつがい)の音とともに床板の一枚が開いていく。

 

「ぐっ」

 

 上半身を突き押されたのに近い衝撃。いまだ感覚の鈍い左半身からじわりとした熱を感じる。目の前の起こした床板の裏には設置された固定式のクロスボウ。逆さまになっても()てるように改造された弓床にはクォレルなどと呼ばれる短く太い矢はセットされていない。台座と垂直に交差する弓弦は凶器がすでに発射されたことを示している。

 どこか現実味の無い光景。クロスボウの向きから予想される軌跡を追うまでもなく、矢はクライムの左肩に深々と突き刺さっていた。




2018/11/8 行間を調整しました。
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