オーバーロード 粘体の軍師   作:戯画

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~前回のあらすじ~
クライム満身創痍。


第47話 月光の下で

 屋敷の中は常人が想像だにしないであろう光景が広がっていた。金属製の扉は蝶番とドアノブが破壊され、ひしゃげた状態になって無造作に打ち捨てられている。床に倒れている男の心臓はもはや新しく血液を送り出す動作を完全に停止していた。頭を文字通り失い、もげた首から流出する血液は底を突き黒く変色しつつある。

 一足踏みこめば、中から漂ってくるむせ返るような死と血の入り混じった悪臭が1人や2人のものではないことを誰もが直感的に理解するだろう。

 さらに奥に進めば、壁にトマトを投げつけたアートが1つ。トマトにあたるものが何だったのかは床に転がる2つ3つの肉塊が教えてくれる。

 

 これだけの惨劇がいったいどのようにして行われたのか、答える者はいない。この場には生きて動くものは誰一人としていなかった。室内を生きた絵の具で真っ赤に塗り潰した前衛芸術家もまた、姿を消していた。

 

 入り口からでは分からない位置にある奥の部屋にはレーンがひん曲がって本体がバラバラになったクロスボウの残骸が転がっており、その横にある地下への階段の奥からは冷ややかな空気と、やはり血の臭いが漂っていた。

 

 

 

 正義とは何だ。悪を打ち砕かんとするならば、その道程で見掛けた弱者は大事の前の小事として見て見ぬふりをするのか。

 

 否。少なくともセバスの信ずる正義ではない。創造者であるたっち・みーの信念は金言となってセバスの心を叩いた。

 もっと早く。もっと強く。もっと救え。もっと。もっと。

 

 呪いなのかと思ってしまうほどに、まるでそうしなければ自分が自分でいられないかのように。望んでしていることのはずが、まるで見えない糸に引かれている錯覚を伴って自分をがんじがらめにする。

 

 1階の用心棒らしき連中を早々に片付けて、セバスは地下を進んでいた。途中見掛けた部屋には女たちが監禁同然に囚われていたため、ゴミ掃除のついでに拘束を解いて回ることにした。

 数日前にはツアレもこの中の1人であり、彼女たちを助けることは決して自分がツアレを特別視しているのではないという証左にもなるからだ。

 実際そのように判断されるかどうかは置いておいて、助けるのに大層な手間がかかるわけでもない女たちを放置しておく理由は無かった。

 ある者は怯え、ある者は泣き叫び、ある者は許しを乞う言葉を発した。彼女たちからすればこの老紳士が娼館の客であるという考えに行き着くのは至極当たり前な筋道であって、自分を(さいな)む恐怖の対象でしかない。その反応だけでもこの地下室で眉をひそめる行為が行われていたと察するには充分だった。

 

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

 表情を硬くしたセバスを見て機嫌を損ねたと勘違いした女がさらに取り乱す。耳障りな金属音は両手足にはめられた枷同士がぶつかる音、そして逃げられないように彼女たちを繋いだ鎖と壁の擦れ合う音だ。

 身動きができないほどではなく、かといって不自由さを忘れることがない程度の拘束。とらわれた人間の心理を深く理解していなければできない絶妙なバランス取りは、ここの運営組織が誘拐や監禁の相当な実績を積んできたのであろうことを思わせた。

 

 古今東西人身売買は気候や人種を問わず商われるビジネスだ。時代や国によっては奴隷の所有は合法という場合もある。だがそれらは奴隷たちの人権を無視してよいということではなく、むしろ怪我や病気にならないように所有者が管理責任を負うことが少なくない。資産の一部であるためぞんざいに扱われることも無く、どちらかというと使用人のイメージに近い。

 

 ただ、明るみに出ないだけで世間一般が抱くイメージ通りの奴隷は存在する。人としての最低限の尊厳や権利を不条理に奪われた消耗品。男ならば過酷な環境で労働力としての一生を過ごすか、若く顔立ちが整っていれば男娼だ。女ならばどうなるか。その行く先のひとつが目の前の光景だ。

 

 腹の底から湧き上がる不快感を顔に出さないよう注意しながら接近すると女はなお一層悲壮な表情を浮かべる。

 

 地上の臭気は女たちのとらわれている地下室までは流れてこない。地下の見張りはこの部屋に入る前にうめき声のひとつをあげることもなく掃除されているため女たちがセバスを恐れるのは誤解でしかないのだが、言葉で訂正したとしてもとても信じてもらえそうな様子ではない。

 

「非常事態ですので、失礼致します」

 

 気付けば手の届く距離まで接近していた。身を守るように合わせて上げていた女の両腕。その手枷を掴んでいくばくかの力を加えると紙細工であったかのように施錠機構の部分が引きちぎれ、支えを失った手枷は鎖ともろともに床に落ちる。

 何が起こったのか分からない女は不意に軽くなった腕を不思議に思って瞑っていた目を恐る恐る開ける。同時に足下からも金属音と違和感すら覚える解放感。少し足を動かすといつも鎖に止められるところを軽々と越えてしまい、バランスを崩す。

 

「お気を付けください。まだ感覚が戻っておられないでしょう」

 

 危うく転びそうになったところを素早く、しかし優しく支える。執事として創造されたセバスにとって、脆いものを壊さず素早く取り扱うのは生来持ち合わせた基本能力の1つといってもいい。優れた執事は『何かができる』のではなく『何でもできなければならない』のだ。

 

 しかしながらあまり時間は掛けられない。本命を逃しては何のために踏みこんだのか分からなくなる。

 他の女たちの拘束具もあっという()に破壊して、脱出のルートを一考する。セバスがやってきた方向を戻るとすると内臓破裂や首の骨の折れた見張りたちの死体はまだしも、地上階は立ちこめる生々しい血の臭いに加えてあちこちに赤い華が咲き乱れている。

 

(……この方たちには少々刺激が強過ぎるかも知れませんね)

 

 助かったと安心したところに強烈な死を突きつけられると、引っ張られて精神が死んでしまう者も中にはいる。特に見たところ武芸者でもなさそうな目の前の女たちは危うい。そういう意味ではまだ彼女らは死に囲われている状況に変わりない。

 

 結論はすぐに出た。逆をいえばセバスが通ってきた道中には伏兵の気配は皆無だった。それなら女たちは一旦このままにしておき奥まで進めばいい。裏口があって回りこんだクライムと合流できたらそこから逃せばよいし、仮に裏口が無ければクライムも程なくセバスの後を追ってくるだろう。そのときは袋の鼠を仕留めた後に女たちの目を覆うなりして正面から出ていけばいい。

 

 助けを求めていいのかこれすらも罠なのか判断し切れずにいる女たちにセバスは指を1本立てるジェスチャーをして騒がないよう伝える。まだ危険な状況だと思わせておいた方がいい。なまじ希望の光が見えたらつい走り出してしまうのが人間というものだ。

 

「ご説明が遅くなりましたが、助けに参りました。ですがまだ片は付いておりません。下手に騒いで増援を呼び寄せられると困りますので、どうかもうしばらくここでお静かに願います。よろしいですね」

 

 あくまで女たちは偶然のついでなのだが、わざわざ突き放した言い方をする必要もない。ひそひそ声ではあったが最後の念押しに有無を言わさぬ重みを感じて、女たちは誰からともなしにカクカクと首を縦に振った。

 

 地下に作られた各部屋はそれぞれ出入口が1つしかない。だが一見すると一本道の通路にも部屋と部屋の隙間を縫って移動するための隠し通路があった。いわば従業員用のバックヤードも兼ねている。これを通って地上に繋がる階段のある部屋へ這いでてきた男は自分の側に立つ細身の男へぶつくさと文句を垂れ流していた。

 

「全く、どこの誰だか知らないけど迷惑だわぁ。警備の手配を回した矢先にだなんて、タチの悪いデモンストレーションじゃないでしょうね? 出た損害はきっちり払わせるわよ」

「いいがかりはよしてくださいよ。わざわざ身内にデモンストレーションをする必要がありますか?」

「ふん……ときには、ね。でもまあ、その苦~い顔を見る限りウソは言ってないみたいね。仕込みならカラダで払わせてやるところだけど、ざ~んねん」

 

 護衛の男、『幻魔』の二つ名を持つサキュロントは渋面を隠そうともしない。彫りの深い顔立ちに右の唇を走る古傷があいまって歴戦の強者ともいうべき雰囲気を纏っていた。実際、その実力は伊達ではない。今回の依頼人であるコッコドールも所属している犯罪組織『八本指』の警備部門の上位六名。通称『六腕』のうちの1人こそ、このサキュロントなのだ。

 

 先日の部門会議の際に六腕の1人を回してほしいと依頼をかけたコッコドール。現在王国において人身売買は違法であり、法律制定の先頭を切ったのは民衆からの支持も厚いラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ。このリ・エスティーゼ王国の第三王女である。

 普段はロ・レンテ城内のヴァランシア宮殿におり、対外的な交渉の場に立つことはまずない。目に付く動きがあったとしても貧困層への援助活動などのもっぱら自国民に向けたものばかり。これは民衆からの人気を盾にした鎮静剤だ。王位継承権から遠く、か弱い王女サマは考えることをしない民衆たちからはさぞ美しく(とうと)い存在に映ることだろう。

 

 そんなプロパガンダとしての王女が数々の裏道に通じた八本指の問題になろうはずもない。真に警戒しているのは王女の友人に王国でも片手で数えられるほどしかいないアダマンタイト級冒険者チーム『蒼の薔薇』のリーダーであるラキュース・アルベイン・デイル・アインドラがいることだ。

 王女がこの人脈を頼る可能性はコッコドールとしては無視できない。

 

 人対人の問題に関与しないのが冒険者組合の基本方針だが、野盗の退治やら法を犯す相手についてはある程度見て見ぬ振りをされている。

 多少苦しくとも一応の言い訳を用意しておけば冒険者側は無罪放免、それに口では何と言っていても貴重なアダマンタイト級冒険者であり王女と懇意でもある蒼の薔薇の名に傷を付けたくないというのが本音だろう。

 

 下部組織で対応できないことは誰かに依頼をするしかないが、情報漏洩には最大の注意を払う必要がある。弱味を知られた者から骨までしゃぶり尽くされ死んでいく裏の世界では、違法な依頼を逆手に脅しをかけてくる悪党など石を投げれば当たるくらいあふれているのだから。

 流石にこの界隈で八本指の名を聞いたうえで強請(ゆす)りをかけようなどという自殺志願者はいないだろうが、内輪の他部門への依頼で解決するならそちらの方がリスクも低くよっぽどいい。

 

 同じ組織内とは言ってもタダで仕事を請け負うほど八本指は馴れ合いの組織ではない。警備部門へは六腕指名派遣の決して安くない依頼料がコッコドールの奴隷商部門から支払われており、それは同時に護衛についたサキュロントに契約上の責務が発生するということでもある。

 

 一口に護衛といっても、その対処に必要な体制や人員やアイテムは実に多岐にわたる。重要なのはまず誰が護衛対象なのかということ。1人のこともあれば複数人のこともある。もちろん人数が多くなれば難易度ははね上がる。

 そして誰が対象を狙っているのか。不特定多数の場合もあればクライアント側で明確になっている場合もある。相手の人的ネットワークや予想される戦力。それに合わせて確実かつ過剰ではない資源を投入しなければならない。

 護衛が失敗すれば後払いの報酬は得られないし組織内外での評判も落ちる。かといってヒトやモノを入れ過ぎると経費が嵩んで儲けが少ない。

 裏の世界の仕事であっても金勘定ができない奴はのし上がれないのだ。

 

 今回の依頼内容は護衛対象がコッコドールのみ。さらに誰かに明確に狙われているとかではなく、人身売買が違法である王都内で縛につくことがないようにフォローすることだ。もちろん仮に誰かの襲撃を受けたときはクライアントの身の安全を図る必要はあるが、大人数によるものものしい警護は必要ないと判断するには充分な案件だった。

 

 流石に護衛が1人だけではコッコドールを安く見ているのかといらぬ誤解を招くこともある。2つある入り口に常時見張りを付け、地下にも数人の部下を配置しておいた。個々の実力はサキュロントと比べるべくもないチンピラ同然の連中だが、頭数をアピールする目的なのだから問題ない。重要なのはコッコドールの身の安全であって、そこへはサキュロント自身が配置についているのだから不測の事態など起こるはずもなかった。

 

 侵入者があったのは意外だったが、あっさり≪アラーム/警戒≫に引っ掛かったのならこれで魔法詠唱者(マジックキャスター)の可能性はほぼなくなった。さらに言えば慎重さに欠ける手合いという印象を受けた。

 ≪アラーム/警戒≫はさほど珍しい魔法ではなく、中堅の魔法詠唱者(マジックキャスター)であれば使用できる者は珍しくない。特に獣やモンスターの出る野外で夜を越すことも多い冒険者には重宝されるため、魔術師協会ではそこそこ値は張るものの巻物(スクロール)も売りに出されている。

 法に追われる側のコッコドールがその程度の備えをしているのは予測し警戒して当然。考えられるうちで妥当なのは()()の知人といったところか。人から漏れる情報でコッコドールにたどり着くことはそう難しくもないだろう。

 

 奴隷として身を売られるのは大別して2種。ひとつは身分が低く困窮した農民などが口減らしを兼ねて娘を売るパターンだ。大抵は魔物に襲われたなどとうわべだけの理由を添えて、売られた娘は死んだことにされる場合が多い。

 もうひとつは野盗などの襲撃を受けて売り飛ばされるパターン。若い女以外は大体殺される。野盗たちに奴隷商人の息がかかっていることも少なくない。

 野盗は売り先の決まった商品を仕入れるだけの簡単な仕事であり、表立っては言えない趣味嗜好を持つ貴族たちに仕上げた娘たちを斡旋する奴隷商人は濡れ手で粟のボロ儲けだ。

 

 どちらのケースも肉親が助けに来る可能性は低く、何らかの形で雇われた冒険者などであれば魔法的な仕掛けを警戒しないはずがない。ちぐはぐな推理にも思えるが、手元の少ない情報では侵入者像が漠然としたものになるのも仕方がなかった。

 

 何にしても大した脅威だとは思っていないが、護衛の価値をアピールするためにはうってつけだ。

 いまだにぶつくさと不満を垂れ流すコッコドールを不快にさせない程度にあしらいつつ、裏口に続く隠し階段を上がる。

 

 照明がないため奥へ進むにつれて視界は暗闇へと近付くが、仕掛けた罠はこれまで何度も扱ったことのあるものだ。手探りであっても解除を失敗することはない。

 

(ん? 矢が……ない)

 

 罠はすでに起動していた。1発こっきりではあるが薄い鎧なら軽く貫くことのできる改造クロスボウ。しかも仕掛けていた矢は特別製だ。

 それがないということはこの地下に繋がる隠し通路の蓋を誰かが開けた証拠だ。

 

 解せないのは、こちらからは誰も地下に降りてきていないということだ。

 

 できる限り音を立てないように隠し通路の蓋を(へだ)てた部屋の物音を探る。何かが動いたり、話し声のする気配はない。

 クロスボウをくらって逃げたか死んだか。どちらにせよ動く者がいない以上ここからの脱出に支障はない。はずだった。

 

 台座が逆さまにネジ止めされている天板を押し上げようと力を込め、しかし1階の照明光が差し込んでくることはなかった。罠の設置時に見たとき、ここの天板の構造は蝶番だけのシンプルな構造だ。そうやすやすと壊れることはないし仮に壊れても開けることすらできない状態になるとは考えられない。

 

「ふんっ……!」

 

 さらに身を寄せ、腰を入れて持ち上げようとしても多少たわむだけでやはり開くことはなかった。どうやら上に何か相当重量のあるものが乗っているようだった。

 

 無言で階段を降りてきたサキュロントにコッコドールは怪訝な視線を向ける。さっさと出たいのに何をしているんだという批判の色をわずかに含んでいる。手に取るように分かる相手の心境に内心舌打ちをしつつもサキュロントは素早く次の動きを考えていた。

 

「この通路は使えません。追い付かれる前に回り込んで正面から脱出します」

「ええ!? ちょっと、なんでそんなことに」

「すみませんね。しかし、これ以上ここにいると面倒なことに……」

 

 護衛対象に与える情報は最低限だけでいい。下手に判断の余地を持たせると自分勝手な行動に出てやり辛くなる。侵入者の目的はまだ不明だが、いま2人のいる場所は裏口近くに上がる通路が使えなくなったことで袋小路になっている。せめて隠し通路のところまで戻れれば鉢合せをしないように撒くことができる。地下にも数名とはいえ部下を配置していたので、≪アラーム/警戒≫起動からもうしばらくの時間は稼げる計算だ。ひょっとすると部下の誰かが侵入者を仕留めているかも知れないが、それなら()を置かず報告しにくるはずだった。

 

 だがそんな希望的観測もむなしく、正面通路側から姿を現したのは見覚えのある黒のスーツに身を包んだ1人の老紳士だった。騒ぎを耳にした客が部屋から出てきたのかと思ったが、違う。深い湖の底を覗きこんだような印象を受け、それでいて奥には小さくも猛々しい炎が揺れる理知と野生が同居したまなざしは肉欲にまみれ溺れた豚に決して宿ることはない。

 

 サキュロントが腰から剣を抜くのとセバスが足を止めたのはほとんど同時で、どちらが先だったかすらも分からない。

 

 

 

 

 

 

 地下の最奥に着くのが想定よりも遅くなったのは通り道にあった部屋全てを確認していたからだ。厳密に言えば人の気配のする部屋のみだが。

 ベッドだけがそこそこ豪華で、他は簡素な装いの部屋の中はどれも似たり寄ったりだった。男女が1人ずつ、たまに女が増えて男女3人の部屋もあった。狼狽する男にいくつかの質問をし、全員がセバスの打ち込んだ拳打か蹴撃によって内臓破裂やショックによる心停止などで絶命している。本心からの反省や改心の色が見えた者は意識を奪う程度に抑えておくつもりだったのだが残念ながらというべきか店も店なら客も客、腹に呑んだ欲望という名の毒は心根までもをどす黒く染めあげていた。

 その中には今日屋敷を訪れ巡回使を名乗ったスタッファン・へーウィッシュという男もいた。

 組み敷かれていた女は鼻がひしゃげて血を流し、息はもはや細く短くなっていた。およそ女の生命を省みない暴力が振るわれていたのは疑いようがなく、その女の姿はあの日セバスが拾ったときのツアレを否応無く想起させた。あるいは、ここの常連なのだとしたらこのスタッファンこそがツアレを死の淵まで追いやった犯人だったのかもしれない。

 

 蹴りの一撃で壁際まで吹っ飛び、その醜い顔をさらに歪めて一方通行の死へと向かうスタッファンをそのままに、セバスは女の救命行動に出た。不幸中の幸いだったのは、痛めつけられていたのは顔だけで、手足や胴には切り傷や骨折のたぐいは無かったことだ。

 まず痛みを和らげるため(ひたい)に手を擦らないよう優しくあてて加減した<気功>を発動させ、鼻骨が折れて曲がった鼻を指でつまんでまっすぐに戻した。緩和しているとはいっても全くの無痛ではないはずだが、その程度の痛みを痛みと認識できないほどに女は死に近付いてしまっていた。

 次は奥に詰まった血を出させなければならないが、女にはとてもそんな気力が残されているようには見えない。それでも。

 

「私の声が聞こえますか? 鼻の奥に詰まった血を出します。一息でいい、できますか?」

 

 耳元で囁く声に返答は無い。彼女の生命活動が停止していないことをただただ弱々しい呼吸音だけが告げていた。

 

 血を掻き出せる細長いものがないか辺りを軽く見回すが、厨房でもあるまいしそう都合のいいものは転がっていない。わずかな逡巡の(のち)にセバスは指をぴったりと閉じて(てのひら)にくぼみを作ると、女の口を塞ぐように勢いよく振り下ろした。

 同時に吹き出たドロついた血でセバスの手袋は赤く染まる。

 女の口周りに付いた血をそのまま拭い取れば呼吸は幾分(いくぶん)か楽になったようだ。

 

 (てのひら)のエアポケットでとらえた空気を人工呼吸の要領で打ち込んだ。通常の人工呼吸は肺に届くよう気道を確保し、漏れるのを防ぐため鼻をつまんで行う。そのどちらもしなければ送り込んだ空気は口腔内の圧力を高め、必然的に結合力の弱い詰まった血を押し出すという寸法だ。加減を間違えれば無残な死体が増えてしまうばかりかうまくいってもある程度の身体的負担は避けられない。心身ともに弱った人間が耐えられない可能性は充分にあった。

 だが運良く彼女は生き残った。

 

 ツアレのときは店の男が見ていたのでできなかったが、スタッファンがおとなしくなった室内にはセバスと女の2人しかいない。

 すかさず<気功>を発動させ、体内で練った生命力を流していく。

 今度のは痛みを和らげるためではなく、傷を治癒させるためのものだ。効果を抑える必要はない。

 

 柘榴(ざくろ)のようになりつつあった顔の腫れは見る見るうちに引いていき、肌の血色も多少回復したもののまだ蒼白がかって見えるのは元々の健康状態が良くなかったのだろう。

 

 治療は1分と経たずに終わった。女は失神同然だったのがいまでは穏やかな寝息を立てている。あとは彼女が毒に侵されていないことを願うばかりだが、あの様子だと心配はいらないだろう。

 

 一旦他の女たちのいたところへ運んだ方がいいかと考えたが、流石にそこまで時間的な猶予はない。ここまでの敵は全て無力化しており、この奥も同じであればこの女に直接的な危害が加えられることはない。

 

 腕を軽く一振りして床に途切れ途切れのラインを引くと赤黒く変色し始めていた手袋は手品のように純白を取り戻した。部下である戦闘メイド(プレアデス)の衣服には汚れがつかない魔法のコーティングがなされており、それはリーダーたるセバスも同じだった。

 

 いつもと同じ、皺一つないスーツに身を包んだセバスは背筋をピシッと伸ばして優雅さと力強さを兼ね備えた姿勢で地下を進む。周囲の気配を探りながらも頭の片隅ではとある思考をこねくり回していた。

 

 さっき特殊技術(スキル)を使用した女の傷の治りが驚くほど早かったのだ。これは<気功>に特殊なブーストがかかっているとか、女の治癒力が並外れていたとかではなく、単純にHPの上限が少ないことに原因がある。たとえばいまは持ち合わせが無かったが、ナザリックにある下級ポーションを使用したとしても同じ結果が得られたはずだ。

 そう考えればここに至るまでに絶命させてきた者たちが全員即死であったことと辻褄が合う。娼館に突入したときは多少荒っぽくなったが、地下にいた連中も相当手加減したにもかかわらず一撃で沈んで踏ん張り立ち上がるものは誰一人としていなかった。

 最初は演技かとも思ったが、これが2人3人と続けば力のスケールの違いにもはや疑いは無かった。

 

 路地で襲いかかってきた暗殺者はなるほどチンピラに比べれば戦闘技術の覚えはあったのだろうが、セバスにとっては誤差の範囲と言っても差し支えない次元の話だ。より高い戦闘能力を有するシャルティアあたりなら気にも止めないくらいの些事であるが、報告に追加するべき内容が1つ増えた。

 

 突き当たりにある部屋からは2人ほどの気配が伝わってくる。特に身を隠して接近する必要も感じなかったため、歩調を乱すこともなく進んだ。

 その場所は部屋というより広間に違い雰囲気の造りで、何らかの在庫と思われる木箱やら数人が座れるテーブルセットがあった。奥には地上に続くのであろう階段が見えており、位置はセバスが建物内に突入した場所の反対側に近い。男を後ろに回したサキュロントが逃げもせずこちらの出方を(うかが)っているのはおそらくクライムが首尾よく出口を塞いでくれたのだろう。

 仮にセバス1人であれば取り逃がしていてもおかしくないタイミングだった。

 

(彼には大きな借りができましたね)

 

 さてどの程度の見返りがよいか。そもそも本人が何を望むのかを聞かなければ答えは出ない。

 

 目の前の老紳士がそんなたわいもない思案に気を割いているなどとは露ほども思っていないサキュロントはスラリと腰のものを抜き警戒心をあらわにする。

 

「おやおや、誰かと思えば昼間の執事じゃないか。いいのかい? お嬢様がどんな目に遭うか分からないぜ」

 

 不測の事態であっても表面上の余裕は崩さない。精神的な優位は直接戦闘になってもプラスの効果をもたらすことを経験で知っているからだ。さらには六腕の1人として無様を晒すわけにはいかない。

 

 さしずめ相手は商人、しかも死にかけの見知らぬ娼婦にポンと白金貨10枚を出すほど金回りはいい。後ろに腕利きの護衛を雇っていたとしても納得がいく。

 そう考えるとスタッファンを(そそのか)して脅しをかけに行ったのは半端な手を打ってしまったと言える。あれで警戒されてのことだとすれば、差し向けた刺客が狙う機をむざむざ減らしてしまったことになる。

 だが多少手間が増えただけで、頭を悩ませる事態ではない。こうして目の前にいるのならサキュロント自身が始末すればよいだけのこと。生け捕りにしてあのプライドの高そうな女主人を脅すネタにしてもいい。得られるメリットを考えれば、今の状況の方がむしろベストにも思えた。

 

 剣を向けられて眉一つ動かさない老執事は見た目の歳相応に修羅場をくぐった経験があるのかもしれないが、薄れゆく過去の記憶にすがる者と常日頃危険に身を置く者とは天と地ほどの差が開くものだ。

 多少甚振(いたぶ)って溜飲を下げてもバチは当たるまい。

 

「『お嬢様』は関係ありません。これは私の意思なのですから」

「それが通ると思うか! 腕の1本くらいは覚悟してもらうぞ!」

 

 やや過剰な脅し文句には嘘が多分に含まれていた。捕まえてコッコドールのルートで奴隷市場に流すとしたら、男の奴隷は労働力が命だ。片腕が動かないポンコツなど買い手がつかず廃棄処分になるのが目に見えている。

 そして殺しはしないというのも嘘だ。実際にはものの弾みで殺してしまっても構わないと思っている。脅しに使う材料は人質ではない限り生死は大した問題ではない。

 従者が迷惑を掛けたという状況的な事実だけで充分なのだ。

 

 なまじ名声がある者ほど瑕疵(かし)が付くことを忌避し泥沼にはまっていく。特に商人なんかは不義理な評判が立てば取引を停止されるなど冗談ではなく生死に直結するため、金を払ってでもなんとか穏便に済ませたいと懇願されるのは珍しくもない光景だ。

 

 脅しの言葉を混ぜたのは動揺を誘うためだったが、大した効果があったようには見えない。

 

「あら〜、中々いい男じゃない。でも残念だけど私オジンには興味ないのよねぇ。あと30歳若かったら危なかったけど」

「前には出んでくださいよ。このジジイ多少は戦闘の心得があるみたいです」

 

 脅しの言葉だけではなく抜剣したときから絶えず殺気を叩きつけているが、まるで動じている様子はない。よっぽど鈍い感覚の持ち主なのか、そうでなければ────。

 

「……やっぱりな。修行僧(モンク)か」

 

 両の拳を握り構えた老紳士を見てサキュロントは自分の考えが間違っていなかったと確信する。

 歳のわりにシャンとした背筋、見張りをのして侵入したはずなのに武器を何も帯びていない無手、そして何より六腕の一角である幻魔の殺気を受け流す精神力の強さ。どれを取っても修行僧(モンク)の特徴に当てはまっていた。そして同時に目の前の男に対する警戒心は薄らぐ。

 八本指の中で修行僧(モンク)と聞いて真っ先に思い浮かべるのは六腕最強と自他共に認める男、ゼロ。他の六腕とて並の強さではないが、奴は格が違う。単純な暴力としてみればその力はアダマンタイト級冒険者にもひけを取らない圧倒的なものだ。根幹にあるのは肉体を極限まで強化するというシンプルな強さであるために、戦う相手との相性負けすることが少ない点も強みだ。

 

 その点でいえばサキュロントは優位を取れる相手や状況が限られる代わりにハマれば相手に何もさせず一方的に勝つことができるタイプの剣士だった。

 

 その状況とは、ある程度限られた空間で魔法詠唱者(マジック・キャスター)ではない相手と1対1であること。まさしくいまがそれだった。

 

「くくく……教えてやろう、なぜ俺が『幻魔』と呼ばれているかをな。≪マルチプルビジョン/多重残像≫」

 

 輪郭がブレたかと思うとたちまちサキュロントが1人から2人、2人から3人になる。

 魔法で作り出した2体の分身は物理的な干渉ができないが術者への負担が少なく持続力にも優れる。

 尋常の剣技においても剣先を揺らして攻撃に移る機を読ませない技術があるが、幻術士(イリュージョニスト)職業(クラス)を持つサキュロントは幻影魔法を使用することで相手の認識撹乱をより確実なものにすることができる。

 剣士としては邪道の部類であり、実際純粋な剣の腕前では何かと耳にする王国戦士長ガゼフ・ストロノーフにはまるで歯が立たないだろう。だがそんなことは大した意味を持たない。徹底して実利を求めるのであれば、結果としてより確実に勝てる手段があるならそれでいいのだ。

 

 サキュロントとて伊達で六腕の一角を担っているわけではない。いまの戦闘スタイルを手に入れてからも幻影の効果的な使い方など自分ならではの戦術を磨きあげていた。

 

「ゾッとしたか? 噛み付いた相手が悪かったな。まずは手足の腱を切ってやろう」

 

 彼我の距離を詰める3体のサキュロント。認識を歪める魔法も発動しているため襲いくる刀身を見切ることは困難を極める。さらにはそれが3体。分身に殺傷能力が無いと理解できても、本体が絞り込めなければ充分な脅威になる。右に左に入り乱れながらそれぞれが違った緩急をつけて繰りだす斬撃を前に冷静な対処が取れる者はそういない。

 

 もはや泣きを入れられても手を止める気は無い。ああは言ったもののコッコドールを牽制しておくためには多少なりとも力を見せつけるべきだ。

 力によって生きる者は身内に恐れられるくらいでなければ、いずれは闇に沈みゆく運命が大口を開けて待っている。

 

 幻術士(イリュージョニスト)の顔をあらわにしたサキュロントを前にいまだ一歩も退()かず正面を見据えている豪胆さは素直に感心するが、なんのことはない。ヘビに(にら)まれたカエルというやつだ。

 まず一撃。頬でも斬って恐怖心を(あお)ってやろうとやや遠間から剣先を振る。

 

(む? 少し雑が過ぎたか)

 

 軽くしならせた腕先の剣は空を切る。真近をかすめた(やいば)に特に驚いた反応も見せない相手につまらなさを覚えながら、侮りのあまり間合いの(はか)りがおざなりになっていたと自省する。

 

 今度はもう少し踏みこんで、頬と耳を(えぐ)るコースに突きを放った。ギリギリに迫っても避けるそぶりはない。もはやその手を止めることができる境界線を越え、当然回避もできるはずがなかった。

 

 パシン、と軽い音がした。

 

「なん……だ……?」

 

 確かに、自分は目の前にいた侵入者に突きを繰りだしたはずだ。だがまるで時間を巻き戻したかのように、彼我の間合いはサキュロントが仕掛ける前くらいの距離が空いている。

 セバスと名乗った執事然とした侵入者は静かにゆっくりと白手袋をはめた左手を前に出す。ちょうどそれはサキュロントを指差す形だった。少し妙なのは、2本の指の腹が天井を向いていること────。

 

「なにっ……!?」

 

 音も無い。ゆるりと差し出した指の(あいだ)にはいまのいままでサキュロントが手にしていたはずの剣が挟まれ、空中にピタリと固定でもされているかのごとく微動だにしない。

 視線を切ることが本能的にできないサキュロントは恐る恐るといった様子で左手をあげ、確かにそこに剣が無いことを見てとると驚愕に目を見開いた。

 

「ばかな!」

 

 目の前の剣は男の上方から落ちてきた。そして自分の手の中に剣が無いということが示す事実は何か。

 気付くことすらできない完璧な角度と速度で剣の(つか)を打たれ、すっぽ抜けさせられたということになる。

 

 剣を初めて掴んだ子供ではないのだ。ましてや八本指有数の戦闘能力を誇る六腕の一角が、こうも簡単に手玉に取られるなど誰が想像するものか。

 ≪不可視化/インヴィジビリティ≫で(ひそ)んでいる仲間がいたのか、形勢が一気に不利に傾く可能性を感じてあたりを見回すが痕跡を示すものは何も無い。

 

「お前、何をした!」

「何もしておりません。貴方の想像しているようなことは、何も。……これはお返ししましょう」

 

 逆回しのように空中へ放り投げられた剣は鋭い回転で円を描き、サキュロントがちょうど手を伸ばして取れる位置で床に突き刺さった。「どうぞ」の言葉が魔力でも篭っているかのように、必死に現状打破の手を探る頭と裏腹に体は無意識のうちに剣を再び手に取った。

 それは恐れ。目の前の存在の底の知れなさを明確に感じるにつれて、六腕としてのプライド云々よりも強者の前に立つ弱者としての防衛本能が働いた。

 認めたくはない。認めたくはないが、腹の奥がふつふつと煮立つ嫌な感覚はあのゼロを前にしたときにも通じるものがあった。

 

 いくらなんでも掛け値無しにアダマンタイト級冒険者並みの強さであるゼロと張り合うなんてことはないだろうが、ゼロを除く六腕とは互角程度には渡り合えるであろう隠した牙。策を弄するタイプのサキュロントが正面切って戦えば勝ちの目は薄い。

 乗り込んできたときから妙に落ち着いた雰囲気だったのは、フタを開けてみればシンプルな理由だ。なんてことはない。悠然と振る舞う自信を持つに足る実力があっただけの話だ。

 

(とんだドラゴンの尾を踏んだというのか?)

 

 仮にさっきの武器抜きが純然たる個人の実力によるものだとするなら取れる選択肢はそう多くない。

 

 依頼主であるコッコドールを盾にでもして逃げだすか、己が身を呈してでも逃すか。どちらも進んで選びたい道ではないが、サキュロントの迷いは一瞬だ。

 

「コッコドールさん、合図をしたらあの男の向かって右側を走り抜けてください。私があいだに挟まってヤツの視界を遮ります」

「……分かったわ」

 

 背中越しに指示をする声は己が力を豪語してはばからない六腕のものとは到底思えない、硬い緊張と膨らむ焦りを感じさせるものだった。さしものコッコドールも軽口を叩ける状況ではないことを察する。

 警備部門の内情はどうか知らないが、六腕の名声は必ずしもリーダーであるゼロのワンマンによってなされたものではない。もちろんゼロを指名すれば絶対的ともいえる安心を買えたかもしれないが、指名はそれなりに依頼料も高くなるのだ。最強の手札をとなればなおのこと。

 そこで明確な指名ではなく、六腕の中からと指定を入れた。

 

 ああ見えてゼロは聡い男だ。それでいて自分自身と属する六腕の看板に高いプライドを持っている。

 安く自分を売るのは納得しない。かといって適性の無い人材を出して万一失敗することがあれば六腕の名に泥を塗ることになり、それも許容しない。

 

 であれば多少高めの依頼料を提示すれば、決して無駄金ではないと思える手札を出してくるはずだった。

 

 実際、現場のマネージメントも含めてこのサキュロントは妥当なチョイスだ。

 後ろからだとよくは見えなかったが、なるほど並の腕前ではあの幻術を織り交ぜた戦闘スタイルを前になすすべもないだろう。

 自分さえいれば警備の手下は飾りだと言っていたのが嘘や冗談ではないと実感した。

 

 唯一のイレギュラーは、そのサキュロントをして捨て身にならなければ対応できない相手が現れてしまったということだ。

 

「これは、参るな。見た目によらず大したものだ。どうだ、俺の属する組織のエージェントにならないか? あのお転婆娘……おっと失礼、お嬢様に仕えていては心労も多かろう。今回の件だけじゃない、今後何かあったとしても組織の一員になりさえすれば揉み消しは容易い。悪い話じゃないと思うが」

 

 幻魔の名に相応しい惑わせの弁舌を振るう。これで懐柔できるなら警備上の損害など安いものだ。

 

「……私が仕える御方はこれまでもこれからも変わりません」

 

 それは単なる事実を述べているだけの印象であり、だからこそ外部の干渉では動かすことのできない強固な意志を感じさせる言葉だった。

 もう何も言うことはないとばかりに真一文字に結ばれた口は(いわお)のごとく閉ざされ、穏やかさと熱情がゼロ地場のように拮抗した視線は対する者の心の底までも射抜く鋭さを持っていた。

 

 この線から場を収めるのは不可能と判断したサキュロントはまたも記憶を探る。スタッファンとともにこの執事の仕える館を訪ねたときのことだ。探すべき情報は少しでも相手の精神に波紋を作る何か。幸いにも思い当たるものはあっさりと見当たった。

 娼館の内情は知ったことではないが、廃棄処分する予定だった女をこの執事が拾ったことですべては始まっている。実際、直接揺さぶりにいったときは相当の金額を天秤に掛けても娘に執着する雰囲気を見せた。実は有力な貴族の血を引いているというわけでもあるまいに、何が感情に触れたのか。

 この際理由はどうでもいい。重要なのはあの女がこの執事にとって無視できない存在であるという事実だ。

 

「それは残念だ。ところであの女はそろそろ禁断症状に苛まれている頃だと思うが、そばにいてやらなくてよかったのかな?」

「……っ」

 

 特にあの娘について詳しく知っていたのではないが、さらってきた女を逃がさないためのセーフティはいくつか施されていると考えるのが自然だ。簡単なものとしては手足の腱を切る、喉をつぶす、そして薬物。

 八本指の麻薬取引部門では黒粉(くろこな)、もしくはライラの粉末とも呼ばれる麻薬製造も行っている。これは依存性が低いなどと論理的な根拠のない尾ひれがついて最近流行していた。実際にはフラッシュバックの症状が薄いだけで使用者は脳が通常の5分の4まで萎縮するほど強烈な害作用がある。

 流通させている麻薬には他ルートから入ってくる種類もあり、娼館などで使われるものはダウン系で肉体的な症状はそこまで強くない。ただし切れたときの禁断症状が重いものが多く、その苦痛を忌避するために逃げることができなくなる。精神的な鎖のようなものである。

 一瞬の揺らぎを感じたサキュロントはすかさず目の前の剣を引き抜き斬りかかる。

 

「いまだ!」

 

 指示を受けてコッコドールは走りだす。打ち合わせた通りにセバスの左手側を回り込み、横目で見るとサキュロントの背中が見えた。

 

(悪いとは思わないわよ。お仕事だものねぇ。でもま、一応お礼は言っとくわ)

「逃げられるとお思いで?」

「え、あっ!?」

 

 走る先へ戻した視界の正面には、ここへ入ってきたときと同じく両手を腰の後ろに回した老執事が佇んでいた。

 

(ど、どういうこと?)

 

 振り返って見えたのはその場で(うずくま)りピクリともしない幻魔サキュロントの姿だった。生きているのか死んでいるのかも分からないが、逃走経路に老執事が立ち塞がっている光景が足止めすらできなかった事実を示している。

 

「抵抗されると少々荒っぽくせざるを得ませんが……。おとなしく縛につき、今後私たちに干渉はしないと約束するならひとまずよしとしましょうか」

 

 サキュロントが護衛についていたこの男は単なる客などではない。一撃で意識を奪い、無傷のまま倒れているサキュロントともども捕縛すればクライムが通報する際のいい材料になるだろう。皆殺しにするのは簡単なことだが、セバスは別に殺人鬼ではないのだ。

 両手を上げて降伏の意を示したコッコドールをサキュロントともども手近にあったロープで縛りあげ、一旦置いておく。この建物内にもう敵は1人としていなかった。

 

 

 

 床に硬質な靴音が響く。そう長く続かないうちに音は止み、セバスの視線は一部が削れた壁から少し下へ。ところどころに争ったのであろう血が飛び机も壊れて散乱した様子の部屋の角には小柄大柄の混じった男の死体が3つ、折り重なるようにして積まれていた。

 そこに背を預け、半身を血に(まみ)れさせて気を失っている青年が1人。

 

 地下で合流しなかったため何かあったのだろうとは思っていたが、かろうじてまだ息があったのは運の強さか、ギリギリの修羅場を越えるに足る実力が彼にあったのか、あるいはその両方。

 

 片膝をつくと<気功>を発動させた(てのひら)をかざした。

 

 

 

 

 

 

「う……」

 

 ぼやけた視界に意識が飛んでいたことをのろのろと理解する。頭が働いていないのか時間の感覚がおかしい。半日経っているようでもあり数分しか経っていないようにも感じる。

 じんわりと戻ってきた感覚を確かめるように両の指にわずかな力を込めた。付着していた血が固まったのか、多少引き()れる感覚があったものの問題なく動く。

 

(え? そんなはずは……)

 

 左腕にも刺突を受け、致命傷ではなかったにしても左半身は当分使い物にならない深手だった。動くばかりではなく痛みすらもない。傷を受けたときの一時的な喪失ではなく、感覚はあるのに痛みはない。要するに全く普通の状態だった。

 その答えは目の前にいた。

 

「セバス様……」

「気が付いたようですね。傷はもう心配いりません。ですが、私に解毒はできないのです。すぐに神殿へ向かうことをおすすめします」

 

 左肩に手をやるとすでにクロスボウの矢は抜かれており、こちらにも怪我の痕跡はない。だが疼くような熱は体内の毒が除去されていないと訴えている。立ち上がると全身に広がる倦怠感も手伝ってたたらを踏んだ。

 

「あの深手が嘘のようです。ありがとうございます。……確かに毒はまだ効いているようですが、セバス様が治療してくださったお陰で動けます。城に戻れば解毒のポーションもありますから、ご心配には及びません」

「……そうですか」

 

 打ち込まれた毒の威力はクライムのHPを考えたときに決して放置してよいものではない。だがセバスの<気功>によって数時間程度の活動になら問題がないのは事実。それにこの局面で後処理を任せて引き上げるようなタイプではないことももう分かっている。

 呆れ半分の息をわずかに漏らしたセバスにできることは、地下の様子を的確に伝えてできる限り早く状況を終了させるくらいのものだった。

 

 六腕の1人サキュロントと、奴隷商人コッコドールの捕縛。予想を遥かに超えた成果に身体のことも忘れてクライムは思わず息を呑んだ。

 王都において奴隷禁止令の旗を振ったのは他ならぬ自分の主人、ラナーなのだ。奴隷にされている見知らぬ人に心を痛める慈愛の持ち主。いくら言葉で励まそうとも目の前に救われた人間がいなければ虚しく空回りするだけだったし、ラナーもまた奴隷禁止令を発布したはよいものの果たしてそれがどれだけの人々を救えるのかと憂いを帯びた表情でいたのを鮮明に覚えている。

 

 悪しき根のコッコドールを捕らえ、さらには他の貴族も手を焼くと聞く犯罪組織八本指の幹部クラスをも生け捕りにしたとなればラナーの評判は間違いなく上がる。

 名声には興味がなさそうな主人だが、元より継承権から遠い第三王女という微妙な立場がこれで少しでも軽んじられない助けになるのならクライムにとっては幸いである。

 

 付近にいた巡回兵数名を応援に呼び、簡単に事情を話したあとクライムは城へと向かった。礼をさせてほしいと伝えたがセバスはこれを固辞して立ち去った。ここに留まる理由がすでに無く、クライムが応援を連れてくるまで義理堅く待ってくれていたのだ。それに彼もまた主人を持つ身であり、主人のもとをいつまでも離れてはいられないという意見は痛いほど理解できる、もっともな正論だ。

 目立ちたくないという気持ちを汲んで、巡回兵にはセバスを単なる知人程度にしか伝えられなかったのが歯痒い。本当の英雄は彼だというのに。

 

 手柄を自分のものにしようとは思わない。だが頑なに否定すると誰がサキュロントたちを生け捕りにしたのかと問われるのは必然だ。適当に誤魔化すことはできるだろうが、真に称賛されるべき人物が神出鬼没のまま正当な評価をされないというのは少し気持ちを曇らせた。

 

「うぐっ!」

 

 泥濘(ぬかる)んだ地面に足を取られた。転んだ勢いのまま地面に叩きつけられたチェストプレートは大して吸収されていない衝撃を装着者へダイレクトに伝え、揺れた視界が一瞬明滅する。

 すぐに立ち上がろうとしても手は滑り、顔面が再び泥水に(まみ)れる。

 

(回ってきたか……)

 

 夜の雨が全身を打つが、冷えた頭と対照的に肩を中心とした左半身が熱い。<気功>で回復した体力を毒の侵食が再び上回りつつあった。歯の根が合わないほどの悪寒が背筋を走る。

 塀に手をつきながらなんとか立ち上がり、やや慎重にはなりながらも歩みを止めることは無い。

 

 主人を想う気力だけがクライムを支えて前へと進ませていた。

 

 たどり着いた城壁に肩を預けて目的地の方に目をやる。視界が滲んでいるのは毒のせいなのか雨水のせいなのかクライムには判断できなかった。大事なのは自分が行くべき方向へ進んでいること。太陽の指し示す正しい光の道を歩いていることだ。

 

 王城を囲う城壁には全部で12の巨大な塔があり、クライムの寝起きしている自室もそこにある。主人の住まう宮殿に近しい場所へ部屋を与えられたのは決して偶然ではなく、手配の際に色々注文を付けたのであろうことがうかがわれた。そしてクライムの足はまず自室ではなく主人のいる宮殿へと向いた。

 

 宮殿には昼夜問わず立ち番がいる。来客を迎えるときなどは一時的にメイドが立つこともあるが、夜の時間帯は兵士がシフトを組んでいる。宮殿は王族の住まう場所であり、そこに勤務する者たちは出自以外にも曇りなき忠誠心を買われて集められた者たちだ。ラナーへの熱のこもった忠誠心を貫くクライムに対しても騎士としての敬意を払う者は珍しくない。

 

「おい、どうした?」

 

 いくら忠誠心が高いと知っていても、夜中に辺りをうろついている人物を無視するわけにはいかない。クライムに気付いた番兵が近寄り、質問を投げかける。

 ここで毒の件を悟られるわけにはいかない。まずは状況の報告だけをラナーの耳に入れる必要があり、近付いた門番に少し遅れてクライムは顔を上げると全力の作り笑いに()れた声をさらに絞り出した。

 

「私は、大丈夫ですから。ラナー様に、ご伝言、を。お願い、します」

 

 クライムの言葉は番兵から宮殿内で待機している夜番のメイドへと引き継がれた。ラナーの寝所へは彼女が伝える。メイドの到着を待たずにクライムは緩慢な動作ながらもその場をあとにした。

 

 

 

「ぐ、ぅ……」

 

 杖を突いた老人もかくやの歩みでなんとか自室へとたどり着く。扉が閉まると同時に誰かに見られる心配がなくなり、わずかに緩んだ緊張がまるで人形の操り糸であったかのように膝から崩れ落ちた。その顔色は蒼白になり誰が見ても異常を感じるものであったが、石造りに木のベッドと衣装箪笥と机が置かれただけのこの武骨な部屋に鏡などというものはなく、クライム本人さえも見ることはなかった。それでも広がった熱と屋内に入ってもぼやけたままの視界、満足に動かない足を1歩進めるごとに全身を(さいな)む激痛によっていよいよ毒の回りが致命的な段階まで達しようとしていることには気が付いていた。低下した思考能力であっても感覚的な理解はできた。

 本来ならばまだ体力が毒に勝っているうちに解毒魔法や解毒のポーションを使えばいい。多少回復には時間を要したとしても、翌日にはすっかり回復していただろう。それを知っているからこそあの老紳士、セバスもまた解毒について治療を促しはしたものの報告が優先というクライムの言葉に異を唱えなかったのだ。

 

(いや、しかし解毒のポーションがあるという嘘は見抜かれていそうだな)

 

 そう。実は手持ちに解毒のポーションは無い。これはセバスに手落ちがあったというわけではなく、クライムが王城の兵士であったことで生まれたすれ違いだとクライムは思った。王城であれば有事に備えてのアイテムの備蓄や、そうでなくとも回復を担当する従軍神官などがいると考えるのが自然であり、たとえポーションがなくとも解毒手段に困ることはないはずだからだ。ただ、思考に足りない1つのピースは城内におけるクライムの、ひいてはその主人であるラナーの立ち位置である。

 

 第三王女という継承権より遠い立場であり、それでいて2人の兄のように軍を率いて指揮を執るといったことができないために彼女がやっていることはもっぱら内政面の頭脳労働であり、それも民衆の目線に比較的近い分野の提案が多い。そんな王女が王族内で強権を振るえるはずがなく、むしろささいなトラブルがただでさえ弱い立場をさらに窮地へと追いやってしまう危険があるのだ。

 幸いそれらは意識をしていれば大半は回避することができる。内政提案についても王にお伺いを立てるようにさえしていれば独断行動ではなくなるのだから。そして本人に付け入るスキが見当たらなければ、次に監視の目が向くのは子飼いの部下。つまりクライムだ。

 

 己の軽率な行動はラナーへの批判に繋がる。だからこそタイミングの問題とはいえクライムの現場判断で負った傷のために国の資産を消費するような行為は行えない。多少のリスクを呑みこめば解決するのかもしれないが、ラナーまで巻き込むリスクはクライムにとって許容しがたいものだった。

 

 セバスの忠告はまさしく正鵠を射ていた。確かにこの先どこかで命を懸けるに相応しい場面があったのだろう。他人は愚かと笑うだろうか。だが構わない。主人の願った世の中にするための礎となれたことに、仕える者としてなんの後悔があろうか。

 

(ああ、でも……。お優しいラナー様はきっと、俺なんかのためにもお心を痛めるんだろうな。それだけが、心……残り、だ……)

 

 雨は止み、雲の晴れた街並みを、城門を、王女の騎士の頬を、月光が青く青く照らしていた。




2018/8/17 ラナーのフルネームの誤字を修正しました。
2018/11/8 行間を調整しました。
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